30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2018年05月

やっぱり今年も

.
前ブログのタイトルが、「叱らないでもいいですか」であった。
もうすでに叱らない、という行為そのものは自明のことになってきているので、その行為の意味はともかくとして、前提として自分が一切困らない、という心的態度があるのではないか、というところから、タイトルを『困らないけど、いいですか』と変えて1年が経った。

やはり今年も、「きみたちはやさしいねえ」こんなことばっかり、言ってる。




なぜ人にやさしくできるのか、ということが、不思議で仕方がなく、
そのことについての回答を、現時点で世の中のどこかで見たことが無い。
だから、毎日自分自身で考えていくしかないのだが、
考えても考えても、結論はでてこない。
ただただ、不思議、というだけである。

現在、わたしがぶち当たっているのは、「好き」という感情だ。

友だちのことが、大好き。

目の前のあなたのことが、大好き。

これが、どうやら、子どもにあるようなんであります。

人にやさしくしているもっぱらの理由は、これなのではないか、と見当をつけている段階。



なぜ好きになるのか。
これが、なぞでして・・・。


不思議で仕方がない。

なんで、そこまでして、友だちのためにするのか。


これを教室で言い続けていると、子どもたちも混乱してきて、

「なんだかわからんけど、好きなんよ」

と言い始める。


わたしは、なおも食い下がる。

「なんで好きなんだ」

と。


「わけわからんけど、どうしても好きなんよ」


と、子どもらは、言う。

困惑しきって、そう言う。

好きに、理由はない、という。

ところがわたしは食い下がる。

いや、きっとわけがあるはずだ。

でも、いくらあがいても、理由らしきものが無い。






とまれ、〇〇しなければだめだ、というような、余計な指導はやっぱり要らない気がするね。

この、「行動面の指導は不要」という考え方を、「アンゴッブ(UNGOB:アンネセサリーザガイダンスオブビヘイビアの略)」という。

こいのぼりm

「叱ってはいけない」と勘違いされやすい件

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タイトルを変えて、1年が経つ。

ブログの前タイトルは、「叱らないでも、いいですか」
であった。

叱るが前提の学校現場。
当時はまだ新人だったわたし。
その新米教師が、言うことを聞かない子どもを、叱らないでいいはずがない。
現場の常識にそえば、だれしもそう判断するであろう。
ところが、叱らないでも、ちっとも困らない。
そこで、遠慮しながら、こういうタイトルをつけていた。


遠慮がちに、つぶやくようにブログを書いていたつもり・・・だったが・・・
実は、ブログを始めてみると、いろんな方からメールやメッセージが届くようになった。

「叱らなくてもいいのですか?叱ってはいけないのですか?」

というものが、多かったかな。
現場の先生や、若い教師からだった。

インターネット、という場所だから、
「まさかこんな個人のブログ、だれも読みゃしないだろう」
という予想は外れたわけだ。

また、関連して、
〇腹を立ててはいけないのですか。
〇悲しんでもいけないのですか。
〇マイナスの感情が湧き上がるのはダメなのですか。

という、なんだかすごい質問まで来たことを思いだす。
こりゃ、たいへんなタイトルなんだな、と改めて感じたものであった。

腹を立てるのは別に相手のせいではないから勝手に立てるのはいいだろうし、
悲しみ、という感情も相手のせいではないし、特段悪いものではないから、
悲しむときは大いに悲しみという感情にひたればよいと思う。

腹を立てることで味わう切なさが、甘酸っぱければ甘酸っぱいほど、自分が抗(あらが)っていることの自覚のようなものが、静かにやさしく、私自身を包み込んでくれることが分かる。腹を立てたことで、抗う自己世界の隙間から(偶然にも)ちょっぴり見えてくる安堵の世界、心底安心の世界があるわけで・・・。


それが、タイトルの言葉だけに反応し、
「腹を立てるのはダメなんすか?」となるのが不思議。
なぜ、そんな話になってしまうのか、ずいぶんとややこしい回路になっているのがみてとれる。

今、
「困らないけど、いいですか」

というタイトルに変えたら、そういうメールはめっきり、減った。

一度だけ、中国地方(山陰)のお寺の若い坊さんからメッセージが届いたが、それはむしろ「タイトル、おもろいですね」というだけの簡単な感想だったネ。


とまれ、今年も叱らない、困らない、で一年を過ごしていきそうだ。

えんどうの花3

席替えをした直後、なぞの一体感が

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競争もいいけど、競争でない活動を取り入れてみたいな、と常々思っている。

社会全体が「競争の礼賛」に染まっている雰囲気もあるから、まあ、学校で、それも時々であれば、「競争以外」もよろしいのではないか、という考えだ。

そこで、時間を相手に、みんなで頑張る活動を入れる。

席替えをしたあと、うちの学級でやったのは、タイムぴったり30秒、というゲーム。

学級の人数が35人だから、30秒で終わらせるには、1人あたり

0.85秒

でやればよい。

一人ひとりがやることは単純で、たんなる、『拍手』です。


学級35人のうち、最初の一人からはじまって、最後の子まで、席順でわかりやすい一筆書きの順を示しておきます。
全員が前を向いていると難度が高いので、最初は椅子の方向を自由にさせ、自分の拍手をしている姿が、前後の子に、きちんとわかるような向きに座るようにします。

教師はストップウォッチを手にして、

「みんな、ぴったり30秒でやろうね!」

と構えます。

用意スタート、で一人目の拍手が始まり、拍手が連続していきます。前の子が拍手をしたら、次の子もやってよいことにします。あまり速すぎるようだと、少しゆっくりに調整する子が出てきます。またその調整が遅いように感じると、今度はきちんと急ぐ子も出てきます。肝心なのは、どの子の調整がうまくいったか、だれにも正解が出せないことです。だから、責める子もでてきません。

何度かやるうちに、作戦が立てられるようになります。

「ともかく、あとから急ぐのは大変だから、最初の方の子たちは、できるだけ早くやろう。でも、一番最後の列の子だけ、ちょっとゆっくりめにして、心の中の数と合わせよう」

今だけ、席を代えてよい、ということにすると、なぜだか算数の秀才が選ばれて、もっとも最後のアンカーを務めることになりました。

選ばれた秀才君が、みんなの期待を集める中、目を閉じて、心の中でゆっくりと数をかぞえていきます。いよいよ30秒が近づいてくると、拍手の順番も徐々に近づいてきて、秀才君の番です。

秀才君が満を持して、ゆっくりと拍手をした瞬間、わたしがストップウォッチを押す。

「せんせい、何秒?!」


しーん、とする教室。


わたしは少しじらしてから、

「お見事!29.78、ほぼ30秒ジャストです!」

みんな、大はしゃぎになります。


これも、「楽しくやれた人!?」と声をかけて、挙手して終わります。

hakusyu

運動会前のきびしい訓練に耐える

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あなたの地域の小学校では、運動会は、いつ開催されるだろうか。
わたしの地元の岡崎市では、運動会を春に行う学校も出てきている。
今年、わが勤務校も、この5月の終わりに運動会をすることになった。
市内の小学校を見渡してみると、定番の体育の日のある10月はもちろん、まだ暑い9月に行う学校もあるようだ。

さて、運動会前なので、6年生が組体操を練習している姿が目に入る。

「せんせい、6年生の練習すごいね」
「来年、俺たちって、あのワザやるの?」

など、子どもたちなりに興味を持ってながめている様子。


そこで、5年生の今から、どしどしと身体を鍛えることにした。

朝の会で、宣言する。

「あなたたちはこれから1年間かけて、身体をつくっていかねばなりません。それが5年生の大事な仕事です」

朝のいつもの雰囲気より、かなり厳かに、厳格なイメージでこれを伝えると、それまで怪しんでいた子もなんだか真剣な雰囲気に。

「そこで、空気イスじゃんけんをやりますよ」


1)ペアになる
2)気を付けの姿勢から、じゃんけんを連続で10回行う。(その都度、先生の指示で、ゆっくりやる)
3)勝てばそのまま、負けたら、ひざをかるく曲げる。
4)最終的にしゃがんだ状態になったり、転んだりしたら、負け。
5)曲げる角度は、その人のさじかげん。
6)もし相手が転んでしまったら、「だいじょうぶですか」と声をかけて、そっと手をさしのべる。


このコツは、みんな変な姿になって一生懸命に耐えているので、それを見て教師が、全力で応援すること。
気を付けのままの子には目をくれない。
がんばって、ひざをまげて、苦しんでいる子に、「〇〇くん!がんばれ!!」と声をかける。

すると、なんだかじゃんけんに勝っても、楽しくない。
これ、ひとつの不思議。
じゃんけんには勝つのが良い、という頭の中の公式が、崩れます。


つぎ。
最後に、時間で終わらせる前に、

「楽しくやれた人!」

で終わらせる。
これは、どのゲームにもいえることだね。授業もそうかも。

楽しくやろうとする姿勢の人

に、関心を向け続ける。
その方が、可能性が広がる。

janken_boys

60代、70代は昆虫少年のこころを失わない

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先日の土曜日に、近所の公民館で、昆虫の話を聞いた。
市では生涯学習の一環としてこのような出張授業を企画していて、地域の良さを知るためのさまざまな講座を開いてくれている。

今回は、ご近所に暮らす何人かの方たちが、企画したものだった。

わたしの暮らす愛知県岡崎市でも、豊かな自然が残っている。この地元の自然の豊かさについて、職員の方が昆虫の視点を軸にして話をしてくださった。

すると、絶滅に瀕した昆虫の話が出たり、逆に本当はいなかったような南方型の蝶やバッタ、カミキリムシなどが北上して分布をひろげている、というような、めずらしい話が出てくる。

これは〇〇公園にいました、とその方がパワーポイントの写真でみせてくれたものをみると、

「おお、こんなのがいたのか!」

と、会場からどよめきが起きる。〇〇公園って、すぐそこの公園じゃないか。そんな身近なところに、こんな台湾や九州に住んでたような毒々しい模様の虫が、棲み始めていたとはッ!

面白かったのは、この話の後、会場の聴衆が、異様に盛り上がっていたことであろう。

その盛り上がりは、いったい何だったのか。

会場には割合からいって、60代以上の男性の方たちが多かった。
その男性陣が、軒並み、興奮しだしたのだ。

「おれは、昔からトンボに興味があって、〇〇川の近くでそういえば大型のマルタンヤンマを見たことがある」

とか、

「昔からクワガタに興味があって、ずっと追いかけていたが、近頃くぬぎの木が少なくなっていけない。町会長と先日話をしたが、神社の松が、枯れてしまったので切り倒した。そのあとに何を植えようかと相談していて、くぬぎを植えることにした。カブトムシがくるといいが」

とか、

「おれが子どもの頃は、〇〇の工場の裏の林で、よくテンを見たことがあった。すばしこくてすぐに逃げたが、あれはテンだった」

など、生き物に関する情報を、もうまったくとどめておくことができないようで、もう蛇口から水が漏れだす如く、一気にしゃべりだした。

ニホンミツバチを飼い始めた、という方も中にまじっていて、

「ミツバチ。やっぱり、あんなに面白いものはありませんな。女房や娘たちからは嫌われていますが、わたしはもう、毎日のようにミツバチの巣箱を見に行って、かわいいミツバチが野に出ていく姿、懸命に子育てをする姿、集団で話し合っている様をみると、もうそれはそれは、わが子のようで・・・」

と、まなじりをさげて、幸福そうに話し始めるのでありました。

結局のところ、男というのはもう、なぜだか知らないが、動くのが面白いのか、おもちゃ感覚なのか、なんなのか、ムシが好きなんでしょうね。生まれつきだから、仕方がない。

この会合に、60代、70代の元・少年たちが、大勢参加していたのは、なぜか。
それは、実は決して失うことのない、昆虫たちへの愛を再確認するためではなかったか。

足の悪い方も、久しぶりの外出だ、とおっしゃる方も、みんな虫のことが大好きだったのだ。そして、その虫を追って、夏の空の下で、きらきら光る太陽の光線を浴びながら、夢中になって駆け回ったあの頃を、思い出したわけだ。

ミックジャガーのコンサート後のような、熱狂的な余韻を残して、講座は終了した。

公民館の温度は、熱狂のあまり、2,3℃、上がったようであった。

ああ、なぜ、昆虫に、多くの少年は、こころを奪われるのだろうか。

なんてったって、かっこよく飛ぶし、かっこいい甲殻に包まれているし、かっこいいデザインしてるし、ともかく、自分の手のひらの中で、動くんだもの。ぼくに捕まってくれたんだもんネ。感謝、感謝ですよ。

クスサン幼虫をもらった手のひら

「人間は馬鹿だ」の前提で。

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米テキサス州ヒューストン近郊のサンタフェ高校(生徒数約1400人)で18日朝に起きた銃乱射事件。

学校での銃乱射事件自体は、もう何度も何度もくりかえし、くりかえし起きていて、ニュースを聞くたびに暗い気持ちになっていたが、今回のニュースを聞くと、もう開き直って、

「人間は馬鹿だ」という前提

で、社会のシステムを構築したほうがいいな、という気になってくる。

かくいう自分も、自分のことを信頼していないから、めざましを2つかけるときもある。
ぜったいに忘れちゃいけない、という用事については、翌朝に備えて、メモをわざわざ、玄関の自分の履く靴にクリップでとめておくこともする。

それでも靴を履いてから、玄関を出て車のエンジンをかけるころには、忘れてしまっているのだから、なんという馬鹿だ、と自分を責めることになる。

かしこい人間は、その自分を責めずに、さらに信用できない自分のために、次なる手を次々と考え出し、

「そんなこともあろうかと、〇〇しておいた」

といった風で、自分の失態をきちんとカバーする体制をしっかり敷いている。

ずいぶん昔のことになったが、小惑星の探査で有名になった宇宙探査機「はやぶさ」は、イオンエンジンが壊れたり、行方不明になったり、電池切れになったりしても、ことごとく

「そんなこともあろうかと」

というカバーの技術が生きていて、ぜったいに「はやぶさ」を死なせなかった。

人間は賢いのだから、銃を正しく使えるはず、という前提で、銃を販売している。
その銃を、手入れするときの誤射によって家族が死んだり、自分が死んだりと、銃を手入れする際の事故も、絶え間が無い。

銃を持つことを選んだアメリカの社会は、「はやぶさ」のように、誤射しても大丈夫のような、あるいは狂人が人を狙ったとしても弾が出ないように、カバーするシステムを、構築しなければならない、と思う。

身近な自動車に目を向けてみても、ぜったいに事故にならない車、をつくるのが、TOYOTA自動車の社長の夢だ、と聞いたことがある。
ところが、まだそれは実現していない。

ぜったいに人を不幸にしない銃、というものを、銃を作る会社の人は、考えなければならないし、そのアイデアのために、もっともっと人はカバーの技術や、文化を構築する必要があろう。

もしかすると、それは「技術」がそうするのではなく、「文化」が大きな役割を果たすかもしれない。

カバーを何重にも行う文化。人がもし間違ったとしても、その人間を責めないで済むように救済するための文化。

人を助ける文化。

それができるような人になるための資質、能力をのばし、育成して、立派な大人に成長させることが、小学校の役目。

だと考えれば、小学校自体も、失敗をカバーする文化、で成り立っていないとネ。


もし、仮に、だ。
これが、逆だったらどうか。
たとえば、人間は賢いから、転ばないはず、という前提だと、学校から保健室がまず消える。

子どもが転んだら、

「なんで転んだりなんか、するんだッ!」

と、叱り飛ばす。

「自己責任だッ!たんこぶの痛みをこらえろ!」

保健室は不要だね。これなら。確かに安上がりだわ。

school_hokenshitsu

たこは悪者か

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蛸は西洋ではこんなにも悪魔的に恐怖の対象として扱われているのに、日本人が蛸のことをずいぶん大目に見ているのは、なぜなんだろうか。

学校に来ているALTの先生に、オクトパス、と聞くと、最初通じなかった。
イラストを描くと、Oh!と恐怖の表情を浮かべて、アイムソーリー、と懇願し、
「わたしはそのあなたがえがくところのその絵画については恐怖の念を覚えてしまうのである」
ということを言った(たぶん)。

そこでわたしが不思議そうに、

「あなたはなんでそうおもうのであるのだろうか。わたしはその蛸と呼ばれる生物については、いっそのことその身体を食してしまおうかと思うほどだに愛しているところなのである」

ということを言うと、彼女は明らかに

ウエェッ

という表情を見せて、欧米人がよくやる、あの例のポーズをしてみせた。

Oh my GOD !

肩をすくめて、両方の手のひらを上に向けた。

「知らんがな」と、ついそのポーズをみると声を出して説明したくなる、あのポーズである。

OhmyGod


なぜ蛸があかんのか!



私は全日本人を勝手に代表し、欧米人諸国のみなさんに、これを正したいと思う。

蛸は(ある意味で)相当にかわいいではないか!







5年生の社会科で、もうすぐ、タコのことを学ぶ。

いや、もとい、水産業を学ぶ。

幸先の良いことに、子どもたちはみんな、たこが大好き、である。

しかし、好きすぎるのも、困るときがある。

それは、水族館での見学姿勢に関わってくる。

あまり好きだと、食いたくなる。それは、場所が水族館だと、ちょっと問題になる。


授業が始まったら、きっとわたしは、日本人が水族館で抱く感情のうちもっとも多い感情のひとつ、

「美味そう」

という感情について、子どもたちに説明することであろう。

えー、いいですか、みなさん。
日本人は、水族館に行くと、必ずアジが群れをなして泳ぐところを見ます。
そして、えらのところをよく見て、こつっと当たる背骨に沿って、切れ味の良い包丁をさしこんで、料理する手順を復習します。頭の中で。

寿司ネタが群れを成して泳ぐ水槽を見て、
「この水槽だけで100人の宴会ができそうだな」
と考えてしまうのが日本人ですが、西洋人は必ずしも、寿司ネタが泳いでいるとは思わないそうです。みなさんは、どうですか。

すると小学生はたちまち回転ずしで、自分がまっさきに注文するネタは何か、と議論を始めるにちがいない。

水族館学習の前に、

「すべてが寿司ネタというわけではない」

という、基本的な学習が必要であろう。

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日ま賀の蛸が、うまい理由(わけ)

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学習問題:日ま賀の蛸がうまい理由(わけ)


そんなに格別に美味いわけじゃないだろう。

子どもたちが侮った表情でいるから、
日ま賀の蛸がめちゃくちゃ美味いことを教える。

日本では、瀬戸内海の蛸が有名であろう。
明石のタコは有名だし、広島の蛸も美味いと聞く。

しかし、小田急や東京地下鉄株式会社が出資する「ぐるなび」というグルメ情報のサイトでは、日間賀島の蛸ちゃんたちが、明石や広島の蛸どもを抜いて、堂々の一位である。

takoranking


さて、なんでか。

一通り、常識的な回答がある。

「水がきれいなんじゃないかな」
「えさがいいんじゃないかな」

そこで、餌はあさりであることを伝える。

「あさりが、いいあさりなんじゃないかな」

いいあさりって、なに?

「栄養たっぷりの、ぷりぷりのあさりなんじゃないかな」

正解!



実際、日間賀島の蛸は、浅い海域の砂地で餌となるアサリなどを食べて生きている。
これらのあさりは、ぷりぷり、である。
陸地から、川の水がたっぷりと流れ込み、海水とほどよく混じる。
ミネラルの豊富な海の水となり、地形の助けをかりて知多湾や三河湾で循環する。
だから、良い水となり、あさりも大きく育つし、豊富であり、元気がいい。

森からの贈り物が、愛知県全域から、海へと流れ込んでいるのである。
日間賀島自体にも、長い間に堆積した地層に栄養が含まれているらしい。
蛸は、よほど良い地形に巡り会えたのだ。



もう一つ、理由がある。
たこの採り方が、いいのである。
ていねいで、たこにやさしいのだ。

「たこにやさしい採り方って、どんなのだろう」

たこの採り方を2つ、例示して、選ばせる。

1)長い縄にカギ棒をつけておいて、海底をひっかいてとる。

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2)たこつぼでとる。

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全員が、2)たこつぼ、をえらぶ。
正解だ。


このあたりの海域は、浅いのである。
だから、たこつぼでとれる。
岩場がごろごろしているところでは、たこは岩場に隠れてしまう。
ところが、海底が一面、砂地だらけだから、隠れるところがない。
たこつぼを沈めておくと、「あ、ここに良い家があるではないか」と入ってくれる。

たこつぼでとれた蛸は、身が痛まず、ストレスのない快適環境のまま、とれる。
網でごっそりと掻きさらって、身を岩場に撃ちつけながら悲鳴とともに収穫されたものとは違う。
だからこそ、美味いのだ、という。

美味しい蛸に感謝して、タコが祀られてきたのである。

感想を書いて、おわり。

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蛸が神様になりました

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愛知県の子どもは、海が身近だ。
愛知には川も多いが、海も多い。
わたしの住む岡崎市の子どもたちも、三河湾で泳ぐ。


さて、その海の勉強をしなければならない。
5年生の社会科で、『水産業』を学ぶからだ。
わたしは目の前の海、三河湾と知多湾の中間にうかぶ島、日間賀島を題材に、授業プランを練った。

5年社会 水産業と人々の工夫

「日間賀島では、たこが神様なんて、変だよね」

そうつぶやくと、変だ、変だ、の大合唱である。

なぜ蛸を神様として祀るのか。


わたしはスライドで、蛸阿弥陀如来の絵馬や寺の様子を見せる。

蛸が神様の「安楽寺」の説明には、
この仏様は、大昔、日間賀島と佐久島との間の島が大地震により陥没し、ここにあった筑前寺の仏像の胎内仏が当時の漁師の網にかかって引き上げられたものと伝えられています。そのとき、1匹の大たこが仏様を守るように抱きついていたので「章魚(たこ)阿弥陀」と呼ばれています。
とある。

蛸阿弥陀如来


蛸阿弥陀如来4


ついで、日本昔話の『蛸薬師』を見せる。

日本昔話の蛸薬師


見終わると、

「良かったじゃん」「蛸で良かった」「蛸、お母さんの病気治したからエライ」

と、タコの評判がとみに上がる。



ところが、欧米では、タコは悪魔の手先と思われて、評判としてはエクソシストよりもさらに下の下、である。

蛸は悪魔か


大凧



欧米との差に、唖然とする。



日本では、蛸がこんなにも愛され、大切にされたのはなぜなのか。

これは、日間賀島のあるあたりの地形に関係がある。
つまり、タコが、うんとこしょ、とれるのである。
だから、島民は蛸によって、蛸に感謝をしながら、生きてきたのである。
それが、「蛸を神として祀ろう」という意識につながってきたのではあるまいか。

この程度のことは、子どもたちから予想が出る。

「たくさんとれて、美味いからでしょう」

では、なぜ、日間賀の蛸は、これほどに美味いのだろうか。

子どもたちは、次の学習課題を立てる。

日間賀の蛸が、たくさんとれて、格別に美味いのはなぜだろうか。


なんでだろう?

ちんあなごのように

人間は 
ちんあなごのように
上を見て 下をみて ナナメ上をみあげる

人間は
ちんあなごのように
ゆらゆらと じっとして 少し動こうとして


IMG_2622


いつも足元をみられないように
大事なところはいつもかくして
せいいっぱい 顔だけは出していようと

遠くの未来と 遠くすぎさった過去を見たいと
ゆらゆらと 定まらない視点で 目だけは懸命に見開いて

まばたきは するものか
まばたきは するものか と



わたしは はたして、見ているのだろうか
わたしは 見ていると思っているだけ、だろうか
わたしは なんのために
まなこを 
けんめいに まなこを
ひらいていれば 見えるはずと



なんのために 見開いていく
ああ、なにも映りはしない
なあにも 波間にゆれているだけ
なあにも 波間に ただ ゆれているだけ

人間は ちんあなごのように
ただ、観なければならないと
精いっぱい、見開いていなければならぬと

歩くことのできる足と
泳ぐことのできるひれと
仲間にハグできる勇気を

いつか思い出すことができるだろうか
ああ 人間は

chinanago

今朝はもう、ムシに出会いましたか?

私が地元の「こん虫クラブ」参加したとき、目の前に、少しボーッとした表情の、中学生男子が3名、立っていた。

この子たちは、小学生時代からずっとこの会に参加していて、欠かさず、というわけにはいかないが、可能な限り参加して、縁を切らさないのである。

一人は、目玉がくりっとして、いかにも頭の回転がよさそうな、善良そうな少年である。身長は低いがスポーツ万能、但し勉強はからっきし苦手。物事をよく考える前に行動する直情径行タイプで行動力に溢れる・・・というタイプ。

二人目は、眼鏡をかけていて、ヤセ型。読書好きで研究熱心、理科の実験を趣味とし、明晰な頭脳の持ち主で機械にも強いが、小心者であがり性な部分があり、学校のテスト等、ここ一番で実力が発揮できておらず、故に学校の成績は今一つ・・・というタイプ。

三人目は、大柄でゆっくりと歩くが、昆虫を見つけた時にはふだんとは及びもつかないかなりのスピードでたもを振り回す。陽気な性格で、鼻歌を歌いながら道端のたんぽぽにも目をやる余裕も見せる。かと思えば、目の前のことに夢中になるので、首から下げた水筒を落っことしても気に留めない。・・・というタイプ。

(いずれも偏見にみちた私の勝手な推測である)


さて、この3人が、なんともいい味を出すのである。

わたしの息子が、新しいタモをうまく折りたためずに苦労していると、

「あ、それはですね」

ハカセが丁寧に指導してくれると思えば、

活力溢れるハチベエは大人のいかないような土手の上の方にも駆け上っていき、

「みなさん!!スジグロがいました!!」

と大声で報告し、大人を興奮させて喜んでいる。

また、モーちゃんは、水が飲みたくなると急に

「みず、みず、みず、・・・」

とうわごとのように繰り返したかと思うと、水筒をラッパ飲みする豪快な面を披露したほか、目の前を飛翔していたクジャクチョウを見るや否や、水筒を放り出して100mほども真剣になって追いかけていき、60代の熟女をして、

「ああいうガッツが、現代っ子のお手本よねえ。ビデオに撮って見せてあげたいわ」

と言わしめ、熟年女性たちの喝さいを浴びていた。


この3人は、いわゆるスポーツ系の部活には所属せず、中学校では、「まあそれなり」に過ごしているようであるが、この昆虫クラブには毎週のように参加し、幸福を満喫しているのである。

さすがに昔から通じ合った仲間のようで、お互いに目の端に、仲間を意識して留め置いている様子。だから、モーちゃんが100mも突っ走っていても、そのあとを、やはりなんとなしに、ハチベエやハカセが追いかけているし、ハカセがうちの子にタモの扱いを伝授してくれているときには、やはりなんとなしに、ハチベエやモーちゃんが、その様子を斜め後ろから見ていて、ハカセの先生ぶりを愉快がっているのです。

このときは、物静かな感じのおしとやかそうな、高校生の女の子も一人きりで参加していた。高校生はその子だけで、彼女はこれらズッコケ三人組とも同じにならず、かといって大人どもとも同じにならず、一人きり、微妙な速度で歩いていたが、だからといって、孤立しているのではなく、説明のあるときには一緒になって話を聞き、ズッコケが蝶をつかまえたときには、一緒に写真を撮影したりして、やはりそれなりに、楽しんで参加している様子であった。

また、参加していた大人たちは、小学生から高校生まで、年齢の離れたこうした子ども集団を、統率するようでもなく、無視するようでもなく、目の端に留め置く感じで、そーっと包み込むような雰囲気をもって引率していた。
このような雰囲気が、おそらく、この会の、真骨頂なのだろう。


○やることがはっきりしている
○許容されている範囲もはっきりしている
○目的地もはっきりしている
○ノルマがない
○責められない
○個人の成果というよりも、集団の成果として、喜びと共に分かち合われるものがある


ADHDの子も、自閉症スペクトラムの子も、傷ついた子も、場面緘黙の子も、

世界中の子ども、万人、例外のない人間すべてが、

どんな人でも、どんな子でも、「これなら参加できる」、そういう、すそ野のやわらかさ。


つまりは、貴重な空間が、ここにはある、ということです。


↓ 下は、ハチベエのつかまえた、白いカエル。
ハチベエのつかまえた白いカエル

花粉症のこと

タモリさんのやっているNHK、「人体」の番組をご覧になりましたか。花粉症のことをやってましたね。

私もスギ・ヒノキのアレルギーがあります。
もう毎年のことで慣れてきていて、薬で対処できることも分かっているので、さほどつらくはありません。しかし、正直、面倒でした。花粉症のために薬を飲むことや、症状に応じて薬の量を増やしたり、目薬をさしたり・・・。そういう日々のことがめんどうやなあ、と毎年思っていました。

NHKの番組の中で、『花粉症にかかりにくい、不思議な場所』というのを紹介していました。日本にあるのです。どこかというと、それはなんとお寺でございました。
修行しているお坊さんたちは、なぜだか不思議と、花粉症が改善している人が多いのだそうです。

花粉自体は別に人間の身体を攻撃するわけではありません。
しかし、外部から人体に入り込んでくる異物ですので、人間の免疫細胞がさかんに攻撃します。その結果、鼻水や涙が出たり、くしゃみ、せき、という「防衛反応」が引き起こされる、と。
一方、免疫細胞たちが花粉に反応しているとき、「あれ?そんなに防衛しなくてもいいらしいぞ」となればどうでしょう。それほど強く対応しなくてもいい、ということになれば、鼻水もくしゃみも、収まってきます。

このように、免疫細胞たちに、「そんなに激しく反応しなくてもいいぞ」と伝える役割を果たしているのが、どうやら一部の腸内細胞らしいのです。そのことが、NHKの番組で新しい情報として紹介されておりました。

つまり、花粉症は、その「一部の腸内細胞」が、上手に働いてくれさえすれば、かなり症状自体がおさまってくるらしいのでした。

『免疫細胞の暴走を抑えるブレーキ役の細胞が、腸内細菌の一種であるクロストリジウム菌の働きによって、私たちの腸でつくり出されていることが、最新研究で明らかになってきました。
クロストリジウム菌は、私たちの腸内の「食物繊維」をエサとして食べ、「酪酸」と呼ばれる物質を盛んに放出します。この物質、実は腸に集結する免疫細胞に「落ちついて!」というメッセージを伝える役割を担っています。クロストリジウム菌が出した酪酸が、腸の壁を通って、その内側にいる免疫細胞に受け取られると、暴走を抑えるブレーキ役の細胞へと変身するのです』


そこでわたしが実験したのは、寺の坊さんたちのように、
〇食物繊維を積極的にとること。
でした。


料理の本をめくり、食物繊維の多そうなものを家族で食べることにしました。
一番多かったのは、切り干し大根と筑前煮でしたかな・・・。
りんごもたくさん食べました。(この時期でも、まだスーパーにありました)

するとですね。
結論から言うと、かなり花粉症が改善したような気がします。
これだけではなく、きっと他にもいろいろなことが総合的に働いたのでしょうけど、花粉症をちょっとでも楽にしたい、といろいろとやってみたからかな・・・


あと、わたしの健康面を司っている師匠が東京の調布市に住んでいて、鍼灸師をされているのですが、その恩師からの指示も花粉症改善に役立っていたようです。いろいろとアドバイスをくれて、あんまりたくさんアドバイスをくれたため、内容はほぼ忘れましたが、たった一言、「太陽の光を浴びよ」というのが印象に残っています。

この場をかりて、師匠に感謝するとともに、

食物繊維

自体にも、感謝しながら、さらにこのような腸の細菌たちの働きや腸内のメッセージ物質たち、大自然の働きにも感謝しつつ、タモリさんに感謝しなければならないと思っています。そしてなによりも、タモリさんを起用したNHKのエグゼクティブ・プロデューサーに・・・!タモリさんじゃなきゃ、観なかったかもしれないし、ネ。
あと、めったにテレビを見ないのに、見る気になった自分にも感謝!

ありがとうございました。

tikuzennni

スープをこぼしてしまいました大量に

.
うちの学校は、先生もいっしょに給食室へ給食を取りに行きます。
この日もクラスの子といっしょに給食を取りに行こうとしたとたん、

「先生!スープこぼれてる!階段!」

別のクラスの女の子が飛び込んできた。
おそらく廊下でこぼしてしまったのだろう。

あ!
すぐにデスクの下に隠しておいた『非常用ぞうきん』をかかえ、近くの子に
「これ!持っていける!?」
と頼む。

さらにスープをどうやってすくうか、と思案して
私自身はちりとりを3つほどつかんで廊下に急行。

すると、ぼうぜんと立ち尽くす3年生くらいの少年がいた。
脇を見ると、スープを入れた大きな缶がころがっている。
なんと、それ、一人で運んでたの?

そりゃ、・・・無理だろう。



うちのクラスの給食当番はスープをよけて、給食室へ出発。
わたしは残って、スープの始末。
うちの教室のはっちゃけた女の子が、野次馬のように集まってきたので、

「よっしゃ!ちりとりでスープすくうぞー」

と、ちりとりを渡すと、はじかれたようにすくいはじめた。

じゃがいも、にんじん、鶏肉、みんなすくう。

スープの汁が、階段をつたって下へ流れていく。

「これ、ぞうきんでくいとめるぞー」

野次馬の男の子に、ぞうきんを渡すと、これまたはじかれたようにぞうきんを並べ始めた。

わたしは、不思議に思う。

なぜ、ちりとりを渡すと、はじかれたように動くのか。
なぜ、ぞうきんを渡すと、はじかれたように動くのか。
そうしなければならない義理は無いはずだ。
なのに、この野次馬たちは、機敏に働く。誠意を示す。
つまり、この野次馬たちは、ただの野次馬ではなかったということ。
その実態は、レスキュー隊だったのだ。

わたしは野次馬が実はレスキュー隊だったことが面白くて、楽しくなる。


「せんせい!スープたれてくる!ぞうきん足りない」
「わたし持ってくるわ!」
「ちりとり借りてくる!4の2の先生に言ってくる!」

頼みもしないのに、伝令が走り、ぞうきんが集まってくる。
4の2から、ちりとりを3つ、手につかんで、走ってくる子。
ちりとりを3つ抱えて走ること自体、人生初のことだろう。

こぼしてしまった男の子は、まだおろおろして、立っている。

すると、その子に向かって、

「ねえ、担任の先生に言ってきなよ」
「内線電話したげようか」

と、うちのクラスの女子が言った。
とってもお姉さんらしい感じ。


わたしがだんだんと片付けながら、

「この子たち、今日のスープ、どうするかなあ」

というと、

「うちのやつを余らして、もってってあげれば」

と、言う。

子どもは残酷だ、という人もいるけど、
子どもは本当に優しいなあと思うね。

「俺たち、前こぼしたよな」
「ああ、そう!それで、6年からもらったよな」
「めっちゃもらったんやで!」
「あんとき、食いきれんほど集まったな~」

目を細めて、低学年のころの思い出を語りだす男子たち。


残酷だ、という印象もあるのだろうし、
やさしい、という印象もある。
子どもは〇〇だ、というが、
〇〇には何が入るのか。どんな【印象言葉】も入る。
その印象、イメージは、気持ちの中で咀嚼すると、消化されて消えていく。
とっても私的で、一時的なもの。
かすみのような【印象言葉】に、踊らされないよう。
子どもを見る目線を常に、正したい、と思う。

きれいな風景
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