30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2017年04月

きりの良いところまで、やり遂げなさい!

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お母さんたちも、なんだか

「子どものことで困る」

ことを、母親の責務であるかのように、考えているのではないか、と思います。

わたしが過去、かつて思っていたのと、同じように。




わたしも、教員というのは、

「子どものことで困ったり、心配してあげるのが仕事」だと、思い込んでいました。




あるお母さんですが、ご子息が、3年生の11月ごろ、剣道をやめてしまったのが、気に喰わないんだそうで。

「3年生の終わりまで頑張ると思っていたのに。途中でやめてしまって・・・」

それも、本当にすごく中途半端な、11月にやめてしまったのが、気に喰わないそうです。

これ、わかる気がする。

わたしもかつて、親や担任の先生や、周囲の大人たちから、

「きちんとキリの良いところまでやりとげてから、やめなさい」

と言われ続けてきた気がする。

まあ、昔からの知恵なんでしょうか。

ひとつやり遂げたという自信をつけるためにも、区切りの良いところまでやらせたかったみたい。



ところが当人が、どうにもやめる、と言ってきかず、11月の中途半端な時期にやめてしまった。

お母さんは、今でもそれを悔しがっていて、この4月になるまでずっと悔恨の念にかられているわけであります。



わたしは家庭訪問でそのことを聞き、印象に強く残りまして、次の日にさっそく話しかけてみました。

「11月まで剣道をやっていたんだって?」

「うん」

「3年生の終わりまでやるっていうんじゃなくて、11月に辞めたのは、なんでなの?」



すると、子どもは、

「うーん、わかんない。やめようと思ったから」

だって。


あまり、理由はないようで・・・。

しかし、納得できるような理由がないと、親はなんだか、居心地が悪いんでしょうナ。

もっともな理由が聞ければ、まだしも親も、納得しやすいのでしょうけど。



で、驚きましたのは、その後のひとこと。

「でも、また、やるよ」

と言うのです。

お母さんは、もうこの子は剣道を棄てた、というような印象で話していたので、わたしはそのセリフを聞いて、とても意外な感じがしました。

お爺ちゃんが剣道の先生をしていたほどの方なので、お母様としては、孫のこの子にも、ずっと剣道をつづけてほしかったのでしょう。

それを中途半端に辞めてしまったものだから、落胆が激しかったのです。

さらに、落胆のあまり、息子を責めていました。

せめて、ひと区切りつけるまで頑張らなかったことを責めていたのです。

でも、まさか、まだ子どもが剣道を棄てていなかったなんて。





「へえ、またやるんだ。じゃあ、いやになってやめたのじゃ、なかったんだね」

「うん」

「いつくらいにやるの?」

「うーん、高校くらいかな」

「あ、そう。お母さんに、それ言った?」

「ううん」




なんで、お母さんには、それを言わないのでしょう。

たぶん、聞かれなかったからでしょうね。

あるいは、ずっと続けるのが当然、続けるのが良い、とお母さんに言われてきたから、途中で休憩をはさむことの理由を言うのが、めんどうだったのかもしれません。

あ、それだ。

たぶん、理由をいうのが、面倒なんでしょうね。



それにしても、なんで、新しいことを始めたり、やめたりするのに、理由をいろいろと聞かれるのでしょうか。

子どもからすると、

「理由なんて、ないよ」

と言いたいかもしれませんナ。

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落とし物について

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教室に上着が落ちている。

授業が始まる直前だ。

当人は、気づいていないようだ。

どう声をかけるか。


「落ちてる。拾いなさい」

でもいいし、

「あ、落ちてるよ」

でもいいし、

「あ、上着だ」

でもいいし、

まあ、ぶっちゃけ、なんでもいいです。

つまり、いいとか、悪いとか、そんなものはありません。




しかし、この声かけひとつにとっても、子どもがうんと、満足する声かけがあります。

セリフは、決まっていません。

わたしも、その時々で、ころころ変わります。

しかし、意識することはあります。

子どもが、ああ、よかった、と思えるような。

ああ、拾おう、と思うような。

ああ、気づいてよかった、となるような。

なんだか、うれしくなるような。

生きててよかった、となる声のかけ方があります。

方法とかセリフじゃないけど、ありますね。



たぶん、こういうことの積み重ねで、学級というものは、つくられていくのでしょう。
コミュニティというのは、つくられていくのでしょうな。
だから、子どもも大人も、みんなでつくっていくものなんだろうな、と思います。


わたし、こういことがいちいち考えられるので、

こころの中では、教室にものが落ちているの、うれしいです。



だれかが言い争いをしたり、けんかをしたりするときも、同じです。

心の底では、嬉しい気持ちがありますね。



昔はこうじゃありませんでした。

まずい、という思いが真っ先に出ました。

これをうまくさばかないと、学年主任の先生になんと怒られるか、と生きた心地がしませんでした。

けんかの仲裁、もし失敗したら、子どもたちから信頼されななくなるのではないか、とびくびくしました。

なんせ転職組の中途採用。
しかも、教育実習なし。

初任研もろくにないような状況で、孤軍奮闘しなければならない、と自分で決めていましたから。

自分はまだ教員にはなりきれていないのだ、ということの不安は、とても大きいものがありました。

「自分は、今のまま、このままではいけない」

と、↑ こういう不安って、

気持ちや行動を、大きく変えるものですナ。



しかし、

「叱らないで、困らないで、やってみよう!」

と見つけると、もう後戻りはできなくなりました。

というわけで。



落し物も、忘れ物も、どんなことも。

困らないでも、いいですか。




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結局は学校、仲間、先生が好きかどうか

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忘れ物がなくなるのは、わたしはたいへんに嬉しい。

「自分で必要なものが分かるようになったね」

「自分できちんと、準備ができるようになったね」

「道具を忘れないと、やりやすいね」

「道具があると、便利だし、よく分かるね」

「よかったね!みんな、もってきて、みんな、だれも困ってないね!」


喜び合える。

なんとおめでたいことか、と思う。


わたしが笑顔でうれしくてならないのをみて、子どもたちもみんな笑う。

みんなのことが大好きだ、と思う。

子どもたち、笑う。



忘れ物がなくなり、

いじめがなくなる。

「このクラスがずっとつづけばいいのに」

となる。



でも、逆じゃ、ダメですぜ。

忘れ物を無くそうとして、子どもたちのまえで必死になって 「みんな大好き」といくら叫んでも無駄。

たぶん、忘れ物はかえって増えるでしょうし、ギスギスしてきて、いじめが起きるでしょう。

先のセリフをいくら真似しても、ダメ。

「自分で必要なものが分かるようになったね」

と、いくら笑顔で心から叫んでも、ダメ。


マネでは、無理。

真似ではダメ。

わたしから学んでも、ムダ。

こんなブログ、新間の書いたブログを、いくら読んでも、無理。

久しぶりに、かなりの毒舌ですが、お許しくださいな。



「忘れ物をしてはいけない」

ということを、頭の先から、これっぽっちも、思わないようにならないと・・・。




不思議ですね。

忘れ物はダメ、と頑張ると、いつまでも忘れ物が続き、

忘れ物のことなど忘れていると、いつの間にやら、忘れる子がいなくなるのですから。


まさに、この世はサカサマ、というわけで。

地獄の門

忘れ物がなくなる理由

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もし、仮に。


忘れものをなくしていくには、教師が忘れ物を

恥とし、

罰することでしか

なくならない。



そう思い込まされているのだとしたら、かなりのエネルギーのロスかと思います。

まず、教室に、「恥の文化」が育ち始めるからです。


「あいつが忘れるからいけないんだ」
「忘れやがって」
「あ、あいつまた忘れてる」
「あいつは忘れてばかりだから、苦労してもいいんだ。むしろ苦労すべきだ」
「あいつはダメなやつだ。いじめられてもいいやつだ」

子どもが、そう判断するようになります。



いじめが始まるのは、もしかしたら、こういうことかもしれません。



そのいじめと対峙して、教員はものすごいエネルギーを注がねばなりません。

それよりも賢いのは、そもそもいじめが起きないようにすることです。

いじめを育む、恥の文化を、撤廃することです。

そのほうが、あとで考えても、何倍も楽です。



あと、忘れ物をすると罰する、というの。

これも、なぜかわかりません。

なんで、忘れ物をした子を、罰するのでしょう。

なにか、いいことあるんでしょうか。

恐怖感のあまり、次から、忘れないようになる?

いや、罰しなくても、なくなるのだとしたら?

その「恐怖」、要る?






こう書くと、

「叱ってはいけない、というのか!」

とお叱りを受けるので、誤解を避けるために書きますが、

いい、悪い、というのではないです。

そんなの、好きな方をやればいいですよネ?





困らない、叱らない、という文化でやれば、叱らずに済むのです。

それと、ついでに、忘れ物もなくなっていきます。

わたしは、それが楽しいし、ふつうだと思うし、楽(らく)です。


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困らないけど、いいですか

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タイトル再考しました。

やはり、自分はもう、叱る、叱らないについては、

見事なくらいあっさりと、関心が消えてしまった。

そんなのは、もう、当たり前。

叱らないのは、当然。



そこで、今の興味は、ちがうところにあります。

「困る」と「困らない」です。

今年はひとつ、困らないでやってみよう、と。

タイトルは、

『困らないけど、いいですか』




わたし、長らく、誤解してまして。

教師というのは、困るのが仕事だと思ってるところがありました。

あれこれ、子どもを心配したり、困ってあげる。

それが、理想の教師だと。

でも、自分は何だか、子どもをみても、あれこれ心配にならない。

教師には向いてないのか、と悩みました。

子どものあかんところで困り、心配する。

あるいは、

「あの子、どうなるんだろう」

と職員室で不安になり、困る。

それが、教師の仕事だと思ってきました。

教師にはそれが必要な態度なのだ、と。





ところが、うまく心配できない。

せっかちなので、心配などする暇があれば、提案をしたい、と思うのが原因かもしれない。





振り返ると、もう何年も、困っていない。心配もしていない。

また、教師が「困る」と子どもが伸びるかというと、多分、そうじゃないだろう、という思いもある。




叱る、叱らない、の話は、もう、このくらいで。
あとは、困る、困らない、の話をしよう。

いかがでしょう。

困らない、教育。
困らない、子育て。





アホか、子どもの心配をしない親が、どこにいるのか!

子どものことで、一緒に困ってやるのが、親のつとめでしょう!

と、ふつうはそう思いますよね。

当然です。わたしもずっと、そう思ってきましたから。



ところが、よく考えてみると、叱らないの元に、この「困らない」があるように思う。

困らないから、叱らないのだ、と思えてくる。



そもそも、

子どもの姿に困らない。

困らないから、叱らない。

ただ、次にとる行動を提案するだけ・・・。




そんなわけで、

「困らないでもいいですか」、


として、

再スタートです。

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忘れ物について

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忘れ物を叱らないのに、なぜか忘れ物がほとんど無くなっていく。

もちろん、最初の頃は、忘れる子もいれば、しない子もいる。

わたしは正直言うと、忘れ物のことなど、指導したことが無い。

というか、私自身が困らないので・・・。



いや、指導したことがないということもないが、まあ使うエネルギーは 「1%」 くらいか・・・。




ただ、子どもが忘れ物をしないようになるので、これはありがたい、と嬉しがっているだけであります。

ほとんど、教師の仕事というのは、この、子の成長というか、がんばりというか、目の輝きというか、積極性というか、たたずまい、やること、なすこと、そこにその姿でいることを、

結局は、

『嬉しがる』

というのが仕事だという気がする。



教員のすべての仕事から、どんどんと事柄をひっこぬいて消していくと、最後に残るのは、

「子どもをみて、うれしがっている」

のが、教師の一番の仕事でありましょう。

わたしは、この嬉しがる、というのが教師の仕事だということに、本当にラッキーだというか、感謝というか、いい仕事だなあ~、と思う。

いーい、しごとだな~ⓒNHK


うれしがっているうちに、忘れ物が減っていき、子どもも私も、結局はそのことで苦労することはありません。


なぜか、わたしも分かりません。




気を付けていることは、クラスで、忘れ物は悪いことではない、ということだけは決定しています。

教師が忘れ物をする子を罰していると、子どもも同様に、罰する目線で友達を見下すようになります。

そこで、学級は差別が生まれ、いじめの芽がでてくる気風に染まっていくのです。

忘れることは、恥でもなければ、罰せられることでもなく、ただ、わすれた、というだけ、です。

その一点を子どもがたぶん、理解するんでしょうな。

だから、忘れ物が無くなるんだろう、とわたしは勝手に解釈しています。


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家庭訪問は学びの宝庫

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親は本当にすごい。
子どもをすべて受容する。

家庭訪問でどの家庭で、どのご両親に会っても、頭が自然に下がる。
子どもは、この愛のなかで育まれている。

お母様のお話を短い時間に集中して聞かせていただく。
わたしはもちろん、正座。
これは、そうでしか聞けないくらいの心境になる。

たっぷり子育ての大切さを聞かせていただいて、わたしはどうしても体調のことやお友達のことで聴けなかったことだけを、少しお願いして聞かせていただく程度。
それで十分だ。

おうちの方に、たっぷりと、お話して頂けることが、最高だ。



少し気になるとすれば、なかには、どうも自分のお子さんとなると自信がない方もいて、

「うちのはまるでダメですが」

とおっしゃる。

それはまことに惜しい。

ただの謙遜にしたとしても・・・



ご自身の家庭のお子さんのことも、本当にありがたい子です、と言っていいのに、と惜しく思う。

たとえば、お母さんがこういう話の展開をされる。

1「わたしは子どもをどう育てるべきか十分に分かって、躾もしてきたのですが」
   ↓
2「この子に限っては、まるでダメですわ」
   ↓
3「なぜなら、この子が期待通りに動いたり考えたりしてくれないから」
   ↓
4「でも先生、わたしはこの子を正しく育て上げるために力を尽くします」
   ↓
5「結局ね、先生。教育というものは、子どもの生きる力をいかに大事にするかなんですよ」




わたしは、すべて聞く立場。
お母様の話を聴くだけである。


「教室では本当に機嫌よくすごしてくれているのですが、おうちでしっかりとお母様にみていただけているからですね。ありがとうございます」

と言うくらいで・・・。


まことに、教師の幸福とは、このこと。
つまり、家庭と学校の往復をする、子の姿の確認にあるだろうと思われてならない。


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新スタート!ブログのタイトルを変えました!

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祝!リニューアル!

「叱らないでもいいですか」が、新しいステージへ進化します!!

  

本日より、当ブログのタイトルを変更します。

新タイトルは、
~リーダーを応援!~
叱らないでも だいじょうぶ!

遠慮がちにつぶやいてきた、これまでのタイトルから、より踏み込んだタイトルに進化いたしました。

教育界の一隅で叱らない教育を実践中の新間ですが、ブログを公開していることで、時折、読者の方よりメールをいただくことがございます。

そこで、なんと、

「わたしも叱らないでやっていきたいんですが」

という若い教員志望の方がいると知りました。

これからは、そういった「叱らない教育」をめざす若い人向けに、大きなエールを おくることが、当ブログの責務であろうと思うに至りました。
これまでは当人の新間も、心の隅で、「叱らないでやっているけど、本当にいいのかなあ、もしかしたら間違いかもしれない。だって叱らない先生なんて、まわりを見渡しても一人もいないものなあ」と思って、遠慮する気持ちがありました。何十年とこの世界でやっていらっしゃるベテランの先生たちのことを思うと、畏れ多い気がしていたのです。

しかし、わたしとしては、もう叱ることができない。
どうあがいても、できない。
そのことで、自分は教員に向いていないのではないだろうか、と思ったこともありました。

だからこそ、そっとつぶやきながら、間違っていたらすぐに引っ込めるつ もりで、遠慮しいしい、

「叱らないでもいいですか、ね・・・?」

というタイトルをつけていました。



しかし、どうやら世間の風向きも変わってきたようです。

叱らない教育というものが、誤解されながらも、どうやら少しずつ、認知されてきているらしいのです。

もちろん、世の趨勢としては、より強く、より先鋭的に、叱り飛ばして反省させる、という教育が本筋であることに間違いないでしょう。
ところが、一部のわたしとよく似たタイプの、少数派がいるらしいのです。

わたしはもう、子どもが叱れないので、教育誌などでよく指摘されるところの、いわゆる「叱れない」先生です。
そのわた しとよく似たタイプの、どうやっても「叱れない」先生も、すくなからず、いらっしゃるようです。

そんな先生たちの、気持ちがよくわかる!!
叱りたいのに叱れない、そんな先生たち!
たぶん、研修なんかあると、そのことで、すごく悩んでいらっしゃる先生たち!

「きみは、子どもが叱れないのかネ、だめだね、それじゃ」

と主事の先生に言われて、落ち込んでいる先生たち!!

そんな先生たちに、言ってあげたい!!

「新間もそうでしたが、なんか、どうやら、・・・だいじょうぶっぽいですよ(内緒ですけどネ)」



そこで、わたしはかなりニッチな分野・ 需要なのではありましょうが、そんなリーダーたちを応援するブログにしようと心新たに、決意したところです。

また、叱る、叱らない、叱れない、ということについては、学校現場だけでなく、
会社の経営者の方や、部長や課長などの役職のある方、上司の方、
それからクラブの先輩、マネージャー、部活動の顧問、
あるいは官庁の大臣や官僚の方、そして家庭のご両親など、
ほとんどすべてのリーダーシップをとる方については共通の課題だと思いますから、
タイトル名に、リーダー、という文言を入れさせていただきました。

世のすべてのリーダーたちのために・・・!!


新タイトルは、「~リーダーを応援!~叱らないでも だいじょうぶ」。

これからも引き続き、どうぞごひいきのほど、よろしくお願い申し上げます。


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教室に赤ちゃんキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!

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授業参観がありました。

中には、1歳にもならないくらいの赤ちゃんを連れて、授業参観に来る方もいる。

赤ちゃんを連れてくるの、全然問題ありません。

まったくOKです。

むしろ、わたしは赤ちゃんがくると、テンションが上がる。

授業中に赤ちゃんが泣いたりすると、子どもたちも、ほっとするんです。

みんなで、その赤ちゃんを祝福したいような、一緒に泣きたいような、抱っこしたいような気持になる。

それが、教室にいる子どもたち全員、先生、そばにいる大勢の保護者の顔が、いっせいに和むのですから、そりゃあ、赤ちゃんのもっている「なごみパワー」って、すごいものです。



ずっと、そう思ってきました。



ところが。

予期に反して、こんなことが起きました。


赤ちゃんが泣いたとき、

「ママがいるでしょ!!!」

と強い口調で言い、黙らせたのです。

「まったくこの子は泣いてばかりで、すっごい『びびり』なんですよ・・・」

ああ、もう、困ったわ、という感じでしょうか。


「びびり」って。

赤ちゃんはびびるのが普通やで。



しかし、若いママも、泣くと迷惑と思い込まされているためか、泣きやませようと

を入れ続ける。



その赤ちゃんのふくふくとした顔と泣き声と、お母さんの激しい口調がギャップがありすぎて、思わずわたしは絶句しましたが、それでもかまわず赤ちゃんが一瞬びっくりしたものの泣き続けたので、クラスは爆笑に包まれました。


でもネ・・・。

よく考えてみてくださいよ?


親に困られると、本当に赤ちゃんとしては、うんと困りますよネ。

赤ちゃんからすると、

「ねえママったら!!!あなたが困ってる場合じゃないでしょっ!」

と、つっこみたくなる場面だと思うのです。

こんな、すぐに困るようなお母さんでは、赤ん坊としてはたいへんに困る。

この世で、困ってよいのは、赤ちゃんだけだ、というのは誰の名言でしたか・・・。




親が困ると、子が困ります。

でしょう?

親は、子どもを困らせないようにしなければ・・・。



両方困ったら、万事休す。

それでも親が困るのをやめないんだとしたら・・・、

まあ、世の中、ぶっとんでる、ちゅうことになりますナ。

にこにこ

1年生の順応性がすごい、という件

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1年生になった子たちは、本当にすごいと思います。

これまでとはまったくちがう世界に飛び込んで、あっという間にあれこれとルールやしくみを理解し、すぐに順応していきます。

1年生の担任になった先生が、

「あの子たちが適応していこうとする力ってすごいよ。人間として尊敬しちゃう」

とおっしゃっていました。


これまでの保育園、幼稚園など、園での生活とは、しくみもルールもスケジュールも、まったく異なっているのです。子どもなりに、頑張って、はりきっているのでしょうね。

一番ちがうのは、なんといっても先生の役割です。

園の先生は、指導をする、というよりも、子どもたちの主体的な活動が確保されるように見守っています。子どもたちが遊んでいるのを見て、そこから成長や学びを読みとっていきます。園では、子どもが先生に対して、自分のしていることやしたいことを話すのがふつうです。

たとえば、絵を描いて

「先生、みてみて!これはね、パパが踊っているところだよ」というふうに。

ところが、学校の先生は、カリキュラムに従って勉強を教えます。
だから基本は、先生が子どもに話す時間が圧倒的に長いのです。

また、時間内に決められた内容をしっかりと理解させるのが仕事ですから、口調がきびしくなることもありますし、決められた作法で(起立して発表する、そうじ道具を決められた順序で扱うなど)行動するようにと指導が入ります。

1年生では、ときに厳しい表情の出る先生をこわがってしまう場合があります。〇〇しなさい、と強く指示されるという場面が、子どもによっては「初体験」ということも。

多くの小学校では、入学してからの最初の一か月間は、スタートカリキュラムにしています。

5月ごろまでは、45分間の区切りも柔軟に考え、とくに朝の時間は、幼稚園や保育園でやっていたような歌や手遊びなどの活動も入れています。

時間の概念を育てるために、時計の文字盤を工夫して見やすく数字を入れたり、絵をかく学級もあります。

こういう工夫を見ると、どの先生もみんな、1年生が大好きなんだなと思います。1年生の教室に入ると、どこでも見事な工夫がしてあります。びっくりします。

最近、たまたま見せていただいた教室では、イラストやマークで、学級で使うのりやペン、かばんの置き場所など、本当にていねいに区分けしてありました。それも、色で役割をわけて。



どの子も、安心できるように、という配慮です。



こんな雰囲気でつつまれた学級なら、みんな安心するだろうと思います。

1年生の教室から、怒声や罵声は、ほとんどありません。

どこまでも子どもの現在の姿を受け入れる。

こんな受容的な雰囲気が、ずーっと6年生まで続くとどうなるんだろうか、と思いますネ。




「いつまでも子どもを甘やかすんじゃない!!」

と怒られるかもしれませんが・・・。




子どもを受容すると、依頼心の強い子になってしまう、というぬぐいがたい観念をもっているのが現代の大人の大半なので・・・。

しかし、逆かもしれません。

世はまさに逆手なり、と昔から言うように、

子の現在を受容しないから、学校生活がつまらなくなってしまい、「ぼくは誰にも共感してもらえなかった」と、劣等感の強い子になってしまうのかもしれません。

1年生

怒声罵声はなぜ発生するか

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運動会が近くなると、校庭に罵声がとぶようになる。

なぜか。

不安だからだ。

ピラミッドが完成せず、観客から

「あ~・・・」

と言われるのが怖いのだ。



だから、罵声や怒声をひびかせ、子どもたちを有無を言わさずコントロールしよう、となる。

教師は、不安にかられ、つい大声を出す。


「なにやっとんじゃーー!!」




ところが、妙なことに、不安が増大していく。

ここが、人間心理の不思議なところ。

不安は、どんどんインフレするのですナ。



罵声が飛んだあと、先生の不安は解消されるかと思いきや、そうではない。
不安が増大しているのです。

「できないのはマズイ」
「なんとか完成させないとマズイ」

という恐れに似た気持ちが、叱り飛ばす前よりも大きくなっている。



これを、不安増大のスパイラル、と言います。

不安に駆られて行動すると、さらに不安が強まっていくのです。

そのスパイラルにつかまってしまうと、怒声が絶えることがありません。





怒声ではなく、「願い」を子どもに伝えるのは、まったく違います。

「ピラミッド、完成するといいなあ」

それは、不安ではなく、ただのふとした楽しい思いつきです。

ところが、

「ピラミッドを完成させなければならん!」

これは、恐れと不安からくる、心理的に病的な状態です。

完成、という結果を得るために、盲目になっていきます。

手段は問わない、とにかく完成させるんだ、となる。

結果、不安に駆られて叱り飛ばし、叱責したうえ、なんとか形になりますが、

よーく見ると、どの子もげんなりとした表情のピラミッド。

もうズレまくって終わりの状況。



それじゃ、教師が

「ピラミッド、完成させたいなあ!アハハ・・・」

と、ほんわかとした感じで言えばいいのかというと、ちがいます。

指導の方法が、大事なのじゃあないです。




その前に、やることがあります。

仲の良い、雰囲気のいい学級にしておくことです。

みんなの心のガソリンタンクが、満タンになっていることが条件です。



で、おもしろいことに。



ガソリンタンクが満タンだと、

気合を入れたら元気が出るし、

ピラミッドがあっという間に完成し、

うまくいかなくても、友達を責めないし、

協力できたことでみんなが自信をもつし、

支えてくれる友達への感謝も湧いてくるし、

見に来てほしい、と心から親に言うようになるし、

そこで初めて、『誇り』のようなものも生まれてきて、

見に来てくれた人たちへの感謝の気持ちも湧いてくるし、

運動会が終わったあと、勉強もがんがんやるようになるんですな。





「そこ!早くしろヤッ!!」と、怒声罵声で仕上げたピラミッド。

感謝もなく、自信もうすれ、「誇り」は生まれようも無く、

親に来てほしいとも思わず、運動会がおわると、

教師も子どもも、ずいぶん疲弊するんです。

だから、運動会のあと、教室が荒れます。

勉強も、やる気が出ません。

崩壊が始まります。

ジ・エンド。




このすごろく、そもそも、スタートがちがうんですよネ。

教師が、不安を持っていると、「先生の不安解消のためのコース」を選ぶことになり、最後は「学級崩壊」がゴールです。

教師に不安が無いと、「安心でたのしい運動会コース」を選ぶことになり、最後は笑顔の記念撮影、です。



ところが、不安が無い、というのが分からない先生もいます。

「不安を無くせったって、どうやったら無くせるのかわかりません」

と。


かんたんです。


まずは、子どもには心がある、ときっぱり思うこと。

つぎに、なにかにすがることをすっきりやめること。

そして、子どもをしっかりとみること。



この、
きっぱり!すっきり!しっかり!
3つのプロセスで、あなたの不安は

きれいさっぱり、

無くなります。

「曇りなき眼で見定め・・・」

アシカダ!

肝心なものは手に入れられない

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運動会でうんと高いピラミッドが完成しても、なんだか中身がスカスカだと、後味が悪い。

校庭に、怒声罵声が響きわたり、嫌みや皮肉を言われまくって、子どもたちがげんなりした顔でつくったピラミッド。

親も先生も、後味が悪すぎて、感動も何もないもの。

結果は手に入れたかもしれないけど、肝心なものは手に入れられないままで・・・。



完成したピラミッドが欲しいのではなかったんだ、と、いつも、終わったあとに気づくのよネ。


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「なんか、世の中、ずるいよね~」

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職場の親睦会(飲み会)がありました。
研究会や部会、学年会でまだお互いにほとんど話したことのない人がいる。
出会ってまだ2週間のお互いで、ちょっと懇親会、ということになった。


二次会で、複数の先生にさそわれて、岡崎市内の小さなお店に行きました。
ちょっと人生を語り合う感じになりました。

結婚していてもしていなくても、幸福になる人。
合格してもしなくても、幸福になる人。
賞をとってもとらなくても、幸福になる人。
なにかになってもならなくても、幸福になる人。

不思議とそういう人が結婚したり合格したり賞をとったりする。

「なんか、世の中、ずるいよね~」

と、酔っ払った女性の先輩が、ビールを注文しながら叫んでおりました。



「すでに幸せな人だけが、さらに幸せになっているように見える」のだそうです。

「〇〇ちゃん(後輩の先生)なんか、あんだけ仕事できるのに、そのうえ、かっこい彼氏がいてさ~」



以下、先輩談。



この野郎、と思う。

うちも、と思う。

そこで、イチかバチか、人生の大博打に出ると、なぜか失敗してしまう。



ところが、すでに心が満足している人で、

「もうあんたはおなかいっぱいでしょ!要らないでしょ!」

という人にこそ、幸運が舞い降りて、

現世の利益を享受しているようにも見える。




皮肉というか、

サカサマというか。

「なんか、世の中、ずるいよね~」

だそうです。



そして、結果がほしい人のところには、結果が来ない、のだそうです。

あるいは、結果(のようなもの)を得たとたん、破綻する。


「よく分からんよ、世の中は!」

という、先輩。



たしかに、なあ、と思います。

世の中の思考が、サカサマだということを、またひしと感じた夜でありました。

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早口について

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テレビのお笑い番組。

商売柄、どんなふうに話を進めるか、どの程度話題を拡げるか、

芸人さんたちのトーク術など、気にして見ることが多い。



ふと気が付いた。

見ていると、芸人さんたちは、相当な早口(はやくち)だ。

まてよ・・・。こういう番組を、子どもたちもふつうに見ているわけか・・・。




あれ?

そう考えると、教師も、時代の流れに乗って、早口でいいのではないか!?

むしろ、早口でこそ、子どもは授業にノッテくるのではないだろうか・・・。


なんでそう思ったかと言うと、実は、教員の早口は、マイナスポイントなのです。


管理職が行う授業の評価で、早口である、ということは、マイナスになっている。

高評価ではありません。

「うーん、先生は早口すぎますネ」

といって、注意されてしまう。

「もっと丁寧に、分かりやすくはっきりと指示を出すとか、ゆっくり発問するようにしないと」

これは、どの自治体の、どの教育委員会でも、そういう判断をすると思う。




わたしも、どちらかというと、早口の傾向がある。

授業の時はつい、早口になってしまう。



4月。

学年が変わって新しいクラスの担任になった。

これを機会に、子どもたちに聞いてみよう、と思いました。

「あらま先生は、早口だな、と思う人いますか」

半数が手をあげた。

「もっとゆっくり話した方がいいかな。早すぎて分からない時とか、ありますか?」

すると、意外にも。


「いいよ。今のスピードで。早い方がいい」

と。

びっくりして、

「ええ??ホント??わかりにくくない?」

と聞いてみたのですが、



子どもたち、

「いいよ。今のくらいが、いちばん面白いと思う。ゆっくりだと笑えないと思う」

「うん、そうそう。ゆっくりだと、パシッと笑えない気がする」



笑えないって。

お笑い芸人か、俺は?




この子たちは、ルミネか道頓堀の、よしもとの客のような気分で、授業を受けてるゾ・・・。


今、早口を矯正すべきかどうか、かなり悩んでいます。とほほ。


落語家

不安も無く、困りもしない

.
「〇〇にならないかな、あの子どうなるんだろう、だいじょうぶかな、心配だな~」

(ああ、そういうふうに不安になるのか)


「あの子、大丈夫だと思う?」

と聞かれたから、

「うん」

というと、

なんとも意外な表情で、あっけにとられたように、

「なんでそんなに心配にならないの?ぜったい大丈夫って、どうして言えるの?」

と不思議そうに問われたから、

「もともと問題はないし、これからも問題はないでしょうから、ネ」

と答えた。

大丈夫です。
そういうものなのです。

それでも不安を放そうとしない人に、何を言っても関係ないとは知っていながらも、

逆に、
「なんで心配になるのか、なんで困るのか」
と、聞いてみたい。

28

教員のワーカホリック癖について

.
教員は、なにかを、やりすぎなのではないだろうか。

過剰に、やりすぎ、なのではないだろうか。

アルコールでも、塩分でも、過剰なのではないだろうか。

そして、いろいろなことを、気にしすぎなのではないだろうか。

さらには、働きすぎなのではないだろうか。

ワーカホリック、という言葉もある。

子どもも大人も、働きすぎ。勉強も、しすぎ、やりすぎ。

教員は、行事をしすぎ、やりすぎ。


スイミングも、野球も、サッカーも、やりすぎて、肩を壊し、膝を壊し、「故障」する。

外反母趾は、ハイヒールの履き過ぎ。

腱鞘炎は、ゲームのやりすぎ。




できるだけ、やらないようにする、というのが、回復への第一歩なのではないだろうか。


現代の学校は、小学校のうちから、子どもたちに向けて、

「できるだけ努力して、『なにもやらない』ことができるようにしましょう」

と指導するべきなのではないだろうか。


これを、「なにもしない力(りょく)」、

別名、Do Nothing、つまり 無行力(むぎょうりょく)という。



朝の読書時間もいいけど、

「朝の、なにもしない時間」

をつくったほうがいいのでは・・・?



なにもしない、ということに、耐えられる人間だけが、次の世代に生き延びることができるのではないだろうか。

現代人は、なかなか、耐えられないのではないだろうか。


ともかく、しすぎやりすぎの人は、早く倒れる。


気になるのは、

だまそうとする人にとって、だまされる人の特徴は、なんでも過剰に思い込み、反応し、「やらなければ・・・」と思う人だそうで・・・。

他人の口車にのってしまい、口八丁手八丁、粉飾された嘘にころっとだまされ、いともやすやすと、意図されたブームに乗ってしまう。こうしなきゃ、と必要を説かれ、騙られると、簡単に信じて、うかうかと財産をはたいてしまう。

〇〇しすぎ、という体質の教員を、「しすぎ症候群教員」という。



○必要だから
○よいことだから
○みんなやってるから
○昔からやってるから
○努力は尊いから
○「継続は力なり」だから


ということが理由で、子どもたちにやらせることで、いいことなんてあまりないのでは??



一方で、やりたい、という声を邪魔することもない。

やりたければ、どうぞ、といって、尊重する。

少なくとも、うちの学級は、そういう学級。

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本当の元気とみかけの元気

.
よく、「元気な子」と言われる子がいます。

しょっ中、大声で騒いでる。
朝読書の時間も、隣の子になんやかんや、と話している。

そうじの時間も、ほうきをふりまわしながら、
友だちにちょっかいばかりかけている。


一方で・・・

1年生の入学式で、拍手をし続ける子がいましてネ。

一年生がたくさん入場してくる。
その間、ずっと拍手をしています。

ふだん、とても静かな子です。

この子のお母さんは、家庭訪問にいくと、

「静かな子でねえ。もっと元気に外遊びとかしてくれたらいいのに!」

と言います。





どちらが、元気な子でしょう。

うちのクラスでは、

あとの子の方が、元気だ、ということになっていきます。

これ、私がそういうから、ではないですよ。

子どもが、自然と、そう思って、そう言うようになります。


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全員立ち上がってましたが・・・お説教でしたか?

.
職員室で、声をかけられた。

まだ学級開きの初日、である。

入学式や始業式があり、子どもたちとろくに話もしていない。

顔もまだひとりひとり、見たのか見ないのか、という感じ。

お互いにドキドキしている。


ある先生が、

「新間先生!先生のクラス、全員立たせてましたけど、なにやってたんですか」

と聞いてこられた。

ふだんから気の置けない、おもしろい同僚の先生である。

わたしがやっていることに、少し興味があるようだ。
ときおり、廊下を歩きながら、私のクラスの様子が見えると、なにやってるんだろう、と思うらしい。

「え?立たせてたですか?」

わたしが急に思い出せずにいると、

「はい。子どもたちが、ほぼ全員、起立です。お説教ですか?」

ちょっとしたギャグなのか、からかうような調子で。

「びっくりしましたよ。初日からお説教かな、と」



そうなんです。

お説教じゃあ、ないんですが、立たせてましたネ。

うちの教室、しょっちゅう、子どもが立ったり座ったりするの。

じゃないと、面白くないから。

体を動かしたくなって仕方のない子がいるでしょう?

そういう子たちって、立ちあがったり座ったりするのが、好きみたいです。

授業中、教師公認のもと、体を動かせるのだからネ。



「全員立ちます!九九の七の段、言えたら座りなさい」

のような指示、よく出します。

また、地図帳を開いてたら、

「宮城県。ゆびで指せたら、立ちなさい」

とか。


全員立ったら、

「おとなりさんと同じだったら、座りなさい」

といって、座らせます。


3,4年生くらいだと、こういう活動が本当に好き。

一つの指示を出して、できたら、こうする。終わったら、こうする。

体育でも、そう。

「10回ジャンプできたら、走って壁をタッチしなさい。タッチできたら、もどってきて、着た順に座りなさい」

これ、子どもが燃える理由があります。

ちょっとした、ゲームみたいだからじゃないかな、と思っています。



ちなみに、初日に立ったのは、

「新しいぞうきんを持ってきた人は、立ちなさい」

でした。

初日だから、まだ持ってきていない子もいる。

立つことで、持ってきたぞうきんの、全体の「量」を把握できる。
立った人数が分かるから、すぐに前で集めるか、休み時間の前に箱に入れるかなど、教師が瞬時に計画できる。
立つことで、その子たちには「初日に忘れずに持ってこれた」という感じがもてる。(褒められたような感じ)
新間先生は、授業時間に立つのがふつうなんだな(べつに叱られるのでもなく、ふつうに立ったり座ったりするんだな)、と分かってもらうことができる。

「初日からお説教ですか?」
とは、わたしをからかって言ったのだと思いますが、
立たせたのは事実ですから。


いや~、M先生、よく見てるねえ!!


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もの隠しの場合~叱らないでも~

.
いくら、行動面の指導をしても、それだけではダメだ。

伝えることを伝えておいても、「叱らないではいられない」 という場合もあるだろう。



たとえば、意地の悪いことをする子の場合。

友達の靴を隠したり、消しゴムを隠したり。

ノートを、自分で自宅に置いてきたのを知っていて、

「なくなった!だれかが盗んだ!」

と騒いだり。


わたしは、その場合も、

「叱らないでどこまでやれるか」

を挑戦する気持ちになってきていた。


口で言い合っているようなことであれば、まったく問題が無い。
むしろ、心の内では

「自分の考えだ、遠慮するなヨ」

と思う。
言いたい意見は言える、というのが、人間が安心するための基本である。

ただし、パンチ、キックが出るようであればダメだ。なんとかしないといけない。
とはいえ、これらは、双方にやりあうそばから、表情に悔恨の念というか、
「最悪だ」という表情が浮かんでいる。
当人も、本当はこんなはずじゃなかった、と、分かっているのである。
そして、多くはあとで、双方ともに反省するものである。


いちばん厄介なのが、静かな意地悪だろう。

「もの隠し」は、これまでに数回、体験した。


〇ものかくしの場合

ものを隠された子は、とても驚く。

そして、なんで自分がこんな目にあうのか、と、いぶかしく思う。そして、自分のせいなのか?と誤解したり、戸惑ったり混乱したりする。

その誤解を、まずは解く。

その子のせいではなく、やった方の問題だ、ということを、確認する。
そして、たまたま標的になってしまっただけだ、ということを確認する。
とっても不安にさせてしまった、という点。
その不安を解消させるため、あなたはとっても大事にされるべき人間で、先生は全力でそこをサポートする、と力強く伝える。
しかしまあ、あまり力強く伝えなくても、すでにうちのクラスの場合、あまり気にしていない子がほとんどである。

「わー、靴見つかって、よかったわ」


と、なる。

そして、

「いやあ、びっくりしたけど・・・それにしても、大丈夫か?」

と、隠した方の子の心配をしてくれる。


こうなるように、クラスで何度も話し合いをし、学んでいくようにする。

隠した子も、自分の今の状態を真摯に省みるようになる。




結局、叱らずに済んでしまう。

わたしは思った。

「やっぱり、叱らずに済むな~」

※写真と記事とは無関係です。

この子、かわいい~っ!!
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・・・とは言っても、トラブルは起きる・・・

.
子どもを叱る場面は激減したが、

それでも『意地悪』は起きる。

わたしは、頭を整理してみた。



大人が子どもを叱る場面は、大きく2つに分けられる。

1) 行動面がマズイので叱る

具体例)
・静寂を求められる式典でうるさくしゃべるので叱られる。
・練習をしておかないとできないのに練習をさぼってリコーダーが吹けず叱られる。
・ぞうきんをきちんとしぼらず、床がべちょぬれで叱られる。
・盗みなど反社会的な行動や、交通ルールなどを違反して叱られる。

2) 友達どうし、人間関係の『意地悪』があるので叱る

具体例)
・友達の悪口を言う
・友達のものをこわす
・友達をからかう


大きく分けると、この2つだ。


このうち、1)は簡単だ。

先日より書いているところの、
事前に、子どもがよく理解できるように、趣旨を説明したり、
どうやるとうまくできるのか、なぜそれが皆にとって良いのかなどを
きちんと教えておくことで、叱らずに済む。

しかし、2)は、手ごわい。

これらは、単純に、
仲良いことが良いんだよ、と諭しても、それほど効果がない。
また、「自分がされたくないことはしないのが社会のルールだ」などと、いくら教えても、どこかしらで『意地悪』は出てくる。表面的に解消したように見えても、根本的なところでの『意地悪』は、潜んでいるものだ。


わたしは、2) については、やはり叱らないではいられないのではないかなあ、と、最初、ほんの少し考えてみた。

しかし、なんとなく、やっぱり、心の底では、

「叱らずに済むんじゃないかなあ」

という思いが、ぼんやりとだがある。
ぼんやりとだが、はっきりとあって、消えることがない。

そのうちに、そのぼんやりとしていた感覚はますますはっきりとしてきて、

「なにかわけははっきりしないが、やっぱり叱らずに済みそうだ」

という確信は、ますます明確になってくる。

というか、その明確さは激しくなってきて、その異常なほどの確固たる自信の湧きように、自分でも驚くほどだ。

最後には、絶大なる確信というか、もうぜったいに打ち消しようのないほどの自信が胸から飛び出てきそうなほどにまで巨大なものとなって、自分の心の中に、響き渡っている。

しかし、なぜなのか、分からない。


分からないから、どうも気持ちがスッキリしない。
どうして自分にそれだけの自信が湧くのか・・・?

あとで分かったのだが、

それは、自分の中に、
人間関係のトラブルは、ぜったいになんとかなるし、そのトラブルは、ほとんど消えていくだろう
という予測があったからだった。

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写真は、富山の海。

叱らないと決めたら・・・その2

.
あまりの効果の高さに、わたしは驚愕し、これはいったいどういうことか、と解析にやっきとなった。

もしかすると、これまで大人が子どもを叱っていたのは、

ただ単に。

きちんと教えてなかったからではないか。



これは、もしそうだとすると、あまりにも巨大な人類史上初の大発見になるため、
わたしはその、妄想じみた考えを、たちまちにして脳から追いやることにした。

いやいや。

太古以来、人類は子どもを叱り続けてきた。

地球上のどの文明にも、おそらく子どもを叱る、ということについては、

「それが普通。子どもは大人を困らせるものであり、言うことを聞かない。だから懲らしめて、言うことを聞かせるために、叱るのが人間として当たり前」


という前提をもっていると思われる。


それが、わたしのたった何日かの実験で、くつがえされるはずがない。


わたしは、自分で自分を笑うことにした。

笑いのめすことにした。

そして、

「そんな馬鹿な」

と、大声で何度もくりかえし、だれもいない教室で、独語した。


「叱るはめになるのは、ただ、教えていないからだって?」


わたしは大声で笑い、

「そんな馬鹿な。いくら伝えても、教えても、それでも反抗しやがるんだ。いくら教えたって、言うことをきかないのが、子どもってもんさ」


と、震えながらひとりごちた。

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叱らないと決めたら、教えることだらけ

.
叱らない、ということは、これは大変なことだ、とだんだん分かってきた。

子どもたちが、次の動きややることについて、きちんと分かっていないといけないからである。

分かっていないと、すぐに叱られてしまう。(他の先生に)

そこで、前もって、十分に伝えておかなければならない。

全校の集会や、行事などでは、念には念を入れて、とくに分かりやすく、間違いが決して起こらないような工夫をしなければならない。

さもなければ、他の先生に、

「なんでできないの!」

と怒られてしまうからである。



わたしは先の先の予定までを十分に見通して、かなり詳細に子どもたちに伝えるように努力した。

そして、それは莫大な効果を示した。

予定が分かっていれば。
動きが見えていれば。

子どもたちは、ずいぶんとスムーズに動くのである。

そして、そのことで、

叱られることが無い!!!




これだけでも、子どもたちは十分に機嫌が良い。


朝の時間。

前もってあれこれと伝えていると、授業の時間が少し削られることがある。(これは本当になんとかしなければならないことなのだが)
それでも、学年の集会や、学校の行事で、今、前もって伝えておかなければ!と思うことを、すべての子が理解できるように、と心をくだいて伝えていると、

なんだか、学級がとても落ち着く。



それはそうだ。

気持ちがいいのだ。

だって、次にどうなるかって、見通しがスーッと、みえているんだもの・・・


この子たちが、他の先生に叱られないように、と必死になっていたら、
そのことでのご褒美は、予想以上の、すばらしいものになっていた。

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母性で学級を経営する

.
当時、わたしはあることを思っていた。

それは、母性で学級を経営する、ということだ。

別に母性と言っても父性と言ってもいいと思うが、わたしのイメージする「母性」でいくと、

「否定せず、ありのまま、そのままを受け入れるだけのあり様」

という、ごく人間の持つ、自然な状態。
これで、育児ができないだろうか、と思った。



もちろん。
心のあり様、こころの姿勢については、男女や性差などいっさい無関係である。

人間であれば、相手を否定する、という特殊なことは、ふつうは『無い』のだと思う。
あるのであれば、やってみれば分かるが、それはとにかく苦しい。
相手を否定した瞬間に、断末魔のような悲しみと苦しみと泣きたくなるような黒い感情が噴出してくる。

そんなもの、いっさいなく、母性で子育てできたらいいのに、と思った。

要するに、わたしは面倒なのがイヤなのである。
まわりみちをして、わざわざそんなイヤ~な感情を味わってまで、相手を否定したくない。
といって、迎合するのも、自分の意思をまげるようで、それはしたくない。
Aちゃんのいう意見や考えに迎合するのでもなく、Aちゃんを否定するのでもない。

つまり、相手がどうであろうが、無関係に、自分勝手にやることにしたのだ。

こういうことを口で説明したり、今もこうやって文字で書いてみたが、おそらく何もツタワラナイだろう。
多くの人は、わたしがこういうことを言うと、

「子どもを無視している」

というが、そうではない。
無理をしていないだけだ、と思う。
それに、子どもの邪魔はしないのだから、むしろ尊重しているのだと思う。

また、別の言い方で、わたしのことを

「あなたは勝手だ」

という人もいるが、そうではない。
どうしようもなく、個々人の人生は、べつなのである。
それが本来なのだ。
そして、それが、実は子どもの本当を大事にする、ということなのである。


・・・

そこで、わたしは一切子どもを叱らず、やっていこう、とこころに決めた。

ドキドキしながら、コンパを組む相方の先生にそのことを伝えてみると、案外あっさりと

「はい。ついていきます」

と言っていただいた。
すばらしい。

これこそ、学年主任の力、なのかもしれない。
遠慮せず、学級の方針を打ち出せる。
これで、叱らない、をやれるかも!と思うと、うれしくなった。

わたしは、奮い立った。

2年生の担任として、わたしは初日を迎えた。

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責めあうことのない社会づくり

.
教員になって、めざしたのは、「責めあうことのない社会をつくる」

これを、指示命令でもって、

「はい。責めあってはいけません!」

と指示をいくら出してもそうはならないだろう、という予感はあった。

「こら!そこ!!責めあうなと言っただろうがッ!」

「罰として、給食のおかわり、なしっ!」

・・・

こんなのは、本末転倒ですし・・・。




そこで、指示命令ではなく、本心からもって、責めあうことが必要なくなるような社会にしなくてはならないことに気付いた。これが、まず第一のポイント。

責めあわない社会は、形や見た目でなく、本心でそうなることが大事。


ところが、教師になってやることは、指示命令ばかり。

そんなことないだろう、と思っていたが、教師になって1,2年目、とくに最初の頃は、遠慮してしまっていた。

「新米の癖に」

「教師になったばっかりのやつが、何を言う」

「きみはまったく教師の仕事がなんなのか、分かってない」

と、責められることが不安だったのだ。

だから、一生懸命に、

〇きちんと叱れるように

ならなければ、とガンバった。



ところが逆説というやつで、叱れば叱るほど、子どもは本心を隠し、いじめが起きるし、ぎすぎすとした空気が生まれるし、楽しくなくなる。

そこで、楽しいことを取り入れないといけないと思った。

先輩の先生に相談すると、

「そりゃあ、叱ってばかりじゃあだめよ」

と、ナイスなアドバイス。

「叱ったあとは、3倍ほめるのよ!」

と、まさにわたしが必要としていたアドバイスが下りました。

そこで、わたしの仕事は3倍に増えた。

叱る、ほめる、叱る、ほめる、叱る、ほめる・・・


これ、半分、うまくいったようにみえました。

なぜなら、子どもたちが、わたしを好いてくれるようになった(ように見えた)。

ギスギスした空気はなくなって、わりとほんわかしてきた。

わたしは、これで学級経営はうまくいきはじめた、と思った。


ところが、やはり、責めあう。

責任をなすりつけあう。

当番の仕事をいやがる。

見た目は仲が良いけど、本当に溶けあうような関係にはならない。


わたしが、

「どうなのかなー、うちのクラス」

というと、仲の良い同僚の先生が、

「いやあ、先生のクラスはうまくいってますよ。ちゃんと行事もこなすし、きちんと授業も受けている。仲良くサッカーとかもしてるし、女子だってトラブルがほとんどないでしょう。できたほうですよ」

と言ってくれた。


ただ、皮肉にも、こうやって言ってくれると、やっぱり、わたしは道を間違えているな、と思うのでありました。


わたしが操作の手をとめると、このクラスは崩壊するな。


これでは、本当にこの子たちが、自力をつけたとはいえない。


これが、最初の4年間でありました。

5年目の春。

転機が訪れます。


校長室によばれて、

「あ、新間さん。2年生の担任をしてほしい。ついては、学年主任ということで」


この瞬間、わたしの頭の中に、ピカーッと、光り輝く火の玉が見えたような気がした。

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ぶらり!富山の旅へ!

.
束の間の春休みだ、ということで、家族会議を開き、

「たった一日だ。しかし、長距離ドライブも可」

というと、嫁さまも息子たちもみんな興奮し、

さしみ!魚!

とわめくので、富山へ行くことにした。




たちまち富山につくと、街の様子がおかしい。

なにがオカシイかというと、やたら看板がでかい。

これは、故郷の岡崎市をしのぐ大きさで、おそらく条例などがなく、

資本主義の自由気ままさによって、それぞれの店が
◎可能な限り、大きくしたい

◎可能な限り、目だちたい

◎資本主義は、目立ってナンボや!

という方針で、ただただ、ひたすらに自分の店の繁盛を願って看板のでかさを競い合った結果なのだと思う。


資本主義を楽しむには、半分狂気のようなものが必要だ。
テンションが高くない資本主義は悲惨。

われわれは、資本主義を選んだのだ。
看板もこのくらいテンションが高くないといけない。

大声で店の前で叫び、ゆるキャラがダンスするくらいでないと。
また、空の上からはセスナ機が叫びまわるくらいでないと。

そうでなければ、資本主義は楽しくない!



しかし、看板をでかくする、ということが

かならずしも、売り上げの向上には、むすびつかないことがわかって、

ちょっとばかり、疲れてしまったように見える。


疲れる前は、町の中にどんどんとでかい看板が立ち始め、それを見ながら

「やるな、ムムム!」

とお互いに切磋琢磨する気分というのは、なかなかに面白かったろう、と想像される。

どんな計画も、思いついて、実行に及ぶ、初期の活動の盛り上がりというものがある。



さて、


とびきり極上の看板がならぶなか、これが一番や!と息子が太鼓判をおして推薦したのが、これ。この看板。

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なんだかカレーを売ってるのだか、ゴリラを売ってるのだか迷う。

店内に入ると、これまた、そこかしこに見える、ゴリラマーク!!

ゴリラで、ゴーゴー!!

の嵐でありました。



こういうふうに「富山・看板さがしの旅」を終えたわけですが、やってみて息子の感想は、

「たまにはこんな刺激も欲しい」

ということでした。

つまり、ふるさと岡崎市は、刺激が少ないそうです。


「でも、たまに、でいいけどネ」

ふいに黙ってしまって、岡崎市会議員にでも立候補して、岡崎を刺激的な街へと変貌させるのが親の役目だろうか、と考え始めたわたしの横顔をみながら、やさしい息子はあわてて、そう補足したのでありました。


下は、通常の電柱の高さをはるかに超え、競い合って空中高くにそびえ、伸びていこうとする看板たち。もちろん、ゴーゴーゴリラの看板は、3階建てのビルに匹敵するくらい、超特大であります。

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