学校づくりの記

斎藤喜博さんの本

「学校づくりの記」を一気に読み終えた。

社会づくりとは、クレームをいかに処理していくか、ということの手腕が問われているのだろう。それがうまい人がトップに立つことで、みんながのびのびと自由に能力を発揮できるようになる。斎藤さんは、その社会づくりの過程を、学校という舞台と先生たちという素材をつかって、表現した。

印象に残ったのは、授業をよくするには、まず職員室をカイカクする、ということ。次に、教師は創造活動を積極的に行うのがよいこと。書道、絵画、散文、短歌、詩、音楽。こういったもので積極的に創造していくことで、児童に向かうエネルギーが涵養される、というのだ。

振り返ると、自分も、学校を出て以来、絵筆をもつ機会はめったにない。

詩や歌を作ることも、以前に比べたらほとんどなくなった。
しかし、なんらかの創作活動が、自分の生命エネルギーを刺激することは経験から分かる。本当は、こういった活動が好きなのだ。
元来、のめり込むタイプだから、日常とは逆の方向へベクトルをぐいっと引き戻してやらないと、頭がどんどん仕事の方に偏ってしまう。

「ちょっとは休めよ」
と何度、職場の先輩に言われたことか。

仕事偏重。
偏ったままで生きているから、休んで疲労を回復させようとしても、なかなかリフレッシュできない。常に会社のことを考えながら生きている、という状態で二十代、三十代を過ごすうちに、床擦れのように頭や心にタコができてしまっているのではないだろうか。




創作活動は、何もしないでボーッと休息するのとは違う、いわゆるアクティブレストである。
自分から、積極的に心を別方向へ向けて、動かす。
休日に寝て過ごすのと、好きなスポーツをするのと、どちらか疲労を軽減させるかというテストでは、体力的には寝て過ごす方がまさり(当たり前だ)、精神的には好きなスポーツをする方がまさる。
創作活動も、精神的な疲労を癒すのに有効だ。
加えて、創作活動には、疲れを癒す、という面だけではなく、人間の総合的な創造力をアップさせるのだから、なお良しとするべきだろう。


「学校づくりの記」では、職員室の先生方の心理をいかに調和的に保つか、校長である斎藤氏が苦心することが熱心に書かれている。

調和的に保つ、というのは、明るく、楽しく、ほがらかになるように、ということである。
それも生半可なことではなく、本人が相当な実力をつけ、自らが自らを頼むことで表裏の無い、どこにもこびる必要の無い、正々堂々と人間本来の明るさを保てるように、と考えている。

だから、その過程においては、こびた態度や卑屈な態度、尊大な態度、進歩する謙虚さのない態度、遠慮がちな態度、いわゆる堂々とした態度でないものは、校長がまるで重箱の隅をつつくようにして掘り返し、衆知の場に出され、いわばお天道様の前で反省と進歩を求められる。
これがいやでたまらない先生もいたようだ。


しかし、おかげで陰湿な部分はなくなり、カラッとした明るい空気が学校を支配する。また、なんでも本音で相談すれば、みんなの考えで良いように工夫していけるのだ、というより積極的な考えが生まれ、和気藹々の笑顔がたえない学校になっていくのだ。


うまく話しが行き過ぎだ、という声もあるが、すべて事実だから驚く。
実際には当事者にはいろんな感想があっただろうが、この学校に関わることができたことに感謝する教員もたくさんいたようだ。


教師と保護者が、いっしょになってゲームやダンスに興じ、子どものことをいっしょになって考え、授業の進め方についても親が親身になって知恵を出していこうとする。こんな学校があるだろうか。


本の中で一番印象に残ったのは、交流会で親と教師がゲームをしながら笑い転げているのを、部屋の外で黙ってみている子供たちの描写である。
部屋の外には、いつの間にか子供たちが集まってきて、親たちの姿をながめているのだった。
どの子も黙っていた。

しかし、その顔は満ち足りて、今にも笑い出しそうな顔でうれしそうなのだ。