叱る、という場面が、この1年間、何度もあった。
前年度までとちがうのは、叱る、ということが、なんと愛情深い行為か、ということ。
そのことに、気付いた。
同学年で、いっしょに叱ってくださった、主任の先生のおかげだ。
わたしのクラスの現状を知り、具体的な話をきいて、わたしといっしょに、しかってくれた。
そして、わたしの目の前で、本気で叱る、ということをやってみせてくれた。
どう叱るか、を話してくれたばかりでなく、目の前で叱ってくれた。
これは本当に、ためになる出来事であった。
学ぶことが多かった。
クラスの、女ボス。
これに、真剣に向かうことで、2学期後半がようやくもったのかもしれない。
いろいろなことに気づかせてもらった。
真剣に叱る、ということが、教師にとっても、人生をかけた勝負だ、ということ。
叱る、ということが、すこぶる、エネルギーのいることだ、ということ。
叱ることで、子どもと近くなれること、信頼してもらえるようになる、ということ。
あのチャンスで叱らなかったら、「叱りそびれ」になってしまっていただろう。
表面的には、ものわかりのよい先生になっていたかもしれない。
しかし、その結果、子どもの気持ちをくみとれない、無理解な先生になってしまうこともあろう。
こわいのは、今回はたまたま(?)主任の先生に助けていただけた、ということだ。
もし、同様なことがあったとき、わたしが気付かなかったら、あるいは、叱りそびれていたら、どうなっていただろう。
今、本当に、叱ることのできる教師になれているとは、言いがたい。
どうしたら、その感覚を研ぎ澄ませていられるだろうか。
今回、叱るときに、叱る、という感覚が、途中からなくなってきた。
そのかわり、その子の心を、聞きたくて、知りたくて、たまらなくなっていた。
教師は、問う。
子どもは、懸命にこたえようとする。
本当に、それで、あなたが幸せになるかどうか。
私には、そう思えない。
本当に、楽しい、と思えているのか。
学校が、本当に、これからも楽しくなるのか。
あなたのやっていること。そのことが、あなたを幸せにするのかどうか。
あなたにとって、幸せとは何か。
それが、最高に気分のよいことなのか。
腹を立てて友達をなぐる。
そのときの気持ち、心、状態、心の中に、真剣に向き合えるように、問い、促していく。
主任の先生の、問いかけが、見事であった。
それを隣で見ていながら、足がふるえそうになるくらい、私も緊張していた。
子どもに向き合う、真剣さ。
さすがだ。
そして、感心してる場合じゃない。
私が、自分自身が、それをやれるようになっていかねばならない。
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