30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2017年07月

小学校の教室の研究【結局、義務意識がない】

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教室がなんとはなしに、タノシイ居場所になっている。

それがなぜなのか。



結局のところ、

「義務意識がない」

からではないか、と思う。



来ても来なくてもいい場所であるのだが、そこにやはり、自分は来たくて、

来ようとして、だれにも頼まれたわけでないが、来ているぞ。

このような意識が根底にあるから、さきほどの

「なんとはなしに、理由はハッキリしないけど、なんとはなしに、たのしい」

という状況が生まれているのではないだろうか。



子どもに、義務がない状態、というのは、こちらで見ているだけで、楽しい。

そのままで、満ち足りている様子。

なにかをする必要も無く、しなければならない圧力もなく、のんびりしている。

すると、なにかが、始まる。

友だちと、なんか、したくなる。

目の前にオルガンがあれば、弾きたくなるし、画用紙があれば、落書きしたくなる。

粘土があれば、ひねってみたくなり、友だちの手がのびてきたら渡したくなる。

友だちに、聞かせたくなる、見せたくなる、いっしょにしたくなる。

いかにも自然で、おずおずとで、高圧的でなく、期待も無く、焦りもない。

そういう、お互いの関係であり、間柄(あいだがら)。


子どもは、

ごく自然に、オルガンの前で惹かれあうように、

余った粘土をお互いに分かち合うように、

ずいぶん気楽になりあった状態で、ふと、

そうだ、〇〇しよう、と

いう風だ。



大人が何かをしたい、というとき。

微妙に義務を意識しないか。

だから、懸命にそれを自分が取り組む理由を見つけ、

その理由をだれも聞いちゃいないときでも説明し、

自分の社会での居場所や位置づけを確定し、意義づけて、

〇〇のためにも、やらなければなりません、やります、がんばります!と

声高に叫ぶことで、義務感からの不機嫌さを忘れようと、みずからを奮い立たせる。




義務意識バリバリの状態で、「おれは本当は、何がしたいんだろう」と考えても、

それはただ、義務意識の一番フィットする対象が見つかるだけ。

対象が見つかると、声高に叫びたくなる。

「これだ!これがおれのやりたかったことだ、本当の夢だ!」

そう言わないと、自分が義務を持ってることがバレちゃうもの。




なにかをしないといけない、というのが無い子どもは、

まあ、ともかく、毎日、毎日、ご機嫌ですよネ。

不機嫌な大人は、上機嫌な子どもを許せなくなる場合があって、これが教育の大問題。


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小学校の教室の研究【なぜ楽しいか】

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子どもたち、朝から、なんとはなしに、タノシイ、ようである。

これが、なぜなのか、わからない。

たぶん、居心地が悪い、と感じている子がほとんどいないからだろう。


ところが、わたしとしては、算数をたくさんさせるし、宿題をチェックするし、

どんどんと当てるし、作業させるし、授業の進め方は他の先生よりも忙しいようで、

学校がきらいに思う子も、中には実はいるんだろう、と思う。



ところが、なんとなく、教室は、タノシイ。

これは、友だちがいてくれる、そのおかげでありましょう。

仲の良い友だちが、いっしょになって励んでくれるのであれば、

むずかしい算数もやる気になり、宿題もまあ、やってこようと思い、

みんなで答えを確認しあって、

「あってたー」
「うぎゃー、ちがってたわ」

と言い合うのも含めて、宿題もそんなには苦にならないようである。


「先生、黒板に書くスピードが速すぎるよ」

という子もいるが、

「これは6年生レベルのスピードだったな。みんなは4年生だから、ちょっとゆっくりにするか」

というと、

「あ、ゆっくりにしないでいい。6年生レベルでやろう」

こういうのは、いったい何だろう、と思う。




それとか、

「宿題やだー!!」

と言いながら、

「でもやっぱ、宿題、出して」

と言うのは、なんだろうか。



よく大人は、

「自分の本当の気持ち」

とか表現したりしますが。

宿題をやりたい、やりたくない、というのは、自分の気持ちのうちでも、

かなり表層の、薄皮の一枚、という感じだね。

そのもとにあるのは、

宿題をやらなきゃならない、と思っているか、そうは思っていないか、だね。




「先生、算数みんなで答え合わせするんだったら、もう1枚出して」

つまり、この子は、宿題をやりたいかやりたくないか、こたえはどちらでもない。

「みんなで、答え合せ」がやりたい。これが答え。

もっと言うと、

「あー、合ってたー。〇〇ちゃんも合ってたー。あ、つぎのはちがってたー、〇〇ちゃんもちがってたー。これ、むずかしいよねー」

というのがやりたいのであって、

「宿題がやりたいか、やりたくないか」

という、2つから選べ、じゃないのな。自分の本当の気持ち、というのは、ネ。


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小学校の教室の研究【遊ぶ楽しさを知ってる】

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子どもを見ていて不思議になってくるのは、

「あ、遊びにいこ!」

「うん!」

という会話があることです。

そして、一目散に、くつ箱へ行き、外に行くことです。



で、なんの打合せも無く。

そのまま、校庭へ行きます。

ともかく、走る。

で、息をはずませて、ハァハァ、と。

わたしがようやっと追いつくと、

「あ、先生も来たんだ」



大人は、こうはいきませんね。

「〇〇さん、話しかけてもいい?」

という許可の申請が入り、

「えっと、わたし今から遊びに行こうと思うんだけど、ご一緒しない?」

「ああ、いいですね。何しましょうか」

「そうですねえ。雲梯(うんてい)と砂場のところで、おにごっこでもしましょうか」

と、まあ、

大人なら、ぜったいに予定を立てるでしょ。

さて、そこから、

何をするのか、討議が始まる。

「そうねえ。おにごっこは疲れそうだから、ダンゴムシでも探しましょうか」

「ダンゴムシ、いるかなあ・・・いなかったら、どうしましょうか」

「いなかったら、砂場を掘って、トンネルをつくりましょう」

第二案、ときには第三案まで、用心深く、決定しておく。

「いいですねえ。トンネルをつくりましょう」

「そうしましょう、そうしましょう」

歩いて、ゆっくりと砂場に向かいます。

さて、砂場について、ダンゴムシを探しているとき、いろいろと思います。

「ほら、やっぱりいない。だからわたしは、鬼ごっこにしよう、と誘ったのに」

案の定、すぐに休みの終わりを知らせるチャイムがなり、教室へ帰ることになる。

(ああ、休み時間が、すぐ、終わってしまった)

(うーん、最初から、鬼ごっこにしておけばよかった)





子どもが、遊ぶ、というときの、遊ぶ、という状態は、たぶん、ともかく遊ぶ、ということだと思います。

いっしょになって、いっしょにいる、という状態です。

そのとき雲梯があれば、つかまるし、

たまたま砂場があれば、砂を掘り返す、という意味です。

なにかをしよう、と予定をたてて、スムーズに事を進めて、みんなが満足するように配慮しましょう、という世界ではない。

おかしいですね。お互いに配慮しようとすればするほど、満足が遠ざかっていくのです。大人の世界だとネ。

子どもは、まるきりそんな配慮しないけれど、全員が文句なし、です。

校庭の隅へ出かけよう、と思いついた時点で、一人ひとりが大満足なのです。


最初から、満足。

遊ぶ前から。

つまりは、子どもだけが、遊ぶことのホントの楽しさを、知っている、というわけネ。


小学校の教室の研究【友達が面白い】

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教室が活性化する瞬間というのは、友達が思わぬ発言をしたときだ。

「え!?」

みんなが驚いて、その子を見る。

本人は、いたってふつうだ。

「だって、〇〇〇〇だから」


すると、まわりがいっせいに色めき立つ。

ついで、がやがやと、会話が自然発生する。

「まって!!漢字辞典でしらべるから!!」

有志が立ち上がって、勝手に辞典で調べ始める。

「わかる?」

「意味わかんないから、もう一度、言って!」

「ええっと、〇〇〇〇じゃないかなあ」

「え?どういうこと?」

教師は、そんなカオスをもう、どうすることもできず、ただ立ち尽くしている。



呆然とし、くたびれ果てたように、椅子にどたっとすわりこむのは、教師であり、

子どもたちは一斉に椅子から立ち上がり、めいめいに好き勝手な意見を交わし始める。


教師は力の尽きたように、3分ほどして、ようやく口から声を発する。

「おおい、みんなー、もういいかいー?」

「まだー」




これは、ね。

友達が、面白いんだよね。

友達が考えていることが、面白いんだな。

学校には、問いがあり、問いがあるということの背景には、

人間はモノを知らない、という前提がある。

友達が、そこで、ひょんな意見を言ったり、なにかを主張したりするのは、

それだけでもう、とてもエキサイティングなことであります。



友達の、やることなすこと、発する言葉、タイミング、しでかすこと、興味を持つこと、

それらが、もう面白くて仕方がないのです。


小学校の教室の研究【敵がいない】

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なぜ、小学生が、そこまで安心できるのか、について。

つまりは、教室には、敵がいない、ということなのではないだろうか。

ことさら「競争」ということもないし、する相手もいないし、

自分を評価してコントロールしよう、という者もいない。

だれかが【褒め殺し】してくることもない。




つまり、自分を操作しようと企む者が、いない。

自尊心を攻撃してくる輩もいない。

だから、安心している。



安心して、自分でいられる。

そういう空間だから、新しい創造が生まれる。

昨日までの教科書の解釈を、さらに発展させようとする。

友だちが、

「すごい」

と素直に驚くような意見を言う。

ところが、その「すごい」は、すぐに、あっという間に、共有されるのだ。

友だちのアイデアは、すぐに全員のものになる。

独占されない。




図工の時間に、一人がはじめたことは、すぐにだれかにマネされる。

どうやったらそういうことができるのか、開発したり、発明したりした子がすぐに他にシェアする。

開発者は、友達が真似してくれるのが、うれしくて仕方がないのだ。

真似する子も、だれのアイデアなのかなんて、気にしていない。

小学校では、ボールの投げ方も、けり方も、マットの前転も、みんな友達のやつをみて、

真似をして、しあって、うまくなるのだ。



大好きな友達が、自分の真似をしてくれている。

そのことが、自分にもたらしてくれる、かけがえのない尊重感は、もう、他に代えられないもの。


学級の「仲間意識」の研究

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学級とは、子どもにとっては、いったいどんな場なんだろうか。

同じクラスの子に対して、つよい連帯感や、仲間意識をもつ。

家族もそうだが、教室も、自分の居場所、自分を受け入れてもらえる場、という感じか。

家族のように受け入れてもらえる場であり、学びの場。

子どもにとって、学級の仲間というのは、いったいどんな仲間なんだろうか。



クラスで、朝、だれかが休んでいるとき。

「あ、Mちゃん、休みだー」


すると、その日は、Mちゃんのいない、一日である。


Mちゃんがいない、ということがわかったとき、なんとなく、ああ、残念、という感じが湧いてくる。

朝の、まだ静かで、教室全体が透明で、なにも色のついていない時間に、

Mちゃんのいないことがわかったときの、

ああ、ちょっと物足りない、というような。




「ああ、Mちゃんがいないんだね」

「Mちゃん、休みだね」

「Mちゃん、熱があるんだって」




Mちゃんのことが、話題になる時間。




「Mちゃんの家に、連絡帳とどける人ー?」

「あ、2組の〇〇ちゃんの家が、ご近所!」





上下感のない、優越感、劣等感、そんなものがまだ無い、

まだ、10歳にならない子どもたちの、

小学校の4年生の、「仲間意識」とは。



ともかくも、仲間である、という、『仲間意識』。

ただ、一緒のクラスだー、というだけの。

とにかく仲間である、という意識。

ほとんど、理由が、ない。

理由がないのに、仲がよくなるって・・・。



不思議だね。

なんで、よそよそしく、ならないのだろうか・・・。




関われば、関わるほど、安心できる、間柄。

教室という場がもつ、スーパーな潜在力によるもの、なのかも。



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教室、という平和の砦(とりで)

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ついに岡崎の夏が始まりました。

夏休みです!!

(まだ夏休みでない地域の小学校の先生たち、ホントにご苦労様です・・・)



さて、夏休み入ると、子どもたちが学校に来なくなるので、

わたしはずいぶんと、さみしい思いをもつ。

しかしまあ、そんなことはどうでもいい。



教室というのは、なんと平和で、あたたかくて、居心地がよくて、

面白くて、人が大好きになってくる場だろうか。



わたしは1学期のささいな子どもたちとのやりとり、

子どもたちどうしのおしゃべりや、どうでもよいような事柄を、あれこれと思い出す。



そして、なんども、それを反芻し、幸福な気分に浸るのであります。

人が好き、というのは、なんとも象徴的なことだ。

子どもは、どうしようもなく、仲の良いもの。

けんかもするし、いさかいもあるが、なんとも本気で、人が好きで、友達が大切でしかたのない人たちであります。



教室が、いかに人生のヨロコビに満ち溢れた場所か、

多くの大人がしかめつらで生きているのを見ると、

なんとも申し訳ないが・・・。






世の中の、さまざまな気にしなくてもよいことを気にせず、人がどうしてこうも人を大切に思うのだろうか、ということを、ありとあらゆる教室の中の事象でもって、確認していける日々は、もうこれ以上ないほどの幸福だ、と思います。


この、小学校の教室のもつ価値に、賢い大人の、だれも目を向けない。

(しかし、目を向けられると、不要な世話を焼いてくる可能性もあるから、このままでよいのかもネ)

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海の日の【子どもの泣き声】について

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海の日がありましたでしょう。

どうやら、近所の家に、そこのお孫さんが遊びに来ていたらしい。

朝の8時ごろでしたでしょうか。

わたしゃ、家で、つめたい氷を口に入れて、ボーッとしておりましたら、

かすかに、ほんのかすかに、遠くの方から、子どもの泣き声が聞こえてきたんですわ。



「ん?」

と思いましたね。

瞬間、昭和に戻ったような。

ゴダイゴが銀河鉄道999を熱唱し、国際児童年が謳われたような時代には、
全国のご家庭で、子どもの泣き声がしていたような気がする。



しかし、時代が変わりました。

今は、子どもの泣き声を聞いたら、通報することが奨励されてますからネ。

児童虐待と思しき事態を感じた時点で、通報する義務があります。

これまで、児童相談所全国共通ダイヤルは10桁の番号(0570-064-000)でしたが、覚えやすい3桁の番号にして、子どもたちや保護者のSOSの声をいちはやくキャッチするため、平成27年7月1日(水)から「189」(いちはやく)という3桁の番号になりました。

ところが、わたしはそこのお孫さんたちを知っているし、その兄弟が、しばしば喧嘩をすることを知っている。

だから、通報はしません。わたしの主観的な判断で良いのですから。通報するかどうかの判断は、その人個人に委ねられていますからネ。わたしの脳みそは、それは児童虐待とは判断しなかった。



子どもは泣くものだ、ということ。

これが、どうにも、社会全体で、常識にはなっていないらしく、

いつのころからか、

子どもが泣いているのは、異常

という認識があるようです。

なんでだろう?




一つには、虐待防止キャンペーンが、思わぬ逆作用を生んでいるのでは、と思うことがあります。


児童虐待防止キャンペーンのチラシに、

「近所から泣き声が聞こえてきたら要注意」

というような文面があり、これはまずいだろう、と思ったことがあります。



これは逆でしょう。

「近所から、泣き声もしないような、火の消えたように静か~な子育て家庭があったら要注意」

が、本当ですよね。

おそらく、泣き声をたてることすら許されないような関係は、かなりいびつで、その子のこころを捻じ曲げているように思う。

子どもは思い切り泣くことを許されるのか、

それとも泣くことが許されないのか。

この、どっちが虐待か。



子どもが、泣くのは、平和のしるし。

ホントの虐待なら、声を絶対にたてさせていない。

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「思い出のマーニー」

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つい先日。

「思い出のマーニー」という映画がテレビで放映されたらしい。



この映画のタイトルを聞くと、どうしても思い出すことがある。




昔のクラスでのこと。

この映画のタイトルを聞いたある子が、

「まあにい(兄)の本名はなんなの?」

と、思ったそうなんです。



「まあ兄?」


思い出のまあ兄。


なるほど。

ま・さ・こ 姉(ねえ)さんなら、まあ姉ちゃん(マーねえちゃん)になるだろうし、
ま・さ・ひ・ろ 兄(にい)さんなら、まあ兄さん(マーにいさん)になるだろうね。


思い出のまあ兄(にい)。

なかなか、親しみのある、ちょっとほんわかした、ホームドラマのような映画。


人の、名前の、呼び方だけでも、

こんなふうに、そのへんの空気が、ずっと幸せになるわ。



〇〇(←名前の一部)兄(にい)、という呼び方。

この呼び方をしたくなる、そういうふうに声をかけたくなる、そんな人間関係がある。




そういえば。

子どもたちどうしで、あだ名で呼び合っているとき。

お互いに、そう呼び、呼ばれていることの、楽しさ、安心、じんわりと通じるもの。

ありますね。あると、思うね。


・・・ (*´з`) ・・・

思い出の

自由研究でみがかれる創造性(ビジネス誌風に)

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(前回からのつづきです)

パターン2は、高学年向け。

これは、ともかく、【実験と表とグラフ】。
これが決め手になります。


もうすでに、わかっているようなことや、本に書いてあることで、良いのです。

自分で工夫して、家にあるものや安価な道具で、思い切り実験できることが大事。

子ども時代は、「実験」という2文字だけでも、十分にこころがはずむのです。




ところで、自由研究、わたしが好きなのは、パターン3です。

つまり、
実験をして、新しい発見をする。

これは、子どもだけでなく、中学生にも高校生にも、ときにはもしかすると
大人にだって、高度なことです。

たとえば、
魚には色彩が見えるのか。

こんなの、はたしてどうやって実験するのか、分かりません。
実験するったって、どうやるの?

このくらいのレベルが、パターン3です。

しかし、これ、なんとなく実験してみた、というので、いいんです。
水槽を赤い画用紙でとりかこんだときの、餌のがっつき方、というのでもいい。
3日後、青い画用紙で同じようにえさをやって、ちがいを見てみればいい。

ずいぶん主観的な実験で、厳密にいえば科学の世界からは遠いものなのですが、
小学生にとっては、

「なんとか実験したい。とりあえず実験してみよう」

という気持ちと、アタックする行動が大事なので。

この、【実験のやり方】、という部分について、先生や親に相談するのは、とてもよいことだと思います。


以下、参考までに。


1) うちの猫は、左利きか、右利きかを検証してみる。

2) かっぱえびせんをつくりたいが、作り方がわからないので、袋の原材料名をみて、勝手に想像してやってみる。

3) 夏休みをすべてつかって爪の長さののびる速さをしらべる。

4) 1ぴきの蟻と砂糖をびんに入れて放っておくと、翌日も「はたらき蟻」のままでいるか、だらけた蟻になるか検証する。

5) 新しい漢字を発明し、現代社会において漢字として認めてもらうにはどうしたらよいか調べる。

6) 手羽先を食べたあとに、骨がのこったので、ポリデントで骨を洗い、きれいな骨格標本にしてみる。

7) すいかの種の場所を、徹底的にしらべてみる。

8) 積木で迷路をつくり、ダンゴムシを入れて走らせ、学習能力があるかどうかしらべる。

9) コンビニエンスストアに集まる蛾を捕獲し、各コンビニごとに蛾の種類の違いが出るかしらべる。

10) お母さんの機嫌がよくなる一言はなにか、毎日調査する。


好きなことに、どっぷりと浸りこむ快感は、
小学生にとって、なによりの「心のごちそう」ですナ。

昆虫クラブの活動風景2

「自由研究ってつまんなーい」だって

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教室で、自由研究の話をした。

そろそろ夏の宿題を伝えておかないと、と思ってたら、

「自由研究やるの?つまんないからヤダ」

と開口一番、Mくんが言う。

そこで、ちょっとみんなの気持ちを整理しましょう、と。


まず、自由研究にはネ、3つのタイプがあるのだよね。
 パターン1 すでに知られていることを調べ、まとめる

 パターン2 すでに知られていることに関して実験をし、確認をする

 パターン3 実験をして、新しい発見をする

このうち、いちばん小学生にふわわしいのは、パターン1でありましょう。

なぜなら、大人はもう十分に知識としてある事柄であっても、
まだ9歳や10歳の子にとっては、

「へえ、はじめて知った。本当なの?」

ということが多いわけです。
それで、

「自分でもたしかめてみたい」

と思うのは当然で、その意欲がステキなのですナ。


コツがあります。

① 〇〇は〇〇である、ということをはじめて聞いた(知った)
② それで、くわしく調べてみることにした。
③ 図書館で3冊借りて、とくにくわしいところを抜き出して表にまとめてみたよ。
④ これだけじゃつまらないから、身近な人の体験談を聞いてみたよ。
⑤ そしたら、図書館の本には書いてなかったけど、こんなことを言ってたよ。
⑥ ぼくは、本に書いてあることと、身近な人の体験談をくらべてみて、わかったことがあったよ。

もうお分かりでしょう。
世間一般的に存在するテーゼに、もうひとつ、身近な体験談を仕入れて、比較するのです。
そうすると、比較したことで実証されることもあるし、ちょっと別の視点も加わることもある。
つまり、ひとひねり、効くのですネ。
『自由研究にひとひねり追加するには、比較、の要素を入れる』

これで、小学生の自由研究は、バッチリでございます。


例)

テレビでゲリラ豪雨の報道をしていた。
ぼくの住む町でも、すごい夕立があって驚いたことがある。
いつもの通学路がすっかり水たまりになっていたよ。
お父さんに聞いたら、「地球の天気がどんどん昔と比べて変わってきた」んだって。
そこで、ぼくの誕生日のむかしの天気をしらべてみたよ。

☆過去の天気
https://weather.yahoo.co.jp/weather/jp/past/

10年前の8月1日(ぼくの誕生日)→ 天気晴れ、最高気温28度
9年前の8月1日(ぼくは1歳の日)→ 天気くもり、最高気温27度
8年前の8月1日(ぼくは2歳の日)→ 天気豪雨、最高気温32度
・・・
降水量は年を追うごとに増えていってるのが分かりました。
気温も、10年間で傾向を見ると、少しずつ上がっていました。


この場合は、テーゼとして、お父さんのひとこと、があります。
「昔とちがって、今の天気はおかしくなってきとる」

これ、大人はだれも、気に留めない発言なのですが、
まだ生まれて10年の子どもにとっては、「へえ、そうなの。本当かな」と調べたくなることです。
そこで、ぼくの誕生日の過去のデータを調べて、お父さんの話に、ひと手間加えるわけですナ。



では、高学年はどうでしょう。

実験してみたくなっている高学年の子は、パターン2がおすすめです。(つづく)

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夏休みの自由研究、相談にのる

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夏休みが近くなってくると、

「先生、自由研究なにしようかなあ」

という相談が増えます。

わたしがいつも言うのは、

「図書館に、ボーッとしながらいたらいいよ」

です。



図書館で、なにも決めずに、ボーッとしながら突っ立っていると、

どこからともなく、本が呼んでくれます。
「おーい、おれを読みなよ」
「いやいや、わたしを読んで」
「こっちがおもしろいぞ」
「わたしはすてきな本よ」

呼んでくれた本の背表紙を、ともかくじっくり見てみます。
すると、なんだかそいつとじっくりとつきあってみたくなる。

なにしろ、自分で選んだのではないのですから。
本が、自分を呼んでたわけで。



そういうと、子どもは馬鹿にして、

「本がしゃべるわけがないがー」

と、ぷんぷんしながら、行ってしまいます。

わたしは追い払うことに成功し、ホッと胸をなでおろしながら、
あわてて次の時間の授業の、ちょっとした準備をします。



すると、しばらくしてその子がやってきて、

「この本借りた~」

と報告してくれます。

どうしたのか、ときくと、自分で図書館に行き、
本が呼んでくれるのを待っていたらしい。

わたしは驚いて
「本が呼ぶわけないでしょう」
と思わず口にしてしまいましたが・・・


子どもの方は、


「なんとなく、シャボン玉で実験したくなった」

とか、

「葉っぱの色をしらべることにした」

とか、

「おじいちゃんの家が四国だから、うずまきの実験することにした」

とか、

あれこれと思いつくらしい。


結論。


図書館は、ひらめきの冷凍庫。
解凍しようと思えば、なにか出てくる。



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【4年理科】夏の大三角形でロマンチックな学習に

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① 七夕伝説って知ってる?

七夕の話。
だいたい、なんとなく知ってる。
知らない子もいる。

そこで、織姫と牽牛の話をする。
一年に一度、会える。

8月、夏休みの後半、夜、空を見てみると、
織姫と牽牛が、ちょうど真上にみえる。
夏の大三角形が、天球の真上に見える。


② 教科書にある、「夏の大三角形」の意味を知る。

教科書の「夏の大三角形」を、ノートに写す。
星に名前がついていることを確認する。
大きさや明るさが微妙にちがっていることを確認する。


③ 星座早見を渡す。

星座がたくさんあることを知る。
星座をみつけて、ノートに箇条書きにしてみる。
速い子は、5分程度で40個ほどもみつけて、書いている。
星座とは、夜空に絵がうかびあがるのではなく、星と星とを人間の想像で
線でむすぶと、形がイメージされてくる、ということを知る。


④ 今晩の夜空を印刷しておく。

今晩の夜空(インターネットで検索可能)の天球図を印刷しておき配布する。
子どもたちにはさみで切り取らせ、ぼうしのようにかぶらせる。
方角と星の位置をみんなで確認する。
「これ、今晩の夜8:00の、星の位置なんだよ。その時間だけしか使えないけど」
「え、そうなの」
「なんだ。じゃ、夏休みは使えない?」


⑤ 星座早見が、日時や場所を問わず使えることを知る。

星座早見の使い方を伝える。
日にち、場所の確認方法を伝える。


⑥ さそり座にまつわる神話を話す。

暴れん坊のオリオンに怒って、大地の神ガイアがさしむけたのが毒サソリ。
サソリが毒針でグサッとひとつき、あわれオリオン命をおとす。

その証拠に、オリオン座は、サソリ座が夜空にあがってくると、西の空へと隠れてしまう。
「今でもオリオンは、さそりから逃げつづけているって話なんだって」

早見をぐるぐるとまわして、みんなでさそりとオリオンの追いかけっこを楽しむ。
さそり座の赤い目玉が、「アンタレス」という星だということを知る。


⑦ こと座のベガを知る。

竪琴の名手、オルフェウスが最愛の妻を亡くし、さまよううちにその琴(こと)とともに、夜空にあがって星座になった伝説。
「大神ゼウスは、オルフェウスの琴を拾い上げて、夜空に浮かべました。星たちがその琴をとりまいたとき、ふたたび琴が美しい音色を響かせ始めます。静かな夜には、今でもオルフェウスの琴から、うつくしい調べがきこえているそうです。」

⑧ 星座早見を光らせる。

星座早見が光るので、太陽光にあててから、部屋の電気を消し、カーテンで暗くする。
蛍光塗料が塗ってあるらしい。
星座が光ると、

「わー、さそりが光った!!」

しばらくしてまた電気をつけて、 みんなの様子をみる。
興奮状態。

再度、部屋の電気を消すと、さっきよりも目が暗さに慣れてくるのか、

「あ、もっと見える!」
「星、光ってる!!」



このあと、もっと星の勉強したいねえ、というと、みんな

「うん、明日もやろう!!」

4年生って、ロマンチックな勉強ができる学年だねえ。


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【4年・社会科】消防署の授業

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学校が火事になったら、どうするかなあ。

〇火を消す。

だれが消すの?

〇給食室の人とか、近くにいる人が消す。
〇大人が消す。

みんなはどうする?

〇逃げる。

大人はどうやって消すんだろう?

〇消火器で消す。

消火器はどこにあるの?

〇えっと・・・
〇学校のどこか。
〇給食室には、たくさんありそう。
〇廊下にあった気がする。
〇図工室の前で見たような・・・

では、校舎内のどこに消火器があるか、しらべてこよう。
校舎内のいたるところ、まんべんなく、消火器が置かれていることがわかる。


この他に、消防の設備、火を消すための設備があるだろうか?

〇火災報知器がある。
〇教室の天井に、なにかついている。火を感知するやつ。
〇消火栓もある。


火が大きすぎて、消火器で消せないことがあるよね。
そんなときはどうしますか。


〇電話!
〇消防署に電話する!


消防車がやってきたとします。
さて、学校の、どこに車を停めるでしょう?


〇火の近く。
〇あんまり近くじゃないんじゃない?
〇水の近く。
〇プールの近く?


たしかめたいねえ。
どうやったら、たしかめられるだろうか?


〇電話して聞いてみる?
〇消防署まで、行って、教えてもらう。
〇手紙を書いてみたい。



ちなみに、消防士になりたい人、いる?

〇・・・いない。
〇え、考えたことなかったけど、いいかも。
〇うん、いいかも。


今度、みんなで見学に行こう。

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【職業】「失敗してはならない」ということ

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「わたしは採用試験を受けるべきでしょうか」

という問いが出てくる背景に、なにがあるのかな、と思う。


硬い、職業意識が、隠されてはいないだろうか。
ぜったいに仕事選びに失敗してはならない、という怖れで、
やわらかい感性までもが、ガチガチにこわばってしまっていないか。


人生を、大切にしたい、というもの。
みんな、そういう気持ちがある。
あって当然。


仕事とは何か。
人生とは何か。
職業を選ぶ、とは、どういうことなのか?

そういうこと、よく調べる時間もないから、
とくに若い時は、職業辞典のようなものを見て、
「仕事で、何をするか」ばかり、頭に入れている。

そのうえで、自分で納得し、選択していく力が残っていればいいけど。
仕事の種類を頭に入れただけで、エネルギーを消耗し、へとへとになってる。



ふりかえると、わたしの職業選びの、なんという軽いこと。

小学校で軽く俳優をめざし、
中学校でなんとなく小説家をめざし、
高校生になってようやく、

「自分は落語家になろう」

と決めることができた。

ただし大学生になって急きょ落語家を延期。
そこからはもう、書くのも大儀なほど、転職ばかり。
牛を飼ったり、研究所に勤めたり・・・、教師もいつ辞めるか分かりません。


これは、ネ。

つまり、なにをしようか、自分はなにがしたいかな、と、ずっと考えているっちゅうことだね。

それは、自分しか、自分の心がよく分からないので、自分がみてあげるしかない。



あ、そうか。

「わたしは採用試験を受けるべきでしょうか」 というのを、

あかの他人であるワタクシに質問をするってのは、

たぶん、こんなブログを書いている人に、

ちょっと背中を押してもらいたい、ってことだろうね。


よーし!!

背中を押したろう!!



「あんたは受けるべきやでぇ!!!
根性いれて、しっかり頑張らんかい!!
あんじょう、したらんかーいッ!!!



・・・どうでしょう?こんなもんで?


ouen_man

【教員採用試験】を受けるかどうかで悩む人へ

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長い間、ブログを続けていると、採用試験関係の悩みごと相談も舞い込む。

ブログページの、メッセージ機能で、わたくし、新間へ簡単なメールが届く仕組みになっています。

しかし、このような質問に、ほとんど、何も回答できずにいます。ごめんなさいネ。
「わたしは採用試験を受けるべきでしょうか」

結論から申し上げますと、それはおそらく神様さえも、ハッキリしたことは分からないのじゃないでしょうか。

〇小学校の先生は、やりがいがありますか。→
 他の人は知らないですが、わたしはやりがいがあります。

〇小学校の先生は、タノシイですか。→
他の人は知らないですが、わたしは楽しいです。

〇小学校の先生は、たいへんですか。→
他の人は知らないですが、わたしはほんの少したいへんです。ストレスって、0(ゼロ)だと健康的じゃないらしいですよ。

〇小学校の先生が向いているかどうか、どうしたらわかりますか。→
10年ほど、やってみるしかないと思います。それと、向いていない人はたぶんこの世にはいないと思います。どんな人も、その人の味が出て、その味において、子どもたちはかけがえのない学びをするはずで、親に向いていない親はいないし、人間に向いていない人間はいないので。




「よい人生」というのを、なんとなく想定して、あれこれと気になっていらっしゃる様子。

分かります。理想(こたえ)を追い求めたくなる気持ち。だれにもあります。

ただし、理想(こたえ)はなくてもかまわないし、理想がなくてもみんな幸福でいるのが理想なので・・・。

職業にも、答え、なんてものは、無いでしょう。

ぜんぜん、期待する答えになっていなくて、申し訳ないですナ。


ともかく、あなたは、

〇教師に向いていて、医者に向いていて、保育士に向いていて、技師に向いていて、プログラマーに向いていて、農場主に向いていて、商売人に向いていて、経理に向いていて、大臣に向いていて、ひよこの雌雄鑑別師に向いている

・・・はずです。

なぜなら、この世に、向き不向きは『無い』ので。

で、あなたがあなたの人生において、なにをしていても、バッチリOKなのです。

フハハハハ・・・

lamp_majin

第六感、の話。

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担任というのは、子どもの顔を年中みているので、

ちょっとした表情の変化などを、感じることがある。

また、休み時間に子どもが校内のいろいろなところへ探検していても、

なんとなく、あのへんに〇〇くんがいやしないか、と勘のはたらくことがある。


職員室へ向かう途中、校舎の隙間から、予想通り、

〇〇くんの顔がのぞいて、ふと目があったりする。

予感がどんぴしゃの場合、自分でもおおー、と思う。

こういう情報というのは、脳内のどこでどう処理されているからなのか、

自分でも不思議だ。



わたしのクラス以外の子も、そのへんをテクテクと歩いているわけで、

その中にまぎれた自分のクラスの子を、まだよく見もしないうちから、

サッと感知できるのは、いわば特殊な能力だと言えましょう。(傲慢にも程が)




特殊能力と言えば、嫁様のことで、感心することがある。

嫁様は、すごいことに、ネコの尿意を、事前に察するのである。

「あ、おしっこしそう」とつぶやき、赤ん坊ネコをひょいと持ち上げて

トイレに連れていくことができる。

猫ははたして、その後、すぐにおしっこをするのである。

これは、わたしにはできない。

「まだ何もしていないうちに、なんでわかるの」

「わかるんよ。なんとなく」


事前に他人の(猫の)気持ちを感知できるのは、ほとんど、魔術としか、思えない。




近所に津村さんという、鶏を長年飼っていらっしゃる方がいる。

その方は、10代の終わりから、人生のほとんどを、鶏とともにすごしてきた。

そして、早朝から昼まで、ほとんど毎日、きわめて高速に鶏の羽をつかむ仕事をしていた。

もし、鶏の羽を背中からわしづかみにする回数を正確にカウントできたなら、

その回数において、とっくにギネスブックに載っている、という人であります。



その方は、ごくふつうに、

「あの子はちょっと風邪をひいてて調子が悪いナ」

と、たくさんの鶏のなかから、調子の悪い子を、見極めることができる。

「どうしてわかるんすか」

「うーん、顔の表情かな」


にわとりに、顔の表情があったのか・・・。

この事例など、人間の特殊な感知能力の凄さを示していると思う。





このように、人間というのは、なんだかしらんが、

ある関心事を、つきつめて、つきつめて、つきつめていくと、

神経のシナプス細胞が、その触手をひょろひょろと長-く、伸ばしていくようで、

凡人には計り知れない、あるセンサーを鋭敏に、『ど発達』させることができるらしい。



ちなみに、わたしは、ほとんど誤差なく、A4のコピー用紙を、30枚ほど、ずばっと、つかみとることができる。

たぶん、30枚の厚みを、指が覚えたのだな。

30枚というのは、クラスの人数分ね。

毎日のように、30枚だけ、宿題のプリントを刷っているので、感覚が覚えてしまったらしい。

ときおり、2枚とか3枚、ミスすることがあるけど。

人間の感知能力って、ちょっとすごいよネ~。(自分で言うな)


落語家

多様は「一つ」の証拠

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子どもといっしょに、図書室で図鑑を読む。

小学校の図書室には、高級な図鑑が何種類も置いてある。

「ポプラディア」の大図鑑とか、知ってます?

・・・絵も写真も、すごい量ですよ。

きっと、予算が潤沢なのでしょう。(国の将来を考えたら、スバラシイことだ)



そこで、ふと疑問に思うのは、

「なんでこの世の中は、こんなにも多種多様であるのか」

ということ。


この疑問は、幼い時から、ずっとわたしの心の中にある。





図鑑のページをめくるたびに、

こんなにも色とりどりの、

こんなにも大小サイズの異なる、

こんなにも複雑で形のちがう世界が展開されていくことに、

めまいを覚えるほどだ。

子どもも、どうもそうらしい。




わたしが必ず図鑑を一緒に読む、Sくんは、

「先生、図鑑読もう」

と、図書の時間に誘う。

わたしが図鑑好きなのを知ってるから、ネ・・・。




そこで、お互いに、

「うぉッ!!」

だの、

「これ、すげー」

だの、言いながら、ページをめくりあう。



最後におなかがいっぱいになったような気分で本を閉じ、

「いやあ、すごいねえ(世界って)」

と、顔を見合わせる。



「先生、今度は動物じゃなくて、魚を読もう」

「ごめん、もう動物だけでおなかがいっぱいになった」

「あそう」

Sくんは、ひとりで、魚図鑑をめくりはじめる。




図鑑を読むことの面白さは、見終わった後の、

「うーん、多種多様すぎる・・・」

という、一瞬、クラクラするような、頭の中の振動の『余韻』を味わうことだ。



なぜこれほどまでに、生物というのは、そして地球環境というのは、

多種多様なのか。

神様がひとりでつくったと西洋の人には信じられているらしいが、

神様もひとりで数百万種類の昆虫を考え出すのは、相当な苦難としんどい思いをしただろう、と思う。




そして、ふと、

もともと、世界は一つだから、多種多様なんだなー、と、思う。

もともと一つでなければ、こんな多種多様にはならんもの。
お互いが、お互いの存在を決して許さず、滅しあうだろう。

一つだから、「多様」と存在し、
多様だから「一つ」、と言えるのだろう。

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4年国語・『一つの花』発問集

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初発の感想をきく。

〇かわいそうな話だと思う。
〇ゆみ子がかわいそうだった。
〇戦争しているから、かわいそう。

みんな、口々に、かわいそう、という。

「あ、そう。この話、かわいそうな話だった?」
「うん」

そこで、最初の発問を考える。

「どんなふうに、物語を深く読んでいけるか・・・なにか、考える糸口は・・・」
「だれがいちばん、かわいそうか、は?」
「じゃ、そうしよう」

うちのクラスの、最初の学習問題は・・・
いちばんかわいそうなのは、だれ?

ゆみこ派
・まだ小さい子なのに、いろんなことをがまんしなきゃいけないから。
・最初に覚えたのが、ひとつだけ、だから、よっぽどがまんしているから。
・お父さんの顔を覚えていないから。

お母さん派
・お父さんが帰ってこないので、ひとりでゆみ子を育てていくことになるから。
・ぜんぶゆみ子にゆずってあげていて、自分はほとんど食べられないから。
・戦争中で、いろいろとたいへんそう。

最初は、ゆみ子派とお母さん派が多かったが、音読をくりかえすうちに
お父さん派もでてきた。

お父さん派
・戦争に行って自分が死ぬかもしれないから
・戦争に行くけど、家族をのこしていかなきゃいけないから、もう会えないかもしれないから
・ゆみ子に、なにか買ったりあげたりしてあげたいけど、コスモスくらいしかあげるものがなかったから

手をあげさせると、初日、2日目までは、お母さん派が多かったが、3日目からダントツでおとうさん派が増えた。

つぎに、考えてみたいところは・・・

お父さんがプラットフォームから汽車にのって戦地へ向かう場面。
なんだかしっくりこないところがあるけど、どう?


〇あるある。なんで、なにも言わずに行っちゃうのか、というところ。
〇それと、最後はゆみ子の顔をみると思うけど、そうでなく、花を見ながら出発しちゃうところ。

じゃ、2つめの学習問題は・・・
なぜ、お父さんは、一つの花をみつめながら出発したのだろう。


・ゆみ子を見てると、悲しすぎるから。
・特別なプレゼントだったから。
・この花は、お父さんの代わりだよ、忘れないでね、という思い。
・最後のプレゼントだったから、おれの代わりにゆみ子を守ってね、という思い。

共感できるのは、
「忘れないで」と、「守ってね」。
子どもたちは、どちらの意見も、共感できる、に手をあげた。

「これは、どっちかには決められないと思うな。どっちの思いも強くあったと思う」
「ぼくもそう思う」


「しかし、そもそも、なんで花なんだろう?花を大事にするんだよう、って渡したけど」
「花くらいしか、そこの場にはなかったから」
「生きている花だったから」
「ゆみ子に、似合うと思ったから」
「びんにさして、家にかざって、家の雰囲気を明るくしてほしかったから」
「プラットフォームのはしっぽに、忘れられたように咲いていたから、忘れちゃだめ、という気持ちに合ってた」
「花に、願いをたくしていると思う」

じゃ、3つめの学習問題は・・・
「お父さんがゆみ子に本当に大事にしてほしかったものはなにか」


・お父さんの愛情
・お父さんの記憶
・お父さんはゆみ子を愛しているよ、ということの証拠
・生きていく、ということ
・たったひとつの、いのち
・ゆみ子は死なないでね、ということ
・笑顔
・家族で幸せになっていくんだよ、ということ


とくに、3つめの発問では、
ふだんあまり発言しない子が、堂々と
「いのちだと思う。お父さんが願うのは、たったひとつ、生き残ってくれ、ということだと思う」
と、力強く発言していたのが印象的だった。


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プールがなぜ好きか

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子どもがプールを好むのはなぜか。

プールで、かならずしも、遊ぶわけではない。

わたしの授業は、矢継ぎ早の指示が出て、

どんどんと泳ぐ。

まるで水泳教室のように。



だから、

「あらま先生の水泳授業は、忙しすぎる!」

と文句が出てもおかしくない、と思っている。

「授業でこんなに疲れるなんて!プールなんだから、もっと遊べると思っていた!」

と、ね。



だけど、やっぱり、文句はでてこない。

かわりに、

「もう終わり?あしたも入りたい!」

である。



なんで、子どもはプールが好きで、水に入りたくてたまらないのだろうか。


そこで、教室で尋ねてみました。

「なんでそんなにプールに入りたいの?」

すると、子どもが答えてくれましたぜ。




「え?だってふわふわして、たのしいじゃん!」



へー、そうなのかー・・・

キーワードは、

ふわふわ!!




そういえば、ねこもふわふわ、ぬいぐるみもふわふわ、

カステラもふわふわ、ふとんもふわふわ、パンケーキもふわふわ、

雪もふわふわ、じゃぼん玉もふわふわ、




そういや、子どもって、

ふわふわがみんな好きだわ!!


ケーキ

先生たちの「お茶談義」

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20分放課、職員室で。


ふと見ると、

仲の良い先生が、

「このお茶、おいしいんだよね」

というような調子で、ごくごく、飲んでいる姿が目に映った。

教室の中って、暑いよねー・・・


子どもも水筒の水を飲んだり、

校庭の水道でも、ごくごく飲んでいるようだ。

われわれ職員もこの、むし暑い陽射しのもとで、水分補給につとめなければならない。


その先生が飲んでいたのは、

あまちゃづる茶

というものらしく、少し飲ませてもらうと、なんだかほんわかと甘い。

「いいでしょー。ストレスにいいんだって」

「へー」


そこへ、また別の先生が現れて、マイボトルを見せながら、

「これ、クマザサ茶っていうのよ」

という。



なんと、その方は、パンダのように、ササの茶を飲んでるのだった。

わたしは「笹茶」の存在は、知っていた。

なんだか、わたしのおばあさんは時折飲んでいた気がする。

子どものとき、祖母から飲ませてもらったときは、くそまずく、

「二度と飲むものか」

と思ったほどだったが、今回それを分けてもらい、

幾人かのそこにいた先生たちと共に賞味してみると、



あれ、意外に飲める!



と思った。

(慣れてくれば、いけるかも)






わたしはいつも、夏のシーズン中は、麦茶を持参する。

子どもたちも水筒を持ってきていることが多い。

教室の子どもたちに、

「なにが入ってるの?」

ときくと、ほとんどが「麦茶」であった。




麦茶に、麦わら帽子、麦の酒。

夏はいろいろと、『麦』に世話になるのであった。



麦、ありがと~!!


今日から、7月。

いよいよ、夏です。


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「悪口」について

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悪口を言われて、

「お前、おれを馬鹿にすんのか!」

と怒鳴る。



あまり、子どもにはない、どちらかというと大人にありがちな会話かと。

しかしたまーに、子どもにも、そういうことがある。

たぶん、本とかテレビとかの影響でしょう。

「お前、おれを馬鹿にすんのか!」

もしかしたら、おうちで、お父さんが言ってるのを聞いたのか、

お母さんが言ってるのを聞くのかもね。

こういう言い方や、セリフを放った後のキレぐあいとか。

どこかで学習してる、ということ。




昨日も、AくんとMくんの間で、そういうやりとりがありました。

Aくん、大泣き。

Mくんも、なにか理由があったらしく、

「だって、Aくんがバカなんだもん!」と。




そこで、みんなで話し合う。

するとですね。

ふだんから話し合っていることが、じわじわと堆肥のように効いているのか、

「えー、そんなの、影響されなきゃいいじゃん」

という子がいる!



シュミレーションをして、

A 「 ばーか 」

B 「なにィッ!こんちくしょう!!ばかとか言いやがってッ!おれを馬鹿にすんのか!」



これを、何人かのペアに、やってもらう。

俳優のレベルがいろいろとあるが、名演技だと、自然と拍手がでる。

いわゆる、キレ芸、というやつに近い。


「どう?言ってみた人?感想は?」

「なんか、言うと、いやになる」



B のセリフを放つと、いっきに心のエネルギーはまっさかさまに急降下する。

「言った後、5から1に下がった」

などと、いう。



「なんで下がっちまうんだろうねえ」

「ばかって言われたから」

「それで、なんで下がるんだろ?」



あーだこうだ、と20分ほど、みんな好き勝手にしゃべって、

「ばかって言われたら、下がるよねえ」

「言い方にもよるかな」

「顔の表情じゃないの。にこにこしながら言われても、あんまり下がらない」

「お前の心の中を下げてやる、という感じで、ばーか、というと、下がる」




あれこれとしゃべったあと、

「やっぱ、どうしたって下がる」

という子と、

「いや、べつに、下がらない」

という子に、意見が分かれた。



下がる子は、

「いや、馬鹿にされたんだし」

下がらない子は、

「だって、下がりたくないから」

「ばかって言われてもサ、にこにこしてさ、いいよ、ばかでも、って言ったら」




こうやって話し合って、とくに結論もなく、

ふうん、どうしてバカって言われて、いやな気持になるのかねえ、と、ハテナのまま。



当初、この話題の提供者であったAくんも、最後には、

「おれも、馬鹿って言われて、下げるの、やめよっかな~」

「なんで」

「だって、下げるの、いやだもの」

だって。

面白いのは、この話の発端をつくった、Mくんの方が、

「そうだよ。馬鹿って言っただけなんだから」

と、すました顔で言ったこと。


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