自分の頭で考える、ということを先日書いた。 (教員は夏休みほど忙しい)
事実がある。
それを、常識、としてとらえている。
当たり前、としてとらえている。
実際、法則、というような言葉で、把握している。
これは、ある事実について、人間の認識が働いて、理論化、法則化されている、ということ。
りんごが落ちる。
これは、目の前で起きた現象。
なぜか。
引力が働くからだ。
古典物理学では、こういう説明がされる。
こういう、一見、わかりやすい?説明がされると、そうか、とストンとくる。
それ以上、本当はどうか、事実はどうなのか、・・・とは思わない。
万有引力!なるほど、そうか。と納得する。
頭の中で、とても納得する。
そうかー、引力かー、となる。なるほど、なるほど。
しかし、これは、地球上のモノが落下する現象などから、いろいろと人間の認識が働いて理論化されているにすぎない。
では、なぜ、そういえるのか。
・・・というあたりにはなかなか、考えが及ばない。
自分で考えていくには、相当な力が要る。
つまり、ある程度、「そうか」と納得してしまうと、それ以上、本当はどうか、事実はどうか、と考えていく力を急速に失ってしまう。
その後、アインシュタインが登場して、一般性相対理論を提唱する。
すると、もはや、ニュートンは古典となってしまう。
物体の落下の現象は、「重力の場のゆがみ」である、と説明されるようになる。
ニュートンでの<納得>は、いったいどうなってしまったのか。
あの、「ああ、そうかー、引力かー、なるほどなるほど!」
という、あの<納得>は、いったいなんだったのか。
しかし、ここで、アインシュタインが本当だったんだなー!となってしまうと、同じ穴のムジナで・・・。
「なるほど、そうかー、りんごが落ちるのは、引力じゃなくて場が作用しているからかー」
なるほど、なるほど。
納得、納得。
いや、・・・まてよ。ついさっき、同じようなセリフを、言ったような・・・。
おかしいぞ。
ある時点で、そのようにとらえた人がいて、理論化する。
それを聞いて、大勢の人が納得し、<原理原則>として、定着する。
常識、理論、法則、文化として、定着する。
ああ、そういうものなのだ、そういう法則があるのだな、と納得している。
納得して、終わってしまう。
知的な営みが、そこで完結したかのようになって、
「ああ、そうなんだあ」
と納得したような気になって、そこから先へ進まない。
そこを、打破していくのが、夏休み。
1年に一度くらい、こういう頭の使い方をしておかないと、ね、と思う。
これが、「自分の頭で考えていく」、ということなのか、と思う。
原理原則がある、というのは、そうなのだろう。事実がある、ということ。否定できない。
では、原理原則としてみた場合、それが、なぜそういえるのか。
本当は、どうか。今、見えている、理論化できていることとは、もっと別のところに、あるのではないか。
近いかもしれないが、事実は、見えていない、把握できていない部分に、ある。(事実は永遠に把握できない)
事実の見えていない自分である、ということから、出発する。
その謙虚さが必要。
子どもを相手にしている。
子どもが、見えている、という悪自信から、自分自身を解放していく。
そして、事実に、立脚する、ということ。立脚しよう、とすること。
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