30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2020年07月

愛知県の良さ

愛知県の小学校教員でよかった、といつも感じております。

わたくし新間草海の勤務校は、愛知県の小学校であります。
愛知はよいところです。

子どもたちと調べていくうちに分かったことがあります。
それは、愛知県には寺院がとても多いこと。
3年生で街の地図をつくってみたら、近所の寺院の多いこと、多いこと。
昔ながらの地形も地名も残っているし、落ち着いた雰囲気はこんなところから醸し出されるのかも。

夏休みの今、わたしも、
地元愛知のよさを、
味わっています。


あとは、ひつまぶし、ですね。
うまいですよ、ひつまぶし。
うなぎを食べましょう。
うなぎの茶漬けも美味で、おすすめです。
もう土用の丑は過ぎたけど。(夏以後もあるけど)

わたしは現在愛知県の小学校に勤めていて本当に良かったと
重ね重ね、感じております!

food_unagi_ochaduke

【5年国語】俳句で日常を~短縮バージョン~

コロナで詰め込みになってるが、仕方がない。
年度内に遅れた分を取り戻す、というのが教員の間では強迫的に義務化している。
でなければ、どんなに叱られるか・・・

通常の仕事は世の中を豊かにするために実行されるものだが、本来の目的を失う場合がある。
叱られないために、苦情を言われないために、というのが第一の目的となってしまうことを、

「文句対抗作業」

という。仕事、という言葉が、作業、という語に成り下がるところがミソだろうか。

で、市教委や保護者、世間一般から叱られないための自衛策として、通常3時間扱いの「俳句」の授業を1時間でやり切るプランを。

1)俳句をいくつか鑑賞する。
2)気が付いたことを見つけて言い合う。

*言葉の順番が入れ替わっている
*季節を感じさせる言葉がある
*擬音や擬声語が使われる
*漢字・片かな・ひらがな をうまく使い分ける

3)生活の中から俳句をつくるための作戦をたてる

*学校生活
*登下校の様子
*家でのくらし
*勉強中、休み時間、給食、そうじ・・・
*自分のこと、友だちのこと、先生のこと、家族のこと、ペットのこと

4)つくりはじめる

5)友達の俳句をきき、「グレードアップ意見」を出しましょう

6)友達から「グレードアップ意見」を聞いて、さらに変えてみましょう

7)クラスでの発表

8)自分の俳句を短冊に書いて掲示する

ここまでで1時間ぎりぎり。

haiku



【5年国語】和語・漢語・外来語

教科書の例文から、和語、漢語、外来語を知る。
どのような語があるか、みる。
それらの区別をしてみる。由来など。
それぞれの語から、受ける感じなどを確認する。

1)教科書の題材から、和語、漢語、外来語をそれぞれ2つずつ見つける。

2)それぞれどんな言葉を見つけたか、友達と比べてみよう。
  同じ語をみつけた場合は、その語に〇をつけよう。

3)気が付いたことを出し合おう。

*和語がたくさんある
*漢語は熟語になっていることが多い。
*外来語はカタカナで書いてあることが多い。

4)班で1つずつ、「和語」「漢語」「外来語」の表に書きましょう(黒板へ)
  みんなで見て、確かめましょう。あっているかな?

*和語と漢語が迷うよ
*あれちがうんじゃないの

5)新聞記事を配る・・・和語以外の言葉、漢語と外来語をみつけよう。

*すごいたくさんある

6)漢語の特徴はなんだろう

*ふだんしゃべる言葉というよりも、書いてあることが多いかな。
*そうだな、読んだり書いたりするときに使う語が多いよね

「和語」は、話す聞く
「漢語」は、読む書く
が得意なのかもしれない。

7)「完成」はどちらだろうか。

*漢語。
*和語だと、「できあがる」。
*漢語よりも和語の方が読みやすいかも。
*そうだね。あまり漢語ばかりだと逆につらくなる。和語もおりまぜたいね。
*だけど和語ばっかりだと、長くなるよ。
*そうか。両方のバランスが読みやすさにつながるのだね。

bird_kyukanchou




原因は「そこ」じゃない【ヒト間課題】

電子ボードは、何年か前に、市教委から「鳴り物入り」で学校に配備された、最新の機器であります。

これをもって授業その他を行えば、

「児童の参加型学習指導が行える」

というのが、当時の説明でありました。

画面に映された、学習課題。

その画面にタッチさえすれば、たちどころに画面が反応し、テンポよく授業を進めることができる。

児童はタッチペンを使い、40インチの大画面に、思うさま、自分の考えをそこに描くことができ、賛成する児童はそこに付け足しを、反対する児童は別の考えをそこに書きつけて、全員の思考をずんずんと深めることができる。

なによりもすばらしいのは、そこに現れる、写真の数々だ。
クオリティの高い写真を見て、どんな子どもたちも、学習課題に前のめりになり、視覚優位の子どもたちの興味もぞんぶんに惹きつけることができる・・・・・・。

ところが、この電子ボードが、あまり、使われていないのであります。

市教委主催の研修に行くと、さっそくにそのことが話題になり、

「どうも、先生方、この装置の魅力をご存じでないようで」

という説明の後に、いかにこの装置が魅力的か、授業にどんなふうに生かしたらよいのか、懇切丁寧な説明が繰り返されたのです。

ところがこれは的外れでありまして、こんな説明をしても、先生たちは、「使わない」。

なぜかというと、原因は、職員同士の人間関係に起因するのでありました。

情報機器教育担当の方は、半年たってもまったく使われないこの装置を、どうにか使ってもらえるようにと、

次の手段に出ます。

最初、

魅力が伝わっていない

ということで、授業での使い方、ユースウェアを説明していた市教委でしたが、次は脅迫に出ます。

実際の使用頻度について、毎回記録をしてください。何年何組が何時間使ったか、データをとります。

ということを言い、各クラスで、実施することを、暗黙に要請します。

しかし、先生たちは、使わない。

やっきになった市教委は、

さらに!! 次なる手段に出ます。

校長会に訴えたのです。

指導を受けた校長たちが、次は具体的に職員室の先生方に、直に指導するようになりました。

「先生方、この装置には、たいへんなお金がかかっております。これをば遊ばせ、使わないのであれば、これはすなわち、税金の無駄使いということになる。今、たいへんにマスコミ、保護者からの視線が厳しくなっているこのご時世で、税金の無駄遣いということはあってはなりません。ぜひ、ひと月に一度は、授業で使用してほしい」

校長が檄をとばしても、この装置は使われない。

やがて、2年経ちます。

校長も半分あきらめ、市教委もあきらめ、夏の研修のときには、市教委の主事先生が

「なかなか使われずに、ほこりをかぶった電子ボードがあるそうで・・・」

という苦笑交じりのスピーチをすると、会場の先生方からも笑い声が漏れるほどで。



これ、不思議ですよね。

会議室(現場以外)で考えることには、的外れが多い、というのは、ずばりこういうことだろうと思います。

状況を変えよう、ということばかり、考えているし、「状況」の話ばかりしている。

「だって、ガッコウに1台しかないですからね。使うと目立つし、他の先生たちが使いたい時に、本当は使いたかったのに、その時間に〇〇先生が使ってたから使えなかったのよ、って言われたら、いやですもん」

つまり、

「ベテランの、文句を言われない先生たちだけじゃないですか。使えるのは・・・」

ですって。

「いつ使っても、だれも文句や陰口を言われない、ベテランズの先生たちだけが使えると思いますよ」

若手の先生は、使えない、ということね。

いろいろと、あとで言われるのがイヤだから。

ベテランの先生にあれこれと言われたり、使ってどうだったかとか、あれこれ説明することになったら面倒だし、ともかく奇をてらった行動のように思われて、とばっちりを受けるのがいやだから、使わないのが一番、ということのようでした。


もしもこれを聞いたら、市教委の先生は何をいうのか知りませんが、

「そんな遠慮しないで、高い備品ですから使って下さい」

というのでしょうが、「使って下さい」といわれても、根幹の「人間関係」ができていないから、使えないのです。

だって、人間だもの

いろいろと、言われるのが、イヤ

なんですよ。

こんな、気を使ったり、気をもんだり、自分の言いたいことが言えなかったり、自分のやりたいことがやれなかったり、陰で相手のことをあれこれ言ったり、悪く言ったり、圧力をかけてやりたいことをさせなかったり、目立つ行動をとやかく言ったり、それを恐れて縮こまったり、あれこれ言われるのがイヤでやれなかったり、遠慮したり、びくびくしたり、おどおどしたり、わたしは間違っているのではないかと不安に思って窮屈になったり、・・・・

そこから脱却するにはどう考えるか、と。
ここが「教育革命」の第一歩だと思います。
ちまたで言われるような「教育界を変える!」というものの、ほとんどは、この話とは無関係だから惜しい。

教育革命とは、職員室の人間関係の革命、ということを抜きにしてはすべて机上の空論化してしまします。「世の中のすべての問題は結局は人間関係の問題に起因する」のです。

このことを、「ヒト間課題起因説」といいます。

不思議ですよね。ただの電子機器の活用方法に問題がある、と人は認識しているのに、
その根本をしらべていくと、人間関係に起因していく、となっていく。

社会問題ならわかりやすいですが、電子機器の利用ですよ。こんなものまで、すべてヒト間に起因するなんて・・・。

コロナもつまるところ、この「ヒト間課題起因」かもしれませんぜ。

figure_ningenkankei_fukuzatsu

雲(くも)をあやつる少年

.
2年生の校舎に行く、石廊下のとちゅうで、少年が立ってた。

わたしはバケツの水を運んでいたので、

「ごめんね~うしろ通るよ~」

と後ろを通ろうとしたら、その少年が乳歯の抜けた顔をにやつかせながら振り向いて、

「先生、雲が消えたよ!」

と空を指した。

「雲?」

見上げると、梅雨の合間の、さわやかな青が目にとびこんでくる。


さっき、あそこに雲があったんだよね。ぼくが消えろと言ったら、消えたよ。

男の子は、そういうようなことを言った。

まっすぐな目で、本当に消えたのだ、と。

(だれかの真似をしたのかな?)






「雲、消えろって言ったら、消えたの?」

ときいたら、

目をきらきらさせて、そうだ、とうなづく。

こんなとき、あなたはどう返しますか?




わたしは、ははーん、と不敵に笑いながら、自慢し返しました。

「ふーん、すごいじゃん。・・・先生は、虫をよべるよ」

とっさに、すぐにこう返せるあたり、なかなか教師としての力量とセンスが光ってます。自画自賛。(笑)



運よく、その子が食いついてきた。

「ええ?虫がよべるの?どうやって?」


私はその子がやっていたように、廊下の端に静かに立って、なにかを念じているような風(ふう)にした。

そして、薄目で足元を確認し、その後おもむろに、小さなするどい息をしながら、シュッと腕を振り下ろした。


こちらを見ている子の視線を感じる。
目が真ん丸になっている。


わたしは、足元にひざをついて、大きなギシギシの葉の裏を指さした。

アリ がいた。

静かに、告げてみる。

「ほら」

目を半開きにしたまま、厳粛な雰囲気でそう告げると、

その子は、鼻で笑って、

「ただのアリじゃん」

と言った。



わたしはちがう、と言って、葉の裏のルリハムシを指した。

青く、光っている。

「あああ!!虫だァ!」



「ほうら」



その子は、すでに尊敬のまなざしである。


わたしは、こんなことはなんでもない、というふうにバケツを手に取り、すたすた歩きだす。

雲使いの少年は、小走りに追いかけて来て、

「ねえ、いつでも呼べるのー?」

わたしはさあ、というように無言で歩く。

「え、カブトムシもよべるー?」

「呼べるよ」

「すげーーー」






教師ともなれば、こんなことはお茶の子さいさい、なのであります。

なにがって、奇妙なしぐさと目の前の事象とを関連づいているかのように話す詐術のこと。

その気になれば、わたしはカブトムシを呼ぶ人にもなれる。
スゴイよね。




遠足の前になると、きまって私は晴れ男だ、と言いふらします。

で、晴れたのは、前日に先生が必死になって念じたから、であり、
雨になっても、本当は台風と竜巻がくるところを、せめて暴風雨にならないように念じていたから、実はこれくらいで助かったのである、という。



子どもたちは、そんなものは嘘だ、と見破ります。

しかし、真剣な顔つきで、

「いや、嘘だと思うのは自由だが、世の中には摩訶不思議なことがあるのだ」

と、静かに告げます。



後日、世の中がそんなに単純にできているものではないことを学習します。

〇〇を飲んで楽になった、というCMを見せて、
なぜそう言えるのか、と激論します。

青汁を飲んだから、今朝のお通じがスムーズだったのかどうか。
これ、激論になりますよ。



結果、青汁のせいだ、と理由を一つに絞り込むことはできない、という結論になります。
みんなが納得した後、「先生が晴れ男ではない理由」、という文章を書かせると、クラス全員、きっちりと書きます。

すべて、その理由は、

世の中は単純な一本線でつながって出来ているのではない、ということ

のおおらかな説明になっています。

子どもたちが、世の中をなめない人材に育つために、必要な学習です。
青汁を飲んだらお通じが良くなることがあるかもしれないが、お通じが良くなった原因は青汁を飲んだからであるとは決められない、ときちんと理解できる子にするために、わたしは身を張って、教えるわけです。





さて、ここに一枚の写真があります。

これは、わたしが消した雲がうつっている貴重な写真です。

わたしが念じたので、山あいに雲ができ、さらに強く念じると消えました。

え? 信じられない?
 ↓

家の裏です2

【原因と結果】こたえが2になる式を書きましょう。

国語の時間がとれないので、道徳の授業として【原因と結果の授業】つづきをやることにした。
以下、授業プラン。

学習問題①:こたえが2になる式を書きましょう。

4-2
6-4
1+1
1000-998
【原因】いろいろとある【結果】2

このことからわかること:
〇たとえば、1+1、というのはきっかけの一つ。
〇結果の2が、1+1のこととは限らない。4-2かもしれないし、6-4かもしれない。

学習問題②:
さまざまに起こる目の前の現象。
原因は一つといえるだろうか。
たとえば、『先生がこの服を着ている。原因は奥さんにほめられたからだ』は正しいか。

【原因】いろいろとある 【結果】先生がこの服を着ている。

このことからわかること:
〇奥さんにほめられてその服を選んだということはあるかもしれない
〇しかし、その服を着ているからといって、常に奥さんにほめられたからだとは限らない。
つまり、『原因』というものは、必ずひとつきりではない。

学習問題③:時計の針が3:00を指している。

【原因】いろいろとある【結果】時計の針が3:00を指している。

〇実際の時間とは無関係に、時計は動いている。
〇だから本当の時間はわからない。
〇ともかく結果は目の前の時計の針が3:00をさしているということ。

学習問題:先生が、「おなかがへった」と言った。

【原因】いろいろとある 【結果】先生が「おなかがへった」と言った。

このことからわかること:
〇本当におなかがへったかもしれないが、口で言っているだけかもしれない。
〇先生は、体の状態とは無関係に、口で「へった」と言える。
〇だから原因がおなかがへったせいだ、とは限らない。
〇先生が「おなかがへった」と口でしゃべった、ということだけ。
〇原因はひとつではない。

指示:
①例文)1+1は2になるが、2だからといって、直前の計算式が絶対に1+1だとは言えない。
上の例文のように、〇〇であるが、だからといって〇〇とは言えない、限らない、というような文を作ってみましょう。

②奥さんがほめると先生がその服を着たくなるかもしれないが、その服を着ているのは奥さんがほめたからとは限らない

③実際の時間が3:00のときに、時計の針が3:00をさすかもしれないが、時計の針が3:00をさしているからといって、実際の時間が3:00とは限らない。

④おなかがへったので先生が「おなかがへった」ということはあるかもしれないが、だからといって、「おなかがへった」といったから実際におなかがへっているとは限らない。

⑤雨が降ったら試合が中止になるかもしれないが、試合が中止になったのは雨がふったからだとは限らない。(他にも中止となり得る原因がごまんとある)

⑥雨に濡れると風邪をひくかもしれないが、風邪をひいたのは雨にぬれたからだとは限らない。


このように、実際はある現象についての【原因】は一つではないのですが、原因を一つしかないと考えることを『迷信』と言います。つまり『迷信』とは、原因が一つだとして考え、かならずそうなるとは限らないものをかならずそうなる、と信じることを言います。

迷信と戦った人に、井上円了、という人がいます。

なぜ井上円了は、迷信と戦おうと思ったのでしょうか。

井上円了は「鬼門」とよばれる迷信と戦いました。
昔の日本には、家の中心からみて、北東にあたる方角を鬼門といい、縁起の悪いことやよくないことがその方向からやってくる、という言い伝えがあったのです。そして、家の人が病気になると、北東に神棚を祀ったり、塩を置いたりしたのです。

みなさんは、この話をきいてどう思いますか?

〇なぜ北東なんだろう
〇鬼ってどういうことだろう
〇塩ってどういうことだろう
〇まったくわからないことだらけだが・・・

井上円了は、

【原因】北東から鬼がきたので【結果】熱を出した

とは考えなかったのです。
井上円了は、どう考えたのでしょう。ノートに書きましょう。

〇原因が一つとは考えなかった。
〇鬼が来て熱を出すことはあるかもしれないが、熱を出したのは鬼が来たからとは限らない、と考えた。

そうですね。井上円了は原因を一つと考える迷信をなくし、実際はどうかもっと考えよう、ある現象が起きるための原因というのはたくさんあるという考え方を日本に広めようとしました。

(この後、井上円了のやろうとしたことや経歴にふれ、井上円了のことを感想に書いて終わる予定)

Enryo-tetugaku

【5年生・国語】「満員電車に乗ったので、コロナに感染した」

国語の説明文の学習。
原因と結果とを結び付けて書く課題がある。
たとえば、「前日に雨が降ったので、野球の試合が中止になった」という風な。

5年生ともなると、説明文がだんだんと難しくなってくる。
つまり、筆者が具体例を挙げて説明し、結論を述べるくだりを、『なぜその結論が導かれたのか』と、ていねいに理解できるようになることが求められる。
その「説明文」を論理的に読めるようになるために、5年生のこの時期に、「原因と結果」をむすびつけて説明できるかを確認しよう、というのである。

そこで、いくつかの事例を子どもたちにノートに書いてもらい、発表しあった。

すると、

「満員電車に乗ったので、コロナに感染した」

というふうに発表した子がいた。

毎日テレビを見ていたら、否応なく感染症のことが頭に浮かんでくるのだろう。
また、スーパーに入れば店内放送で「新型コロナ、感染症予防のため、店内の従業員が、マスクを着用しております・・・。お客様におかれましても、予防のため、マスクを着用してのご来店を、できるだけお願いしております。」と流れてくる。
コロナ、コロナ、と毎日耳にタコができるほど聞かされ、脳内にインプットを強いられているのだから、どうしたって浮かんでくるのだろう。

さて、この文章を見て、ある子が

「え、でもそれは原因じゃないでしょ」

と言い出した。その子は、

「免疫が下がったのが原因でしょう」

と言う。

それはなぜかというと、直前に、保健室の養護の先生による感染症の授業があったからで、そのときの説明によれば、感染症にかかるのは、体内の免疫機構が十分に働かないからだと。生活習慣の乱れや疲労、ストレスなどの原因で免疫が下がり、そのためにウイルスに対する防御反応がはたらかなくなるからだ、と習った。

「さっき、木下先生が言ってたじゃん」

そうだ、そうだ、という声があがる。

いや、この文章の中でみれば、原因と結果がすっきりと並んでいるのだし、これはこれでいいのでしょう、という子もいる。

しかし、なにか直前の保健の授業との整合性がとれず、なんだかクラス内がもやもやした空気に包まれてしまった。
もっとも「先生!もやもや!」と手を挙げた子は、(ちなみにうちの教室では今、「もやもや!」を叫ぶのが流行中)

免疫が下がる⇒感染しやすくなる

という情報ならまっすぐに自分の頭にささってきた。
ところが、

満員電車に乗ったので、コロナに感染した。
<原因>--------------------------<結果>

という板書が、どうも気に食わない、というのだ。

だって、満員電車にのったからといって全員かかるわけでもなし、乗ったからかかった、というのは、いささか雑すぎるのではないか、というのだ。

「じゃあさ」

その彼は、口をとがらして言う。

「レストランで感染した人がいたらさ、その人はこういってもいいことになっちゃうよ。たとえば、<ラーメンを食べたので、コロナに感染した>って」

えー・・・?!

もやもやした空気が、教室全体をおおっていく。
わたしは狼狽し、国語の授業がこのあとどうなってしまうのか、と案ずるが、仕方がない。
というよりも、私はいつも狼狽し、どうなってしまうのだろう、とハラハラするのが毎日の日常で、本当を言うと、教室にはいてもいなくてもどっちでもいいのかもしれない。ほとんど、わたしが教師を名乗るのは詐欺である。まったく授業をコントロールできていないからだ。ほぼ毎日。

さて、わたしも混乱しはじめた。

<ラーメンを食べたので、コロナに感染した>は、はたして妥当なのか?

<満員電車に乗ったので、コロナに感染した>という文章は、教室内の8割が納得できる、と答えた。一方、<ラーメンを食べたので、コロナに感染した>という文章は、当初、3割しか納得しなかった。

ところが・・・
この後、情勢が変わっていく。
もやもやを叫ぶ彼の運動が徐々に功を奏して、次第にラーメン派が増えだしたのだ。

「だってさ、両方ともたまたま、じゃん。電車に乗ったのも、レストランに入ったのも」
「ああ、そうかー」

たまたま乗った客車内に感染した人がいて、咳をしたかもしれないので、その満員電車に乗って呼吸をしているうちにウイルスを吸い込んで感染した、ということと、
たまたま入ったレストランに感染した人がいて、咳をしたかもしれなくて、そのレストランでラーメンを食べているうちにウイルスを吸い込んで感染した、ということと、
それほどちがいがなかろう、というのだ。

「そうだなあ。ラーメンを食べたのでコロナに感染もあり、だな」

徐々にみんなが納得して、この文章は正しいことになってしまった。わたしだけ、狼狽している。

最後まで発表したい、というので一応班の全員が発表するまで聞いてみると、その後も論理的に破綻したような文例が次々に子どもの手によって黒板に書かれてしまった。

「ダンスをしたので、コロナに感染した」
「猫を飼ったので、コロナに感染した」
「逆立ちをしたので、コロナに感染した」
「おなかがすいたので、コロナに感染した」

さすがに論理の飛躍だろう、と私が介入したら、

「え、だって<満員電車に乗ったので、コロナに感染した>はいいんでしょう」

と逆襲にあう。

ダンスをして息が荒くなって思わずマスクを外したときに感染したとか、
ネコもコロナに感染する、という新聞記事の切り抜きがあったので可能性があるとか、
逆立ちをして床すれすれに顔を近づけたために埃を吸って感染したとか、
おなかがすいたのでふと立ち寄ってコンビニでおにぎりを買って食べたところ、おそらくその前の客がどうも咳をしていたらしく、レジでおつりのやりとりをしたときに感染したのではないかとか、

そういう説明を立て板に水をながすごとくに流ちょうにぺらぺらと。

わかった、と私はついに叫んだ。

「満員電車に乗ったので、コロナに感染した」というのは、論理飛躍ということにします。だからこれは撤回です!

それでもわたしは許してもらえなかった。

どうもおかしいな、と最初に発言した子が言いはじめると、次々にその賛同者が増えていった。

「前日に雨が降ったので、野球の試合が中止になった」はおかしい、というのだ。

前日に雨が降ったからではない。
もっとていねいに言わなければならない。
みんなで順序を確認していくと、

①前日に雨が降り
②その降雨量がある量を越え
③あいにく水はけの悪いグラウンドで
④あちこちに水たまりがのこり、
⑤その水たまりが前夜のうちに地面に吸い込まれないままであり
⑥親たちがこの状態ではユニフォームが汚れるとクレームをつけ
⑦そのクレームを聞いた主催者も「子どもが風邪をひいてはいけない」と心配をし、
⑧中止をして翌週に試合を延期することも可能だという判断があり
⑨遠征にやってくるはずの他県の選手団にも無事に連絡がとれ
⑩他県の選手団が乗るはずのバスの会社もキャンセル料をとることなく延期を受け入れ
⑪翌週のバスの手配も無事に済み、
⑫予約していた弁当の手配もキャンセルができ、
⑬主催者、選手、バス会社、グラウンドの運営会社いずれにも支障がないことが確認され
⑭翌週の天気予報を確認したところおそらくやれそうだ、という判断をしたために

その結果、野球の試合が中止になっただろう。

ということになった。

「だから、雨が降ったから、というのは、かなり雑な言い方です」

これは、わたしの授業の進め方が悪いのだろう。
原因と結果、ということについて、わたしはもう授業をしたくない。

bg_baseball_ground

ハートにファイアのメロディで

ビリー・ジョエルをご存じだろうか。
甘い歌声、渋いマスク、印象的なサウンド。
日本のCMにも、たくさん彼の楽曲が使われた。
彼に関して、一番有名な出来事は、世界初のCDとして作られたのが彼のアルバムだったということかも。(ニューヨーク52番街)

そのビリー・ジョエルの人気曲で、「ハートにファイア(We Didn't Start The Fire)」というのがある。ご存じの方も多いでしょう。

この歌の面白い?ところは、歌詞の意味がないようにも思えるところ。
「ハートにファイア」の詩はアメリカ史が淡々と紹介されるだけです。

♪ Harry Truman, Doris Day, Red China, Johnnie Ray
South Pacific, Walter Winchell, Joe DiMaggio・・・

曲の出だしは1949年に活躍したり話題になったりした人の名前がずらっと続きます。
(ちなみに1949年はビリーが生まれた年)

しばらくこんな歴史上の人物や事件を示す単語がずらーっと続いた後、
「We Didn't Start The Fire(火をつけたのは僕たちじゃない)」とサビが続くのですが・・・

聴き続けていると・・・次第に、
なんとまあ、人間は飽きもせずにあれこれと事件を起こすのだろう、という気分になってくる。

♪ Joe McCarthy, Richard Nixon, Studebaker, Television
North Korea, South Korea, Marilyn Monroe・・・

この歌はなんと5番まであるのだけれど、とくに曲の後半部分はサビではなくAメロがどんどん盛り上がっていく流れになっています。そしてAメロの最後にビリー・ジョエルが、こう叫ぶのであります。

 I can't take it anymore
 もうこれ以上はゴメンだ!

そう、ここは “We” ではなく“I”ですから、
限りなく彼個人の心情を、自分の言葉で言った、という感じでしょうか。

なぜこんなことを思い出しているかというと、
先日、ふと学校の階段の手すりを消毒しながら、思いもかけず、この楽曲が頭の中に浮かんできたからであります。

(以下、ハートにファイアのメロディで)
♪ 窓、床、ノブ、子どもの机、フック、椅子、ロッカー棚、音楽室の椅子、図書室のテーブル、階段の手すり、理科で使う虫眼鏡、ブランコのくさり、体育のボール、跳び箱、鉄棒、一輪車、図書館の本・・・♪

子どもの手の触れる場所を消毒せよ、という指示ですから、先生たちは子どもたちが下校した後に消毒作業をするわけで、その場所を列挙すると、この曲の気分が合ってくるわけ。

それにしても、ウイルス感染対策をとるようになってから、学校の仕事はずいぶんと様変わりをした。

一番大きく変わったのは、授業の進め方だろう。
これまでは学習指導要領の改革にともなって、子どもたちが対話をして学ぶスタイルをすすめてきた。
ところが、それがマスクで声が響かないし、お互いにしゃべって確認することができないから、昔の一斉指導に逆戻りしてしまった。

子どもたちの遊び方も変わった。

タッチしない鬼ごっこや、ボールを投げたフリ、当たったフリをするエアドッジボールをやっている小学校もあるらしい。

朝の会で歌うと、なんとなく子どもたちの心が落ち着いていくものだ。
しかし、いまだに歌は禁止。

マスクを着けて歌ったらどうか、という意見も職員会議では出されたが、腹式呼吸でも肺式呼吸でも、大きな声を出すということになれば、子どもの呼吸の量ははかりしれない。熱中症を心配する声も同時にあがったので、そのままうやむやになっている。

おそらく、もうしばらくすると、教員の過労が問題視されるシーズンがやってくるだろう。
あるいは、教員の側にしわよせがくるか、子どもの側にしわよせがくるか・・・。
わたしとしては、教員側だけで収まってほしいと願うしかない。

ビリージョエル

体育の授業【幅跳び編】~3分前の自分を越える~

『自分を越えろ!』
というのが、走り幅跳びのテーマである。

前回の記録をわかりやすくしておく。
友達とペアで記録しあうようにする。
ところが、いちいちメジャーなどで測る時間がもったいない。
それで、砂場に何本もひもを敷いておく。それを目安にすればよい。

走り幅跳び


【具体的な指導】

班でゲームのようにする。
目標は次の2点。
〇片足でふみきる。
〇両足で着地する。つまり、両足でゴム紐を踏むと得点できる。

1.5mのゴム紐をふめば、15点。
2mのゴム紐をふめば、20点。
2.5mのゴム紐をふめば、25点。

班で合計得点を合わせて、点数を記録していく。

マスクで呼吸が苦しい子どもたち

頭痛など、熱中症らしき症状を訴える子が増えてきた。
校庭で遊ぶときは外してもいいけど、建物の中に入ったらマスクをつけることになっている。だから、2時間目のあとの休み時間に帰ってくる子たちは、息をはあはあ言わせながら、あわててマスクをつけている。顔がのぼせている。

だいたい、おにごっこがいけない。
なぜなら、走るからだ。
このご時世では、危ない。
小学生の休み時間の過ごし方は、一切、走らないのがのぞましい。
マスクをして息をはあはあ言わせるのは、熱中症の危険がある。

また、国語の時間が危険である。
音読をするからだ。
大きなはっきりとした声で、クラス全員で声をそろえて教科書の文章を読む。
すると、2ページほど読み終えたころから
「はあはあ」
という息の粗さが目立ってきて、

「先生、水をのんでいいですか?」
と訴える子が出る。

その子は水筒を口に運び、往年のカーク・ダグラスのように、ゆっくりと味わって飲む。そう、できるだけ、ゆっくり、と・・・。
その間は、マスクが外せるからだ。

というか、音読がいけない。
音読などをさせるから、熱中症にかかってしまうのである。

というわけで、今の小学校では、校庭でのおにごっこ、および国語の時間の音読を全面的に禁止にすべきである。

そうじもよくない。
なぜなら、聞き分けのよい子ほど、すみずみまで丁寧にそうじをしようとするからである。
そのため、腕を伸ばしてきゅっきゅっと床を力をこめて磨いたりする。
それで、はあはあ、となってマスクでの呼吸が苦しくなってしまうのである。
机などを持ち上げて運ぶのもよくない。もちあげて何個か運んだら、呼吸が荒くなってしまうからである。

閣議決定が待たれる。

『小学校で即刻禁止すべき事項として、次の3点を定め、東京五輪の開催日まで禁止するものとする。
1)そうじ
2)おにごっこ
3)音読


文科省ではこんなことはとうに討論しているはずだ。文科省のえらい人たちは、小学校の子どもたちの様子を毎日のように見に来ているはずだから。

マスクをしなければならない

【5年社会】あたたかい土地のくらし・沖縄ジュゴン

社会の授業。
子どもたちの意見が面白すぎて、毎回マスクごしに笑いをこらえている。

1つめは、シーサーの写真。
シーサーの部分だけを隠して表示すると、屋根の上になにかがある、と見える。
発問:ここに何があるでしょうか。
どうしてそう思ったのかも、理由を言ってください。

この理由が大事で、これまでの学習がその子なりに生きていることがわかる。

一人の賢い女子が、

「ハイビスカスの花だと思います」

と言ったのは印象的で、クラスの仲間から多くの拍手をもらっていた。

理由がまた秀逸で、

「沖縄は観光業がさかんです。そのため観光客に喜んでもらうために、南国の風景をみせようとしてハイビスカスの花束か、花壇を屋根の上につくっているのだと思います」

沖縄の産業が観光業を軸に成り立っていることを学習しているから、このような意見が出る。
もちろん、大きく褒める。

他にも色々出たが、台風が多いことから、風量計、雨量計というのも出た。
災害に備えるために、個人の家の屋根の上にもそういう計器類を設置するのだと考えたらしい。
これも理由に納得する、という子が多く出て、拍手をもらう。
同じように、屋根の一部がガラスになっていて透けて天気が見える、とか。
「スコールがくるから、ぱっと天気がわかるように」
だそうだ。
どうだろうか。子どもというのは直前の学習をこんなにも生かそうとするものなのである。われわれ大人も見習うべきだろう。

ところで正解はシーサーだ。
屋根の上に、ちょこん、とかっこよく乗っている。
子どもの中にはそれを知っていて、シーサーだと思います、と言う子もいる。
ところがわたしはもちろんそれを聞き受けいれたあとでも、さらに子どもたちの発言を促す。
正解が出ればおしまい、というのでは、上記のようなハイビスカスやら雨量計やらの珍解答はみんなで共有できないからだ。珍解答であったとしても、「社会的な見地からの情報をできる限り生かそうとして考えて、自分なりの答えを予想してみる」ことの価値は高い。

さて、その後にこのような写真を見せた。

ジュゴン隠れ


ジュゴンだということが分かる子がいる。
「名古屋港水族館におった!」
ちょっと岡崎から離れてはいるが、愛知県民なので、子どもたちもよく知っている。

しかし、3のつぎに描いてある記号が読めない。
「あれ、なんて書いてるあるの?」と質問が出る。

どこの国の切手だと思いますか?
「外国ー!」
みんな、外国だ、という。

ところが、上の部分のマスクを外すと、日本語が描いてある。
「?なんで日本語なのに、円じゃないの?」

わけがわからない。
徐々にマスクをはずす。
すると、左側に、1966 という数字が見える。
西暦だということがわかる。めっちゃ古い!と声が出る(笑)。
たしかに。君たちのお父さんお母さんたちが生まれるよりも、だいぶ昔ですね。

最後に「琉球郵便」という字をみせると、これもまたわけがわからない。
日本郵便、という言葉ならわかるが、これはいったいなんだろう?

ジュゴンそのまま


「実は、今でもジュゴンは沖縄に住んでいるそうです。」

というと、子どもたちはいっせいにおどろく。
ちなみに見せるのは、
今年の沖縄タイムスの記事(4月)だ。

ジュゴンの生息域を地図帳を使ってしらべてみると、基地工事の近くである。
そこから地図上で、基地がどれだけの面積にわたっているか、マーカーで色をつけてみる。
子どもたちはその広さに驚き、1966年の意味をだんだんと知る。
むろん、当時は日本ではなく、琉球政府、の土地であったのだ。

子どもたちの感想をノートで見ると、「知らなかった」のオンパレードである。
やはり、5年生では知らないのだ。アメリカと戦争していたことも知らない子がほとんどだ。
学ばなければ、なにも知らないまま、この子たちは大人になっていく。

記事検索
メッセージ

名前
本文
月別アーカイブ
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 累計:

プロフィール

あらまそうかい

RSS
  • ライブドアブログ