元エンジニア・新間先生の自問自答ブログ

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)




信号が赤だから、止まる、と思っている。

なぜ、止まるのか。
信号が赤だから、止まる。

これが、当たり前となっている。
でも、実際はそうなっていない。

赤でも、そのままブイーン、と加速して交差点を通り過ぎていく車もいる。
目の前で、そのまま行ってしまうから、目がテンになる。

「おいおい!今の、赤だったろ!!」

と思うが、実際、走って行ってしまう。

こうなると、自分の頭の中にあった、

「車は赤で止まるもの」

という定義が、ガラガラとくずれていくのがわかる。

実際は、そんなことないのに、「車は赤で止まる」と、している。
自分がそう思っているんだ、と心の中でなっているうちはまだいいが、そうでなく、
「事実、車は赤で止まるんだ」とまで思いこんでしまっていることがある。
案外、そういうことが多いのではないか。
だから、目の前でそういう車がいて、通り過ぎていく光景を見ると、

「ええええーーーーーーーーー!!」と非常に驚愕してしまう。
「自分がそう思っているのだ」と、頭の中で整理できているのなら、そこまで驚くこともないのだろうが、実際は、頭の中に、「そういうもの」とこびりついていて、事実がこうだ、と思い込んできめてしまっているから、オドロキ、驚愕し、信じられない、という思いで頭がいっぱいになってしまうのだ。


同じようなことで、「そんなはずがないのだが」ということがある。

天気予報で、水曜日は晴れる、と言っていた。
たしかに、Yahooの天気予報で、月曜日の予報では、晴れマークになっていた。

だから、

水曜日は晴れるはずだ、と思っている。
そこで、事実実際、雨が降ってくると、

「ありえない!!!」

と言ってみたくなる。
実際に目の前に雨が降っているのに、「ありえない」と言いたくなる。
そのときの事実、実際よりも、自分の頭の中で「事実化(事実はこうだとした)」した世界が正しいのだ、現実はちがうのだ、と逆転している。

明日は晴れるはずだ、明日は晴れるはずだ、と頭の中でいくら唱え、思い込んでみても、それは自分の頭の中のこと。いくら強くそう思い込んでみても、地球はそれとは一切、無関係に動いていて、雨が降る。
それでも、おかしい、晴れるはずなのだ、と言う。

現実が見えなくなっている。
盲目。


現実よりも、自分の頭の中で「これが事実だ」としたことを、優先したくなる。
そういう人間のくせ。
これは結構、キツい。


なんで、そうも、自分の認識に自信ができてしまうのだろうか。


なんでも「知る」ことがよい、としているからだろうか。
「○○○ということにしておこう」と、一応そう考えよう、という具合にしておきたいのだろうか。

「聞いたことだから正しい」「見たことだから正しい」となるのも、実際のことは知らないのに、「そうであるはず」とすぐに思いたがるからか。
一応、そうだ、ということにしておく(認識しておく)」のなら、まだましだ。
すべて、自分の頭が認識したことは、「一応」という修飾語がくっついているはずなのだが、
そうではなくて、「一応」が、「ほぼ正しい」に、「絶対正しい」にまでなっている。

そうしてしまうことで、子どもの伸びる要素が、かなり摘まれてしまっているのだとしたら・・・。

頭の中で「事実だとしてしまった」ことを優先するあまり、目の前の現実から目をそらしてしまう、頭でっかちの「現実無視派」。
考えるよりも、「そういうことになっているはず」であり、もう考える必要のないことである、とする「思考停止派」。
これは、伸びない。

どこまでも、実は自分の頭がとらえているだけのことであり、目の前の現実とはちがうものであるから、謙虚になって、「本当はどうか」と現実を見ようとし続ける「謙虚派」。
「そういうことにしている」けれども、それは「一応」のことであるから、自分の頭の認識の具合を過信するのでなく、「待てよ、実際はもっと・・・」と考えつづけよう、さぐりつづけよう、とする「慎重派」。
こういう態度の子どもは、伸びる。どこまでも、探求する、追究する。「追究の鬼(オニ)」になれる。


「知ることができる」と思い込んでいる子どもにするのか、
それとも、
知ろうとしても、知ることのできない」子どもとして伸ばしていくのか。

「わからない!」か、「わかった!」か、ということに、あまり敏感になりすぎるのもよくない。
わかった、わからない、という感覚の強い子、は、気持ちのアップダウンが強くなりすぎるのではないか、という不安がある。
どうせ、人間は「知ることのできない存在」なのだから、「わかった!!」とか、「わからない!!」とか、あまり重要ではないのだ。一喜一憂する必要もない。
分かるか分からないか、その軸で考えなければならないのでもない。
分かるか分からないか、そのものさしで、計る必要もないのではないか。

こう考えてくると、
あまり、「わかった!!!」とさせることがいい、のでもないかもしれない。
たとえば、算数は、「わかった!!!」が最終目的なのではないかもしれないな、とも思う。


「まてよ、事実は・・・本当は・・・」と考え続けていける子。
わかった、というステキ(?)な感覚でとらえていくのではなく、(それもあるかもしれないが、そこで安住するのではなく)。

だとすると、たとえば、小学校の算数の目的は、問題解決して、「やった!わかった!!!!」が目的なのではなく、

「できた!!」が目的なのではないか。

文章題にしても、その目的は、数や量の置き換え、関係の結びつけ、運用ができるようにすることではないか。
だから、文章題を前に、自分の力で乗り越えていく力がついている、のが当然で、その力もないのに、やみくもに解かせるのは無謀だ。

やみくもに追い詰め、懊悩煩悶の果てに「わかった!!!」と叫ぶ。
快感だろうと思う。
でも、それは麻薬と同じで、危険な気がする。

わかった、ではなく、できた!!、であるなら、まだいい。それなら、いい。

微妙だし、相手は子どものことだ。
「できた!」と言うニュアンスで、「わかった!」ということもあるだろう。
だから、これは表面上のセリフのことでなく、意味合いとして、だ。

「できた!!」と、子どもが快哉を叫ぶ。
それがいい。

「わかった!!」だと、その次が、シューン、としぼんでしまうような気がする。




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