困らない叱らない。新間草海(あらまそうかい)の教室日記

漂流する人生からつかんだ「困らない」生き方とは。
転職を繰り返し、高卒資格のまま小学校の教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)




目黒にある国立教育研究所の図書館に、多くの資料が保存されている。

このことは、以前から知ってはいたが、一度も行っていない。
時間があればなあ、とずっと思っていた。
さて、夏休みがはじまった。
ふだん、脳みそが回転するのとは、まったくちがった角度から、教育、という営みを見直してみたい。
そうでもしなければ、何かしら、日常の思考パターンにとらわれてばかりいることになりがちだからだ。
澱を溜めることなく、白紙にもどる、ということを毎年やっていかないと、十年後にはえらいことになっているだろう。
コチコチの頭でっかち、キメツケと固定観念で、苦しむ日常には陥りたくない。


さて、目黒にある国立教育研究所である。

ここに、次なる題名の、書物がある、というのだ。
それは、

『日本理科教育史』(東京法令出版/板倉聖宣・永田英治著)

これには、明治から今日まで文部省、民間を問わず日本で科学がどう教えられてきたか、その際、どんな資料が使われてきたのか、調査したデータが網羅されている。

「子どもたちに何を教えたらよいのか」
「学ぶに値するものはなにか」

これは現代の課題でもあるが、敗戦直後の日本でも問われていた課題だ。
一億玉砕、天皇に仕え、国のために死ぬことが正しい生き方だとされていた日常から、いきなり「民主主義」の日常に変わっていく中で、しかしこれからどんな社会になるのか、誰にも見当がつかなかった時代。

価値のあり方など、それまで固定化されていたものが崩れたとき。

何が判断の拠り所になるのか、できるのか、わからなくなってしまったとき。

多くの教師が、迷い、手探りの中から、何かをつかもうと必死だったにちがいない。


しかし。

どんな社会になっても、かわらないものは、ある。

それが、真実であり、真理であり、目の前に展開されていく、事実の集積だ。

子ども達の中に安定した判断の拠り所、思考力を育てておきたい、と願い、基から考えていく力、科学的な思考力を養っていくためにも、理科教育が注目されたのだ。

この書物を、ぜひ、見て見たい。

ここ、7,8年来の夢であった。


科学的思考力。
これをつけてやりたい、と願う教師は多いだろう。
世の中は迷信ばやり。
自分でたしかめる力のないまま、知識を鵜呑みにしていく子ども。
事実を見ないで、自分の思いやイメージで、物事をとらえようとする子がほとんどだ。
うわさをすぐに信じる体質。


さて、インターネットの流行する現代だからこそ、理科教育が堂々と、表舞台に登場すべきなのでは?


こうした直感から、理科の授業を工夫したいと願いつつ、何も手につかないまま、時がすぎる。

理科教育に、何かしら、現代病理の突破口がありそうだ、この予感をどうにかして確かめたいが、手ごたえを感じるために、自分の頭も、時間も、整理を進めなければならない。

この夏休みが、チャンスだ。





しかし、おそらく、こうした本をじっくり読む機会は当分、めぐってこないだろう。
この夏休みも、研修だらけ。
嫁も子どももいて、夏休みだといってうかうか休んでいられない。
先に読むべきなのは、

『おすすめ!親子で行くオートキャンプ場東海地域版』 (題は適当。おそらくそんなような本があるにちがいない・・・)
である。

さて、初任者研修の合間をぬって、どこへ出かけるか。
家族サービスの計画を練らなければならない。




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