運動会が行われ、反省会(夜の呑み会)があった。
それぞれ、企画の運営をがんばった先生たちの、苦労バナシを改めて聞くと、みんなすごいなあ、と感心する。
学年の枠を越えて、学校全体がまとまる。
体育主任を、みんなが支える。
応援団を組織した若手が、スピーチしながら、思わず言葉に詰まる、というシーンもあった。
タイヘンなことに挑戦し、各自、その分、確実に成長している、という感じがある。

呑み会の、司会をおおせつかった。

いつもよりも、舌がまわる。

感動を共有する、というのが、素直に、気持ちよい。
みなさん、お疲れ様でした。

校長が、最後に、
「明日は休んでいいぞ。おれが全部、授業するから!」

そんなわけないにしても、なんだか校長のうれしさが、それで伝わってくる。
いい運動会ができた。
しみじみ、帰りの電車の中で、そんな感慨にふけった。

ところで、呑み会の最中に、年配の先生たちが、いろんな昔話をされる。
それにもいくつかのパターンがあって、
1)自慢話のみ
2)自慢話+若手を叱咤激励する話→俺たちはがんばっていた。お前たちも・・・
3)将来の悲観話
4)ただの笑い話
5)苦労はむくわれる、という話→おれも苦労したけど・・・

今日は、3)のタイプに付きあった。


これは、聞き捨てならない。

なぜなら、われわれ新人には、分からない範疇の話をされるからである。
新人には見えてない、領域がある。
その、見えてこないゾーンの、話をされる。

聞いているうちに、わからないながらに、なるほど、とうなずくことがある。
将来の教育界が、おかしなことにならないように、よくよく注意されよ、という
しめくくりで話がおわる。

こういう話を、ためにならぬとみるか、どうみるか。
私自身の考えでは、こういう率直な悲観論には、絶対に耳をかたむけた方がよいと思う。

今の世の中、悲観論よりも楽観論が幅をきかせていて、いくら年配の方であっても、先輩であっても、正直な実感を伴った、実際の感覚に近い、悲観論はなかなかおっしゃらない。
悲観的な話を、なかなか聞くことができない。

貴重なのである。

楽観論ばかりを耳にしている人が、将来、教育界を考えることができるだろうか。
幅の広い見方をすることはただでさえ、むずかしい。
近視的、短絡的、単純割り切りの見方は簡単だ。
しかし、全体をみわたす、ということは、よほどの鍛錬がないと、みえてこない。

だから、悲観論は聞くべきであり、一応は、そういう見方でみてみる、ということをしないといけない。
そんなことを思いながら、先輩の話をうかがっていた。