30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2018年07月

道徳の時間が増えて、「悪い子」が減る現象

道徳の時間に、

「正義ってなんだ?」

と、しっかり考えるようになる。

桃太郎の側から見るだけではない、鬼の立場も事情も見てやろう、というのが道徳であり、決して一方的な価値観だけで決めつけてみて相手を断罪しようとしないのが道徳です。

桃太郎の側から見ると、おそろしい形相でわけの分からない言葉をしゃべり、山から下りて来て畑の野菜を勝手に食う者が鬼に見えたようで、その鬼を殺すのが、いかにも正義に聞こえるが、

鬼からすると、故郷の戦火から逃れるために海を渡り、別の地方に来て、追っ手を怖れて山へこもっていただけかもしれない。

道徳をやっていくと、子どもたちに「複眼思考」や、「俯瞰思考」が身につく。

物事を、ただ単純なイメージで片づけるのではない思考が身についていく。

悪い奴をやっつければ、残りの清い者だけが残り、その後に、かならず平和が訪れるはずだ、というのが桃太郎サイドの見方。

しかし、その思考法では、悪い奴というのは、あとからあとから、湧いてくるのでありますネ。

「悪い奴を排除すれば、清い者だけが残るはず」

という論理で、行動した後、おそらくその余韻が残っているわずかな間だけ、安心できる心理・思考法なのでしょう。

半年もすれば、

「またどこかに悪い奴がいるかもしれない」

と疑心暗鬼になり、

「悪い奴はどこだ」

となり、

「悪い奴を削除しないと不安」

になり、

「悪い奴がどこかに隠れているかもしれない」

と怯えて暮らすようになり、

「あいつは悪い奴だ!」

という合図を待つようになる。



ところが、道徳をやっていくことで、不安が解消されるのですな。

鬼を理解する、鬼の立場に身を置く、ということを学ぶ。

学んだ者だけが、「鬼と和解できる道筋」を探すようになり、思わぬ副産物を得る。

それは、「鬼を排除しない、という思考の方が、安心感が大きい」という気付き、でありましょう。

そうなると、今まで、血眼になって鬼を探し、惨殺すべき!と叫んでいた自分を、客観視できるのです。

つまり、道徳が学校に根付くようになると、鬼は消えていくのです。

鬼は姿を変えていないのに、周囲が、鬼を理解するため、ツノや牙をみても、「怖い」と思わなくても済むようになるであります。

したがって、道徳が増えると、悪い子=「鬼」が減っていくことになるのでしょう。

〇〇が怖い!
〇〇は恐ろしい!
〇〇をやっつけろ!

やがて、ヘイトスピーチは、学校教育の道徳によって、減っていく道理になるのでしょうか?

つまり、ヘイトの心理を徹底的に洗って、その「偏り」を自覚するところまで、しっかりと学習する、ということでしょう。







道徳評価で現場は混乱せず

通知表で、道徳を評価する、というので、現場が混乱している、というのが世間の見方らしい。
新聞や、ネットのニュースでも

「通知表!道徳を初の評価!現場は混乱!」

という記事をどっかで見た。

ところが、現場はまったく混乱してないですぜ。
だって、数値化はしない、という指示ですもの。

「〇〇は△△だろうか、という問いを、クラスのみんなで話し合いました。よく考えて意見を出していた。どちらの立場にも身をおいて、真剣に考え、意見を変えることも躊躇せず、正しさを決めつけないで、答えを固定しないで考えようとしていた」

よく考えられたこと、正解がないと思われる問いに、より人間らしく、より科学的に向き合おうとしていたこと。

そこを

「一生懸命に考えたね!」

ということだから、まったく難しいことではない。

なぜ、マスコミが「学校現場はいつも混乱している」というイメージを、世間に売り込んでいきたいのか、その背景やねらいがさっぱり、分からない。

学校で「どの子の意見も真剣に聞いて、自分でももう一度問い直し、なにが正しいとも決めつけないで、あくまでもどこまでも自由に考え続ける」という態度を身につける。そういう素養を身につけた国民に育っていく。

10年もすると、国会が変わるよ。
・・・有権者が育つから。

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カジノ店内の貸金業を学校教育で扱う

カジノでは、負けるとお金を支払うことになる。
「カジノは儲かる」という点だけを強調して覚える子がいるからだ。
まずは、そのことを学校で教えるべきだ。

つぎに、カジノでよく起きる、客の心理について学ぶべきだろう。
たとえば、投下したコストを回収したくなる「サンクコスト効果」という心理現象がある。
コスト、と認識した額だけは、「回収しなければ」と思う。

本当は、負けはじめた瞬間に「ここでやめよう」と判断するのが一番損が少なく済む。
あるいは、最初から、今日は〇〇円負けたらやめる、と理性的に判断してから賭けることがよいだろう。
しかし、そのどちらも、強い意志が必要だ。
人間は意志が弱くなる瞬間があり、脳も、ふだんはとても正しい判断をしているはずの人が、ぼけたり、勘違いしたり、間違えたり、うっかりしたり、注意不足になったりすることがある。
そのため、上記の

「サンクコスト効果」

に、自分が陥っていることに気付かない。
そのリスクを、あらかじめ日本国民には教育として教えていくべきだ。
それが、射幸心教育、である。

カジノの店内には、おそらくアコムなどの金融窓口が置かれ、借金に借金を重ねる人が出てくるだろう。
「もう一度、賭けたら当たるかもしれない」
こう考えて、つい借金を重ねる人の気持ちも分からなくもない。
自分の金なのか、他人の金なのか、区別・境がわからなくなり、どんどん摩(す)る、感覚が麻痺して自分の置かれている状況が客観視できなくなるようになる人が出るかもしれない。


カジノは本来、海外からやってくる観光客からの利益を集める装置として、国が設置するもの。
だとすれば、日本の国民がその罠(わな)にはまり、生活を破綻させたり、人生を狂わせたりするのは、日本国としても、政府与党としても、望んではいないはずであり、文科省もそれに対応するべきだろう。つまりは、ただしい「射幸心教育」を我が国の国民には施すべきである。

英語外国語教育が軌道に乗り、つぎはプログラミング教育が軌道に乗る。

そのつぎにくるのは、カジノ業界で働く人材を育て、さらにはカジノで人生を棒に振らないようにするための教育だ。中毒や依存癖、耽溺する精神状況、〇〇アディクションという自分にはコントロールできなくなる強迫症状からわが身を護るための、「射幸心・心理教育」を軌道に乗せるべきだろう。

gyanburu

学校の設計に世間が無関心であること

今の勤務校は、PTAがつくった学校だそうだ。
なによりも、学校を立ち上げる際には、村人がこぞってPTAの集会に集まり、どんな学校にするのか、1年生の教室をどこに配置するか、池をつくるかどうか、木は何を植えるか、芝生にするか、掃除のときのバケツの水を捨てる場所まで、あれやこれやと喧々諤々、だったらしい。

こんな愛情が込められているのだもの、いい学校になるに決まっている。

低学年は、広い教室が良いだろう、というので、国で決められた基準よりも大幅に、広い。
それも、1クラスごとに独立していて、静かな環境を整えてあげようとする当時の親の心遣いに満ちている。
小さくても採光のための空間があけてあり、ろうかも教室も、明るくて風通しが良い。

おまけに低学年棟は、当時の食堂にいちばん近い。
1年生が一番先に、食堂にきて、ゆっくりゆっくり食事ができるように、という設計だったしい。
(当時は、全校児童が食堂に集まって、一斉に食べた)

当時の記録を読んでいると、涙が出てくるほど、人間の愛に満ちている。

幼い村の子どもたちを、いかに大事にしていたか。
子どもの笑顔がみたくて、みたくて、そのために大人たちが大騒ぎしながら、学校の設計に取り組んだ。

学校建設のために私有地をゆずった地主さんは、その条件として、学校の周りには大きな建物が立たないように、村にきっちりと働きかけたそうだ。

ところが、最近、同じ県内に新しくできた学校の先生と話す機会がありまして。

県の教育センターで、教員の研修を受ける際にいっしょになり、世間話をしていると・・・

「新しいのはいいのですが、コスト重視でネ。見た目はいいけど、教育には向きません」

その先生の学校は、昨年できたばかり。
東京の建築デザイナーが、鳴り物入りで現れて設計したらしい。
外側からみた、体育館の見た目が奇抜で、カッコイイ。
ところが、木を植えない、草を生やさない、鉄骨むき出しの階段、風通しの悪い校舎・・・

「校庭と低学年教室との距離が、いちばん離れているんです」
「子どもを知らない大人が設計したとしか」

なによりも、PTAが一切、設計に関わることができなかったとか。
たしかに予算、建築計画、地元の土木業者との関係など、政治がらみの事情はあったろう。
あれやこれや、突貫工事であっという間にできた校舎を、だれも愛せないとしたら。

なんのため、なんのため。
目的からどうしても、ずれるのが、人間の思考の癖らしいネ。
期限内におさめることが、なによりも優先されると、ひずみが出るよね。

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教員はブラックではない、とあえて

.
ずっと講師を続けていた知り合いの若い先生が、転職することに。
しばらく会っていないから、まだ今年も採用試験を受けるのだとばかり思っていた。
昨年秋、試験に落ちたことをメールで教えてもらい、

「また来年、がんばります」

と言っていたから、がんばれ!ぜったい受かる!と
励ましていた。


この間(かん)、どんなことを思っていらっしゃったのか。
昔、共に教育現場で汗を流した者どうしだ。なんだか寂しさがつのる。

WEBのデザインや広告の仕事に、「つて」があるらしい。
自宅で半分仕事ができ、会社には週に2日通えば、だいじょうぶだと。
貯金で、自宅用の高速PCを買うのだ、とメールで教えてくれた。
「最新のフルスペックを購入します。貯金がなくなりました(笑)」
と、明るい調子のメールが届いた。


まだ20代、若い彼の意思は尊重せねばならない。
新しい前途を祝していかねばならない。
そう思うも、なにか心にひっかかるものがあった。



教員は、ブラックだ、という指摘が、世間にはある。
たしかに過労死する教頭のニュース、失敗を責められ世間の矢面に立つ校長の映像、
保護者対応に苦慮する教員、エアコン・クーラーのない教室、
「学校は変だ」「先生は、ズレている」「教育委員会はおかしい」
すべて、教員のたたかれぶりを見ていたら「こんな職業はあかん」と思って
志望率も下がるのは分かる。

実際そろそろ、大都市では3倍を切るほどまで、倍率は下がった。

逆に言うと、

なろうとするには魅力がなく、なりてのいない職業

だ、ということ。



若くて、希望や、願いや、たくましい夢をもって、
現場に来る人がいなくなるようで、さびしい。

教育現場は、ますます光のあたらない、暗いイメージの、職場として
語られるようになっていくのだろうか。
若い世代はもちろん、世間一般にも、
『教員の職場』が、あまりにも暗く語られていないだろうか。

ところが、世間でそう言っていても、教室は明るく、笑いに満ちている。
やさしさと楽しさ、学ぶ面白さで、わくわくしている。

このギャップを感じている身として、どうにもなにか一言、いいたくなる。

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暑さと熱中症に勝つ授業のしかた

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だれている。
なんと、教室の中の気温が、33度を超えている。
子どもたちの目が、訴えている。

「あつい~・・・だるい・・・氷がほしい・・・」

これは、実際には聞こえてこないけれど、多くの子どもたちの声だろう。

なんせ、クーラーが無い。
教室の風通しは、悪い。
扇風機は、1台のみ。

こんな中で、けなげにも子どもたちは頑張っている。


教師は、ここで、暑さに負けないような授業をしなければならない。
わたしが意識しているのは、ちょっとしたことだ。

1)声を出す
2)だれにでも答えられるような問題をやる
3)書く字数を減らす
4)これができたらOK!という単純明快な目標を示す
5)今日は暑いのにがんばった!とむちゃくちゃ褒める


一番いいのは、給食を早めにする、ということだ。
全校で1番に、取りに行く。

つまり、身体の休憩と、心や気持ちの休憩を、きちんと長めにとること。


算数で合同な図形、という単元をやっている。
この図形は、なんという図形ですか。起立!言えたら座りましょう!
「三角形!」
こんな発問は、だれにでも答えられる。
それを、わざわざ、きく。

・・・

こんなの、ふつうなら、やらないですよ。
しかし、極度に暑い教室の、猛烈にだれた気持ちの中だ。
とにかく、気持ちを奮い立たせるために、やっていく。のせていく。
算数の1時間の授業を、できるだけ、短く、単純にして、進めていく。

暑さに負けないためには、授業を短くする工夫が大切だ。
余計なことは、しない。どんどん、すすめる。
国語も算数も、社会も理科も、夏なら夏の、進め方がある。

もうひとつ。

やたら、勝負をもちかける。
つまり、ゲーム感覚で作業をする。

ただでさえ、ぼうっとしやすいのだ。
「下を向いていたら、鼻血が出てきました」
という子がでるくらい、教室が暑い。
意識が遠のくくらい、暑い。

だから、
「次の問題、写真をみて気づいたことを3つ書く!かけたら手を挙げましょう!速いのがイイ!ようい、ドン!」

と、なんだか知らないが、ゲームのように追い込んでいく。
すると、どんよりした頭でも、鼻血が出そうでもなんでも、とにかく手や頭が動く。

フォローも忘れずに。
3つ書けた子には、3つ書けた子は「ちゃんと3つも書いたのはすごい!天才!」という。
速く書いた子は、「頭の回転がすばらしい!」という。

授業のテンポが異常に速い。
その分、早く終わらせる。

だって、33度超えた教室だもの。
工夫しなきゃ。

熱中症

高校生の自分へ、手紙を書いている。

最近、高校のころを思い返すことがありました。

それは、わたしの写っている古い写真を実家の母が物置?から見つけ出し、「こんなのがあった」と小包で送ってきたからです。

その写真を見ると、若い男の子が着物を着て高座にあがり、落語を演じています。
懐かしい。文化祭での一コマなのです。
わたしは、教卓の上で、ずいぶんと真剣に演じているのですが・・・。
頭の上には、薄青い厚紙をのせ、さらにその上にナスをのせています。
厚紙でつくった『きれいに剃り上げた月代(さかやき)』に、ナスの『ちょんまげ』をのせたつもりでしょう。・・・ただのアホですね。

40代後半になったおやじの、あまりにもアホな姿に息子は爆笑し、妻も涙を流していました。父親としての権威は地に落ち、次の日の朝まで、わたしは嗤われ続けました。どうして、こともあろうに、よりによってこんな写真を急に寄越したのか・・・。
まったく・・・実家の母を恨みましたヨ・・・。

今さら壁に飾るわけにもいかず、どこか本棚の隅に追いやって見ないことにしたかったのですが、30年前の自分の顔をみていると・・・

実は、あることを、ふいに思い出しまして!

わたしはつい、片づける手をゆるめて、物思いにふけることになりました。


そうそう。
そういえば。

そうだった、そうだった。
このとき、わたしは学校の文化祭のなかで行われた、討論会に参加したのでした。

「自分の利益を正直に追及していくということを、真面目にちゃんとやらないといけない。それも世界中の一人残らず、45億人なら45億人が全員、他人の迷惑ということを考えるよりも先に、まずはきちんと自分の幸福を追求しないといけないのでは」

ということを言いました。

すると、目の前にいた名前の知らない女子が、

「いや、そういう考えではいけない。みんなが自分の勝手な幸福を追求しはじめたら、世の中はとんでもないことになる」

と、反対意見を出しました。

わたしは言いたいことが伝わっていないと考えて、さらに説明を試みて、

「いや、自分の幸福を追求していないからかえって迷惑が生じるのであって、本当に考えきることだと思う」

というと、彼女はため息をつきながら、

「そんな勝手なことでは、いつかしっぺ返しがくる」

と、やれやれといった調子で肩をすくめたのです。

どうです?この話。
さすが、人生の初期ですな。
「幸福とは何ぞや」と、真剣に考えておったのでしょう。
当の高校生にすら、青臭い、と馬鹿にされるような出来事です。



まあ、わたしはそのことを40代の後半になって、今でも鮮明に思い出すことができる。
当時、そのくらい、大きな衝撃を受けた。

「自分の幸福を追求すると、他を侵すことになるのか?」

実はその後、30年以上、今でもそのことを考えていて、というか、その時以来、ずっと当時の自分になんとか答えを言い渡してあげたいという気分のまま、生き続けています。今でもこうやって、当時の自分に対して、ブログやらなんやらコラムを書いたり、講演をしたりしているのは、いわば「当時の自分に向けて、何か言いたい」からなのですね。


17歳のわたしは、今でもわたしの中に生きていて、そして、やはり、同じように問いかけてくる。

「どうだかね。なにか、考えは進んだかい?」と。

叱らない、困らない、という教師を続けているのも、その17歳の自分に、なんとか答えらしきものを見せたい、という意地のようなものなんでしょう。

なんのことはない。
大人になってもずっと、自分自分に手紙を書いている、だけのこと。

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写真は、でかいマンボウ。

まじないは悪いものではない

.
すぐ前の記事の

「おまじないはフィクションだ」

という文章に、読者からの反応があったため、追記しておきたい。

おまじないは、悪いものではない。
また、その著者を否定するものでもなく、楽しみを奪うつもりもない。
おまじないが効く!と思うことで、プラシーボ効果さえあると思うし、実利も生まれるかもしれないからだ。

しかし、やはり弊害は大きい。
江戸時代から明治にかけて、東大生であった井上円了は、人々がなぜフィクションを信じるのか、その謎を解明するために生涯をかけている。井上が迷信を世の中から一掃するために取り組んだ原点は、人の命がむだに死んでいくことからだった。

つまり、医学的に患者の身体を温めなければならないはずであるのに(当時でさえそのようなことはわかったはずであるのに)、近所の奇石に神仏が宿り、著しく感応している、という土地の伝説を信じて、寒い夜に火を焚き、無理に患者を連れ出して結果、衰弱死させてしまうなど。

なぜ人はフィクションを信じるのか、どうして合理思想が普遍化しないのか。
そのことの解明に、前記事の山片蟠桃も、井上円了も、挑戦していたのであろう。

繰り返すが、おまじないそのものが悪いわけでは、ない。しかし、うかつにもやはり事実実際から目をそらさせてしまう弊害は、いつまでもつきまとう。

理科の実験で、わたしが静電気を起こして見せると、
あまりにもAくんの髪の毛が、劇的に逆立つので、子どもたちはいっせいに驚く。

そのとき、わたしがもしも仮に、天に祈るしぐさをしてみせたら、どうだろう。
もしかするとクラスの何人かは、

「静電気が起きたのは、先生が天に向かってなにか言ったからだ」

と思う子も出てくるだろう。

『劇的な効果』を利用して、人になにかを「確信させる」ということは、たやすい。エレキテルで万病が治る、という奇説を流布して、金儲けをした明治の人は、そのことを利用したわけだ。実際には、エレキテルが単発作用したわけでなく、治る治らないは、その患者を取り巻く、数えきれないほど多くの環境要因がさまざまに合科、作用して為されたものであったでしょうに。

小学校は、方法によっては、子どもにまちがったフィクションを信じさせることができる場である。われわれ教員は、井上円了と同じだ。フィクションによって現実、事実実際を見ることができなくなる弊害を、科学の力でとりのぞかねばならない。われわれは、迷信バスター、なのだ。

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上は、日本をつくってるところ。(神が)

恋多き少女たちの奮闘ぶり

小学生の男子というのは、なぜもこう、忘れ物が多いのでしょう。

「先生、わすれました」

と報告する顔に、悪びれる様子はまったくなく、本人もどうして無いのか、不思議そうな顔さえしている。

「なんでだろう。プリント、入ってないや」

入れてないからだろッ!



わたしは割り箸を大量に保有しており、なぜかそれが校内に知れ渡っている。
だから、別名、「割り箸先生」である。
実際、見たこともないような下級生が、給食の時間に教室にあらわれて、もじもじしながら

「あらませんせい・・・わりばしをわけてください」

と言うことがある。

なぜ、私が大量に割り箸を保有していることがバレたのだろうか。

クラスの気の利く女子が、

「あ、はいはい。割り箸、一人分ね!まいど!」

という調子で、

「先生!ひとつくださいね~」

ともらっていき、その坊主頭の少年に渡すと、彼はうれしそうにそれをもらって帰る。

女子はそれを見送ると、「先生、また一つ、割り箸が売れましたね」という。

なぜ、女子は、人に物を貸してあげることをうれしがるのだろうか。



クラスの女子は、クラスの男子に、いろいろと物を貸している。

消しゴム、折り紙、はさみ、のり、クーピー、クリップ、ふせん・・・

あれもこれも、まるで3歳児に対するお母さんのように、ものを渡している。

で、男子はそれを借りて、平気でいる。

わたしがあまりにも目に余る、と思い、

「こら男子!お礼を言わんか、お礼を!」

と言うと、

「あっ、ありがとう!」



わたしはクラスの女子を、全員、表彰してあげたくなる。

「こら男子!女子に世話になってるばかりじゃなくて、たまには恩返しをしなさい!」



クラスに一人、あまりにも目に余る子がいて、隣の女子がほとんど自分の持ち物をぜんぶ、貸してやっているのを見て、わたしはいつか、声をかけた。

「ねえ、隣のAくんに、物をたくさん貸してあげてるけど、たまには断ってもいいんだよ」

すると、その女子はめっそうもない、という表情になり、後ろの席の仲良しの女子と顔を見合わせて、

「いえ!貸したいから貸してるから、いいんです」

と言い切る。

その子がのちに、日記に解説してくれたところによると、

彼女が学校に持ってきているすべての文房具には、彼女の念がこもっているのだ、という。そして、隣の大好きな〇〇くんが、貸して、というときは、その日一番念をこめた物を貸すらしい。すると、彼と相思相愛になれるはずだ、という。
「先生、念のこめかたにも気を付けないといけません。好きになってくれないと呪ってやる、とかマイナスの念はいけません。わたしを好きになってくださいね、というくらいの、明るい念がいちばん効果的です」
と、わたしに対してなぜか指導する感じで、日記にアドバイスを書いてくる。

「なるほど。でも、先生は心配です。あなたの隣席のAくんは持ち物や、整理整頓に無頓着すぎます。あなたが生涯、彼の世話をしつづけるのは、無理だと思いますから、彼を成長させた方がいいです。だから、あまり餌を与えすぎない、というか、あまり貸さないで、たまには自分でもってこさせましょう」

するとまた次の日の日記に返事が書いてあり、

「そのアドバイスは相思相愛になってから聞きます。今は貸すのが大事です」



わたしは、Aくんのお母さんに、このことをいつ話そうか、と思案中である。

キューピッド

山片幡桃(やまがたばんとう)と恋のまじない

江戸時代の商家の番頭さんで、山片幡桃という方は、死ぬ間際に
「地獄なし極楽もなし我もなしただ有ものは人と万物」
「神ほとけ化け物もなし世の中に奇妙不思議の事はなお無し」
と詠んだとか。

しかし、いくら山片幡桃が

「狐狸妖怪の類は現実には居ないのだ」

と説いたとしても、それを信じたくなるのが人の心でありましょう。
江戸はおろか、明治、大正、昭和、平成になっても、つまり山片幡桃の時代から200年経過しても、人には狐狸妖怪、摩訶不思議、易占い、風水予言、つまり現象として説明のつかないものを信じたくなる心理がある。

とくに子どもはこういう話題が大好きだ。
女の子が家から占いの本を持ってきていて、不思議なおまじないをやっている。左手の甲に赤いペンで好きな人の名前を書き、その上に絆創膏を貼って、3日間そのまま過ごすのだ、という。すると、摩訶不思議なことに、大好きな〇〇くんが、笑顔で話しかけてき、次第に恋が成就するのだとか。

その子はすでに何度もそれを繰り返しているが、効果が絶大なのだそうだ。
3日目。
偶然にも、彼女が水道で手を洗っている時に話しかけてきたらしい。
相手は、同じクラスのその〇〇くんという、目元の涼しげな少年。
彼女はすぐさま、
「おまじないの効果だ!」
と思った。
また、給食当番のときに、おかずの入った容器を返すタイミングが同じになり、その、大好きな〇〇くんと目と目があった。これまた、絶大なるおまじないの効果だといえよう。

わたしは彼女に、

おまじないは面白いけど、本当に恋をかなえるためには、おまじないはやめたほうがいいかもよ

と言いたくなる。
(しかし、言ってない)



〇〇くんは、けっこうな勉強家である。
西洋の児童文学を読んで、感想を書いてくるような子である。
5年生で、ゲド戦記(岩波書店)を読んでいるような子だ。
また、理科の実験で、めだかの観察をするのに、毎朝かならず顕微鏡をのぞいて、成長過程をメモするような子である。

こういう科学的な思考の子に、「おまじないでラッキー」という感覚は、どうも合わない気がしている。だから、この恋の行方が、相当に心配、である。

現に、〇〇くんは、利発なRさんと、よく活発に会話をしているし、今はそうではないが、Rさんと隣同士だったときはまったく良い雰囲気だった。ノートも見せ合うし、お互いに一目置き合っている気配があった。

手の甲に赤ペンで書くのも、良い。
おまじないの効き目を信じるのも、良い。
つまり、その行動自体が良いとか悪いとか、価値の有無を問う問題ではない。

しかし、おそらくおまじないを信じているために、話しかけるチャンスを失ってしまうことの方が多いだろう、と思う。

おまじないの効き目が、徐々に効いてくるのを待っている間に、恋敵のRさんはガンガンと、笑顔で彼に話しかけているのだから。


ねえ、ねえ!

おまじないやってる場合じゃない、やで!

まじないなんて、マジ、無いし!

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上は、おまじないは脳内の仮想処理データでありフィクションに過ぎない、と喝破した、江戸時代の思想家、山片幡桃さん。

【非常事態】自分の命を救う防災教育を

5年生の社会で、日本の土地利用について学ぶ。

日本は南北、東西ともに細長くのびていて、大陸に接していない。
弧を描いて、大陸から離れている。
寒い土地もあれば温かい土地もあるし、標高も高いところ、低い所、いろいろとある。
また、海に接している土地もあれば、山の盆地もある。離島も多い。

5年生は、この1学期に木曽三川を学び、輪中を習った。
輪中では堤防をつくり、川の氾濫に負けないような土地の利用の仕方をしている。
愛知県には日間賀島のような漁業が中心の土地もある。そこで、津波や高潮による被害を防ぐために、堤防や防波堤をつくり、島の暮らしを守っている姿も、実際にみてきた。

ところが、今回の大雨は想像を超えている。
ニュース映像で流れている写真、映像、どれも水のこわさを伝えていた。

防波堤、土留め、土砂災害を防ぐための工事やダム建設など、人々の工夫や災害に対する備えは、あった。それでも、その備えを超えた、自然災害が起きた。

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(写真は朝日新聞記事より引用)

災害、というものを真正面からとらえる、学習内容をつくるべきである。
防災教育を、まともにやるべきだ。社会の教科書に、防災、という単元をきちんと位置付け、ボリュームを増やすべきである。現状ではたかだか数ページしかない。少なすぎる。

ここは日本だ。

災害の多い国だ。


阪神の震災で、何を学んだか。
東日本大震災での避難の実態はどうであったか。
津波、放射能から逃れるために、国の情報提供はどうだったのか。
そして、肝心な、

「情報は頼るべきだが、情報が無くても動く勇気、情報が届く前に動く勇気を涵養すること。最後にたよるのは政府の報道ではなく、自分の判断であること。自分をすくうために直接に責任を負うのは自分自身であること。自分の命は国や政府の下に所属しているのではないこと。一方、政府は災害から国民を救うために、事前の努力を最大にしておくのが任務であり、いざ災害が起きた時は日頃の訓練を生かして人々を救うための人材を確保する」

ということを、学校教育で教えられるようにしていきたいものです。

「政府から連絡がないから、まだ行動しない」

という子にならないように、国はしっかり教育をしなければならない。
そのためには、『国民の命は国に所属しない』『国民の命を守るために国を組織する』ということを、きちんと位置付けるための学習指導要領の制定が必要でありましょう。
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