30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2020年05月

【小5国語】なまえつけてよ~認知理論哲学になっていく文学教材~

蜂飼耳さんの「なまえつけてよ」という物語。
授業のねらいは「登場人物どうしの関わりをとらえ、感想を伝え合おう」だ。

以下、授業プラン。

【第1時間目】
かんたんに全体の把握をめあてに音読をした。
その後、
登場人物をおさえて⇒あらすじ確認⇒場面分け

【第2時間目】
主人公「春花」の心情が表れたと思われる叙述に各自で線を引く。
「どこに線を引いたか」+「そこには、どんな心情が現れているといえるか」を合わせて発表。

この時間では、まず第一場面と第二場面の前半まで。
春花がなまえをつける、ということにワクワクしていること、
生まれて初めての体験に、不安も感じながら、それでも嬉しい気持ちでいっぱいなことを把握。

【第3時間目】
前時同様のことを、第二場面の後半で実施。
ここでは、春花以外の主要な人物『勇太』が登場する。
まずは、春花の心情をしらべる。

〇勇太に「すごいね」と言ってほしい。
〇一生懸命に考えている

つぎに、勇太の心情をしらべる。すると、
勇太は顔を上げて、ちらっと春花の方を見た。でも、すぐに目をそらした。
という箇所がある。

これを、多くの子が、「勇太の心情があらわれた」個所として考えた。

〇勇太は、ちょっと興味があったけど、でもてれくさかった。
〇勇太は、ちらっとしか見ていないから、まだ春花さんに対して心を開いていない。

また、こんな箇所もある。
「もう行こう」勇太はぷいっと向きを変えて、歩き出した。

これも、学級の子どもたちはほとんどが、勇太の心情が現れている、と考えて線を引いた。
そして
〇勇太は、まだ慣れていない春花に話しかける勇気がない。
〇勇太は正直、こんな話には興味がない。
〇勇太は人のことなんか気にしないわが道を行くタイプで、おまけに春花に関心なし。

などと感想が出た。
それらをすべて板書すると、勇太の心情が非常に冷酷なものに思えてくる。
勇太は春花を、ちらっとしか見ないし、
話しかけたのに、ぷいっとしてしまうし、
『勇太は空気も何も読めない、イカれた男子だ』(ノート原文ママ)、ということになった。

ところが、ある子が、
「最後に折り紙を渡してくれる勇太が、こんなに冷たいわけがない」
と疑問を呈したのである。

その疑問がでると、クラスのほとんどの子が、迷ってしまった。
たしかに、最後の第四場面でみせる勇太の、ちょっと小粋で乙女心をくすぐる行動は、ちょいとそこらのプレイボーイ顔負けの女殺しテクである。乱暴でガサツかと思った男子が、丁寧に折り紙を折り、名前を付けられず傷心している春花に「なまえつけてよ」。
これは、相当な手練手管であろう。春花が校舎の窓から彼をさがし、グランドでサッカーに興じる勇太をそっと見守る心境になるのも無理はない。

そのことと、イメージがちがいすぎるのですよ。
最初にみせた、いけずでちょっとツンツンした態度と
女の子の気持ちをやさしく汲んであげ、さらに気持ちに寄り添ってアクションを起こした彼の姿と。
整合性がとれない。
どちらが、彼の「真の姿」なのでしょうか。

・・・

まったく、学級が混乱してしまった。

わたし「どうする?わかんなくなったね」
みんな「読み直そう」

もう一度、そのあたりの文章を読み直してみる。
やはり、音読が大事だ。
ゆっくりと読んでいくと、重要な叙述が見つかった。
これで、なにもかもがハッキリする。

「今教えてよ、今知りたい」と陸が早口で言った。
この早口(はやくち)。
作者の蜂飼耳さんが、しっかりとひそませているこの叙述。ここに気づけるかどうか・・・。

この決定的なキーワードに、クラスのある女子が目を付けた。
なぜ、蜂飼さんは、陸に「はやくちで」そういわせたのだろう・・・。
灰色の脳細胞がすばやく点滅し、脳内のシナプスに電気信号を送り始める・・・

教室の中央付近、とある女子の目が光り、姿勢が動いた。
その姿勢の動きと、目の輝きの一瞬を、わたしは見逃さなかった。

「はい、Mさん!なにかひらめいた?」

Mさんがはじかれたように席をたち、堂々と述べた。

「これ、春花を救ってるんだと思います!」

え~・・・ざわざわ・・・

Mさんが説明する。
「勇太は、空気を読んだのだと思います」
シーンとする教室。みんなが固唾をのんで、Mさんの言葉を聴いている。

勇太は、だだをこねるような弟の要求に、春花が困ってしまうのではないかと空気を読んだ。
そして、若い母親が幼児の手をひいて、スーパーのお菓子売り場を去るときのように、
「ほら、いくよ、いくよ、そらそら」とその場を離れようとしたのである。
これは、周囲に機敏に目を配り、心を配っているからこそできる芸当であろう。
Mさんは、だいたい次のようなことを、一生懸命に説明した。

弟が春花に迷惑をかけないように・・・と思った、だからこその、もう行こう、だったと。それから、そのぷいっとというのは、あくまでも春花の目線で言っていること。そういう印象を受けたのはあくまでも春花であって、事実、勇太がぷいっとしたというよりも、勇太に対する期待が大きかった春花の側の、ざんねんな気持ちがそう見させた、ということかと・・・

〇〇目線。

でました。国語の研究授業で何度もお目にかかる、超有名な国語文章読解技法のキーワードです。
つまり、

ぷいっと
ちらっと


これらはすべて、春花の気持ちなのでした。
実際、人間が、ぷいっと横を向く、ということはできません。もし顔を向けた瞬間に、首のあたりから「プイっ」というような、そんなような音がしたら、事実そう書けるかもしれませんが・・・。


なーんだ。
だったら、この表現、勇太の心情を示すところだと思って線をひいちゃったけど、結局は春花の心情だったんだね。

子どもたちの出した結論:(人物の心情をとらえよう)
〇春花は勇太のことを、ガン見しすぎ。(原文ママ)
〇春花は勇太に過大な期待をよせすぎ。(原文ママ)
〇春花目線は強烈すぎて思い込み強すぎ。(原文ママ)
〇春花は自分の目線におぼれてしまって、勇太の本当の心の動きには気づけていない。(原文ママ)

すごいですねえ。
目線に溺れる。
大人でもできないようなブンガク表現を、平気で小学校5年生がノートに書いています。
認知とはなにか。哲学だな、こりゃ。

namaetuketekunro

職員室の歳時記

「もう、こんな季節になったか・・・」
と、独り言を思わずつぶやきたくなる瞬間って、誰にもあることだろうと思います。

今日、そんな、 季節の移り変わり を実感するようなことがありました。
職員室に、一本の電話がかかってきたのです。
「すみません、おたくの小学校の子が、用水路の栓を勝手に開けちゃって・・・」

帰り道。
田んぼに水を引き入れるために、用水路の水量調節をしている栓を、勝手にいじってしまう子がいるのだ。
そのせいで田んぼに水が入っていかず、時間になっても予定していた水量にとどかないとのこと。
「田んぼの持ち主どうしで、お互いに予定もあるんでねえ。こっちは大変な迷惑ですよ」
教頭が、必死になって頭を下げている。
「今から、現場を見に行きまして、明日にもさっそく、全校の子どもたちに指導を徹底いたしますので・・・」
電話に向かって、90度に腰を折り曲げて、謝罪している。

話しが終わり、教頭が受話器を置くのを見て、わたしの隣に座っていた年配の先生が、
「あー・・・」
と、あったかいお茶を飲み干した時のようなため息をついた。
そして、
「いやあ、もう初夏なんだねえ。毎年のことだけど」
わたしがきょとんとしていると、
「いや、こんな電話がかかってきてサ・・・」
先輩は、教頭をチラりと見、
その後、深いため息をついて、目を閉じると、
「子どもが用水路の栓を開ける・・・、電話がかかってくる・・・。そして、教頭があやまる・・・これでやっと夏が来るな~ってね。実感するんだよネ・・・」

先輩は、ほおづえ姿で、心から柔らかい笑みをうかべて、そう語ったのであります。

開ける、かかる、あやまる。
るーるーるー♪


そういえば、と私は思い出した。
同じように、ある季節を実感できる出来事が、ある。

冬。
ああ、いよいよ冬だよなあ、厳しくなるぞ、と思う頃。
この時期の話題は、学校のビオトープ池に、2年生が落ちた、というやつでして・・・

霜が降り、空気が凍てはじめる頃、2年生の先生は、
「さあ、今年の第一号は誰かねえ」
と、心の中で、予想をする。
自分のクラスだと、大変だな、とチラッと思う。
同時に、
「落ちた連絡⇒バスタオルもって駆け付ける⇒引きあげ⇒保健室⇒ストーブで暖める⇒替えのズボンとパンツ⇒保護者の連絡帳にパンツ洗濯依頼⇒説教」
という、一連の流れをシミュレーションするのでありますね。

しんしんと冷えた朝、
「せんせー、氷が割れて、〇〇くんが落ちたよっ!」
職員室に、こんな子どもの声が響くと、
「ああ、本格的に、冬になってきたなあ」
としみじみ、思うのです。
(そろそろスキー板、出しておかなきゃな)

わたしは、遠方に見える山の雪がとけてきて、ずいぶんと色が黒く見えてくると、ああ、冬はもう過ぎたのだなあ、ということを実感します。

目の前の桜が散りはじめ、道路に桜の花びらが重なり落ちているのを見ると、次にやってくる、さわやかな新緑の季節を感じます。

職員室では、今の時期、用水路へのいたずらが旬な話題というわけで・・・・また、世間とはちがった歳時記が語られている、ということであります。

春の用水路

【GIGAスクール】ZOOMでの授業の前に

文科省が前のめりで導入しようとしている【GIGAスクール】。
2020年5月11日 学校の情報環境整備に関する説明会が

YOUTUBEで紹介されるや否や、全国の教員に衝撃が走っております。

ところで今、コロナ禍のピークが過ぎたという印象がマスコミを中心につぶやかれるようになり、学校も都道府県によっては再開されつつあります。
文科省がGIGAスクールを唱えたのは時すでに遅し、ということでしょうか?
いや、そうではありません。むしろ、このタイミングで出さなければなりませんでした。もしもここで手をこまねくか、あるいは安心して無策になってしまったとなれば、次に来るパンデミックに対応できないからです。

遅かれ早かれ、GIGAスクールは実施されるでしょう。そして、教員はそれに対する【備え】をしなければなりません。

わたしはその備えとしてもっとも大切にすべきだと思うのは、今の授業の改革です。
すでに改革は始まっており、(実は、もう10年以上前から始まっていると思う教員が大多数だと思いますが)その改革をし終えなければならないことが、今回のコロナ禍によって明らかになったのだと思います。
その改革とは、「学びは子ども主体であること、子ども発で考えること、子ども発のプロジェクトになること」です。実は、そのことと、個別である、ということが、イコールにはなりません。ここが難しいところです。

子ども主体で考えることは、子どもを個別にするとは限りません。むしろ、子どもの脳が活発に「思考」をめぐらせるためには、個別であるよりも、同じような点で疑問を持つ仲間が必要になります。教室で一斉授業をするメリットは、この「同じような課題を共有できる仲間と息を合わせるようにしてダイナミックに思考をめぐらせる自由さと楽しさ」にあります。次の「学び」へと向かう意欲は、この「仲間と共に考えることの楽しさ」が背中を後押しすることが多いのでしょう。

ところがパンデミック時においても、そのダイナミックさを少しも損なわずに実現することに、まだ多くの教員たちは自信をもっていないと思います。各家庭の子どもたちとともに、思考発展の自由さや楽しさをけっして無くさないで、授業を進めるという点について、オンラインでの経験が少なすぎます。(オンラインでの経験のない教員がほとんどです。特に公立小学校では・・・)

さて、ここからは長年小さな会社を経営してきたわたしの叔父に登場してもらいましょう。
わたしの叔父はすてきなロマンスグレイのわりとイケメンなスポーツマンです。
10~15人程度の小さな事務所を経営し、なによりも従業員の家族も含めて非常に家族的な経営をしてきた方。自分の給与を減らしても家族同様の従業員に渡す給与を1000円でも多く、と心がけてきた、今の日本に非常にたくさんいると思われる典型的な70代です。

ときおり、日本の政治についてや社会情勢について話し合うので、今回もその叔父と話しました。

叔父「GIGAスクール、大至急進めてほしいものだね。子どもが家にいたとしても、勉強できないわけじゃなかろう」
わたし「本当にそうです」
叔父「とくに勉強ができる子なんてのは、どんどんと課題をこなして進んだらいいじゃないか。この際、飛び級も認めたらいい。政治だって自由な特区をつくって今までの利権構造を打破しただろう。やる気のある子はどんどん飛び級させろ」
わたし「叔父さんは飛び級が大好きですね。それは置いといて、子どもたちは仲間と共に学んでいくのですから、GIGAスクールで自宅での学習ができるようになったとしても、今の学級やクラスの枠組みは同じですし、仲間といっしょに知恵をしぼって考えていくスタイルは変わらないですよ」

わたしは午後のやわらかい陽ざしを受け、紅茶ポットからカップに注ぎながら言いました。

叔父「そんなバカな。もう個別でいいじゃないか。子ども発ということは、一人ひとりの子どもから発する課題ということだろう? その子自身がその子の意思でもって調べたり考えたりしていくことだろう。個別でやれるだろう。やればいいじゃないか。いや、むしろ、個別だからこそ学ぶ効率もあがると思うな」
わたし「おじさんは効率が大好きですね。それは置いといて、子どもたちの頭がいちばん活性化するのは、同じ課題を考えあう『話し合い』なのだという研究結果があります。話し合いといいながら、実はたくさんのさまざまな意見を『聴きあう』体験です。話し合いというより聴きあいですね。その聴きあいを通して自分の頭の中を何度も「再構成」し、自分の納得するひとつの解にたどりつく、というのが授業ですから、完全に個別でいい、ということでもないのですよ」
叔父「GIGAスクールはすべての子どもに家庭教師をつけるようなものだと思ったが。違うのか?・・・それはともかく、お前のいうことをするのだったら、ZoomかLarkかteamsで、全員が会議に参加しなくてはならないな。ぶっとい光回線が必要になるぞ」
わたし「光回線ですか、・・・叔父さんはインフラ投資が大好きですね。それは置いといて、ZoomかLarkかteamsでも、授業はなかなかできないのではないか、というのがわたしの見解です」

叔父さんはロマンスグレイのまだ豊かな髪をかきあげながら、心配そうに言いました。

叔父「なんでだ。だったらやっぱり、目の前に人を集めなきゃいけないじゃないか。コロナの第二波がきたらどうする。ザ・エンドだぞ。・・・いや、ジ・エンドか」
わたし「叔父さんはザ・〇〇、というのが好きですね。それは置いといて、そうなんですよ。問題はまさにそこです。わたしが感じている問題点は、授業は生ものである、ということです。ZOOMの画面で、子どもたちが生き生きと反応しあえるためには、担任が子どもたちの表情をよく汲み、興味や関心の高まりを感じ取りながら少しずつ課題を整理し道筋をつけていかねばなりません。その道はこうしかありませんという上意下達的なものでなく、子どもたちに聞きながら、こんな課題でいいかなとやりとりしながらつくりあげていくものです。それがZOOMの画面でできるのか・・・」
叔父「なんだそんなシステム上のことか。そんなの、体育館で巨大スクリーンをみながら担任がやればいいじゃないか。30人くらいの表情ならぜんぶ見渡せるだろう。そうだな、差し渡し、10m×10mくらいのスクリーンで・・・予算は・・・」

叔父さんは空中をにらみつつ、指を折って考えています。

わたし「さすが零細企業の社長。いうことが違いますね。そんな巨大スクリーンを買う予算なんて市にはありませんよ。マァ、予算は置いといて、子どもによってさまざまな課題を抱えているのが実際ですからね。なかなか意見を言えなかったり、正解を気にしすぎていたり、自分の意見を言うだけ言って聞かない子とか、考えはあるのにその場で出せない子とか。目の前にいればすぐに担任が何かしらのフォローを入れたり、あるいはそのフォローのあり様(よう)そのものについて他の子にも考えてもらったりするところですが、ZOOMの画面を子どもたちが駆使して他の子の表情を読み取ろうとすることができるかというと、なかなかちょっと・・・。実際に友だちの近くにいてその子の顔を見るのとでは、ずいぶんちがうでしょうね」
叔父「零細企業の、は余計だぞ!・・・しかし、なるほど。じゃ、やっぱりZoomかLarkかteamsだけやっていてはだめだな。実際に会うことに意味がある、ということか。では第二波がやってきた暁(あかつき)には、全員防護服を着用して校庭に2m間隔で並び、巨大スクリーンで授業をするしか・・・」

叔父さんは大きな身振りでスクリーンのような四角をかくしぐさをしました。

わたし「叔父さんは本当に巨大なものが大好きなんですね。まあそれは置いといて、実際にはごく少人数の5、6名のグループを基本にして、学級全体を15~18名程度とし、感染症拡散の度合いをグレード化したうえ、最少数の5,6名で登校するパターンと、最大数の15~18名で登校するパターンを情勢をみつつ微調整して登校するのが一番いいのではないかと思います。いえるのは、もはや今ある教室で過密をふせぐためには、教室空間そのものを広げるか、あるいは人数を減らすしかない。教室を広げるのはほぼ不可能ですから、学級に所属する子どもの人数を減らすしかないと思います。そして、その少人数で子どもたちが自分たちで立てた計画に沿って課題追究していくのが現実的なストーリーかと思いますね。その一方で、自宅でのZOOM学習も補完的に組み合わせていくのが筋かと考えます」
叔父「いや、無理なことはない。100兆円ほど紙幣を印刷すれば、校舎を改築し、教室を2倍に広げる工事なんか簡単にできるだろう。安倍政権ならやってくれると信じるぞ・・・いや、紙幣を刷るのは麻生さんかな・・・。なんならわが社も参入してもよい!うちの会社は、水道工事ならできるからな!」
わたし「さすが叔父さん!そうこなくっちゃ!(白目)」


さて、どうなるのでしょうか。

蜂にジュースを

5月の連休中、庭仕事をしていると、
ぶーんという羽音が聞こえました。

ふと顔をあげてみると、なんと、でっかいスズメバチです。
スズメバチの顔を、間近に見てしまいました。

やや、図鑑と同じや!
でかい、でかすぎる!

すぐに畑の方へ、飛んで行ってしまったので、安心しました。
どこまで行ったかと目を凝らしてみたら、
遠くの方へ飛んで行っても、まだ見えてるんですね。
50mは遠くにいったか、と思ったけど、まだ黒い点として見えている。
おそろしいと思いました。そのでかさに。

昔の人が、スズメと見間違ったという伝説がありますが
「それもありうるな。あれだけでかいなら」と変に感心しました。

理科の先生から、
「春の蜂は女王バチ。夏の蜂は、働きバチ」
と習ったことを思い出しました。

蜂のトラップをつくる人がいますが、4月~6月初旬の女王バチをとらえるのには、効果があるかと思います。でも、6月下旬以後はやめておいた方がいいです。逆に、周囲から働きバチをよびよせてしまいます。
4月から6月中旬までに仕掛けておいて、そこで終え、回収してしまうのがいいですね。それだけでも、周囲にでかいスズメバチの巣ができたり、ぶんぶん飛び回ったりすることにはならないでしょう。・・・と思います(=_=)。

昆虫のことを教えてくださる師匠によれば、
「蜂はみんな人類の味方だ」
とのことで、ミツバチはおろか、アシナガバチも害虫を食べてくれる益虫だし、スズメバチも生態系をまもってくれている益虫だそうで、
「蜂の巣を退治するのは、本当なら必要がない」
と言ってました。

そうして興味をもって調査していると、自宅の庭に、けっこうな数の蜂が飛んでくることがわかりました。どうも、ここいらに巣をつくろうとしているのではないだろか・・・。

嫁様の依頼もあり、結局トラップをつくることにしました。連休ならではの取り組みです。

そこで、効果的な蜂トラップの作り方を、小学校の理科専科の先生に電話で聞いてみました。

「いれものは何がいいですか」
「ペットボトルがいいんじゃない。大きさは何でもいいよ」
「500ml でも、2Lでも、どっちでも?」
「大きさなんてなんでもいいよ。どんな大きさだってとれる」

どうやら、大きさはなんでもいいそうです。

「ああそうですか。じゃあ、何を入れるのがベストでしょう?」
「なんでもいいよ。あまいやつ」
「なんでもいい?・・よく酒とか焼酎とか聞きますが」
「酒なんて高いの、入れなくていいよ。ジュースで十分」

この理科の先生、理科の道をひたすら歩んできた天才的な人なのですが、
「なんでもいい」が口癖のようで、大きさも中身もなんでもいい、とのこと。
本当かなあ・・・(不安)。

わたしはこれまでに、蜂トラップというのは、焼酎を使うんだとばかり思っていた。
カブトムシは、バナナを焼酎につけておいたものが大好物で、数百メートル周辺から、カブトムシがそれへめがけて集まってくるのだ、ということを聞いたこともある。

念のため、理科の先生に尋ねてみた。
「先生、焼酎が要ると思ってたんですが、本当にジュースだけいいんですか?」

すると、案の定、酒は不要、と断言する。

「だって、酒を蜂に飲ませるなんて、もったいないでしょう」
「たしかに」
「酒は自分が飲んだ方がマシ!酒は、人間が飲むもの!蜂にはもったいない!」

ジュースは何が良いかと聞くと、即答で

「ぶどうのなっちゃんがイイ。あれは果汁が20%あるし。保存料もつかってないから酸化してアルコール発酵しはじめる気もする。ミツバチは寄ってこないからさらによろしい」

だとのこと。
よろしいでしょうか。小学校というのは、なかなかの専門家がそろっているものです。
考えてみれば、国語の専門家もいれば、算数の専門家、そして理科、音楽、体育、社会、その他、人間生活のさまざまなことに関する専門家がいます。小学校、という組織には・・・。

その理科の先生のお墨付きです!
なっちゃん!ぶどう味!
これだけで、アシナガバチとスズメバチがとれるそうでっせ(伝聞)。
(本当かどうかは、これから実証試験してみます)

budou


ペットボトルの例)↓
12

胸に残る大好きなゾンビの残像

非常事態宣言を受け、学校は臨時休校中だ。
しかし、実際にはやむにやまれぬ家庭の事情から、自主的に登校する子どもたちがいて、全職員で対応している。

自主的な登校をする子たちは、わが校の場合、低学年を中心に数十人。
感染防止のため、2mの距離をとり、各自で自習する。弁当も無言で離れて食べることになっている。
私は5年生の担任だが、1年生のところへ行ったり、3年生のところへ行ったりと、日替わりでいろんな教室をまわっている。

自習することになっていても、そうはいっても低学年だから、しゃべりたくて仕方がない。
また、ドリルなんてすぐに飽きちゃうから、なにかにつけて話しかけてくる。

ある2年生の女の子は、わたしが教室に入ると、退屈で仕方がなかったらしく、指でピストルをつくって、

ばーん!

と撃ってきた。

わたしは、反射的に、
『撃たれて気絶するかどうか?』
迷った。

しかし、ここで倒れてしまっては子どもたちを監督することができなくなるため、死ぬわけにいかない。
そこで、とっさに自分は不死身だということにした。

ばーん、と撃ってきた弾が、わたしの鉄壁のボディに当たって

カキーン!

と跳ね返った、というふうに手真似をし、

「弾ははねかえりました!体が超合金(ちょうごうきん)でできているから!」

と説明をした。

すると、その子は「ふうん」という顔つきで、

「うちのパパは、ちゃんと死んでくれるのに」

とぶっそうなことをつぶやいた。
その少女の目は小魚の生きた形を描くようなふうによく動いて、わたしをじっと見、

「もう一回、撃つから、今度は死んでね」

とわたしに考える隙を与えず、すぐさまギャングのように片目をつぶって、二発目を撃ち込んできた。

バーーン!!

今度はもう言われるがまま、わたしは壁にもたれかかってガクッとしてみせる。

彼女は「よし、死んだかな」と改まった口調で言い、
「これで誰にも邪魔されずに仕事ができるわい。ハッハッハ」
と、不思議なセリフをつぶやいた。

わたしはこのあと、どうしたらよいのか、見当がつかない。
うす目をあけると、彼女はドリルをやりはじめている。
この教室には都合4人の子がいて、各自で課題に取り組んでいるのだが、ギャング少女の他には算数をやっているのが一人、もう一人は読書にふけっていて、最後の一人は漫画のイラストを書き写していた。

しばらくそのままでいたが、何も起きないので、わたしはすっと背筋を伸ばして立った。

すると、ギャングが怪しむようにこちらを見、

「あ、生き返った。ゾンビだ」

と断定するように言った。

わたしはすっかり気を取り直しており、自分が教師だったことを思い出したため、
「ゾンビではありません」
と、すげなく返すと、

「ふうん。家だとパパはゾンビになるんだけどな。で、追いかけてくるよ」
「へえ、追いかけてくるの」
「そう、こうやって・・・(手をぶらりと前へ出して)で、うちは逃げる」

彼女はそのことを思い出したのか、少し愉快そうな感じで

「さいごは、つかまって、お前もゾンビだーって言うよ」

わたしはお父さんが娘に撃たれてから、ゾンビになって追いかけるさまを想像してちょっと笑った。

「へえ。そうなんだ。で、ふたりともゾンビになったら」

わたしは気軽に尋ねた。

「こんどはふたりでお母さんを襲撃するの?」

すると彼女はかぶりを振り、

「ううん。ママはお仕事だから。今日は二人ともお仕事」

なるほど。だから学校へ来ている、というわけだ。
ははあ。べつに聞く気はなかったけどネ。
臨時休業中に登校してくる7歳の子の、家での一コマが、ちょっと垣間見えたようで。

最近、よくゾンビになってくれるお父さんも、今日はお仕事だったのだ。
そして、その子はつい、学校にいる、なーんて気分にはちょっとなれず、
パパのことを思い出しながら教室にいたんだナ。

で、何度も頭の中で、パパを撃ったときのことや、殺したときのこと、
パパがゾンビになって追いかけてきたときのことなんかを、
ずいぶんと頭の中で、愉快さを覚えながら、くりかえし、リフレインしていたのだろう。

時間になったために次の先生と交代するとき、別の男の先生が入ってきたけれど、その子はもうバーンとは撃たなかった。おそらく、わたしの登場したときがちょうど、パパの残像が脳内に再生されていて、気持ちも高まっていた最中だったんだろう。

fantasy_zombie_man
記事検索
メッセージ

名前
本文
月別アーカイブ
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 累計:

プロフィール

あらまそうかい

RSS
  • ライブドアブログ