図工の鑑賞の授業をやることになった。
さて、これが奥が深い。
なにをめあてにするのか、それだけでも各論さまざまで、「良い、悪い」は決められない。
ともかくも、現学級の子どもたちの実態をつぶさに感じながら、脳裏に「ああでもない、こうでもない」と思いをめぐらせるばかり。
アメリア・アレナス、という人の鑑賞教育がすごいらしい。
しかし、批判もある。
「何が見えますかと問い続けるだけでよいのか」
「美術史の知識をどうかみ合わせるのか」
「対話なのか,単なる会話なのか」といった批判だ。
私は個人的にはアレナスの授業をぜひ受けてみたいと思うくらい、「おもしろそうな授業だなあ」と思う。
「絵は正しくみるもの」という思い込みが強いから、「まったく主観的に見てよいのだ」といわれたら、相当な自由を感じる。解放された気分がわいてくる。
そして、そうして見て感じたことを発言すると、アレナスはそれをうまくひろって生かし、学級全体に広げてくれそうだ。
こういうのって、いいなあ。
しかし、時間がゆるせば、である。
学校には時間がない。
したがって、アレナスの授業ばかりをやるわけにいかない。
そのへんが、先ほどのアレナス批判につながってくるのだろう。
とりとめもないおしゃべりになってしまいがちな「会話」を、教師が強力に「ファシリテート」し、「対話」にもっていくことができればよいのだが。
道徳の授業で、というのもありか。
「何が見えますかと問い続けるだけでよいのか」
「美術史の知識をどうかみ合わせるのか」
「対話なのか,単なる会話なのか」
こうした批判は、当たっていないような気もするが、まあ時間がないよ、という教師側の実感からくるのだろう。
(教師の実力不足もあるだろうが)
そこで、アレナスに習っていきつつ、現実には分析批評にも学び、比較鑑賞、といったあたりに落ち着きそうだ。
福田平八郎の「漣」と「水」、ホックニーの「SUNBATHER1966」、葛飾北斎の冨嶽三十六景から「東海道金谷ノ不二」、同じく北斎の諸国滝廻りから「和州吉野義経馬洗滝」あたり。
そうです。水の表現を追究した、お三方であります。
この水の表現の追究、かけた人生を背景に感じながら、児童がそれぞれ自分の思いによる「曲線」や「かたち」の表現ができるように。
指導案を次回。
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