30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2018年06月

「何がやりたいの」ときく進路指導

何がやりたいか、ときくのが当然になってきているのかと思うネ。

で、子どもの方には、とくに何もないわけ。

そこではた、と困る。
大人も子どもも、困ってしまって、見つめ合うわけ。

「ん?なにもないの?」
「はい」

で、またしばらく、見つめ合う。

これが、今のキャリア教育の実際のところ。

大人は、なにかさせなきゃ、と思うので、焦る。
それで、

〇〇はどうか
△△はどうか
□□もおもしろいよ
♢♢が向いているかも


などと伝えるも、肝心の子どもの方は

「はぁ」

という感じ。子どもには

(できることなら、そんなこと何もしなくてすませたい)

という気持ちがあるから、まったくかみ合わないわけね。

そういう子どもとやりとりをしていると、大人の方の、頭脳の内部が、ちょっとだけ、混乱してくるのネ。

「いったい、なんでおれはこんなに焦って、この子になにかをさせようとしてるのだろうか」

と。

そこらへんになってくると、だんだんと少しずつ面白くなってくる。

仕事って、いったい何だろう?

と、大人も純粋に考えたくなってくる。

大人なんだから、そういうことは分かっているはず、という前提が、ガラガラくずれる。

「お金が必要だし、実際に稼がないと。貧困にさらすわけにいかない」と、大人は唇をかみしめながら、子どもに伝えることになる。

教室の黒板に、でっかくお金のマークを書いて、「¥、これ!・・・¥!これを稼がないと、食っていけないでしょうがっ!」と、心なしか声を荒げて、言うことになりますね。

これが、現状の、キャリア教育の実際のところ、であります。
もちろん、こうであってはなりません。
理想は別にきちんと存在していて、文科省をはじめすでに多くのところで語られているから、実際、今は、多くの教員がもっとちがうアプローチをすると思います。


つまり、なにが違っていたかと言うと、入り口がまちがっていたのだ。

「何がやりたいの?」

と聞くところから違っていたのだ。
スタートがまちがった扉を開けてしまっているので、深い森に迷い込んでしまうようだ。

キャリア教育が開く扉は、まったくちがう扉。

「何がやりたいのか」ではなく、「わたしは何者か」でもない。

さらに、その前から問わないと、子どもに社会をイメージさせることはできない。

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悪口について

4,5月に問題になったのは、「悪口」でした。
たいていのクラスで、最初にぶつかるのが、この「悪口」問題です。

友達関係が安定するためには、この「悪口」の問題を超えていかなければなりません。
さもないと、みんな安心してクラスで過ごすことができません。

悪口の問題を、クラスの全体がなんとか超えていくと、その先の展望が、少しずつ明るく見えてくるのが、ほとんどの学級のたどる道なのではないでしょうか。

そして、その「悪口」というのが、実は子どもが「ことば」に直面するのに、もっとも必然的で、実践的で、必要な対象なのでしょう。

子どもが「ことば」に直面する授業の展開

これこそが、道徳の授業、だとおもう。

ことばの問題は、とってもデリケート、繊細なものだ。
ことばを信じる度合は、ひとそれぞれで、まったく違う。

同じ地域から、同じような子どもが集まっていても、まったく異なるリアクションが出てくる。
「使っている言葉に対する、認識の違いがこうまで顕著だとは・・・」
という実感。
自分の認識の仕方は、おそらく世界唯一、自分だけのものだろう、という予感。これが、自立の第一歩か、とも思う。
個人の感想は、どうあがいても感想に過ぎず、推測にすぎず、人類普遍のものには成り得ない。

「ひとが言っている言葉は、いくら聞いても、まったくわかるものではない」

そのあまりにも当然なことを、子どもたちと、一つ一つ、確認していく作業。

このことのうえに、国語も、道徳も、成り立っていく。

ことばから、すべての推測を奪い切る、という単純な作業が、子どもにもっとも響いていく。

結果、悪口もだんだんと、フェードアウトしていくようです。

「これまでは、ことばに、感情がもっていかれていた」ことを子どもたちが、なんとなく、把握できていくからでしょう。

言い換えてみると、ことばに、余計な権力を与えない、ということになろうかと思いますネ。

ことばで相手を理解しようとするのが、もっとも困難である、という開き直り。

しかし、理解しよう、と思わないでも、まったく困らないほどに、すでに通じ合っている、ということ。

こういう一つ一つのことを、学級皆で確認しあっていくのが、面白い。
また、小学校という場に多くの子どもを集めている、ということの意味は、実はこのことなんでしょう。

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射幸心(しゃこうしん)教育のススメ

射幸心(しゃこうしん)と賭博行為は密接な関係にあり、日本においてつい先日まで、賭博行為が規制されてきた根拠は「国民の射幸心をあおるのは勤労によって財産を得ようとするという健全な経済的風俗を害する」という理由による。

ところがこれが改正されたため、日本は国をあげて、射幸心に白旗を上げた、というか、射幸心を利用して金儲けをしよう、ということにしたらしい。

しかし、その射幸心ゆえに、自国の国民が不幸になってしまっては元も子もないため、おそらく今後、小学校、中学校を中心に、「射幸心」を克服するための指導が行われて行くのではないか、と予想される。

文科省も、時代がここまで進んでしまった以上、射幸心を制御するための教育プログラムを早急にくみたてていく必要にせまられている。

まずは東京大学をはじめ、国の先進的な研究機関が、「射幸心理学科」を創設する。
つぎに、高校、専門学校、中学校で「射幸教育」を行うべきであり、小学校では道徳の時間に「射幸心依存(SHA-KO addiction)について、学ぶべきだろう。

アディクションとは簡単に言うと、耽溺する、癖になる、というような意味である。
心理的には、強い依存、ということになる。

抜けたくても抜けられない、やめたくてもやめられない、頭の中が、始終そのことでいっぱいになる。ふと気が付くと、博打について考えている、という調子。ふりはらっても、ふりほどいても、博打の思いが、頭から離れていかない、まるで身体がそれを欲するように、依存してしまうのである。

射幸心を強くさせる心理はかなり解明されてきており、一つの指標はそれがランダムである、ということらしい。
スロットに夢中にさせようとして、被試験者がスロットを試みるとすべて当たるように仕向けておくと、「当たりばっかり」がでる。すると、調子に乗ってスロットに耽溺するようになるかというとそうではなく、むしろすぐに飽きてしまうそうだ。
かといって、ずっと外れていてもダメで、やはり「これ当たらねー」と言ってやめてしまう。
一番、スロットに夢中になるのは、(理由がはっきりしないが)当たる、当たらない、ということが偶然にもたらされる、という要素らしい。

人間は、どうやら偶然にそうなる、ということについてドキドキはらはらするらしく、そのことが脳をかなり刺激するようだ。だから、カジノの商売元は、客には「ごくまれに、最小限度に勝たせる」のである。

こういうことを、小学生のころから、学ばせるべきであり、そうでないとカジノで人生を狂わす子どもが出てきかねない。

少なくとも、「射幸心」とはなにか、どのようにしむけていけば「射幸心」に人が依存するようになるのか、小学生でも学べるようにしていかないと、手遅れになる。
同様に、アルコール依存、薬物依存、ネット嗜癖、スマホ依存、それらがどのような心理からもたらされてくるものか、人間の心の解明を、小学生の道徳ではじめたほうがいいと思う。

『射幸嗜癖』は、不安と関わっている。必要なのは、人間心理の『不安』というものについて理解することだ。「安心」というものがわかってはじめて、「不安」が解消する。不安は、安心のうらがえしではない、という点を、子ども時代にきちんと学んでおきたい。

チップ

あいさつ

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あいさつを強要すると、どうなるか。

これ、あいさつをしない子が育つのですわ。
教員になってしばらくは、どうしてそうなるのか、分かりませんでした。

学習すればするほど、きちんと身につく、と思っていたから、

まだ指導が足りんのか!まだ、足りんのか!

と思うしかなかった。

ところが、よく自分に照らして考えてみると、ボーッと、見えてくることがある。


あいさつを強要される。
あいさつをしないと、ペナルティがある。


こういう状況になると、人間は2つのどちらかの行動をとりますね。

つまり、あいさつをする、あるいは、しない。
このどちらか、です。(当たり前だけど)


ところが、このどちらも、地獄なのです。

あいさつをする場合⇒⇒ペナルティを避けられた、という安堵と次への不安⇒心の中で、ペナルティがどんどんと重要なことになる⇒前よりももっとペナルティを避けたくなる⇒あいさつに対する恐怖が増す

あいさつをしない場合⇒ペナルティを受ける⇒いやだなと感じる⇒自分もしくは誰かを責める⇒責めることを正当化する⇒いつも自分や相手を責める⇒あいさつがきらいになる


あいさつを強要することほど、滑稽な指導はない、というのは、誰しも分かっていること。

だから、どの学校でも、あいさつを強要などしません。
それは、指導、ではないからですナ。


しかし、あいさつを、静かに強要する、というのは、あります。

あいさつをしない子を立たせてから、「あいさつは気持ちいいはずだよね」とか。
あいさつした子だけに、あからさまに機嫌よくふるまう、とか。
あいさつしないと、「ほら、あいさつは?」と要求するとか。


これも、似たり寄ったり。
まあ、強要に近いと思う。



そこで、先生たちは苦心するのですが。

これは、もう、やり方は一つしかない。

とにもかくにも、「やってみたい」とおもうように、子どもの内面がそうなるしかない。

子どもにさせるのではなく、そうなる、ということ。
子どもが、そうなる。

先生たちは、子どもがあいさつしたら、

「ああ、気持ちいい。ありがとう」

となるしか、ないのでは。それも、本心から。


教師の本心がそうなっているか、どうか。


これは厳しい。


ついでに、

「あいさつをしない奴のことが、気にくわない」

なーんて思ってたら、ダメですぜ。

「ああ、気持ちいい。ありがとう」なんて、絶対に出てこなくなるから。

あまつさえ、それより先に、

「よし、俺より先に、向うからあいさつしたな。合格」なんて、

評価しちゃったりして・・・。



肝心な、根底にあるのは、

「あいさつしてもしなくても」

ということじゃないだろうか。

これも、うわっつらでない、本心がそうなってること。



あくまでも、本心のこと。
繰り返すけど、本心よ。
どう考えても揺るぎのない、明快な本心が、そうなっているかどうか。それで。

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英霊が諭してくださること

わたしは、自分のことを、一人の普通の日本人だと思っている。
「いま日本が危ない」ということを聞くと、すぐに「日本と、そこに住む人たちを守りたい」とも思う。

日本、というのは国家である。
国家でもっとも大切なのは、人である。
その個人を、とことん大事にするために設けた組織が国家である。

人は、いろいろ、である。
その多様さを、その人の奥深い<自身の人格そのもの>を、その人の身体を、とことん、大事に考える、のである。


先日もまた、人を大事にする、というのはどんなことか、と考えながら神社へ行った。
近所にありましてね。
休日の、散歩コースにしています。

まずは正式に、一の鳥居をくぐり、すぐの参道の脇にある手水舎で身を清めようと思いまして、


「神社で手を洗うと、なんとなく気持ちがすっきりして、なんだかまるで、自分の汚れた心が洗われたようになる」


と嫁様に言うと、

「洗心って、書いてあるから、そんなふうに暗示を受けたんじゃない?」
と言う。

断じて、そんなことはあるまい。大和民族の男児たるわたしが、そんなに安易に洗脳されたり、暗示を受けたりするわけがないではないか。

境内へ行って、木で建てられた建物を見たり、石の彫刻をみたり、陽の当たる広々とした地面をみたり、落ち葉を見たり、いろいろとのんびり、する。

すると、やはり、当然のことながら、生身の人間の考えることなんて、たかがしれてる、と思うようになりますワネ。

これはおそらく、日本古来の神が、わたしに向かって何らかの働きかけをしてくださっているのでは、と思うくらい、明晰なメッセージだ。

その神社の片隅には、「〇〇一等兵の碑」というようなものがある。おそらく戦時中に建てられたのだろう。戦死された兵隊さんの、ご家族が建てたのではないかと思う。

そういう、英霊がわたしに向かって、

「きみ、浅い、浅い」

と、教えてくださっているような気もする。

「その子にとって、どうか、でね。大人にとって、どうかではなく。その子自身が、気持ちよく育つように、な」

と、どこかから、聞こえてくる。



ころんだから、立ちなさい、ではダメよ。
友達を叩いたから、やめなさい、だけではダメ。
分からないから、教えよう、ではない。
外に向いているから、正面を向かせる、ではない。

ああだから、こう、ではない。

ころんだように見えたけど、あなたのいう「ころんだ」ではない。
叩いたように見えたけど、大人のいう「たたいた」ではない。
分からないように見えたけど、あなたのいう「分からない」ではない。
外に向いているように見えるけど、大人のいう「外」ではない。
ああ、というように見えるけど、あなたの「ああ」ではない。
A、のように見えるけれども、大人が思うAではない。

だから、日本を守る、の前に、やることがある。
「あの国のせいで」という前に、そういいたくなる自分なのはなぜか?と
知ること、やることがある。
北朝鮮の将軍のせい、若い世代のせい、悪い奴らのせい。
〇〇のせい、としたくなる、言いたくなる。
そのことが良い悪いと反省する前に、なぜ、そうしたくなる心理なのかを。

「誰かのせい、としたせいで、オレぁ、死んだのやぜ」

そう、英霊が教えてくださっているわけだ。
ご先祖様たちが、間違えるな、と諭してくださっているのだよね。



ありがたい。

わたしはそうつぶやいて、立ち上がる。

わたしはふたたび、「洗心」の手水をつかって、身を清めたいと思う。

小さな、小さな、わたしが、広い、広い、広い道のほんの片隅で、『道が狭い!けしからん』と叫んでいる滑稽さ。



「守りたくなればなるほど、間違った道しか見えなくなってるということ」

これを、「国防教員の心得」といおう。

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45分間、きっちり学習するのです!

新卒?と思われる先生から、当ブログを通じて、メッセージが来ました。
(メッセージは、コメントとはちがって、公開されません)

ちょっと忙しくしているせいで、なかなか返事が書けません。
そこで、ブログに書きますから、と了承をいただきました。


ずばり、回答は、端的に、こういうことです。

「授業は45分間、きっちりやります」



このことを、子どもに伝える、ということ。

「先生は、授業は45分間、きっちりやります」
「先生は、授業は45分間、きちんとやりたい」
「先生は、授業というのは1分もおろそかにせず、45分なら45分間、ぜんぶやる」
「先生は、45分間やることが仕事です」

とか、なんとか・・・。
言い回しとか、言葉はどうでもいいですが。


これを、耳にタコができるくらい、子どもたちに伝えてみたらどうでしょう。

実は、子どもも、45分間、勉強したい、と思っているかもしれませんし、ね。
わたしはおそらく、子どもたちというのは、そう願っているものなのではないか、とかなり強く確信していますよ。

子どもたちが、

次の時間もやりたい!やろう!


という授業を、お互いにやりましょうぜ!!!

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〇〇だから嬉しい、悲しい、さみしい

休み時間になると、わーっと子どもに取り囲まれる。

わたしは宿題のノートを見たり、次の授業のことのちょっとした確認をしたいから、さーっと子どもたちから逃れようとする。

すると、わたしの行く方向に、ワーッと、子どもたちが寄ってくる。

これは、4月の学級の姿であります。

それが、5月になり、6月ともなれば、子どもたちは自分たちで遊ぶようになり、担任のところには寄ってきません。自分たちで遊べば満足だからでしょう。

それでも、ちらほら、とわたしのところに寄ってくる子がいます。

わたしは仕事をしながら、ふんふん、と8割くらい、聞きます。

しばらくしゃべって満足するレベルの子は、1,2分話すとどっかへ行っちまいます。

それ以上話したいことがある子の場合。

その場合は、わたしは向き直って、目を見てじっと相手をします。

相談がある場合はちょこっとアドバイスをします。

それで満足する子は、表情を明るくして、

「先生、ありがとうございます」

で、どっかへ行きます。




ところが。

それで、どっかへ行かない子もいる。

これは、わたしはこう思うことにしています。

「アドバイスじゃないんだな」


つまり、子どもはアドバイスが欲しいわけではない。

その場合、わたしは話を聞くことにかなり集中します。

身を乗り出して、聞く。

何も言わずに。

もし言うとしたら、
「ふーん、〇〇だから、〇〇なんだね」

子どもは、自分の状態を、なかなか客観的に言いません。
語彙もないのでしょうが、自分のもやもや、心の状態を的確に言える子は、少ないのです。
だから、なんとか言葉を探して、自分の状態を知ってほしいし、自分でも知りたいから、来るのでしょう。

そこで、あなたは今、こんな状態なのね。

ということを、大人の視点、大人の言葉、語彙をつかって、ちょっと言ってみるわけ。

すると、

「そう。それ」

という表情になる。


このとき、

「〇〇だから、△△なんだねー」

といってあげると、どうやら自分でも納得できるみたい。

もちろん、〇〇、という言葉は、できるだけ子ども自身から発したものである方がいいでしょうね。



△△には、感情を示す言葉が入るのです。ところが、日本人はなかなか、この感情を言いませんナ。この社会には、自分の感情をさらけ出して言うような文化が無いのだと思います。
大人もそうなのですから、小学生も同様です。なかなか△△を、言葉にできません。まるで、言うことを避けるかのように、生きています。

したがって、一度、ぴったりの感情を見つけると、すごい。
それだけでパア――ッ、と表情を変える子までいますよ。

道徳の授業でも、

うれしい、かなしい、さみしい、たのしい、おもしろい、ゆかい、せつない、つまらない、くらい、気に喰わない、気に入った、というような感情を示す言葉を、正直に書かせるようにします。

そこから考えていくと、授業がうわっつらにならないで、自分の正直な気持ちで考えるようになるのではないかと思うネ。

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『非暴力』について

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そろそろ文科省も本気になってきて、これまでの旧態依然とした道徳教育を根底から改革し、真に国を憂える子に育てようとしはじめた。

生命を大切にする心や他人を思いやる心,善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付けることは,とても重要。
(文科省のページより)

国を愛する、ということは、そこに暮らす人を大切にする、ということである。
大切にする、とは、どこまでも暴力ではなく、非暴力で、ということである。

暴力で命は大切にできないし、
他人を思いやるのに、もっとも邪魔なものは、暴力であろう。
また、善悪の判断に際し、いちばん大事なのは冷静さと知的さゆえの「非暴力」である。
知性、人の道から外れ、暴力に依存してしまう姿は、もっとも規範意識からずれているといえよう。

だから、道徳としてもっとも肝心なのは、「暴力」をどう考えるか、ということでありましょう。

なにをもってしても、暴力の問題から離れることができない、と腹をくくるとすれば、これはもう、「暴力」ということをどう考えるか、が、ずばり道徳教育そのものである、と言えるのではないだろうか。

つまり、道徳教育とは、その内容は100%ずばりそのまま、『非暴力教育』のことである、といえましょう。

すると、ですね。

子どもに、「非暴力」という字を見せて、

「読める?」

という。

子どもは、「ひぼうりょく」

と読む。

「はい、今日はこれがお題だよ。10秒間、考えてみましょう。はい、10、9、8・・・」

子どもからは、困惑した声が出てくるわけね。

「当たり前」
「保育園で習った」
「痛いことはしてはいかん」
「取り返しのつかないことになるから、頭が悪い人のやること」
「暴力は結局、だれかがくるしいから、自分も苦しむ」


わたしが驚いて、すごいねえ、こうまですらすら意見が出てくると思わんかった、と言うと、

「こんなの、当たり前すぎて・・・」
「保育園でずっと話し合ってきたよ」

つまり、道徳というのは、すでに保育園で習得したものである、ということになる。

保育園で習うことが、大人になると忘れてしまうために、復習をしつづけていかねばならない、というのが、道徳教育の本質なのでありましょう。となると、教室でわたしが道徳の時間に教師面をしていることが、こっけいに思われますナ。だって、相手は優秀な小学生ですよ。わたしは非常識極まりない、大人の中のひとり、ということですからネ。

世界こども会議、というのが国連でありまして・・・
そこで何十年か前、国際児童年、というのがあって・・・
各国の児童代表が話し合って出てきたのが、
「少なくとも、戦争をやろうと言い出したのは大人であって、子どもではない」
という、痛烈なメッセージ。

子どもよりも大人の方です。
「自分は分かっている」と言いたがるのは。
少なくとも教師は、「ひぼうりょくが分かっている。できる」とは言ってはいけない。分かった、と、その課題を終えてしまったとたん、向上しなくなり、下落が始まる。そんな姿を、教室で子どもたちに見せてはいけない。

大気汚染でも記念写真

40代後半のオッサン、という事実

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わたしも事実は40代後半のオッサンになってきていて、職員室でも私より若い子が半数はいるのだし、〇〇主任、というやつばかり任されて忙しくて仕方がない。こういうときはもう本当に、心底、若いままで居たい、と願いたくなる。

最近、一番年を実感したのは、肩のことである。

肩が、あがらなくなった。

もう1週間になるだろうか。
なんとなく上がりにくいな、と違和感はあった。
それが、この週末から、もうまったく上げられなくなってきた。
水平に近づくだけで、

「い、イダダダッ・・・!」

となるのである。

職業がまずい。
小学校教員である。
チョークが持てない。

自然、黒板の上半分に、書くことができず、下の方ばかりに書いている。

「?」

子どもたちは最初、何も言わなかったが、なんとなくヘンだな、と感じたようだ。

「先生、なんで上から書かないの?」

わたしは理由が言えない。

「なんでか・・・。痛くて腕が上がらんのよー。トホホホー」

すると、かわいそうに、という同情する視線と空気の中に、一部、

「・・・ありゃあ、四十肩とかいうやつだ」

と、ボソボソという声が聞こえてくる。

「・・・うちのバアバも、おんなじ。上の方に、手が動かんのよ」

バアバかよ。



自分ではまったく20代のような精神状態でいる。
いや、もっと正直に言うと、わたしの精神構造は10代後半から、ほぼ変わっていない。
20代前半から後半にかけて、考えの精度は高まったように思うが、それ以後はまったく進化していない。40代になり、むしろ、徐々に精度が落ちて行っている。

つまり、わたしは世の中の10代後半から20代前半の男の子と、ついうっかり、友だち気分で話してしまうくらい、気持ちが若いのである。

・・・否、成熟していないのだろう。
その証拠に、このブログも、同じようなことばかり書き続けて早10年が経つ。

ブログを10年やって気が付いたのは、たった一つ。

「どう書けばいいか、ますます分からなくなっている」
ということ。

肩がうまく回らないのと同様、
職員室では仕事で首が回らないのだし、
いざブログを書くときは頭がまわらず、
40代後半はますます面白いなあと思いますナ。

fune

平和教育について ~縄文時代を考える~

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数年前、わたしが小学校6年生で授業をしたとき。
歴史の授業を終わる頃になって、最後の討論が、次のテーマであった。
「人間は進化しているといえるか」

多くの子が進化はしている、と答えた。
産業革命、明治維新の文明開化、昭和の経済成長、東洋の奇跡。

どんなことで「進化している」と実感しているか。
子どもたちは、ノートにたくさん書いた。
スマホでなんでも分かる。誰でも連絡をとれる。いつでも好きな本を読める。
今、MicrosoftやGoogle、Amazonといった世界企業がどれだけ人々の暮らしを便利にしているだろうか。自動車は道路をびゅんびゅん走るし、コンビニはいつもおにぎりを売っている。

ただし、進化していない、と書いた子もいる。

「戦争をするから」

彼女はその一点だけで、

「ぜったいに進化はしていない」

と言い張った。

たしかに、戦争と言う名の、沼底をひっかきまわしたような黒さが、太古の昔の百姓たちにあったとは到底思われない。
細々としていたかもしれないが、平和だけはいつもしっぽのようについて離れなかったのではなかろうか。

縄文時代の人骨が出てくる地層を見ると、どの骨もていねいに埋葬していた様子がうかがわれる。
ところが、これが時代の進んだ弥生時代になると頭骨の頂点が鈍器で殴られたようなあとがついていたり、足の大腿骨を破壊されたりした骨が、バラバラと出てくるのである。

彼女は1学期のそのときのことが、今でもいちばん思い出されるのだ、と言った。
どんなに「発展」しても、どんなに「進んだ」と言われても。

生まれた命は生きられるだけ生きたい。ひたすら生きるために、一日として欠かせない血族の食糧を支える苦闘が見事な知恵と工夫の花を咲かせた。知らずにいたこぼれた種から芽生えて実る理法に気付いて、採取した木の実、草の実の少しを大地にまいてみて、はじめて得た収穫の奇跡。
小さな根菜の切れ端をうめて、数倍の子塊をぞろぞろつらねて、掘り出される増量のおどろき。

そのときの歓喜、希望、安心よ。
農業の、食物を支えられる生活の小さな平和は、縄文時代に、おそらくは多くの女性の手によってつくりだされたように思う。

子育ての愛情、これはいつの時代の女性にも備わる本能ともいえようが、この本能がはちきれて、芽を出した植物を愛する努力となり、みずみずしいうるおい、みのりをもたらした。
生きるために、努力と希望を失わなかった縄文農業者の元祖が、原始の女性たちであったことは、容易に想像がつくのである。

この、原始の女性たちが、いま、わたしたちと向き合って座ったとしたら。
私たちは、どんな会話を、かわすのだろうか。
「縄文時代の人と話せるとしたら、どんな話をしたい?」

昭和、平成の時代まで、小学校の歴史授業のすべてを終えた、6年生に聞いた。

「どうやったら、争いをなくせますか」と、聞いてみたいです。

この平和な平成という世の中に生まれて育ち、何不自由なく暮らしているはずの小学生の女の子が、縄文人にこんな質問をしたい、と言う。

このことを考えるたびに、わたしは、『平和教育』というのは、大人がやりたいのではなく、子どもが自分たちの未来についての安心を得たい、という意欲なのであり、それを大人がどこまで大切にできるか、ということなんだろう、と思うようになった。

三内丸山遺跡

運動会前、子どもへの語り

いよいよ、運動会がはじまります。多くの人が来られます。小学校全体の大きなお祭りです。
みんなの成長した姿を地域の方ご家族の方、いろいろな方が見に来られる。

そのときに、一番大事なことがある。
それは、かけっこで一番になるだとか、綱引きで勝つとか、そういうことではない。
それは、大事な順番でいったら、3番目か4番目のことだ。
もっと大事なことがある。
ひとつめ。

負けたり、失敗したりしたときに、○○くんのせいだ!とか、○○さんがこうしたから負けたんだ!とか、こういうことを言う人がいる。

先生が、こういう言葉を聞いたときに、どんな気持ちになるか、分かりますか。

こういうことを言うチームは、ぜったいに強くならない。
負けるチームが、こういうことばっかり、言う。
なかの悪くなる、気分のがっかりするような、心が暗くなるようなことを言う人がいると、チームぜんぶが、きっとそうなる。そのチームのまわりの空気が、必ず、そうなっていく。くらーく、なっていく。
そうなると、チームの一人ひとり、本当の元気、本当の力がでてくるようになると思いますか。
ぜったいに出ない。だから負ける。とうぜんです。わかりきっている。これまでもずっと、そんなチームをよく見てきました。

○○くんがこうしたから、負けた!
遅くなったのは、○○くんのせいだ!

ぜったいに、負けます。
運動会、ちっとも楽しくない。
くらーくなる。
残念な気持ちだけがのこる。
言う人も、言われた人も、みんな暗くなる。
チームの全員が、楽しくない顔になる。
その顔のままで、運動会が終わる。
家に帰る時も、くらーい。
家に帰ってからも、くらーい。
家に帰って、おうちの人と運動会の話をするときも、くらーい。

へんなことを言う人が一人でもいれば、それを言う人も、聞いている人も、みんなこうなる。ざんねんな運動会になってしまいます。
一番くらくなる人はだれか、分かる?

(言った人)

そう。言った人が、一番大きなボリュームで聞くんだ。そうだよね。自分の言った、いやーな、暗ーい言葉は、自分の耳が一番よく聞こえる。自分の口から出てきた声が、一番近い、自分の耳に入る。(ここは身ぶり手ぶりで、耳や口を指で指しながら)・・・だから、言った人が一番、くらーい気持ちになる。


だから、○○くんのせいだ!とか、言わないのが本当です。

つぎ。

逆に、勝ったとき。

勝ったときに、「やったー」くらいならいい。
それだけでなく、「やーい、勝ったぞー。お前たちは弱いなあ。オレは一番だったぞー」
とか、勝負した相手に向かって、そういうよけいなことを言う人がいる。

自慢、という言葉を知っている?

(知ってる)

自慢をするのです。相手が闘ってくれて、それで勝ち負けを決めることができた。相手がいっしょに戦ってくれて、勝負をしてくれた。そのことを、ぜんぜん、わかっていません。その相手に向かって、勝手な、余計なことを言う。こういうのを、お子ちゃま、というのです。保育園にもどってほしいです。保育園でも、自慢なんてへんだ、とわかっている子がいっぱいいるよ。保育園でもそんな人来たら迷惑だと言われるかもしれんけど。

よろこぶのはいいです。
でも、それは、いい勝負ができた、自分たちの力がたくさん出せた、ということを喜ぶのです。それは、相手もいい力を出していたから、こっちも力を出せたのです。まだよちよち歩きの赤ん坊とすもうをとって勝って、うれしいですか?
勝つのが当たり前。そんなのじゃない。相手も同じ年代で、同じくらいの力で、それで戦って、いい勝負ができたことをよろこぶんです。
戦ってくれた、その相手を、「やーい弱い弱い」って。
そんなの、この小学校の運動会ではやらないでください。どうしてもやりたければ、どこかほかでやってください。

だから、勝って喜んでもいいけど、よく力を出してくれて、いい競技ができた、今回はこっちが勝ったけど、次はどうなるかわからない。またいい勝負ができるように、またお互いにがんばろう、というのが本当です。そういう態度でいてください。そういう、堂々としたふるまいをするのが、勝った方の役割なんです。


大事なことを言いました。
このことをまもって、運動会を本当にいいものにしてください。自分の心が、「やってよかったなあ。思い切りやって、力を出して、気持ちいいなあ」そう思えるように、自分でしていくのです。

大丈夫。みんななら、できます。
ここまで練習してきたことを思い出せば、だいじょうぶ。
終わった後、みんなが笑顔で、「やった!」って顔になっているのが今からとても楽しみです。




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