30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2018年03月

「廊下は静かに歩きましょう」の問題点

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「廊下はしずかに歩きましょう」

という指示自体に、良いも悪いもないだろう。




なにも知らない新入学生。
入学式の終わった直後から、すぐに教えるのはこのことである。

「廊下はしずかに歩きましょう」と言われて、子どもたち、けなげに言うことを聞く。

はーい。

ちょっとしゃべってしまう男の子に向かって、目つきのするどい女の子が
「ほら!しゃべっちゃダメ!」
と強くツッコミを入れるシーンは、4月のよくあるシーンであります。

こういうことが重なると、男の子の記憶に刷り込まれるのは、
「なんだかやたらと、学校というのは〇〇しなきゃいけない、というのが多いんだな」
という規則・禁止の思考でありましょう。

こうならないために、ちょっと賢い先生は、つぎのように指導をする。

つまり、ちょっと考えさせるのである。

「はい、今から体育館へみんなで行きましょう」
「わーい」
「はい、その前に、みんなどんなふうに移動したいかな」
「走っていくー」
「歩いていくー」
「?」

最後の「?」の子は、先生がどういう意図でそんなことを口走るのか、
まったく分からない子であります。(←わたし自身はこうでしたナ)

「はい、これから歩く廊下は、いろんな教室の横を通ります。みんな、2年生のお兄ちゃんお姉ちゃんたちは、今なにをしているかなー?」
「おべんきょうー」
「そうだね。みんな、大事なおべんきょうをしています。もし、みんながこれから、廊下をおしゃべりをしながら歩くと、うるさいなあー、1年生しずかにしてほしいなあー、と思われてしまいます。どうしたらいいと思いますかー?」
「しずかにしていくー」
「そうだねー、おしゃべりをしないで、しずかに、だまって、忍者のように、体育館へ行きますー」

こう丁寧に指導されたら、子どもたちはすんなりと、口を閉じて、だまって移動してくれることでありましょう。

ところが、これはうまくいかない。



なぜなら、毎回、毎回、刷り込むようにして、繰り返して同じことを指導しないと、子どもたちはいつまでたっても、やはり廊下をおしゃべりしながら歩くからです。

わたしは、これが不思議だ。
なんでかなあ。

一度こんな話をしたら、
「あ、廊下を歩くんだ。2年生は勉強をしている。勉強をしているときにうるさくしてはいけないな。静かにだまって歩いていこう」

と、通常なら、考えるようになって当然でありましょう。
なのに、そうはならない。いつまでも、2学期になっても、3学期になっても、廊下をしゃべって歩いてしまう子がいるのです。なんでだろうか?




もしかすると、しゃべってしまう子は、

「周囲に迷惑をかけてはいけない。静かにしなければならない」

とは、思っていないのではないだろうか?

もしくは、他の皆が静かにしているのだから、ここでは常識的に静かにするものだ、というふうには考えないのではないだろうか。

つまり、「〇〇するべきだ」というのでは、動かない。

迷惑をかけるべきではない、ということでは、動かないのだ。

いよいよ、問題は、

迷惑をかける、とはどういうことか

になってきた。

ここが明らかにならなければ、「子ども」の実際の姿には、せまれない。

ろうか


しつけ(躾け)について

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身を美しくするのが「躾」。

身だけ、形だけ、を美しくすることは可能だろうか。
多くの教育者は、そのことについて、否定する。
たとえ美しく見えても、心が備わっていなければだめだ、という。
きれいな歌声も、気持ちがそこにないのであれば、ただの音にすぎない。

歌声に、心、気持ち、意志、たましい、そういったものが込められていると、
人間には、それが伝わる。気持ちは見えないが、思念は見えないが、あると感ずる。
だから、たとえ形が美しくて見えたとしても、そこに心がなければうわべだけのもの。

上っ面(つら)だけカッコつけてもダメ!

そういうことを言う人は多い。

こう考えてみると「躾け」、という字は相当、深い、のだろう。

身を美しくする、ということと共に、あるいはその以前に、
当然のこととして、

「内容がそなわっている」

ということが前提にある、ということになろう。
逆に言うと、もし、内容が無い(あるいは浅い)のであれば、身、立居振舞、姿恰好まで、美しいことにはならない。



ここで、われわれ教育者にとっての悩みが生じる。

「人間の中身、を美しくする」とはどういうことか、定義をしなければならないのだ。



「子どもは躾けが大事だ」

という。

はたして、その躾け、とは何?


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大声を出して応援する仕事につけばいいよ

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キャリア教育の授業の後半、わたしとしてはめまいのするようなことがあったので、ご報告。

Nくんは、一風変わったところのある男の子。
ゲッツ!という、一昔前に流行したギャグが気に入って、今さかんに使っています。
そのNくんが教室の前に出て来て、

「えー、ぼくは何も将来のことが決まっていないので、みんなで考えてほしいです」

といささか投げやりな感じのスタートでした。

「なんにも考えてない・・・」という子は数人いたのですが、Nくんはまったく考えるそぶりもみせず、非常にお気楽な雰囲気です。
他の子は、とりあえずユーチューバーだとか、とりあえず庭師だとか、とりあえず警察官、というように、自分としての第一希望を語るのですが、Nくんは焦るでもなく、困るでもなく、ともかく指名されて、

「なにも考えていないので」

と言い切るのでした。

学級のみんなはそんなこと予想できていたらしく、わたしが
「そんな!Nくん、ずっと前から将来のことを考えるように言ってたでしょう」
と指摘するのをさえぎって、

「うーんとネ・・・Nくんはね・・・」

と考え始めます。

そこで、ゲッツをやるからお笑い芸人、とか、
おうちが農家だから農家、だとか、
なんとなく研究熱心な感じもするから、なにかのハカセ、とか
いろいろと出てきました。
たしかにNくんは理科が好きで、試験管やフラスコを使った実験になると、とてもはりきるのです。級友はふだんから、そういう姿を見ているから、あれこれと言ってくれるわけです。

一通り、あれこれと意見が出た後、一人の女の子が、

「あ、そういえば、Nくんはいつも声がでかいし、運動会のときにすっごく大きな声で応援してたから、応援する人になれば」

と言ったのです。
それを聞いた仲良しの子が響いて、

「そうそう!わたし、みっちゃんと一緒にNくんすごいねー!とか言って、笑ってたよねえ」
「そうそう!Nくんだけ、めっちゃでかい声出してたから!!・・・思い出してきたよ!あんときすごかったよね!ギャハハ!」

Nくんは今年、クラスの中で選ばれて、運動会の応援団に所属していたのでした。
その応援団のときの情熱のこめ方がすばらしくて、印象に残っていたのでしょう。

結論として、Nくんについてみんなのおすすめの仕事は、

「大声でだれかを応援する仕事」


ということになりました。

わたしは、

「えー・・・ッ、それで、お金がもうかるのかなあ・・」

とぶつぶつ言いましたが、だれも聞いちゃいません。

「先生、いいじゃん。きっとだれか、応援してほしいときに、近くで応援してほしいからお金を出そう、という人もいるかもしれないよ」
「そうそう」

わたしはよほど、

「ふざけないで聴きなさい。いいですか、そんな仕事は世の中にありません。金を稼げるわけがない!もっとまじめになりなさい!」


と、のど元まで出かけましたが、やめました。

子どもたちのコミュニティの範囲では、Nくんが大声でだれかを励ましてくれているのがちょうど良いのです。それが、彼をいちばん生かし得る道だ、と思うらしいのです。

Nくんもまんざらでないようで、

「じゃあ、応援する仕事にしようかな」

と、うれしそうにしています。

わたしは慌てて本棚を探して『13歳のハローワーク』を右手に高くあげ、

「そんな仕事、これには載ってないけど!」

と反論しようとしましたが、やめました。


果たして、仕事というのは、何なのでしょうか。
人間らしさというのは、何なのでしょうか。
4年生では、『職業以前の話』をしているのですね。
あなたがこれをやってくれたら、みんながうれしい。この中のだれも、あなたのようなマネはできない。あなたが一番、それをやるのに向いているのだ。ぜひやってほしい。

わかった!まかせとけ!

縄文時代だったら、こういうやり取りでもって、仕事というのは成り立ったでしょうね。

で、仕事というものに、やりがい、というものが、直接的に結びついていたのでしょう。また、嫌々仕事をする、ということにもならないでしょうネ。目覚ましが鳴ると、胃がキリキリと痛むので、胃薬を飲んで出勤、ということもなさそうです。

その証拠に、学級のみんな全員、機嫌が良いのです。
Nくんもうれしそうだし、まわりの、いっしょに考えてあげたメンバー全員(クラス全員)が、なんとなく楽しいし、嬉しいのです。

キャリア教育をやればやるほど、将来が楽しみになるし、クラスの人間関係も良くなるし、人生がばら色にかがやいて見えるようになるのです。

そのかわり、保護者受けはよくないですね。残念ですが。
隣のクラスの子も作文を書いていたのですが、それは
「警視庁に勤めるために、国家公務員採用試験を受けます。そのために大学は〇〇大学を出て・・・」
というものでした。それと比べてうちときたら・・・存在しない、架空の話しかしてないんだから・・・、まったく。

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不登校児について

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今年一年振り返りの、その2。
不登校の子について。

わたし自身も、不登校気味な時期がありました。なぜ行かれないか、理由がはっきりしないのですね。
昭和の時代だったけれど、母もいろんな人に相談したようです。
混乱するわたしの母親に対し、近所の小児科医の先生がやさしく諭してくださったらしい。わたしは自然とまた登校するようになり、母も自然と落ち着きました。

わたしが不登校を経験していることに加え、10代、20代に経験し学んできたことを踏まえて考えると、不登校自体についてどうこう対処しよう、という気分にはなりません。
「不登校」にはいろんなストーリーがあって、必ずしもそれが「解決しなければならない問題」だとは限らないからであります。

わたしが不登校児についてばくぜんと抱いているイメージは、個人的なものだが、次のようなものだ。

勉強の好きな子が多い

これは意外かもしれない。しかし、実際は、「勉強が嫌いで学校に行かない」という子は少ない方だろう。逆に、勉強が好きな子で、「学校はキライ」な子は多いと思う。
また、「キライ」という言葉についても、これもあえて表現すれば、ということのようである。不登校の子はどうしても「なんでだ」と理由を問われるので、子どもからして精いっぱいに周りの大人が納得できるように説明しようとする。その結果、「キライ」というのがもっとも簡便だから、こういうに過ぎない。

子どもに限らず人間はだれでも、学校、職場、地域社会などで顔見知りになった人たちのあいだでみんなから受け入れられ、自分も相手を受け入れているという実感をもてたときに、その集団のなかで安らいでいられるのだろう。

だから、なんとなしに友達が言っている常識のようなものに、どうもしっくりこない感情をもった経験のある子が、その違和感をもとにして、だんだんと「学校」と距離を置きたくなる気持ちも非常に分かる気がする。

クラスの中に、運動会で「一番にならなきゃ」という意志の非常に強い子がたくさんいたとする。しかし、そういう空気の中にいることを、「なんで自分はそうは思わないんだろう」と不思議に思う子もいて当然だろう。

そんなときに、「へえ、わたしは別に一番じゃなくてもいいや」と、ふと気軽に言えることができたら、事態は平穏である。あるいは、ふと、そうした自分の素直な気持ちを言ってみた時に、「ああ、〇〇ちゃんはそう思うんだねー」で済むのであれば、クラスの人間関係は平穏であろう。

ところが、そう思うこと自体を責められるような空気が教室の中にあるのであれば、そこはどうしたって、「窮屈な感じのする場所」になっていく。

担任が

「こうでなければならぬ」

という思いが強いと、うまくいかないかも。

今は、社会全般に、〇〇でなければ許されない、という意識が強い。そこから外れてはいけない、というプレッシャーが多い。今の世の中の価値観で、本当に安らいでいられる人は、少ないと思う。
保護者だって、安らいでいる人は少ない。だからPTAの居心地さえ、良くないと感じている人が多いようだ。PTAは本来、子どものためにいろんなことができる組織だ。多くの大人にとって、自分を生かせるという意味で、人生最良の場になり得ると思う。しかし、そう思う人は激減しているようだ。システムが硬直しているのか、考え方が硬直しているのか、「許せない」範疇のことが多くなっているのだろう。

大人も窮屈な気がしているし、
子どもも窮屈な気がしている。
どうも、そういう世の中らしい。

だから、教室が「安心できる」と思えば、もう忘れられないくらいに、泣きたくなるくらいに、ここが人生最良の場なのだ、となってしまう。(ところが残念なことに、それは誤解なのですが・・・)

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その子らしさを考える

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今日は、久しぶりの休暇、という感じがした。
3学期の通知表を書き終わり、教室の荷物も大きなものを片付けて、
なかなかにさっぱりした。

午後、ちょっと遠出をして、山の方の温泉場へ行った。
湯につかりながら、4年生の1年間を振り返っていた。

お互いがお互いのことを真剣に考え合う、進路研究の授業。
友だちのことを知らなければ、友だちに気持ちが向かなければ、
相手のことを真剣に考え合っての「進路相談」など、できっこない。
仲良く、仲良く、仲良く・・・
道徳の授業を繰り返しながらの、下地づくり。


むろん、まだ4年生だから、職業の知識は少ない。
世の中にどのくらい、どんな職業があるかなどは、知らない。
しかし、むしろ知らないからこそ、「こんな感じのことをやってくれたら・・・」
という「職業以前のなにか」を、考えてくれる。

Kくんについて、星が好きだ、ということを材料にして、みんなであれこれ考えていた。
多くの子が、
「じゃあ、天文博士になったらいいよ」
「ロケットとか飛ばす人は」
「JAXAに行けばいい」
「星座の本を書けばいい」
など、思いつくままに言っていたら、ある女の子が、

「ねえ、Kくんは、なんで星のことにそんなに興味が出てきたの?」

と、初めて聞いた。

するとKくんは、ちょっとうれしそうな、ちょっと困ったような顔になって、

「うーんと、最初はプラネタリウムに行って、星座の話しを聞いたんだけど・・・」

と話をしだした。
みんな、ふんふん、と聞いている。

「神様がたくさん出て来て、すごく話しが面白いんだよ!ゼウスとか神話とかとつながってて、登場してくる神様がみんなすごく個性があるというか・・・」

そのへんまで聞いて、ちょっと話が変わってきた。

「へえ、そんなんだったら、お話とか、ストーリーをつくる仕事とか、あるんじゃないの」
「映画とかをつくる人!」

ちょっと面白い意見も飛び出して来た。

「そういえば、Kくんはハリーポッターの話もよくするでしょう。ああいう不思議なハナシが大好きなんだったら、ヨーロッパの人と関わるような仕事とか、ハリーポッターみたいな本を、日本語にする人とか、そんなのもいいじゃないの」

みんな、おー、と静かな声で同意する。

「Kくんは、たぶん、ヨーロッパが好き、なんだよ」
お調子者のUくんが、大声で叫ぶ。
「そーだ、Kくんはピザが大好物だもん!ピザ屋になれば!」
「お店の中に入ったら、星座が見られるピザ屋さんとか」
「夜はさ、Kくんがお店の中でさ、星座の話をすればいい」


次から次へと、あれやこれや、意見がどんどん噴き出してくる。
Kくんは、なかばあっけにとられながらも、うれしそうにそれを聞いている。


わたしは、話の結論がどうか、というよりも、
その場の空気がおもしろくてたまらない気持ちになる。
仲間だからこそ、の安心感に包まれて、みんなで空想しているのだ。
われらがKくんがなにかしら、人の役に立って、「みんなのために何かをしてくれている」状態を。

これを、35人分、全員でやりあったのだ。

そりゃ、時間はかかったですよ。
正直、国語の単元のいくつかは、猛烈に端折ったり、可能な限り短時間でやりました。

その分、この濃密な、進路を考え合う時間の、濃い事、濃い事。

「ひとと関わり合う将来のことを、ひとと関わりあって見つけようとする」

これが、キャリア教育だろうと思います。
決して、一人きりで考えることはない。
仲間の安心感の延長で、ひととの関わりを考えていくからこそ、
無限の広がりを実感できるし、明るく、希望をもって、進んでいけるのだろう。

だって、なんか、すてきなことができそうな気がしてくるもんネ。
みんなの話しを聞いているだけで・・・。

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子どもにとって担任とはなにか

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まあ、親みたいなものなのかな。

今週で、学校は終わり。
終業式はもうすぐ、だ。

今年も訴える子、多数。
「来年もぜったい担任になって」
「お母さんに言う!校長先生に言ってもらう!」
帰りの時間は、まるでサイン会のようになる。
「先生、ここになんか書いて!」

〇〇さんは走る姿がかっこよかったです!
〇〇さんは友達思いの本当にいい子です!
〇〇さんが理科の実験の時に考えて発言したことはすごかったです!
・・・

わたしも、わたしも、おれもおれも・・・
視界が子どもたちの手でいっぱいになる。


担任というのは、親だな。
一人ひとりに、「幸福になれ、なってくれ」と願う。

「来年も、しあわせになれよう!」

わたしが転任せず、この学校に残るから、と何度言っても、
わあわあ、泣く。
「来年も、ちがうクラスかもしれんけど、その辺の廊下を歩いてるからだいじょうぶ」
といっても、泣いている。

1年限りの、親だったんだな。


反省するのは、この子どもたちの、教室での姿や思考、発言のほとんどを、
現実の実際の親たちは知らない、ということだ。
それを伝えるのは私の役目だろうが、学級通信を何枚書いても、
その行動、その発言、その気持ちは、ツタワラナイのだろう。
わたしだけが、その子の、そのときの、その姿の、素晴らしさを知っている。
これを独り占めしていることが、不思議に思えてくる。これ、わたしだけ、でいいんだろうか。
今の教育システム、どこか変えた方がいいのでは・・・。


学校という社会の中の装置が、社会から離れているのは、ある意味は子どもを守るためでもあろうが、やはり惜しい気もする。人が人を責めなくなったら、子どもは社会に帰ってくるだろう。
安心が基本の大人社会になっていかないと、子どもは学校という装置に取り込まれてしまい、だれの口出しも、だれの関わりも、許されなくなり、乏しくなっていくのだ。

子どもたちが去った教室で、子どもたちの面白い冗談を思い出し、時折、笑いをこらえながら、ほうきでごみを集めているときが、幸せだ。

あと数日で、終業式。
学級の最後がやってくる。

陽がしずみ、夜になり、わたしは教室に一人残り、通知表の点検を終える。
遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時がくる。

最後の日。
わたしは子どもたちに何を言おう。

夜

【教師の体調管理術】~腸を活性化する~

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加齢とともに、花粉症がつらくなってきた。
これまでは「薬を飲んでおけばだいじょうぶかな」と思っていた。

しかし、こう思うようになった。
「できるだけ薬は飲まなくてもいいようにしたい」と・・・。
薬をのまずに、食事を少し意識することで、花粉症が軽減しないかな。

そこで、NHKで得た情報を元に、腸の状態を良くすることで
アレルギー反応を抑える効果を期待することにした。

具体的には、これを飲む。

↓ これだ。

L-92 - コピー


つまり。
L-92乳酸菌飲料を、日々、飲むことにした。
もったいないから、ちびり、ちびり、とネ。
同時に、食物繊維も摂り、さらに適度に運動するつもり。
アレグラやアレロックなどを服用しないで、経費節減する予定だ。

しかし、鼻水やくしゃみ、涙目、せき、鼻づまりが軽減しない場合は、
やむなく耳鼻科に通おうと思う。

うまくいくだろうか・・・

ここで、いちばん重要だと思われる食物繊維の摂取については、味の素のホームページに、こう書いてあるのを参考にした。

不溶性は玄米、大麦などの穀類、ココア、ごま、豆類やごぼう、れんこんなど根菜類に多く、水溶性は昆布、わかめなどの海藻、熟した果物、やまいも、こんにゃくなどに多く含まれます。野菜は生よりも煮ものやお浸しなど火を通したもの、ご飯は玄米や雑穀入りに、パンは全粒粉やライ麦パン、シリアルを利用するなど食物繊維を増やす工夫をしましょう。種類によって機能が異なるのでいろいろな食品を組み合わせるのが効果的です。


となると、定番のレシピはこうなるだろう。

1位 切り干し大根の煮物
2位 オクラのおかか醤油
3位 きんぴらごぼう
4位 筑前煮
5位 納豆
6位 きのこコンソメスープ
7位 ごぼうといんげんのツナマヨあえ

これを、1位は月曜日、2位は火曜日、3位は水曜、という具合に食べていけばなんとかなるんじゃないだろうか。


だいじょうぶ。筑前煮はわりと好きだ。


人間本来の好奇心

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そもそも、人間と言うのは、どの程度、やる気に満ち溢れた存在なのだろうか。

子どもを見ていると、どんどん遊ぶ。
なんでも試して、振ってみたり、歩いてみたり、のぞいてみたり、たたいてみたり、噛んでみたり、いろいろする。

特に、幼児期の子どもはそうで、それをして夢中になっている姿は、人間本来の好奇心に満ち溢れたものだろう、という気がする。

ところがそのまま成長していくことは、むずかしい。
なぜなら、小学校に入ると、

「この間、楽しくなかったから、もうやらない」

とか、

「あいつとはやりたくない」

とか、

いろいろと、思うこと、が出てくるからである。

さらに言うと、義務感、というものが邪魔をする。
こうしなけばいけない、という「きまり」や「さだめ」というものが頭の中にいっぱい増えてくるから、そうしたもので動く。

するとどうなるか?
ある、重要な変化が生じるのだ。

つまり、

「つまらないなあ」

と、思うものなのである。

やらされてやるのは、なぜか、つまらない、と思うものなのだ。

ちょっと待てよ、なにか、おかしいぞ、と、神経の深いところで、何かが教えてくれているのかもしれない。
幼児期に体験してきた、あの、純粋な、いつまでやっていても飽きなかった、ごく集中していた、いわば「ゾーン」に入ったような、素の気持ち、素の楽しさはすっかり姿をひそめてしまい、

なんだか、けだるいような、はやくやめたいような、妙な気持ちになるのである。

だれかにほめてもらったり、評価してもらったりすると、また猶更である。
ほめてもらえる、と分かると頑張るが、それがないと、

「なんだか、つまらない」

のである。

これは人生の幸福度を考えてみると、たいへん重要な変化で、人間が成長する上で、こうしたことでの「つまらなさ」をできるかぎり、克服できた人間は、イチローのような、集中することにぐいぐいと進んでいける人間になれるのだと推測できる。
アップルのジョブスのような、グーグルの創始者ラリーペイジのような、創造性と集中力に満ち溢れた人格が育つには、おそらく、

倦怠 とか、やらされ感、とか、義務感、というものが、その集中を邪魔しないことが大きな要素になってくるのだろうと思われる。

冬を越して生えてきたクローバー

改ざんされてない、ちゅうことになっておる

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WEBページには、事実が書いてある、ということになっている。
この、・・・ということになっている、というところが、情報リテラシーの肝心かなめの部分。
実は、・・・ということになっている、(が、実際は分からない)、ということが、情報リテラシーの学習で、いちばん大事なのだ。

小学校でふつうに情報リテラシーの授業をするときは、最初に、
「TVや新聞のニュースやWEBページは、事実を語っている、ということになっている」
という命題を学習する。
それは同時に、
「・・・ということになっているが、それが事実かどうかは分からない」
ということである。
これを習うから、リテラシーの授業をやった後は、かなりの程度、人間不信、あるいは情報不信に陥る。

「先生、ニュースってうそばっかりなの?」
というから、
「いや、事実ということになっているだけで、事実は、だれにも分からないんだね」
と答えている。
すると、子どもたちは、とても不満そうである。
「なんで、本当のことを言わないの?」

なるほど、至極もっとも。

「いや、事実かもしれないしね。調べてみても分からないし。時間が経てば、本当になる場合もあれば、時間が経つと、うそになる場合もある」

ここまでいうと、子どもたちは

「・・・じゃ、もう、いいよ。なんか、情報リテラシーって、つまんないね」

と言う。

もう、情報にはつきあいきれない、ということらしい。
「すべての情報には、発信者の願望が隠されているので、必ずその発言の最後に、・・・ちゅうことになっておる、という一文を入れて聞くこと」
ということなんだろう、と思う。

〇テレビの街角インタヴューは、たまたま街を歩いている人に、質問してる・・・ちゅうことに、なっておる。
〇個人情報は漏らされない・・・ちゅうことになっておる。
〇国家公務員は嘘をつかない・・・ちゅうことになっておる。
〇中国が尖閣諸島を狙っている・・・ちゅうことになっておる。
〇アメリカは北朝鮮がきらい・・・ちゅうことになっておる。


こうしてみると、
・・・ちゅうことには、一応、なっているんだけれどネ・・・
という感覚が、アタマの中を、勝手によぎるように、なりますわね。

つまり、ほとんど、世の中のことは、分からない、ということが事実ではないだろうか。

・・・で、問題なのは、人間はみんな、「分かりたい病」にかかっていて、「分からない」という状態が、とても苦手だ、ということ。
みんな、目前の世界のことで、いっばい、いっばいだから、
早く立場をハッキリさせないと、現象面のことで右往左往してしまう感じがあって、耐えられない
のだろう。

しかし。
これからの時代は、「分からない」ということが平気だ、と言う人間がもっとも強いのではないか

おそらく、この「分からないという感覚」をずっと長く保てる人が、もっとも客観的で、もっとも冷静で、もっとも多角的な視野を保てるだろうから。(情報無視とかじゃなくてね。無視もまた苦しいだろう)
情報弱者という言い方もあるが、情報収集量の多寡というより、すぐに全体像が分かった、あるいは事実は分かる、と思ってしまう思考癖のことを指すのだろう。

こうなると、これからの小学校でめざしていくべき「情報リテラシーの授業」の、方向性がはっきり見えてくる。
つまり、『決定的に分からない、わたしたち人間のする情報発信の心得』を学ぶのが、情報の学習、ということになりそうだ。

最初の授業は、情報発信って、そもそもできるの?という問いかも。
また、情報って、そもそも信頼できるの?という問い、
そもそも人間は、なにかを信頼する(あるいは、「分かる」)っていうけど、できるの?という問い。

信頼とはなにか。
小学校の情報の学習の到達目標は、結局はここに行きつくのかも。
seisyun

【教師必見!】教師の胃腸強化術!

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先日、久しぶりにテレビを見た。
NHKスペシャルの「人体」という番組だ。
見ていたら、タモリさんたちが「腸はすごい臓器だ」という話をしている。
わたしたちの「腸」は免疫を制御している臓器で、腸のはたらきが正常でなくなると、風邪をひいたり、ウイルスに感染したりするなど、からだにかなりのダメージがある、という。

たしかに、深夜遅くに食べる生活をしたり、不規則、不摂生な生活をつづけたりしていると、なぜだか知らんが、便(べん)の様子がおかしくなるときがありますナ。
快便のときは気持ちまで明るくなり、人生はどこまでも楽しい、という気分になってくる。しかし、それがそうでもないと、なんだか鬱陶しいような諸問題が行き先に立ちはだかってくるような気がして、一層気が滅入るものである。腸は、脳のストレスにも影響を与えているらしい。
わたしはNスぺの解説をききながら、ふーん、ふーん、とうなってばかりいた。

1時間の番組の、最後のエッセンスだけをここで抽出してみると、結局、日本人は食物繊維をたくさんとらねばならない、ということであった。食物繊維をとれば、身体の免疫機能が正常化し、アレルギーが軽減し、ウイルスにも強くなる、という。

腸には一人ひとり、異なった個性がある。個性は乳児期にほぼ決定されるらしい。もっとも大きくそこに影響してくるのが、母親の腸内環境だそうだ。無菌状態で生まれてくる赤ちゃんが最初に感染するのが、産道を通る時であり、赤ん坊の腸の性格は、その母親にとてもよく似る。(ちなみに父親にはまったく似ない)

腸内細菌の組成を決めるのは、生まれた直後に接触した人が持っている菌である、という報告もされているようで、やはり人間はその母親の「腸の個性」を、ほとんど引き継ぐようにして生きることになるらしい。ちなみにヤクルトという会社が研究したところによると、子どもの腸内のビフィズス菌の遺伝子分布は、母親とほぼ一致する。そして、その腸内細菌の組成の具合、つまり腸の個性は、一生涯、ほとんど変わらないそうであります。

つまり、基本的に日本人は代々、長く長く、たくさんの母親を通じて引き継いできた「腸内の個性」をもって生きている、というわけ、ね。
そして、その日本人の腸は、世界的にも珍しい特技を持っていて、なんと、『食物繊維』をパワーに変えることができるのであった。

これはどうやら、祖先が縄文人と呼ばれるころからの長い伝統らしく、人間が腸内細菌と共存しあう歴史は、そう簡単に変えられるものではない。われわれは、頭の中身は21世紀人として生きているようであっても、腸の中に住んでいる細菌たちからすると、「ついこの間まで、縄文とかなんとか、いってたね」というくらいの話しらしい。腸内細菌たちは、まだわれわれが、「栗、粟、稗、海藻」なんかを主食にしている、と思い込んでいるようなのだ。

だから、ありがたいことに、我々日本人は、食物繊維をとることで、腸内細菌が抜群に元気を取り戻す。そうなるように、腸が進化しているのである。

これが日本でなく、パプアニューギニアになると、そうはいかない。
なぜなら、パプアの方たちは、「栗、粟、稗、海藻」で1万年以上生きてきたわけではない。だから、腸も、うまく繊維質を活かしきれない。
彼らの主食は非常に長い期間、ずっとさつまいもでした。だから、逆にパプアの人々の腸内細菌はさつまいもに特化して進化しているのだ。具体的には、低たんぱくのさつまいもを食べると、なんとそこから腸内細菌が窒素ガス、アンモニアを利用して増殖し、菌体内の遊離アミノ酸が大腸から吸収されて、たんぱく源になるのだそうだ。
したがって、彼らはさつまいもを食って、あんなに立派な、アスリートのようなたくましい筋肉を得ることができるのであります。(日本人は腸内細菌にその能力がないから、そんなことできない)

一方、日本人の腸には、食物繊維が合っている。
Nスぺでは、お寺で精進料理を食べながら修行をするお坊さんたちを取り上げていた。お坊さんたちはお寺で修行しながら、食物繊維たっぷりの食事をとる。すると、多くの方たちの花粉症やアトピーが軽減していく、とのこと。

教師は残業が多く、睡眠も少なくなりがちだし、深夜に帰って急いで食べる生活が続くから、食生活も乱れがちになる。

こんなわれわれは、もう、

食物繊維をとる

という必勝のワザを駆使するしかない、ということになっているようであります。

全国の教員の皆さま、ヨーグルトもいいが、それ以上に!食物繊維を摂りましょう!!

かならずや、腸内にお住まいの菌たちが元気を取り戻し、
生き生きと活動を始めることでありましょう。

そして、あとはほんの少しだけ下記のことに気をつければ、恐らく健康で過ごせるはず。
つまり、清潔な布団で心地よく十分な時間の睡眠をとり、たっぷり寝てしかし寝すぎず、良い人間関係を保ち、他の栄養に気を配り、ストレス過多に気をつけ、適度な運動をして小魚をよくよく噛んで骨を強化し、交通事故に遭わないようにし、水を飲みすぎず飲まなさ過ぎずちょうど良い量を呑み、アルコールを適量にして発酵食品をとり、目を休めて酷使せず、太陽の陽を浴びて姿勢に気をつけてたっぷり歩き、しかし転ばないように慎重に階段を歩いておれば、きっと、たぶん、いや、もっと他にも要素があるかな、・・・しかしまぁ、いろいろと多種多様なことに様々に気をつけておれば、必ずや健康を実感できる、あるいは「まあまあ快適かな」と思えるくらいの体調で、人生の佳き日を過ごせるのではないでしょうか。
さつまいも

理想がなくたって、だいじょうぶ。

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あと、ひと月で4月。
これから新しい生活をスタートさせる人も多いのだろう。
新聞記事で、就職のことが特集されていた。
今年は売り手市場だとかで、例年よりは就職率が良かったらしい。
わたしは氷河期世代。どこもかしこもバブルの打撃で立ち直れない時期だった。

「なぜか分からないがどうしても受からない、自分が悪いのだろうか」というので悩む友人や後輩の姿をたくさん見た。日本全国、多くの若者が志望動機など一切封印して、ともかく就職できれば良いからどこにでも行く、という感じだったと思う。

「本当はこうしたい」
「本当はこんな夢がある」
当時は、こんなことは言えない状況だった。
夢を封印した人の、寂しさ、やるせなさ、というのがあっただろう、と思う。
わたしの学生時分の友人たちは、意を屈して、意志をまげて、就職していった者が多かった。そして、今でもそこで石にかじりつくようにして、辞めずに頑張っている。


わたしが久しぶりに連絡をとった大学生時代の友人の中には、
就職してしばらく、愚痴ばかり、という友人がいた。
ひょうきんな顔つきで、愉快な男であったが、自分の希望する職種やジャンルとはまったく異なる、いわゆる営業畑に入り、苦労をしたようであった。

私は、そのうちに彼は辞めるのだろう、と漠然と考えていた。
当初、愚痴ばかり聞いていたこともあって・・・。

ところが、久しぶりに聞いてみると、なんとまだ、そこで働き続けていた。
そして、なんだか、とっても充実しているらしい。
わたしは、内心、とっても驚いた。
あまつさえ、私に向かって彼はこうも言ったのである。

「まあ、人生いろいろだけど、新間も頑張れよな。教員もつらそうだが、辞めるなよ」

彼から感じるのは、まったく後ろめたいもののない、底抜けの明るさだった。



根が明るい人は、理想がどうこう、なんてこと、言わないでも平気なのだという気がする。
そんなことに頼らずとも、平気で、生きていける。
だれが見ていなくたって、平気で、一人でも、生きていける強さがある人のことを、たくましいとか、明るい、とか言うんだろう。

そう考えてみると、「本当にやりたいこと」を考えなさい、と追い込む社会機構、社会システムは、おおむね、暗い、と断言してよい。
「理想」を考えずに済むのが、一番いい。
誰もが、ふと、生きていけるという、そういう明るさが、もっと知られるようになればいい、と思う。
逆に言えば、社会全体が自然と個人を生かすようにセッティングされていると言おうか。個人を追い詰めなくても良いくらいに、社会が進化している状態であること。

「就職」の話題がどうしても苦しさに満ちた記事になっていくのは、そこにどうしても、個人の理想を重ねようとするからだろう。
理想を考えずにいられないというのは、もはや「理想中毒」と呼んでいいのかもしれない。
理想に頼らない生き方が、これからはもっと取り上げられるようになると思う。

オリンピックの羽生選手が、若い人の理想の姿だ、という新聞コラムを読んだ。
このコラムを書いた人は、たぶんおじさんなのだろう。
まだ、まだ、おじさんの思考は、「理想」を追いかけることに夢中になっている。
「こうでなければならない」というの、強いんだろうな。
(というか、そういう価値意識しか習得してこなかったから、一生そのままだろう)


小学校でのキャリア教育でも、「理想」とくっつけた途端、暗くなってしまうことが予想される。
そうならないよう、新しい「人間の幸福」を、見出していけるような人になりたい。
しかし、悩むことはない。
すでに、その答えは子どもたちが持っていて、わたしたちに教えてくれている。


businessman_workaholic

実際は規制されないのが人間

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「いくら規制したと思っても、実際は規制されないのが人間だ」

これが、人間の本質である以上、だれかが規制を欲したとしても、実はほとんど規制はされないのであります。

アメリカのハイウェイで、あまりにも日中の自動車の交通量が多く、頭を悩ました市議会は、よせばいいのに、こんな条例を出した。
「一番左端の車線は、一人乗りではなく、複数人乗りの車しか、通行してはいけない」
つまり、運転席に一人だけ座って運転している自動車は、一人しか運んでいないわけだから、効率が悪い。こういう状況を無くせばいいのだから、乗り合いの状態を推奨するために、上記のような珍奇なルールを発明したのであります。

ところが、施工後まもなく、この規制はまったく役に立たないことが分かった。

すぐに業者が、上半身だけのよくできた人形を売り出した。それがまた大量に売れた。
ほとんどの車の助手席にその人形が置かれて、みんなが平気で、その特別に許可された車線を通行しだしたのであります。

ま、見た目、助手席にも、人が乗っているように見えるもんね。

岩盤規制は、学校にあるのか、それともただの幻影なのか。

いくら禁止と叫んでも、いくらダメだと叱っても、
その子がそうしよう、と選択しない限り、表面上のその行為はなくならない。

表面上、なくなったように仮に見えたとしても、
「そうしたい」と願う子がいたら、表面的には見えなくても、実際には心の世界でどんどんイメージトレーニングされているわけだから、なにかきっかけがあれば、すぐに現実化するだろう。

なぜ学校のルールは増え続けるのか、という着眼で、研究する研究機関が、日本のどこかにないだろうか。いたら、ぜひ協力したい。

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コロコロコミックの肖像画落書きの件

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チンギスハーンの肖像画の上に、落書きをする、という内容の漫画が掲載されたので、朝青龍が激怒した、という話。

わたしは、朝青龍はよく自分の意見が言えてよかったな、と思う。
黙っていたら、『はらふくるるわざなり』で、イライラが募っただろう。

品格がない日本人‼許せない‼謝れ‼謝れ‼謝れ‼(by朝青龍)

そこで、「謝れ!!」と何度も繰り返しつぶやいた、というが、わたしはモンゴルでも、「謝る文化」があるのか、ということが気になった。

謝る、ということを、ことさら大事にするのは、日本人だけかと思っていたが、
モンゴルでも謝ればよし、とするのだろうか。

小学校では、子どものトラブルに謝罪はつきもの。
双方でごめんなさい、と言わせるのが、デフォルトの指導である。
朝青龍も子ども時代に、そうやって指導されてきたのだろうか。

ただ、これからの時代、
何かをされた⇒迷惑だ⇒謝罪要求
という流れは、だんだんと減っていくように思う。
仲が悪くなる、その原因がどうやっても見当たらない。

そこまでいかないと楽しくないし、
逆に言えば、そこまでいけるとも思う。
子どもの方は、割合に速く、そうなり得る。
そういう子たちの前で、「謝って解決」という枠組みから抜けられない大人が、道徳を教えられるわけがない。

道徳を教える、という自分を、徹底的に見直すことからしか、なにも始まらない。

Shazai1

働き方改革について

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やはりまだ、男性教員は「子どもを教室でみるのが半分、残りの半分は夕方からの職員向けの仕事」という意識があると思う。どちらかというと、本業が夕方からだ、という先生もいる。
文科省のアンケート、備品の管理、PC教室のメンテナンス、行事遠足の打合せ、卒業式の掃除区域の割り振り、授業研究会の広報と紀要の作成、登校指導の旗を直す、市教委への連絡、保護者への連絡、地元保育園への連絡・・・

やはり、どこかに、男として、大黒柱として・・・という意識があるのだろうか。
深夜まで働く男性の同僚は、
「子どものことが後回しになっちゃ、いけないけどな」
と苦笑しつつ、やはり職員室がうまく回っていくための裏方の仕事を、率先してやってくれている。
教頭も毎日、帰宅が午後10時だというから、どれだけやっても仕事の湧いてくるのが職員室だ、ということだろう。

文科省から届く、「学校の実態調査」という膨大な量のアンケートだけでも、減らしてくれたらありがたい、と切に願う。職員が十項目以上もあるアンケートに答える、それを全職員分集めるだけでも精いっぱい、それを表に打ち込み、グラフにし、整合性を確認し、前年度のアンケートと比較して違いを出し、マチガイがないか確認しているが、時計の針はすでに深夜。
翌日、生気の無い顔で子どもに会わなければならないことを、子どもは許してくれているのだろうか。

自分はけっこう、早く帰るようにしている。
当然、自宅で次の日の授業の準備は欠かせない。
ときにはそれが深夜に及ぶこともあるが、手を抜けない質(たち)だから、仕方がない。
わたしが早く帰る分を、教頭先生やS先生、Y先生たちが夜遅くまで頑張ってくれている、と思うことがある。
申し訳ない、申し訳ない、と思いながら、でもやはり、早く帰るのが自分の務めだと、言い聞かせながら早く帰る。

で、その分、次の日のバスケを頑張る。休み時間のドッジボールを頑張る。子どもとたくさん話す。子どもの話をたくさん聞く。

なにかまだ、遠慮があるんだろうな。

「遠慮がなくなりますように」と夜、学校の駐車場からお月様を見ながら、何度も祈っている。

time4_yoru
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