30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2019年06月

【6年理科】消化のしくみとはたらき

本時の授業は、消化管の授業である。
実際には魚の解剖などができると良い。
その前に、消化管や消化のしくみそのものに興味をもつために、本時の導入を行う。
学習問題をたてつづけに4つも出すので、一つひとつをテンポよく、次々に出して行う。

【学習問題その1:動物によって食べるものは決まっているか】

・きまっている 17人
・きまっていない 10人
・きまっている動物ときまっていない動物がある 8人

「ほとんどの動物はきまっていると思う」
「たとえば、うちの金魚はニンジンを食わない」
「うちの文鳥も、ニンジンは食わないと思う」
「おれも食わない」「つかさ君は人参食ったほうがいい」
「うちの犬はなんでもくうような気がする」
「カラスはなんでも食いそうだなー」

理科動物の食べ物と量
【学習問題その2:肉食動物の口のつくりと草食動物の口のつくりはちがうだろうか】

・ちがう 35人
・おなじ 0人

「犬歯とかあるから」
「人間にも犬歯あるよ」
「アリクイには犬歯がないらしい」「なさそう」「まじか」「アリクイってなに?」「アリ食うやつだ」「蟻だけって・・・そんだけじゃ、足りなくね?」「大量に食うんだよ」「えー、蟻かわいそう」

ライオンの口のつくり
馬の口のつくり
猿の口のつくり

【学習問題その3:シロナガスクジラは大量のオキアミを食べるが、口のつくりはどうなっているか】

・ペリカンみたいにすくいあげてると思う
・海水といっしょに飲む(で、その後に吐き出す)

「いっしょに吐き出すときに、オキアミも出ちゃうじゃないの」
「なんか網みたいなのがあって、それで濾してると思う」
「網じゃなくて、ヒゲ、というか、口の中に生えている頑丈な毛みたいなので濾す」

【学習問題その4:肉食動物と草食動物の腸の長さはちがうだろうか】

・ちがう 35人
・同じ 0人

どちらが長いだろうか。

・肉食動物 10人
・草食動物 25人

「だって、人間だって肉を食い過ぎると胃がもたれるし、消化できないから、肉食の方が長いんだよ。時間がかかるから」
「草の方が消化に時間かかりそう。牛とかは、けっこう固い草みたいなのを食べるから」
「どっちかな」

はい、ヒント。生まれてしばらくは草食動物で、大きく育つと肉食動物になる生き物がいるよ。

「カエルだ!」

そうだね。では、どちらが長いか、資料をどうぞ。

おたまじゃくしの腸2

(まとめ)
カエルよりもおたまじゃくしのほうが腸は長い。消化管は、消化にかかる時間が長い草食動物の方が長いということが分かった。体のつくりも、口のつくりも、食べ物によってかなり違うことがわかった。食べ物を食べやすいように、生き物の身体はつくられている。


【運動会の組体操】無くならない理由

かなり、減ってきたらしい。
全国的には・・・。


しかしそれでも、まだ組体操は行われています。
巨大組体操が無くならない理由は、
それがショーだから、です。
先生たちは少なくとも、見に来られたお客様を満足させなければなりません。
先生たちは、大きなプレッシャーと共に、
そう思い込んでいます。

ショーである以上、運動会の演技種目は、お客様のご要望にかなうものかどうか、という点がもっとも重要なのです。

だから、そう簡単に、無くなりませんネ。

undoukai_pyramid


高い塔、高いピラミッド。
完成した時に、思わず会場を包み込む、「オーッ!」というどよめき、歓声。
そして、鳴りやまない拍手!

そこに先生たちは、ようやく安堵のため息をもらすのです。
事故が無かったことの安心感と。
保護者から責められなかった、という安心感。
その2つの安心感によって、ため息が出る。


高さ、でなく、見事な演出によって、拍手がもらえたら一番良いのですが。

なかなか、保護者の目線も厳しいです。

「劇団四季くらいの演出が欲しい」

ズバリ、保護者の本音でありましょう。

小学校の教師にはその演出が無理なので・・・、思わず、手を出してしまう。
「高さ」に挑戦してしまいたくなる。
それが、人情です。


「昨年に比べたら、たいしたこと、なかった」

これが、一番、先生たちにぐさりと突き刺さる一言でしょうな。

麻薬じゃないけど、思わず、「高さ」に、手を出してしまいたくなります。

昨年を上回る、歓声を。拍手を。

保護者からの承認欲求!

それが、教師の心情ってもの・・・(いや、そんなもんではない、と信じよう。やはり、子どもたちの成長が一番の目的ですよね、うん)。

【6年社会】平安時代の終焉と平清盛の登場

前回、平安時代の貴族たちのぜいたくな暮らしを見てきました。
藤原道長と言う人が、最高権力をにぎったのでしたね。
その都の貴族たちの暮らしを懸命に支えていたのは、貴族以外の平民(百姓)でした。
税をきちんと、それもたくさん、納めたのですね。
だから貴族は暮らしていけた。

しかし、だんだんとそれが続かなくなります。地方では反乱もあったし、災害もたくさん起きました。平安時代は長く続き、日本風の文化の基礎がつくられた重要な時代です。貴族たちが毎日のように歌を詠んだり宴会をしたりしなければ、日本風の庭園も造られないし、かな文字だって生まれなかったでしょう。あの文学の大作、「源氏物語」だって、この世には生まれていないはずです。

しかし、都に豪奢な貴族文化が栄える一方、なかなか政治自体はうまく整わず、国全体が苦労した時代だったのです。

もっとも苦労したのは、平民です。
貴族ではない、ふつうの人たち。
たいへんに苦しい生活でした。

不思議なのは、この時、農民たちにとって、すごく良い法律ができていたんです。つくったのは、聖武天皇。法律の名前は、「墾田永年私財法」です。

これ、すばらしい法律でした。
自分で耕した田んぼは、自分のものにしていいよ、という内容で地方の農民たちにとってはずいぶん都合が良いはずですよね。だって、都に納めるべき税だけきちんと納めればいいんで、あとは自分の田んぼを増やして、自分たちのために収穫していいんですよ。すばらしいじゃないですか。

これまでAの田んぼで暮らしていたのだったら、Aの田んぼでできるお米は税にして都に出す。
同時に、Bの田んぼをがんばって開墾し、次の年からBの田んぼでとれたお米は自分たちでたくさん食べたらいいんですよ。豊かになりますよね。

こんないい法律ができていたのだから、反乱なんて起きないはず。
でも、実は地域では凄惨な暴力と圧政が始まっていました。
なぜ、悲惨な争いがあったのでしょうか。

「開墾した土地を、自分が開墾した、ということにして取り合ったから」
「少しずつ開墾していたら、途中から誰かほかのひとが開墾のつづきをはじめちゃったから」
「結局、長い時間のうちに誰の土地なのか分からなくなってきちゃったから」

なるほど。
そういうことも、あったかも・・・。

実は、土地の開墾をする、ということは、大工事が必要なのですよ。
田んぼには水が要ります。だから、近所に川があればいいけど、もし無ければ、どこかから水をひいてこなければならない。一番近くの川の流れを変える、水を引く、ということをしなければなりません。みなさんだったら、明日からどうぞ、といわれてやれますか?

「やれない」
「ブルドーザーとかがないと」

実は、この法律、「墾田永年私財法」は、貴族だけが得する法律、だったのです。
都のお金持ちの貴族が、たくさんの人を雇って、川から水をひくなど大工事をして、地方の土地を開墾しました。そうしてできたのが、「荘園(しょうえん)」です。

ほとんどのふつうの人たちは、自分の土地を持つことができませんでした。
地方に住む人たちが開墾するなんて、なかなかできることではなかった。道具もないし、暇もない。時間も金もある、一部の「お金持ち」しかできないことだったのです。
おまけに、貴族たちは自分の荘園を増やそうとして、ふつうの人たちがもともと持っていた土地(口分田)にも手をつけはじめます。

「なあ、お前が今耕している田んぼ、あれは俺の土地、ということにしておけよ。そしたら税金を納めなくてもいいぞ。どうせ都に税金を納めるんだろ?それを安くしてやろうじゃないか。今まで10俵を税にして出していたなら、俺の荘園ということにして、8俵を俺に直接払えばいい。これまでよりも、2俵分たすかるだろう」
なんて言って、荘園の中に組み込んでしまう。すると、政治を支え、都を支えるための税は納められなくなり、貴族個人のための「貢物(みつぎもの)」を生み出す土地だけになります。

だから、当然、貴族たちの土地だけが増えていく。
金持ちはますます金持ちに。そうでない人の田んぼは、増えません。

一見すると、よさそうに見える法律があっても、実際はますますひどい状況になっていく。

しかし、農民もだまっちゃいない。
開墾したら、自分の土地のはずだ、と協力しあいます。
地域のみんなで頑張って、じいちゃんもばあちゃんも、お父さんもお母さんも、隣近所のみよちゃんもさっちゃんもけんたろうくんも、みんなで協力して、土地を開墾したとします。

「俺たちの土地!みんなでつくった大事な田んぼや!」

しかし、気に入らないのは貴族です。貴族の部下が荘園を見回ってまして、ふと気づく。
あれ、こんなところに新しい田んぼができたな。けっこういい土地じゃねーか。と。

貴族の手下「おい、この土地はだれのものだ?」
農民「わたしたち地域の百姓が共同で耕した、共同の土地です」

貴族の手下は驚いて、なんとかこの土地を自分のものにしたい、と陰謀をめぐらす。

貴族の手下「いや、この近くに流れる川から、すぐそこまで水をひいてきたのは俺たちだ。お前たちは田んぼに水を入れているようだが、川の水は俺たちがひいたんだから、俺たちのもの。だからこの土地も、半分は俺たちのものだ」

なんという難癖でしょうか。

泣く泣く奪い取られて、結局は貴族に雇ってもらうことにします。
もう、手下になった方が得なんですね。
貴族に対抗するの、疲れるばかりで、下手すれば殺されてしまいますから。
貴族の手下に加わって、それ以上いじめられないようにと、ぐっとこらえて生きるわけ。

日本全国がこのようになり、もともと日本全国が朝廷の土地、ということでやってきたのに、気が付いたらもう9割以上が貴族の土地になってしまっていて、朝廷の土地は「立つ場所さえ見つからない」と文献に書かれるほどになりました。


A村付近は、藤原〇〇の土地。
その隣の村は、嵯峨〇〇の土地。
その下の村は、橘〇〇の土地。
・・・

すると、川の近くの土地を欲しがってお互いに交渉したり、川の流れが変わったとたん、土地の境目のことでもめたり、取り立てる収量を急に重くした貴族を恨んでわざと耕作を放棄したり、放棄された土地を勝手に耕して自分のものだと言い張ったり、と

まあ、だれがだれの土地なんだか、みんな疑心暗鬼な状態で過ごすようになりました。

武士の登場です。
堀や塀をつくって、きちんと畑や住居を囲い、けんかになったら戦えるようにしていきます。
馬術が得意だったり、弓が得意だったりした者は、貴族に雇ってもらってボディガードや見張り役でお給料をいただくようになりました。

自分たちでつくった簡素な鎧(よろい)のようなものを身に着け、長い槍のようなものを持ち、ふだんは畑を耕すために働いている馬の背に、鞍(くら)もつけて、乗るようになります。

これが、武士の起こり、です。

有力な貴族には、強い武士がボディガードにつくようになります。
京都の都にも武士を連れて来て、自分の邸宅に配置させ、貴族がボディガードの強さをステイタスとして誇るようになりました。

貴族A「俺のボディガードしてる武士、すごい弓がうまいのよ」
貴族B「へえ、俺の雇ってる奴もまあまあ上手いけどね。そいつ馬はのれるの?」
貴族A「馬もすごいのよ。流鏑馬(やぶさめ)とか、百発百中だから」
貴族B「そりゃすごいねえ」

貴族は部屋の中で暮らしますが、田舎から連れてきた武士は、いつも庭の隅に控えさせていました。そして、部屋の中から

「おい」

と貴族から声をかけられると、勇んでかしこまり、御用をうかがうわけです。
貴族に気に居られないと、ダメですからね。お金ももらっていることだし。


さて、貴族たちの呑気な暮らしが、いよいよ終焉を迎える季節になってまいりました。
貴族の身の回りに、武士が生活するようになりました。
平安時代が、いよいよ末期に近づいていきます。


平安時代の末期は、世の中が「末法の世」と騒がれていた時代です。
貴族たち、表向きは平気な顔をしていても、なにか心の中に、大きな不安を抱えて生きていたのです。

864年から866年にかけては富士山の噴火があり、都でもそれが大きな話題になりました。
869年(貞観11年)には、東北地方を襲った大地震と大津波がありました。貞観地震です。
東日本大震災と比べられるこの地震の被害は甚大で、東北の土地を去った多くの民は、

「都なら食える」

と、京都に大量に移住しました。
しかし移住した先の京都で伝染病が流行り、多くの被害が出ました。

ざっと年表にすると、

794年 平安京できる(このころからもう遣唐使は実質、行かず)

867年 別府鶴見岳、阿蘇山の噴火。
868年 京都で有感地震(21回)。
869年 肥後津波地震、貞観大地震⇒京都の人口増(移入)。
871年 出羽鳥海山の噴火。
872年 京都で有感地震(15回)。
873年 京都で有感地震(12回)。
874年 京都で有感地震(13回)。開聞岳(開聞岳=鹿児島県)噴火。
876年 大極殿が火災で焼失。
878年 関東で相模・武蔵地震。
879年 京都で有感地震(12回)。
880年 京都で地震が多発(31回)。

「なんでこんなに天が怒っているのか」

それに答えたのが、仏教です。

「もうすぐ、『末法』の時代がやってくるんです」

もう、この世は終わりだろう、というじわじわとくる残念な予感。

ひたすら、あの世の極楽浄土を請い願う、というわけで・・・。

平等院
宇治平等院、ご存知のとおり、10円玉、です。

さて、都の人たち、貴族たちの不安はますます増大していきます。

最初のピークが訪れました。
それは、都の政権争いに端を発したものでした。

その名も、「保元の乱(ほげんのらん)」。
京都の都が、戦火につつまれます!

次回、平清盛が登場です。

『虐待・いじめ・強圧』をどう考えるか

虐待してしまう、というのは異常である。
また、人をいじめる、ということも異常。
強圧的に人に接することが癖のようになってしまうこともある。
もし仮に「他人を自分の意の通りに操縦できない」という状況に陥った時、血圧が上がったり、大きな声で叫びたくなったりと、精神的に興奮してしまうというのは、異常な状態である。

なかには机の上のガラス瓶をこなごなに打ち砕く人もいる。
お皿を投げたり・・・
怒りに身をまかせて、衝動的に物を壊し始める。
これはたしかに、正常ではない。

読者は、「異常」という言葉について、どう思われるだろうか。
「異常」という感知の仕方ができる、そのこと自体が人間としてのリカバリ本能なのだろう。子どもを虐待しても正常、というようにしか認識できないようなら、ヒトはもう、「種(しゅ)」としても存続していかれなくなる。つまり、もしかしたら子を痛めつけている今の自分の状態は異状なのではないか、と自省できること自体、正常、ということだ。

自分が異常かどうか、ということについて、厳しく見ることができる。
それが正常だ、ということだろう。


さて、自分の状態が異常であれば、そうなっている(自分をそうさせている)原因を取り除けばよい。
異状からの脱却をはかること。
それを繰り返し、試みていける状態を、正常、と呼ぶのだ。


正常というのは、異常ではない、ということ。
虐待をしなくても済む、ということ。
誰かをいじめなくても済む、ということ。
強圧的に人を脅さなくても済む、ということ。

その必要を感じなくてもよくなる。
その衝動を感じなくてもよくなる、ということ。
虐待、いじめ、強迫について、正当性を主張しなくてもよくなる、ということ。

あぁ、と力を抜き、やれやれ、と肩の荷をおろす、ということ。
どっこいしょ、と椅子に腰かけて、「もういいな」と明るく思える、ということ。

この先、なにがあっても、だいじょうぶ、ということ。
なにがあっても、虐待はしない。
なにがあっても、虐待が起きない。
なにがあっても、いじめなくてもよく、強圧的に人を操縦しようと思わなくても済む。

ここに、ひとつ方法がある。
それは、豊かで生き生きとした人間どうしの交わり。
嫌悪の無い、嘘の無い、こびへつらいの無い、
上下感の無い、差別の無い、嫉妬の無い、交わり。
そうした人間関係があれば、次第しだいに、人を操縦しなくても良くなっていく。
気が付くと、パワハラ、なんていう言葉とは無縁で生きられるようになってくる。


ではどうしたらそういう人間関係を手に入れられるか。

自分の中に、「見方」を確立すること。
嫌悪感の無い「見方」になること。
ありのままを見る人になること。
偏見をなくすこと。

これがもう、大変なのだ。
「偏見」が、ぎとぎとの油のようになって目の前にこびりついている。
ぎっちりとこびりついてあるから、苦しい見方しかできない。
一年中、「ひと」への嫌悪感の中で、生きている。

「おれ?だいじょうぶ。オレ、嫌いな人がそんなに居ないからネ」
といいながら、なにかあればすぐに眉をひそめて、他の行動が気に入らないと言う。

となりの芝生が青く見えたり・・・
嫉妬の炎がめらめら燃えたり・・・

「気に入らない」がない、という状態になったら、どうなのか?


ところで、気に入らない、を深く考え続けていくと、「気に入らない」が無くなってしまう。
まるで、長年の肩こりがスカッとほぐれるように、「気に入らない」が消滅する。

当たり前だとしていることから、考え直してみよう。
修行も勉強も先生も教科書も、無いところから。
一度深く、考えてみる。それから。
再出発のスタートは簡単であればあるほど、いい。


「自分は、なんで腹が立つのか」
「なんで、いやなのか」
「なぜ、気に入らないのだろう?一体【何】を、気に入らない、としているのだろう?」

それほど、探究されていない。

学校でやればいいと思うが・・・。
英語が増えて、余裕もない、行事は減らず、教科書は分厚くなり・・・今の小学生はキツいよ。
昭和の小学生はいかに余裕があったか、思い返すと泣きたくなるくらい・・・。

こんなこと考えているような学習時間はもう無いんだが・・・でも、子どもたちと考えたい。学校でやれるといいよナァ・・・。



ついでに、大人向けもやってみたいネ。(研究会しますか?)

怒り

【6年理科】ヒトは空気を吸っているがなぜか

びんの中に、空気を入れて、ふたをして、その中で火を燃やすと⇒しばらく燃えているが、そのうちに消えてしまう。

酸素がなくなっていくからですが、子どもたちにとっては、「ふしぎなこと」です。

何度かやってみますが、やはり、消えてしまう。

ところが、ふたをしないと、ずっと消えないのですね。

比べてみると、「うーむ、なんでだろう」となる。

なぜ、ふたをした方だけ、火が消えてしまうのか・・・。


調べてみて、石灰水が濁ることや、酸素の気体検知管を用いて分かっていく。

1)酸素が減った。⇒だから燃えることができなくなった。
2)おまけに、二酸化炭素が増えた。

どうやら、酸素が減ることと、二酸化炭素が増えることが、ほぼ同時に起きるらしい。


さて、ヒトの身体についても同時に考えていきます。

息をする。
具体的には、空気を吸う。

学習問題:この空気は最終的にどうなるのか?

「吸ったものは、また吐く」

どうせ吐いてしまうのなら、最初から吸わなくてもいいのでは?

いや、なんか必要なんだよ、たぶん・・・。



図解する。

空気を吸う。

口から入る⇒ 肺に入る。

「そこまでは分かる」

肺に入ったら、どうなるのか・・・。

「また、そこから出るんだよネ」

出る空気(吐く息)と、吸う空気と、ちがうものなの?


「おんなじじゃね?」
「えーっ!?」
「じゃあ、なんのために息を吸うの?」

呼吸する人


Rくんがビニール袋に口をつけて、ゆっくり5回、息をしてくれる。
ふくろの口をしばり、その中に石灰水を入れてゆすると・・・

あ、白く濁った。

つまり、二酸化炭素が増えたってことか!

吐く息には、二酸化炭素がたくさん含まれていた。


細かく見ていく。
空気は肺の中に入ると、さらに細かく枝分かれした気管支の中に届き、最終的にはきめこまかな小さな糸のような先に到着し、『肺ほう』と呼ばれる極小の袋にたどりつく。

肺胞
その袋の中で、空気はどうなるのか?

「また、そこから出ていくんだよネ」
「なにもしないで、出ていく?」
「なんか、そこの二酸化炭素と入れ替わって、二酸化炭素だけ出ていくのじゃない?」
「その二酸化炭素はどこからきたか」

たぶん、そこに、二酸化炭素を出す、なにかが居るんだよ、たぶんだけど・・・
こびとのイラスト
Tくんが、小さなイラストを黒板に描いた。

ここになにかがいて、吐く息の中に、二酸化炭素をまぜるんだよ、きっと・・・。

なるほど、二酸化炭素の運び役、渡し役、みたいなものか。

せっせとコビトたちが、二酸化炭素を肺ほうの中で運ぶ。そんなイメージが湧いた。

「なるほど。たいへんだねえ」

「しかし、その二酸化炭素が、そもそもどっから来たのか・・・」


「ああ!」

ふだん冷静なEさんが、ひらめいた、というような顔をしてつぶやく。

「この、コビトみたいなのも、呼吸をしているんじゃない?」

ああ、そうか・・・。




このコビトみたいなのが大勢いて、いっせいに、外から入ってきた空気を吸う。

そして、息を吐く。そのときに、二酸化炭素が混じるのだろう。

納得したような空気とともに、よくわからない照れたような笑いが教室を包み込む。

「え?じゃあ、このコビトの肺の中は、どうなってるの?」

思わず、Oさんが大声で言うと、イラストを描いたTくん、

「またそのコビトの『肺ほう』の中に、さらに小さなコビトがいて・・・


・・・そんなわけないだろ、な。




えー・・・

考え込むみなさん。

黒板に、かんたんな、図を描く。

「肺ほうのまわりに、実はこういう道がありまして・・・ずっとこの道は、肺胞をぐるりととりまいています」
肺胞のガス交換

この道を、なにかが、通っていますが・・・


そこまで言うと、


「ああ、血液だぁ!」

ようやく、教室が安堵の空気に包まれます。


酸素はこの血液中に溶けていき、二酸化炭素が肺胞に取り込まれて、交換される、というわけで。

二酸化炭素を運んでいたのは、コビトじゃなくて、赤血球、でしたね。

体内の赤血球の総数はおよそ20兆個。
骨髄では毎日2000億個弱程度の赤血球が作られている。
寿命は約120日。120日の間におよそ20-30万回に渡って体を循環して酸素を供給。
赤血球は体の隅々の細胞にまで酸素を供給するため、柔らかく非常に変形能力に富み、自分の直径の半分以下の径の狭い毛細血管にも入り込み通過することができる。

【6年社会】国風文化が華やかに~平安時代~

唐が忙しく徴兵したり、兵を雇ったりして、「防衛」にやっきになっているころ、日本は海に囲まれて平和に暮らしておりました。
周りに騎馬民族も、遊牧民族もいないし、大国の気苦労をしなくても済んだのですね。

極東の小さい国として、もう唐ともきっぱりと縁を切り、独自の道を進み始めます。

具体的には、かな文字ができました。
日本に合った文字ができ、文学作品が生まれます。
また、服装もしだいに日本ならではのものへと変化。

【学習問題その1】このとき、日本風になったものって何だろう。

〇かな文字
〇寝殿造
〇大和絵
〇服装(十二単)
〇年中行事も日本風に
〇遊びも日本風に
〇寺院仏教の様子も日本風に

これらの変化を総じて『国風文化』といいます。

貴族は藤原道長を中心に、天皇の周辺で少しばかりの政治を行いながら、蹴鞠をけって暮らしていました。(平安京)

藤原道長は時の最高権力者でした。
なんと、天皇よりも力を持ったのです。
【学習問題その2】では、どのような手をつかって、最高権力を手に入れたのでしょう?

教科書と資料集で各自で調べる。

動画でおさらい。

答え 摂関政治。(娘を天皇の后にして、自分は摂政、関白になった)

藤原の道長


ところで、こんなふうにぜいたくな貴族の暮らしは、いったいどういう人たちが支えていたのでしょう?

一般の人たち。
ふつうの農民たち。
地方の人たち。

そうですね。都にせっせと納税していた国民たちです。

このぜいたく三昧な貴族たちの暮らし、長くつづいたと思いますか?

うーん、どうかな。
反乱がおきるかも。

平安時代は794年から。藤原道長が生きたのがちょうど1000年頃。
200年とちょっとの間、このような貴族の時代が続いたのです。
けっこう長いよね。

でも、次第にそうはいっていられなくなります。
ではつづきは、次回。

【6年社会】渡来人が日本に来たかった理由 その2

『唐』という国は、広大な西アジア地域と接していました。
シルクロードがあったのも西アジアです。
ところが、西アジアは、唐とはまったく生活様式や文化のちがう人種がたくさん住んでいて・・・

『唐』との衝突が、しょっちゅうあったのです。

唐と諸外国

実は、このころから唐、という国の崩壊がはじまっていたのであります。
農民が疲弊し、税を納められなくなり、逃亡し、徴兵ができなくなり・・・
国の力が乏しくなり、国家の秩序が保たれなくなっていった。

一番の大きな引き金は、農民が逃散、税逃れ、兵役拒否をするようになり、まともな徴兵ができなくなったこと。唐は国家運営をするには当時、あまりに大きくなりすぎていました。

唐は基本、農業国家でした。土地を鍬と鍬でたがやしておりました。収穫物は税として納めることになっており、その量まで決まっていました。

ところが、西アジアの大半の土地には、先祖代々より、遊牧民が住んでおりました。
紀元前4世紀くらいから、今のモンゴル平原より黒海のあたりまで、いわゆるステップとよばれる気候の土地には、遊牧民が羊の群れと共に暮らしていたのです。

ステップ気候
↑ ステップ気候。表土が薄い。

中国が歴史を通じてずーっと悩んできたことに、遊牧民との関係があります。
遊牧民は基本、土地に固執しておりません。
そして、農業の民とは、犬猿の仲であります。
土地の表面の土を耕すことが、遊牧民を怒らせます。

遊牧民は、
「俺たちの羊が喰う、だいじな草を、どうしてそんな鉄でひっかきまわして、とっちまうだ!」
と怒り、しばしば襲来する。

農業の民は人口が増えるほどに必要な耕作面積を増やしたいわけですから、遊牧民の都合など聞かず、どんどんと畑を広げていきます。

これは殺し合いになるわけで・・・

それにしても恐ろしかったでしょう。
遊牧民が、いともやすやすと馬を乗りこなす様は・・・

唐の住民たちも、馬を飼っていました。
人々の生活の中に、馬は生きていたのです。
しかし、それは人間が乗るもの、ではなく、荷物をひかせたり、車をひかせたりするものでありました。

古くはローマ時代の戦車とよばれているものも、馬によってひかせていますね。

ローマ時代の洗車


唐の国の中にだって、馬の背中に直接乗れる人もいたでしょうが、みんながみんなできるわけではなかった。

ところが、遊牧民たちは、幼い頃から馬と一緒に暮らしております。
スーホの白い馬、でもそうでしたね。
みんな、馬の名手です。

野生の馬をのりこなすのには、たいへんな技術が要ります。
彼らにはその技術があり、どんどんと馬を手なずけていった。



だから、戦いになると、馬に乗ってやってくるわけ。

これは怖かったでしょう。
上をみると人間の上半身だけが見え、下を見ると馬の脚で走ってくる。
すごい勢いで!

それが弓をつがえて、異郷の言葉を発しながら、おたけびをあげて襲い掛かってくるんですよ!

それも、大量の馬の数、数、数!!!

電光のごとくに襲い掛かってきて、あっという間に立ち去っていく。

対する唐の軍勢にも、馬はいたでしょうが、乗りこなせる軍人の数がちがう。
また、馬の数がちがう。
兵器の絶対量が、違うわけです。

Hunnen


これにはまったく、農業民たちはかなわなかったでしょう。
遊牧民たちは、にっくき農耕民族をぎゃふんといわせ、意気揚々と去っていくのでありました。

農業の民は、納得がいきませんよね。
「どうして、土地を耕すのがいかんのだ?」

ところが、耕すと、もうそこには草が生えないのが、ステップ、という土地なのです。
土が、表土としてはもう、ほんの薄皮のようにしか堆積しておらず、あとは固い岩盤が広がっているのです。だから、一度草を取り除き、表土を掘り起こしてしまうと、あとに戻らないのです。(北京郊外の土地が現在荒れ地になっておりますが、黄砂の原因にもなっていますネ)

原因は強烈な太陽の照り付けと、大陸を吹き渡るステップの強風です。

フライパンの上に小麦を置いて、熱すると、焦げていきますよね。それに近いイメージです。
硬い岩盤の上の薄い表土を、ドライヤーの熱風をあびせながらじりじりと太陽光であぶるようなもの。草を引きはがし、取り除いてしまったら、土だってからっからに乾いてしまいます。そして、いったん表土をはがしてしまうと、そこからどんどんと風化してしまうのです。

ほんの少しの表土が、ほんのちょっとの湿り気で、ようやっと長い年月をかけて堆積し、小さな植物を生やしているだけの土地なんです。ステップ、というのは・・・。


だから、そこを鉄のへら(鍬くわ)でもって、削られてごらんなさい。

「お前ら、おれたちを殺す気かッ!!」

と怒られるわけですね。遊牧民たちから。

kibamongo

唐は、その衝突を武力で抑えるためにどうしても、遠方に大量の防人(さきもり)を赴任させなければならないが、だんだんと国力が衰えるとともに、徴兵ができなくなっていきました。
徴兵ができず、結局、お金で兵を雇うことにした。
これが大きな失敗だったんですが・・・

お金で兵隊の募集に応じるような人たちというのは、まあ、ふつうの堅気の人たちではなく、農家でほそぼそと暮らしていこう、という発想を持たない人たちでありました。

お金で兵隊を雇ったら⇒そいつらがごろつきの不良で⇒国家に反乱し⇒それが抑えられなくなって⇒崩壊

結局、唐はだんだんとゆっくりと、崩壊していく国だと認識されていたわけですね。内部の人にも。

日本は遣唐使を894年に停止します。
崩壊していく国から学ぶことは何もないわけで。
渡来人が、崩壊寸前の国から日本に逃れて来る気になるのも、無理ない話なのでした。

ところで、遣唐使は実は、894年に突然打ち切られたわけではありません。
もうかなり長いこと、派遣されておりませんでした。

7世紀後半までに遣唐使は7回ありました。
第1回が、犬上御田鍬によるもので630年。第7回が669年です。

とくに第2回以降は、

653年
654年
659年
665年
667年

と、数年間隔で“頻繁”に往来しているといえます。

ところが第8回以降は、十数年に1回くらい。
任命されてものらりくらりと行かなかった(行きたくなかった)のが3回、遭難してしまったものが2回ありました。

759年に派遣された後、779年まで派遣されていないので、この間は20年間空白です。

そしてその後、838年まではなんと60年間も空白です。

で、838年の次が894年で、このとき任命されたのが菅原道真だったのです。
そこまで、なんと56年間、遣唐使はありませんでした。

つまり、実際に唐まで出かけたのは、

759年
779年
838年
の3回ですね。

894年に菅原道真が「遣唐使」に任命されますが、当時の菅原道真が、

「えっと、遣唐使ってどんな感じで仕事すればいいのかな」

と考え、

「前任者の仕事をチェックしようっと」

と思っても、すでに前任者は高齢で死んでいますし、じゃあその前は?と、前任者のさらに一つ前の人を探してみても、その人は779年に出かけた人ですから、894年から数えると、115年前に出かけた人、ということになります。

で、この頃の「唐」というのは、すでに政治もろくに為されず、人民は税を無視し、徴兵にも応じず、という状態であったようで・・・。

こうしてみると、菅原道真が「遣唐使やめよう」というのも、無理はない、というか、逆になぜ彼が任命されたのか、不思議にさえ思えてきます。

(道真のやつめ、唐に行って難破して死んでしまえ、という影の圧力があったという、まことしやかな黒い噂も・・・)


【6年社会】渡来人が日本に来てくれるワケ

渡来人が日本をめざす理由が、いまひとつ分からない。

これが、多くの児童がぶちあたる疑問だ。

渡来人にとって、『日本』という国は、どう映っていたのだろう。
大陸から離れた、辺鄙で洗練されぬ田舎など、なんの魅力もないに違いない。
おまけに、途中の海は、荒波ばかり。
鑑真など、何度も難破と漂流をくりかえし、目が見えぬ病にも冒された。

「先生、これまでの渡来人は弥生時代から奈良時代までずっと、みんな順調に日本にわたってきていたのに、急に鑑真だけが嵐に遭うのはなぜですか」

鑑真の学習を終えると、いつもこれだ!

鑑真の船だけが、なぜこんなにも荒波にもまれるのか!!
なぜ鑑真は5度も失敗し、南の島に流され、あらしに遭うのか!!



教科書の挿絵が悪い!
この時期の東シナ海にだけ、
「日本に行く途中には、波の荒い海がたちはだかっていました」
という説明があり、いかにも、という荒波が、濁流が、砕け落ちる波しぶきが、これでもかと描かれている!

しかし、子どもたちにとっては、鑑真だけ、鑑真だけ、です。
鑑真だけが、荒波にもまれ、濁流にもまれ、突風によって船を沈められているのです。
これまでも渡来人はいつだって日本に来ているのに、

鑑真だけが漂流!!
鑑真だけが、突風!!


「先生、ひょっとすると、この鑑真って人、すっごい運の悪い人なんじゃないすか」
「まちがって悪霊がとりついているんじゃ・・・」


これについては諸説あり、鑑真は皇帝の目を盗み、通常は船を出さない時期(嵐の頻繁にある時期)にしか、港にたどりつくことができなかったのだ、という説もある。

中国にとっても重要人物であった鑑真。
時の皇帝に逆らってでも、日本にくるためには、嵐の時期をえらぶしかなかったのだ。


鑑真については納得してもらえても、それでも海の危険性に対する疑問は尽きない。

「先生、それでも命を懸けてでも、多くの渡来人が日本に来るのはどうしてですか」


教科書には、日本の朝廷が大陸の進んだ文化を取り入れるため、遣唐使として留学生を派遣したこと、帰国時には多くの宝物や渡来人と共に、海を渡って帰国したこと、が書かれている。

宝物も、たくさん持ち帰ってきている。
みんなで資料集を見た。
正倉院に保管されてある、1300年の時を経た、宝物の数々。
これらはすべて、渡来人が天皇に差し出したものだ。

「これ、買ってきたの?」

正倉院の宝物


いや、日本人が買ってきたのではなく、渡来人がもってきてくれた、と書いてあるよ。

すげぇ!渡来人、めっちゃ親切やん!!

ここでまた、最初の疑問にもどるわけ。

なぜこんな辺鄙な日本に、

〇命がけで
〇宝物まで持って
〇国や家族を捨てて
〇人生をなげうつようにして

来てくれるの?渡来人たちは・・・。

なぜ、渡来人は宝物を持ってどんどんと危険な海を渡ってきてくれたのか


〇日本に来たら、自慢できるから
〇日本に来たら、ちやほやしてもらえるから
〇日本の制度や文化が遅れていたので、ちゃんと教えてあげたいと思ったから
〇日本で良い給料がもらえたから?

なるほど。
そういうこともあったのかも・・・

しかし、世界に目を向けると・・・
東シナ海


(つづく)

『尊敬する』が危険な理由(ワケ)

こういうことは、周囲に暮らす人たちから、空気を吸いながら、のようにして学んでいくのが良いと思っています。
だから、あえて『解説』のような文章を読むと、

わかった気になりやすい
ため、用心、用心。

どんな文章でも、読めば必ず自己解釈で、バイアスのかかった見方となります。

『尊敬する』は危険、という文だけでも、
その人の頭の中で、その人自身のおいたちや、学びの中身、読んだ本、影響された人、両親や兄弟や親戚からの影響、幼いころに接していた祖父母の言葉、あるいは保育者の先生たちの思考、ぜんぶ影響を受け、バイアスをかけ、理解し、把握し、感覚的に受け止めている。

だから、
文章というものは、元来、危険なものだということが、まず言えるでしょう。


しかし、その言葉をきっかけに、ひとはなにかしら考えていくことにはなるので、文章にまったく意味がないわけではありません。

よい文章というのは、できるだけ解説として、頭にすっきり入らない文章です。
その方が、誤解が少ないです。

A⇒B(AだからBになるのだ)、という具合に、すっきりと頭に入れるのは、「スッキリ感」はありますが、ほぼ自覚の無い思い込みを強めていく作用をします。おまけに、その後、考えないようにさせてしまう作用まで働く。だって、わかった気にさせてしまうからネ。

A⇒B、というふうに考えないのが良いのです。
A⇒Bではないので。

お母さんが痩せないのは、このサプリを飲まないからだ、という具合に、どんどんと、A⇒B、という狭い狭い、極小のサイズの了解世界へと、つきすすんでいきます。
まるで、小さな深い穴を掘って、みずからはまりこみにいくようなものです。

そうならないように、できるだけ、文章と言うのは、『スッキリわからせない』というものがよいのです。できるだけ、目に見える効果、というのが、あがらないのがよい。
なぜなら、その効果は、ニセモノだからです。
わかったような、気分になっただけの、害毒のある効果、だからです。


で、あえて、『尊敬する』が危険な理由、という、世の中にさもころがっていそうな文のタイトルを書いてみましたが、ここまでこの文を読んでみた人は、半分裏切られたような気持ちでしょう。
ちっとも理由なんて、でてこないから。

では、書きましょう。
『尊敬する』が危険な理由は、ざっと1000個ほど、あります。

1000個あるうちの、まず1つ目の代表的な理由は、みなさんもすぐに思いつくでしょうが、バイアスがかかっている、ということです。

つまり、色眼鏡で見る、ということです。

なぜ色眼鏡で見てはいけないのか、という理由もべつに見当たらないのですが、実際とはちがうもの(自分の感覚で受け取った印象)を見ているのですから、「誤解している」という自覚さえあれば、べつだん色眼鏡でみるのは素敵なことです。

わたしも、色眼鏡でみるのは大好きです。
朝起きて、天気を見ても、色眼鏡。
しかし、色眼鏡でいくら目を凝らして見ても、午後の天気がどうなるか、確実なことは何一つ言えないのです。ひとについても同じこと。

べつの言い方をすると、「人間は、必ず物事を自分勝手に見とり、見た気になる、という道理」だということです。人間が知らず知らずのうちに持ってしまっているこのような性質について、多くの場合、自覚がないために

「おれの判断は正しい」

という悪魔の自信にまでつながってしまいます。

俺の解釈が正しいのである、というように言い張る人を見ているのは、まわりから見ているひとにとっては、たいへん滑稽な態度に見えますが、その滑稽さもまた、人間が生まれながらにして持つ、愛すべき姿勢なのです。


バイアスには、次のような特徴があります。

偏向(へんこう)性
偏見(へんけん)性
恣意(しい)性
感覚(かんかく)性


偏向とは、『解釈の方向がかたよっている』ことです。
偏見とは、『見方(解釈の仕方)がかたよっている』ことです。
恣意とは、『自分だけの勝手な思いつきである』ということです。
感覚とは、『あくまでも感じとることしかできない』ということです。


尊敬するというのは一つの解釈の仕方のことですから、この4つがどうしてもついてまわります。
これは防ぐことができません。
歴史的にみて、この4つから、逃れられた人類は、未だにだれも、いないのです。
もし、自分はこの4つを克服した!(克服するものでもないのですが)と言い張る人がいたら、それこそ、その人自身が強烈なバイアスをかけて自身のことを解釈している、という具体例になります。


どんなにわかりやすい文章も、わかりやすい、という印象を与えれば与えるほど、この4つのバイアス性質に、たやすくよりかかっているのです。

したがって、子育ても、わかりにくい方が、いいのです。
子どもを見る際に、『ものわかりの悪い親』、である方が、いいのです。
愛情たっぷりで、いつも子どものことを思いやり、子ども目線に立つのだが、
なぜか
「ものわかりが悪い」
という親が、一番良い。

また、そういう先生が、いちばん子どもを上質に育てるのだと自分は解釈しています。

授業はすっきりしているのが良いです。
学問はわかりやすいのが良い。
数学なんてとくにそうです。

しかし、
人間の解釈については、ちがいます。
けっして、わかった気にさせてはなりません。
人生をすごす態度についても、わかった気にさせるのは害毒です。
「こう生きるのが良い」ということも、うかうかと分かった気にさせません。

たったひとつ、すっきりと伝えた方がよいことは、

「人間は自覚無くすぐ、わかった気になりやすく、事実から遠ざかっており、もともと事実を見ることができないという、バイアスによりかからざるをえない脳機能をもつ」

ということです。

したがって、

「休日にあらま先生のブログを読みましたが、こんなにいろいろな(ずっと中略)で、尊敬します

というメッセージを書いてくださった、ついこの4月から新卒採用されて小学校でがんばっておられる愛媛県在住の、おそらく女性のF先生は、

これからはうかつに、

「尊敬します」

などとは書かない方が良いと思います。ははは。


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