30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2018年11月

三橋美智也とフランク永井について

日記を読んでいたら、
「先生に質問です。カラオケの18番は何ですか」
とあった。

正直に「森進一」と答えたところ、次の日にその返信が書いてあり、

「ぼくのおじいさんは、三橋美智也が上手です。ぼくもちょっと歌っています」

とのこと。
いまどきの小学生は三橋美智也を歌うのだろうか。
その子とは、その後もカラオケの話題で何度かやりとりがあった。
カラオケ好きなおじいさまといっしょに、何度か家族でカラオケに行くことがあるそうだ。

「この間は、フランク永井を歌いました。先生は『おまえに』を知っていますか」

あまりにも渋い選択。なんだか話が通じるのが不思議だ。
相手は小学校5年生だ。フランク永井の歌のことで、こんなふうに会話が成立することが不思議なコトに思える。

「ぼくのお母さんは、道化師のソネットを歌いました」

ははあ、さだまさし。
お母さんにしては、ちょっと古いのではないだろうか。
おじいさんの趣味に、ちょっと合わせて歌っているのかな。

わたしはその時の日記に、

「そばにいてくれるだけでいい~♪」

という歌詞の言葉と共に、フランク永井の似顔絵を描いておいた。




家に帰ると、中学生の息子が洋楽を聞いていて、

「お父さん、シカゴって知ってる」

と聞いてくる。

わたしの世代はシカゴの第二の黄金期だったから、これまた説明のつかないような、とっぴな感覚に陥る。・・・息子と、シカゴの話ができるとは。



時代がこれだけ進み、綺羅星のごとくにすばらしい歌手たちが、いるのに。
魅力的なエンタテイナーたちが、お笑い芸人も落語家も、こぞって世の中に出てきているのに。
AKBも、エグザイルも、米津玄師だっているのに。
それにも関わらず、いまだに、三橋美智也、フランク永井、シカゴの話をしている。
わたしは、どう考えても説明の出来ないような、思いがけないような気持ちに包まれた。


時代が急に、以前にもどったような・・・
まるで水中をゆっくりと遊泳しているような不思議な浮遊感・・・




その夜、このことを嫁様に感慨深げに言ってみると、軽蔑したような目になって、

「ただ、向こうがこっちに、話題を合わせてくれているってことでしょ」



は、そうでした。
ただ単に、相手から、合わせてもらっていたのでした・・・。
人生はいつも、そんなことばっかりなんでしょうナ。

黄色のプラタナス

健康を知らない。

一昨年でしたか。
四十肩をやりました。1か月間くらい、黒板にチョークで書くのがしんどくてたまりませんでした。

それでも黒板に字を書かねばなりませんから、上がらない腕をもう片方の腕で持ち上げ、身体を傾けて、さらに背伸びをしたりしながら、何とか授業をしていました。

「へんな恰好!!」

子どもたちは笑いましたが、こっちは笑いごとではありません。
そのうちに逆の手で、板書ができるようになってきました。算数だけですが・・・。
数字なら、利き手とは逆の手でも、書けたので。
あんなに短期間に、すらすらと利き手とは逆の手が動くようになったのは不思議なコトでしたね。
必死だったからかな。


最近も腰を一度痛めました。
どうやら、姿勢も悪いようです。
身体の疲れやすさも感じます。

この秋から、根本的に学びたくなりました。
骨の付き方、筋肉の付き方。
自分の身体を、きちんと知りたくなりました。

猫背気味なんです。
昔からそうでした。
どうやら、ふだんの姿勢、歩く姿勢、足の着き方まで、ぜんぶ法則があるらしいですナ。
こうやっていると、つらくなりますよ、という法則が。
四十肩、五十肩、腰痛、みんな、大前提としてあるはずの、「正しい姿勢の保持、歩き方、走り方」を知らないところから、きているようです。

これだけ長い間生きてきたのに、
その間、ずっと歩いていたし、走っていたし、立っていたのに、
「あなたは正しい姿勢を知らない」
と言われたようで、本当にがくぜんとしました。

健康を知らないから、健康にならない。
幸福を知らないから、幸福にならない。
どうやら、通じるものがありそうです。

いったい、どんな姿勢が、正しい姿勢なのでしょう。

わたしの姉は、ふだんから着物を着ていますが、やはり姿勢は良いですね。

「だんだんと、着物でないと疲れるようになってきたの」

だって。
洋服を着ていると、疲れるらしいですな。
どれもこれも、身体の使い方、ということなんでしょう。
不思議なコトです。

shisei_man_good



教員と『骨』との付き合い方

魚に骨があるように、人間にも骨がある。
そして、どうやら昔の日本人は、「筋肉よりも骨」で米俵をかついだらしい。

俵を運ぶ人


昔から腰が弱くて、1年に1度は

「いや、ちょっと待てよ、これ、あかんやつや・・・あかん、アカン、、、、」

となって、そろ~っと動いて、動けなくなることがある。
少し休んで回復することも多いが、かつてはそのまま動けなくなったことも。(ぎっくり)
だから、身体の使い方、ということでは人一倍、関心がある。

最近、ある人から「骨ストレッチ」というものを教えてもらい、実践している。
一番の研究家は、著作も出している『松村卓』という方だ。
興味のある方は、調べてみてもらいたい。

このストレッチに、骨を意識する、というアプローチがあり、これは面白い。
特に、『立つ』姿勢が変わると、効果をいろいろと実感できる。
骨を意識して立つと、なんと、電車内で吊革無しで立ちつづけることができる。
ガタン、と揺れても、キーーーッ、と停止しても、揺れ戻しがあったとしても、なんのその。
柳に風、と受け流し、楽に立つことができるのだ。

わたしの腰痛に、もっとも役に立っているのが、『手首腰伸ばし』。

(準備)
親指と小指を「きちんと」くっつけて輪をつくり、残り三本指はスッと伸ばす。
さらに別の手の親指と小指で手首の固い骨のあるぐりぐりしたところを「きちんと」はさみこむように持つ。

①椅子に浅く腰かけた状態で腕を前の方へ伸ばしていく。
②押さえている側の手で、押さえられている側の手や腕を前方へ引っ張るようにしていく。
③そのままの力で自然に前方へ引っ張りながら(引っ張られながら)ゆーっくりと、腰を伸ばす。
④これを7回ほどやる。
⑤左が終わったら右もやる。

これをやるようになったら、なぜか身体が柔らかくなってきた。
なんでなのか、ぜんぜん、分かりません。なにか理由はあるのでしょうね。骨とか筋肉とか。

米俵をかつぐことは、生涯のうちでも、まあ、それほど無いでしょうが、筋肉が極端に発達したようには見えない江戸や明治の女性たちがそれを仕事にしていたと聞くと、やはりこれは、身体の使い方、ということになるんだろうな、と思えます。

教員も、骨を意識して、授業をした方がいいですね。
これからは白墨(チョーク)も、親指と小指を輪っかにして持つようにしようっと。

授業のスピード感について

先生たちは、指導案を考える時に『立派な』『立派に見える』指導案をつくりたくなるものだ。

ところが、その授業の流れをみると、

「ほんとにこれ、いけるの?」

と思うことも多い。

不安に思うのは、そういう授業をたくさんみてきたから。
多いのは、授業時間の終了時間が守られないケース。
チャイムが鳴っているのに、まだ子どもたちの活動が続いている。
研究授業であれば参観者の手前、中途半端に終わらせたくないから、たいていの先生がほんの少しなら、と授業時間を延ばしてしまう。

なぜか。
そもそも指導案の流れがキツいのだ。時間内にはとうていやりきれないような内容が詰め込まれている。

本当は、いけるはずである。
それには、スピードが無いといけない。
押さえるべき点を押さえたら、間髪入れずに「では」と次の行動、次の指示、次の発問に入るべきだ。どちらかというと、スピード感、というより、リズム感、というべきかもしれない。

子どものつぶやきを丁寧に拾っていると、時間がどんどん経過する。
多くの先生が「時間調整ってむずかしいですねえ」と感想を言う。
そうならないためには、授業の目標を達成するためには発問の内容を限定すべきだ。究極に言えば、二択でもいい。YesかNoか、でもいい。子どもたちから意見と理由がたくさん出てくるなら、それで良い。
もし、限定しないのであれば逆に、それは一つの解をめざす授業内容ではないのだろう。様々な発想が出てくることの良さをめざす授業だ。そうであれば、その授業の中で子どもたちから幅広い意見が出てくることの良さをきちんと価値づける授業であるべきだ。

なぜこういうことを考えるかというと、いろんなクラスの授業をみていると、子どもたちの活動への入る時間が短い、いわばテンポの良いクラスと、そうでないクラスとの、差があるように感じるからだ。これは、子どもたちがそういうテンポというかリズムを、日常生活の中で身に着けているかどうかの違いだ。

たとえば何かのタイミングで起立する。
子どもたちが、だらだらと他のことをしながらいい加減に起立する状況がつづくのであれば、起立しない方がマシだと思う。起立が遅いことをいやみのように叱られながら、不機嫌な先生が授業を始めることで、誰がトクするのか、と思う。

もし起立をどうしてもしなければならないのなら、すばやく、子どもたちに負担にならないようにするべきだ。簡単だ。時間設定をすればいい。

「今の遅いよね。他のことをしている人がいて、じっと待っている人もたくさんいました。やり直しをします。目標時間を設定します。ずばり、1秒です。起立するだけですから、やればできる」

えー、と子どもたちがいう。

ところが、目が耀くのであります。
つまりね、これは「やらされている」が、「自分からやる」に変わったからですね。

授業開始時、なぜか起立しなければならない。これは強制であります。
わたしは新任から5年間くらい、やっていませんでした。
それでもまったく問題はありませんでしたネ。
なぜかというと、「忘れていた」からです。20代、30代に別の仕事をしていて、授業開始時の「起立、礼」というのを、完全に忘れていて教師になったから、やっていませんでした。

ところが現在は教員生活をまあそれなりに過ごし、大人の事情から起立礼、をしています。
すばやく、です。

「1秒です」

えー!!

ところが、目標設定すると、みんな面白がってやる。
すると、褒められる。
そして、授業がスムーズに始まって、まあこれが一番大事なのですが、

だらだらする友達を待たなくてよいから快適

なのですね。

やはり、子どもの気分を快適にしてあげることが教師の仕事なのでしょう。


紅葉真っ盛り

青い空を見て、懐かしくなる話

研究主任となり学ぶことの多いこの頃。

秋は、研究の季節だから、学校はなにかと忙しくなる。





先日の週末、久しぶりに身体を動かして庭仕事をした。

すると、なぜだか懐かしいような感覚が体中にめぐるようで、愉快だった。

ふだん、夜の職員室で、デスクワークばかりしているからだろう。楽しくて身体がどんどん動く。



脚立にノッて、庭木の剪定をしたり、からみついたツルをとったり。

剪定用ののこぎりに「くれ556」を吹きつけたり、庭木の根に「油かす」を置いたりすること。

物置の中を片付けて、畑用のあれこれを、引き出しにきれいに整えてしまうこと。

一日、そうしたことで過ごすと、夕方になって今日はよく動いた、という感想とともに、

なつかしさ

が体中にあふれるようで。




やはり、農家のDNA、なのであろうか。

長靴を履き、タオルを首にまいて、砂利を踏みしめて歩くことが、妙にうれしい。

枝を見ながら、葉を見ながら、「どんなもんかな」と考えているとき。

長靴の泥を落とそうと、柄のついたブラシでこすっているときが、そのピークでした。

見上げた時に、青い空が見えたからかな。

一瞬だけ、20代にもどった気がしたな。

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