30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2017年01月

これからの道徳の授業は、『自分をみる』

『普通に生きていても
人の言葉や行動で
理不尽なことってたくさんあって

そのたびにしばらくそのことで
頭がいっぱいになったり
色々なことが手につかなくなったりする

どうしてあんなことするんだろう?
なんであんなにひどいことを言うんだろう?
自分が何をしたのだろう?

いくら考えてもきりがないし
空回りだ。』

https://feely.jp/42323/




けっこう、子どもの日記にも、同じニュアンスの内容を発見することがある。
これって、これからの新しい道徳の授業の中の、いちばん大切なところだろう、と思う。
子どもの切実さ、必要性が、そこにあるのだからネ。


高学年となると、抽象的な概念を、語ることができるようになってくる。

幸福 とか 理不尽 とか、こころ とか。


そこが面白い。

『どうしてあんなことするんだろう?
なんであんなにひどいことを言うんだろう?
自分が何をしたのだろう?』


ここでいう、『あんなこと』 って、なんだろう。

あんな

の中に

なにを見ているか。


あんなこと!!

理不尽な!!

決して許せない!!

不都合きわまる!!

気に入らねえ!!

あんなこと!!!

わたしはアンタを、ぜったいに許さねえからなっ!!!



こういう感じかな。

オブラートに包んでいるし、やさしく書いているし、そこまでイキリタッテないよ!
ということかもしれないけれど、
こころの内情は、こんな感じだろうか。
相手の態度が気に入らなくて、相手に非がある、と決めてかかって、相手を責めようというものが元。



なんで腹が立つのか



これ、6年生で考えていますが、面白くてならない。

最初は、腹が立つことの正当性を、これでもか、とみんなに話す。

しかし、クラスメートがその正当性を、訴えれば訴えるほどに、

「??なんで、それで腹が立つかな・・・」

という感じが、空気として、じわじわと教室に出てくる。

そして、

「腹立ててもべつにいいけど、結局、なにがしたいの?」

と、そのひとのやろうとするところ、あろうとするものを、問おうとする仲間が出てくる。

「いや、だから、〇〇じゃなくて、△△がしてほしかったんだわ」

「あー、なるほど、△△してほしかったのか。・・・・で、それはそうと・・・」

という感じ。



このやりとりが、教室中が、不思議なオーラに包まれて、なんともゆるーく進んでいく。

進んでるのか、わからないくらい、ユックリと。

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「だれだって、怒られたくない」

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教師に怒られるのがイヤで、ドリルの答えを写してしまう子がいます。

間違いを恥とし、点数の高い低いで教師に脅され、「そんなんじゃ、幼稚園の子にも笑われるぞ」なんて言われたら、脅しによる恐怖を避けるために、裏道を行こうと考える子だっているでしょう。

素の姿を見せると罰を受けるという恐怖から、本当の姿や素直な心持ちはひたすらに隠し通し、波風を立てぬよう、親や教師の前ではいい子でふるまう。

決して、間違いを口にしたくないのです。

すべてにおいて、教師に「非」を悟られたくない。
そもそも自分の行動の一つ一つ、それが「非」かどうかの判断を誰がするのでしょうか。

教師がする?
だとしたら・・・
そりゃあ、教師に対して、「警戒心」も発達するでしょう!
ともかく教師には余計な詮索をされたくない。

何かをするたびに指摘され、<裁きと罰>で脅されていたとしたら、どう感じるようになるでしょう。きっと素直な考えを口に出すことをためらう子がでるのではないでしょうか。

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大人だってそうです。
素直な思いを口にした途端、腹を立てたり、言葉じりをとらえて気にしたりする上司がいれば、だれも思ったことを口にはしなくなるでしょう。

思ったことが言えない空間、教室、学校。
だれもそんな場所に、いたいとは思わないでしょう。

考えてみれば、私たちは、「怒られないために、叱られないために、悪く思われないために、迷惑のかからないように」と、先回りして心配し、何か手を打たねばと焦って行動することが多いです。
教室の子どもたちも、まったく、その通りであります。


人にどう思われるか、と我慢している子は、素直で思ったことを言う子に対してやきもちをやきます。

教室で発生するいじめの首謀者は、本音を言えない、さびしい、友人のいない子がほとんどです。
親にも友達にも教師にも、だれにも心を開けない子。
心を開かない子が、開いている子の自由さにあこがれて、足を引っ張るのがいじめです。
自由でないから、憂さを晴らす。ストレスをぶつける。

大人が感じるべきなのは、その子の表面に出てきたものでなく、その子の内面でありましょう。そのためには、決して、<裁きと罰>を即効的に持ち出さないことです。
<裁きと罰>で脅せば脅すほど、その子は、カムフラージュの術にたけていくだけです。

卒業を目前に、
「叱られたくない」という一心で、卒業式の合唱練習をするのだとしたら、その合唱の意味は何でしょう?
カムフラージュの合唱が「透きとおった歌声」なんかになるわけがない。

クラスの中で、安心して過ごしているかどうか。
その「安心」だけが、その子の「素」を引き出すのかと思います。
卒業式の合唱を聞いて、どう聞こえるか。
そこに、教師が1年間、積み上げてきたものがすべて、現れるのでしょう。

見た目の態度や行動やセリフなんて、ぜーーーんぶ、薄っぺらな、表面だけのもの。
それでなにかを評価されたり、判断されてたら・・・

「大人なんて、かんたんにだませるな」

ということになりますネ。

新間先生の方を向いて、歌おう、という子がいたら、その子の目を、しっかりと見つめようと思います。

あっと驚く、「国民全員100万円法案」とは

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ちょうど、6年生の社会科で、政治の勉強をしているところです。

トランプさんが大統領になった、というので、大統領と総理大臣はちがうのか、という質問が出ました。

そこで、オバマさんの就任時の、あの熱狂的なフィーバーを思い出し、その大統領就任の時の感動的なスピーチが本になっていますから、それを図書館で借りてきて、子どもたちに見せました。
index

オバマさんが大統領になったのは8年前ですから、今の子たちはたったの4歳。
あの、「オバマフィーバー」を知りません。
昨日のトランプさんの集会には、数字をCNBCWSJ紙からひろってみますと、なんと70万~90万人が、米大統領就任式に参加したり集まったりしたそうです。
にわかには、信じがたい数字ですが・・・。

オバマさんのときは、それよりも100万人多い、180万人。これはWIKIから拾った数字なんですが、これもまた、にわかには信じがたい数字です。

さて、今やトランプさんは、新しい法案や政策をつぎつぎと発表しています。

「みなさんにも、新しい法案を考えてもらいます」

といって、授業を進めます。

「法律をつくることができるのは、誰ですか」

みんな、資料集や教科書から、答えをみつける。

「国会議員と内閣」

そうですね。これからはみなさんに、国会議員の役をやってもらいます。

国会でまず行うことは、内閣総理大臣指名選挙ですから、総理大臣の立候補者を募ります。

立候補者を募ると、Yくんが手を挙げました。
他の子は、なにがなにやら分からないので、不安げに様子を見守っています。

クラスを3つにわけ、おおまかにそのうちの2つを衆議院、のこりの1つを参議院にしました。

ルールとしては参議院でもいいのですが、通例でYくんを衆議院の議員だということにし、両議院でYくんを指名させ、Yくんが総理大臣だ、ということになりました。

さて、ニコニコしているYくんを、「Y総理!」と呼びながら、授業は進みます。

Y総理の公約は、「ベーシックインカム法案」です。

本当の名前は、「毎年国民全員が100万円もらえる」という法案です。

そんなことをしたらインフレですごいことになるし、赤字国債で破綻する、という、秀才Aくんの忠告やおろおろ声を乗り越え、クラス全員、

そりゃあ、いい!!

と、この法案を通すことになりました。

まずは総理大臣になり、内閣を組織します。

官房長官はだれ?
スピーチの上手な人がいいよ。

「じゃ、Fさん」

Y総理は、クラスの秀才女子、Fさんを指さしました。
Fさんが拒否しなかったので、Fさんが官房長官です。

文科大臣は誰にする?
学校のことや、科学のことを担当する人だよ。

「じゃ、理科係」

次々と、内閣を組織していきました。
厚生労働大臣には、クラスの国会議員ではないですが、保健の先生を指名します。

防衛大臣は、教室の後ろの扉近くに座っていた、文学少女のBさん。

「ええ? なんでわたしなの?」
「不審者が入ってきたら、そこで撃退してほしいから」

この国の防衛大臣は、まっさきに身を挺して戦う人が大臣ということらしいです。
「え?大臣自ら、まっさきに暴漢と戦うの?」
「当たり前じゃん」


内閣が誕生しましたので、記念撮影をします。

つぎに、内閣が法案を出します。

Y総理 「えー、この、国民全員100万円法案を、ぜひ通してください」

野党の秀才、Aくんから横やり。

「そんな法案を通したら、国家の財源がなくなってしまいます!」

Y総理 「しかし、絶対に犯罪が減りますッ!!!」

A議員 「財源はどこにあるんですか!」

Y総理、

 「この道しかないッ!!」



ここで、おおっ、というどよめきと拍手が起こりました。

つまり、現役の小学生にも、「この道しかないっ!」と断言する「手法」が、ある一つの政治の型(カタ)として認知され始めている、ということですね。

軽い審議の後、採決。
衆議院を、法案が通過しました。

つぎは参議院です。
さっきから、手ぐすねをひいて、参議院のメンバーが待っていました。
目つきが怪しいです。
「ぜったいに廃案にしてやろう」
という感じ。さっき、あんなに賛成してたのに。
Aくんが、「これ通したら、税金がむちゃくちゃ高くなる」とか、「破たんする」だとか、不安げなことをつぶやいている影響でしょうか。


案の定、参議院では否決されました。

「このあと、本当の国会ではどうするのでしょうか」

みんな、教科書をみて、確認します。

「再度、衆議院で話し合います」

そのとおり。

衆議院にもどってくると、衆議院のメンバーも、目つきが怪しくなっています。
野党のAくんが、トイレ休憩の5分間に、相当な根回しをしたようで・・・。


衆議院でも、審議が紛糾!!
もつれにもつれました。

そこで、強行採決(人間かまくら)、という方法があることを伝えました。
安保法案のときの、やり方です。

すると、Y総理が

「それだ!」

と叫んでみんなをよび、なにやらごにょごにょ・・・

「全員、立て!」

と叫ぶやいなや、

「採決!!可決しました!!」


・・・


法案が通りました。

ぶぜんとするのは、秀才のAくんです。

しかし、さすがにAくん。不敵な笑みをうかべまして・・・

「先生、今の採決の方法に納得がいきません。内閣不信任案を出します」

まさかの不信任案が出た!!!

Y総理。ひたいに汗をにじませています。

どうなるのでしょうか。

わたしも分かりません。

社会だけで、3時間使っちゃった。

金曜日の午前中が、社会だけで終わるかもしれない。

こんな予定じゃなかったのに・・・。

国会議員の仕事とは

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社会の授業で、国会議員の仕事や、立法、行政、司法の三権分立などについて学ぶ。
民主主義の根本だから、小学校で学ぶのは当然のことだろう。

ところで、これまでの日本の歴史の中で、いちばんこの

国会議員

に注目が集まった時期はいつだろう。

子どもたちとともに調べていくと、どうやら戦争が終わって間もなくの時期がそうらしい。

「昭和21年に、衆議院の国会議員をえらぶ選挙が行われました。
立候補した人が、なんと2770人もいました。(うち466人が選ばれる)
どうしてこれほど、国会議員になろうとする人数が多かったのでしょう。」


衆議院議員に立候補する人の数


実はこのときがもっとも多く、その後はどんどんと立候補する人数は減っていく。

「先生、いまはどのくらいなの?」

子どもたちに予想させると、現在は、だいたい1500人くらいだろう、と予想する子が最も多い。

「合格する人が(当選する人が)、500人弱だよね。どれくらいかなあ」

そこから考えて、まあその3倍くらいは立候補しているのではないか、という予想。

しかし、実態はまったく少なく、小選挙区制になってからはほとんど、500人程度である。

「少なくない?」

と、子どもたち。




「立候補するのに、金がかかるんだよね」

それも一つはあるかも。



戦争というむごい世界観から抜け出て、理想に燃えていた時代。

自分たちで、ぜったいに戦争や偽りのない時代を迎えよう、という考えが強かった時代。

国会議員に立候補する人の多かった時代は、どうやらそんな時代だったのかもしれない。



悪法と名高かった、「食糧管理法」のもと、裁判官が餓死したのは、昭和22年だ。

闇米を買う人が検挙され、処罰を受けた時代。

しかし、「闇米は食べない」として、ルールを貫いた裁判官が餓死する時代だった。

日本人のだれもが、法律に違反し、闇米に手を出していた。
たしかに『悪法』だったかもしれないが。

裁判所の記録には、闇米で検挙された老婆が、裁判官に向かって「鬼め!」と叫んだ記録まであるそうな。


そんな昭和21年、なぜ、国会議員に立候補しようとする若者が多かったのか。
(ここでいう若者には30代、40代を含みます)


子どもたちは、あれこれと考える。

法律をつくることができるのは、国会議員だ。

その国会議員になろうとする人が、全国に2770人もいた、という事実。



独裁ではない、自分たちが自分たちに一番良いとするルールをつくり、自分たちがそれを守るのだ。

「民主主義」、という言葉が、華々しく登場し、日本人がそれへの理解を自分のこととして必死に深めようとした時代。

6年生の社会科の学習は、長い歴史学習を終え、いよいよ「民主主義」の学習を迎える。

まさに、佳境、という気がする。

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寝袋(ねぶくろ) その3

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思い出してみると、小さい頃のわが家にも、寝袋があったような記憶がある。使用したのはやはり、畳の上ではなく、山小屋であった。

小学校三年生の夏休み、父と母は共謀して、子どもたちを長野の高原へ連れ出した。その計画が発表されてから、子どもたちはどれほど喜んだことだろう。山登りときくと、まるで自分たちが、ヒマラヤかエベレストにでも登る気分になり、過剰な興奮でめまいがするほどであった。

出発前、もっとも忙しいのは母であった。
家族の弁当の用意から、種々の道具の準備、子どもたちの服の用意、怪我対策、まさかのときのための健康保険証、あるいは道路地図から水筒の用意まで、あらゆる仕事を為さなければならない。
これらをまたいかにしてコンパクトにまとめるか、袋に収納して運ぶか、ということにまで知恵を使い始めると、すでに疲労困憊といった具合であった。父は何をしていたろうか。記憶にないところをみると、やはり前日の夜のぎりぎりまで、仕事をしていたにちがいない。

子どもたちは、山へ行く、という前代未聞の興奮状態に我を忘れたようになり、熊を退治する、といって金属バットを準備したかと思えば、姉二人は湖畔でサイクリングをするんだ、といって自転車のタイヤの空気圧をしらべたりし、家族中がまるで気が違ったようになっていた。

当日の朝、車に乗り込んで、道路地図をにらみながらウンウンとうなっていたのは、父である。私たち兄弟が準備した意味のない荷物は朝一番に母の手によって半分以下に減らされ、下の方の姉がギリギリまで抵抗していっしょに連れて行くことになったペンギンのぬいぐるみさえ、トランクの底の方にしまわれてしまった。

不思議なことに、私たちが出発の準備をととのえて、車に乗り込んでいるにもかかわらず、いつまでたっても母だけが姿をみせない。父は、道路地図を放り出し、ダッシュボードの上に足を乗せると、クラクションを派手に鳴らした。姉が家の中へ偵察に伺うと、驚いたことに母はまだシミーズ姿のままで、鏡台で懸命に化粧をしているのであった。



長野の高原は、ひんやりと涼しく、快適な空気に満ちていた。カッコウの声がきこえると、私たちは心をときめかせ、手を叩き、すでに勝利の余韻に浸ったようになった。目的地につくと、姉の想像した静かな湖畔はなく、私が待ち構えていた退治すべき熊もいなかったが、私たちが想像も出来なかった、すばらしいバンガローが、全身に木の香をただよわせて待っていた。

父が得意気にバンガローの扉を開けると、ずいぶんと広い部屋があらわれ、部屋の壁にはしゃれた置物や写真、ランタンなどがかざってあった。しかし、それらをじっくりとみてみると、長い間使われていなかった証拠に、見たこともないような大きな蚊や蚋、もしくは蛾のたぐいが壁にへばりついており、父はそれらを退治せねばならなかった。

「蚊取り線香はなかったか」

父が呼ぶと、母は張り切って荷物を探し始めた。しかし、残念なことに、それらを忘れてきたことが判明した。姉は二人で顔を見合わせ、この世の終わりだ、というような顔をした。



バンガローの近くで夕食のための準備を始めていると、すぐ近くの森から、一人の少年がひょっこりと姿をみせた。裸足にサンダルばき、傷だらけの足をして、よく日焼けした顔がニコニコしている。
私は、母と姉らが夕食に気を取られている間、ずっとその少年と遊ぶことにした。彼もまた、高原へ遊びに来た観光客であった。彼は、家族と東京から来たといい、道脇に止めてある大きな車のところまで連れていってみせてくれた。キャンピングカーというのだろうか、うちの小型車の二倍はあろうかという大きなもので、どうも旅慣れた一家のようであった。さらに聞くと、少年の泊まるテントは、父親がいつも使っているものだそうだ。

「お父さん、登山家なんだ」

トザンカ、というのが何なのか、私は分からなかった。しかし、どうも大層な職業らしく、彼は得意そうに、鼻をピクつかせた。

「うちのお父さんは、サラリーマンなんだ」

私も負けじと、鼻をうごめかせた。サラリーマン、というのも、実のところ多少その意味が判然としないのであったが、たぶんそれは、スーパーマン、スパイダーマン、仮面ライダーマン、といったたぐいの人であり、すこぶる超人的であるはずだった。

「ナントカマン、というやつじゃないの?」

私がなおも意地悪く問いつめると、少年はどうも困ったような顔をした。

「見に行く?」


少年は、その御父様に会わせてくれた。ものすごいヒゲの、たくましい方であった。

「どう?すごいでしょう。キミんとこ、ヒゲある?」

少年は、勝ち点を稼いだ、というように目を光らせて訊ねた。
私は素直に、敗北を認めた。残念なことに、サラリーマンは毎朝、あのもじゃもじゃとたくましく育つはずの黒い点々をすっかり剃ってしまうのである。

私と少年がいっしょになって遊んでいるのが、よほど嬉しかったらしく、彼の御父様は笑って話しかけてくださり、私たちが五人家族ですぐ近くのバンガローにいることが分かると、いっしょにご飯を食べようか、と誘ってくださった。

その夜の食事は、なんとも豪勢なものであった。奥様はまだ若く、ほっそりと痩せた方であった。一人息子の少年は、私と一緒に食べっくらをし、最後にデザートやお菓子を食べるころには、横になって立てないほどになっていた。わが家は、果物の缶詰やキリンレモンを提供し、フルーツポンチ風にしてふるまった。これは、好評に迎えられた。母どうしも話しが合うようであり、父どうしも話しが弾んでいた。

トザンカの御父様は、わりと静かな落ち着いた声でゆっくりと話し、その一方でよく笑った。私の父もよく笑っていた。私は、このように、身体の大きな父という存在が二つあり、それらが話をしているのが面白かった。こういう大きな存在は、めったに現れないものと思っていた。また、ひとつきりしか現れないものだと思っていた。ところがその夜は、目の前に、ふたつも出現していた。

ゴジラとガメラがふたつとも画面いっぱいに現れた感じであった。

楽しい宴会がお開きになるころ、母が言いにくそうに、蚊取り線香の拝借を頼んだようである。少年が、荷物の中から線香を取り出して、渡してくれた。それはわが家でよくみるタイプの、緑色をした細いうず巻き状の線香ではなかった。茶色でごく太く、まっすぐの形をしていた。

「登山するときは、これなんですよ。なにしろ、ものすごく強力なんです」

ヒゲの御父様がいうと、わが家の父が

「登山家はさすがですなあ」

と喜んでみせた。どうも、向こうの方に、ちょっと分があったような気がしてならない。



楽しかった高原のキャンプから帰宅した次の日の朝。
私は遠慮がちに、父に頼んでみることにした。

「お父さん、お願いだから、ヒゲ伸ばしてよ」

ちょうど洗面所でヒゲをそっている時に頼んだので、父は鏡を見ながら、

「ん?」

と、短く反応しただけであった。



このところ、久しく山登りもしていない。寝袋を持参しての登山というと、どうもおっくうな気がしている。日帰りでもいいから、思いきってでかけてみると気持ちが良いだろうなあ。


自宅から、小高い山が見える。

今は雪で山頂は真っ白だが、夏になれば登山もできよう。
いつか、山頂にまで行ってみようと思っている。

やま

寝袋(ねぶくろ) その2

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寝袋で寝るのは、何も山だけに限ったことではない。畳の上でも、寝袋を使うときがある。松江で一軒の小さな家を借り、友人と住んでいた頃のことだ。いきなり寝袋が必要になった。



夜遅く、友人といっしょにアルバイトから帰ってみると、驚くべき光景に遭遇した。

「今朝って、はれてたよな」

たしかによく晴れていたのである。私は陽のあたる窓枠にふとんをかけて、外出したのであった。ところが夕方から大振りの雨が降り出し、だんだんと雨足は強くなった。目の前にある私のふとんは、たたきつけるような雨の下で、窓枠から半分ずれ落ち、暗く濡れた地面の上にころがっていた。

それを見た友人は、

「俺、無精で良かったなあ」

と安心したため息をもらした。彼は、ふとんなど干したことがなかったのだ。

しかし、さすがに友人である。びしょぬれのふとんを目の当たりにすると、私のことがふびんにおもえたらしい。押入れから奇妙な黒い袋を取り出すと、

「おい、これで寝られるぞ」

と、手渡してくれた。

それは、まだ新しい寝袋であった。

その晩、畳の上にじかに寝袋を敷いて横になると、窓の外からきこえてくる雨だれの音が、なんともわびしく聞こえたものだ。私は友人の好意に感謝した。だが、ちょっと気になったのは、その寝袋から妙な香りがただよってくることであった。清楚で、上品な、なんともいえぬ香りである。

「平安貴族が衣類に焚き染めたような香りだ」

と、私は横になりながら思った。それは、寝袋の中で姿勢を変えたり、身体の向きを変えようとするたびに、強く香ってくるのであった。


翌朝、その件について問いただしてみると、友人は

「それさ、仏間の押入れにしまってあったから」

と答えた。


それで合点がいった。寝袋から感じる奇妙な香りは、お線香の香りであったのだ。

友人は、ある宗教家のもとに生まれ育った。四国にある実家は大きなお寺で、檀家から寄付された物品があれこれと届いたらしい。したがって、彼はいつも金はなかったが、そのかわりいろいろと、物を持っていた。寄進されたそれらのものは、しばらくの間、仏さまの鎮座される部屋の一隅に、奉納という形で置かれるのだという。友人は、私が渡した寝袋を顔の前に持っていくと、丁寧に匂いを嗅ぎ、

「うーん、仏間に長く置きすぎたな。線香の匂いがとれないや」


といって、そのまま開いていた押入れに投げ込んだ。

ねぶくろ


その友人の父親が、下宿の様子を見に来たことがある。

お父様は、牛肉をたっぷりとおみやげに持ってきてくださった。

なにしろ、宗教家である。私は、いくぶん緊張気味になった。

お父様は、べつに神がかり的な格好ではなく、ごく普通の服装で玄関に現れた。私は、山伏のように金剛の錫を持ち、いくつも房をつけた特別な衣装でいらっしゃるのでは、と想像していたため、多少がっかりしたのであった。

御父様は、予想外によくしゃべった。
頂き物を目にしているので私は正座を崩さず、言われることにいちいち、ごもっとも、というふうにうなずいていた。御父様は独自の教育哲学を語り、運命論をぶちあげ、さらには山登りの諸注意をアドバイスしてくださった。同居人である息子の方をみると、これも手土産のウイスキーを、ちびりちびりと嘗めながら聴いている。その息子がかすかに眠りかけようとすると、私は彼の肩肘をつついたりしながら、持論をご披露して下さるお父様の顔と、そのよく動く口を見つめていた。

友だちの父親に会うのは、妙な心もちがする。それは、私が父親に対してある決まった印象を抱いているからかもしれない。自分の父親のことだってよくわからないのに、友人の御父様となると、なお一層、正体のつかめない心地がするのだ。そのような方にお目通り叶うのはいいが、言葉を交わすとなると、ちょっと畏れ多い気もする。

四国から、牛肉とウイスキーを持参して、息子の様子をみにきた御父様は、長い弁舌のあとはぐっすりとお休みになった。翌朝も、別に朝の水垢離をとることもなく、裃をつけて榊を振ったり、熱心に神仏に祈ることもせず、平凡なあくびをひとつすると、松江駅からごく普通にお帰りになった。

その後、友人が新しい服を着ているのを見つけた。金ができて購入したのかと思って聞くと、それは御父様が別のふろしき包みに入れて、そっと渡してくれたものだという。

「だけどさ、こいつも線香の匂いがするんだよね」


友人は、服を着たまま二の腕の辺りに鼻を寄せ、一瞬顔をしかめてみせた。

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寝袋(ねぶくろ) その1

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机の上に、写真を飾っている。
猿が温泉につかっている風景である。

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猿が、実に幽玄な表情で、いかにも温泉を味わっているというようにまぶたを閉じている。その顔が何とも面白く、見るたびに可笑しくなる。その表情をみているだけで、自然に親近感が湧いてくるから面白い。

本によれば、特に日本の猿だけがこういう習性をもつようだ。チンパンジーやキツネザルが温泉につかっても、あまり似合う感じもしない。日本の猿は、元来真っ赤にほてったような顔色をしているからか、なんともぴったり合う気がする。


そういえば、変なことを思い出した。猿に、食糧を奪われたことがあるのだ。
三重県の山で、キャンプをしていたときのことだ。それは、若者たちが集まって、きれいな山小屋に泊まって山仕事などを体験する企画であった。

夕食に本格派ラーメンをつくろうというので、厨房には有志の女の子たちが集まっていた。その日、野菜や肉類を豊富に入れて、具たっぷりのボリュームラーメンが製作される予定であった。
食材が、山小屋の縁側に並べられていた。縁側の横に道がついており、そこから上は急斜面となり、大きな木の幹が連続して見えている。小屋の脇には清流が流れ、そこから水分を含んだ涼しい風が吹き込んできていた。

川の中ではスイカが冷えていて、その隣にはオレンジジュースの紙パックが並んで水の中にしずんでいた。オレンジ色のイラストは、遠めにも美しく映え、川の水に洗われている様子を、小屋の中からもくっきりと見ることができた。なにしろラーメンはスープが決め手だというので、女の子たちは昼下がりから懸命になっていた。ダシをとったり、具を刻んだり、馬鹿でかい金ダライで湯を沸かしたりしていた。

たぶんこの頃、猿がやってきていたのだろう。

ラーメンの麺が、誰もいない縁側に置かれたままになっていた。お腹をすかせた山の住人は、箱を開け、麺を取り出すと、茹でないままの麺をいくつかその場で食べ、あとは抱えられるだけの量を抱えて、静かに遁走したらしい。女性たちは誰一人、その行為に気がつかなかった。


夕刻になって、日暮れた山の上から、男たちが帰ってきた。
山仕事の枝打ちを終えた男たちが疲れた足をひきずりながら、汗で汚れた手ぬぐいを腰からぶらぶらさせて下りてくると、あたりはにわかに騒がしくなった。川の横でドラム缶の風呂を沸かしているので、河原からもうもうと煙りが立っている。すでに何人かの男が、作業着を脱ぎ捨て、Tシャツ姿になると、薪を手にしてドラム缶のまわりをうろうろしはじめた。

「お、野菜スープじゃんか!」

鍋の蓋を開けてみた、気の早い男が口笛を吹くと、厨房から女の子の声が飛んだ。

「今日は、ラーメンよ。それはスープだけ」

「おお、ラーメン!」


大げさに喜ぶ男どもを尻目に、厨房ではますます調理に追い込みをかける。

その後、女の子が勇んでラーメンの蓋を開けてみると、箱の底には麺の残骸がわずかにこぼれていただけであった。縁側にも、ほんの少々、麺がちらばって地面に落ちていたが、あとは汚されたあともなく、きれいなものであった。

「まるで、立つ鳥あとをにごさず、だな・・・。猿の場合はなんて云うんだろ」

山は汚してはいけない。山の住人である猿が、山のエチケットを心得ていたのは、むしろ当然だというべきであろう。縁側には、山の土がわずかに残っていたけれど。


本当に野菜スープだけになった夕食を終え、床につくころには、すべてが笑い話になっていた。寝袋にくるまり、薪ストーブからもれてくる、消えかかった薪の匂いをかいでいると、猿の表情がちらついて笑いがこみあげてきた。

さる

レッドの懸垂

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夕方。
まだそれほど暗くない夕暮れの入り口という時間帯だった。
高速道路のサービスエリアで停車し、トイレから帰る途中、ふと、ある人間の姿が目に留まった。

その人は、うす暗くなったためか、トイレの前の照明をたよりに、そこにいたようだった。

わたしは思わずたちどまって、その姿に見入ってしまった。その方は、なにしろ一生懸命に、アキレス腱をのばしていらっしゃった。すぐそばの、コカ・コーラの自動販売機の灯りが点滅するのに合わせたように、その方はかなりの勢いで、懸命に体操をつづけた。

私よりも少し年配かと思う。学校の役職でいえば、教頭か校長、という感じ。

夕闇せまるサービスエリアで、黒い影が寸暇を惜しむようにして、足腰をまわしたり、うでを回旋させたり、前後にはげしく長い身体を折り曲げたりしている。一瞬わたしは、恥ずかしいところをみちゃったな、と思った。

影は、リズミカルに動きつづける。
人間と言うのは、こんなにも動くものだったのだ。
高速道路を運転する間じゅう、ずっと同じ姿勢を続けてきていたせいか、わたしは人間というのがこんなにもやわらかく体を動かすことなど、すっかり忘れたような気分でいた。


寸暇を惜しんで、という言葉が、アタマに浮かんだ。
わたしにはこれまで、「寸暇を惜しんで」体を動かす、という体験があったろうか?

黒い影は休みなく、ストレッチを続けていた。
先に感じた、気恥ずかしさのようなものは消えていた。
そのかわり、おそらくこの方の帰りを待つ人や同乗者の方のことを思うと、素直な気持ちで、
「ちゃんと目を覚まそうとしてるんだなー、えらい人だなー」
と思い始めていた。


映画の仕事をしている義弟から、こんな話を聞いた。
あるとき撮影所から出てみると、隣の建屋で撮影をしていた戦隊物のヒーローたちが、マスクを取って休憩をしていたそうだ。

科学戦隊2
もちろん、クビから下は、ヒーローのスーツ。
おなじみのレッド、ブルー、イエロー、ピンク・・・。
みなさんかぶっていたマスクを脱いで、休憩しつつ、ペットボトルのお茶を飲んでいらした。

科学戦隊
すると、驚くべし、そのうちの一人が、ヤッとばかりに建屋の骨組みにとびつき、たちまち懸垂をはじめたそうな。
その懸垂のスピードがいかにもはやくて、さすがにアクション俳優だけはある、と感心しながら、あることに気がつき、驚いた。なんと彼は、おそらく50代であろう白髪交じりの年配者だったそうだ。

「筋力がおちないよう、束の間の休み時間にも、体を鍛えてたんじゃないでしょうか」
と、義弟。

ヒーローは、悪者と戦うことだけが仕事なのではない。
ふだんから、戦う準備をしていたのだ。
白髪の頭部、額にあせをにじませ、ものすごい勢いの自主トレをやり終えた後、ようやくレッドはぶらさがった鉄棒から飛び降り、ペットボトルに口を当てた、という。

中年ともなれば腹も出てこよう、たるみも出てこよう。しかし、アクションで食べていくには、ふだんからの節制と努力が肝心なのだ。このくらいの自己管理ができなくては、戦隊のキャプテン、レッドとして活躍できるはずがない・・・。


高速道路の男性も、ちょっとした空き時間に、自分の体調、コンディションを整えようと思ったのだろう。おそらく、家族がトイレに行っているのか、買い物でもしているのか。男性は、十分念入りに身体をほぐしたあと、ゆっくりとパーキングの方へ歩いて行った。

寸暇を惜しめる人は、惜しむのが良い。
その間は、きっと充実してるはず。

わたしは誰に見られているわけでもないのに、自販機でものを買うようなそぶりをしながら、急いで足首を回した。駐車場へもどると、周りの車がライトを点灯させている。


たっぷりと、念入りに、「寸暇」を惜しむことができる人もいる。
「寸暇」のはずが、その人の手にかかると、あら不思議。あたかもはじめから予定してあったように、事柄がぐんぐん進む。時間の使い方が、なにしろうまい。なにごとによらず計画的で、これからの行動のすべてを予定表に、細かく列挙できるような人だ。

わたしは、とてもそうはいかない。
わたしの「寸暇」は、安っぽい。足首を数回まわしただけの「寸暇」である。

しかし、そのわずかな「寸暇」が、くすぐったいくらい気持ちがいい。
そもそも、人生は空白だらけ。
そこに、自分を大切にできるわずかな世界を見つけ出すのに、成功したのだ。

「寸暇」は、寸暇であるからこそ、価値がある。
そこに、あれもこれもと、自分の要求を詰め込もうとするのは間違いだ。
いつの間にか、本当にやれるはずのことが、犠牲になってることだってあるのだから。



かっこ良かっただろうな、レッド。
あれは、ふとした流れで、わずかにやってるから、いいのだな。
寸暇の懸垂だから、いいのだ。

「このままじゃ」

正月の最初に、わたしは今年初の独り言を言った。

「おれは、レッドにはなれんぞ。・・・せいぜい科学研究所のロボット犬くらいだな」

高速道路を照らすまぶしいハイウェイのライト群が、つぎつぎと現れては、背後に消えていく。
家族はうしろの席でとうに寝入ってしまって、わたしの独り言も、だれも聞いてはいないようだった。

犬

広告の授業 その2

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広告に使われる情報編集技術はすこぶる洗練されていて、これを勉強するのはとても役に立つ。

人間社会において、自分以外の人や多数の人に、なにかを訴えるとき、自分が意図するような感想をもってもらうために、「編集」という行為をする。

この「編集」がうまいと、伝わるものがきちんと、伝わるようになる。
編集が上手だと、「わかりやすい~!」と思ってもらえる。
伝え手、情報の送り主が、きちんと伝えたいものを伝えられるようになる。
「編集」は、現代社会において必須の技術、スキルであるといえましょう。

人に、余計な気を遣わせないというか、落ち着いた印象を届けよう、というのは、世間的にふつうの行動だと思う。
化粧もそうかもしれないし、言葉をていねいに言うことや態度、お辞儀、あいさつなど、いろんな行為の中に、それらを意図する行動をとることができるように思う。


しかし、ここまではいいとして、ここから先。
行き過ぎると、良くないなと思うことがある。
人を操作しよう、と思い過ぎると、はたしてどうか。
なにごとも、やりすぎは良くない。


「広告」に凝縮されている「心理操作」の技術には、それ以上のなにかが潜んでいるようだ。
「人を操作したい、操作せずにはいられない」という心理が。

たとえば、先日のロイヤルチマキパンの広告では、驚愕のスキルが使われています。

それを列挙すると、
〇ウインザー効果
 経験談の方が一次データより与える影響が大きい
〇権威への服従心理
 権威のある者への言動に無意識に従いやすい傾向
〇バンドワゴン効果
 流行している、というものについては無意識に好印象を持つ
〇同調現象
 周囲の人と同じ行動をとっている、というだけで安心効果がある
〇シャルパンティエ効果
 「ビタミンC2000mg配合」より、『ビタミンCがレモン100個分』 の方が多いと思う傾向
〇フレーミング効果
 「タウリン1g配合」より『タウリン1000mg配合』の方が多いと感じる傾向
という5つの効果を使っている。

ひとがひとを「操作」などしなてくもよいような社会になれば、いちばんみんな安心できる、ということだろう。操作せずにはいられない、となれば、そこには病的なものがありそうだ。

「病的」から抜け出せるような社会を、子どもたちと共に考えていきたい。
「せずにはいられない」という枠から、脱却できる自由さを、人は本来欲していると思う。

「広告の勉強」のまとめは、もしかすると、

「こんな広告を出さなくてもよいような社会に住みたいね」

ということになるのかもしれない。

チマキパン2m

広告の授業

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情報リテラシーを何とかしろ、という要請が、山のように学校に届いているらしい。
国レベルでも、県のレベルでも、教育委員会でも、どこの市でも町でも、今、ネットの情報社会をどう生き抜いていくか、教育してくれ、という。

それはそうで、ネットは今、金銭にまつわる詐欺サイトやオレオレ詐欺のたぐいをはじめ、だまして個人情報を盗もうとする輩、ありとあらゆる犯罪の巣窟となってしまっているようだ。

犯罪だけではなく、メールのふとした文字のやりとりで人間関係を大きく損なったり、喧嘩をしたり、どうもつきあい方をまちがえると大変なことになるから、というフレコミで、教育界も「情報リテラシースキル」への対応を始めていくとのこと。

さて、そもそも情報とは何か、ということが前提にあるわけで・・・。




考えてみると、詐欺などの犯罪はだいたい、だまされる人にたいして、

あることを思ってほしい

と、情報を刷り込んでくることから始まるように思う。



たしかにこれは、マジック(手品)を思い浮かべればすぐに判明する。

たとえば、マジシャンとしては、お客にだまされてほしいのだから、巧妙にことを運ぼうとする。

つまり、手に持っている赤いハンカチを見せたとたん、客には、あることを信じてほしい、とマジシャンは考える。

すなわち、

「わたしが手に持っているのは、赤いハンカチがたったの1枚だけです」

と信じてもらいたい。

たとえ、手の中には、青いハンカチも黄色いハンカチも同時に持っていたとしても、客にはあくまでも、

「赤いハンカチが1枚だけしかありません」

と思ってもらわないと、手品にならない。


同様に、オレオレ詐欺などは、だまそうとする対象(ジジババ)に、

「いま、会話している人は、孫だ」

と思わせなくてはならない。


ネットにはびこる犯罪に対処するにも、掲示板を見るにも、SNSに投稿するにも、ネット社会を正常に歩いていくには、子どもたちに、このことを知ってもらう必要がある。すなわち、

「いま、わたしは、何を信じようとしているのか」

ということである。


「この人は、わたしにこう思ってほしいんだな」

と、客観的にネットの情報を扱えるようになれ、というのが、文科省のすすめる情報教育の意味する、

身に着けるべき正しい情報リテラシーとスキル

であるらしい。


まあ、ここまでは、意味がわかる。
なるほどな、とわたしも感心しながら資料を読んだ。
へえ、文科省も、ここまで考えているのかー、と。


で、実際に現場で子どもに、なにを教育しろ、というのか、というと・・・・

・・・実は、現場に任されている・・・。


ほにゃーッ!




そこで、こんな資料を見せて、子どもたちに問いかけてみようと思う。
この広告は、みんなに、

◎どんなふうに考えてほしいか
◎どんなふうな意見を持ってほしいか
◎どんな感想をもってほしいか
◎具体的にはどのような行動に出てほしいか

なにを目的にした広告なのでしょうか。


どうだろうか。
これで、情報を客観的にみる子どもたちが育つだろうか。
チマキパンm

『POST TRUTH』 の授業

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POST TRUTH。
オックスフォード英語辞典が2016年を象徴する「ワード・オブ・ザ・イヤー」に選んだ。
客観的事実より、感情的な訴えかけの方が世論の形成に影響することを示す言葉。

「人間は、感情的な訴えに耳を貸すのであって、事実はどうか、などとは考えようとはしない」・・・のだそうだ。
えーっ・・・本当か?


【欧州の事例】

欧州連合(EU)離脱をめぐる英国の国民投票では、離脱派が「英国はEUに毎週3億5000万ポンド拠出している」とウソのスローガンを使った。
それは、いわば「高度な」デマであったが、事実かどうか、という世論は起きず、

「英国は馬鹿を見ている」
「英国はEUのために損をしている」

という人々の感情や思い込みに火をつけてしまった。
実際には拠出している額は嘘であり、EUと英国との結びつきは金だけではないにも関わらず、
EUと英国のお互いの関係はどうあるべきか、という話題が
『金をいくら出しているか、損か得か』
という話題に切り替わってしまった。


【米大統領選の事例】

米大統領選では、「ローマ法王がトランプ氏支持を表明」などフェイクニュースが流れた。
これも、高度なデマであったが、事実かどうかを確かめようとする人は少なく、
「法王の考えに従おう」
とする人々の投票態度に影響したといわれている。

どちらの事例も、『客観的事実より、感情的な訴えかけの方が世論の形成に影響した』、というわけ。
つまり、現代の人々がTRUTH(事実)よりもちがうもの、その次にくるものをみようとする、という意味で、「POST TRUTH」ということらしい。ちなみに、「ポスト」はラテン語で「後に来る」とか「次の」といった意味です。



人間は、なぜ、TRUTH(事実)をみようとしないのか。

原因は、人間の教育にある、と思うね。

で、この授業をしようってわけ。



全部で、11時間。

1) 幸福になる薬(危険ドラッグ)を勧められたら?

2) 自分の身の回りの事実とはなにか?

3) 事実と感想

4) 事実と意見

5) なんで腹が立つのか?

6) これはだれのものか?

7) 勝負には勝つのが良い?

8) 人間の優劣とはなにか?

9) 「役立たずは殺す」という法律ができたら?

10) 国のために国民が働く国か、国民のために国を整える国か、どちらに住む?

11) 自分の生きる目的は?


けずって、けずって、11時間でギリギリ。
当初はこれの倍、22時間分の授業案ができたのだけど、学校現場にはそんなヒマが無いからね。仕方がないよネ。

世界は広いのだから、どこか別の国で、だれかこんな授業をやっている、という人がいたら、ぜひ授業案を交流しあいましょう!「POST TRUTH」の授業、ぜひ、広めていきましょう!

P1171968

忘年会のパーフェクトヒューマン

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年末の忘年会で。
先輩の先生がパーフェクトヒューマンをやったのが格好良かった。
サングラスをかけただけで、なんだかふだんにはない、渋い味が出て来て、気分がもりあがった。
思わず、みんなで歓声をあげたくなる。

ところで、このパーフェクトヒューマンの歌詞が、とてもいい。
徹底的に崇拝せよ、という命令口調の中に、そもそも人間には「崇拝」も「命令」もできっこないのだという【アホさかげん】をきちんと味付けしている。

出来っこないのにこだわり続けるという、われわれ人間の勘違いをパロディとして、からかっているわけで、この中田さんなり藤本さんなりの、お笑いのセンスがとてもいい、と思うのだ。

寂しい人、自分をつまらないと思う人、安心できない人、自分の価値にこだわろうとする人、勝者になることに大きな価値を置く人、えらくなりたいと思う人。今、人間のほとんどが、こうじゃないだろうか。

そういう我々のような人の心に、このパーフェクトヒューマンが、いかにも面白く響いてくる。

勝ち、負け、とは何か、何が自分に勝ち負けの感覚を持ち込んでいるのか、本心から勝ちたくてやっているのか、そうしなければ苦しいから勝たねばと思うのか。
その内情を知ったらみんなすぐにでも、このパーフェクトヒューマンを心の底から安堵しながら、踊れるのだと思う。

しかし、まだまだ、このダンスを心の底から踊り切れる人は少ないのだろうネ。

今はまだ、負けることの不安が、人類全体を苛んでいるのが現状で、それが、よく調教されているからか、どうも自分でも良く分からない。ただ、勝たねば、という気分だけがあるようだ。

『だれも否定しなくてもよく、だれも叱らなくてもよく、だれもとがめなくてもよい』

な~んて、そんなことを本気で言う人は、非難されてしまう現状があるわけなんだし・・・。
(このブログにも、まだメールが届く。「叱らないでいいわけがないでしょう!」とネ)


しかし、本当は。
勝者も敗者もなく、権威も権力もなく、一切の不安も無く、だれもが各々のいたい場所にいるのが本当。


さて。
パーフェクトヒューマンを聞きながら、日の出を見に行こうっと。

P1171996


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