息子5歳の図工教室。
いつもは妻が行くのだが、今日は土曜日。
私がいっしょにでかけることにした。
妻は、明日の準備。
明日、なにか友達と特別なイベントを実施するらしい。妻は妻で忙しいようだ。
図工教室へ行くと、今日は絵画をかくのだ、という。
先生は、定年間近のおばちゃん先生で、おどろいたような顔をいつもしている人。
(私立の学校の先生らしい)
どんな人かなあ、と思いながら1時間ほどつきあったが、まったくもって感動した。
そのことを書く。
つまり、こどものやることに対して、一切の否定がない。
これはすごい。
かえるの棲む池を描く、というのが本日のテーマ。
四つ切画用紙に、最初に筆で、大きな丸を書く。
そこが池となる。
「どんな色にする?」
からはじまり、「大きさはどうする?」
「まわりには、なにかあるの?」
「石?」
「どろ?」
けっして、誘導するような言葉かけはなく、こどもから出てくるものを、一切合財、すべて大事にしていこう、と言う意識がうかがえた。
上記の、
「石?」
にしても、
「どろ?」
にしても、それはすべて、こどもが
「石にする!」
とか、
「どろ!」
とか、叫んでからの、受け言葉なのである。
誘導なのではない。
じっと、待つ姿勢もある。
しかし、待ってばかりでもなく、大阪のおばちゃん風、あるいは江戸っ子風、ようするに下町の気の置けない人情肌のおばちゃん風、という、「軽味(かろみ)」がある。
言葉がいい。
かまえなくていい。
緊張しなくてもいい。
よく笑っている。ほっとする。
子どもは、どんなに救われるだろう。
これだけのことでも、この人が培ってきた、いろいろな力の総合、それが出ているのだろう。
ここまでで、すでに、
「おお!なんてすごい先生だ」
と思っていたが、実はまだ続きがある。
なんとわが息子、池の色を、
「赤にする!」
と叫んだのだ。
「んな馬鹿な!」
と親の私はあやうく叫ぶところであった。
ところが、先生は否定しないのである。
「ん!そっか!血の池?」
と、さらり、と受けるのである。
「おおー、血の池かー」
と、ただ驚いている。
すると、息子から予定変更の意見があがり、まあまあ常識的な色に落ち着いた。
ところが、水色や青で池の色を描いていると、にやりとした息子、やにわに赤いチューブに手をのばし、赤をパレットに、つぅー、と出し始めた。
そこでまた先生、否定しない。
「赤!赤!赤だけ?それとも、なにかとまぜるの?」
ようするに、こどもたちの意見を尊重しながら、さらにそこから、なにかひとつ、考えさせるか、もしくは何かの工夫を施すように、という声かけがあるのだ。それも間髪をいれずに。
愚息は赤と青をまぜて、むらさきをつくり、池をいくつか描いた。
その色はまるで淡い、あじさいの花弁のような色あいになった。
すると、蛙の棲む、という雰囲気に近づいてきたのだ。
わたしはびっくりした。
先生にとっては、赤、というのはなんと、守備範囲だったのだ。
想定範囲内、ということであったのだろう。
(聞かなかったが)
他にも、蛙の数や、色、置き場所などは、すべて子どもたちに問いかけながらつくっていくのだ。この間合いとテンポは、ふしぎなほど、こどもたちの集中力をよびさますのであった。
また、
「じょうず!うまい!」
という声かけは一切なく、
「いい!アジが出た!らしくなってきた!できた!」
・・・、というような声かけが中心なのであった。
これまた、なにかの、教育上の考え、背景があるのだろう、と思わせた。
否定のない指導。
楽しいだけの指導。
ここが、彼女のめざす姿なのであろう。
休日の小づかい稼ぎ、という範囲を越えて、ライフワークにしている姿勢を感じた。
子どもに接し、こどものすごさを実感しながら、教師を続けている彼女の夢、自負、そういったものを感じた時間だった。
教師としてでなく、親として。
こういう先生の存在を、心底、ありがたいなあ、と感じたのであった。
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