山尾三省さん、という詩人がいた。
屋久島を愛し、農、林、森に生きた人。

写真を見ると、やさしい顔。
でも、身体はおそらく頑強そう、だ。

農業者の友人から教えてもらった。
その後、図書館へ行き、野草社という出版社の本でみることができた。

中に、「山で」
という作品がある。
3歳の男の子が登場する。
最初は、山の寂しさ、静けさ、大きさにこわくなり、泣きべそをかいている。
しかし、山の仕事、椎茸のホダ木を下ろすという仕事がある。
幼児がそれを、やりとげようとする。
やりきろうとする。

老詩人は、山仕事をしながら、ホダ木をかつぎおろしながら、この男児に声をかける。老人が、幼子に声をかけていく。
幼いミチトクンは、泣いているが、しだいに男の顔になっていく。
男と男の、関係が生まれている。


これを読んで、ぐっと、くる。
私にも、3歳の男の子がいるからだ。

子どもは、すごい。

以前、臨時任用の講師として赴任していた学校で、ある先生が言っていたことを思い出す。

「・・・だからねえ、子どもって、本当にすごいなあ、と思うよ」

職員室の遠いところで、どなたか他の先生と話をされていたが、上記のセリフだけ、私の耳に入ってきた。

このセリフの前が聞きたかった、と今は思う。
遠い、窓際の会話に入り込める状態ではなかったので、確かめることが出来なかった。

とても印象に残る言葉だった。


すごいなあ、と思えること。

子どもを尊敬できる、ということ。

これが、教師の、生きる楽しみではないか。
醍醐味ではないか。
そう思うからだ。

三省さんの詞では、「すごい」という単語は使われない。
でも、その詞の底に、「子どもって、すごいなあ」という声があるような気がする。

詞の中に、
山というところは 本来は怖いほどに淋しいところなのだということが よく判った
そしてその怖いほどに淋しい空気が
大人の僕を浄めてくれるのだということも判った

という部分もある。
山は、本来は、幼児にとっては泣きたくなるほどに、さびしい場所なのだ。
だから、大人は、それで浄められるのだ。

山に向き合う大人の三省さんには、ミチトクンの大変さが、ずっしりと感じ取れたのだろう。

三省さんは、2001年8月28日、癌のため屋久島にて亡くなった。



※「びろう葉帽子の下で/山尾三省詩集」(1993年、野草社刊)より