30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2018年02月

お母さん、と呼ばれる率が高い件

.
「先生」のかわりに「おかあさん」と呼ばれることがある。
言い間違えた子どもも、気づいて苦笑し、
「あ、先生なのに、おかあさんって言っちゃった」と笑う。

教師がよく体験する、『あるある』、である。


ところで、私は男なのに、なぜか「お母さん」と呼ばれることが多い気がする。
たまに「お父さん」の間違いも、ないことはない。しかし、圧倒的に「お母さん」の言い間違いの方が多い。これは、なぜだろうか。

つまり、教室で教師がふるまう所作は、多くは女性性を感じさせることが多いのではないだろうか。子どものイメージとして、「母」を感じさせているのではないだろうか。4年生の子たちに、「母性」を感じさせるものが、わたしにどうやら備わってきているらしい。

ためしに同僚に尋ねてみたところ、
「いや、ふつうにありますよ」と。
彼はまだ30代初めで、若々しい男性だ。
にもかかわらず、

「お父さんと呼ばれるよりも、お母さん、って言われることの方が多いですねぇ」

とのこと。

たしかに、思い当たる節は、ある。
子どもが風邪をひいて休んだ次の日は、「だいじょうぶだった?」と声をかける。
おでこに手をあてて熱っぽかったら一緒に保健室へ行く。
手洗いうがいを、せっせと奨励するかと思えば、給食の盛り付けをチェックし、おかわりをうながす。
低学年ならおもらしの処理、もしも吐いてしまったらその処理もする。
給食を盛り付ける台はいつもきれいに!と呼びかけ、自らせっせとアルコールで消毒したりもする。
そうじの時間は腕まくりをし、てぬぐいをかぶって隅から隅まで箒ではいて、水拭きだ。

こういう姿を見ていると、いわゆる世間一般の、「お父さん」のイメージとは、ちょっと違っている。だから、「お父さん」とは呼び難いのかもしれない。

教師は、教師をしているうちに、母性を身につけるのではないか。
もちろん逆もあるだろう。女性の先生は仕事を通して、だんだんと厳しく統率するような父性を身につけていく。

わたしは男である以上、父性を自然と身につけていくような社会で生きてきた。また、社会全体からもそれを期待されてきたと思う。そして、自分では無自覚であっても、父性を身につけてきたと思う。
わたしが就職する頃は、「24時間たたかえますか」の時代だった。だからか、男は仕事をはじめとした社会の中で、なお期待される男らしさにこたえなければない、と思うようになった。映画、アルマゲドンで、味方を救うために、あるいは娘を救うために、自ら死を選ぶヒーローの姿に、男として、父としての理想を感じ取ったように思う。(今はもう、アルマゲドンの世界観や価値意識は、とうてい流行しそうもないネ)


しかし、教師はそれだけではダメだ。
父性を通りこし、母性的なものも含んだ「親性」を持つことが必要になる。

わたしは、ひそかに、女性の先生から学んでいることがある。
その先生の、子どもとのやりとり、同僚とのやりとり、から学ぶことが多い。
やはり、女性ならではの特質を、そこにみる。
無表情の男性教師に対して、やはり女性の先生は、自分の気持ちをきちんと伝えようとしている気がする。表裏なく、隠そうとせず、頑張ろうとせず、プライドを気にせず、地の自分を出していけるところがカッコイイ。

男性教師の場合は、ちょっとしたプライドが邪魔をするのだろうか。気持ちを伝え合ったり、共感的なコミュニケーションを図ったりすることが不得手かもしれない。もちろんこれは、わたしのただのイメージ・感想であるし、個々の人間に当てはまることではないだろう。しかし、わたしが勝手な印象で言ってもよければ、
「怒ることは得意だが、褒めることは苦手」
という男性教員が、割合としてはやや多いと思う。
感情をきちんと表現できる男性教師は、ずいぶんと出来た方だろう、と思う。

一方で、確実に、時代は変わっている。
「こうでなければならぬ」という肩の力を抜いて、ひとの顔を、ひとの目を、きちんと見ていようとする男性教員も、また、増えているように思う。

自分がそうなるように、そうなれるように、精進したいと切に願う。

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道徳的な価値では子どもは動かない件

大学で増加中「散歩サークル」活動は「結構ガチ」(AERA)

かつて、この記事が目に留まったとき、
面白い!
ついに、時代が動き始めたか、という気がした。


要するに、記者からしたら、
「面白くもないことを、なんでやってるの?」
ということだろう。
しかし、その問いこそが、大学生の心情からしたら、「???」なわけね。

このすれ違い。おもしろ~い!!

「面白い」ということに、価値がおかれなくなってきていることに、
この記者が、すかさず食いついてきていることに、読者の自分もドキドキする気がした。


大学生「べつに、『面白くなくても』いいんですけど」
↑これが、理解できない。ふつうは・・・。

えっ!!面白無くてもいいの??そんな、馬鹿な・・・。
・・・てね。

◎積極的に汗を流す
◎コンパで盛り上がる
×ひたすらその辺を歩くだけ

こんな価値観が透けて見えてきます。

こういうことに、興味を覚えたこの記者は、センスがいいと思います。
というか、おそらく、この記者は、そのすれちがいを、楽しんでいる。
分かっている。
そして、世の中の多くの人が、

「これが価値ってものでしょう!」

として疑わないことに、ちょっとしたクエスチョンを投げかけているのだ。

この記事を書いたのは、朝日新聞の記者、「古田真梨子」さん。
どんな人だか、会って話してみたくなった。

こういうセンスの持ち主だから、今後、若い層を中心に、

「なにもしない、やる気もしない、でも鬱でもない、言われたらやるけど、そこまで頑張ってやろうとおもわない。道徳的な価値では動かない。」

という、一見、白けたような世代の行動を、きちんと理解してくれるのでは、と期待してしまう。

さて、今の小学生も、いわゆる「お仕着せ」の価値には、ちっとも感動しません。


その結果、まじめな先生ほど、悩んでいる気がする。

道徳の授業、どうしたらいいのか、ちっとも分かりません!

答えを教えようとする道徳は、過去のもの。
子どもが自身から見つける道徳が、ほんもの。

道徳の授業を、もっともっと開発できるような教師になりたい。憧れる。

けやきの木

のどごし、最高!

のどごし。

それは、つい、先ほどの記憶である。

ビールはすでに胃の中だ。

しかし、人間は、

「つい、さっき」のどを通過した、
ビールの冷たさや炭酸のキリキリした刺激、
のどから鼻へ抜ける麦芽の香ばしさ、
いわば「過去」の味わいを、反芻するのである。

それが、「のどごし」の正体だ。

つまり、ひとは、「過去」を味わう動物と言えよう。

「うまい!」と声に出して言うのは、絶対に胃の中に収めた後、である。
現在進行形で、ビールが『のど』を絶賛通過中、なのであれば、人間は声を出すことすら出来ない。
やはり、人間が味わい、感想を持つのは、「過去」に対して、である。

喉は、刹那の感想帯、なのだ。



私は神様を恨む。
なぜ、喉をもっと、長く作ってくれなかったのか、と。

実際、喉が1メートルほどもあれば、「のどごし」をたっくさん、味わえたはず。
のどごしの感想も、もっと細かく、詳細に、たっぷりと、味わえたであろうに。
そして、炭酸の記憶も、なかなか消えないくらいに、じっくりとその痕跡を残すだろう。

神様というのは、このこと一つとっても、欠陥だらけである。
雲の上から今ごろ、長く白いひげを、もさもさ触りながら、
「こいつ、分かっとらんな」とぼやいているだろうが、
実際、喉は短すぎるのだから、仕方がない。
神は、この件に関しては、非難されて然るべき、である。

おお、神よ!
私に、1メートルほどの長い「のど」を与え給え!
さすれば、わたしはもっと、ビールを味わえるでありましょう!


嫁様にこの願望を、つい、うっかりともらしたところ、

「んな、ろくろ首みたいなのと、一緒に暮らしたくないわ!」

「いや、きみもそうなればいい。ビールが味わえるでよ」

「その首でスーパーに買い物とか、邪魔でしゃあないがな」

まともに取り合ってくれません。


「今を生きる」を実践するには、「過去を味わう」から脱却せねばならないが、そのためには人間は全員、ろくろ首にならねばならない。なぜなら、これまでみてきたように、ひとはビールすら、「いま味わう」ことが出来ないからである。その味わいは、すべて過去、のものだから・・・。

となると、人の骨格の形状上、全員、「いまを生きる」は、無理である。今を生きるつもりでも、どうしても無理。つまり、ひとは、常に、「過去に生きる」のを宿命づけられた、生き物である。

人は、時間軸の中を、後ろを向いて歩いている。
あとずさりをしながら、歩いている。
前を向いている気になっているつもりで、いつもわが身より瞬間、瞬間に過去へたぐり、送り出しながら、歩いている。時折、前方を振り返ってみるが、進むときはまた後ろを向いて歩く。

ここで何より大事なのは、

「うしろ向きでは不安でたまらない」

のか、

「うしろ向きでも大丈夫、安心して歩いて行ける」

のか。

不安がないかどうか。ここが、決め手。




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嫉妬、という感覚

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嫉妬、ということについては、人類が古くから、その正体を見極めようとしてきた。

ブッダは嫉妬について、法句経でこう述べている(らしい)。


ブッダの言葉

他人の良くないところは
とてもよく見えるし、
調子にのって指摘したくもなる。
見えにくいのは、
君自身の良くないところ。
他人の問題点を指摘することで、
「ちゃんと指摘できる
立派な自分には問題がない」と
錯覚するがゆえに、
自分自身の問題点が
隠されてしまう。それはまるで、
ギャンブルでサイコロを振って、
自分に不利な目が出たら
イカサマして隠してしまう
ギャンブラーのよう。

(法句経)『超訳 ブッダの言葉』より



また、ニーチェによれば、ルサンチマン(嫉妬)を持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」である。(ルサンチマンは、主に強者に対しての、弱い者の憤りや怨恨、憎悪、非難の感情。つまりは、嫉妬。)

ブッダもニーチェも、説明に苦労しているようだ。

賢人とされる彼らでさえ、「善悪や道徳で説明しなきゃ」と思い込んでいるので、あれこれ、考え過ぎてしまっている。

嫉妬、の正体を、きちんと見極めることができたら、かなりの程度、人として、ふつうに暮らせることができるようになるのではないだろうか。

福寿草

コストダウンという考え方

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経営者なら、コストダウンを懸命に考えるのが仕事だろう。

一番のコストダウンは、戦争放棄。

宮澤喜一元総理大臣が、娘さんに、

「戦争しないのがいちばん儲かる」

というようなことを言っていたそうで、それは一理あるなあ、と思った。

ともかく、会社でも組織でも、もっとも人間の潜在能力を下げるのが、

「いさかい」

というやつで、人間が人間の「やろうとすること」のパワーを、足を引っ張って下げてしまうことが、いちばん効率が悪い。

ある部署が、一丸となって、ある商品の開発にしゃかりきに取り組んでいる一方で、その部署の努力を、なんとか邪魔してやろう、と言う人たちがいれば、その会社の生み出そうとする価値は大きくはならない。

ことほど左様に、コストダウン、ということを考えたら、お互いをリスペクトしあって、お互いが生み出そうとする価値を尊重し合う、ということが一番大事になってくることは疑いようがない。

ところが、これが難しい。

「嫉妬」

ということがあるからだ。

つららの先端

自戒を込めて~あと20日~

.
いよいよ、残りの登校日数が少なくなってきた。
もう20日ほどで、この一年度が終わる。
今思えば、あっという間だった!!

春が過ぎ、夏になり、秋になり、すぐに冬。
もうすぐ、卒業だ、終業式だ、クラスのお別れだ。

今年は父を亡くしたこともあって、「人生」というキーワードで考えることが多かった。
一生、という時間。
一生の間の、この短い40代を、どう過ごすか。
何をして、何を見て、何を軸にして生きるか。

月曜日、火曜日・・・あっという間に週末だ。
ちょっとじっくりと物事を見つめてみたい、と思いながらも、
洗濯したり、ホームセンターで買い物したり、薬局に行ったりしているうちに、
土日なんて終わってしまう。もう日暮れだ・・・。



やらないでもいいことをやって、忙しくなっている。
持たなくてもいいものを持って、複雑になっている。
大事なことは全部あと回しで、目先の義務を果たして、本来の自分のことはすべて置いて、人生の大事な時間を浪費していく。

今の今まで、多くの哲人が、賢人が、こういうことを指摘している。
でも、やはり、ほとんどの人が、

「自分」

を忘れて、「事柄」に夢中になって、ため息をついて、暮らしている。

複雑すぎることから、一歩離れて、俯瞰してみることが必要だ。
しかし、それができない。
その、一歩離れる、が、できない。
訓練されたこともないし、やったことがないから、分からないのだ。
どこから手をつけていけばそれがやれるか、あまりにも目の前に、ガラクタが多いから、見えていないのだ。

『一歩離れる』は、簡単だ。

自分のやること、考えること、思うこと、反応していること、ほとんどが、霧の中、夢中のことなのだ、と分かれば、一歩離れるしか、なくなる。そうとしか、ふるまえなくなる。


昔話に出てきそう

人の言うことを聞くとはどういうことか

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ゲームしよう、と子どもから言い出すことは、ほとんどない。
子どもが「こういうことは、先生が決める」と認識しているからだろう。
常に、ゲームしよう、ともちかけるのは、わたしから、である。

そういう意味で、わたしはずいぶん、勝手である。
「勝手な指示をする先生」。


なのに、みんな、それでいい、という感じ。

不思議で仕方がない。

これは、なぜなんだか、実は結局、分からない。
わたしは、このことを説明するために、何度もこれを説明しようとしつづけてきたが、
今のところ、ただの一度も、いい言葉を、思いつくことができていない。


どう考えても常識や理屈に合わないし、
自分では不思議な気がしてます。

子どもが、なぜわたしの言う「勝手な」ことをきくのか・・・。


そもそも、言うことを聞く、とはどういうことだろう。

だれかに、
「寒いから窓閉めて」
と言う。
だれかが、窓を閉めた。

これ、言うことを聞いたことになるか。
ならない。

だれかに、なにかを「させる」なんてことは、できない。

なのに、わたしの意をくんでくれるように思う。
だから、わたしは本当に何も言えなくなる。
そして、なにも言えないと思うから、何でも言えて、みんなやってもらっている。

これ、自分は何も言えないと本心で思っていない人は、「なんでも言える」人にはならない。
だから、なんでも言える人は、「なんでもやってもらえる」のだろう。

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只管打観(しかんたかん)

.
子どもを見る時は、観察モードになる。

こんな表情をしているな、
どんなことを考えているのかな、
あ、あの子と笑ってる。
なにか気になることあるのかな、
楽しそうだな など

これ、感想が混じると、なにかがこびりつく。
したがって、なにも意識せずに見る。
ただ、ひたすら見る。
これを、仏教用語で「只管打観(しかんたかん)」という(うそ)。

すると、なかなか、いろんな気づきがあるものです。

ただ、なにか分かろう、として見るのではない、です。
結果論です、ネ、それは・・・。
たとえ何かに気づいたとしても・・・。
勝手なこちらの感想だから。

そうではなく、ただ、無感想で、みる。
なにも思わないようにして、みる。


うまくいえませんが、自分も子どもになったような目線になって、
そんな気もちになって、子どもの姿を見ます。
親、先生、大人、そうした立場をすてて、見ます。
面白いですね、教師目線を捨てると見えるのです。
それこそが、教師の目線、です。


子どもの気持ちが、想像できるのね。
もちろん、勝手なこちらの妄想です。
本当じゃないです。
本当は、ちがうのです。彼の心の内側は見えない。
でも、なんだか、別物と分かっていながら、
そうやってじっと見るのが、商売なのね。

いろんな姿

浮く話し

.
スタッドレスタイヤにしたのをいいことに、
雪のふる中を、ちょっと遠出して地元・愛知県の、
とある温泉へ行ってきました。

身体って、お湯に浮くのですね。

呼吸していると、ちょっと上下しますが、
お風呂の底よりも、わずかに上のところで、下半身がとまりました。
つまり、浮かびもせず、沈みもせず、というところ。
ちょうど、浮力とつりあったのでしょうか。

頭だけは岩風呂の岩にのせてあるのですが、
その一点をのぞけば、あとはすべて、ふしぎな感覚で
水中にとどまっています。
このとき、得も言われぬ、なにか不思議な浮揚感につつまれました。

力は完全に脱力。
背中、肩からうで、指の先までずっと脱力。
おしりも脱力。
あごがぎりぎり水面につくか、つかないか。
そのまま、フーっと浮いている。

人の入ってこない湯船の中で、ゆーらゆら、と
ほとんど20分ほど、浸かっていました。
湯気の消えていく東屋の天井をみあげて、ぽたり、ぽたりと
時折落ちてくる水滴を感じながら、ほとんど呆けたようでした。

まわりには、他に人もおらず、わたしが目を閉じると水の音だけ聞こえてくる。

すると、非常に集中するといいますか、
むずかしい数学の問題を解こうとして集中したときのような、
自分の思考だけが目に入る、そういう状態になりました。

不思議なことに、
わたしゃ、頭の中でゆーっくりと、授業をしているのです。
理科の授業でしたかな。

そして、子どもの顔が思い浮かびまして、
子どもがそれはそれは自由に、
なんやかんやといろいろと発言しました。
わたしはそれをずっとだまって聞いていました・・・。



ふと、こんな思いが湧いてきました。

この豊かなお湯が、なぜここまで潤沢に、あるのだろう。
なぜ、わたしはこの豊かさに、包まれていられるのだろうか、と。

わたしはもう、すっぽりと、
全身を、何か得体の知れぬ『豊潤さ』に、
背中も表も、上も下も、ぜーんぶ
おおわれて、つつまれて、浮いてる。

この、
「ほうら、人間さん、幸せやろ!?」
というの、
何だろうか。

この幸(さち)、この福(ふく)、
果たしてなぜ、あるの?

38

朝から、顔を見るだけで

.
朝、来て友だちに
「おはよう」と言ったときから

にやにや
うふふふ
ははは

笑ってばっかり

22


誰かが何か言えば、
みんな言いたくなって
喋りたくなって

どこかで歌が始まれば
いつの間にか伝染して
クラスみんなで歌ってる。
わたしは、驚いて思う。

君たちは、フォーク世代か、と。
岡林信康か、と。


以心伝心というのか
相手に逆らわないというのか

それとも、一緒にやりたい、ということか
これといった会話もなく、自然と動いている。

打ち合わせが要らない、というの不思議。
打ち合わせがないのに、
何も文句も出ず、笑ってばかりで、
歌が揃って、

それで、休み時間が終わって
チャイムが鳴ったら満足そうに席に着くのです。


「打ち合わせ、なし」
それでいて、満足なのです。


人間って、不思議やね。

「指導者」の定義とは何か

.
わたしが休み時間にぼうっとしながら校庭を見ていると、積もった雪の上をやたら走り回っている子がいる。人間を定義するなら、「雪の上を走り回る動物」とでも定義できようか。なんであんなに、とか、この寒いのになぜ、などと思うのは素人の思考である。また、靴下がぬれやしまいか、とか、転んでけがしないか、などと思うのも、これまた余計な雑念だといえよう。

こうして子どもを、なんの余計な雑念も無く見ていると、あることに気付く。
それは、指導者がいない、ということであります。
ここでこう言え、とか、こう走れ、とか、指示がないのです。
友だちはだれにしろ、とか、今日はだれに話しかけろ、というのは無い。
ただ、ひたすらに遊びぬく、ということに、指導者は要らないのであります。

しかし、その遊びの時間が終わると、みんなチャイムの音とともに
校庭から教室へと引き返してくる。
教室は教室で、友だちがてんでにそれぞれ、好きなことを過ごしているのでたちまちそこは楽園になり、トイレに行くだとか教科書を持ってくるだとか、何をするにしても楽しいのであります。

そしてまた、先生がそこにのそのそと現れて、学習の問題を書いたりするとそれも楽しく、クイズを解くような雰囲気がして、当たるも八卦当たらぬも八卦、だれかが何かを言うたびに面白いのです。

こう見ていると、学校に指導者がいる、と思っているのは大人だけ、当の先生だけで、子どもは指導者がどうとか、何も意識も無いのでしょう。

指導者の言うとおりにしなければならない、とは、思っていないから、子どもには「指導者」と言う言葉そのものが意識の外にあるわけで、いわば死語なのでありましょう。

雪原の水路
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