30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2017年06月

好きな人のためなら

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以前から、この「感じ」は、言いようが無い、と思うことがある。

それは、子どもが、「意気揚々と」、手伝ってくれる時の、あの感じだ。

顔が、光り輝いている。

そして、目が、楽しくて仕方がない目になっている。

用事が終わりそうになる、その前に、すぐに、

「先生、これが終わったら、次は?」

と、聞いてくる。

他の子が頼まれそうになると、

「ぼくもやれるよ!先生!」

と、自分を指名してくれるように頼む。


そこで、

「あ、〇〇さんは、こっちやってもらおうと思うの。Mさんが、あっちに運ぶでしょう。そしたら、そのあとに、残っているこれだけを、別の箱に入れておいてほしいのよ」

と、自分の活躍場所が指名されると、これがもう、なんともうれしくて仕方がないようで、

「うん!わかった!!!」

と、もうさっそくとりかかろうとする。



この感じ、なんでしょうね、もう、


「あなたの言うことを、願いを、聞きたくて、聞きたくて、添いたくて、添い遂げたくて、一緒に居たくて、一緒に話したくて、一緒に見たくて、一緒に笑いたくて・・・・」


こんなような、オーラが、もうそこらじゅうに、いっきに、ばらまかれている感じ。

そして、そのオーラが強烈であるがゆえに、クラス中が、ものの15秒も経たぬうちに、そっくりそのまま、その雰囲気に染まり切ってしまう。



先生は、これが嬉しいのだな、というのを、発見したときの感じ。




学校では、これをやることになっている。

学校では、これをやることが、ルールになっている。

という、行き方ではない。

子どもは勉強をするものだ、クラスの仲間を大切にするものだ

という、道徳規律で、言うことを聞いている、というのとも、ちがう。






好きな人のためなら、とことん。


そんな感じがする。



そういう、子どもを相手にしていることの、


なんともいえない、「恐ろしさ、畏れ、怖さ」というものを、感じる瞬間であります。



(好きな人のためなら、というの、これが、人間の持つ、最大のパワーなのかもな、と思う)

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子どもが先生の世話をする

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ずいぶん昔のことですが、学校で、「給食残飯グランプリ」というのがありました。

給食で、おかずやご飯が、残ります。

すると、その残滓の量をはかるんです。

お昼の放送で、

「今月、残滓の少なかったクラスは6年1組でした!おめでとうございます!」



いや、食べ残しが少ないのは、あっぱれなことです。

それは、それで、「素晴らしい」。

しかし・・・。




これ、おかずを残すと、担任の先生が叱るのです。

そして、缶をカラにすると、めちゃくちゃ褒められる。

すると。

今度は、そのことが、子どもたちの一番の関心事になってきます。




6年生ともなれば、知恵がまわるので、

残滓を巧妙に処分して、何食わぬ顔。

食缶をすっかり空にしてから、給食室に返してます。

給食室の先生から、

「さすが6年生、空っぽだね!!えらい!!」

なんて、言われて・・・。

(実は担任にナイショで、階段下のトイレに流してます)

つまり、食缶を空にするのが、目的化しちゃう。

子どもたちなりの、保身術なのだね。

でないと、先生たちの機嫌が悪くなるから。




残滓の多いクラスも発表されます。

すると、つらいですよ・・・。

ただ、放送で、

「◯年◯組は、もっと食べ残しを減らすようにしましょう」

と、言われるだけですが、

なんだか、全校にさらし者にでもなったみたいで、いやなものですよ。

放送を聞いて、いちばん、いや〜な顔をするのは、もちろん担任の先生。

子どもたち、その顔を見て、

「やべえ」と。




残さず食べるのは良いことだ。

そこまでは、分かる。

みんなの体が元気な証拠だもの。

だが、しかし。

つぎに、 「良いことだから、やれ」となるところが、ヘン。

上からかぶせていく感じが、ヘン。




アメとムチで、経営をしていると、

子どもたちはどうしても、逆の視点で動くようになります。



本当はその気もないことなのに、

〇〇しないと、先生の機嫌が悪くなる、

〇〇していかないと、先生が困る(おかしくなる)、

〇〇していかないと、学校全体として、まずいみたい。


と考えて、

「まあ、仕方がない。このシステムにつきあうか・・・」



これ、子どもが先生や学校の世話をしてるのですナ。


縄文時代25

職員室でも話題!ブラタモリの「愛知」編

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ブラタモリで、タモリさんが名古屋に来た。

名古屋城と熱田がクローズアップされていた。

しかし、そのキーとなっていたのは、なんと

徳川家康!!




岡崎市民にとっては、

わが、家康公、である。



家康の、したたかな未来を見通す目。

まちづくり、国づくりの視点。

ブラタモリを見ていると、その意味が分かってくる。

家康公の偉大さを、万人が知ることになる。

ブラタモリ、あなどることのできない、すばらしい番組だ。



さて、堀川は南に向かって海までつづいていることは、名古屋市民に限らず

みんな知っていることだろうと思うが、

まさか、堀川をつくる工事が、

家康公の名古屋城づくりと同時に始められたとは、知らんかった。


ビバ、岡崎!!

ビバ、家康公!!



わたしは、愛知県岡崎市の教員であることを、誇りに思う!

いえ

夢や希望が、無くても許される社会へ

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道徳の副読本。

夢とか希望、とか、強調しすぎ。

と、思うときがある。

道徳の資料に、「夢」を語る、というのがありまして・・・。




するとネ、子どもたちみんな、

ほぼ全員が、『職業』を言うのですよ。



あれ?

夢って、職業のことだっけ?

と。



必ずしも夢が、職業名とフィットしてない子もいるだろうに。

人間って、「職業」がやりたくて生きてるわけじゃないのにね。




副読本が、あまりにも性急に、「夢を持て」と煽るから、

子どもたちみんな、職業を言っちゃう。

夢とはなにか、ということを考えないまま、

ともかく、

「言え、言えよ、あるだろう、ほら、言え、言って!!」

と、焦らせる。

だから、

「え?夢?なんだ?夢ってなに?人生?は・・・?分からないけど、なにか・・・あの、サッカー選手!

言い終わった子は、

「いいでしょ? もう、きちんと言ったのだから」

という顔をしている。




「この人生をどうしていきたいか、

そして、これから、

 どんな社会をデザインすれば、

あなたが幸福に生きられるだろうか。

 自分と周囲の人と、どのような関係でいることが大事だと思うか。

その社会であなたは、どう生きていくつもりか」




そういう感じのことは何も無いまま、職業を言わせて、

「はい、夢がきちんと考えられましたね!」

と、なるわけがないよね。




夢を言うのが良い、ではなく。

その前に、頭も心も、うんと安心できるように、なっているか。

安心している子にしか、夢は見えてこない。




夢も希望も、なくても生きていける社会があればいいなぁ。

夢のある人はもちろん、

「今はまだ無い」という人もふくめて、どんな人も幸せに暮らせる。

「夢?必要ないね」

という人も、幸福に暮らしていける。

そのための条件をそろえておく、というのが、社会のデザインだ。

そんな社会であって、ようやく、子どもも安心して、はじめて、夢を語り出すことができる。


誰かに責められるのを防ぐための夢、

将来の不安から逃れるための夢、

夢を持てないことの恐怖から遠ざかるためだけの夢、

体裁、世間体、親の機嫌をとるための夢、

「それを言わなければならない」と思い込んでの夢、なんかではない、

本当に本当の安心に包まれたところからの、夢を。




子どもに向けて、「努力して幸せになりなさい」というのが、いちばん、嘘。

嘘で塗り固めた上のとどめの一撃が、

「あなたが幸福になれないのは、〇〇が足りないから」

というやつね。



とびだせ!子どもたち!

「褒める」が分からない話 その2

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いつのころからか、「ほめる」は、不要、と思い始めた。

それまでは、要る、と思っていた。

必須、と思っていた。

だから、わたしが教室経営をうまくやっているとしたら、その原因は、

「子どもをうまくほめているからだ」

と思っていたことまである。

それくらい、今の教員は、「ほめる」に頼っている。

「ほめるから、うまくいくのだ」というふうに、これはもう分かちがたいものとして、考えているのが、今の多くの教員だと思う。



しかし、ガラリと考えが変わってしまった。

「ほめる」を特に意識しないでいても、ふつうに暮らしていることができた。

子どもに何かしよう、という意識よりも、子どもに

「どうする?」

と聞いていることが多かった。

子どもからの言葉は、たくさん出てきたけど、最終的には、

「そうかー。先生はこう思う。こうしてほしいな」

というと、子どももすんなりと、

「先生がそう思うなら」

と、クラスが進んでいった。



学んだのは、

子どもに、何かを「思わせよう」としなくても、ちっとも教師は困らない、ということ。

「こうしてほしい」

と伝えれば、すべてがOKだった、ということ。

子どもは、大人の言うことを、案外と、聞きたがっている、ということ。

また、子どもがそうしなくても、こっちは困らなければいいのだし・・・。



まったくストレスのない、教師と子どもの関係がある。

(関係と言うのかな?)



そのときに、「ほめる」 は、フェードアウトして、舞台の上から、消え去ってしまった。

私の頭の中からも、気持ちからも、スーッと消えてしまった。

褒める、ということについて、考えなくても良くなってしまった。

もう、子育てや教育のことを話す時に、私は

「褒める」

という言葉を使わない。

「叱る」もね。


しっかり褒める
しっかり叱る
どっちも要らない。



どっちも要らない子育て。


そのかわり、
子どもの不安を取り除く子育て。

気持ちを、きちんと伝え合う子育て。

「こうしてね」(ねがう)

「こうしたよ」(なにかする)

「そう!オッケー!良かったね!」(うれしい)

跳び箱だって やった!

「褒める」が分からない話

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教育現場において、

「褒める」ほど、難しい言葉はないと思う。

おそらく、「ほめる」という言葉の中には、とても多くの事例が含みこまれている。

だから、わたしは、「ほめる」という単語を、使うのに、躊躇してしてしまう。



本音を言うと、ネ。

子どもや大人の関わりのなかで、

「ほめる」が広すぎて、雑すぎて、あまりにもおおざっぱで誤解を招くから、

『言葉』としての寿命を感じるというか、もう、使えない気がしている。


担任の心の状態って、それこそ千差万別、いろんな場合がある。



褒めるのが良い

褒めましょう




と結論を出した気でいるけど、


その、言葉をかけたくなった担任の、心構えや考え、背景は、どうか?


○喜ばせようとしての言葉がけなのか。

○それとも、「喜ばせよう」とはちがう言葉がけなのか。

○教師の「評価」なのか。

○教師の「ねがい」なのか。



いろんな意味で曖昧なのに、

先生どうし、お互いに

「褒めましょう!!」

と言い合っていても、

その内容や質が、フワフワしていて、

本当に実現したい子どもとの関係が、

ちっとも、つかめないまま。




先生たちどうしで、

「なんで褒めるのか、褒めるとは何か」

と、話したこと、ないものなー。




うれしい~

相手の満タンは、分からない

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相手が満タンになるポイントを、すべて把握できれば良いが、現実的ではない。

大人も子どもも、相手がいったい何によって満タンになるのか、知りようがない。

つまり、本当に相手の心が満タンになるポイントというのは、

他人にはざんねんながら、分からない、ということのようだ。



そこまで話し合うと、声かけもかわってくる。


「ねえ、ちゃんと満タンにしてる?」

友達どうしで、言い合う場面がでてくる。

わたしがあなたに親切にしてあげる、

というだけでは、相手が満タンになるとは限らないから。






子どもどうしだけではなく。


担任が、朝から仏頂面で教室に入っていくと、

クラスでいちばん成績の良い、いわば「できる女子」が、わたしに向かって

「先生、満タンにしてから教室に来てよ」


というときもある。



わたしは面倒くさいので、無表情のまま、

「満タンだよ」

と言う。


女子たちは、あやしんで、

「いーや。なんだか、あやしい」

と断言し、

「なにが忙しいの?読書して待っててあげっから、これからやれば」

と言ってくれる。

「いやだいじょうぶ」

「ほんとうに?」

「本当に大丈夫。さ、朝の会をはじめましょう」

「ホントに~???・・・じゃあ、先生、かっこいいね!!!」



最後のは、せめてわたしの心のエネルギーを上げようと、苦心してくれているわけ。

・・・くぅ、泣ける。(仕事は減らないけど)


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満タンタイムには満タンにならない

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満タンタイムは2分間しかなく、朝の忙しい時間にがんばってやりくりする。

しばらくつづけていると、

「先生、満タンタイムを延長しようよ」

とか、

「満タンタイムは短すぎるから、長くしたい」

という意見が、かならず出てくる。


たしかに、2分間は、短い。

あっという間である。

もうちょっとやれたら、目盛りももっと上がりやすいのに。

だれしも、そう思うものらしい。



しかし、時間は限られている。

みんなでいっせいにとる時間は、2分しかとれないよ、という。

「えー」



しかし、『2分間のみ』を、つらぬいていると、徐々に変化が出てくる。

朝の2分間に、すわったままで、メモ帳にメモする子もいる。

子どもなりに、知恵を働かせるらしい。

「今日の予定」

を、自分で考案し、あれとこれと・・・と、計画案を立てているらしい。

どれも、満タンになるための方策である。




朝の2分で、劇的に目盛りを10まであげる、というのはむずかしい。

しかし、1時間目が終わったら、つづきをやればいいのだ。

中休みの20分に、つづきをやればいいのだ。

そう、思っている子は、相当多いと思う。



あとで、つづきをやろうっと。

そう思っておくだけで、目盛りはかなり、上がる。


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けんかの起きる前はどうだったのか

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けんかの起きる前。

こころの目盛りは、いったいどこにあったのか。

10を満タンだとして。

子どもたちは、全員が、

「0とか1とか」

という。



え、そうかなあ。



「だって、メモリが10のところとかだったら、ちっとも気にならないもん」



そもそも、目盛りが10のところだったときって、これまでにそういう経験、あるの?


ほとんどの子が、

「うん、あるよ」

と、ふつうに言う。



これは、大人には少し衝撃だろう。

大人はどう頑張っても、5か、6かを維持するので精いっぱい。

あっという間に目減りする元気を、どうにかして維持したいのだが、

〇仕事のストレス
〇評価が気になる
〇締切が気になる
〇上司に叱られた
〇子どもが反抗する
〇同僚が病気になった
〇近所とのつきあい

等々・・・。

どんどんと、目盛りは下へ、下へとさがっていく。

目盛りが8や9だったのは、遠い10代、20代の頃。
はるか昔の、青春の思い出だ。

結婚すれば、目盛りが5あれば良い方で、
育児に疲れ、仕事に疲れ、人間関係に疲れ、

「とてもじゃないけど、目盛りが10なんて、虚構としか思えない」

という暮らしをしているのだから。

子どもが、いともたやすく、底抜けに明るい表情で、

「うん!今、目盛り最高!10だよ!」

なんていうのを聞くと、にわかには信じられず、

「嘘だ。ぜったい嘘・・・。10なんかになるわけがない。人生は重き荷を背負いて行くがごとし」

と、青ざめ、やつれた表情で、誰にも聞こえないようにつぶやくだけだ。



念のため、子どもたちに尋ねてみると、

「朝起きると、たいてい、10だよ」

という。


子どもというのは、なんとお手軽に、

目盛り10!

を、手に入れるのか。



そうして、朝の時間に仲の良い友達と、たっぷりおしゃべりして遊んだあとは、
こころの目盛りは、ちゃんと、10になっている。


その10の、最高レベルの、MAXご機嫌なときに、

友達が消しゴムでも落としたら、

拾ってあげたくなる。


目盛りが10あれば、

機嫌の悪そうな子が「バカ」と言ったって、

まったく平気。



逆に、

「だいじょうぶ?」

と、声をかけてあげたくなる。


だって、わたし、目盛り10だもの。

最高の気分!!

・・・て、わけ。


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自分のために時間を使うことの恐怖

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毎日、いろいろと話し合っていると、

なにかの流れで、

クラス全員、幸福になりたいと願っている

と、判明することがある。



そんなもの、人間だもの、当り前じゃないのか、と思われましょう。

しかし、実は、「幸福」という言葉ほど扱いにくいものはないので、

きちんと解明してみないことには、分からない。
クラス全員が、「満タン」になりたいと、願っていたこと

このことに、改めて気づいて、へ〜〜、となる。

「はー、やっぱり」





で、意外なのは、

「え、先生も?」


ということであります。


小さな子どもたちからすると、

まさか、先生も、満タンがいいとは

ということもあるようで・・・。

「えっ?先生も、なの?・・先生はもういいんだと思ってた」




大人はスーパーでスペシャルなので、

もうそんな領域はとっくに超えていて、

満タンになりたいなどとは、思っていないのではないか、とどこかで思っているらしい。




もう一つ、意外なのは、

「学校では、そんなふうなことは考えちゃいけないと思っていた」

というもの。


堂々と、満タンタイムをやってしまうことに、どこかしら、

「え?こんなに堂々とやっちゃって、いいのかなあ」

と、はばかるものがある。


学校とは、苦難に耐え、ひたすらにどこか遠くにある目標をめざして歩むところ。

だから、今、自分の内面をFULLにすることなど、とんでもない堕落した行為だと、

子どもも、どこかで思っている。



「本当に、満タンになってしまって、いいのだろうか・・・」

すでに7歳、8歳にして、これを思い悩む子がいるのですが。

自分のために時間を使うことの恐怖。

この恐怖、要る?

family_happy

お母さんが困るのは・・・なぜか。

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登校しぶり、と言われている子がいました。

子どもたちが登校する玄関ではなく、職員が通る通用口の玄関があります。

そこに、親子が2人で立っていました。

つまり、他の子といっしょの児童用玄関からは、入りたくなかったのでしょう。

たまにそういうケースもあるので、わたしも「ああそうか」と事情を汲んで

挨拶しながら、学校の建物に入ろうとしました。




すると、そのとき。

お母さんが、苦しい顔つきで、子どもの手を引っ張りながら、

「お母さんだって、困る!」

と言ったのが、聞こえたのです。




子どもは泣いていました。

子どもの足は、動きません。

子どもは、何も言いませんでした。



お母さんは、これからお仕事へ向かおうとされているのでしょう。

スーツ姿で、ビシッとされていました。

営業なのか、事務なのか、どんなお仕事なのか分かりませんが、

朝の8時です。これから出勤しないと、間に合わない、という時間なのでしょう。



お母さんだって、困るんだから!!



お母さんは、確実に困っていらっしゃったようです。



〇子どもは困っている。
〇お母さんも困っている。


そこに、観音さまが現れて、2人を救ってくれたらいいのですが。

ところが、この場面には、2人しかいないのです。

あ、もう一人いた。

先生です。

見ると、先生も、苦痛にゆがんだ顔をしています。

〇先生も困っている。

3人3役、3者全員、困っている。




あんたが困っていると、わたしだって困るわよ。

と、全員が思い合っているのです。

ヘビ → カエル → ナメクジ の3すくみ状態に近い。


子ども「お母さんが困るって言ったって、そんなこと言われてわたしが困るじゃん!」

母「子どもが困るって言ったって、そんなこと言われてわたしだって困る!」

先生「子どももお母さんも、2人で困ると言い合っていたら、わたしだって困る!」




優先順位を決めた方がいい。

この場合は・・・???







どう考えても、大人が子どもを理解するのが優先でしょうナ。

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「喝を入れなけりゃ、いかん」という件

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座禅を組んでいるところへ坊主が現れて、長い棒で

ビシッ

と肩を叩く。

すると、肩を叩かれた修行者はお辞儀をし、居住まいを直し、また座禅に集中する。



あの棒は、集中力が途切れたとき、そのことを親切に教えてあげるための棒らしい。

名前を、「警策(けいさく)」という。



おそらく、日本人の、相手を「ビシッと叱る」というイメージは、ここからきているのではないだろうか。

ちなみに、禅堂内で警策は文殊菩薩の手の代わりであると考えられている。

つまり、警策で打つという行為は、坐禅修行が円滑に進むようにという「文殊菩薩による励まし」という意味を持つ。

それゆえに、打つ側、打たれる側の双方が、警策を「与える」・「いただく」前後に合掌低頭し、お互いに感謝の意を表すことになっている。



打つ側は、一生懸命に座禅に取り組むものをコントロールしようとし、

場合によっては、「いい姿勢」であることを伝えるために、励ましの意味で打つ場合もあるらしい。

また、「自尊心をめちゃくちゃにすることもできる棒である」ということを自覚する者にしか、

打つ側に立つことはできない、という。

つまり、コントロールする、というのも、相当な覚悟がないと、できない仕事なのであろう。

逆に言えば、コントロールする、という世界に居る以上、間違いを犯す危険を常に自覚しなければならないのだ。




では、コントロールをあきらめると、どうなるのだろうか。

「秩序が無くなり、コミュニティが無茶苦茶になっちゃうのじゃないのか?」

その不安が恐ろしくて、みんな、お互いのコントロール、操作しあう間柄をやめようとしないのかも。



朝の時間に、まんたんタイムを取り入れている。

この「まんたんタイム」は、教師による子どものコントロールなのだろうか。



しかし、考えてみれば、人生の一番大事な仕事が、自分を満たすことのような気もする。

だとすると、

相手がいようがいまいが、

相手が指示しようがしまいが、

周囲の人にもほとんどまず無関係に、

コントロールするしないの世界、とは一切関係なく、

自分が心から望んでするのが、「満タンタイム」であるようで、

「満タン」と「コントロール」って、まじわらないのでは?


という気がして仕方がない。

座禅

ひいきをする、という件

.
「クラスの先生がひいきをする」

と相談があったら。


まず、わたしなら、

「困ってるの?」

と聞く。



もしかしたら、ただの報告だけ、かもしれないからだ。

うんと困った感じをもってるのか、そうでないのか、それによってもかける言葉が変わってくる。


もし、当人が

「困っている」

というのであれば、当人に言いたいことがあるだろうから、最後まで口をはさまず、話をきく。



「自分は困っていないけど、友達が困っている」

というのであれば、

「ああ、そう。その先生の都合で、ときどき、先生の言うセリフが変わるのだネ・・・。あくまでもこっち(子ども)には関係なく、クラスの子がどうか、とは無関係に、大人の都合でそうとしか動けない、という事情だろうから、ま、あんま気にすんなヨ」

くらいかなー。


こっち(子ども)の側とは、無関係。

ぜーんぶ、それを(セリフを)言ってる、言う側の趣味の問題よ。

その個人の趣味になんて、付き合わなくてもいいんじゃないの?



それによって、気持ちを左右されたり、こっちの気分が上下するってのも、変なカンジ。




あくまでも、先生の悪い趣味。

「ひいきするのは、先生、その子に嫌われたくないのかもね」

このくらいの話は、中・高学年なら、通じる。



「今はそういうことのある先生、なのかもしれないけど、みんなはその先生のことが、本当は、好きでいたいでしょ」


「自分がみんなだったら、ほっとく!」



と、アドバイス(?)をすると思いますネ。


人生、ほっとけばいいってことが、意外とたくさんある、とネ。

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講演会が充実しすぎた・・・

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今週は記事を書けていないが、どうも自分の中で、講演会の存在がとても大きかったようだ。

記事を書かなくても、なんだか人と通じた感が強くあり、

「なにも書かないでも、通じてるかも!!」

と思い始めている・・・。



たぶん、このブログも、

大きな役割をひとつ、終えたのではないか?



講演会の中で、わたしはたぶん、こんなことを言った。

「今日のように、大人の人たちの前で、堂々とわたしの経営信条(叱らないで・・・)を言えたのは、夢のようだ」

と。


あれは、本音です。


「まさか、こんな日がくるとは」

とも、言った気がする。




なぜか。

これまでは、


もしかしたら、誰にも通じないまま、ずっとこのまま教員人生を終わるのかもな


と、どこかで思っていた。

ま、それはそれで仕方のないこと。

わたしとしては教員の立場でやれることをやるだけ、と。

・・・

ところが、だ。

会場に行ってみると、みなさんがとてもあたたかく、わたしの言うことを、許容してくれる雰囲気。

あんたの言いたいこと、伝わってるよ

とでも言いたげな顔で、にこにこと私を見つめてくれていた会場の多くの人がいた。



もしかして、伝わってるのか???


そう思うと、帰りの電車の中で、わたしはずっと、

シーン

というか

ジーン

というか、

なんだか温かい、とてもしっかりした手ごたえのようなものを感じていた。


手をとりあって、握手してもらった感じ?


会場の一人ひとりの方に、本当にお礼を言って回りたいくらいな気がする。





でも、まあ、10年間。

ずっとこうして、ブログにつぶやきつづけてきたので、

今日からも、ちょっとずつ、また子どもの楽しい姿を、ここでつぶやき続けることができたらいいな、と思っています。

みなさま、本当に、ありがとうございました。


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鈴鹿市講演会、ありがとうございました!

.
三重県は鈴鹿市のお弁当屋さん社長、岸浪さんに声をかけていただき、

セミナーの発表者をしてまいりました。

おふくろさん弁当の岸浪さんいわく、

「叱らない、責められない」で検索していたら、

新間草海さんのブログがヒットしたので、読みました、とのこと。




今回は、わたしが

教員としての立場で、学級経営の視点から子どもの世界の「責められない」を、

岸浪さんが、

社長係としての立場で、会社経営の視点から大人の世界の「責められない」を、

それぞれ語ることになりました。



2人が同時に、それも連続して、視点を共有しながら話すことで、

そこに、「人間がだれしも願っている、心の満たされることへの欲求」が浮かび上がってきたようでした。


わたしが話すことを、岸浪さんが

「こころのまんたんを、わが社でもやっている」

と、拾ってくれました。

聞いているうちに、そうか、そうだな~、と思って、頷くことが多かったです。

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こんなふうに、会社の社長さんと出会うことなどめったに出来ることではないと思っていたので、

一教員のわたしはとても有意義な出会いを頂けたのだと思っています。


『教員は世界が狭い』

と、批判されることが多いです。

異業種の壁をこえて、さまざまな分野の、さまざまな方から、多くの学びをいただきたい。

そしてそれを、子どもの育ちへとつなげていくのが、われわれの本当の仕事かな、と思いました。

会場へお越しいただいたすべての方にはもちろんのこと、

岸浪さん、奥様の知子さん、そして準備に関わっていただいたすべての方に、

感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。


ありがとうございました。



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いよいよ明日!おふくろさん弁当の岸浪さん

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いよいよ、明日だー!

おふくろさん弁当の、岸浪さんに会えるのが、一番の楽しみ、かな。

講演が決まってから、『おふくろさん弁当』の本を読んだ。

いや、むちゃくちゃ面白い!!



従業員を責めないんだって。

叱らないんだって!!

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自分と共通項を見出すことができるだろうか。

もし、あるとすれば、それは何なのだろうか。


岸浪さんは、社員と、会社経営。

わたしは、子どもと、学級経営。




おふくろさん弁当は、大人の世界。

教室は、子どもの世界。



どちらも、「責め合う」のない社会がやれるのだとしたら、

そこには人間の、何が引き出されていると言えるのか。



自分は、教室の子どもたちの様子を話すだけだけど、

岸浪さんとのトークも予定されている。

岸浪さんが、「叱られない教室」に質問をしてくれるとしたら、

何に着目して、どんな「問い」を投げかけてくれるだろうか?

そこが、一番の楽しみ!!


わたしも、「おふくろさん弁当」の世界に、「問い」をぶつけてみたい。



愛知県の片田舎から、お隣の三重県まで、
なかなか行く機会はなかったけど、
こんなふうに、興味のあることで出かけていけるのは、
何だかとても、わくわくする。



ご近所の方、ぜひお越しくださいね。
(遠方の方も、ぜひどうぞ!!)

6月10日(土)15:00開場 15:30開始 17:30終了予定
会場 鈴鹿カルチャーステーション
参加費 事前申し込み800円 当日1000円
主催 NPO法人鈴鹿循環共生パーティ・子育てセミナー実行委員会
共催 おふくろさん弁当・一般社会法人鈴鹿カルチャーステーション
後援 鈴鹿市
申込み先 お名前と連絡先を鈴鹿カルチャーステーションまで電話かメールでご連絡ください。
TEL 059-389-6603  E-mail scsoffice@scs-3.org


セミナー

モンシロチョウ?気持ち悪い!!

. 教室の中に、8匹のサナギがある。

モンシロチョウが、このうち今日、4匹も羽化した。

羽化の瞬間を見た子もたくさん。

「ふかした!ふかした!」

と言っているので、

「ふか、じゃなくて、羽化(うか)だよ」

と教える。





教室で蝶が舞っているのは面白いが、算数や国語も、そのつど中断する。

「羽がきちんとのびるまで、じっとしてる」

教室のいろいろなところで羽化するので、休み時間はいたるところで、観察会である。



「さわっちゃいけないんだよ」


と言う子。

なぜかときくと、

「粉がとれて、蝶が弱るから」

だって。

どこかできいてきたみたい。

それをきいて、みんな、さわらずに見ている。




「先生、次のサナギはどれかなあ」

「あ、色がかわってきてるよ!」

「うっすら、見えてるよ、白い点みたいなのが!」





3年生の時に、観察したはずだが、やはりまた、4年生でも観察すればするほど、発見はあるみたい。

モンシロチョウの観察は、3年生でやる。

文科省はそう決めたけど、4年生でやっちゃいけない、という理由にはならないよね。




最初、蛹をみて、「気持ち悪い!」

と反応した女の子も、興味津々でみている。



最初の1匹目の蝶がとびたった瞬間も、

「こないで!!キモイ!!」


と言ってたけど、もう4匹目となると、

「あ、飛んだ!!いってらっしゃーい!!」

と、笑顔で見送る余裕も出てくるようだ。





とくに、こんなふうに、

「むし!!きらい!!」


って言っちゃうような子が、

「ちゃんと飛んでね!!」

とか、蝶を応援するようになるってのが、とても不思議。



虫から、なにかを、感じるのかねえ??

体験の質が問われることって多い。

同様に、体験の量も見直してみたい。

3年生のときとは、また違う観察を、4年生になって、する子もいるから。


「モンシロチョウの観察は、15歳、中学卒業まで継続して行う」

というふうに、

学習指導要領に記載して欲しいくらい。



モンシロチョう

「それができたら、苦労しませんよ」

.
新間先生のいうことは分かります。

でも、それができるんなら、だれも苦労しませんよ。

そう、言った途端、何が起きるか。

脳に、フィルターがかかる。


「それは、むずかしいこと」
「それは、ほぼ不可能なこと」
「それは、特別な人しかできないこと」


たった一言、「それができたら苦労しない」と、言うだけで、
すぐにこれだけのフィルターがかかる。



わたしは、心底、驚く。

同じ人間だ。

同じ、だよ。

変わらない、本当に同じ、人間のやることだ。

人間のやることを、「人間がやる」というのは、当り前のこと。

だれかがやったことを、自分もやることができる、と考えるのが、ふつう。

少なくとも、やれる可能性はある、と考えるのが、ふつう。



それはできない!

と、とってもあっけなく、自分の脳に言い聞かせちゃってるようだけど、

それに気づいてない。

「叱らないでもいい?はっ、そりゃ」

その人は、肩をすくめて言う。

「新間先生、先生の言うことは理想ですよ。それができたら、だれも苦労してないですよ」



わたしは、何も言わない。

その人は、そう思ったんだから。

その人の感じ方は、自由で、それをくつがえすことは言わない。




だけど、頭のどこかで、


もったいない


と思ってます。



「そりゃあ理想論ですよ」

理想だから実現しない、という考えの筋道のわけは、

前もって、自分自身に向けて、きちんと言い訳をしておく、という感じなのかもね。



↓ 写真は、空気で走る自動車。

air-CAR

人の反応をみるのは楽しい?

.
日記に、やんやんつけぼー、と書いてあった。

なんのこっちゃ、と思った。

子どもが、

「先生、知らないの。お菓子だよ」

いっしょに隣にいた友だちも、

「知ってるー。チョコをつけながら食べるんだよね」

だと。



日記によると・・・。


先日、やんやんつけぼーを、弟と、取り合ったらしい。

お母さんが、一つだけ、幼稚園のパーティか何かでもらってきていた。
「兄弟で、とりあって食べました。

ひとつずつ、取っては、つけて、カリカリ食べる。

弟と、競争のようにして食べて、カリカリ、カリカリ。

あとひとつ、最後のひとつ。

わたしが取ったら、弟がすっごく悔しそうに、

「あ、とられた!」

と言った。

わたしは、そのとき、ちょっと笑えてきて、嬉しかったです。」

「嫉妬するのはつらいけど、されるのは、なんだか嬉しいということを発見しました」


(それ、嫉妬というのか・・・?)


先日の、道徳の授業 「うらやましい」 のつづき、らしい。

わたしはその日記を読み終わって、目の前のその子に

「へえ、なんで、人からうらやましがられると、笑えてくるんだろうねえ」

と言うと、

その子は、黒板消しをはたく係の子が取りに来たので、黒板消しをわたしてあげながら、

「うーん、そうやって人が反応するのが、楽しいのかなあ」

だって。


なるほど。

人間の反応って、ぜんぶ、おもちろいのかもネ。

「うらやましくなる」って、自分もそうだもの。きっとあの人も、そうだよね。

みんな、そうなのだ。

かわいいよね。

ぜんぶ、おままごとみたいなものだもの、ナ。


img_001

【道徳】嫉妬するとなぜ、つらい気持ちになるか

.
友達の新品の靴に、じょうろで水をかけた事件が発生しました。

「せんせい、Mくんが、ぼくの靴に水かけた!」

理科係のMくん、本当はキャベツに水をやるのですが、

「掃除しようとして、たまたま、かかっちゃった」

ということのようです。

「くつ箱を掃除しようと?」

「絶対、わざとだ」


かけられた子は、なんだか不信な感じですが、

まあまあ、その場はおさまったような風。



道徳の授業で、

「うらやましい」


をやりました。



うらやましいときのこと。

弟がうらやましい。
姉のことがうらやましい。

「お姉ちゃんだけ、ずるい」

ずるい、という感情。

これは、クラス中、ほぼ全員が手をあげて言いたくなるくらいの話題です。

「だって、先生、聞いてよ。ホント、おねえちゃんだけズルいんだから!!」

・・・

そこで、あれこれとみんなで考えて、45分。



・・・


最後に、
「なんで嫉妬すると、つらくなるのだろう」

子どもたち、ノートに書いたあと、すぐに挙手。

「ハイ。自分のことが情けなくなるから」

「ハイ。相手のことを好きになれなくなるから」

「ハイ。自分のことを大切にしていないから」

ポンポンと、よく出てくるなぁこの子たち、と思う。


最後に、道徳ノートに書くのですが・・・



あとで見てみると。

Mくんのノートに、靴を濡らしてしまったこと、書いてありました。

赤い、かっこいい靴があった。

いいな、と思った。

その後、なにか不思議な力が働いて、

手にじょうろを持っていたので、

ちょっと濡らしちゃったんだって。

「しっとすると、いやな気持ちになりました」

悲しい顔マークが書いてありました。

悲しい顔


ルールをつくりたい子

.
Fさんが、

「先生、給食のおかわり、ルールを変えませんか」

と話しに来た。


4年生になったらルールがなくなっちゃったので、
復活させたい、と言う。

「3年生の時と同じルールがいいです」


それは、おかわりルールというべきもので、
おかずを減らした人は、おかわり禁止とする

というルールなのだそうだ。


なぜそう思ったのか。

先日のこと。
給食のデザートで、フルーツポンチが出た。

隣の席のSくんが、あろうことか、他のおかずをかなり減らした。
野菜とお汁をかなりの量、減らしたらしい。

Fさんは、そのとき、

「Sくん、今日は食欲ないのかなあ」

と思ったそうだ。


しかし!

おかわりの時間になったとたん、Sくんはすぐに行動し、余っていた

フルーツポンチを、お皿の上に山盛りにして、喜び勇んで席にもどって、

「どや!フルーツの大盛り!」

と言った。



Fさんは、許せないと思った。

「だって、フルーツポンチをたくさん食べたいからって、野菜を減らすのは、ダメでしょう?」


そこで、3年生のときのように、クラスのルールをきちんとしたい、というのだ。

「野菜を減らした人は、おかわり禁止にすればいい。そうすれば、みんな野菜も食べて、本当に欲しい人だけがおかわりをすることになる」

Sくんのような、不当なフルーツポンチの享受をゆるしてはならない、ということらしい。




「わたしがおかずを食べ終わって、フルーツポンチのところに行ったら、少なくなっていたもん」

Fさんが、Sくんを恨む気持ちもわかる。

Sくんは、何でもダイレクトに大声で反応するタイプ。
フルーツポンチを遠慮して、少なくするなんてことは絶対しないタイプだ。

「わー、フルーツポンチ!!!たくさんゲットーーー!!」

それを、隣の席にも、うしろの席にも、前の席にも、斜め前の席の子にも、
みんなに見せたくなる、そういうお人柄。

「ほらみて!山もり~ッ♪!!」




Fさんが、フルーツポンチの恨みを忘れることは当分、なさそうだ。

「ねえ、先生。公平なルールをつくった方がいいよ」

「あ、そう。そうかなあ」

わたしは、腕組みをして考える。

「フルーツポンチ、人気だものねえ」

「そうだよ、みんなだって、Sくんはとりすぎだって、言ってたよ」

「うははは」

わたしは、つい大声で笑ってしまう。

Fさんの、フルーツが食べたい気持ちが、痛いくらいに伝わってくる。




「よし、わかった。今度、フルーツポンチが出たら、Fさんに大盛りにしてあげよう」

「え、ほんと。でも、みんなから、ずるって言われる」

「いいよ。先生の分をあげるから」

「わーい」

これで、もうご機嫌で、すっかりルールのことなんて、言わなくなりましたぜ。

「今度、フルーツポンチが出たら、おかわり欲しい人がどのくらいいるか、みんなに聞いてみてからにしようね」

「うん」

fruit_punch


先生、ねむい。

.
Aさんが、授業中、少し、寝てた。

「先生、Aちゃん、寝てる」



Aさんにきくと、

先生、ねむい。

というので、全員で10分寝ることにした。

「カーテンしめて!」

「ヒャッホー!」

「電気けそう!!」


寝よう、と言っただけで、このハイテンション。

もう、目は完全に冴えている様子。




カーテンをしめると、すこし暗くなる。(でも昼間だから明るい)

「みんな、しゃべらないで!」

と、ふだんは、とーっても、おしゃべりなFさん。

「キャハハハ」

「Fさんが、しゃべらないでって、言ってるよ!」

と、ふだん、本当にすごいおしゃべりな、Uさん。

「よし、だまろう」

「ようし!!しゃべるなー」

「よし!!!!気合を入れて寝よう!」

「ウハハハ」


子ども同士、おたがいに、そんなことばかり言ってる。



静かになって10秒後、くすくす、笑いが起きる。

くすくすが広がり、ゲラゲラになるのに、30秒ももたない。


「みんな、笑い過ぎ!」


リーダー格のHくんが、顔は完全に笑いながら、みんなをいさめようとする。



「よし、本格的に寝よう!」

ふたたび、静寂が訪れる。

・・・

とつぜん、Sくんが、

「先生、寝れないわ。子守唄をうたって」

「キャハハハ」


爆笑がつづく。





はい、約束の10分が経ちました。

睡眠、終わりです。

「なんだか、保育園のときみたい~」



おめざめは、いかがですか?

「うん。快適」



わたしは、可笑しくてならない。
みんな、ちっとも寝てないのに。


子どもと話すというのは、こういうことのくりかえし。



写真は、「森は生きている」より。

omijika





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