30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2017年09月

漢字がとってもきれいな子

.
わたし自身は、書を習ったことがありません。

子どもの頃は、親から

「字がきたない!!」

と何度も言われて、コンプレックスを抱えていました。

比べられたのが、姉でした。

姉はいつも書道コンクールで「金賞」レベルでしたから、

母親は、いかにも適当なわたしの字が、残念でならなかったのでしょう。



ところが、わたしは字を書くことが好きです。

書道を見るのも、面白い、と思います。

公民館の看板が、毛筆で書かれているのを見つけると、

「こんな筆づかいかな」

と、頭の中でなぞって、書いていることもあります。



新しい漢字の学習は、とくにお気に入り。

なんでこんな字なのか、形なのか、不思議に思えてくる。

象形文字はとくに大好きです。



わたしの勤務校では、宿題で漢字学習をしてくることになっています。

ノート1ページ。

みんな、ずらずら、と書きます。

わたしが子どもの頃も、似たようなことをしていたと思いますが、

けっこう、さぼっていましたね。

また、字も適当で、汚かったと思います。



そういう自分の負い目があるためか、忘れた子を責めないです。

ですが、クラスのほとんどの子が、ていねいに漢字をやってきます。書いてきます。

それがなぜなのか、本当のところは分かりません。



漢字ノートを見ながら、

「きれいに書いたねえ」

と、感にたえたように、つぶやいているだけです。

もし近くにその子がいたら、顔をみて、言います。



また、いたずら坊主のFくんは、宿題を出すには出すが、とても乱雑な字です。

彼の宿題は、たった1文字だけ、〇をつけます。

中でも、まあ、マシな字をひとつだけ選んで、

大きな声で、

「今日は、これや!」

と言いながら、〇を付けます。

「こいつは、美文字(びもじ)やで!」

と言いながら、〇を。

◎ではないですよ。〇です。



すると、Fくんはちゃんと遠くからチラッと、こっちを見ていて、

わたしが〇をつけるのを、見届けているのです。なんとなしに、という雰囲気で、ネ。



たまに、わたしが〇をつけているところに女子がきて、

「なんだこれ、Fくん、字、きたなーい」

と言うことがあります。

わたしは顔をくしゃくしゃにして、

「Fくん、たのむよ・・・」

と泣きそうになりながら、オーバーに言います。

がっくし、と肩を落とし、

「泣けてくるがな」

と言うと、

女子たちは、ワッと受けますが、その光景も、やはりFくんは遠くから、見ることもなしに

ちゃんと、見ているのです。




たまに、うんと字のきれいな子の漢字ノートを、クラス全員に見せて回ることがあります。

「先生、字がうつくしすぎて、泣けてきた」

と言って、ハンカチで目がしらを押さえながら、クラス中に歩いて見せに行きます。

とくにFくんの前にくると、

「どうや、Fくん、すべての字が美しいやろ」

と言うと、Fくんは、

「あー、はいはい」

と澄まして、言います。

それを聞いて、クラス中のみんなが、ワッとなって、また笑うのです。



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束縛されまいとして、束縛を求める心理

ずっとタンバリンを手放さなかった子の話を聞いた。

その子は、盲・発話障害、の世界に生きていた。
幼い頃は一挙手一投足、すべてに介助が必要な状態。
施設で一日の大半を過ごしたが、周囲はかなり苦労したそうだ。

自分で水を飲みたいから、コップを受け取って飲む。
でも、自分でそれを置くことができない。水平、を知らないから。
で、周りの人が支えて持っていてやろうとするが、それを拒む。
他人の手が、邪魔なのだ。
スッと飲みたい。

それで、まだ半分残っている水やお茶を、床にダーッとこぼしてしまう。
お茶碗を受け取ろうとすると、その手をふりほどいて、床にそのままお茶碗、湯呑みごと、落とす。

支援する側の人はそれで大変苦労して、手を押さえ、身体を押さえ、ようやっと水を飲ます、食事を食べさせる、ということが続いた。

人間は、手を自由にできなくなると、本当にツラいらしい。


ここからがすごい。

その、言語を話さない子は、
自己防衛のために、
なんと、
タンバリンを持つようになった。

いつも、タンバリンを持つ。そして、ぜったいに手放さない。
寝ているときも、手に持ち、抱きかかえて寝た。
一日中、そのタンバリンを、持っているのだ、という状態を、周囲の人にアピールしながら過ごした。

ここから、話がややこしくなる。

周囲の人たちが、その子からタンバリンを引き離そうといろいろ取り組んでみたら、もっともっと、頑固になった。

そして、自分の手をさらに自由にさせないために、タンバリンとタンバリンの間に、小さなミニカーを挟んでサンドイッチにし、それを注意深くかかえる、というようになった。

つまり、このアピールは、こういうシグナルだと考えられた。

「わたしの手は今、このタンバリンを持つ、という大事な用を足すために使っているのだ。わたし自身が、わたしのために使っている!だから、ぜったいに、あなたたちの言いなりにはならない。もう二度と、わたしの手を、あなたが勝手に抑えつけたり、何かを持たせたり、というようなことには使わせない」

タンバリンの間のミニカーを落とさないように注意深く持つ姿は、まるで、

「今の私は、両手で仕事をしている最中!忙しいんだから、もう絶対に構わないで!」

という雰囲気を、周囲に知らしめるかのよう。

水を飲むときは、このタンバリンを胸に抱え、腕の半分でタンバリンを支え、手の先だけは湯呑みを持ち、水を飲む。
心配だから、とタンバリンを持とうとすると、身をよじって荒れた。



人間は、そもそも、自由なもの。
そして、束縛をどんな人間も、拒むもの。

束縛されたら、二度と束縛されまいとして、すでに束縛されている自分を演出するようになる。



もうこれだけ束縛されているんだから、ほっといて!!
見たらわかるでしょ!!




周囲の人は、そのメッセージを真剣に受け止めた。
そして、出来る限り、この子の意を受け取り、困ったことを取り除いてやり、できることを取り組み、共に喜んだ。やさしく語りかけ、遊んだ。

タンバリンを持ったままでも、それでよかった。
タンバリンをもって、共にできることを、できるだけやった。
だれも、タンバリンを持っていることを、責めなかった。

これがなんと、丸2年の間、続いたのだ。



ある日。
ちょっとしたきっかけで、2年間手放さなかったタンバリンを、渡してくれた。
口の中に飲み込めずに残った食べ物を、吐き出したときのことが、その子の心に、大きく残っていたらしい。

お母さんの声かけで、出してね、というのに反応して、口の中に、のどに詰まったものを、思い切り出せた時。
出してね、というサインに、反応するようになった。
そして、あるとき、
手に持ったものを、おずおずと、差し出したのだそうです。


このときから、みるみるうちに、世界が変わり、
タンバリン以外のものを触りたがらなかった子が、
ありとあらゆるものに手を伸ばして触るようになり、
お母さんの髪の毛や顔を撫でるようになり、

・・・

自由になった手が、いかにその自由を謳歌したことか。
束縛・呪縛から逃れることができたら、世界が一度に開けていった・・・。




人を束縛しようとすることの、なんと愚かで、罪深いことか。

同時にひとは。

束縛していることやされていることに、なんと鈍感であることか。
束縛が当たり前すぎて、慣れっこになってしまっているのか・・・?


「束縛」が好きなわけじゃないけど、「束縛」しか習ってこなかったんだもの。

それ以外を、イメージすることが、できない・・・。
「安心」といっても恐怖の裏返しという意味になっちまって、人はみんな、

本当に純粋な「安心」って、何なのか、イメージできないでいる。
純粋な意味の「安心」って、どんな世界なんだろう。
無条件に安心していて、伸び伸びできて、無理が無い状態。

そういうもの、今の自分が把握できるのだろうか?
なんだか、ぼやーんとしている。

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子どもたちの人間関係が、いったいどうなっているのか

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子どもたちの人間関係が、いったいどうなっているのか。

それを観察し続けて、10年以上になる。

そのことが意識の上で、

最大の興味関心事。

寝ても覚めても、そのことがいちばんの関心事。

(現在、同じ趣味の人を探しています)



さて、その趣味を持つこの私が見るところによると、

人間関係とは、とてもシンプルである。

〇 自分が相手に、「作用していく」

〇 「作用してほしいな」と願う



また、感情も、とてもシンプルである。

〇 何かを思うと、とある感情が湧く。




そこで、うちの学級には、

「〇〇してほしい」

という貼り紙がしてあります。

貼り紙は他にはあまりなくて、

給食の献立表と、その「〇〇してほしい」の紙、だけ。

(子どもたちの作品はたくさん貼ってありますが)

「大人でもこれが言えないんだよな」

隣のベテラン先生が、その張り紙をみて、言ってました。




うちのクラスのMくんが、

「〇〇してほしい」

と言うたびに、拍手が起こります。



その拍手をしてくれる周囲の子どもたちの気持ちも、

本当にうれしいねえ。


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体罰を根本的になくす方法

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怒りの感情があるからこそ、幸福になれる。

とっても逆説的だけど。

で、怒らないで生きられる。

つまり、

よくよく考えてみれば、

怒りを否定せず、悪いものとも不必要とも思わないようになり、むしろ感謝できて、

怒らないでいいことを十分に理解でき、怒らずにいられるようになり、

困らないでもいいようになり、

怒りの感情に感謝こそすれ、けっして否定的な気持ちが一切、生じないままに、

決して怒らず、幸福に過ごすことができるようになれるってわけ。



怒って当然だけど、本当に怒りが当然なら、

怒りが当然であるがゆえに、

人は怒らないようになれる。

先生たちによる体罰なんて、すぐに無くなるはず。

まったく難しい事でなく、もっとも簡単でやさしいこと。

「怒り」は当然、しかし、「怒り無し」もまた、当然。

それを選択すらできないように思い込んでいる。

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チャレンジやってるから、ぼくもう割り算できるよ!!!

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「チャレンジやってるから、ぼくもう割り算できるよ!!!」

3年生ではじめてわり算を学習する。

このとき、算数の勉強がはじまる少し前に、
わざわざ担任に言いにくる子がいる。

顔はとびきり、笑顔だ。

もちろん、ほめてもらえる、と思っている(ように見える)。


「すごいねえ。もうできるの」

さらり、と褒めておきながら、

「学校ではできる子もまだこれからの子も、みんなでお勉強するんだよ。○○ちゃんも、もう一度、最初からやろうね」

と言っておく。

「うん、でも、わたし、もうできちゃうもん」

「そうかあ、すごいなあ」



さて、「チャレンジ」は家庭用の学習教材であります。
もうご存知ですよね。大手の会社がやっております。

このチャレンジの付録がステキなので、

「お母さん!!わたしがんばるから、買って!!」

ということも非常に多いのではないか。

子どもが、

「チャレンジ、わたし、がんばるから、やらせて!買って!」

と言ったとき、どう答えますでしょうか。


どんな回答をするにせよ、その回答の背景には、なにか考えがあるはず。
どんな考えでしょう。
そして、その考えには、またその背景に、「子どもへの願い」がある、そうです。
どんな「願い」でしょうか。



まずは、子ども本人の「願い」を最後までだまって聞く

「さあ!お母さんを説得してごらんなさい!」という世界とは正反対。

むしろ、チャレンジやることで、どんなふうにあなたの心が満足していくのか、

なにがあなたの満足なのか、なにが嬉しいのか、なにが自分をわくわくさせてくれると
思っているのか。

それをたっぷりと子どもに話してもらったらいい。



子どもが本当に願っているのは、

「お母さんに、わたしの勉強に興味を持ってもらいたい」、っていうことだったりすることだってあるから、(まあそうでない場合も大いにあるんだけど・・・やっている友達がうらやましいとか)



「チャレンジのことは、お母さんに、ちょっと考えさせてね」

とかいって、しばらく様子を見ながら、

その間に、

1)子どもの勉強のノートを見てみて、ほめながら授業の話をよもやま話でキッチンでしてみたり、

2)先生の授業の進め方云々を聞いてみたり、

3)クラスの○○ちゃんはこんな回答をしてみんなが爆笑したんだ、ということを聞いてみたり、

4)なんか、算数でわからないことあった?と聞いてみたり、

最後には、

5)「なにか、学校のお勉強で、分からなかったり、困ったりすることあったら、本当に正直に教えてね。お母さんだって、ちょっとは教えてあげられると思うし、いっしょに勉強したいな」

と言ってあげると、どの子もきっと、表情がパァーーーーッと明るくなりまして、

「やった、お母さんと勉強できる」

と思った瞬間、

チャレンジのことなぞ、すべて忘れるんじゃないでしょうか。
(まあ、そうとばかりも限らんか)



要は、

「チャレンジやりたい!!」

と言う子の、

本音が、

また別に、その言葉の裏っかわに、あったりするかもしれんし、それがけっこう、大事なことである場合が多い、ということです。

子どもをどこまでも理解しようとする、ということ

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わたしがエンジニアを辞めて、小学校教師になってすぐ、の頃。
不登校の子がいました。

あれから十年近くになるのに、今でもスッと顔が浮かんできます。
いい子でした~。

なにかわからないが、朝になると、学校へ行けなくなる。
わたしが担任するようになって、少し元気になって、去年よりはずいぶん学校へ来れるようになった、と喜んだものです。

1学期はまあまあ。

ところが、2学期になると、これない日が増えました。

「行事が重なって、疲れてしまったのでしょうかね」

校内の支援コーディネーターの先生に相談すると、なんとなくそんな雰囲気。
こっちは初任の1年目で、ちっともわからない・・・。
そんなものか、と思うくらいで・・・。


朝、お母さんが、下の子を保育園へ送った後、校門のところへ連れてくる。
校門のところで、お母さんの自転車にしがみついたまま、離れない彼。
泣き顔で、行きたくない、と繰り返す。
困惑する母親。

そこへ私が駆けつけ、なんとかなだめすかして、教室へ連れてくる。
しかしそのうち、教室に来れなくなり、保健室登校になった。
さらに、それもできなくなり、やがて、お母さんも彼を連れてこないようになった。

彼の欄にだけ、欠席のしるしがずらーっと並ぶようになった。
これはきつかったですね。
不登校は、担任の精神力をかなり減らします。
こたえますね・・・。

多くの担任がそうするでしょうが、わたしも例にもれず、みなさんと同じように、自分を責めました。
責めて責めて、土日も、ずっと彼に申し訳なくて、なにがいけないんだろう、と考え続ける日。
咳が止まらなくなり、耳鼻咽喉科に通って咳止めの薬をずっと飲み続けていたのもこのころです。
しかし、ある時から医者が、

「精神的なものも大きいからね。年度末で軽くなるよ」

という。

そして、・・・その通りになりました。
ベテランのお医者先生はすっかりお見通しだったわけ。


3月になって、彼の母親と次年度のことを見越して、かなり長めの懇談をしました。
そのときのこと。



教室に来ていただき、二人でお話しました。
お茶を用意すると、それだけでもうハンカチを用意されて、
最初から涙を拭かれていたのを、今でも思い出します。
少し暖かくなってきていて、春を感じる季節です。
静かな、午後でした。


秋の学習発表会の話が出ました。
実は彼、9月の運動会には来ることができたのです。
でも、11月にあった学習発表会へは、参加できなかった。

9月に運動会に来れたので、次は学習発表会だ、というので、しかるべき対応を取ろうとしていました。コーディネーターの先生も支援級の先生も私も、みんなで学習発表会に来てもらおうと、かなり念入りな作戦を立てていました。
彼にはずっと前からそのための予告をし、クラスの中で彼の持ち場をつくり、すこうしだけ、目立つ場面に出てもらう作戦です。

セリフがあり、学習内容を読み上げて、同じ班のみんなと模造紙の順番を入れ替えると、学習結果がきれいに見ええてくるのです。会場からは、その瞬間、オーッ、とため息がもれるはず。
クラスの中でも、班の中でも、見栄えのする役、けっこうおいしい、と思う役をまかされて、当初は彼も、

「これならやれそう。行きたい」

とお母さんにもらしていたといいます。

それを聞いたお母さんはさっそく、うれしい報告、ということで担任にも連絡帳で知らせてくれました。わたしもそれを見て、夕方すぐにお返事の電話をして、あまりプレッシャーを与えないで淡々とその日までの準備を少しずつやりましょう、とお母さんに話しました。
お母さんも、うれしそうな声で
「今回は出てほしいと思います」
と期待していたようでした。
私もドキドキしながら、「ああ、来てもらえそうだ」との予感を強くしたのです。

しかし。

いよいよ、という時になって。
予想通りの展開になってきます。


前日の夜、彼は「ちょっとおなかがいたい」といい始めました。
お母さんはそんなこともあろうか、と予測をしていたので、落ち着いて対応をしました。
朝になってみたらどうなるか様子をみましょう。ともかく、今日は寝ましょう、と・・・。
すると、彼も、「そうだね」と落ち着いて、にこにこしながら横になり、やっぱり明日は楽しみだ、と言って寝たそうです。
ここでお母さんもうれしくなって、ご主人にも

「明日、いけそうよ」

とうれしい報告をしています。

ところが、朝になって、起き抜けに、不機嫌な声で、靴下がない、と騒いだのです。
これはお母さんも必死になって靴下を探し(というか目の前にあったのですが)、できるだけ静かな感じで、ここにあるから大丈夫、といって落ち着かせようとします。
むくれて靴下をはく彼。
お母さん、一瞬、何か言いたくなったそうですが、ぐっとこらえて、そのまま機嫌よく(と冷静さを保ちながら)朝食へ。

すると、朝食の場面で、彼の中でなにか、歯車が狂い始める。
ちょっとした弟の行動に腹を立てて文句を言い始めます。
お母さん、ぐっとこらえて、できるだけ早く朝食を済ませて、なんとか学校へ行かそうともくろみます。
だって、年に一度の学習発表会ですからね。本番なんです。

弟との口げんか、弟の方がひどく泣きましたが、もはやお母さんにも意地がありますから、軽くスルーしていつものように片付け、ランドセルを確認し、トイレ、ハンカチ、ティッシュ・・・と・・・。

ところがです。
ダイニングにある椅子から、いっかな、降りようとしない。

どうしたのでしょうか。
お母さん、ここで、すっかりわからなくなります。
昨日まで、あんなに楽しみにしてくれていたのに・・・。

どうして息子は、行ってくれないのか。
もしかしたら、このまま今日は、いけないのかも・・・。

こう思うと、本当につらくなって、

せっかく!!

という気持ちがぐぐっと頭をもたげてきて、

「なんのために練習もしてきたの、今日はぜったいに行きなさい! 行くって自分で言ってたでしょう!!」

と大声を出してしまう。

ここで、お母さん、一瞬しまった、と思ったようです。
でも、仕方がありません。
彼はもちろん、ふてくされてちっとも動かない。
「今日は行かない。行けない。行きたくない」
と言い続け、さらには、ぼろぼろと泣き始めます。

ここで「つなひき」をしても、仕方がない。
お母さんは、コーディネーターの先生と、「綱引きの土俵からは降りる」という約束をしていました。そこで、今、息子と綱引きが始まりそうだった、というのがわかって、ちょっと冷静さを取り戻します。
そこで、

「行きたくないんだね。そうか、エネルギーがまだ貯まらないんだね」

と言い、お皿を洗い出します。

「まあ、いいよ。・・・そこで座ってて、エネルギーが貯まるの?・・・どうせなら、時間かかってもいいから、自分の心にエネルギーが貯まることやりなさい」

彼の状況をと受け入れて、心のエネルギーをためるところに照準を合わせて話します。

すると、これもまあ、よくある筋書き通りですが、

「発表会に、ぼくは出ないけど、みんなのを見に行く」

と言い出すのです。

お母さんは表情を変えず、そう、それならそうしましょう、ということで、ゆっくり支度をして、学校へ行くことができました。

そこでもお母さんは、もし出られなくてもしょうがない、と思う気持ちとともに、もしかしたら学校へついたら、友達がさそってくれないかしら、顔をみて、○○くんって誘ってくれて、すんなり息子も舞台に出て発表してくれないかしら、と半々の気持ちになります。あきらめと期待が、入り混じったような感じでしょうか。

すると、これも筋書き通りで、彼に話をしたわけではないのに、

「お母さん!!学校に行くだけ・だよ!見に行くだけ! ぼく、ぜったい舞台には出ないよ!!!!」

と強い調子で言うのです。
まるで超能力。お母さんの気持ちを、すっかり感じ取って見通しているわけ。

お母さんはそれを聞いて、まあ9割方あきらめ顔になり、それで教室へ行きました。

すると、息子は舞台になっていた視聴覚室の小さな舞台、机の並んだ場所にはいかず、そこから少し離れた廊下にいて、そこから部屋に入ろうとしません。
カーテンがひいてあるのをいいことに、そのカーテンのかげにかくれて、みんなのことをじっと見ている。

お母さんもそこに付き添って、まあ部屋に入るんだか入らないんだか、という妙な場所に突っ立って、それでも内部の様子が見えるから、そこからクラスのみんなの舞台発表を見ていたのだそうです。

もうそこまできたらあきらめの心境が優っているから、

「○○くん、今、上手にセリフ言えたわね」

とか、

「○○さんが言っている暗唱文って、この間、Jくんが言っていたやつ?」

とか、普段通りの会話でもって、息子としゃべっていた。

ところが最後、クラスのほぼ全員がそろってリコーダー演奏をしたり、社会見学のときの小さな劇をしている姿を見たり、本当は息子が出るはずだった、いうはずだったセリフを、まったく初めてとは思えないほどの上手さで、別の子が巧みにしゃべって発表したのを見た時から、

「ああ、うちの子は本当は、先生にも友達にも、信用されていなんだ」

と思ってしまい、さらには、あそこの舞台の上に、なぜ息子が立っていることができなかったんだろう、なぜ、うちの子はあんなふうに、ほかの子と同じように笑ったり、発表したりができないんだろう、と考え出すと、つらくて涙が頬を伝ってきて、もう声が出そうになって、必死になって立っていたのだそうでした。

そうすると、これも案の定ですが、

「お母さん、もうやだ、帰りたい」

と言って、息子が手を引っ張るので、私に向かって目礼をして、すぐに帰宅したのだ、ということでした。

ここまで話を聞いて、私も、しばらく何も言えずに、シーンとしていました。

今、こうやって振り返って整理してみると、


すべてお母さんの心境に合わせて、
子どもが動いていることがわかる。




しかし、この話を目の前で聞かされているときは、自分が責められているような気持ちで聞いていましたので、教師ってつらいなあ、ということを思ったことを覚えています。

とくに、代役の子を立てて、(ひそかに、でもないつもりでしたが)練習をさせていた、ということを責められた、と思ったのです。

私は、お母さんに謝りました。

しかし、お母さんは、まったくそんな必要はない、ということをおっしゃってくださいました。
そして、

「わたしがこうやって、息子と、ぐるぐる・ぐるぐると、なにか迷路のようなところを回っているのには、きっとなにか意味があることと、思うようにしています」

とおっしゃったのです。

いま、こうやってブログに書いてみていると、本当にそうだなあ、と思います。
お母さんが、子どもにテストされているみたいなものですものね。
お母さんが子どもを受け入れた時は、子どもも母を受け入れるし、
お母さんが子どもを受け入れられないときは、子どもも母を受け入れないのです。

ここまで見事に一致していると、すごいと思うけど・・・。


彼から、今でも、年賀状が届きます。
去年の年賀状には、中学校に入学するので、新しい制服を着ている姿が、写真に写っていました。
あのときと同じような、素直そうな、いい笑顔がありました。
そして、横で、お母様も、笑っていらっしゃいました。

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【小学校4年国語】ごんぎつね発問一覧

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1)ごんぎつねを読むとかなしくなるのは、ごんが最後に殺されるから、という理由だろうか。

2)いわしは「投げ込んで」いるのに、栗は「入り口に置いた」のは、なぜだろうか。(見つかると危険なのに、へんだよ?)

2)ごんは盗人狐と思われているのに、それにもかかわらず、何日もの間、兵十に山の栗などを届けたのは、なぜだろうか。(償うとしても、2,3回で十分では?)

3)ごんは盗人狐と思われているのに、それにもかかわらず、かげをふみふみ、兵十の後をつけたのは、なぜだろうか。(ただついていくだけでも危険なのに、かげを踏むくらいまで近寄ったのは何故?)

4)ごんが最後に栗をかためて置いたのは、何を分かってほしかったのだろうか。(ごんがくりを届けたのだとわかってほしいのだとしても、ごんはなんでそれを分かってほしかったのだろう?)

5)ごんぎつねを読むと悲しく感じるのは、読者が何を思うからだろうか。(ごんが殺されたからかわいそう、というだけでなく・・・)



国語だけでなく、社会でも理科でも算数でも、

「〇〇であるのにもかかわらず、△△なのは、どうしてか」

という、特定の条件での常識をくつがえす発問は、

子どもたちが深く考えることを促すと思う。



「授業」は課題をきちんと、「課題であるとして」、「どんな課題かをきちんと明らかにして」見せることを通して、みんなが議論するプラットフォームを作ろうとする営みであろう。

だから、ただの質問ではなく、

「え・・・なんでだろう?そう言われると、不思議だな・・・ここはひとつ、頭をひねってみるか」

と思わせるようなのが、いいと思う。

すっきりとしないものが胸に残るからこそ、もっとこの問題について考えてみよう、と人は思うようになるはずだから。

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子ども 「じゃあなんで、ミサイル撃つの?」

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先日の記事で・・・。

日本全国の小学校の教室で、

先生たちが、算数を教えたいばかりに、

子どもに、こう言っているかも、という話を書きました。

「ミサイルは、ぜったいに落ちません!落ちないから安心して!」




ところが、「落ちるかもしれないよ」と教えた先生がいたのですぜ!

なんと、隣のクラスの若い先生!

「え!?落ちるかも、って言ったの?」

「ええ、そう言っちゃったんです」

「どうなった?」

「授業がつぶれました」



そりゃ、そうでしょう。

だれも、割り算の筆算の仕方なんてことより、

自分の未来が想像できなくなることのショックが大きいだろうから、ね。

「死ぬのやだ!!」

と不安になって、授業どころじゃあ、なくなりますわね。




ところで、


子どもによっては、

「じゃあなんで、ミサイル撃つの?」

と冴えた質問をする子もいます。

子どもたちは、頭がシンプルなのか、

「なんで、ミサイルつくるの?」

とか、そもそも、なぜそれを製造するか、ということまで、

「本当に不思議」

と思うらしい。




これらの質問の、答え方が、難しい。

全国の小学校の先生たち、みんな、どうやって答えたのか・・・?



わたしは、こう言って、のりきりました。

「ん、まぁ・・・大人の事情というか・・・(口ごもる)さ、算数、算数




中には、今回のミサイルの高度はほぼ宇宙空間になるため

(ちなみに高度八十キロ以上はすでに宇宙空間らしい)

「日本の上っていうより、地球の上っていう感じなんじゃないの」

とするどいことを言う子もいますし、


前回のミサイル撃った時、(初めてのJアラートのとき)

校内が騒然としていたので、私があれこれと説明したことを覚えていて、

「北朝鮮は朝鮮戦争で、さんざん大量の爆弾を落とされたからアメリカに恨みがあるんだ」

と発言する子もいます。



しかし大半の子にとっては、
「仲良くすると繁栄する、仲が悪いと暮らしにくくなる」
という、本当にシンプルな、人間の心理実感からくるもので判断しているように思う。


子どもはあれこれと話す。

ぶっちゃけ、他国へミサイルを撃つことで、自国が繁栄することはない、というようなことや・・・
将軍がその気なら、原発に打ち込んでいるから、もう日本は全滅しているはず・・・だとか、
なのに、今、自分たちが平和に学校で算数を勉強できているってことは・・・。



自宅で、親からいろいろと聞いているのもあるんだろうけど、

子どもは子どもで、必死になって、自分の命や将来を考える。

そこでの結論は、

「もう、戦争はおきない」

ということ。

子どもは大人よりも、もっと現実肌で、

国と国の関係も、自分のクラスのAくんとBくんの関係として考えている、

つまり、

腹の底からの、人間としての、生活の実感から考えるから、なのでしょうね。

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子どもへ北朝鮮ミサイルをどう説明するか?

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また、ミサイルですよ。
昨日の朝、テレビをつけたら、そればっかり。

わたしはうんざり。
通勤途中も、ずっと仏頂面でした。

なぜなら、教室に顔をみせたとたん、子どもたちから、

「ミサイルって、おちる?」

と、質問攻めにあうだろうから、です。


おそらく、だれも言わないのかもしれませんが、
テレビ局やマスコミのみなさんは、
ミサイル発射の日、ただちに小学校の教室を取材すべきです。

子どもたちに向けて、先生が冷や汗を流しながら、
なんとか、現在の国際情勢を説明してるところを見られるはず。

で、ここからがポイントなんですが、
日本中の先生たちが、おそらく、

「だいじょうぶ!日本には、ミサイル落ちないから!」

と説明しているだろう、と思うのです。あくまでも推測ですが。

マスコミは、その姿、そのセリフを、日本中に報道すべきだと思う!!

先生の、その顔つきを、画面に最大にアップにして・・・。





これを聞いて、日本会議の方はおそらく、

「いや、落ちるって!先生たちはお花畑なのか!」

と激怒するでありましょうが、
これにはワケがありまして・・・



つまり、8:40から、そのミサイルの質問を聞いていたら、
8:45から、算数の授業をしたいのに、できないのですよ。

5分後には、わり算の筆算の仕方をみんなで学習したいのに、

ミサイルの話をしてるわけにいかない!

だから、おそらく日本全国の小学校の先生は、

「だいじょうぶ!ミサイルは落ちません!」

と、子どもたちに絶対安心だ、と言わねばならない。




教師たるもの、ひるんではいけません。

「ミサイルが落ちるかもしれん」

と認めた瞬間、子どもたちに、

「我々には未来がないかもしれない」

と思わせることになり、

「じゃあ、わり算の筆算の勉強なんて、したくないなあ。どうせヤラレルなら、こんなのする意味ない」

と言わせることになるからです。



ぜったい、落ちない!

と、教師がぜったいに言わねばらならない正義の理由がわかりましたでしょうか。




で、不思議なことに、ここからが本当に面白い事なんですが、

「どうせ落ちないでしょ?」

と、子どもたちはけっこう、ふつうに、そう思っているのですよ・・・。




わたし、正直、これには驚いたというか、にわかには信じがたかった。

その子が

「落ちないわ」

と言っているので、その子だけがそう思っているのかと思ったら、

クラスの大半が、

「どうせ落ちないと思う」

と言った。

これは、どういうことなんだろう。

たぶん、子どもなりの、結論なのかもね。
よく考え抜いた末の。

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ムラサキ色の木の実を、ぶんどりました。

Tくんが、Aくんの持っていた、ムラサキ色の木の実を、ぶんどりました。

ひったくった感じ、だそうです。

近くにたまたま居た、支援員の先生が、それを見ていたとのこと。
すぐに対応してくださっていました。


「なんで、とったの?」

「・・・」

「Aくんはとられてどんな気持ち?」

「いやだった」

「ほら、Tくん。いやだったって言ってるでしょう。何とも思わないの?」

・・・・・・

私が到着したときは、上記のような感じの対応でした。


Tくんが終始無言なのが、気になる。


私なら、どうするか、と考えた。

さて・・・・・・
ぶどう取り合いsc



Tくんには、あれこれとたくさんの情報は入りません。

いや、です。

たくさん言われると、それだけで、とてつもないストレス。

耳をふさいで、アワワワワ、という声を出すときもあります。

つまり、煩い、うるさい、五月蠅い・・・ということ。

「なんでそんなに、あれやこれや、と言うの? おれを、少しは放っておいてよ!」

と言いたいんだと思う。



そんなTくんと、コミュニケーションしたいのですから、こっちがやれることを、やる。

1)セリフを短く

2)焦点をしぼって簡潔に

3)今の時点での「ズバリ」を直球で


※3)は少し、解説しますと、
つまり、Tくんとの人間関係が、豊かなものになってきてから、「そろそろお願いね」とはかっていくことがある。
いきなりTくんに要求、お願いをしても、無理だ、というところがある。
成長段階もあるし、人間関係が薄いうちに、あれもこれもやってくれ、じゃあ、虫がよすぎるでしょう。
なので、今の段階として、この程度の関わりにしておこう、ということがある、ということ。


さ、その作戦で、どう進めるか。


まず、彼とコミュニケーションを始めるにあたって、いきなり
「語りだす」
ことはしません。
かつ、
「諭しだす」
とか、
「教えていく」
とか、
「お願いする」
という、つまりはこちらの水道の水を、Tくんのコップに注ぎこむことはしない。

だって、もうTくん、小さなコップがあふれそうだからね。
そして、こちらは、Tくんの、今の心の状態が知りたい。
Tくんに、こちらが、精いっぱい、歩み寄りたい。
教えてもらいたい。
どんな心持ちなのか・・・。


「Tくんは、Aくんの木の実がほしかったの?それとも、ほしくなかった?」


これなら、選択肢ですから、

「ほしかった」にしろ、「ほしくなかった」にしろ、Tくんのありのままの状態を教えてくれるでしょう。
肝心なのは、その後、そのコメントに対して、怒らない、ということであります。
せっかく、自分の内情を教えようとして、伝えてくれたのですから、それに対して、あれこれと言わない。
とくに、批判したり、非難したり、ダメだ、とあからさまな否定の言葉を投げつけることはしません。

「なんでそう思うの!」

と、思うこと自体を否定したりしません。思っちゃいけないことがある、というようなことを言うと、本当にTくんにとっては酷なことになります。
「思っちゃダメ」
なんて、ふつう誰でも、そんな否定をされたら、とんでもない!と思うでしょうし、Tくんも同じです。


さて、もし、ほしくなかった、と言ったとしましょう。

その場合は、

「Tくんが欲しくなくても、いきなり取ったら、友達はイヤだ、と感じるよ。泥棒みたいで、びっくりするし、イヤだし、やめてほしい、と思うんだよ。人のものに手を出すのは、(とるのは)、やめようね。やめることができたら、花丸です」



今回は、↑これだけ、です。(Aくんが強烈にTくんの謝罪を要求する場合は「ごめんなさい」もあり得る)

では、ほしかった、と言ったらどうしましょう。

欲しいと思ったものが、友達の持っているものだったときの、正しいふるまい方について、「教える」。
だって、Tくんには、そういう場合どうしたらいいかが、はっきり見えていないのですからね。
(*いきなり誰かの手の中のモノを奪っても、たいして問題にならない社会もあるかもしれませんが・・・閑話休題)

友達の持っているものが、欲しくなったときはね・・・
次の3つから、やれそうなことを選んでね。

1)がまんする

2)他のものをさがす

3)ぼくもほしいな、「ちょうだい」と言ってみる


友達が、「いいよ」と言って、くれるかもしれないしね。
そうしたときは、「ありがとう」と言えるといいよね。

でも、「だめ」と言って、くれないかもしれないね。
そのときは、あきらめよう。

そこまで、伝えておく。
必ず、ある事象の、Aパターンを伝えた場合は、起こり得るBパターンも伝えておくことが必要だ。
Aパターンだけを期待して、行動したTくんにとって、Bパターンが起きた場合は、相当に混乱することになるからです。
彼には、ダメージが大きい。混乱し、精神がメタメタになってしまいます。そうさせたのは、Aパターンしか教えない、という、えらく中途半端な話をした、教師です。その対応が、Tくんを追い込んでしまう。


さあ、Tくん。
1)2)3)のうちの、どれならできそう?


1)も2)も、できたら、花丸。
3)は、ありがとうが言えたらマル。
仕方ない、とあきらめられたら、スーパー花丸。(かなり高度だ)


今度、同じようなことがあったら、こんなふうに対応する(つもり)。

で、実際、いちばんよい解決方法は、2)です。
木の実が潤沢、豊富にあるので、それをTくんもゲットすればいいだけ。
木の実は、ちょっと校庭の端っこまで走れば、それこそ唸るほど成っているのですから、Aくんが、Tくんを休み時間に連れて行って、
「ほら!Tくん!ここにいっぱいあるよ!取りなよ!ほうら、Tくんもぼくも、同じ木の実だね!(にこにこ)」

これが一番、よい。
世界人類も、これができればいいだけの話ね。

椅子の上に立ち上がり、どんどんと足を踏み鳴らす子

椅子の上に立ち上がり、どんどんと足を踏み鳴らす子がいる。

かなり、屈折している、と思う。

こちらを、ちらっと見ながら、やる。


彼のこころは、
そうせずにいられない、狂おしいほどの欲求に、翻弄されている。


どんどん、と足を踏み鳴らす。

となりの子が、

「やめて」

というと、さらに得意がって、机にのぼり、エスカレートして踏み鳴らす。


椅子をふみならす子


わたしは、残念だけど、付き合わないよ、という。

他の子も「どき・どき」してみているから、

「Fくんが、さびしい気持ちになって、ぼくを見てみて、とやっているけど、ごめんね。そのうちに、心の栄養がもどってくると、やめると思うよ」

と言って、授業を進める。

あとは、あしを鳴らそうが、立ち上がろうが、まったく意に介さない。

このとき、クラス全体に、私が彼の、何を、どう心配しているか、伝わっていることが肝要だ。

それと共に、私の願いをふだんから、「繰り返し、語って、伝えている」ということ。



人は、こころがみたされないと、イキイキと振る舞うことができないのだ。
さらに、満たされないときには、だれかのせいにしたくなったり、憐れみを得るためにさらに自分を傷つけたり、嫉妬したりするのだ。暴言を吐くしね。




だいたい、こんな程度のこと。

すごいよね。こんな話、一年生には早すぎるかと思ったら、ちっとも早くなかった。
話すと、ちゃんと分かって聞いている。

それで、F君のこころが充たされていない、ということも、きちんと理解する。

「いろんなことをちゃんとやるエネルギーは、こころが満たされていないと、出てこないよね」

といった程度の、なんとなしの雰囲気を、ふんわかと理解する。

また、人は、六歳にして、すでに、「人を責める」ことも知っている。



さて。


復旧するのを彼に任せておいたことの効能により、いつの間にか、Fくん、ふつうに座っております。

あ、こころの栄養、もどってきたね~

嬉しいなー

にこにこ。

みんなも、今みたいなFくんがいいと思ってるんだよね。

ありがとう。





叱られるのを、叱られることでさえも、心待ちにする子。

嬉しいよ、ありがとね、よかったね、って、本当は言って貰いたい。



だったら、最初からそっちを言った方がいいよな…。

生まれて初めてのこと

.
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父が亡くなる前のこと。

家族で病室にいたら、

「昨晩、息がくるしくて、死にそうだったよ」

と、当の本人が言った。

思わず、

「死にそうなときって、どんな感じなの?」

と尋ねると、

「いやあ、お父さんも生まれてはじめてのことで、死ぬってのがどんなのか、よく分からんかった」

という。

「なにか見えた?」
「うーん、なにか見えると思ったけど、そうでもなかった。

まあ、咳こんで苦しかったから、そっちで夢中になってて、なにも分からんかったなあ」


ずいぶん、死ぬ間際の人の会話としては、呑気な会話だな、と今は思う。



父は、「死」とどう向き合ったのか、会話の中にヒントがあった。

生まれて始めたの体験、として、「死」をとらえていたのだ。



悲壮なもの、不運を嘆く感じが、あまりしない。

たとえれば、新鮮な野菜をほおばる前の、雰囲気だろうか。

なにか、珍しいものを食べる前のような、ふだんの父親の顔つきが、ふと思い浮かんでしまう。

「死って、なんだろうか」

そういう態度が、父には、ごくふつうに、あったようだ。



世をはかなむのでもなく、

できなかったことを悔やむのでもなく、

不満があるとか、やりのこしたことがあるとか、

そんな雰囲気が薄いのが不思議なくらいの調子で、こう言った。

「なんせ、お父さんも、初めてのことだからねえ」



小学生のような顔つきで、80歳近くの老人が、ぼそっとつぶやくのは、

むしろ滑稽な感じもあって、思わずそこにいた全員が、頬をほころばせた。



考えてみれば、人間は現在を生きるしかないのがもってうまれた宿命で、

すべての体験が、「生まれて初めて」。



これは初めて。

どんな世界だろう。

自分の中に、どんな変化が起きるだろう。

自分は、どんな感情をもつのだろう。

自分の心は、どう動くのだろう。

自分は、安心に包まれているだろうか。

そのとき、なにをみるのだろうか。




「死」を前に、父は、どんな心でいたろう。

少年のような、

死ぬ前の人特有の、

あの、透きとおった目で、

いっしょうけんめいに、「死」を感じ、みようとしたのだろう。


「科学の目」ですね。


昔の記事のプライベート設定について

.
最近、読者数が増えてきたためか、

以前の記事(5年~7年ほど前)の、「プライベート設定」のつづきが読みたい、と

希望される方がいらっしゃいます。

現状では、パスワードを打ち込まないと読めません。

今のところ、過去記事のプライベート記事は非公開です。

パスワードを入れないと読めない記事が、おそらく100くらいありますが、

すべて手入力で、一つずつ、設定を変えなければなりません。

その手間をかけられないため、現状では非公開のまま・・・。



もし、どうしても読みたい、という記事がありましたら、

メッセージやコメント欄で、

タイトルや、記事を書いた年や月を教えてください。



わたしに余裕があった場合に限り、

公開するかもしれません。

すべてはタイミング・・・。



どうぞ、よろしくお願い致します。

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自分が、自分が・・・

.
高速道路 前から太いロープで引っ張られるような自動運転状態。

ハンドルを操作しないでも、引っ張られて行く感覚。

人生は案外と、こうして引っ張ってもらっていることの方が多い。

ところが、「自分で運転している」、とみな思っている。

逆さま、だよね。



自分が思う、と思っている。

しかし、何かを思ったあとの感情は、他人のせいにしていることがある。

自分で思う内容は選択できるはず。

なのに、感情は「ひとのせい」にしてる。

矛盾に気づかないまま、人生を過ごしている。



自分のせいでもなく、他人のせいでもない。

だれかのせい、ではない。

あることを思ったら、ある感情が出てくる、ということ。




ごく自然に、そうなっている。

ごく自然と、まるで引っ張られているような雰囲気で。


常に、世界に、引っ張られている。

人は、「連れられていく存在」といえようか。




ふと気づけば、

自分が、自分が、というの、あまり言わないようになると思う。

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夏の回想~虫を売っている店で~

.
リモコンやコントローラーが無いのに、

昆虫は、勝手に動き回っている。

<ねえ、これ、勝手に動いちゃうよ!>

と、デパートの昆虫売場で困ってた子がいるとか・・・・。



どっきどきですよ!!

勝手に動くんだもん!!



人生のはじめの方の段階で、

「なんじゃこりゃあ!!!」

と叫ぶことのできた子は、幸福。



いろんな昆虫がいる。

妙ちきりんなのが、たっくさん、いる。

だれにも、命令もされず、苦にもされず、「困った」なんて言われないで、

そういう、奇天烈(きてれつ)な格好をしている。

「まるで、思いもかけないような姿の」

というところが、子どもにはいい影響なんだと思うネ。

その「自由」を知る子と、知らない子と・・・。




神様が、摩訶不思議なる昆虫類を、この世に、それも

子どもたちのすぐそばに、たくさん遣(つか)わしてくださったことに、感謝。

蛾

学校教育の中で、いちばん大事なこと

.
子どもというのは、失敗を多くする。

失敗を繰り返しているけれども、

その失敗をしたときに励まして、

一回や二回の失敗でくたばったらだめだ、

ということを教えることだと思う。


<あなたの荷物が世界でいちばん重たい荷物なのよ>


思わさないことが、

学校教育の中で、いちばん大事なこと。

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客観的、について

.
鳥居みな子さんの、次の詩を教えていただいた。

小さな私が

小さな小さな石ころにつまずいて泣いている

大きな大きな道のはじっこ


「客観的」な視点がないと、↑ こう見ることはない。



客観的、というのは、いったいどうしたらわかるのかな、と思う。

自分がやった、

自分がした、

自分が思った、

自分が考えた、

自分が書いた、

自分がつくった、




ぜんぶ、自分が、自分が、自分の力で、自分の能力で、

自分の意志で、そう感じた・・・としている。



自分の意志で?

ほんまに?





じゃあ、なんで、腹が立つと、いやな気持になるのか。


↑ これ、いまだに「すっきり」「かんたんに」言う人に会ったことが無い。

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気をつけ!ピッ!

.
気をつけ!と

大声で指示して、笛をピッ!!と鳴らす先生が、

同じニュアンスでもって、

「仲良くしなさい!!」と

言いながら、ピッ!と笛を咥えて鳴らすのであれば、

そんなことには、子どもたちは

まったく関心を示さなくなる、と思う。



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学級崩壊は、「進化」の過程

.
学級で、苦しんでいる子がいる。

必ず、そこには「学級らしくあらん」として、奮闘しておられる先生や、

そうなるように願っている保護者が、いるであろう。



皮肉なことに、担任が

「学級らしさ」を追及するために、まさにそのために、

苦しむ子どもも、存在する。



「学級らしさ」を追い求めるとき、ほとんどは、担任が児童に、

正しい子どもであれ

と要求するようになる。

もとから、正しく、子どもである、にも関わらず。



すでに正しく子どもである子どもに、

「お前は正しい子どもではない」というまなざしを向けて、

「変われ」

というメッセージをおくるようになる。

「お前は正しくない。おまえを認めない」

という宣告なのです。




そこから逃げ出したくなる、という子がいる以上、それを無視して、

担任が、担任の思う「学級らしさ」の階段をのぼりつづけるわけにはいかない。



となると、実は、いわゆる学級から一歩抜け出そうとする過程の中に、

一見してみると、「学級崩壊」のように見える状態が、出てくる可能性がある。

それを見咎めて、校長や保護者が、

「学級崩壊だから、良くない」

と断じてしまうのは、もったいない気がする。





そう考えると、学級崩壊は、進化の過程ともいえるかと思います。

対話の始まりであり、お互いをしっかりと見る、知る、ということの最初でしょうね。

両者がしっかりと向き合ったとき、学級崩壊は、

まぼろしのように、スーッと消え去るはず。

もともと、ただのイメージであったので、かんたん、です。



稲の朝露(あさつゆ)

日本男児の生き方を指南!

.
兵隊をいかに「殺人集団」に仕立て上げていくか、という文章を
読んだことがある。


米軍の心理カウンセラーが書いた本。

ポイントは、

なにも考えさせないこと。

やれ!

と言われたら、

ハイ!

と、すぐに大声で、返事をし、身体を即座に動かせるように訓練するそうだ。

これを、徹底的に繰り返す。


機械的に、反射的に、とっさに何も思考せず、余計なことを思わず、

すぐに身体が反応できるようにしていくことで、殺人が可能になる。

「殺せ!」
「ハイ!」




なんで、そんなことを思い出したかというと、

ふだんはちっとも本など一切読まないのに、

小学校で英語が始まるので、準備するため、

なにかヒントになる本がないだろか、と久しぶりに本屋に行ったら、

「男20代にしておくべきこと」
「男30代、やっておかないと後悔すること」
「老いてもなお男の美学を」
「人の上に立つ成功戦略」
「勝つための男のコミュニケーション」
「歴代武将に学ぶ人生設計」

という感じの本が、大量に並んでいたからです。


え、こんな本があるの!?


とびっくりしながら、おっかなびっくり手に取って、最初の方をパラパラとめくると、

なんとまあ、どれもこれも、この手の本は、すべて

命令調

なのであった。

「できる男になりたきゃ、〇〇しろ」

という感じ。



マゾ様仕様にも程がある!!


これを読んだ読者は、命令ばかりされるんで、

余計に、劣等感が増していくんじゃないの?

と、ちょっと不安になった。



命令されて、それを受け入れる、というパターンで、

戦争が始まったと考えると、

「共にさぐる」

「いっしょに考えていく」

「考えていく仲間になりあう」

というのでは、戦争は無理なんだろうね。


単純に、

えらい人が 命令をして それを受け入れる

という文化がなければ、やはり人を殺す現場では、役に立たないのだろう。

そもそも、自分の命を捧げたくなるほど、えらい人がいないといけない。



まずは、本屋に並んでいる、こういった命令調の、

「男はこうしろ!」

という文体の本を、読まなければならないほどに、

あるいは、読んだ結果、「そのとおりにしなければならない」というくらいに

追いつめられた男を、社会的に『生み出さない』ことが大事だ。




フーテンの寅さんのような男が、

「男はつらいよ」

と言えるのが、日本のよいところ。



「やれ!」

と言われたら、

「ハイ!」

と言う代わりに、隣のタコ社長をみながら、

「そんな必要、あるのかねえ」
「おいちゃん、難しいことはよくわかんないけれどもさ」

「男はつらいよ!」

というのが、いいんじゃないの。

その方が、日本人には合ってる気がするな。

とら


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