困らない叱らない。新間草海(あらまそうかい)の教室日記

漂流する人生からつかんだ「困らない」生き方とは。
転職を繰り返し、高卒資格のまま小学校の教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)




タイトルに書いた、

「ほめる、がどうも、うまくいかない」

この発想、それ自体が、すでに思い違いだ、ということらしい。


うまくいかない、と思っていること。
つまり、代償を求めている態度、それ自体が、すでに問題。
代償を求めての行為は、代償によって消え去ってしまう。
あるいは、犠牲となり終わってしまう。


ほめるのは、目的ではない。
ほめて、子どもがうれしい顔をする。それが目的だと勘違いをする。
「子どもの笑顔」
これは、本当に魅力のある言葉だ。
だから、ころっと、だまされそうになる。
ほめて、子どもを笑顔にするのが、目的ではない。
目的は、さらに、その奥になければならない。


子どもの笑顔をみたい、となれば、体のよい言葉で、ご機嫌とる。
子どもはそんなもの、すぐに見破りますよ、です。
だから、「子どもの笑顔を見たい」なんてことでは、すぐに子どもから、「先生、もういいよ」のサインが出て、すぐに足元の穴の底へ、まっさかさま。


こんなことばかり、繰り返している気がする。

再度。
ほめるのが、目的ではない。


人の持ち味、人の、真の価値というものを、これまで、相当、見損ない、見誤ってきていると思う。
自分から見て、価値のあるように思うもののみを大事だと思い、自分の考えではつまらないように見えるものを価値が無いとずっと思ってきた。
一人の人の、子どもの価値・一つの物の真価は、自分の考えなどでははかることのできないもの。はかりしれないもの。

はかりしれない。

それを、はかろうとするから、マチガイが起きる。

はかれる、と思って、なんとかしようとして、ほめたり、叱ったり・・・。
だから、上っ面の、表面だけの、うわすべりな、ほめ言葉しか出てこないのだ。
子どもに、まったく、伝わっていかないから、

どうもへんだ、となる。

子どもは、ぜんぶ、お見通しですね。

こちらの都合よいように変えようとする。
そのことが先にあるから、ほめられない。
あわてて、ほめなきゃとなんとか形をつくるから、心にいかない。

きちんと、子どもを、見ているか。
真価を見ようとしているか。
一つの原子の中にすべてを吹き飛ばす核エネルギーの蔵されているように、一人の子、一つの物には、一つ一つが社会の主役となり得る莫大な価値を秘めている。

見損なっているから、ほめられない。
子どもを。

その子の本当の価値は、本当の持ち味は、何ができる、とか、こういう能力がある、とか、こんな特技がある、とかにとどまらないもの。
そういう価値が見えないから、

「よくできた!」

の言葉に、何か、がこもらない。

同じ

「よくできた!」
の言葉にも、
心底、なにかがこもり得る、親愛の情がみなぎる、ほめる心がそなわる時もある。

言葉、あいうえお、ではない。
言い方、ではない。


それは、私から発する、すべて。
私の存在や信条、すべてをかけて、発せられる。
それが、ほめる、ということ。


まだ、なにも、子どもが分からない。
ちっとも、分からない。
見ているが、見ていない。
見えてこない。

こんな程度で、ほめられるわけがないのだ。
しかし、ほめている。
苦しいし、子どもに見透かされながら、ほめている。
ほめたつもり。
その程度で、ほめている。

そうでもしなければ、どうしようもないからだ。
せめて、今のレベル、今の自分で、ほめていきたいからだ。
この気持ちだけ、で、ほめていく。それしかない。




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