30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2017年11月

理科・ひとの体 足の骨をくらべよう

.
人間の足の骨と、
オランウータンと、
キツネザルの足の骨、を比較。

人の足の骨比較

最初は、図のみ見せる。
【学習問題】
ヒトの足の骨はどれでしょうか。
そう考えた理由をできるだけくわしく発表しよう。

意見は割れるが、1番上だというのが多い。

理由は様々であるが、
A) いちばん上の骨以外は、指の先の骨が細くなっていて、
   丸くふくらんでいる気がする。
   ところがいちばん上の骨は、ふくらんでいない。
   今さわってみたが、自分の足の骨はふくらんでいない。
   それはたぶん、地面を歩きやすいからだと思う。
   だから、ひとの骨は、一番上だと思う。

B) ヒトの骨は、いちばん上だと思う。
   いちばん平らで、地面を歩く感じがする。
   その他の骨は、親指の骨がかなり離れてくっつき、
   たぶん、そのおや指で、木とか枝とかをはさむんだろう。
   だから、猿じゃないかな。

この二つとも、視点が骨のくっつき方にあり、
理由がしっかりしている。
だから、このような理由がかけていれば、評価としては高くなる。


その後、骨格標本をみると、やはり一番上のものに近い。
だから、こたえは、いちばん上、である。

その後、図の、この部分に注目させる。
人の足の骨比較


ここって、どうなってる?
さわってたしかめてみよう。

すると、
「へこんでいる」
「くつしたが汚れているけど、ここらへんだけ、あまり汚れていないよ」
という声が出る。

これを土ふまず、というのだ、と確認する。

次になぜこうなっているのか、を考える。

猿の足の骨は、土ふまずらしきところがないことから、
人間は歩くからだろう、という考えが出てくる。

「でも、なんで歩くからって、土踏まずがあった方がいいのかな?」

とくいさがって問題提起してみると、

「バネみたいになって、歩きやすいから」
「クッションのやく割なんじゃないかな」



アーチ型、というのがもっとも上からの衝撃に強いのだ、ということを確認する。

画用紙を丸くたわませてから、上に消しゴムをのせても、びくともしない。
しかし、ただの平たい画用紙の状態だと、消しゴムの重さでも、たわんで下に落ちてしまう。

hitono


さい後に、人の足の骨がどうしてこういう形になっているのか、
できるだけくわしくノートに書いて、発表。

先生が骨格標本をもってきて、みんなで見た。
足の骨はアーチ型になっているので、重くても大じょうぶ。
足の裏をみると、真ん中だけ、くつ下が白かった。
土踏まずがあって、汚れていなかった。
なぜ土踏まずがあるかというと、アーチ形はじょうぶだから、
2本の足で立った時も、重くても大丈夫なように。
猿は木に登っているし、腕でつまかるから、腕が強い。
でも人はずっと2本足で立つから、足が強い。
そういうふうに、進化してきた。

やんちゃくんにドッジボールのパスを渡す

.
長年、というわけでもないが、教師を続けて来たためか、
反射神経のように、とっさに出てくる行動がある。

たとえば、やんちゃな子をまずまっさきに見る。
朝、教室に入るや否や、その子をパッと見る。
複数いるから、Aくん、Bくん、Cくん、Dくん、Eくん、と
パパパっとみる。
何やってるかというのと、本日の顔つきをみる。

この意味はなにかというと、よく分かりませんが、
そういうことをするようになってきましたナ。


あと、気づいたのは、今日は子どもたちとドッジボールを
いっしょにやりましたが、コートに入ってまずやることは、

やんちゃな子をまずまっさきに見る。
コートに入るやいなや、その子をパッと見る。
複数いるから、Aくん、Bくん、Cくん、Dくん、Eくん、と
パパパっとみる。
何やってるかというのと、その瞬間の顔つきを見る。

そして、最初に投げられたボールにまっさきにジャンプしてとびつき、
(ここで子どもたちから、ウォーッ、というため息)
それを間髪入れず、
「ほら、Aくん、パス!」
と大声で叫びながら、実際にすばやくパスをする。
(ここで、子どもたちから、なおさら大きなため息のような声が出る)

こういう動作が、何も考えなくてもとっさに行動として出てくる。
教師としての反射神経と言うのか、
職業病というのか、癖(くせ)というのか・・・

つまり、ここでいうAくんというのは、
教室の中で、まあ、まったくもっての調子っぱずれのような、
かき回すような、見当違いのことを言ったり、トラブルの種を
まき散らしているかのような子なわけ、ですね。
女子にもつねに、
「ネー、Aくんってばッ!!!」
と叱られ続けているような子ね。

たとえば、筆箱に鉛筆が入っているかと思いきや、
とんでもない短い鉛筆が、歯でボロボロに噛んであって、
芯も折れちゃっているから、テストも受けられない、というような子。
それでも平気な顔して、
「あ、おれの鉛筆、こんだけしかないワ・・・。おい、貸してくれ」
というから、隣の女の子が、おでこの下から呪うような目つきで
「・・・いい加減にしてよね、Aくんッ!」

というような子。


そういう子に、先生がどんどんパスを回すわけね。

するとAくんは張り切って、みんなの注目をあびて、ゲラゲラ笑いながら
ドッジをやるわけ。

それで、そんなAくんを見ていると、他の子もなんだかおもしろくなっちゃって、
みんなでゲラゲラ笑うわけ。

Aくんがボールを受け損ねて、弾んだボールがまさかの敵陣に入っちゃって
ボールがとられちゃったりすると、わたしは悲鳴をあげて、

「Aくん~ッ!」

と、悲鳴まじりに、
まるで西部警察の眼鏡をかけた白髪の部長のように、
渡哲也の大門君を呼びつける感じで叫びますと、
みんな、そんな古いドラマは知らないはずなのに、ドッと受けています。


わたしがそうやって、必死にAくんにかまうのは、

Aくんにかまっていると、なんか、通じるような気がするからだろうね。

ともかくも、声をかけたくなる。

そういう相手だからかな。

dodgeball

ただのクイズですが、尋常ではない空気に

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子どもというのは、毎日のちょっとした仕掛けや演出に
大喜びをするもので、それが登校する励みになっていたりする。
教師と言うのはいつもそんなことばかり考えて、けったいな仕事やな、と思う。



4年生くらいまでは、クイズが大好き。
どの子もほとんど、クイズときけば目が光り、怪しいやる気をみせ、
「早く問題だして」と言う。

わたしは授業は下手で、内容もまずいが、演出は好きだからどんどんとやる。

たとえば、都道府県クイズをします、という。

これをふつうに、ただ単に「都道府県を覚えなさい」というと、子どもはいやがるが、

「ハイッ!!これから、20秒・都道府県クイーズッ!!カンカンカン♪」

というと、教室中が、おっしゃー、という雰囲気になるのである。
妙なものだわい、と、わたしはカンカン言いながらいつも、思う。

1) 隣の人とペアでじゃんけんして、勝った人だけ起立!
   「うおー、勝った!おっしゃー」

2) 立った人は中部地方の県名をすべて言いなさい。時間は20秒。
   座っている人は、勝った人のをチェックしてね。ではいくよ、
   20、19、18・・・

こんなの、適当に子ども同士で言わせて確認させるだけのことだが、
華々しいじゃんけんの勝ち負けがあり、起立して目立つから、
なんだか異様に盛り上がるのである。

もっと華々しくする場合は、こんなふう。

30秒チャレーンジ!!タッタラータラタッタラー♪

わたしが怪しく歌いはじめると、高学年の場合はちょっと馬鹿にする空気も出るが
まだぎりぎり4年生だと大丈夫で、わくわく感と、ドキドキ感で子どもはみんな
そわそわし、目がぎらぎらしてくるのであります。

1) 班ごとに全員、前に出て並びなさい。
2) カードを引いて、何の地方を言うか、決めます。
   (箱を用意して、〇〇地方、と書いておく)
3) 一人ずつ順に県名を言い、全員ですべて言えたら合格!
   時間は30秒!

ほとんど、1回目では、不合格である。
だから、2回目をやる。
その間に、ちょっとだけ、仲間内の作戦タイムをとる。
すると、仲間どうしで、教え合うのである。


こういうことをやっていると、寒さも忘れます。
(実際には、教室は猛烈に寒い・・・)


さむい冬なのに!↓。

あなたは何をしたいのか(ホントは)

.
子どもが固まるときがある。

「どうしたいの?(どうしてほしいの?)」

と、問われたときだ。

わたしは教師になってこういうことを言い始めた時、
むしろ最初は、子どもはどんどん反応するものだ、と思っていた。

「えっと、ぼく、〇〇したい!(もしくは、△△してほしい!)」

打てば響くように。

子どもはエネルギーのかたまりだ。
クラスの中で、みんなに向かって、ぼく何々したいッ!!と
叫ぶのだろう、と思っていた。


ところが、クラス運営を続けていると、
こういう問いほど、子どもが固まる(というか、考えてしまう)のが分かった。


とくに、友だちとトラブルがあったとき。


自分のせいではない。相手が悪いのだ、ということをさんざん言い、
みんなに聞いてもらって、落ち着いたころ合いをみて、

「何がしたいん?」

と問われると、はた、と止まる。

そして、ううん、と考え込む。




これが、自分は不思議でならなかった。

そんなに、哲学的な問いでもないし、むずかしい言葉でもない。
なにか、高度なことを要求されているのでもない。

「どうしたいん?」

しかし、なぜか、子どもは、そこから

まるでソクラテスのように、
あたかもピタゴラスのように、
サモアの賢人と呼ばれた哲学者のように、

ううん、と遠い目をして、考え込むのである。


そのときにわたしが、つい悪い癖で、

本当はどうしたいん?」

と、『本当は』という言葉をつけるから、良くないのだろうと思う。

本当は、も何も、実は何もしたいわけではないのだろう。
自分からは、ネ。ただ、相手の邪魔をしたくない、というだけで。

朝の風景

愛知県って? 4年社会『私たちの県』

.
『愛知県とはどんな県か』
愛知県の特徴がよくわかる弁当を考えて、描いてみよう。

愛知県をざっくりと、A) 尾張・犬山・小牧、それからB) 名古屋、さらにC) 三河・渥美、そしてD) 知多に分ける。

それぞれの特産品が、副読本に掲載されているから、イラストを見ながら
たくさん作られているもの、他の地域には無いレアなもの、と分類する。

4年生なら資料を開いて、
みつけて、
分類して、
書き写す。
ところが、これが難しい子もいる。

〇たくさんあるものはどれ?

このくらい、やさしい課題なら、誰でもできる。


1) 尾張でたくさん作られている農産物や工芸品はなにか
2) 尾張地方でしか作られていないような物はなにか

これを、名古屋、三河・渥美、知多でも行う。

子どもたちは一生懸命に資料を読み込んで、

「先生、ぶどうの絵が一番多い!」

とか、

「え、桃の絵の方が多いよ」

とか、

イラストの絵の数を数えて、どんな地域でどんなものがつくられているのかを調べていく。

平野部と山間部では、作られている作物がちがう。
また、半島や島では、産業そのものがちがう。

レアな産業、レアな農産物や工芸品があれば、どうしてそれがその地域で作られているのか、考えを発表し、交流する。

農産物は、気候風土に関係することがほとんどだから、
その土地で何がとれているかを調べていくと、結果として、その地域の気候風土が分かる。


最後に、愛知県のスペシャル弁当を作る。

愛知県ならではの、名産物を詰め込んだ、弁当だ。
しかし実際には弁当は作れないから、お弁当のイラストを描くようにする。
各地の名産品を、たっぷりと詰め込んだ弁当を、子どもたちが自由に考えていく。

箸にこだわったり、弁当箱の形にこだわったり、
デザートに凝ったり、メインのおかずにこだわったり、

愛知県ならではの、岡崎ならではの、郷土愛にあふれる弁当の図案が
どんどんと完成していく。
わたしのイチオシのおかず、を発表すると、盛り上がる。
友だちのアイデアをみて、いいな、と思うおかずを紹介したりもイイ。

最後に、弁当とともに、愛知県とはどんな県か、を作文してまとめ。


food_obentou_makunouchi

落し物を拾う、ということ

.
「先生、セブンイレブンの前の交差点に、こんなの落ちてました」

車の部品?

なんだか、すこし錆びのある、金属の部品が手のひらに。

「困っている人がいると思う」


低学年の子らしい。

これを、職員室の前でわたしは受け取って、途方に暮れる。


この金属が何なのか、さっぱり分からない。

交番に届けるべきであろうか。




子どもは、落ちているのは異常事態だ、と考える。

大人は、落ちていること自体、ふだんよくあること、と思う。

大人はずるいから、

「落とした人も、それはそれとして、新しいものを用意してるだろう」

と考える。

「代替品を用意して、それで用事をこなしているだろう」

と。



子どもの目線でいけば、

「こんな大切な部品(のように見えるもの)、はやく知らせなきゃ」

と考える。



教室で、先生たちは、子どもに

「落し物があったら拾って、お友達に届けてあげなさい」

と指導する。



その子は、それを実践したのだ。


ところがわたしは口ごもって、

「これなあ、拾ってこない方がよかったかもなあ」

と思うのである。


「あのね、これを落とした人が、ああ、ここらへんに落としたかなあ、って、探しにくるかもしれないよね。これからこういうのを見つけたら、そのままにしておいてね」

「はい」

素直な子である。

目を真ん丸にして、わたしを見つめ、至極真剣に、うなずいている。


「でも、気づかなかったらどうするの?」



わたしは天井をむいて、

「そうやなあ」

と嘆息し、

「困ってるかもなあ」



彼は、大きな目でわたしをずいぶんと、もの問いたげに見てから、

その部品をじーっとみて、

「名前が書いてないからね」

と、わたしを助けようとしてくれるのです。



幼き子たちが、いかに優しいか。

目の前の人を、ともかくも、助けたいのです。

自分が「そうなりたい」から、直に「そうする」のです。

だから、子どもは早い、と言えるのでしょうな。


びっくり

小学校教師のための『のどのお手入れ』

.
のどのお手入れ情報。

わたしは水筒を教室に持ち込む。

とくに職員室へ帰っている時間の無い、5分休憩の時間に水を飲む。

ここまでの経験でいくと、お茶よりは、ただの水が、いちばんのどには良いと感じる。

ただし、水だけでは物足りないこともあるから、たまに

あまちゃづるのうすいお茶

を飲む。



休み時間、

「先生、何飲んでるの?」

「え?水だよ」

「おいしい水?」

「おいしい水です」

「へえ」



コーヒーとか、そういうのは飲まないの?

と聞くから、

「コーヒー、おいしいかねえ」

と、とぼけると、

「だって、大人はよく飲んでるじゃん」



子どもの目線だと、大人はアホだなぁ、と思うこともあるようだ。

以下は、子ども同士の会話。

「うちのお父さんね、ビール飲んだあと、眠くなるからって、コーヒー飲むんよ」

「ああ、そう」

「そしたら、すぐにトイレ行って、すぐ寝てる」

「へえ」

「ビールもコーヒーも、どっちも、すぐおしっこになるんだって」

「結局、飲んでもすぐ、しっこかよ」



これまでの実地の研究から、

のどにとっては、熱くもなく、冷たくもない、

いわば、常温の水が一番良いようだ。



隣の席の先生は、ひそかに『ごぼうのお茶』を飲んでいることを、教えてくれた。

また、ある先生は、一日の業務が終わると必ず、

『薄めた黒酢』を、飲んでいるようだ。



みんな、それぞれ、お気に入りの何かを飲んでいる。

それぞれの、生きる知恵。

人間万事よろず良し、ということであろう。

image

「まずい給食」

.
どこかの県で、給食からビニール臭がしたり、異物が混入している頻度が高いので、子どもが食べない、という話がニュースに流れていました。

自治体が新たに給食センターを運営すれば、こういうサービスは改善されると思いますが、
町や村には、そこまでの予算が無いのでしょう。

だから、民間に任せるしか無いのですが、
給食はそもそも安価でなければならず、儲けを出すのは至難の技。
民間企業は、宿命として、コストカットによって儲けを出すものなので、
かなり無理がかかっているようです。

以前、国鉄がJRになって成功したから、日本中がどしどし民間になればよい、という考えが流行しましたね。

東京や大阪では、それで成功しました。
A社がだめならB社、それがだめならC社もある、ということで、
豊富な「やる気のある企業による競争」が高まり、サービスの質がどんどん向上する、という論理でありました。

しかし、そうはならないことだって、ある。
考えてみれば、当たり前のこと。
実際には、「競争があるから弁当が美味しくなる」というわけでは無いからですね。

とくに田舎では、そのサービスを営もうとする企業が、他に無い。
どんどんコストだけをカットして、人件費を削り、
サービスが低下したって、他に業者は無いのだから仕方がないのです。

また、業者の方にも、
仕事をする人が見つからない、仕入れ価格を下げられない、
遠距離を運んで届けなくてはいけない、など、
そもそも、無理のある注文を何とかして受けている場合があります。

大手企業が、無理だと断った注文を、
小さな企業が無理に無理を重ねて受注した場合、
どんな弁当ができるか。

みんな、無理を重ねた結果なのでしょう。




おいしい食事を、たべてもらいたいな。

その思いを、そのまま実現できる社会のしくみをつくればいいが、

そんなアイデアは、人間がどこかへ放り投げて棄ててしまっているようです。




求む!新たな社会システム発想。



kyusyoku_koujou_ryouri

なんで安心するのかなゲーム その3

.
子どもたちとしては、ともかくも、並ぶしかない。

そういう状況です。

そして、それが正解か、と問われても、実はまったく分からないのです。


確信のしようがない。


友だちが、それらしいことを言ったように思う。

友だちが、ここでいい、と言ってくれているように感じる。

実際には、

「ここでいいよ、あなたは黄色だよ」

と言ったわけではない。

また、たとえ、そう言ったからと言って、やはり

確証はないのです。



友だちが、地面を指を指したり、うなずいたり、笑顔になったり、なんだかそういうことをしている。

それを見て、自分がここにいるべきと、自分で勝手に判断しているのです。

そのことが分かるから、つまり、確証がないことが分かっているから、

わたしが脅しのような言葉をかけると、不安になるのでしょう。



ところが。

ところが、ですよ。

まったく動じない子もいるのです。なかには!!



「いいよ。いいんだよ。ぼくはここに決めた」

という雰囲気で、じっと私を見つめています。

「だれのせいでもなく、わたしは自分で、ここにいることに決めたのだ」

と、

まるで、わたしの浅はかな挑発、意地悪、意図をした言葉かけを、

冷静に観察しているような感じで。



しばらくすると、その、開き直ったような雰囲気が伝染したようになり、

みんな、ここでいい、というふうにして座りました。



わたしは列ごとに立たせ、

「はい、どうでしょうか」

というと、

「いいです。全員、赤です」

となって、クラス全員が、きちんと色別に、列になって座ることができたのです。

お隣さんのシールをとってあげて、お互いにシールをノートに貼りつけました。




ここからが、本番。

ノートに、自分の心の動きを思い出しながら、書いていきます。

とくに、

ゲーム中に、不安があったかどうか?

ゲーム中に、不安の無い状態、があったかどうか?

なぜ、不安になったのだろうか?

友だちが教えてくれたから、不安の無い状態になったのだろうか?

ということについて、場面ごとに書くようにしました。

1) ゲームを始めた瞬間は不安があったか
2) だれかに教えてもらったときはどうか
3) だれかに教えた時はどうか
4) 列になって座ってから、それでいいかと訊かれたとき
5) 最後に、これでいい、と決めて座ったとき



ゲームの後、みんなの道徳ノートを見ました。


〇不安がなくなったのは、友だちが教えてくれたからじゃなくて・・・。


多くの子が共通して書いていたことです。

だって、だれも教えてくれてないのですからネ。

背中に貼ってあるシールをわざわざはがして、手に付けて目の前に見せ、「ほら、お前の色を見せてやるよ」、なーんて、そんなことやった子は、一人もいませんから。


なのに、不安がない、というわけは・・・。


わからないから不安、なのか?
分からなくても不安が無い、のか?
果たして・・・?

幸福とはいずこに

なんで安心するのかなゲーム その2

.
子どもたちがめざすのは、

同じ色だけで、一列に並ぶこと。

わたしが、大きな声で

「ようい、スタート!」

と言っても、最初、だれも動きません。

目玉だけ、ギロギロと動かすだけで、なにをしたらいいのか、分からない様子です。

「え、先生、これから何をしたらいいの?」

とか、

「先生、どうやって並んだらいいの」

と訊く子が出ました。

これは、予想通りの展開です。

わたしは落ち着いた声で、一字一句、さっきと同じ言葉を繰り返します。

黒板に書いた文字を手で示しながら、

「同じ色の人だけで、一列に並びましょう」

とだけ言って、口元でシーッ、とやります。

子どもは、それを見て、また口を閉じて、不安そうな顔になります。


・・・


なんとなく、背中を見られるのが気になりはじめたのか、

壁に背を向けて、じっと腕組みして立っている子もいます。

仲の良い友達のところへ行き、背中を見せようとする子もいます。

ところが、声に出して、

「〇〇ちゃん、青だよ」

と教えてはいけません。

また、なにか教室の目に見えるところにある、青いものやだれかの青い服などを指さして、教えることも禁止されています。

しばらく、ウロウロしていました。

わたしは

「今、不安な人?」

ほとんどの子が、黙ったまま、手を挙げました。

「今の気持ちを、あとで道徳のノートに書いてもらうからね。覚えておいてね」



しばらくすると、同じ黄色のシールを背中につけた子を2人、見つけて、

「あんたとあんたは、同じ色だぜ」

というような手振りと表情で、

「並べ、ならべ」

というように、手で合図を送る子が出てきました。

黄色の子が3人か4人かになって並んだところで、最初の2人の子がようやく、

「あ、おれは黄色なんだな」

と気づき、教えてくれた子に、

「おれって、ここにいた方がいいの?」

と尋ねるような表情になると、本当に子どもは表情をよく見ていて、

「そうや、そうや!あんたはここに並ぶんや!」

というように、頷きます。


たちまち、黄色の列ができました。

たしかに、しゃべってもいないし、色を直接手振りで教えたわけではありません。

ルールから外れてはいないのです。


それを見て、すぐに青の列ができ、赤の列ができ、白の列、緑の列もできました。



みんながきれいにならんで座ったところで、

わたしが

「本当に、それでいいですか?」

と訊きました。

すると、ちょっと不安そうな表情になった子がいました。

わたしはそこを見逃さず、

全員の背中をずっと、もう一度確認すると、

「もう一度だけ、言いますよ。本当に、それでいいのですか!」

と、ちょっと語気を強めて言いました。

すると、面白いことに、みんなが一斉に立ち上がって、

周りの子に、

「俺の背中をみろ、ほんとだな?ほんとにいいんだな?」

というような雰囲気で、口先をすぼめて、指を出して地面を指したり、ここ?と訊いたり、

しゃべり音はしませんけれども、ちょっと、ガヤガヤした感じになりました。



わたしはそれと見て、

「どうして、そこにいるのですか。本当にそこにいて、いいんですか!」

と、さらに語気を強めて意地悪をいうと、

子どもたちは、かなり、途方に暮れたようになりました。

yubi_kouzu_camera

なんで安心するのかなゲーム

.
人は、なぜ、安心するのだろうか。

夜、自分の家で寝ている時、自分の体は無防備になっているが、安心して寝ている。

何かに襲われることを考えたら、びくびくしながら一晩中起きていなくてはならない。

だから、人間は不安だけでは生きられない、という「つくり」になっているのだと思う。

寝る、ということをする人間は、つまりは、不安をずっと持ち続けることも、もとからできないようなシステムになっているのだろう。



赤、緑、青、黄色、白のシールを買った。

これで、心の変化をしらべてみたくなった。

「安心」ということを、みんなで実感してみるゲームだ。


まず、一切のおしゃべりを禁止。

教室がシーン。

子どもを順番に前に出させ、わたしが背中にシールを貼りつける。

〇〇ちゃんは赤、△△ちゃんは青、・・・。


みんな、なにかしゃべりたそうにしているけど、しゃべれないから、ニヤニヤしている。

自分の色は、だれにも教えてもらえないし、背中のシールをはがして確かめるわけにもいかないから、なんだろうな、と思う。

しかし、他人のシールは見える。

つい、教えたくなるけど、教えてはいけません。

教室の目に見えるところにある、色のついた物やだれかの服の色などを指さして、「あんたはあの色だよ」と教えることも、禁止です。

この状態から、スタート。

課題は、
色別に、列をつくって並んで座りなさい。

さて、どうなるか。

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不思議な気持ちになるゲーム

.
お隣さんを、責めない。

責めたくなったとしても、責められない。

システムとして、責めることにならない。

そんな状況をどうにかつくって、自分の気持ちを観察することって、

できないかなあ、と思って。

ふと、思い出しましてね・・・。

教室で、こんなゲームをしました。




正式にはなんというゲームなんだろうか。

幼い時、実は姉といっしょに、何度もやったことのある遊びなんだけど・・・。

実に、思い出したのは、40年ぶりくらい?

1) お隣さんと、ペアになります。

2) ふたりの間に、紙を置きます。

3) 二人とも、それぞれえんぴつを持ちます。

4) お題を先生が出します。(動物、とか、お料理、とか、ざっくりしたお題です)
そのお題をもとに、各自で、何を描こうか、心の中で決めます。
相手に、何を描こうと思っているのかを、伝えてはいけません。ナイショです。
そして、先と後、描く順番を決めます。

5) 先の子が、なにかを書こうとして(たとえば、お題が動物なら、パンダとか)、「ひと筆」で書けるだけの、かんたんな一つの線を書きます。
ところが、その線は、たったの1本しか、書いてはいけない。
また、ゲームの最中は、いっさいのおしゃべりをしない。
えんぴつの先が、少しでも、一回でも紙から離れたら、選手交代。

6) 後の子が、自分も何かを書こうとして、先の子の線に加えるようにして線を書き足します。(お題が動物なら、キリンでも書こうと思いながら、ネ)

7) 交代に、少しずつ、絵を完成させます。

8) 途中で、相手が書きたいものがわかったら、譲歩して、そっちに合わせることもできます。

9) できるだけ、くわしく、それらしく、完成するまで描きます。

10) 制限時間で、途中でもストップします。


このゲームのおもしろいところは、ここから。

11) その後、会話をします。最初、何を描こうとしたのか。お互いに紹介します。
また、次の線はなにを描きたかったのか、その時のねらいや意図を教え合います。
「本当は、ここで、こう描こうと思った、こう描きたかった」 と、できるだけ伝え合います。


すると、会話の端々に、

「えっ!」

とか

「まさか」

とか

「こうだと思ったのに!!」

とか、出てきます。

どんどん、言い合います。

言えば言うほど、なんだか、不思議な気分になってくるのをお互いに楽しみます。

ルールとして、お互いの気持ちや意図は教えてはいけないことになっていますから、
相手の意図が、分かるわけがないのです。
たとえ、仮に、相手の意図が分かった、とこっちが思ったとしても、そうだという確証もないし。

つまり、

「自分が勝手に、そう思っていた、期待していた、判断していた、そうしてほしいと思っていた」

ということを、言い合うのです。

で、言えば言うほど、

「それは分かるはずのことでなく、分からないのが本当で、分かることはありえない」

ということを、お互いに、しっかりと確認することになるのです。



これじゃあ、相手を責められないでしょ?




さらにいうと、その中に、微妙に、自分の気持ちが通じたんじゃないかな、という線が、1本くらいあるんですわ。

で、その線を見つけると、とっても目がハートになるくらい、

Me, too !

という感じになって、とっても楽しいわけ。二人で、ゲラゲラ笑い続けます。楽しい時間です。

「Sちゃんの、この線、超うれしかった〜」



あとで見せてもらうと、きりんカバ、とか、みみずく犬とか、ひよこワニとか、

妙な動物がたくさんできていました。

やさしい女の子が、

「Aくんはぜったい最初、カバを描いてると思ったから、わざわざ親切に牙(きば)をつけてあげたら、本当はきりんだったから、変なきりんになった」

と言って、3分くらい笑い続けておりました。

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