図工の校内研究授業をする、というので、夜遅くまで残っている同僚がいた。

「導入をどうするか、まよっているんですよ」

ふしぎなアパート、という単元らしい。
要するに、こどもたちに、自由な発想で、思いきり、創造性豊かに、想像したイメージをふくらませてもらおう、ということ。
どんな素材でもよい。
どんな場所でもよい。
どんな人が住んでもよい。
人でなくてもよい。
動物の棲むアパートでもよい。
ロボットでもよい。
子どもが発想するにまかせて、どんどんイメージをふくらませて、何を描いてもよい。ナンデモアリ・・・。


それで、どんなふうに声をかければよいか、悩む、というのだった。


たしかに、教科書をみると、怪獣のような生き物が、ふしぎな樹木のアパートに棲んでいる絵があり、なるほど、なんでもよいようだ。
授業書、研究編などを見てみると、

「自由な発想」
「思いきり」
「想像の幅を広げて」
「楽しむ」


という言葉が羅列してあった。


さあて、どんな声かけで授業をスタートすると、こどもたちの豊かな創造が見られるようになるのだろうか。

当の本人、
「何にも、言葉が思いつきません」

とのこと。

あの子たち、ふつうのお絵かき帳に描くような、落書きのようなイメージでしか、ないのではないかと思うのです、ということだった。

馬鹿にするな!
子どもの創造を信じろ!

学年主任には、こう言われて怒られた、そうだ。

悩んでいる彼は高学年担任である。
私はまだ経験がない。高学年は未知の世界だ。
高学年の子たちが、こういった、「自由な発想」を任されたとき、どんな絵を描いてくれるのか、とても楽しみになった。


だが、何かが、ひっかかる。

心の底に、なにか、しゃくぜんとしないものがある。

その不安が何ナノか、ちょっとよくわからないし、言葉にできそうもない。

私がそういった感触のようなものを口にすると、研究授業を目前に控えた彼も、同様にうなずいた。

「そうなんです。今おっしゃったように、私も、そんな気がするのです」

彼は2年目で、私よりも先輩であるのだが、年齢が私よりずいぶん下なので、私に遠慮して敬語を使ってくれる。

つまり、実際の生活体験とはかけ離れた想像図を描く、となると、そのへんの漫画やキャラクターのまがいもののようなモノばかりになるのではないか。
実際の物をみて書く、ということでないから、サラサラと描き馴れた子は仕上げてしまって、まったく魂のこもった作品にはなりにくいのではないか。

事実、実体のあるもの、実際のものを描く、というのであれば、頭の中のモノではなく、実際のモノと向き合わなければならない。光の当たり方、触感、影、色、それを、自分の好きなように、ではなく、相手に合わせて、表現していく必要に迫られる。それは、自分で好き勝手にしてよい世界ではない。相手をよりよく知ろうとして、対象にせまっていかねばならない。だから、相手に近寄る努力が要るし、一歩、ふみこんでいく勇気が必要になる。

めんどうくさい、と感じることが多いかもしれない。
やりたがらないかもしれない。
でも、子どもを信じていきたい。
馬鹿にしない。子どもを、絶対に。

そんな話をしていたら、職員室の時計が夜10時をさしていた。

「自由な発想」
「思いきり」
「想像の幅を広げて」
「楽しむ」

こんな、体裁のよい、みみざわりの良い言葉で、子どもを見損なうことだけは、ぜったいに避けたいと思う。

それにしても、教科書って、なんでこうも、「ふしぎな」という形容詞が好きなんだろう。
4年の教科書にも、「ふしぎな○○」という単元があって、きまりきったように、

「自由な発想」
「思いきり」
「想像の幅を広げて」
「楽しむ」

と書いてある。

(・・・初任の仲間に、どう思うか、今度、尋ねてみます。・・・)