30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2017年05月

消しゴムをひろってくれる人【道徳授業】

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落ちた消しゴムを、拾う。

自分が落とした消しゴムは、

「あ」

と思って、拾う。

なんでひろうのかな。

「自分が使うから」



となりの子の消しゴムが、落ちた。

それを、自分がひろう場合は・・・。

そのときも、

「あ、ひろおう」

と思って、拾う。

なんでひろうのかな。

「自分は使わないけど、〇〇くんが使うから」

「〇〇くんだと、なんでひろうのかな」

「え?なんで?・・・考えたことない」



なんで、消しゴム、ひろうのかな。

となりの〇〇くんの消しゴム、なんで拾うのかな。



「理由は無いけど、拾いたくなる」

わたしが意地悪く、

「えー、理由はなんか、あるでしょう」

と煽ると、

「えー?」

「理由?ある?」

みんな、口々に言って、混乱する。



「やっぱ、理由ない」

「あ、そうだ。わたしが踏んじゃうかもしれないから」


わたしは、さらにつっこむ。

「踏んじゃうかもしれないと、なんで拾うの?」

「えー??そこまで考えるの?ええーっ??」



なんで拾うのかなあ。

拾ったって、拾わなくったって、どちらでもいいのに。

拾いなさい、と指示されたわけでもなく、

拾わなきゃならん理由もなく、

拾うからトクとか、一切無いのに。



〇〇くんに、どう思われるかが気になるから、拾う?

「えー?ぜーんぜん!!」



じゃあ、いったい、なんで拾うのか??



ぼくら、なんで、ここにいるんだろうか。
こうして、いっしょに、ここにいる理由って、なんだろう?



こういうことを考えた後、とくに結論はでないけど、

教室の中の空気は、かなりしっとりと、いい雰囲気です。

みんな、機嫌がよくなって、満足しています。

道徳の授業をした後は、こんな空気になるから、おもしろい。

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「困らない」への道 その2

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(「困らない」への道 その1より つづき)

教師になってからは、仲間に恵まれた。

現場の、同じ職員室の仲間や先輩にもめぐまれたが、

なによりも、同じ地域ですごす、気の置けない友人たちがいた。

わたしの話に、親身になって、耳をかたむけてくれた。


わたしがときおり、

「学校の話、きいて」

と出すこと、こんなこと考えてる、ということ、深呼吸するように、思って出すことを、

家族の居間のような雰囲気で、何度もきいてくれた。

その座談会の場所を提供してくれていた、宿のご主人もいた。


また、なによりも、わたしを育ててくれたのは、子どもたち。

ていねいに話をしていけば、それが通じているよ、と答えてくれた。

こんなふうにしていきたい、と伝えれば、いっしょにやろうよ、と応えてくれた。

先生、こんなふうにしたいよ、これがおもしろいよ、と教えてくれた。

幸福でありたい、と毎日わたしに伝え続けてくれ、教えてくれたのは、子どもたちである。



さらには、このブログも大きい。

気づくと、もう10年になる。

ほぼ毎日のように、書き続けてきた。

これが、わたしの「ひとりごと」。

わたしが想像した人へ、なにかわたしの言いたいことを、受け取ってくれそうな人を想像しながら、

毎日ここでこうやって書き続けて、頭の中のことを表しつづけていると、

ふと、だれかに通じているような気がして、落ち着いて初心(というのか?)に

かえることができる。


なかには、ときおり、コメントや励ましのメールをくださる方もいる。

三重県には、そんなわたしを呼んで、「いっしょに話をしよう」と言って下さる方たちも、いる。



書いてきてよかったなあ、と、このことでも、そう思える。

書きながら、自問する日々。

今は、着実に、明るく、ひたすらに心地よい道を、歩んでいる。



先日、また、わかい大学生から、メッセージをもらった。

ブログを見て、という人。

教師になろうかどうか、と思っているそうだ。

「教師がブログを書いているのはいろいろみたが、こんなふうに教室の風景や出来事、教師の心理を描写しているブログは、少ない」とのこと。

自分なりの理想をめざして、たのしみに毎日勉強している、らしい。

ぜひ、「困らない自分」で、進んでいってほしい、と願う。


がんばれ!!

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「困らない」への道 その1

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わたしが困らないようになったのは、幼いころに受けた経験もあるし、

また、10代、20代に周囲のいろいろな人や事象から、学び、影響を受けてきたからだと思う。

30代になり、ほぼ、

「これは、人生、困らないでも行けるかもな」

と思い出して、

教師をめざすようになったのは、そのように、

「困らないようになった」

ことが、ひとつの大きな条件だったろう。

もし、困るようであれば、教師にはならなかったろうと、ふりかえって思うことがある。

また、困るようであれば、多くの人に相談しただろうが、

わたしはほとんど、相談もせず、自分で必要と思われることをひたすらやりつづけた。

これも、今思えば、

「困らない」

ということが、自分にあったからだろう。

もし、困るようであれば、周囲の人に相談しまくって、結局は「やめたら」と言われて、やめていたのではないか。
〇30代
〇家族持ち(嫁さまと赤ん坊)
〇貯金なし
〇免許なし
〇高卒

この条件で、たった今から教師を目指します。

というのは、ふつうに考えれば、困る要素に満ちている。

もし、試験に落ち続けたら・・・
もし、採用されなかったら・・・
もし、勉強時間がつくれなかったら・・・
もし、免許がもらえなかったら・・・
もし、一か月間の教育実習に行くことができなかったら・・・


こういうことに、「困る」ようであれば、最初からやらない。
『困らない』からこそ、挑戦し、課題をクリアし、教師になった。


わたしが30代になってから免許も無いのに結婚し、子どもが生まれてから教師をめざした、というと、

「すごい強い信念で、夢を追い続けたのですね!」


と、感心して言って下さる方がいた。



ところがネ。

強い信念なんて、もったことがない。

そうではない。

誤解です。

強い信念など、不要なのです。

必要なのは、

「困らない」

ということ。


ほとんど、世の中の課題というものは、この一点で、のりきることができるのだろうと思います。(つづく)

のけぞる

子育て応援フェア「つながる子育て in おかざき 2017」

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久しぶりに、わたしの住んでいる岡崎のことを。

いよいよ来週にせまってきました。

子育て応援フェア「つながる子育て in おかざき 2017」が開催されます。

市内で活動する子育て支援団体が集まります。

ワークショップやステージイベントなど様々。


なかなか、たのしい一日になりそうです。

こういう情報交換の場は、とてもいいと思います。

顔見知りが増えるのも、ちょっと楽しみですよね!

小さなお子さんをお持ちのお母さんお父さん、親子でぜひ遊びに行きましょう!




開催日時:平成29年6月3日(土) 午前10時~午後3時
 場 所:図書館交流プラザ りぶらホール・お堀通り


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三重県で講演

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ブログを読んでくださっている方のご厚意により、

三重県の鈴鹿市でお話することになりました。

どんなお話ができるか、わくわく・・・。

お近くの方は、ぜひお越しくださいネ!


6月10日(土)15:00開場 15:30開始 17:30終了予定
会場 鈴鹿カルチャーステーション
参加費 事前申し込み800円 当日1000円
主催 NPO法人鈴鹿循環共生パーティ・子育てセミナー実行委員会
共催 おふくろさん弁当・一般社会法人鈴鹿カルチャーステーション
後援 鈴鹿市
申込み先 お名前と連絡先を鈴鹿カルチャーステーションまで電話かメールでご連絡ください。
TEL 059-389-6603  E-mail scsoffice@scs-3.org


セミナー

おかあさん

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どの子も、お母さんのことになると、真剣に作文を書く。

どの子も、自分のお母さんはとくべつに、いい、と思っている。


お母さんの誕生日に、なになにをしてあげた、というのを、子どもが日記に書いてくる。

すると、お母さんはとてもよろこんでくれた、と、たいていは書いてある。

兄弟が3人いて、いちばん上のお姉ちゃんは、〇〇を、

中のお兄ちゃんは、〇〇を、

わたしは〇〇をしてあげました、と書いてある。



詳細が記してあり、

上のお姉ちゃんのプレゼントについては、お母さんはこう言った。

中のお兄ちゃんのプレゼントについては、お母さんはこう言った。

わたしがあげたプレゼントについては、お母さんはこう言ってくれた、と書いてある。

子どもは、言葉の端々まで、ぜんぶ、そのままきっちりとよく、聞いているのです。




夕飯のあと、お母さんが片づけをしながら、口笛を吹いていたので、

「おかあさんが口笛を吹いてる」と言ったら、

「あんたたちのプレゼントがうれしかったからね」

と言っていました。

そんなことまで、ぜんぶ、覚えていて、日記に書いてくる。



「うちのお母さんって、こうなんだよ」

ということを、聞いてくれる人が要るのでしょう。

だから、手近な、先生に話すのでしょうなあ。




お母さんのやることなすこと、みんな、嬉しいのですナ。

おかあさんは、やはり、特別だなあ、と、

教師生活を続けているほどに、その思いは深くなっていくばかりです。

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成功することが良いことだ、と教えると・・・

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こういう思いがあると、

「失敗しないで!」

と、どうしても

声をかけたくなるだろう、と思うのです。

そうすると、失敗を、非常に恐れる子に育ちます。




また、

一度や二度、失敗したって、どうっていうことはない。

という考えも、あります。




図工で絵を描いていて、すぐに

「ああ、だめだ。失敗かも」

という子と、

「まあ、だいたい、できたなー」

という子。



教室にはさまざまな子がいて、

できた、できなかった、成功だ、失敗だ、

という結果を、ことさらに重視する子がいるかと思えば、

いろいろと試せて、面白かったわー、とだけ、考える子もいます。



性格なのでしょうかネ?

物の扱いでも、ずいぶん違っていて、

実に気軽に、友達に自分の学用品や道具を貸している子もいれば、

絶対に貸さないし、自分の持ち物は潔癖といえるくらいにきちんと管理する子もいます。



漢字テストが90点だったとき、周囲が気の毒になるくらいめげている子もいます。

90点なら、いいじゃない、と友達に言われても、

「いや、全然、ダメだよ、こんな点数じゃ」

と、しぼんだ声で、嘆いています。



かと思えば、お気楽な雰囲気で

「さて、オレは何点でしょう?」と友達にクイズして、「60点!」 「あたり~」

なんてやっている子もいます。



こういう子どもが良い、というのではないのです。

貸すのが良いというのでもないし、貸さないのが良いのでもありません。

結果にこだわる方がよいとか悪いとか、そんなこともありません。



ただ、これはネ。

たぶん、親や先生に似たんだな、と思うんだよね。

子どもはどうしたって、周囲の人間から学ぶことが多いし、

ありとあらゆることを、影響を受け、選択してきたと思う。

だから、なおさら、子どものせいではないし、

良い悪いって話じゃあ、ないんだと思います。




大事なのは、おとなの頭の中。

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Sくんがいない日の・・・

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ちがう学年の先生。

いろいろとクラスの子が言うことを聞かないので、苦労していた。

ある日、とても快活な感じで職員室で過ごされている。

雰囲気が明るいので、いいことでもあったのかと、

あとできいたら、

「Sくんが、お休みだったので」

ということだった。




「あの子には、困る」

「あの子が難物だ」




そういう子が、クラスに数人いるのが、当り前だ、という感じがあるのかも。




ところがですな。

次の学年になったら、Sくんもそんなこともなく、

なかなか活躍することだってあるわけネ。

そういうパターン、結構、ある。

ちっとも、難物などでは、ないことも多いわけ。

これはどうしたって、教師が勝手に、

『難物化』

したってことになる。




勝手に難物化、という病が、教師にはあるわけで・・・。



Sくんが難物だったわけでなく、

先生の判断だったってこと。



「難物評価」をなくしましょう、というと、これは難しい。

「だって、難物だもん」と。

そうとしか、見えないのだから。

「見るな」と言っても、「そうとしか、見えない」のだ。

そのかわり、

「もっとあれこれ、よく見てみましょう」

というアプローチの方が、かんたんで、スッといける。



先生に、

「この子を、そんな目でみないでください」

というのは、苦しい。

「じゃあ、どう見ろというのか?」と、

わけが分からなくなる。

だから、

「もっと、よく見てみよう、さまざまな見方で・・・」

と語り掛けたほうが、効き目があるように思う。




見ない、というワザは、人間にとって、とても難しい。

癖がついているから。

その代わり、そのままを、見る、

きちんと見る、

という方が、

人間には習得しやすいのではないか、と思います。

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呑気な声で

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朝はできるだけ、呑気そうな声がでるように、訓練している。

授業中は、ハキハキ。
指示はわかりやすく。
遠くまで響く声で。明るく。

でも、朝の時間は、できるだけ呑気そうな声で。

朝。
まだ何もはじまっていない時間。始業まで、まだ15分もある、という時間。
教室に入ると、たいがいの子は遊びに行っていて、ほとんどいません。

数人が、のんびりしたムードの中で、ゆっくりと机の中に教科書をしまったり、
たわいない話をしたり、くつろいでいます。


そこに、ハリキリムードのわたしが、

「おはようございます!!」

と入って行ってもいいんだけど、
できるだけ邪魔をしないように、呑気な声で、

「あ、〇〇くんだ・・・。おはよう~」

と入ります。



3年生のとき、ずっと不登校だった〇〇くんが、学校へ来ています。

その〇〇くんが、しーずかに、ゆーくりと、

ランドセルから、いろいろと出しているのをみていると、

こういう声に、なっちゃうんだよね。




ハキハキと、いつでもNHKのうたのお姉さんみたいな声を出す気にはなれない。


のーんびりと、たんぽぽのわた毛を吹いているような子がいたら、

いっしょのテンポで、

こっちも、ゆーっくりと、

おっとりと、

したくなる。



たんぽぽ

コシの無い子

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タモリが昔、ラジオの中で

「やる気があるものは去れ」

と言ったってネ。

なんか、わかるわ。

だって、ただやる気があるのって、不健康だもの。




そのやる気、大丈夫?

やる気があるって、なにをやるの?

やる気がありますって、なにをするつもり?

なんのために?

それ、やれなかったら、どうなるの?

そのやる気、なくなったらどうなるの?



「笑っていいともは、スタッフにやる気があったら続かなかった」


だって。

タモリが

「すぐに終了すると思ってた」

といいながら、ずっと続いたのは、「やる気」がなかったから?


タモリは、NHKのブラタモリという番組の、讃岐うどんを放送する回の中で、こうも言った。

「コシがあるのは、ダメだねえ。人間も同じ。コシがあって、しっかりしているのは、だめ。コシがなくって、ふにゃッとしていないと」



コシのない子に育てる。

コシのない子は、しっかりしてない。
世間の価値観が、分からない。

その分、世の流行や世間体、損得や効率、
見た目や評判に左右されないから、飽きない。

飽きないから、ずーっとやっていても平気。
マンネリズムに強い。

その一方で、コシがないから、途中でやめても平気。
やめたら、次は、となる。
プライド無いから、すぐリセットできる。
リセット力に優れる。
リセットできるから、いつでもスタンバイOK、という雰囲気。

コシのない子は、居場所を限定しないで、ふらふらするから、
新しいものに遭遇する可能性の高い子。
そして、世間の評価と無縁だから、自分で「面白い!」を決められる。
コシの無い子は、まだ誰にも評価されていない世界にも、優しい目を向けられる。

つまり、
まだ、形の無い世界を、創造できる子。


今ある職業に、やる気をみせてる子もいいけど、
今はまだ無い職業を、創造できる子も、素敵でしょう?

コシのない子にこそ、その可能性があると思うなあ。


今、コシのある子も、みんなちょっとしたコツで、
コシのない子になれる。

コシのない子の、フラのある仕草をみるのは、人生の楽しみ。

写真↓は、福岡の「腰抜けうどん」。コシがないことを売りにしている。
腰抜けうどん

将来の夢と目標について

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目標を本当に立てられるくらい、しっかりしてる人は、

「目標とは、達成するのが目的ではない」ということが、

きちんと分かってる人のことだと思う。


達成できたら、素晴らしい。
大喜びすると、もっと気分がいい。
人生の中の、とっておきの楽しみだ。
しかし、達成するのが目的ではない。


学校で、読書目標というものが、決められている。

一人、何冊!
クラスで何冊!
達成しよう!
・・・と、呼びかけられる。


そこで、ある子は、

1年生用の絵本を30秒くらいでナナメ読みして、

「はいっ!!読んだ!!マルしよっ!!」

と、チェック表にマルしてた。


まあ、確かに本を読んだのは事実だけどナ・・・。


読書目標って、何だろう。



そもそも、目標って、何だ・・・。



これと同じ「匂い」のするのが、

将来の夢、というやつ。

夢は、「達成する」のが、目的ではない。



満たされない、という思いを、

「目標」にすがることで、満たそうとしていないか。

それが、明確でないとネ。

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テントウムシで学ぶ

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てんとう虫って、知ってる?

というと、なーんだ、そんなのみんな知ってるよ、と言う。

では、漢字で書いてごらん。

えーっ!!

「なーんだ、知らないじゃないの」



その後、

Yくんが、懸命に言った言葉が、衝撃でしたネ。


どんな虫か、見たことはあるけど、
どんな虫なのか、というのは、知らないよ。


知ってる、とか、知らない、とか、
難しいねえ~。
知ってるけど、知らない、というのです。



じゃあ、班のみんなで予想を決めて、書いてください。

わたしは黒板に、9つの枠を書く。

クラス全員で9班。

それぞれ、自分の班の意見を書きにくる。
4人の意見を一致させないといけないので、喧々囂々とやっているが、

「あと1分です」

というと、何とか仲間うちで折り合いをつけ、案を一つに決めてくる。


1) 点灯虫
2) 点頭虫
3) 点登虫
4) 点十虫
・・・



各班、それぞれ『点』という字を使っている。

ここで、わたしは朝捕まえておいたテントウムシを、かごから取り出す。

「あ、テントウムシ!」

いいですか。

この虫の、動きをよく見ていてください。

わたしはテントウムシを指にのせて、それから割り箸をのぼらせた。

てんとう虫は、勢いよく、わりばしをのぼっていく。

一番てっぺんにきたところで、わたしはわざと、わりばしをひっくり返す。

てんとう虫は、今度は一番下になったわけだが、負けじと向きをかえて、

ふたたび、わりばしを登りだす。


わかった!!!!

先生、わかった、わかった、ハイハイ・・・

子どもたちが、ほとんど全員、言いたいらしく、挙手してこちらを見ている。

教師は、こういうとき、心臓が止まりそうになります。

子どもの目の力、視線の力って、すごいですからね。



「では、やっぱりこうだ、と思う意見に、書き直してよいことにします」


言い終わるやいなや、子どもたちが前へ出て来て、
すごい勢いで、漢字を直し始める。

1) 点登虫
2) 点登虫
3) 点登虫
4) 点登虫
・・・


みんな、さっきの予想を消して、点登虫、と書き直した。


全員座って、わたしに、さもこう言いたげな様子。

どう?わたしたち、全員、合っているでしょう!

ニコニコ。




わたしはにやり、と笑って、



という字に、

×

をつける。

えーーーーーッ!!!



悲鳴ですな。

絶叫、と言ってもいい。


「もう一度、字を直してもいいです」


すると、またもや班の4人で、喧々諤々、あれやこれや、と言い合っていたが、

一つの班が、

「天登虫」

と書いた。


みんな、それを見て、

おおおう!!!!


という雰囲気。

あっという間に、黒板が、

天登虫


でうめつくされる。



そこまで言ってから初めて、


では、正解を書きますよ。

天道虫


黒板に書かれると、なんだ、それかー・・・、ため息がもれる。


ほら、おてんとうさまって、言うでしょう?

うんうん。

この虫はネ、いつもおてんとうさまの方へ、行こう、行こう、としているようだから、

昔の人が、「天道虫」って、つけたみたいだね。


次の時間、みんなで見つけに行くぞ、と言うと、

さっきまで、暗い顔をして、

「うち、虫きらあい・・・」

とつぶやいていた女の子たちも、

やったーっ!!

となりますが・・・

女の子、気分がころころ変わりすぎッ!!
人間の心って、不思議~ッ!!

天道虫

心が健康という件

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こころと脳の、ともに健康な子を育てる。

すると、どうなるか。


会話が、こうなる。

〇〇したいなァ
〇〇になったら面白いなァ
〇〇は、すてき
〇〇は、いいねえ
〇〇にしてみるか
〇〇するのもいいねえ
〇〇というのもあるゾ
〇〇にならないかなあ
〇〇やってみるよ
〇〇やろうかな

つまり、楽しい事ばかり、浮かんでくる。

ストレスが無いから、病気しらずで、
心と頭の中の世界が豊かだから、さみしさが無い。
孤独感しらずで、嗜癖(中毒・耽溺・盲目)が要らない。
無いと困るということがなくなり、目を閉じているだけで満ちている。

やる気がとくにあるわけではないけど、知恵やアイデアが泉のように噴き出し、的確である。
実行できるかどうか、定かではないけど、常にそのための準備が進んでいく。

そして、やる気は無さそうに見える。たぶん。
「頑張って、目標達成するぞ!」なんて、言わないし。
周囲を説得して歩く、なんてしなさそうだし。

でも、いつの間にか、いろんな準備をしてる。
やる、やらないには、こだわらないけど、いつの間にか、やってる。



そういう子ばかりになったら。

たぶん、今ある職業のようなものは、すべて、無くなる。
一人の人間が、毎日、同じことばかりを繰り返す、というの、無くなる。
これまでのような、職業という感覚、それ自体が無くなる。

仕事という仕事はすべて、完全に、「倶楽部」という感じになるかもね。
同好会、というか。

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「つらい思いをさせてはならない」

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先日、ナショナルジオグラフィック社の資料をつらつらと眺め見ていたら、
1914年、大正3年の記事におもしろいのがあった。

記事を書いたのは、女性ジャーナリストのエライザ・シドモア。

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この人は、米国ワシントンへの桜の寄贈に一役買っている。

シドモアの記事で、目に留まったのが、これ。
「明治天皇が冬のある寒い日の朝、地方を訪れた時のことだという。天候はあいにくに荒れ模様で吹雪に近い状態だったのに、子どもたちは必死に寒さに耐え、天皇を迎えたという。ところがその様子を見た明治天皇はいつになくご機嫌ななめで、あとでお付きの者たちに、国の宝である子どもたちに二度とあのようなつらい思いをさせてはならない、と強くおしかりがあったそうだ。」

子どもにつらい思いをさせてはならない。

これ、大人も当然、そうですわね。

大人にもつらい思いをさせてはならない。

考えてみりゃ、人間全体が、そう。

人間につらい思いをさせてはならない。




シドモアは、明治期より何度も日本を訪れ、たくさんの記事を本国アメリカへ送っている。

たくさんの記事と著作を残したが、人生の最後に彼女が書き残した最後の記事は、

1914年の「日本の子どもら」(Young Japan)と題するもの。

彼女の記事は、日本の政治や社会、経済に関することも多くあったが、それにおとらず、日本の風俗習慣、ことに子育てに関してのことが多かった。
そして、日本の子どもの写真を、たくさん撮っている。
「こんなに大事にされている子どもたちを見ているのは幸せ」

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1928年11月3日、ジュネーブで死去。72歳没。
遺骨は遺族の意志で日本に送られ、埋葬された。
横浜外国人墓地に墓所がある。
「わたしが世界中をめぐり、もっとも美しいと思うのは、日本の桜である。
桜をみながら近隣家族が花見をする習慣は、本当にこの世の天国かと思う」

帰国したシドモアは、花見の習慣を大統領の夫人に話したそうです。
どんなふうに話したのか、興味ありますね。
シドモアは、日本人たちが花を見ている姿を見て、その、いったいどこに興味を惹かれたのか。
なにを素晴らしいと思ったのか。

「つらい思い」をしないでいられる、ということの意味と、
その花見の光景とが、シドモアの頭の中で重なったのではなかろうか。




今でも、ワシントンでは桜まつりがあるようですね。

2017年の全米桜まつりは、3月20日から4月16日まで開催されたそうです。

ワシントン

あこがれの掃除道具

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Hくんが、どうしても体育館のモップに興味があるようで、
休み時間に勝手に触って、運動委員会の高学年に怒られたそうである。

「先生、Hくんが、体育館のモップを勝手に使って怒られてた」



そこで、体育館で堂々とモップを使いたくなり、

「ようし、次の学級の時間に、みんなでモップがけをしよう」

とつぶやいたら、

「エー!!」

と、どうもノリがワルイ。


そこで、ただのモップがけではつまらないから、カーリングをやることにした。

体育館には、運のいいことに、バスケなどで使う円が、床板に描いてある。

2チームに分かれて、ボールを転がして、その円に収まればよい、ということにした。

ところが、ボールは転がりすぎる。

転がるけれども、ある程度進むと、停止してくれるもの。

「先生、コロコロのついた机は?」

そりゃ、机は動くけど、大きすぎるよねえ。

「あ、あんなのがある」

体育器具庫から見つけたのは、跳び箱やその他重いものを運ぶ、キャスターのついた板(台車?)だ。

ためしにそれだけを転がすと、案外と軽く、向うの壁にまで届いてしまう。


「重たくした方がいいな」

Tくんを、そこに乗せて、2人が肩と背中を押し、そーっと手を放すと・・・

見事に、まるい円の中におさまった!!

急きょ、5人チームをつくる。

1人を台に乗せ、2人が背中を押す。のこった2人は、モップでその進路を磨くことにした。

まるで、スポーツのカーリングのようだ。

「なんか、これ知ってる!!テレビで、見たことある!!」

がぜん、盛り上がってきた。



モップを授業中に、堂々と使えるので、Hくんも満足である。

しかし、氷の表面を磨くスウィーピング役が、モップを持って、必死に台車の進む前を磨くのは、滑稽な絵であった。

また、本当は、氷とちがって、床板をウォォォォ!と磨いたところで、とくに意味はないんだが・・・

でも、みんな、いちばん、その役をやりたがっていましたナ。
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体育器具庫には入ってはいけない!

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体育館での授業。
体育器具庫に、貼り紙がしてある。
「この中には入りません」

わたしが、
「この中には、入ってはいけないの?」
というと、子どもたちはみんな、うん、と頷く。

教室に戻ってきてから、再度、みんなに聞くと、

「入っちゃいけないんだよ。めっちゃ怒られるよ。高学年に!」

高学年の運動委員会の子たちが、休み時間にはボールを出したり、休み時間が終了する間際になると声をかけて、とくに低学年の子たちに教室へ帰るよう、うながしている。
委員会の仕事だから、高学年のお兄さんやお姉さんたちがしてくれているわけだ。

Rくんが、

「だめだよ、入ったら、叱られるよ」

と何度も繰り返す。

むかし、器具庫に入って遊ぼうと入ったら、めっちゃ叱られたらしい。

「去年のU先生も、だめだって言ってた」



わたしが、

「あの貼り紙がいけないんだなあ・・・。よし、あれを取っちゃおう!」

と提案すると、目をまるくして、

「ダメだよ!!」

の大合唱である。



「だって、先生は入りたいんだもの」

「え、先生はいいんだよ」

「あ、そう?でも、入っちゃいけないのでしょう」

「先生はいいんだよ、あれは子どもに言ってるんだし」


「なんで子どもだけダメなの?」

「えー」


ここで、ちょっと空白のできるのが、面白い。


ちょっと賢い子が、言い出す。

「子どもは怪我をするからだよ。マットがあるし、ほかにも金属の棒とかあるから」

みんな、そうだ、そうだ、と言う。

「なるほど、そうか。けがをするかもしれないんだね」

わたしは、黒板に
「この中には危険なものがあるので、ケガをしないように気をつけましょう」
と書く。

「あの貼り紙が、本当に言いたいのは、こういうことかなあ?」

「うん、まあ。そうかも」

それじゃ、そう書けばいいじゃない。
なんで、入ってはいけません、なのかしら。



すると、ある子が、

「ぼくたち(4年生)は、もう分かるからいいんだけど、1年生とか分からないからじゃない?」

なーるほど。
よく考えるなあ。
そこで、わたしが感じ入った様子で、

「なるほど。1年生の子は、そんなこと言われても、なにが危険かどうかも分からないからかもねー」

とつぶやくように言うと、みんなも同意する。



「じゃあさ、1年生は入ってはいけません、というのでいいのじゃないの?」

もう一度、わたしが意地悪く意見を追加すると、

「うん。そうかも。低学年はいけませんにしたらいい」

と同調する子も現れる。

「でも、それじゃあ、低学年だけに意地悪してるみたいになるよ」

難しいねえ。



では、一番いい貼り紙の仕方はなんだろうか。
わたしは、さきほど書いた文面の最後に追加した。

「〇この中には危険なものがあるので、ケガをしないように気をつけましょう。

〇低学年の子は、もしかしたら怪我をするかもしれないので、入らないようにしましょう」

こういうことね。


ところで、われわれ4年生は、どうする?

「入れるけど、それでもやっぱり、怪我をすることがあるかもしれないから、やっぱりまだ入らない方がいい」

じゃ、そうするか。



昨日、器具庫に内緒で入っていたSくんも、みんなと同じように、「入らない方がいい」 と真剣な顔で言うのが面白い。
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喋りすぎるか、寡黙すぎるか

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自分がしゃべりすぎているか、

それとも、

寡黙すぎるか、どちらかに偏っていないかと、ふと思う。


だれかと話す。

その瞬間、自分は本当に、楽な状態、自然な状態でいるか。

つまり、なにも格好もつけないでいられて、そのまま、素のままで生きているのだろうか。

わたしは、世界中の人が素のままで生きられるのが、いちばん楽で、効率が良く、だれも苦しまないでいられるだろう、と思う。




喋りすぎるのは、なにか、うしろめたいことがあるとき、かもしれない。

また、なにかが怖いのかもしれない。

他人の何かを怖れているとき、人間はしゃべりすぎる。



一方で、寡黙になる時も、なにかうしろめたいことがあるとき、かもしれない。

自分の内部の、怒りをおさえようとして、寡黙になることがある。



日常的なところでは、自分が人と、どんな会話をしているか、

そのときの自分の状態が、どんなだろうか、といつも、気にする。

自分が楽で、さらに、相手も楽になるような、そんなふるまいができるようでありたい、と思う。

そう考え続けていると、

子どもにはこういうセリフで語り掛けなさい、とか

こんなセリフで、やる気を出させよう、とか

そういう情報は、要らんよなー・・・。



言葉は、外からやってくるのではなく、

耳を澄ませば、ちゃんと、自分の内側から、やってくる。

それは、ほぼ、正解となることが多い。(つまり、きちんと、伝わる)



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無抵抗と、不服従

.
人間の宿命とか、運命と言うものがあるのだろうか。

あるとしたら、それは生まれた時代のことではないだろうか。

生まれ落ちた場所や、自分をとりまく社会、家族、

赤ん坊は、それを自分で選ぶことができない。



そして、人は、その中で、

どうしても、

無抵抗

で生きていかざるを得ない。

しかし、無抵抗なのは見た目だけ。

人間だれでも意思はあるし、考えるという作用も働く。

そこで、一見、『無抵抗』にみえる子どもたちは、どうしても

不服従

という選択をとろうとしていくのではないだろうか。



生まれた場所や時間、時代、環境というものについては、人間は無抵抗である。

しかし、意志としては、

不服従

である。


つまり、自分の「選択」というものを、発揮しようとする。


われわれ教師は、この点を誤解するのかもしれない。

学校や教室、教師、学級、クラスメート、というものについては、

無抵抗に運命を受け入れる子どもたちが、

あたかもなにか、「学校に潜む、見えない何ものか」に、「服従」 していると思いがち。

しかし、どの子にも、心があり、考えがあり、その意志は、はっきりとある。

ちっとも、服従なんて、していない。



いつもいつも、自分を大切にするための、小さな選択を、

自分自身で、積み重ねようとしていくのが、子どもの本来の姿である。

教師は、そのことについて、何も困らないはず。

むしろ、それをバックアップし、サポートすることが、教師の生きがいだ。

運命には、だれも服従する人はいない。大人も、子どもも。

抵抗しないかわりに、服従もしない。

自分で考え、生きていく。

だれの意志も、決して、曲げられず、

自然に素直に、伸びていく。



人類に、服従無し。

当然だよネ。

どこまでも、自由に選択をしていく。

そのことが、人間の最高の楽しみ。

学校全体も、そのことが、わくわくするほど、タノシイことであるはず。

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漢字の話 「泊る」と「晒す」

.
布を川のながれに泳がせて、布を白くすることを、晒(さら)す、と言う。

だれでも、漢字をつくるとしたら、これはサンズイだろう、と思う。

だって、川の水で、布を白くするんだから。

サンズイに、白、とするのではなかろうか。

ところが、サンズイに白、だと、「泊」になる。



逆に、宿をかりて泊まる、という漢字をつくるときは、どうだろう。

そろそろ日が西にかたむいてきて、どこかに寝泊まりできる場所はないかとさがす。

このままだと、すぐに暗くなってしまう。宿を探さねば。

日が、西に傾く。

「晒」と、書きたくなる。

ところが、これは、晒す(さらす)、という字でしょう。


つまり、「泊」と「晒」は、どこかで入れ替わってしまった字、ということになる。





4年生は、漢字辞典を勉強する。

必然的に、わたしは漢字の話ばかりする。

算数のときも、「算」という字の成り立ちを話す。

「先生、算数なのに、国語みたいになっちゃったね」




先日は、「女」ヘン、というものがあることを伝えたら、Sくんがやっぱり気になったらしく、

「先生、男ヘンは?」

ときく。

「残念。ありません」

というと、

「女だけあって、ずるい」

クラスの男子が、全員で憤慨するような空気になる。

「男がなくって、女だけあるなんて」



そこで仕方なく、常用外になるから学校じゃ習わないけど、と断って、

「甥(おい)」という字を教える。

それだけ?

うーん。



わたしが漢字をダシにして、世間のさまざまを語ると、

刺激された子どもたちも、自分の勝手な考えを話すことがあります。



ふつうの授業展開からすると、はっきりいって、無駄話です。

「余計なことをしゃべっていないで、ハイ!教科書ひらいて!」

という場面ですね。



ところが、思いのほか、そういうことをしゃべっているときに、

子どもの素の顔がみえてくることがある。

友達どうしでも、そのようで、

「ふーん!」

「へえー!」

と、お互いに驚いたり、面白い!と笑いあったりする。



こういうこと、多いヨ。

お互いの素の顔をわかりあっていると、

クラスの過ごしやすさなんかは、確実にかわってくるように思うね。

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鉛筆を削ってあげたい

.
わたしは、もし自分が母親だったら、

子どもの筆箱を開けて、ウハウハと喜び勇んで、鉛筆を削ってあげたいですな。

それを見た子どもから、

「お母さん、もう自分でやるからいいよ」

と言われたら、

「あ、そう。ざーんねん!!もうあと、ちょっと、やりたかったなあ」

と惜しそうな顔をして、言ってみたい。



お母さんは、

学校の先生みたいに、

「きちんと削っておきなさい」

なんて、言わないのがいいなあ、と思うんですけどネ・・・。

お母さんは、ほかにいないのだから。



わたしが教室で、鉛筆を削ってあげる子がいます。

その子は、家にお母さんがいないからね。

ちょっとおせっかいを楽しんでます。



休み時間、その子は、鉛筆を削るよりも遊びを優先しているので、

すきをみつけると、わたしが削ってしまいます。

隣の女の子は、いつもそれを楽しみにしていて、

休み時間が終わると、

「〇〇くん、もう先生が削っちゃったよ!」

と、伝えています。

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「忖度(そんたく)」について

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世の中がまっすぐ進むのなら、あえてそこを右や左にずれながら進んでみたい、という思考が、粋(いき)なのだろう。

表側ばかりを見る世間に対し、あえて裏地に凝ることで、ズレてみせる。


内田百閒は、小学生の時点で、くわえ煙草をしていたらしい。

先生が注意をすると、

「校内は禁煙とは書いていない」

と言い張ったそうだ。



これなど、意識的にズレているのだろう。




「忖度(そんたく)」というのは、ズレ、ではない。

恥ずかしいくらいに真正面から、過剰に正しく反応してしまうこと。

だから、無粋なのだ。

その、「忖度」を平気で他人に対して求めているのは、もっと無粋だ。



芸術家は、ことごとく、ナナメ上を目指している。

ピカソは物の形を極限まで追いつめて、常人の想像を超えていった。

マティスもそうだ。写実から離れて、形の面白さを追究し、最後は切り絵の世界にはまってしまった。

当時の大衆が求めるものはこういうものだろう、と、「忖度」を気にする画家であったなら、ぜったいに達し得ない世界だ。




人間の面白さ、ユニークさ、たった一人のその人らしさ、というのは、

周囲に「忖度」したり、させていたりする世界には、輝いて見えてくるわけがない。



しかし。

この世に、ごく自然な「忖度」がある。

大人が、子の気持ちをおしはかってする、「忖度」である。


親が、子どもの気持ちを忖度する、という方向。

先生が、子どもの気持ちを忖度する、という方向。

どちらも、忖度の方向性は、一方通行で決定している。



親が子に向かって、自分の機嫌を忖度させてばかりってのは、逆さまな話。

  (でた!・・・また、サカサマな話かよ!)


写真は、マティスの『オレンジのある風景』。

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中年の矜持とは

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わたしには、2人の姉がいる。

その2人の姉と、父のアトリエを片付けることになった。

父は体の具合が悪く、もう絵を描くことができない。

そこで母が号令をだし、このゴールデンウイークに一気に片づけろ、となった。


わたしが家につくと、もう足の踏み場がないくらいに、そこら中にものが置いてある。

2人の姉は作業着のようなものに着替えており、せっせと札を貼ったり箱に絵をしまったり、とせっかちに動いている。

わたしも到着早々に、まったく整理されていない蔵書とキャンバスをあれこれ片づける羽目になった。



ところが、74歳の母と50歳の姉は、すぐにくたびれるのである。

「休憩する」

と言って、すわってばかり。

しまいには、口は出すけど手は出さない、という体で、

「ほれ、あそこがまだしまえてない」

だとか、

「そら、箱に番号を書かなきゃ。忘れないでよ」

とか、指示命令ばかりがとんでくるようになった。

わたしだって、もう、すっかり中年なのである。休憩したい、と思いながらやっているのに・・・。




夜になって久しぶりに、母の料理を食べ、家族で話をしているのは面白かった。

話の中心になったのは、まさかこんな年になるとは思わなかった、ということで、

「お姉ちゃんが50ねえ・・・。信じられないわ」

「あんただって。ずいぶんおっさんになった」

つい先日、ぎっくり腰になった話と、湿疹ができた話、なんともさえない話ばかりで・・・。



母の話は、幼いときの苦労話になる。

家にお風呂が無く、ご近所に借りに行く。

またそういう時代だったから、どこにでも風呂があるわけでない。近所の人も、お湯を沸かすと

「今日は湯がありますから、どうぞ」

と、わざわざ知らせに来てくれていたそうである。

兄弟が多かったから、みんなで行くのはとても気が引けた、という。

みんなが湯から上がると、結構なお湯でした。ごちそうさまでした、と言って、帰って行ったらしい。

「へえ、お風呂も、ご馳走さまって言うの」

姉が、母の話に感心している。


軍国少年だった父や、戦時中に生まれた母は、戦争というものをリアルに感じて生きてきた。

そして、その暗黒の戦争から急速に解き放たれた。

ふたつの時代、国家の仕組み、価値観の大きな変革を、見ながら育った。

物事を、単純にとらえていてはいけないという、鳥瞰的な視点をもっている世代だ。



われわれのような中年は、時代から何を受け取ったのか。

生まれると、未来が夢のように語られる時代だった。

戦争はもうすっかり過去のものであり、世界中が子どもにあふれ、ドラえもんが2100年の世界を見せてくれていた。

だれもが幸福になれる、夢をみろ、夢を実現させるのが最高だ、と言われてきた時代。

しかし、待てよ。

拝金主義も万能ではなく、バブルははじけ、原発もはじけ飛んだ。

「たしかに、夢がある、と聞いてきたのに・・・」

青い鳥だと思ったものは、やはり青くないまま。時代から言い聞かされてきたことは、どんどんかすみ、色あせていくことばかりだ。



いつか、父が寺の縁の下の蟻の話をしてくれた。

父は、寺の本堂で終戦のラジオを聞いた。

大人は口々に意見を言ったり、泣いたり、慌てたりしていたが、和尚がおりてきて、本堂の下を指さし、

「戦争が始まっても、終わっても、蟻はずっとここです」

と言ったそうだ。

その意味が長い間分からなかったが、中年を過ぎて定年間近となったころ、ふと思い出したそうな。

人間が右往左往し、苦労してる間、蟻は何も変わらず堂々と、生きつづけていた。



われわれは、あれこれと己の求めるものを吟味したり批評したり、時代の意味を考えたりと忙しく追及するが、中年になったころにようやっと、家で飼ってる鳥はもともと青かった、ということになるようだ。

これは、あとから、そういうことになった、ということなんだろうネ。

最初から青かったわけでなく、ね。

つまり、「青」を見ることのできる、自分の視点、自分の目線を確立するのに、ずいぶん時間がかかるというわけ。

それにしても、姉ちゃん、50年は長過ぎるワ。

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フォークシンガー岡崎やすしが歌います

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愛知県岡崎市在住のフォークシンガー、岡崎やすしさん。

わたしのブログを見て、歌ってくれました。

そうじについて

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そうじをしない子。

いますよね。

わたしのクラスにも、います。

でも、叱られません。




ずーーーと、何もしないわけではありません。

見ていると、友達の動きを見ていて、ここ、という場面では動いています。

が、なんとなく分担もはっきりしないし、気持ちものらないのでしょう。

なんとなく時間をすごして、チャイムがなるとホッとして席についてます。




また、ふとした拍子に、そうじのエンジンがかかり、徹底的にきれいにするタイプの子もいます。

すごく汚れの落ちる真っ白なスポンジがあります。ご存知の方も多いかと。

そのスポンジを渡したら、黙々と床を磨き続ける子もいます。

汚れが落ちるのって、けっこう、面白いものです。

その子の中に、なにか面白味を感じたり、興味を惹かれたものがあるんでしょう。



そうじをさせようというので、隣のクラスの先生は、ち密な計画表をつくっています。

〇〇が終わったら△△をする、終わったらつぎは✖✖で・・・

と、15分間の動きがぜんぶ、書かれているシートがあり、どの子もそのシートをみて動いています。

そのシートの通りやれると、たくさんほめてもらえるので、みんな元気にそうじをしています。



わたしは、あまりそうじは気にしていません。

やらせようとして、声をからして怒鳴る先生も居ますけど・・・。




ダスキンのホームページをみると、教室や廊下など、学校のそうじの仕方を、動画で教えてくれます。

みんなで見てみました。

ていねいに、なぜその順序で掃くのか、ちりとりで最後にごみをとる場所は、どこが一番良いのか教えてくれます。

とても知的。

すると、けっこう、子どもたち、面白いと感じるみたい。

そして、そうじに興味が湧くみたい。

科学的なそうじの仕方がある、ということに驚いて、スイッチの入る子がいるんだネ。

スイッチの入らない子もいるけど・・・。

でも、ふと、その気になって、やってみよう、と思う子もいる。

こうしてみると、元来、やはり人間と言うのは、知的な動物であって、なにか面白い問いがあれば、知りたくなる、やってみたくなる、たしかめてみたくなる、というふうに進むのだろう、という気がします。



ただ、やれ、やれ、と言うだけよりも、

子どもの心に、なにがあるか、よく見てみた方がいいよナ。


子どもの心には、ちゃんと、知的な好奇心が、たしかに存在しております。



新間先生の黒板の消し方は、なぜそうするのか。
なぜ、2つのチョーク受けがついているのか。

チョーク受けに、丸い穴があいている理由はなにか。
ほうきがすこしナナメになっている理由はどうしてか。
バケツの形はなぜそうなのか。

知的な問いから入ると、子どもたち、そうじそのものに興味が出てくるようですナ。



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「叱らないで済んだ」という、ひとつの結果

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面白いもので、次のステージに進む、と決めてから、いろいろと思うことが多くなった。

まずは、タイトルを変更してみた。

きっかけは、若い院生からのメールで、教育学部の彼女からもらったメールには、

「自分も新間先生のように、叱らないでやっていきたい」

と書いてあったこと。

なるほど、こういう読者もいるのか、と驚いた。



若い人も見ているのなら、と思うと、彼らを応援したい気持ちが湧いてきて、

さっそくブログのタイトルを変更し、

「叱らないでも いいですか」

という従来のタイトルを、

「叱らないでも だいじょうぶ」


と変えた。



ところが、その後、なんだか急速に叱るとか叱らないとか、どうでもよくなってきてしまった。

これは、ただの、ある取り組みの、一つの結果に過ぎないですもん。

「あることに取り組んでいたら、叱らずにすみました」

田舎の小さな学級での、「叱らないで済んだ」という、ひとつの結果というだけで。




また、そもそも、このブログはだれかのために書いているわけじゃないし、という思いが強まってきた。

自分の中にある、「人間存在の面白味」というものを、ただ遊びのように書いているだけ。

目的がしっかりあって、書いているわけではない。

だから、急に

「若い人を応援するために」

とやってみたら、妙に居心地がわるく、しっくりこない。

結局、2日ばかりで、タイトルも再度変えてしまった。

現在のタイトルは、「困らないけど、いいですか」 である。

だれが困らないかというと、このわたしのことである。

子どものことで困ったり心配したり不安に思うことができないわたし。

かつてわたしは、教師とは子どものことで困ったり心配することが宿命づけられているものだ、と思っていた。

そういう過去の教師像(わたしがかってに想像していたもの)と、自分はどうも一致しない。

こんな調子で、いいのだろうか。

新しいタイトル、『困らないけど、いいですか』は、そうした気持ちから、つけている。



このように、タイトルが変わっていくのは、他の人にとってはどうでもいい話であろう。

わたしの中にある、とんでもなく字面にしにくい「あるもの」を、なんとか表現しようとするのは、結局は個人の趣味なんだろうネ。

われにかえる1

休み時間がいちばん楽しい

.
くやしいけれど、どんな楽しい授業をしたって、休み時間にはかなわない、という気がする。

休み時間は、子どもが息を抜ける時間。

教室には、ほとんどの子がいなくなる。

残るのは、たったの2、3人。

その2、3人は、読みかけの本を夢中で読んでいたり、オルガンを弾いたり。

男の子たちはみんな、校庭か広場で遊んでいる。



わたしは、子どもを見に行く。

ともかく、ぶらぶら、する。

わたしがぶらぶらしていると、興味を持って、話しかけてくる子もいる。



木の近くで、わなをつくっている子がいる。

「これで、かぶとを捕まえる」

・・・のだそうだ。

わたしはその、木の枝が組み合わされた物体を見るけれど、仕組みはよく分からない。

しかし、彼らはそれがいかにも緻密な精密工芸品であるかのように、扱う。

「ここ、すぐとれちゃうからね。持つとき、気を付けて」



その宝物を持たせてくれるが、このときばかりは、教師と子どもの立場は逆転している。

わたしは、すべて彼らの指示を聞かねばならない。




わたしはふと、思いついて、ハトをよけるための工作作りにとりかかる。

ハトがなぜだか、教室の近くにやたらにくるようになった。

たぶん、巣作りの場所を選んでいるのだろうと思われる。

巣ができればそれを見るのも面白いが、教室の入り口なので、糞公害がひどく、これは対処せねばならない。




大きな目玉をつくろうとしていると、興味しんしんで寄ってくる。

「せんせい、なにするの?」

わけを話すと、

「ぼくも!ぼくも!」

と、みんなでいろんな種類の目玉をつくることになる。





どの子も、休み時間は、活発に学んでいる。

ちっとも、休んでない。


こら!きちんと、休め!!


休み時間に、活発に学び、

授業時間に、休んでいる。



サカサマやな。


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