30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2018年08月

将来の夢、サッカー選手がじり貧に

小学生男子の将来の夢。
ひと頃は、サッカー選手が花形でした。
もっとも多かったのは、5年から10年くらい前かな、と感じます。
それが、このところ、少しずつ、少しずつ、減ってきているような・・・。
うちのクラスだけかな・・・?

プロのスポーツ選手、という職業が、子どもたちからすると、遠くなってきているのでしょうか?
どうせなれっこないだろう、というアキラメなのか、それとももっと別の要因なのでしょうか。

サッカーも振り返ってみると、やはり最初は、遊びだったはず。ボールを蹴りっこしながら、みんなで楽しんでいたものが、いつしか魅せるものとして、プロ職業として成立するようになりました。たぐいまれなる技術やワザを見せることが仕事になったのです。

プロフェッショナルという仕事としてそれが成立する、ということは、サッカーを見る観方も成熟している、ということ。
作戦の采配、選手の個人技術、選手同士のコンビネーションの見事さなど。
見る人は、そのはるかに高いレベルの、ほんのちょっとした些細な工夫に、しびれる。
そして、その「しびれ」に、お金、対価を払おうとする。
サッカーのプロとは、そういう「痺れ方」を、人々に提供することができる人々なのでしょう。

これまで、遊びをプロの領域にまで高めた人物、それを体現できる人物が、尊敬されたし、そういう人になりたい、と子どもをしびれさせていました。

ところが、時代は変わってきています。
子どもたちの、労働観、仕事観そのものが、わたしたちの想像とはちがってきているような気がしてなりません。



ユーチューバーになりたい、という子どもに向かって、

「ユーチューバーって、お金がもらえるの?」

と聞くと、

「うん、もらえるんだよ」

と答えてくれます。

「へええ・・・!いくらくらいもらえるのかなあ」

と、聞くと

「先生よりはもらえるんじゃないの。お金持ちっぽいから」

だそうです。
正直、がくっとしながら、

「ああそう。じゃあ、お金持ちになりたいから、ユーチューバーになるの?」

と、最後に一番聞きたいことを聞いてみると、

「ううん。ちがうよ。楽しそうだからだよ」とのこと。




さて。

その「ユーチューバーになりたい子の人数」が、ついに、わたしのクラスでは、
「プロのサッカー選手になりたい子の人数」を、追い抜きました。

努力した結果、遊びをプロ興行、プロ職業、労働にまで高めたサッカー選手は魅力を失い始め、
ただの遊びのようにみえるユーチューバーたちは、興行でもなく、職業でもなく、ただの余暇のように見えるがゆえに、子どもたちの支持を受けているのです。

・・・でもまた、これは際限なく、繰り返されるのかもしれませんネ。

ユーチューバーも、競争になってきて、遊び気分ではやっていられないでしょうから。
ユーチューバーがプロ職業化し、それを見て楽しむ顧客が、さらに精度の高い技術やコンビネーション、編集の采配を楽しむようになって来たら、もう子どもたちは、そこから離れていくでしょう。遊びであり、余暇であり、労働には見えないから「価値がある」と子どもに受け入れられているのです。それが「遊びのように見えているだけの労働だと見破られた瞬間、もう価値は、無くなっているのでしょう。

AIが発達し、現代ある職業の半分が無くなり、消滅するであろう、といわれています。
人間はこれから、労働も余暇も、さまざまにとらえなおすと思います。

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小学校で『昆虫少年』を育てる方法

十数人の小学生が、手に手に補虫網を持ち、一匹の蝶めがけて

うりゃあぁーーー!!!

と、補虫網を振りかざす。

蝶は、その十数本の網をかいくぐりながら、ヒラヒラと逃げていきます。

「あっちだぁーッ!」

だれがが叫ぶと、その声に反応して、ハッと我に返った仲間たち。
ダーーーーッ、と駆けていきます。
それが二度、三度と繰り返されます。

ついに少年の一人が、補虫網で、高い壁際まで追い込みました。
頭上の窓ガラスに、垂直に張り付いた、青い蝶の羽の色!!
仲間から漏れる歓声と吐息。
そして、思わず起きる、拍手の音!
十数人の狩人たちが、お互いの健闘をたたえ合ってもらす笑顔。

「やったよー」
「つかまえた!」



網の向こうのガラス窓に、蝶はとまって動いていません。
補虫網をふるえる腕でおさえていた子の、腕の力が、だんだんと抜けていきます。

ここまで補虫網を振りまわしていた、その筋肉の疲れが、乳酸の溜り具合が、もう限界なのです。
つい、うっかりと、補虫網を浮かしてしまいます。

その途端。

「わあああーーーー」

またもや、蝶は元気よく、宙を舞うのです。

「逃げたーあああああ!!」

向こうの校舎で、別のクラブをしている女の先生が、怪訝そうにこちらを見ています。
あのクラブは、何のクラブだっけ?・・・あぁ、昆虫のクラブか・・・
女の先生は、カーテンをシャッと閉めて、関わらないでおこう、という態度。

こちらは、大事件の最中ですから、またもや、蝶を追いかけまわします。

「うぉおおおおお!!」


小学校の校舎の間に、野生の魂が、真っ赤に燃え上がりながら、こだましていきます。

調和と統率と集団ルールで守られた、白いコンクリートの校舎の間を、
赤い炎を目の奥に宿した少年たちが、人類の祖先から綿々と受け継いできた野生の血と勘をたぎらせながら、猛烈な勢いで走り抜けていく様を、どうか、じっくりとご想像下さい。

「ああああっ!!!」

ひらひらと、蝶はその美しい斑紋をひるがえして見せながら、2階建て校舎の上の方まで、行ってしまいます。
だれも打合せも無いのに、いっせいに漏れ出る悲鳴。
「だめだーーーー」


あーあ。

うなだれる少年たち。

しかし、2分後、またもその蝶が現れるのです。
そして、この文の最初の光景が、何度も繰り返されるのです。

つかまえた蝶を、展翅し、乾燥させ、標本箱におさめて、秋の「クラブ発表会」で展示します。
そこまでが、むしクラブの活動です。

虫さえいれば、このクラブは成り立ちます。
日本中の、どこの小学校でも、大丈夫。
顧問も、どなたでも、できます。
とくに難しい指導も、要りません。
20分でも、40分でも、たとえ5分でも、虫さがしはできます。
すばらしいクラブです。

全国の小学校の先生方に、「むしクラブ」を、ぜひお勧めします。

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【ヘイト学習】について

民族文学、日本の民話について研究されてきた「松谷みよ子」さんをご存知でしょうか。
児童文学作家でもありますね。「いないいないばあ」とか。
「ちいさいモモちゃん」はベストセラーですし、民話では信州に伝わる小泉小太郎伝説などをもとにして書いた『龍の子太郎』が有名ですね。日本中にファンがいる。

わたしも好きでねえ・・・。
小さい頃から、松谷みよ子が著者だと分かったら、一応読んでみよう、と図書館で借りるような子でしたな。

その松谷みよ子さんが書いた、「私のアンネ・フランク」という本があります。

アンネ・フランクはご存知の通り、ナチスの時代に民族の迫害にあい、ゲットーに送り込まれて亡くなった方です。強制収容所から唯一、父親だけが生還できた。父親は戦後、最後の隠れ場だった家の持ち主から彼女が書いていた日記の紙片を集めたのを、渡してもらうことができた。まあ、お父さん、嬉しかったでしょうね。そんなのがゲシュタポに回収されず、捨てられず、家主に集めてもらえてたなんて。
お父さんは感謝の気持ちから、アンネを知る身近な人々に向けてそれらを複写して渡すことにします。それが、のちに世界的ベストセラーになる、「アンネの日記」というわけです。

そのアンネ・フランクについて、松谷さんがドイツまで出かけて取材して書いています。13歳のゆう子の「アンネ=フランクを知らないで書きつづけてきた、アンネ=フランクへの日記」と、彼女の母親の蕗子が記した手記、という形で書いてあります。現代の日本に住む日本人と、アンネ=フランクを繋げる架け橋のような本です。最初、アンネを「お話の中の人」と捉えていたゆう子は、様々な出来事に遭い、最後「あなたはほんとうにいた人だったんですね」と呼びかけるに至ります。

8月になって戦争のことを考えると、どうしてもこの本が思い出される。
わたしゃ、当時、小学校の高学年だったですかね。暇だったのか、姉の本棚を物色していてこの本を見つけ、「姉が読めたなら、自分にも読めるはず」と、重々しいテーマだわ、と思いながらも真剣に読んだものでした。

さて、そのドイツでは、ナチスは「自由を奪うもの」として認識されています。強圧的に差別をすすめたのですから、そりゃそうでしょう。ドイツ国民はともかく、ヨーロッパの方たちのアンチナチスの徹底ぶりはものすごくて、ナチスはことごとく、忌み嫌われております。松谷みよ子さんがドイツに向かったとき、「アンネの日記」が日本で出版されたことについて、「日本人にはこの悲劇が理解できないでしょう」と言われたそうです。

ところが、ナチスは忌み嫌われて当然だとして、ではいったいナチスの何が嫌なのか、となると、やはりこれは、「ナチスが自由を制限したこと」ではないかと思うのです。

『やつらの自由を奪え!(制限しろ)』

というようなヘイト・プラカードを掲げて、ナチスはユダヤ人を迫害しましたからね。
結局、強制収容施設のようなものをつくり、ユダヤ人の居住する場所まで制限した。
ところが、ユダヤ人であろうがなかろうが、人間ならだれしも、生まれながらにして自由を制限されたくはない、人間とは自由を制限されたくないもの、というのが、ナチス以後の世界の常識になりました。(まあ、黄色人種だろうが白人だろうが、だれだって自由を制限されたくはない)

自由に考える、自由に思う、自由に言う。

これを束縛し、圧迫し、圧力で禁止させようとしてきたのが、ナチスです。
ヘイトスピーチ、ヘイトの親玉のような存在でしょうかね。
当時のナチスを賛美するドイツ人たちの集会が記録ビデオに残っていて、かつてNHKでも放映されていました。「やつらの自由を奪え!発言させるな!自由にさせるな!」って、もうそりゃ、もの凄いヘイト・スピーチです。

こういうテレビ放映をみると、とたんに「これ、授業にできないかな」と、考えてしまうのが教師の悲しい性(さが)でしょうか・・・。


外国語学習、プログラミング学習、人権教育、性教育、どれも大事です。
ヘイト学習も道徳教育も、やっぱり小学校でやった方がいいでしょうな。

ナチスのヘイト動画を見ると、子どもたちは、

「文句を言ってるけど、文句は意見にしないと」

と言うでしょうな。

「ドイツ人もユダヤ人もみんなが良くなるための意見を言えばいい」

当たり前でしょうね。
授業はここから始まります。

では、なぜ、ヘイトになっちゃうのか。

これも、すぐに子どもたちから出てくるでしょう。

「なにかが不安なんだと思う」


やはり、不安、という病を、徹底理解することで、人間社会というのはかなりの程度、楽になっていくのではないでしょうかね。

人はなぜ不安になるのか。

これを子どもたちとつっこんで考えてみたいものです。

直樹とゆう子の物語






8月15日に神社へ行く

昔から神社が好きです。
木立ちを抜けて、朝陽のさす中を歩いて、お参りしました。
なんだか落ち着くのが良いし、静かなのもいい。
日本人に生まれてよかった、と思う瞬間ですネ。

わたしが日本がユニークだな、と思う一つの理由は、縄文時代です。

縄文時代には、100人ほどの単位の村が数多くあったと言われています。また、他のコミュニティとの間に、ほぼ殺し合いや大きな闘いはなかったとみられています。
自然が豊かで、争う必要もなかったのでしょうか。食生活の豊かさは、最新の研究によれば、かなりのもの。アサリ、ハマグリ、クリ、ドングリ、シイなど、おいしそうな素材ばかり見つかっています。栗を使ったクッキーなど、工夫を凝らして仲間みんなで楽しんでいた様子まで見えてきます。

縄文時代、身近にある食べ物は季節毎にバラエティーに富んでおり、縄文人はそれらをうまく組み合わせて食べていました。イノシシを飼養した跡も見つかっています。何らかの事情である食べ物が手に入らなくなっても、代わりになる食べ物はいくらでもあり、縄文人は飢えとは無縁の生活をしていたのです。飢饉が発生するようになったのは、主食を米という一つの作物にしぼりこみ、貯蓄を始めた弥生時代以降です。

縄文時代に、なぜ争いがなかったのか、なぜそれが1万年以上も続いたのか、未だ定説が無く、分かりません。
弥生時代になると、骨に矢じりのささった人骨が見つかります。甕棺(かめかん)の中の人間の骨は、闘いの悲劇を語っています。稲作になり、貯蔵すると同時に、不安感が社会全体を覆うようになった、と想像されているのです。

貯蓄をしない時代は⇒貯蓄がないにも関わらず不安が無く⇒殺しあいもない。

考えてみると、このことは実に不思議です。
さかさま、じゃないでしょうかネ・・・?
ふつうは、こう考えて当然でしょう。

貯蓄をしたおかげで⇒安心感が出て⇒そのため不安がなくなり⇒殺し合いもなくなる。

とね。

ところが、史実は逆であります。
貯蓄をせっせと頑張る弥生時代になって、急激に殺し合いが増える。これは、弥生時代になにか、別の要因がたくさん生まれたのではないかと考えるべきなのでしょうか?
弥生時代にはまだ手つかずの大地や自然がたくさんあり、人の住める原野が広がっていたにも関わらず、「貯蓄不安」がダーッと人々の心を占めたのです。まるで、それまでの平和な縄文時代とは人(ひと)が変わったかのように・・・。
なぜ、貯蓄をすると不安が生まれるのか
コミュニティを護る発想のなかった縄文時代は、コミュニティを超える者同士の殺し合いが起きず、同時に「不安やヘイト」もなかったのです。

では、いつ「不安」は生まれたのか?
「不安」は、いつ、日本に上陸したのでしょう?
弥生時代、米と一緒に、「貯蓄」という概念と一緒に、遠くから運ばれてきたのでしょうか。


・・・


わたしは朝早くの、誰もこない拝殿の真ん前で、そこだけ照らされている広場の土の上に腰を下ろして、しばらくそんなことを考えていたようです。

「アイタタ」
わたしは腰をあげて、立ち上がりました。
そして、神さまのおわしますところの本殿へ向かって、敬虔な祈りを捧げました。

「人々の心に神様が生まれる前の縄文時代、三内丸山遺跡の頃の日本には、『不安』はなかったのでしょうか。どんな社会が広がり、どんなふうに人間のくらしが営まれていたのでしょう」

じっと考えを進めます。わたしの想像の中で、スサノオノミコトや天照大神が動き回りはじめます。

しばらく考えて、神様が返事をしてくれますね。(わたしの頭の中で)

「不安がなければ、相当数、多くの物や概念、考え、心理状態をふくめて、無くなるものが多いだろうね。うちらも含めて・・・ガハハ(笑)」


不安が無くなれば、同時に消えてなくなるもののことを、「縄文脳内テーゼ」と呼んだらどうでしょう。

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わが地元・岡崎市、クーラーの設置!

やった!クーラーの設置だ!

わが地元、岡崎市の教育委員会は、英断を下した。

それが、クーラーの設置である。

「岡崎市教育委員会は31日、市内の小中学校67校のすべての普通教室にエアコンを設置すると発表した。2020年6月までに工事を完了させる。新たにエアコンを設置するのは、すでに設置済みのプレハブ校舎にある5教室と特別支援10教室を除く小学校47校、中学校20校の計1194教室。」


夏休みを延長する案が、文科省から出ていたけど、どうなるのかナ・・・。



参考まで。

公立学校施設の空調(冷房)設備設置状況調査の結果について(H29.6.9)

http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/29/06/__icsFiles/afieldfile/2017/06/09/1386475_01.pdf


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わが地元・岡崎市の夏は、これで決まり!

フィッシュオン 岡崎、という施設をご存知でしょうか。

わが地元、岡崎市には「フィッシュオン!」という言葉があるのです。

魚に、ねらいをつけて、オン!

という意味か・・・と。

それが、フィッシュオン!

・・・



この夏は異常に暑いらしく、戸外で遊ぶにはちょっと勇気が要る。

そこで、屋内施設のあそべる施設が大人気だ。

なかでもすばらしいのが、このフィッシュオン。



大池、金魚池のチケットにはエサ、竿、タオルが含まれている。

だから、おでかけは、手ぶらでOKだ。

また、餌も、生餌ではないから、ゴカイや虫を針につけるのが苦手な人でもだいじょうぶ。

おすすめは、チョウザメだ。

みんなでサメに、フィッシュオン!

・・・



サメだけではない。

鯉も、おります。

めずらしい鯉もいるし、小さなものから、大きなものまで、たくさんの鯉がいる。

そう。あなたと鯉との、新しい出会いがある。



新しい鯉の予感がする!

・・・



わが故郷、わが地元、

わたしの勤務校がある岡崎市内

の、名物プレイパーク。

それが、『フィッシュオン、岡崎』だ。

地元っ子として、たいへんに自慢できる場所である。

ぜひ、今すぐ、日本全国から、遊びに来ていただきたい!



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木が悲鳴をあげるとき

もう、30年以上前の話。

高校生の時でしたか。
ぼうっとテレビを見ていたら、こういうシーンが放映された。

100年の樹齢の木がチェーンで釣られて、製材所の中で切られることになった。

大きな丸鋸の刃が、大木を切っていく。

途中までくると、それまで素直に切られていた木が、まるで悲鳴をあげるかのようにのけぞり、斬られるのを拒否するように、身をよじらせて、斬られまい、とする。
チェーンで釣られた大木が、きしんだ音をたてて、揺れる。

あまりにも急激に暴れるので、危なくてなかなか作業が続けられない。

作業する人たちが、再度慎重に、刃を当て、角度を決めて、切り進もうとする。

が、しかし、ある個所にくると、急激に堅くなり、刃の音まで変わり、

がくん!

と大木がよじれて、切ることができなくなる。

製材所の人たちは、みんな、首をかしげる。

大木は、ある個所でかならず、丸鋸の刃を、拒絶するのだ。



わたしはこのシーンを、そのときも印象深く見たが、あとで何度も思い返しました。
ときおり、ふと、頭をよぎるような気がして、あれはなんだったのだろう、と思い返すのですね。
1年に1度は思い返して生きてきたから、ぜんぜん、そのときの印象が薄まることがない。
濃い記憶のまま、その記憶や印象を、今まで、ずーっと大切に守ってきてしまいました。



この映像には、つづきがありまして・・・

あとで見てみると、その場所は、枝が2つ同時に出て、しかしそのままでは伸びられず、お互いを避けるようにしてぐるりと半周して出てきたような場所でした。枝は、出てきたものの、スッとは伸びられなかったわけです。どちらの枝も、そのまま自分が素直に伸びていくためには、適した環境ではなかった。どちらの枝にも、目の上のたん瘤がいて、相手をよけねば自分が生きられなかったのです。いわば「木の苦しんだ場所」だったのでした。

このようにして、複雑に入り組んでしまった場所。
素直に成長することが許されなかった場所。
それゆえ、どうしても<堅さ>が残ってしまった。

その<堅さ>は、木として成長をやめた後、加工場で切られることになったときも、もう一度、そこに刃を当てられると、痛みを生ずることになった。

人も同じですね。

なにかに悩んだり、傷をうけてきた場所は、もう、当初のように素直に他を受け入れられないのです。かつて苦しんできた場所、痛みを受けてきた場所は、もう一度さわられると、どうしてもまた、痛みをぶりかえすものなのでしょう。

この痛みは、無視はできない。
現実に、感じないフリ、をして済ますことは、とうてい出来ない。

だから、堅さで身を護っていても、丸鋸がある点まで進んでくると、まるで悲鳴をあげるようにして、木全体がよじれたのです。

もうすでに、木全体が太ってしまっているから、入り組んだその禍根も、枝の複雑な成長のあとも、もう外からは見えないのですよ。外から見たら、まったくきれいな材木の一部なのです。だから、製材所のひとたちも、首をかしげたのですね。

外から見ただけでは、中身まで、分からなかったのです。
だから、難所をのりこえ、切ってしまってから、それがはじめてわかった。
「ここに、こんなに複雑な、成長の跡がある。だから刃を嫌って、暴れたんでしょう」
製材所の人が、言ってました。



8月6日。ヒロシマ原爆投下。
9日。ナガサキ原爆投下。
15日。敗戦。

これは、時代もそうでしょうナ。
われわれ国民には、傷ついた時代、記憶がある。
これを、消そうとしたり、見ないようにし、まるで無かったことにしたりはできない。
美化したり化粧したりしたら、難所は乗り越えられない。なぜ木が暴れるのか、理解できないし、じょうずに加工することもできないでしょう。


時代の痛み、民族の痛みは、消すことはできない。

もし、われわれが未来に進むことのできる道があるとしたら、

時代の痛みに、無理やりに刃を当てることでもなく、そこだけを削除したらよい、というものでもなく、そうとしか生きられなかった木の姿を想像しながら、その時代や人間を深く理解する、ということに尽きるのでしょう。

昭和の軍隊が、いかに人間性を無視したか。なぜ、無視できたか。
なぜ、同じ人間に、「命令」と『服従』が生まれたのか

私の祖父は、岐阜の大隊に所属した、ガダルカナルの生き残りですからなあ。
「全員、みんな、ふつうの顔をして発狂していた」

高校生の頃に聞いた、祖父の、重い言葉です。

玉砕

かみなりをまねて腹掛やっとさせ

江戸時代の川柳、とくに『誹風柳多留』の世界に惹かれる。

なかでも衝撃を受けたのが、題にあげたこの作品、
『かみなりをまねて腹掛やっとさせ』
だ。

この一句を最初に見たとき、目の前に映像がありありと浮かび、またその映像が途切れることなく展開していったのを感じて、思わずのけぞるほどだった。

「江戸時代って、叱らないで、子育てしてる!」

たった17文字の川柳。
しかし、その短いシーンから連想される世界はとても濃い。
テレビのドラマや映画よりも「濃い」ものだから、これはおそらく2時間の映画を10秒で感じ取るくらいの「エキス」の世界なんだろう、と自分で納得をした。

障子の陰に隠れて、「ゴロゴロ!!」とかみなりを真似るのは、おそらく父親であろう、と思われる。
そして、わが子のそばにいて、
「ほらほら、かみなりが鳴ったよ。おへそがとられてしまうから、腹掛けをしましょう」
と言い聞かせて、すかさずおなかに洗い立ての綿の腹掛けをかぶせにいった母。
さきほどまでは威勢よく、いやいや、をしていたのに、ふと、かみなりの音に不安を覚え、しぶしぶ腹掛けを許容する幼い子ども。

おそらく季節は夏だろう。
夕刻、もしかすると、にわか雨でもくるのだろうか。
母親が、腹掛けを着せたくなる時間。表を通る人の声も、少し急いて、足音もまばらになってくる。

母親はわが子に腹掛けをさせると、今度は急いで竃(かまど)を見に行くのだ。
父親は内職を続けるのか、子どもをおぶってあやしているだろうか。

この光景が、一瞬にして、この十七の文字の後に、あざやかに浮かんでくる。
江戸時代の子育ては、おそらく、強圧的、押しつけ的なものではなかったのだろう。


人間とは、何だろうか。
生産性があるとか無いとか、機械じゃないんだから、と思うネ。

かみなりをまねる父親の、心の根にあるもの、母親とのスマートな連係。
見事ではないだろうか。
そしてまた、やっとさせ、の「やっと」にこめられた、愛情深さ。

こういう世界を、授業で子どもたちと味わいたいと思う。
(教科書に、「誹風柳多留」は載っていないけどネ)

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子どもの名前を忘れる恐怖!

わたしは、人の帰属に関心が薄く、ひょんなところで同僚に会っても、

「〇〇小学校の〇〇先生」

というふうに思い出すことができない。

「あ、知ってる先生だ・・・。あれ?どこで会った人だっけ?」

となることが多くて恥ずかしい。

帰属による「つながり意識」よりも、「一宿一飯の義理」の方がしっくりくる。



地元・岡崎市内のスーパーで、ほんのちょっとカートを動かして道を譲ってくれた、見知らぬ人のほうに、妙な親近感を覚えたり、なつかしさのような親愛の情をおぼえて、話しかけたくなったりする。
そういうことの方が、どこそこのだれだれ、という帰属よりも、人間と人間のつながり、という点で、リアルに感じる性格なのでしょう。




夏休みでぼけたのでしょうか。

スーパーで、どこかでみたような子どもがいて、わたしを指さして

「あ!先生だ!」

と言われると、ドキッとして隠れたくなる。

わたしが、相手の名前を忘れているからであります。

今年、担任している子はまだ大丈夫だが、昨年、一昨年となると、すぐには名前が出てこないことが、たまーに、ある。

かつて、同じ教室で毎日のように顔をつきあわせて、共に過ごしていた子どもの方よりも、目の前の見知らぬおっさんの方に、ちょっとカートを動かしてくれた、ささいな心遣いを感じて、親身に感じるのは、いったいどういうわけだろう。

夏休みのスーパーは、不思議な空間です。

相手が私に感じているであろう距離感と、まったく異なる距離感を私は感じているのです。
向こうは、かつての帰属意識を元に、わたしとの距離を測ってきます。
ところが、わたしはその「かつての帰属」は、あまりリアルではないのです。

見知らぬおっさんにも、そしてかつて教え子だった、幾人かの子に対しても。


きっと、前世は、渡世人か、「流れの職人」だったのでしょう。

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