30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2024年02月

良かったねえ

脳の研究や心理学の世界で、新しい知見が次々に生まれている。

ミラーニューロンというのは、かなり昔にブームが起きて、その後も研究が少しずつ進んでいる話題の一つだ。

話は単純で、人間は外見や格好を意識的に模倣するが、心理的な動きも意識的かつ無意識的に、かなり多くのことを模倣するということ。

つまるところ、人間は、とても影響を受けやすいのですね。

教室でも、そういうことが、たくさん起こります。

朝の出席のとき。

子どもの名前を1人ずつ呼びながら、顔を見て確認していきます。

大抵の子は、はい、元気です、とハッキリ言います。
私は笑顔で出席簿にマルをつける。
教員の至福のひと時ですなあ。

中には時々、
「ちょっと鼻水が出ます」とか「咳が出ます」とか、言いますね。

そんな時は気になるものですから、ちょっと様子を聞きます。まわりのみんなも聞いてます。

周りの子たちをすかさず褒めます。
「そうやって友達の身体の様子や体調を聞いておくと、あっ、無理させちゃダメだなとか、休み時間に声をかけようとか、思うことができるよね。きちんと聞くことで、聞いてもらえた子はうんと嬉しい。みんなで◯◯さんを幸せにしているね」

風邪をひきかけてます、と言う子に向けて、私が毎回言うっているのは

「(咳が出ることを)お家の人は知ってる?」
ですとか、
「よく眠れたの?」とか。

あとは、怪我したと言う子に対して、

「何かクラスのみんなに手伝って欲しいことはある?」

例えば、給食当番とか、掃除とか。

するとね、そういうやりとりって、実は子ども。
聞いてるみたいなんすよ。
しっかり聞いてんの。

でね、ミラーニューロンのせいなのか、コピーして言うようになるんだよね。

知らない間に子どもどうしで、
「おうちの人、その怪我のこと知ってるの?」とかって、聞いている。
その言い方、いつも朝、教室で私が言ってる言い方だよねって。

こう考えると。
子どもたちは、心の動きをよ〜く、なぞるようにして、コピーして生活してるんだなあ、と思います。

当然、親が自分に対してする、その関わり方だって、コピーしているでしょうね。
で、その言い方が良いな、かっこいいな、洒落てんな、と思ったら使います。

子どもは、
◯納得すると使い始める
◯いいな、と思うと真似をする
もしくは、
◯自分の身を守るためにも使う

最後のは、ドキッとしますね。
親が屁理屈を言うと、それ、完全に後でコピーされて戻ってきます。

先生◯◯できた、と子どもが言いにくること多いです。
すると、
ああ!そう!よかったねえ!!
私の口癖です。
大体、良かったねー、と言ってもらうと、子どもはかなり満足した顔をしますからね。

するとね。それもコピーしています。

子ども同士で、
良かったねえ!
だって。

あとは、最近ですが、こんなこともありました。

クラスのある男の子が、ピンク色のセーターを着て登校したんです。
オードリーの春日みたいなの、です。
すごく似合うの。それが。

でも、なんか朝、それについてなんか言った子がいたのですな。
男なのにピンク、みたいなの。


するとね、間髪を入れず、
「それもいいんだよ。男だってピンク色を着てもいいんだよ。変だとか、そういうふうに言われたらさみしいから、それでもいいよ、と言ってあげなよ(原文ママ)」
ですって。
そう言った子がいたのですわ。

私は、これはおうちの人のセリフだな、と直感しました。

周囲の大人のセリフって、コピーされるもんなのですよ。
セリフというよりも、それを言う時の心理状態を真似するという方が正しい。

こう考えますと、子どもって、
ああ、社会全体から学んでいるんだなー、親だけでもなく 教師からだけ、でもなく 友達からも兄弟からも
本からもゲームからも
基本は これいいな ということ 使ってみたいなと思うこと、みんな、子どもにとっては真似するモト、なのですね。

子ども、偉い!

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それをするとどうなるか

ケーキを三等分できない、という少年たちの実情を書いた本を読んだ。ケーキに対して、まず一本の線を引いてしまう。衝動的にひく。考えが無いので、2本目に困る。それで、2本目も無理やり引く。結局、三等分ができない。
こういうことは非常によくあること。しかしこれまでは、そんなに話題にしてこなかった。

子どもの能力とは何だろうか。
大人は子どもの何を伸ばそうと考えるか。

乱暴かもしれないが、これは結局次の一つに集約されそうだ。

それをするとどうなるかを予測する力。

特に考えもなしに、子どもはさまざまに物を転がし、何かに乗せたり、自分が乗ったり、ぶら下がったりする。
それが当たり前で、子どもの仕事であり、遊びなのだが、ともすると怪我をする。

高い場所から落ちれば、痛いし、怪我になる。
そのうちに誰もが学習するから、回避できるコトなのだが、一部の子は、学習をしない。というか、「することができない」。だから、しょっ中怪我をするし、その怪我の程度が大きくなっていく。

ケーキを三等分することができない子の多くが、実は学習障害の側面を持っている。
まさに、「それをするとどうなるかが見えない」という状態のままで、生活しているのだ。

少年刑務所で講義をする先生がいて、お話を伺ったことがある。
少年刑務所は、少年受刑者を成人受刑者から分離して拘禁し、悪風感染を防止するとともに、特別な教育的処遇を行うことを目的としている。
だから、松本市にある少年刑務所のように、中学校を併設するところもある。

その先生が少年たちと話して一番に感じたのが、やはりそのこと。つまり、それをするとどうなるのかが、想像できない、という特性についてだった。

その先生は、歯磨き粉をチューブから下敷きの上に絞り出させてから、

「それを元に戻せる?」

と聞いた。
少年は、戻せるよ、と言うのだそうだ。ところがやってみると戻せない。
ダメだ、というその子に向けて、先生は、

「戻せないって、そういうことよ」

と教えた。

この世の中には、一旦元に戻せることもあるが、一方で取り返しのつかないことがある。それを、少年たちが、できるだけ実感の湧くように、何度も体験させるそうだ。

先生は、少年に、
「それ、元に戻せることかな。それとも、戻せないかな」
と聞く。また、
「それ、そのことをやり続けると、どうなると思う?どんなことが起きそう?」

少年が床を掃除すると、

「それすると、床がどうなるの?」
「それをすると、どんな人が喜んでくれるかな」

やってることは、小学校の先生と変わらない。しかし、すごく重要な指導なのだ。それをすると、あなたのその行動が、社会にどう影響するの?と、聞くことは。
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親だって、これを繰り返しながら、子育てをする。
私もあなたも、ずっとそうして、周囲の大人に問いかけられて、考えることを促されたから、成長したし、自分で計画を立てたり、修正したり、できるようになったのだ。

それをするとどうなるのか、考えること。そして、その力。
 
まさに、教育の担う1番の目的はこれで、大人は絶えず、この問いかけを子どもにしていくことが大切だ。

教育現場で教師がよく、子どもに対して問いかける。

「それをすると、どんな良いことがあるの?」

この問いかけなどは、まさにそれだ。

「そうすると、どうして(なにが)分かるの?」算数でよく言うセリフだ。
「そうすると、どうして(なにが)出来るの?」
体育でよく言うセリフ。

算数の授業も国語も体育も図工だって、考えてみれば、全部同じで、根幹はコレでありましょう。

コーヒーの勉強をする その1

実家が喫茶店をしております。
ところが問題がありまして、名古屋のくせに、モーニング・サービスがないのです。あるのは、普通のコーヒーと紅茶、コーヒーゼリーとケーキくらい。
これはすぐに店が潰れるかと思っていたが、どっこい20年続いている。

母に、どうして、モーニング・サービスをやらないのと聞いたら、たった一言、大変だから、ということであったが、名古屋の喫茶店がモーニングをやらないというのは、ほぼ犯罪に近い。大変な勇気である。お客様が「モーニング!」と言ったらどうしているのだろう。気の短い名古屋市民。大げさに言えば、毎日をモーニングのために生きている、という感じがある。決して許すまい。

どうやら店にやってくる人は、モーニングで小腹を満たす目的ではないらしい。美味い珈琲を飲んで、クラシックを聞き、植物を眺めてボーッとするためであります。2時間いても、母は何も言わない。そんな調子だから、たまに人生相談もあるらしい。
若いスーツ姿の若者が、2時間ボーッとしてた時、おかわりのレモン水を替えに行くと、悩みを打ち明けられたと言うので、むしろ水晶玉を使って別の商売をした方が良いのではと、それを聞いた姉が進言していた。

いっそのこと、銭天堂、という店名に変えたら良いかもしれない。

私自身は、ずっとコーヒーは飲んでいなかった。味も分からない。

30を過ぎた頃、世に出て働くようになり、職場の人がコーヒーを飲んでいるんでお付き合いで飲んでいたが、味に関してはまったく分からない。どれも似たようなものだろう、と漠然と思っていた。
コーヒーを飲んでおいしいと思う時はあったが、自分が一体どんなコーヒーを好みに感じているのか知らなかった。

そこて、いくつか試してみていて、

1)インドネシアのマンデリン
2)コロンビアとブラジル
3)キリマンジャロ

入手先の店や豆自体にもよるだろうが、だいたいこの辺を比べ、自分がそれを好みに思うかどうか試している。これらは次のような特徴があるようですナ。

1)インドネシアのマンデリン
酸味の苦手な人もマンデリンなら大丈夫。苦味がある。とにかく珈琲は苦くないとねえ、という人向け。風味も良くファンが多い。

2)コロンビアとブラジル
酸味と苦味、コク、すべてほどほどにあってバランスが良い。万人向け。浅煎りなら酸味が強く出て、深煎りなら苦味が強く出る。

3)キリマンジャロ
マンデリンやコロンビア・ブラジルとは違い、苦味よりも酸味が多い。ニガいのは苦手だという人で、香りが良く、酸味も平気と言う人が好む味。

・・・なのだそうです。知らんけど。

※母によれば、店に来るお客さんとコーヒー談義をすると、ほぼ皆さま、『酸味』の好き嫌いを言うそうです。
一方、苦味の方は焙煎の工夫で多少上下コントロールできるので、もっぱら豆由来の「酸味」の好みを聞くそうですね。
エチオピアモカやキリマンジャロは、むしろ酸味が好きという人向け。
逆に酸味が強いと気になる人には、ブラジルやコロンビア。これらは程よく中間で、バランスが取れている。
一方、むしろ苦いのが良いという人には、マンデリン。大雑把ですが。

私はこれを聞いて、たまに飲み比べるチャンスがあれば試しているが、結論としては、ほぼどれでもそれぞれにおいしい。
コーヒーそのものよりも、どちらかというと、コーヒーでも飲んでゆっくりできる、ということの方が、自分にとって大事なようですナ。

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雪山の遭難についての話が子育てに通じる

雪山の山岳ガイドをしていると言う人の話を聞いた。
最も伝えたいのは、ネット情報を見て山に登るなと言う警告であった。

ネットには丁寧に情報を載せる人がいる。持ち物は何か、いつから何時から登ったのか、計画した時期はいつか。

丁寧に道順や道筋を示す写真やポイントまで載せている人がいる。
「わかりにくい印ですが、こうなってる方が正解です」
「ここの目印はピンク色のリボンです、ピンク色を見たら右に曲がりましょう」

本当に詳しく載せている。つまり、載せた人は、自分の真似をして登る人が迷わないように親切で載せている。

これを見て、自分もこうしたら登れるのだと思いこむ人が出てくる。

ところが、その情報を載せた瞬間とは、当たり前だがズレがある。ブログを読んだ読者の1人が思い立って、これの真似をしようとして登った日時は、記事を書いた人の日時とは、違うのであります。

あると思ったピンク色のリボンは当日は無い可能性だってあり得る。
当日の気温も違う、天候も違う。
何しろ、登る人の、そもそもの経験年数や体力まで全て違う。
持病を持っている人か、あるいは、以前、腰を痛めたことがあるか。
履いている登山靴の種類も違う。歩幅も違うし、スピードも違う。血糖値が上がったり下がったりしやすい人なのか、普段から肉体的な労働仕事についている人なのかどうなのか。若い頃に雪山に登ったことがあるのかどうか。最近雪山に登ったのかどうか。

全然違う人の違うデータをもとに作ったガイドをみて、

「この通りやれば、真似をすれば、俺も登れる」

と、考える。

これは実はどうしようもない仕方のないことである。なぜなら、人間の脳は思い込むようにできているし、決めつけるようにできているから。
どうしてかと言うと、人間の脳は、省エネのため、複雑な情報をできるだけ簡単にまとめようとして覚える傾向がある。「要するにこういうことなんだろう」「ああ、分かった!」という処理の仕方は、人間が生まれ持ってたくさんの情報を処理するために見出した知恵なのであります。

そして、わかったと言うふうに自分を納得させないと、新しい新規の出来事に対してチャレンジする勇気も湧いてこないのが人間。本当はわかっていないのにわかったと言わなければ、不安遺伝子が邪魔をして実行できない。
だから、全人類が決めつけて思い込んで暮らしている。この事は誰も責めようのない事実なのです。

インターネットを通じて、気軽に誰もが山の情報を載せられるようになってから、雪山の遭難は飛躍的に増えてしまったと、前述の登山家がぼやいておられるのは、そう言うことのようです。

山岳ガイドは、遭難者が出たときに要請が出て現場に向かう。救助と言うのは、推理と安全確保と体力の勝負。救助隊員は、たとえ自分が30回以上登っている山でも、もしかしたら、はじめての体験をするかもしれない、と考えて準備をする。

万が一、万が一、万が一を考えて準備をする。
普段と違うロープの縛り方、紐の縛り方は絶対にしない。
決まった場所に必ず決まったものをしまう。
2つのものを同時に手に持って2つの作業をするような事はしない。炎の上で、何かする事は無い。机の端に、落としたら割れるものは絶対におかない。落としたら割れるものの上を、自分の肘や袖が通過することがない。体の向きを変えても、絶対に当たらないようにする。

要するに、訓練を積んでいるのである。

ふと思いついた都会のサラリーマンが、ネットで取り寄せた山の道具を持って、冬山に1人で登ってしまうのと、救助隊員が万が一を考えて準備を行うのとではレベルが違う。

世の中は今、専門家を軽んじる時代になっている。ありとあらゆる専門家とその知識や経験が、大切にされていない。
その代わり、簡単に書いた情報や、軽く紹介されたYouTube動画で、「こんな感じでやれます」と情報は拡散されている。

今や健康に関する情報も、専門家より、もしかしたらYouTuberの一言の方が重視されているかもしれない。

専門的な知見が軽く見られているのは、日本だけではなく、世界中の傾向らしい。インターネットの発祥元であるアメリカ合衆国においても、専門的な知識はどんどんとその社会的地位を落としていると言われている。先日、そのことをビルゲイツが嘆いていたようだ。「インターネットの発明により、私が思い描いて望んでいた未来とは、違う方向へ進んでしまっている」と。

専門的な知見よりも素人の感想のようなものが社会を動かす時代。

この傾向はますます強まっていくだろう。となると、現代の子育てでやるべき方向は定まってくる。

知識を教えるのではなく、研究的な態度の大切さを教える教育に方向転換するのだ。

正解はどれかを教えるのではなく、答えはこれだこれ1つだと、安易な考えに陥ることの愚鈍さを伝えるべきだ。

小学生に人気の、ヨシタケさんの描いた絵本に、「りんごかもしれない」と言う作品がある。
この絵本では、目の前にりんご、のようなものがあり、これはリンゴだろうか?と問いかけるところから始まる。

しかし、それがりんごだと言うふうに断言する事はなかなか難しい。
目で見たものは全て事実か、と、問うているのである。

事実とは何か。
目で見たものは事実と言えるか。
耳で聞いたものは事実と言えるか。
A = Bだと言い切れるだろうか。

こうした思考訓練を、すべての日本国民が、小学生時代から綿密に行っていけば、軽くて安くて、ペラペラの知識に、人生を翻弄されて無駄に過ごしてしまう国民は減るだろう。
しかし残念なことに文科省がこれを学校でやるとは思えないし、学校はすでにやるべきことでキャパオーバーしている。


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スポーツの勝敗・序列について

サッカーのコーチが、「今の子どもは、勝利に対する熱が足りない」と言った件についての続きです。 15年ほど前でしょうか。 マスコミにこんな言説が広まりました。
小学校では手をつないでゴールをする運動会が行われている。
これは由々しき問題だとして、大きなパッシングを受けました。特にゆとり教育を批判する意味合いでよく使われました。 この社会は、競争が当然で、全て序列と競争で成り立っているのだから、こんなごまかしで子供に嘘を教えてはいけない。 という批判が殺到しました。

 後に、これはあるライターがゆとり教育とはこういうもの、という批判の意味を込めて書いた創作、いわば都市伝説だったことがわかったのですが、あたかも事実であるかのように広まりました。そして同時に、やはり今の子供には、気力がないということが、手つなぎゴールへの批判とともに、問題視されたのです。

 ゆとり教育のイメージが手つなぎゴールであるというのは、非常に示唆的で、多くの意味を含んでいます。
 ゆとり教育に対して、ガツガツと勝利を目指さない、のんびりとしている、他を打ち負かそうとする意欲が育たない、というようなイメージを持っている人がいたのだと思います。そこから運動会の手つなぎゴール、という神話が生まれたのでしょう。

 しかし、いわゆるゆとり教育は、もう何年も前に終了しています。もし、先日の少年サッカーのコーチが言うように、気力がない、ということが、ゆとり教育の問題なのだとしたら、辻褄が合いません。とっくのとうにゆとり教育を脱した今の日本の子どもたちは、勝利に貪欲であるはずです。

 また、ゆとり教育の本質は、いわゆる競争を諦めたと言うようなものとは全く違います。どちらかと言うと、人は千差万別なのですから、勝てない競技に無理に参加するのではなく、その子の強みをよりよく生かそうとするのが、ゆとり教育の本質でした。

 したがって、子どもたちが今、ガツガツと勝利を目指さないことは、別にゆとり教育とは一切関係がないのです。これが原因だったのか!と、ゆとり教育を批判したところで、現状は変わらないわけです。ガツガツと勝利を目指す感じが薄くなってしまった子どもたち。彼らのの世界観は、もう変わらないわけです。

 では、なぜ、子供たちは、ガツガツとしなくなってしまったのでしょう。 私はおそらく、スポーツと言うものは、もともと適度な遊び感覚であったものだろうと思います。だから、そこでどんなふうに工夫すれば、どんなふうに体を使えば、作戦を立てれば、点数が取れるのか、勝利できるのか、そのこと自体が遊びであり、楽しいものであったのだろうと思います。

 ところが、努力の好きな人が、勝利だけを目的にするようになってしまいました。いかに努力し、勝利したか。そのこと自体が目的化してしまったのです。もともと、遊びの領域に近かったスポーツは、その性格を変質させ、努力して、勝利を得ると言う仕事に近いような感覚のものになってしまったのでしょう。その結果、勝利しなければ意味がない、勝利以外に、価値は一切ないとする極端な考えが生まれました。 おそらく現代社会は、そのことに対してかなり疲れてしまったのではないでしょうか。

 大谷選手や藤井名人を見ていると、遊びの領域に入っているかのようです。もう既に芸術だと言うわけです。一切の手抜きがない見事な芸術に昇華しています。だから、多くの人に感動を与えるのでしょう。 大谷選手や藤井名人が、もし勝利だけを目的にしているのだとしたら、自分が強いことをもっともっと誇示するでしょうし、逆に、自分のように好成績を残せない選手のことを馬鹿にしたり、チームの同僚を責めたり、あるいはタイトルを取った途端、燃え尽きたりする可能性もあったでしょう。ところがそうはなりません。彼らは遊びや芸術の領域で生きているからです。

 ゆとり教育も、本質的には、遊びや芸術の世界観に近いと思います。資質や能力の違いを認めるのです。人は、個々にその能力や資質が異なります。そこを無視して、到底勝てない競争を無理強いする世界観とは違います。
これは、もともとは、日本人が伝統的に得意としてきた分野です。
日本人は、昔から、伝統的に、ガツガツと努力をして勝利を得ようと言う雰囲気を持ってはいませんでした。
こう考えると、今の子供たちは、もともとの日本人の気質に還ってきている気がします。

江戸時代は、努力が尊ばれる雰囲気はなく、むしろ人々は「遊ぶ」ことを尊びました。遊びこそ、教養のある人や余裕のある人にしかできない、高尚で粋なものとされていました。庶民の識字率も高く、浮世絵を買ったり、お芝居に行ったりするなど、文化的に非常に豊かな時代を享受していたのです。
ガツガツと勝利を目指すことの少ない今の子どもたち。無駄な努力を繰り返して、人生を浪費してしまうのではなく、より良くより豊かな生き方を志向しているという見方もできるでしょう。 遊びは脳の栄養源であり、ヒトは努力よりずっと遊びを必要とする生き物だそうです。
生きるために必要でないことをきちんとやれるかどうか、ということが教養の深さや精神の豊かさを示しているのだとすれば、勝利至上主義のような、勝利という結果をことさら注目する文化は、今の子どもたちが徐々に変えていくことになるでしょう。
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スポーツに対する姿勢の変化

とある知人。休日は少年サッカーのコーチをしている。時折、お話しすることがあり、先日はちょっとボヤいていらしたので、そのことを書く。

彼は、「今の子は気力が無い」と言う。
勝っても負けても、サバサバしている、と。
コーチとしては、少しでも技量が身につけばやる気になるかと思って、奮戦努力している。どんな子でもレギュラーになれる、目指せる、と常日頃から語りかけ、未熟な子には特別にフェイントのコツや、パスコースのこと、ボールのタッチの仕方など、熱心に教えているらしい。
しかし、なんとなく、今の子は勝利に対する情熱や飢えが無いのだそうだ。

「勝利をあまり喜ばないんですわ。こっちはガッツポーズで喜びを噛み締めているのに・・・。なんででしょうね?」

私は、そうですか、と聞く。
学校では、休み時間のドッチボールとか結構燃えているけど・・・。どうなんだろう?

確かに、今の子は気力が無いと、よく言われる。しかしふだん接している子どもをみても、充分に気力はあると思うし、それがスポーツに限ってのことなのか?・・・よく分からない。

ただ、予感でしか無いけれど、あまり子どもたちが「勝利」を目標にしていない、と思うときがある。
目標というか、勝利を得ようとはあまり思っていなさそうである。
社会的に活躍できたか、トーナメントで何位になったとか、なんかそういうモノを目指す世界とは違う、目標意識が少し、これまでとはズレ始めた時代がきているのかもしれない。

つまり、傍目から見てわかるものでなく、外見でどうというものでなく、もしかしたら、いわゆる「内発的動機」と呼ばれるような、自身の中の目標を重視するようになってきたのかも。

ドジャースの大谷選手は、賞やトロフィーや称号や年俸の額が動機ではない、という感じがする。彼などは、ズバリ、内発的動機によって、高みを目指している。だから、マスコミの評判も気にしないし、チームのせいにもしないし、他人の考えの及ばない動機で動いているように見える。

将棋の藤井聡太さんも同じ匂いがする。勝つとか負けるとかよりも、美しい手を打ちたい、とこだわって、詰みを勝ち取るまでの手順をとことん考え抜く。
もう勝利したも同然なのに、あえて苦しいほどに頭脳を使う。常人のレベルを超えた芸術を目標にしてるから、最後まで徹底してこだわる。とうていワレワレには理解できない世界だ。

どうやらここ最近、勝負、という世界で、新しい価値観が生まれているらしい。大谷選手しかり、藤井聡太さんしかり。
これは、子どもたちのスポーツの世界についても言える。子どもが変わったと言うよりも、社会の全体の雰囲気が変わってきているらしい。その価値観の変化が、どうやら最近になって、子どもたちの世界にも及んでいるのではないかと思われる。

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小学校教師がどうしても哲学的になる理由(なだいなださん その2)

小学生の担任をやっていると、どうして哲学的になるのでしょう。
6年生の担任になり、社会科の授業をすると、なおさら、です。
なぜか。
正面切って、太平洋戦争を話題にしなければならなくなるからです。

ふつうの日本人が、毎年のように、太平洋戦争とはナニカ?ということを、考えるでしょうか?
小学校6年の担任は、考えるのですヨ。

そして、それを、インプットだけでなく、アウトプットせねばならない。
それも、子どもだけでなく、その背後にいる大人に向けても!!

意味がわかりますでしょうか。
子どもたちは、家に帰って、親に話すのですよ。今日、こんな勉強をしたって。
そしたら、次の日、教室のわたしの小さな机の上に、連絡帳が乗っております。

開いてみると、おじいちゃんが書いています。
「太平洋戦争のことを孫が習ったとききました・・・」

おじいちゃんは、太平洋戦争にたいして、言いたいことがあるのですね。
だから、思わず、孫の担任の先生に、なにか言いたくなるのです。
わかります。だって、いま、太平洋戦争を話題にして、話せる相手が、街のどこを探したらいるのでしょう?チャンスは今!そうだ、担任の先生に、孫の連絡帳をつかって話そう!

わたしは、子どもに向けてだけでなく、世の中に対して話す気分になる。
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先生たちはそれがこわいから、もっとも賢明なやり方をします。
簡単ですよ。教科書を読んで、おしまい。
余計なことは何もやらない。活動しない。
あるいは、NHKの動画をみせて、

「感想をいいましょう」

これでOKです。
わたしもこうします。

しかし、質問が出てくるのですね。
なぜかというと、わかりにくいから。
だって、なんで戦争をするのか、人を殺すのか、子どもはわからないのです。

「なんで殺すだ?」

こう、子どもが、目をくりくりさせて、ちょっと眉をひそめた風で、問うてくるのです。
その瞬間、哲学がなければ、担任は倒れてしまいます。

これが、小学校教師がどうしても哲学的になる理由です。


以下、なださんの著作より抜粋。

「人間はどうして自己の想像力を失っていくのでしょう。そのひとつが、組織の中への埋没です。(中略)水俣病の場合でも、町や工場の人々は、残酷ともいうべき態度をとりました。もちろん、そこに自分たちの生活がかかっているという意識があるでしょう。しかし、生活がかかっていると思うことが、どれほど私たちを残酷にさせるか、残酷であることを許してしまうかを、考えねばなりません。そこに、組織に属してしまう、個の特性を失ってしまうことの、残酷のはじまりがあります。(中略)組織の中に入った人間は想像力から遠ざかり、現実との接触を失っていきます。」

太平洋戦争のころ、日本人全体が、こういう状況下におりました。

「たとえば、ある事件が起こります。一人は、「それがどうした、おれの知ったことか」とつぶやき、もう一人は「なんだと。それは本当か。ケシカラン」とつぶやきます。それは、その事件に対する、二種類の反応といえますが、それはこの二人の無意識の構造によって、当然みちびかれるべき反応と考えてもよいでしょう。フランス人たちと日常生活をともにしていると、どれだけ「それがどうした。おれの知ったことか」というつぶやきを耳にすることでしょう。そして、対照的に私たち日本人の日常生活では、どれだけしばしばケシカランというつぶやきがもれるのを耳にすることでしょう。」


「戦前の軍国主義への傾斜は、どうかすると「それがどうした」的無関心が日本が戦争に進むことを避けさせなかったといわれてきました。 しかし、私はそうではなく、ケシカラニズム的な民衆の参加が、そこに積極的になだれこませたと考えるのです。戦争の間、同じような服装をさせ、同じように考えさせたものは、平常なものからとびだした、型をはずれたものをケシカルといい興味をいだいた精神を捨て、それをケシカランものとして否定した精神だったのです。」


「しかし、このケシカラニズムと理性的社会正義の感覚が混同されてはなりません。ケシカラニズムは、感情的正義であるといえるでしょう。(中略)ケシカラニズムは、民衆運動の原点となるものといえるでしょう。しかし、それだからこそ、ケシカラニズムの大きな欠陥を考えねばならない。(中略)それは、感覚的正義であり瞬間的正義であり、純粋正義であるので、民衆運動の原点だと思います。しかし、同時に、それこそが、私たちをファシズムへ参加させる危険をもつものでもあるのです。過去において、ケシカラニズム的な日常感覚が、ナチズムにどれだけ味方したかを考えれば、これからもよほど注意しなければならないでしょう。」


「閉鎖した集団は、どこの国にも存在していますが、その集団と個人のかかわりあいの深さは、国によって変わります。それは実際には、集団に属する個人の意識にかかわるといっていいでしょう。そして、作られた集団の閉鎖性は、集団がそれを構成する個人のプライベートな生活を、どこまで縛るかによってはかることができます。(中略)このような閉鎖性の強い集団が存在すれば、はげしい利益の対立の中で、個人も集団とともに(一般社会から)孤立するばかりです。そして、この孤立からぬけだすために、日の丸にたよることになるのです。あるいは国家、国益、伝統、などという言葉を持ちだすのです。」


ロシアもイスラエルも、どちらも戦争を開始し、今なお続いています。
経済や情報などの観点からすると、世界中が戦争をしている、と言う人さえいます。
悲観的になってしまいますが、一方で、ルトガー・ブレグマンのような、人類の明るい展望を語る学者もいます。

今、いちばん日本人に必要なのは、哲学、だと思うようになりました。
大学も高校も、入試に「哲学」を取り入れたらいいのに。
そしたら、小学校から、哲学をはじめることでしょう。
いちばん驚くのは、子どもではなくて周りの親とか先生たちだと思いますが、キメツケとか常識とか、ずいぶん薄くなるかも。

下の動画はルトガー・ブレグマンが、なぜ人類の未来は明るいと言えるのかについて話をしています。

なだいなださんの思い出【ガザ地区の中央図書館】

私はなだいなだ氏と一度だけ、お会いしたことがある。
といっても、ちょいとしたイベントでオハナシを伺ったあと、短く「大変勉強になりました。ありがとうございました」と頭を下げただけで、なださんは笑顔で「はいどうも」と言っただけのことだが。


でも、私にとってはなださんと、どうしても人生の間で一瞬だけでいいから触れ合いたかったので、もうこれだけで非常に満足。興奮しながら帰宅した。
なださんは思ったよりは背が低く、私よりも小さいくらいであったが、やはり声はしっかりされていて、オーラというのだろうか、刀をもってまともに打ち込んでも、けっして崩れないくらいの「正面を切れる」芯をお持ちであった。

なださんの著作で、すぐに思い出すのは、「ケシカラニズム」という言葉と、「マスコミの情報は、すべて、◯◯ちゅーことになっておる、と聞け」という忠告です。
これはもう、ベストセラーのなだ先生の著作を読めば分かるので、そちらを読んでください。

さて、なぜ急になだいなだ氏を思い出したかというと、ガザ地区を攻撃しているイスラエル軍が、現地の中央図書館を爆破した、という記事を見たからです。


これで歴史の大切な財産が消えてしまい、人類はたいへんな損害をこうむるわけですが、当然、そんなことをガザ地区を爆破するのに夢中な兵士たちや、イスラエル国家の政治家たちが理解できているはずがありません。
やはり人間というのはどうしようもなく、無恥厚顔の態度がとれる人が、思慮深くて自分はもしかしたら間違っているかもしれない、と熟慮する態度の人を駆逐していくのだろうと思います。

なだいなださんのエッセイの中で、たしか戦争で大切な文化財が焼失することについて触れたところがあり、それを急に思い出したのです。

50歳をすぎると、頭の中に詰め込んだ、ありとあらゆるものがふいに、浮かんでくることがありますね。それも何十年も前の。
おそらく、そのなだいなださんの著作の、その該当箇所も、わたしは高校生の頃に読んでいる。
だから、まさに30年の時を経ているわけ。
しかし、ちゃんと思い出すということは、やはり人間の頭脳というのは、たいしたものだなあと思います。

なださんは、いつ消えるかもしれない、ということを指摘します。本があることに安心してはいけない。いつ廃版になるかわからない。本なんてものはすぐに世の中から消えてしまう。また本棚に本があるからといって、本当に自分を救うかどうか、わからない。なぜかというと、人間はアホなので、いつか戦争が起きてもおかしくないし、その本を持っていたら逮捕されるとか、アメリカの赤狩りのようなことも起きるかもしれない。だから、本当に大事なことは、記憶しておかないといけない、ということでした。

ガザ地区の爆破により、中央図書館の歴史的な財産は消え失せました。
しかし、心ある人々のこころの中に、大切なフレーズ、大事な文章、人間の尊厳をまもる大切な精神は、きっと残っているでしょう。それを信じたい。

ちなみに以下は、なだ氏の名言の数々。

「結婚してからの一日一日は、相手の欠点を一つ一つ発見していく一日である。」
「子どもの愚かさをとがめすぎるから、その分大人が愚かになる」
「なまけものは、哲学を持っているが、働いてばかりいる人間には、哲学がない。」
「正常・異常は相対的なものである」


なかなか辛い言葉ですね。
なださんは、間違った努力を、心の底から軽蔑していました。太平洋戦争時の日本のことですが。
幸福になるために、不幸を選ぶ、というのを、ですね。滅私奉公、というヤツです。
ブラック企業が本格的に話題になる前にお亡くなりになりましたが、今生きていらしたら、おそらく「方向の間違った努力、向いていない努力、意味を追求しすぎて意味がなくなった努力」を一刀両断されたことでしょう。必要なのは、一見無駄にみえる「遊び」です。それは動物には無理で、人類にだけ、許された行為だからですね。いちばん合理的なのが動物です。彼らはすべて個が生き抜くために合理的です。親が子を食うのが動物です。個の存続のために、合理的になりすぎた結果、そういうことも平気になってしまう。マンボウという魚は、産卵した途端、自身の産み終えた卵を口の中にほおばりはじめます。
人間も合理的になりすぎると、野蛮な動物に堕ちるのです。

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三年寝太郎は学校に3割くらい居る

2016年に、わたしは下記のような記事を書いた。


そこに、三年寝太郎のことが書いてある。
要するに、「だれにだって本当の価値があり、実力主義は間違いである」ということが言いたいようだ。
今から8年も前の記事なので、わたしは久しぶりに読み返して、まったく覚えていないから新鮮だった。三年寝太郎についてググッていたら、まさかの自分の記事が出た、というわけ。

その記事の最後は、
「学校の価値を語らずとも、
価値があるかどうかを問わなくても、
Aくんが学校へくることを喜び、大人はそこでもっとも人間らしくふるまいながら、Aくんと共にすごす、ということだろう。なにしろ、われわれは、生きていること自体がヨロコビであるのだから。」
となっている。

どうしてそんなことを書いたかと言うと、学校へ来ることを努力とよび、努力できない人を責める風潮を感じたからだ。
もともと、努力の得意な人と、努力することができない人と、両方いるんですよ。
まあ、一般的に、努力が得意な人は、わりと社会の中で目に見える成果を出しやすいために高評価を得ることが多い。そしてその人は、パッと見てわかりやすい成果を出さない人を、『責めやすい』。
わたしはこんなに努力しているのに、なんであのひとはしないのだろう!
パワハラはこれが原因ではないだろうか。

しきりに価値を語りたい人のことを、価値依存、と呼びますが、まさにパワハラは価値依存の状態から生まれたモンスターであり、実力主義もまたそうでしょうね。価値をさけぶ人のほとんどは、同時に「努力が必要であり、あなたは努力をしていない。努力をスべきだ。そして努力の結果である『価値』をあがめなさい」と言いたいわけ。

ところが、価値依存の人が忘れていることがある。
それが三年寝太郎であります。
だって、用水路の価値を、当時むらに住んでいた誰も、理解できなかったんだから。
そして、太郎が目の前の土を少しずつ掘っている、そのクワの先についた土をみても、価値がわからないのです。つまり、価値を叫ぶ人こそ、価値が見えなくなるパラドックスがあり、価値を知っているぞ、といえば言うほど、今努力していないようにみえるぐうたらな人だって、まだ世の中に無い価値をみつけることができる、ということを忘れているのです。

価値を知っている人、かしこい人のほうが、より忘れやすいのですね。三年寝太郎の価値を。

今回書こうとしたのは、
『三年寝太郎は学校に3割くらい居る』
ということ。
残りの7割は、ふつうにある程度は、目に見えやすい努力ができるタイプでありましょう。

成果は、目に見えやすいものだけではありません。
世の中には多くの人がまだ気づいていない価値があり、その価値に気づくことは、IQの高さや、努力ができるできない、という人間の特性や、体の状態やコンディションの状態に関わらず、だれにだって可能性のあることです。
そのことに気づいた国から、国を上げて「多様性をみとめよう」という動きを取り始めています。

これからは、多様性よりも実力主義だ、という国は没落し、常に他国の後塵を拝する、ということになりましょう。
そうではなく、社会に埋もれたアイデアや宝が、どの人にも存在する可能性があり、だからこそ多様性を認めることで本当に人間社会に役立てることができるのであり、いわゆる「目に見える努力ができる人だけを優遇する」国家は、実は宝を捨てているアホ国家だ、ということを知ることが大切なのでしょうね。

そういえば、アフガンを緑化したことで有名な中村医師も、寝太郎のように水路を掘ろうと思って土を掘り出したら、始めたばかりの頃は特に、周囲からあいつはアホだと言われ、なにか悪いことをしているのではないか、と相当な邪魔や悪意を受けたらしいですね。
日本人の多くは、実力主義では生きにくいDNAを持っているのではないかなあ。
おそらく日本人の多くは、三年寝太郎のようなタイプなのではないかと思いますネ。
だって、通常のノーベル賞はなかなかとれないけど、イグノーベル賞は世界で日本人だけが、かなり長期間、13年連続かなにかで受賞しているでしょう。あれ、アホなことには価値を認めない、という世界の常識に抗する賞で、アンチ実力主義の最たるものですよね。まさに三年寝太郎的な。
日本人は実力主義をやめたほうがいい気がするなあ。努力ができる人を重用するのでなく、努力できない人をも大事にする社会のほうが、日本人には向いているように思います。

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わたしが教室で三年寝太郎を読み聞かせたあと、

「自分はどっちタイプだと思う?」

ときくと、クラスの3割は、手をあげました。

残りの7割の子に、どうして自分は三年寝太郎ではないと思うのかと聞くと、わたしはそんなに100年後、1000年後のことまで考えられるような人間の器がないので、三年寝太郎のような立派な人にはとうていなれない、わたしはせいぜい、毎日宿題をコツコツとこなして、寝太郎を手伝うしかない、と言ってました。

子どもは、コツコツ努力をする人よりも、寝太郎のほうが価値があると思うらしいです。大人とはまったくちがいますな。

アナ雪を50回見た子の抽象思考とは

時間の無駄を重視する、というのが、Z世代の特質らしいです。
コストパフォーマンス、という言葉は、資本主義社会の中で、よく言われたり使われたりしますね。
かけたエネルギーに見合うだけのリターンが得られたのか、資本主義は常に考えるのです。
今は、どちらかというと、タイパ、らしいですね。タイムパフォーマンス。略して、タイパ、です。
時間を節約したい、というのが、あらゆる行動指針の先に来る、とのこと。
余計なことは時短で切り抜けて、自分が自由になる時間をいかに生み出すか。

それで、今の若い世代は、動画を早送りして見るそうです。
これを、「そんなの、作品を味わえないじゃんか」と捉えるのは、古い世代だからで、若い世代は、それを見るのが目的ではないため、早送りでまったく問題ない。

何のために時短するのかというと、他の目的に時間を使うため。

Z世代は、とにかく、誰かのために、犠牲にはなりたくない。誰かの計算で、動くのはイヤなのですね。
あくまでも、自身の主体的な意図や計画のもと行動したい。だから、見たくもない動画など、早送りするのに限るのです。友達と会話を合わせるために見る動画なんて意味ない。本心で見たいわけではない動画の視聴であれば、早送りで充分。

そうではなく、本当に自分が見たいと思う作品については、ぜったいに早送りはしないそうですよ。

あくまでも、主体性を持つことに、こだわりたい。これが、Z世代の真骨頂!

いつも動画を早送りするという、我がクラスのSくん。
彼は、アナ雪を、一秒たりとも早送りせずに、姉と共に50回以上見たそうです。

そして、なんでそんなに、50回も見たの?

と聞かれ、

「面白いから」
「いろいろ見てなかった部分とか、気がついてなくて知らなかった部分もあるから」

と言ってました。
50回、早送り無しで見ても、まだ分からない、というのです。
どうでしょうか。
この子は、作品の本当の味わい方を、知っているような気がします。

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