困らない叱らない。新間草海(あらまそうかい)の教室日記

漂流する人生からつかんだ「困らない」生き方とは。
転職を繰り返し、高卒資格のまま小学校の教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)




勤務校は、チャイムがあまり鳴らない。
鳴るのは、3回。
・朝始業の5分前
・中休み(20分)の終わり5分前
・昼休みの終わり5分前、
である。

歴史があるそうだ。
先輩に聞いたところ、昔はチャイムがよく鳴っていて、なにかのたびに鳴っていた。
5分前も、ジャスト0分前(つまりちょうどの時間)も鳴っていた。
ところが、鳴りすぎだ、子どもをしばっている、学校全体が管理的だと思われる、との意見が出てきた。

管理教育が批判された頃だから、昭和の終わりごろだろう。
今、批判されている学習指導要領が始まる前だ。

その頃から、チャイムが「管理のシンボル」のように言われて、だんだん縮小された、とのこと。

しかし、今や、時代は変わった。
(常に変わり続けているのが教育界で、変わるのが頻繁だ、ということ自体が批判されているようだ)

学習指導要領が変わるのと、時を同じくして、またふたたび、チャイム議論が巻き起こっている。

チャイム推進の意見を持つ先輩がいる。
年配の男性の先生。
最大の理由は、子どもが変わったから、という。

「今の子は昔とちがって、時間を見て動くように育っていないよ」

つまり、規範意識があまりに希薄なので、1年生のときからしっかりとチャイムでしつけなきゃ、というのだ。

いささかそれに疑問符を投げかけるのが、年配の女性の先生。
二十年前のチャイム論議が、またよみがえってくる、という。

「あのころも、チャイムが職員会議で話題になったけど、やっぱりチャイムはあくまで補助。時計を見て動くようにしつけていくのが仕事でしょう」

チャイムの音が、子どもを管理している、というイメージが強い。音でしつけたところで、ろくなことはない、という。


興味深いのは、どちらも「しつけなきゃ」と思っているところだ。


分からない。
どっちがどうなのか。
私にとっては、今が最初なのだ。
過去にどんな議論がされたのか、さっぱり知らない。

とにかく、教育界としての結論はまだなく、おそらくこれは全国、どの小学校でもいろんなスタイルがあるのだろう。
それぞれの学校の実態にあわす、ということになっているのだろう。


わが校で考えてみると、・・・どうなのか、わからない。
自分がいえるのは、わがクラス、わが学級にはどうか、という点だけだ。

その点でいえば、チャイムはほしい。

「ほら、チャイムがなったよ」
「チャイムがなったから、授業始まるよ」

と、いえるからだ。


初任者にとって、チャイムは便利な道具だ。
それが管理的に思えるものであっても、目の前の、子どもを席につかせ、学習に向かわせるのには、とてもよい機能であると思う。

初任者の会で、他の先生に聞いてみると、

「うちも鳴らないんですよ。あった方がいいですよね」
という声と、
「今、あまり鳴りませんから気にならないですけど、頻繁に鳴るとうるさいと思う子がいるんじゃないでしょうかね」
という、子どもに配慮する声もあった。

「うちの学級はがやがや落ち着かないので、毎時間、最大ボリュームで鳴らして欲しい」

これは、先般から登場している崩壊学級で苦労されている先生のセリフ。
こんなことまで言えるようになったから、夏休みに入って、ちょっとは元気になってきた様子だ。




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