元エンジニア・新間先生の自問自答ブログ

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)




図工の鑑賞の授業をやることになった。

さて、これが奥が深い。
なにをめあてにするのか、それだけでも各論さまざまで、「良い、悪い」は決められない。
ともかくも、現学級の子どもたちの実態をつぶさに感じながら、脳裏に「ああでもない、こうでもない」と思いをめぐらせるばかり。

アメリア・アレナス、という人の鑑賞教育がすごいらしい。
しかし、批判もある。

「何が見えますかと問い続けるだけでよいのか」
「美術史の知識をどうかみ合わせるのか」
「対話なのか,単なる会話なのか」といった批判だ。

私は個人的にはアレナスの授業をぜひ受けてみたいと思うくらい、「おもしろそうな授業だなあ」と思う。
「絵は正しくみるもの」という思い込みが強いから、「まったく主観的に見てよいのだ」といわれたら、相当な自由を感じる。解放された気分がわいてくる。
そして、そうして見て感じたことを発言すると、アレナスはそれをうまくひろって生かし、学級全体に広げてくれそうだ。
こういうのって、いいなあ。

しかし、時間がゆるせば、である。

学校には時間がない。
したがって、アレナスの授業ばかりをやるわけにいかない。
そのへんが、先ほどのアレナス批判につながってくるのだろう。

とりとめもないおしゃべりになってしまいがちな「会話」を、教師が強力に「ファシリテート」し、「対話」にもっていくことができればよいのだが。

道徳の授業で、というのもありか。

「何が見えますかと問い続けるだけでよいのか」
「美術史の知識をどうかみ合わせるのか」
「対話なのか,単なる会話なのか」

こうした批判は、当たっていないような気もするが、まあ時間がないよ、という教師側の実感からくるのだろう。
(教師の実力不足もあるだろうが)


そこで、アレナスに習っていきつつ、現実には分析批評にも学び、比較鑑賞、といったあたりに落ち着きそうだ。

福田平八郎の「漣」と「水」、ホックニーの「SUNBATHER1966」、葛飾北斎の冨嶽三十六景から「東海道金谷ノ不二」、同じく北斎の諸国滝廻りから「和州吉野義経馬洗滝」あたり。

そうです。水の表現を追究した、お三方であります。
この水の表現の追究、かけた人生を背景に感じながら、児童がそれぞれ自分の思いによる「曲線」や「かたち」の表現ができるように。


指導案を次回。




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コメント

 コメント一覧 (3)

    • 3. arigato3939
    • 2011年08月04日 11:39
    • zakkyさん、ありがとうございます。愛知県美術館もフランスのような試みをしてくれているのですね。すばらしいです。教えてくださってありがとうございます。
    • 2. zakky
    • 2011年08月04日 09:36
    • 学校と愛知県美術館の連携として、夏休みに子ども鑑賞会を企画しています。もしご興味がありましたら、愛知県美術館のHPをご覧ください。http://www-art.aac.pref.aichi.jp/download/11kodomo_kanshoukai_ver.3.pdf<br>あと、先生方が集まって勉強会のようなものをやっています。気軽にお越しください。<br>http://www-art.aac.pref.aichi.jp/teacher/koryu.html
    • 1. arigato3939
    • 2011年08月04日 08:22
    • zakkyさん、コメントありがとうございます。拙いものですが見ていただき感謝です。自分がどう思ったかを忘れないため備忘録として書いていることが多いですが、みなさんから教えていただくことも多いかと思います。よろしくお願い致します。
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