30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2016年12月

と・き・の・な・が・れ

.

年末の大掃除。

荷物をひっくり返していると、段ボールの中から、思いもよらぬモノが出てくる。

古い写真やアルバム、手紙、何か記念のつもりだったのだろう、切符や美術館の入場券まで出てきた。


小さな文庫本が、いくつか出てきた。
20歳で大学を辞め、牛を飼っていたころ。
またその後、農業を生業として仕事を始めた時期からの持ち物だ。

それが、なんと、今とまったく変わらない趣味で、おどろいた。
オレは、30年近く、まったく趣味の変わらない人間であったのか、という思いだ。

水木しげるの、作品集。
そして、落語の本。

「なんだ、今と変わらないな」

それを見ていた嫁まで、声をあげて笑って、

「進化してないなあ~」

と言う。


そういえば、30年前から、おなじことを思い続けている。

5時間くらい、たっぷりと、テレビの前で、桂小三治のビデオを見たい。

ずっと、そう思い続けてきた。
でも、ずっと、それがかなわない人生だったらしい。

毎日、毎日、やることのある毎日。
ヒマのない、毎日。
それが幸せでもあったのだろうが、同じことを30年近く、思い続けて、まだ今だに、それを「確固たる欲望」として、抱き続けている自分自身が、なんだかふびんに思えてくる。

サザエさんを一日読んでいたいだとか、河童の三平をトレースして、描けるようになりたいだとか、枝雀さんの「貧乏神」を演れるようになりたいだとか、

同じことを、本当に、30年以上、思い続けている。しかし、それをちっともやっていない。
今度暇になったら、と、ずっと思い続けている。30年以上も!!!

kappano


さかのぼると30年ほど前、中学か高校生の頃の趣味が、そのまま持続する、というのが、あらためて衝撃だ。

高校の頃は、当時思っていた落語への情熱が、そのまま自分の人生にずっとずっとつきそってくるとは思いもしていなかった。
将来は、もっともっと、自分も、自分を取り巻く世の中も、劇的に変化し、変わるのだ、と思い込んでいた。
(ところが、当時も今も、自分の中身はそれほど変わらない!!!)

志ん生のテープを聞いて思うことも、30年前と同じだ。
同じところで、同じように、笑っている。
40代半ばの自分と、高校生の頃の自分と、同じ感情を抱いて、生きている。


それが自分で分かって、なんだかすごく衝撃を受けている。
自分自身に。
そして、ときのながれ、というものに。

「なぜするか」と問うか、「それをする良さは何か」と問うか

.来年度の児童会の活動を、勤務校で見直すことになった。
PTAの会議で、

〇子どもたちが、アルミ缶を集めるのは意味があるのですか
〇子どもたちが、ペットボトルの蓋を集めるのは意味があるのですか


などと、父兄から意見が出されたからである。

そのご父兄のおっしゃるには、子どもたちが児童会活動に役立てるために自発的に行われているものかどうか、が大事で、そうでないならやめたほうがいい、という意見であった。

職員会議で、それもそうだ、ということになった。
ただし、アルミ缶は引き取り業者もいてお金に変わるし、そのお金で児童会の画用紙を買ったり、1年生にプレゼントを渡したりしているので、有効活用している、という感じはある。

ペットボトルの蓋を集めているのはもう6年以上続いているが、要するに、きれいなプラスチックなのに捨てるのはもったいない、ということであった。
再利用できるものは、協力していく。そのことが地球環境保全につながるのでは、という意味らしい。

ところが、それが疑問視され、子どもたちがただ惰性で、言われたからなんとなく集める、では意味がないだろう、ということで、今回のように、会議の俎上にのせられた、というわけ。

そこで、子どもたちにも聞いてみよう、ということになった。


わたしは、委員会の子どもたちを集めて、なんと問うていけばいいだろうか、と数日悩んだ。

それは、

「なぜエコキャップを集めるのか」

と、子どもたちに問うたなら、

「資源がもったいないから、再利用するため」

という答えしか、出てこないと思われたからだ。

もちろん間違いではないが、それは子どもたちから出てきたというよりは、どこか大人の言説から出てきたような文章である。つまり、子どもたちは、まるでテストに答えるようにして、頭の中身をスキャンし、おそらく大人目線からみて、正解に近いであろう、という文章を、口にするのではないかと思われた。

そこで、問い方を変えた。

「エコキャップを集めることの良さは、なんだろうか」

すると、もちろん資源の有効利用、という言葉は出てきたが、それ以外にも、

〇もしかすると落ちているものも、だれかが拾うかもしれない。
〇そしたら、住んでいる場所がきれいになる。
〇ふたを集めるから、中身が入ったまま、捨てる人がいなくなる。
〇ふたを外す時に、ペットボトルの中身も洗いたくなる。
〇1年生でも軽いから持ってこれる。
〇アルミ缶とちがってお酒のにおいがしないから、1年生でも持ってこれる。
・・・

などと、意見がバンバンと出てきた。

「なぜエコキャップを集めるのか」 → 正解を出そうとしてしまう
「エコキャップを集めることの良さは、なんだろうか」 →さまざまな面から見ようとする

これ、大事だと思うんだよね。
つまり、理由をきくという、『クエスチョン型発問』から脱却する。
そして、よさの関連を問う、『アビリティ型発問』に変換していく。

21世紀は、こうでなくちゃ。
『クエスチョン型発問』から『アビリティ型発問』へ。

授業の発問にも使えるし、人間の活動のありとあらゆる面で、

「質問の中身」

を変えていきそうだと思う。


このことに気付いたので、さっそく、授業に応用してみた。
今、社会の歴史で、最後のところをやってる。


つい先日まで、授業でこう発問しようと思っていた。

『日本が国際交流や国際協力をしているのはなぜか』

これだと、おそらく教科書的な回答であるところの、

「文化交流ができて豊かになる」とか「困っている国を助けることができる」

と、子どもたちは答えるであろう。

『日本が国際交流や国際協力をしているのはなぜか』
これは、クエスチョン型発問である。

これを、アビリティ型発問に、変換してみよう。
すると、こうなる。

『日本が国際交流や国際協力をする良さはなにか』
これが、アビリティ型発問である。

この発問だと、どんな反応が出てくるか、楽しみである。
3学期の社会の授業が、待ち遠しい。

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読者諸兄は、『超能力』をご存じだろうか?

.
超能力とは何か。

辞書をみると、

人間の知覚以外の力、テレパシー・テレキネシス・テレポーテーションなど、常人にはない力のこと。

とある。

クラスに、超能力者が存在するとしたら、担任はどうしたらよいのだろうか・・・。

chounouryoku


わたしは10円玉をもち、クラスの子どもたちに告げる。

「いいですか。人間には第六感とよばれる、通常の思考とはまったく異なる脳のはたらきがあるそうです。その超能力によって、なぜだか正解が分かってしまう、ということがある。みなさんはどうでしょうか・・・」

わたしがいつもにない、妙な声色で、まるでテレビ番組の司会者のような語り口調ではじめたもので、みんななんだかニヤニヤする。

「今から、この10円玉を、背中にかくして・・・(と両手をうしろにまわして)どちらか一方の手のひらでにぎります」

これを当ててもらうのだ。

全員、起立し、ごくり、とつばをのみこみながら、わたしの両手を見つめる。

「さあっ!!どちらの手にあるのでしょうか!!」

右、とか 左!とか、言わせます。

「念のため、お隣さんにも言いなさい」

ズルができないように、仕組んでおく。

パッと手の中をみせ、右手の中にあったことを見せる。

「あてることのできた人のみ、立っていなさい。まちがったら座りなさい」

これを繰り返すと、5回連続でなぜだか当たってしまう子、というのがいる。

本人も、

「あれ、なんで当たるんだろう?」

と不思議な顔をしている。

「Fくん、あなた、まさか、自分の特殊能力に、まだ気が付いていないのではありませんか?」

とわたしがマジな顔をして言うと、

本人、笑いながらも、なんだか不安そうな顔になってくる。

「Fくん、あなた一人だけです!!5回も連続で正解!これはすごい能力!!」

わたしが興奮した口調で言うと、クラスが騒然としてくる。

「ほかの子は、全員、間違えています。なのに・・・・・・あなたは当てた!!」

最後の、

あなたは、当てた!

を、ものすごい口調で、目をまん丸に見開きながら断言するように言うと、なんだかすごい雰囲気。



ざわめきをしずめつつ、手をヒラヒラとさせ、クラスのみんなをなだめ、

「念のため、今から先生が、3桁の数字を思い浮かべます。まさか当たらないと思いますが。・・・Fくん。あなた、それを当ててもらえますか・・・」

とおごそかに告げ、手のひらで目の前の空気をつかむような格好で、目を閉じ・・・

「どうぞ」

と言うと、Fくんが、おびえたような顔で

「えっと・・・568」

わたしは最大限に驚きつつ、

「ええええええーーーーーッ!!!だい、だい、大正解!!すげええ~!!」

このくらいから、クラスの半数はにやにやしはじめる。



「もういちど、お願いします。今度は、先生が、ある寿司のネタを思い浮かべます」

寿司をにぎるマネをして、目をつぶり、しずかに5秒ほどおいて・・・

「はい、どうぞ」

「えっと・・・いくら?」

「ぎょええええええーーーーッ!!!今度も当たったッ!!超能力だ、エスパーがいたぁッ!!」


同じように、昨晩先生がたべた晩御飯や、この冬休みになにをする予定か、好きなじゃがりこの味など、いろいろと当てさせる。

すべて、「正解!」と言う。

後半は、Fくんも笑いながら、変なことを言うようになる。

それら、すべて、「正解!」である。


先生の初恋の人の名前は?

「小野妹子ッ!」

「正解!」



先生が家で飼ってるのは?

「ゴジラ!」

「正解!」



飽きてきたところで、みんなでエスパーに拍手をして終わり、すぐに休み時間にする。


それが不思議なことに、

エスパーの子、次の休み時間に、なんだか人気者になってるんだよね。
だいたいこれやると、

みんな、すぐにエスパーに話しかけるのヨ・・・。
楽しそうに。



子どもって、面白いネ。

【6年理科】水溶液~酸とアルカリ その3~

.
塩酸が強力な、酸性を示す水溶液だということを知った。
塩酸とは、塩化水素が溶けた水溶液だ、ということも教える。
塩化水素は、気体である。
塩酸は、「塩化水素水溶液」ともいいかえることができる。
ただし、塩素水(えんそすい)とよばれる、別の水溶液もあるから、これは区別する必要がある。

前回までの実験で、塩酸はマグネシウムを溶かし、水素を発生させることを学んだ。
次は、さらに別の金属が溶けるかどうか、である。

用意したのは、亜鉛とアルミニウム、である。

1・塩酸にアルミニウムや亜鉛や銅を入れると溶けるだろうか。

塩酸の入った3本の試験管を試験管立てにたて、それぞれにアルミニウム、亜鉛、銅を入れ、それぞれの金属が塩酸に溶けるかどうか、調べた。

アルミニウムと亜鉛は溶けるが、銅は変化が無いように見える。
しかし、細長い銅板の、下半分だけを塩酸につけておくと、なんだか色がきれいになったっぽく見える。
つまり、塩酸で、銅が溶けるところまではいかないけれども、なんだかサビのような黒ズミは、きれいに落ちるのである。

このことから、金属の中には、塩酸でも溶けない金属があること、そして、その金属の表面のさびやよごれは「その金属そのもの」ではないことから、さびやよごれは溶ける場合があることを説明する。


さて、ここから、酸の世界をとびこえて、アルカリの世界に入る。
ここまでで、子どもたちはかなり、「酸のはたらき」については、自信を持ち始めている。


2・この水溶液が酸の水溶液であるかどうか、どのようにしらべたらいいだろうか。

目の前に、白い顆粒の水酸化ナトリウムを見せる。
そして、それを水に溶かしてみせる。
すると、とけて透明になる。
これは、水酸化ナトリウムの水溶液であるが、子どもたちには、名称もなにも教えない。

子どもたちは、なんだろうか、と怪しむが、これまでの実験の経験から、あれこれと判断できることに気付く。

「リトマス試験紙でしらべます」
「ものが溶けるかどうか、しらべます」


など。

そこで、青色リトマス紙をとりだし、つけてみる。
しかし、反応が無い。
色の変化がないから、なんだか拍子抜け、である。

子どもたちが迷いはじめたところで、実は、と赤色のリトマス紙をとりだす。

「ここに、別の種類のリトマス紙があります。色は最初、赤色です」

水溶液につけると、なんと、青く変わる。
ここで、酸性ではない水溶液であること、そしてこれをアルカリ性水溶液とよぶことを教える。

さらに、中性、とよばれる水溶液もあることを教える。
用意するのは、食塩や砂糖水である。
中性の水溶液は、青色も赤色も、変化しない。



ここで、リトマス紙を子どもたちに大事に1枚ずつ、配る。
ビニール袋に入れて、手でぜったいに触らないようにさせる。

3・宿題を出す。

「おうちに帰ったら、おうちの人といっしょに、台所にあるものをあれこれと見てみなさい。そして、水溶液のようなものがあったら、たのんで少しもらい、そこにリトマス紙をつけてごらんなさい。何につけたらどうなったのか、予想と結果を書いてきなさい」

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台所の洗剤や、シャンプー。
CMでやってる、『弱酸性ビオレ』が本当に酸性か。
お母さんの化粧品はどうか、おじいちゃんの呑んでる養命酒はどうか。
子どもたちは、ありとあらゆる『水溶液』に、挑戦していく。
なかにはもったいないから、もらった1枚のリトマス紙を細かくして、4種類ほど試した子もいる。

なかにはやっぱり、雨水や雪につける子もいる。
今年の雨水は、ほとんど変わらなかったので、その子は

「雨水は中性でした」

と報告をした。

【6年理科】水溶液~酸とアルカリ その2~

.その1からのつづき。

9・炭酸カルシウムをクエン酸の粉末の上に直接おくと、溶けるだろうか。

「酸のはたらき」によって、カルシウムなどが溶ける場合があることが分かった。
わざと、子どもたちに、こう言う。
「ねえ、クエン酸の水溶液って、クエン酸を水に溶かしてつくったよね。
じゃあ、水で薄めるのではなく、クエン酸の固体、つまり粉末の上に直接カルシウムをのせたら、どうなる?」

この予想は面白かった。
溶ける・・・8人
爆発する・・・5人
溶けない・・・22人

まず、溶けるという子は、やはりクエン酸の粉自体に、ものを溶かす力があるのだ、という。
プラスチック容器は特別に溶けない物質だけど、クエン酸はカルシウムには強い、という意見。
つぎに、爆発するという子は、水で薄めても溶けるのだから、原材料のままであれば、さらに強力に溶かしてしまうだろうし、もしかしたら勢いが良すぎて、バンッ!ってなるかも、と言う。
最後に、溶けないという子たちは冷静で、溶けるというのは水分があるときに使う言葉だ、という。

やってみた。
こわごわのせてみたが、なにも変化が無い。
つまり、固体のクエン酸は、炭酸カルシウムを溶かすことはない。
「酸の働き」は、水溶液になった状態でのみ、はたらくのだ。


10・リトマス試験紙に二酸化炭素を吹きかけると、酸性になるだろうか。

リトマス試験紙に直接、スプレー缶からCO2を吹きかける。
すると、どうなるか。
子どもたちは、ほとんどが、反応しない、と言う。
なぜなら、「水溶液にしないと、酸性にならないと思う」から。
前時までの学習が生きている。

やってみると、たしかに反応がない。青いままである。
分かったことは、「二酸化炭素は気体では酸性とはいえない」。


11・リトマス試験を水で濡らして、二酸化炭素を吹きかけると酸性を示すだろうか。

今度は、ビーカーの底を水で濡らし、そこにリトマス紙を貼り付ける。
そこへ、CO2を吹きかける。
子どもたちの予想は、「赤く変わる」である。
おそらく、CO2の一部が炭酸水のようになり、酸性を示すのではないか、というのである。

やってみる。
すると、きちんと反応して、赤く変わる。

「え?水に溶けたのかなあ?炭酸になったってこと?」
と、声があがる。
分かったことは、「二酸化炭素は水に溶けると酸性を示す」である。


12・水に、二酸化炭素を溶かすことができるだろうか。

炭酸水には二酸化炭素が溶けていた。
であれば、水に二酸化炭素をまぜたら、溶けるのだろうか、と問う。

予想させると、溶ける、と考える子がほとんど。

三角フラスコに水を入れた後、風船をつけ、フラスコ内に二酸化炭素をボンベから吹き入れる。
すぐに風船で口をふさぐ。
フラスコをゆすっていくと、あらまあ、なんと風船が中に吸い込まれて行くではないか!

風船とフラスコ


これを自分の言葉でまとめさせる。
「二酸化炭素が水に溶けてなくなり、風船がフラスコに吸い込まれた。このことから、二酸化炭素の気体が水に溶けることが分かった」


13・塩酸(塩化水素水溶液)は酸のはたらきをするだろうか。どのように調べたらよいだろうか。

この13番目の課題が、もっとも大事な実験。
この実験の意味を理解し、実験の方法を自分で考案できるようになることが大事。
そのための準備が、1~12の実験であった。

自分の考えを書かせ、その後でしらべ方を確認する。
子どもたちからは、炭酸水の時と同じようなアイデアが出る。
炭酸水は弱い酸だったから、塩酸に炭酸カルシウムを溶かしても反応がないかもしれない、と考える子もいる。


☆子どもたちから出る実験の方法とアイデア

1 青色リトマス紙をつけてみて、赤くなるかどうか。
2 炭酸カルシウムを溶かすかどうか→(かなりの泡が出る)炭酸水より強い酸であることが分かる!

このときの反応が半端なく強いものであるので、
シュワー!!と泡が出る。

オオ!!!とどよめきが起き、「これ、強力や!!!」とみんな騒ぎ出す。

「これ、もっとすごいものが溶けるかもなっ!!」

と言い、マグネシウムの金属片を見せる。

子どもたちの目が、怪しく輝く。
「やってみる?」
「やるやる!!」


3 金属を入れてみる。

すると、なんと気体が出て、マグネシウムが溶けてしまう。
このことから、塩酸はものすごく強力な強い酸であることが分かる。

4 発生した気体をしらべる。

みんな、二酸化炭素だと予想する。
クエン酸のときも、炭酸の時も、どちらも二酸化炭素だったからだ。
やってみると、どうも石灰水が白く濁らない。
そこで、試験管に希塩酸を入れ、マグネシウムを入れて、出てきた気体を別の試験管をさかさまにふたのようにして上からかぶせ、集める。
試験管をさかさまにしたまま、火のついたアルコールランプの上にもっていくと、集めた気体に火がつき、ヒュッ! という音がする。これは水素であることを説明し、水素は燃える気体であることを教える。



ここまでで、6時間扱い。

【6年理科】水溶液~酸とアルカリ~

たのしい実験がつづく。
でんじろうになった気分だ。

「酸性」というのは、酸が水に溶けてできた水溶液があらわす、性質のことであります。
ほんとうはアルカリ、という性質についても、学習していくのですが、はじめは『酸』から。

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『酸』、というものについて、きちんと把握したあと、アルカリを勉強した方がよいのです。
これを、教師が面倒に思って、

「はい、酸とアルカリ、両方おぼえなさい!」
とやると、子どもはいつまでたっても、
両者をとりちがえたり、混同したり、特徴がこんがらがったまま、一生をすごすことになりかねない。

まずは、一つ。

一つを、徹底的に覚える。

すると、その対(つい)になる、アルカリのことなんて、するすると覚えてしまいますよ。
これが、コツです。

2つの、対になるものを覚えるときは、両方をいっぺんにやるのではない。
必ず、そのうちの一つを、徹底的にしらべて、「覚えたよ、マスターしたよ!」となるようにもっていくことです。
その自信が、次への歩みを、楽にしてくれるのです。



【酸のはたらきを知る授業】

はじめに、薬局で売っている、クエン酸を見せます。
クエン酸は粉状で、プラスチック容器に入っています。

クエン酸



質問します。

1・個体を水に溶かしたことがあるかどうか。

ほとんどの子が、溶かしたことがある、と答えます。

氷、ミルメーク、固まった絵の具、塩、砂糖・・・

完全に溶ける、というのは、透きとおる状態になることです。
塩や砂糖は、完全に溶かすことができます。


2・クエン酸は、水に溶けるだろうか。

予想させると、溶けそうだ、というのが多数。
実際にやってみると、透きとおります。
実験の結果、クエン酸は水に溶ける、ということが分かります。


3・水に溶けない炭酸カルシウムをクエン酸水溶液に入れると溶けるだろうか。

炭酸カルシウムが水には溶けない、という事実を確認した後、みんなで予想する。
水に入れても溶けないので、溶けないのでは、という子は半分くらいいる。
実際にやってみると、シュワシュワと泡をだして、溶けていく。
実験の結果、クエン酸水溶液に炭酸カルシウムが溶けることが明らかになる。


4・このとき出てきた泡の正体は、なんだろうか。

酸素だと思う・・・7人
二酸化炭素だと思う・・・10人
窒素だと思う・・・3人
他の気体だと思う・・・5人
空気だと思う・・・4人
わからない・・・6人

この泡を水上置換で集めて火を近づけると、すぐに消える。
念のために石灰水に通すと白く濁る。
この結果、泡の正体は、二酸化炭素であることが分かる。


5・炭酸水の泡の正体はなんだろうか。

泡といえば炭酸水を思いうかべる。
炭酸水を教室に持ち込み、泡を観察する。
この炭酸水には、なにが溶けているのか、と問う。

炭酸の素(粉末)・・・17人
メントスのようなもの・・・4人
分からない・・・14人

クエン酸の実験を思い出す子が多い。あんな粉のようなものが、なにか溶けているのだ、と考えるようだ。
そこで、炭酸水に固体が溶けているかどうか、調べてみる。
蒸発皿に炭酸水をたらし、アルコールランプで熱してみると、なにも残らない。
固体が溶けているわけではなく、気体が溶けていることを押さえる。
水溶液には、個体が溶けている状態のものだけでなく、気体が溶けた水溶液もある、ということ。
これは、子どもによっては衝撃らしく、
「気体って溶けるの?」
と、おもしろいつぶやきがある。

さて、炭酸水のペットボトルからチューブをのばし、泡だけを水上置換で集める。
ペットボトルを気長に揺らしていると、どんどんと気体が集まってくる。
火をつけた線香を近づけると、消える。
念のために石灰水にとおすと、白く濁る。
炭酸水の泡の正体は、二酸化炭素であることがわかる。


6.クエン酸水溶液は、酸性だろうか

リトマス試験紙の色の変化をみる。
やってみると、赤く変化した。酸性である。


7・炭酸水は、酸性だろうか。

予想させると、酸性、という子が多数。
クエン酸から出てきた二酸化炭素、そして炭酸水の泡も二酸化炭素。
なにか、共通しているのではないか、という。
調べてみると、すこし薄いが色がたしかに変わる。
炭酸水は、弱い酸性であることがわかる。


8・炭酸水は、クエン酸のように炭酸カルシウムを溶かすだろうか。

やってみると、微妙だけども、わずかに溶けていく。
「あ、溶けてる!」
「でも、泡が少ししか出ない」
「弱いね。なんだろう」
「クエン酸の方が強かった」
「炭酸は気体だからね」
「やっぱ、固体が溶けていないからかなあ」

実験する時は、水に炭酸カルシウムを入れた物を横におき、差を比べられるようにする。
わかったことは、炭酸水も炭酸カルシウムを溶かす、ということ。
これが、「酸のはたらき」である、とまとめる。


つづく

「せんせー、○○くんが、ちゃんとやっていませーん」

.
「○○くんが、ちゃんとやっていません」

この言葉の、なんとも微妙な、複雑な、なんだろう、この心理って。
○ちゃんとやらなきゃいけないのに、やっていない。
○ちゃんとやらないで、一人だけ楽をしている。ずるい。
○Tくんのせいで、みんなが迷惑する。
○わたしが注意しても、ちっとも聞いてくれない。もう、Tくんったら。
○なんでわたしが、「やめなよ、ちゃんとやりなよ」って言ってるのに、Tくんはわたしのいうとおりにしないのだろう。
○よし、こうなったら、先生に言っちゃおう。
○Tくんは、やんちゃ坊主で、悪者。
○わたしたちは、おりこうさん。

まあ、ふくざつですよね・・・。

ところで、男子で、こうやって女子に騒がれると、本能的に、「しめた」と思う子も多いのであります。

女子に、キャーキャー言われるの、本来、男子は好きなんだよね。


男子は、騒がれるのが好き。
女子は、騒ぐのが好き。


つまり、この場合、男子も女子も、両方とも、自分の満足することをしている、というわけ。
無意識なのか??

合法的に、授業の勉強内容や課題から視線をそらして、ちがう世界で「あそべる」。

まんまと先生がこのワナにはまって、男子を叱ってくれたり、おまけにヒートアップして、いつもの先生とはちがった興奮した顔を見られたら、それはそれで見ものです。月9のドラマより、オモチロイ。



それで、わたし、そういう場合、大体3通りくらい、状況によって変えて対応する。


「せんせー、○○くんが、ちゃんとやっていませーん」

1)あらまー(苦笑)

一番シンプルなの、これ。

その後、

モノや道具を持ちながら、サッと切り替えるようにして、

「見ててね」


というだけで、男子も女子も、すぐにこっち見るから、もうそれだけで、叱る必要もなく授業に移行できる。

黒板にすぐになにかを書いて、

「これ」

と指さすだけで、状況がすぐに整うときもある。

叱らず済むね。




「せんせー、○○くんが、ちゃんとやっていませーん」

2)「あ、困ってる??えっと、今、だれが一番、困ってるのかな~」


というときもある。

「一番困っている人、なんで困ってるのか、お話、してほしいな。できる?」

という。

頭のよい女子が立ち上がって、

「えっと、Tくんが、ほんとは字を書かなきゃなのに、勝手に絵をかいてるから」

「あそう。それであなたが困っているの?」

「えっと、お隣さんと見せ合う時に、Tくんが字を書いてないから・・・(話し合いが進まないから)」

「あそう。じゃ、私が困るから、Tくん字を書いてねって、やさしく伝えてみたら?」

わたしがちっともTくんを叱らないので、女子が困惑する。



「せんせー、○○くんが、ちゃんとやっていませーん」

3)「気になるの?なんで気になる?なにか、Tくんのことが心配?」

「うん」

「あそう。やさしいねえ。Tくん、よかったねえ。やさしい子がまわりにたくさんいて」

「・・・」

「Tくん、ここ見てね。じゃあ、クラス全員でここ読もう。さんはい」




つまるところ、まったく、関与いたしません。



こういう対応を続けていると、そのうちに、先生はちっとも叱らないのだ、と思うようになってくれる。

すると、不思議なことに、

「せんせー、○○くんが、ちゃんとやっていませーん」

が、なくなっちまうのネ。


「これ、やらなきゃだめじゃん!」

と言って、男子を叱る女子が居なくなってしまいます。


○せんせー、Tくんが、体操服しまっていません。
○せんせー、Tくんが、ごはんこぼしました。
○せんせー、Tくんが、まだじゆうちょうに絵かいてます。
○せんせー、Tくんが、先生のギター勝手にさわってます。
○せんせー、Tくんが、わたしのランドセル叩いてきます。
○せんせー、Tくんが、耳元で、大きな声でさけびます。
○せんせー、Tくんが、たいいくずわり、していません。
○せんせー、Tくんが、じゅんばん、ぬかしました。

これすべて、

「あそう」


で済みますね。基本的に。

そんで、

「えっと、それで・・・。今、だれが一番、困ってるの?」


このときに。



教室をつつみこむ、なんとも不思議な空気感が、たまりませんな~。


「じゃ、困っている子を、たすけてあげようよ」

「・・・」

------------------

やっていない⇒叱られる

が、行われない。

やっていない⇒困っている子がいる⇒その子をたすける

というふうに、進む。

叱らない子育ては、助ける子育て。

これを、『支え目線のしつけ』、という。

P1120957

わざわざ言わなくてもいいこと

.
あるブログで、おもしろい記事を見つけた。
学校で、わたしが常々、思っていることを書いてくれている気がした。

【わざわざ言わなくてもいいこと・ワタナベ薫】
P1160453

いくつか、事例があるので、楽しくてならない。

以前、似たようなことを、みんなで考えたことがある。


【発問】

だれかが、「これ、好き!」と言っているときに、「わたしはそれ、キライ」と言う人がいます。

どう思いますか?


この筆者のワタナベ薫さん、という方は、

「そんなことはいちいち、言うものじゃない」


と言っている。

子どもたちは、最初、

「そんなことは分かるけど、でも、言いたくなる」

と。


なるほど。

そんなことは、言われなくても分かっている、と。

だけど、なぜか言いたくなる。

で、言ってしまう。なにが問題なのか。


ある子が言った。
〇場の空気がまずくなる。

〇せっかく「好き」と言った人と、気持ちが通わなくなる。

「えー、わたしはキライだな」

と言った瞬間、気持ちが通わなくなるんだって。

そういうこと、ある?


しばらく考えて、

「うん、うん、そうかも・・・」という感じ。



気持ちが通わなくなる、という気がする人?

(学級の、ほぼ全員が手を挙げる)



じゃあ、なんで、言いたくなっちゃうんだろう。

「わたしも言いたいから」

「自分のことを、言いたくなるから」




ここが不思議。

Aさんが、「好きだ!」と自分の気持ちを表明した。

ついで、

Bさんも、「きらいだ!」と自分の気持ちを表明した。



どちらも、自分の気持ちをただ単に表明しただけ。

なのに、どこか違う。



Bさんの発言は、なんだかその場の空気を変えてしまう。

なにかしら、くいちがいのようなものが、違和感のようなものが、その場に残る。

なんだろう、その感じ・・・。


実は、Aさんの会話が、まだ終わっていないのだ。

Aさんは、自分の気持ちが十分に伝わり切っていないうちに、Bさんの会話が始まったから、それが不完全燃焼の理由なのだろう。

Aさんの気持ちが、十分にBさんに伝わったうえでなら、Bさんの

「わたしはキライやなー」

というセリフも、まったく違和感がなくなる。


ああ、そうなん?

Bさん、なんでキライなんやろ。

へえへえ、ふんふん。ああ、そう。


お互いの好みを言い合うことが、おしゃべりの楽しさにもつながる。


だから、ワタナベ薫さんが、「そんなことは言わなくていい」というのは、「まだ十分に気持ちが伝わらないうちは、まだ言わなくていいし、最初の人の気持ちをくんであげよう。言いたいなら、その後で言おう」ということなんだろう。決して、条件反射のようにならずに。あたかも、言わずにおれないような、切迫したような私の気持ちの表明、衝動的な表明したい気分におぼれることなく・・・。人生、そんなに急いでどうする。

Aさん 「わたし、これ好き!」

これに、感覚的な条件反射をしてしまう人が多い。

まるで、ベルが鳴ったらよだれがでてくる犬のように。

Aさんの言葉の余韻が、消えるか消えないうちに、

「えっと、えっと、ワタシの好みで言うと・・・」と言いたくなってしまう。

ワタナベさんは、このことを言わんとしているのだろう、と思う。


本当は、なんで人間は、こんなに急速な、まるで反射的な会話をするようになったのだろう、ということ。相手の気持ちを十分に受け取らないうちに・・・。

こんなのは、本当の会話じゃあ、ない。

ワタナベさんは、そこまで言いたいんじゃないかな。


「先生、ギター上手だよね」

と子どもが言う。


「いやあ、下手な方だよ」

と言ってしまってから、

(あ、今のは条件反射だよな)

と思う。

こういう脊髄反射を、脳の表面での突発的感覚的な思考なしの会話、という意味で、

『無人格反応』という。


つぎに、子どもが言いたかったのは、なんだろうか。

本当に、伝えたかったのは、どんな気持ちなんだろうか。

それを考える前に、相手の発言をバシッと、体育館の床に叩き落とすような感じで、

バレーボールのアタックを決めるような感じで、

「いや、下手だよ」

と言ってしまう。

下手だよ、と言う先生に、

「ゆずの〇〇という曲を弾いて」

とは、頼みづらいではないか。


「ありがとう」

と先生が微笑んで返してくれたら、「ねえ先生、ゆずの・・・」と、切りだそうとしたのかもしれないのに。

こんな下手くそな会話ばかりしているのかも。

【いいね!】体罰を無くすための講義~日体大~

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日体大が、体罰をなくすための本気の講義を行った。

遺族からの話を聞きながら、涙を流す受講生たち。

これで日体大出身者を将来の加害者にさせないことができるかもしれない。

わたしはこの取り組みを評価する。

しかし、たった一つ、忘れてはいけないことがある。

これを忘れたら、この講義のすべての意味がなくなる。

それは、

「なんのためにスポーツをするのか」

ということ。


良い記録を出すことが、目的ではない。

大会で優勝することが、目的ではない。

しかし、多くの指導者が、これをいつの間にか、目的化してしまう。

大事なのは、人間がどうして、手段をいつの間にか目的にすりかえて錯覚してしまうのか、という人間の心理だ。

ここを解明しないことには、いくら遺族の話に涙を流したとしても、意味は無い。



多くの指導者が、大会のために練習している、と思っている。

だから、練習のメニューやら方法やら、コーチングだとか、ミーティングだとか、なんだかんだとその他の物が全部、「必要だ」と思い込んでいく。

間違っていることの自覚がないから、「方法」に溺れてしまうのだが、本人は「良い」と思っているし、「方法」に耽溺していること自体で満足しているから、なにも省みることがない。

「〇〇が必要だ!」

と叫ぶ指導者は、すでに、大会で優勝することが目的になってしまっている。

そこには、すでに小さな「体罰」の芽が含まれている。



強く思い、強くねがって、がんばってがんばって、とやっている人ほど、目的が見えなくなるし、手段しか目に入らなくなる。だから、コワイ。

体罰の芽は、ない人には無いけど、ある人にはある。

ある人が、一生懸命に「無くそう」としても、それは無くならない。

社会に根深く存在しているのだから、だれも逃れようがない。

「体罰のない」社会であれば、「体罰の無い」学校であれば、体罰の無い人が育つ。

体罰を禁止し、体罰をやめよう、と頑張るだけの学校には、まだまだ、体罰はずーっとありつづける。




日体大が、本気で「体罰をなくす」という。

わたしはその「本気で」というフレーズに、心が動く。

しかし、ただ頑張るだけ、被害に思いを致すだけではダメだ。

「体罰が無い」という社会、スポーツを、とことんまで考えないと、ダメだ。

具体的に、スポーツに関わる人間すべてが、一点の曇りも無く、明るく生きられるようにならなければだめだ。
そして、それはあまりにも簡単なことで、これを難しい、と言う人がいるから、体罰は無くならない。

「人間らしさ、人間としての・・・」

(体罰なんて、なくならないよ、という人。どうぞ、そう思っていてください。・・・そう、本気じゃないのネ?)


体罰をなくす、のではない。
体罰のない社会、体罰の無い人間、なのだ。

概念がちがう。
「体罰をなくす」は、努力だ。
「体罰がない」は、そのまま、だ。

努力の必要が無い。
最初から、努力をしなくても、身についている。
あるいは、余計な「体罰発想」が、もともと無い状態。

体罰、などという行動様式そのものの発想がない。
だから、起こりえない。人をなぐる、蹴る、という行動の発想すら、存在しない。

これを、けっして起こりえない、ということから、『ヘルフリーズ発想』という。


叱らないでもいいですか、という、このブログの。
一番元に通じる記事を、ひさしぶりに見た。

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歴史授業「焼き場に立つ少年」の写真から

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歴史の授業が、いよいよ佳境に。
太平洋戦争であります。

授業の最初に、この写真を見せました。
しーん。

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日本は、アメリカ・中国などと戦争をしました。
この写真は、その戦争が終わったすぐ後に、長崎で撮影されました。

撮ったのは、アメリカ軍のカメラマンであるオダネルという人です。

この写真に、なにが見えますか?

「男の子」
「男の子が、小さな赤ちゃんをおぶっている」


まだ、なにか分かることや気づいたことはありますか。

「男の子の足は、はだしです」
「背中の赤ちゃんは、寝てる」


なんではだしなんでしょう。

「戦争で、なくなってしまった」
「どこかにいってしまった」
「急いで逃げてきたのかもしれない」


読み取った情報や、自分がそこから考えていけること、類推すること、背景として想像できることなどを、ノートに書かせた。

時間を十分にとったあと、ノートに書かせたものを元に、意見をだしあう。

おうちの人はどうしたのだろう

「お母さんも、長崎だから原子爆弾で被害を受けて亡くなったのかもしれない」
「原子爆弾じゃなくても、戦争中だから、死ぬことがあったかも」


長崎にも、外国人が攻めてきた、ということ?

「元寇のときは、外国人が上陸したけど、長崎にも上陸したのかも。」
「空襲があったのだと思う」


空襲ってなに?

「飛行機から、爆弾がたくさん落とされた」


日本の各地で、どれほどの空襲があったのか、資料集をみて、そこから情報を読み取る。
日本中、あちこちで空襲があり、大きな都市はほとんどが空襲を受けて被害をうけたことがわかる。

「長崎は原爆だけでなく、何度も空襲があった」
「きっと、この子は、アメリカや中国を憎んでいると思う。だから、兵隊になりたかったのかもしれない」
「だから姿勢がいいのかも」


子どもたちは、あれこれと自分自身におきかえながら、この子の心の内にまで想像をふくらませていく。

「歯を食いしばって、立っているようだから、きっとなにかとても我慢をしていると思う」
「お母さんが亡くなったから、我慢をしているのだろうと思う」
「背中の赤ちゃんが元気がないのは、食糧が不足していたのだと思う」
「栄養不足だったのだろう」
「たぶん、お母さんもいなくて、自分が赤ちゃんの世話をしないといけないということは、二人兄弟か」
「お父さんもお母さんもいないということは、学校には行けていないと思う」



あれこれと討論が終わって、この子をとりまく状況が分かってきたような感じのところで、

「この写真につけられたタイトルを教えます」

といって、
「焼き場に立つ少年」

と黒板に書いた。

しばらく、しーん。



背中の赤ちゃんは、もう亡くなっていたそうです。この子は、この赤ちゃんを火葬してもらうために、順番を待っていたのです。これを撮影したカメラマンが、この写真について書いています。この少年は、ずっと順番を待つ間、まっすぐに前を向いて、気を付けの姿勢をくずさなかったそうです
当時は、軍国教育でした。
どんな教育だったのでしょう。なぜ、ずっと気を付けをしていたのでしょうか。

「死んだ人が前にたくさんいるから、気を付けをしていたと思う」
「そうしないと、殴られたりしたのかも」
「気を付けをしていないと、叱られるから」
「まわりに兵隊さんがたくさんいて、気を付けをしていたから、大人と同じように気を付けをしたのでは」


この赤ちゃんはなぜなくなったのでしょう。食糧が不足していたというけど、なぜそうなってしまったのでしょう。

「戦争で戦っている兵隊さんのために食糧を出していた」
「食べるものはほとんどが、軍隊のためにもっていかれたのでは」
「戦争で空襲があって、つくっているひまがなかったと思う」



用意していた、いちばん大事な発問をした。
少年はなにを見ているのでしょう。

「死んだ人の山を見ていると思う」
「焼けた自分の街をながめているのだと思う」
「なにも見ていない」


なにも見ていない、といった子に、どういうこと?

と尋ねると、

「たぶん、気を付けをしなきゃと思って立っているけど、立っているだけでやっとなんだと思う。だから、そのまま、もう何も心には入っていないと思う。目はあいているけど、なにも見えていないんだと思う」



最後に、この写真を撮ったカメラマンの手紙を読んだ。

長崎では、まだ次から次へと死体を運ぶ荷車が焼き場に向かっていた。死体が荷車に無造作に放り上げられ、側面から腕や足がだらりとぶら下がっている光景に、わたしはたびたびぶつかった。人々の表情は暗い。

焼き場となっている川岸には、浅い穴だけが掘られている。水がひたひたと押し寄せていた。灰や木片、石灰が散らばっている。燃え残りの木片が、風をうけると赤く輝いて、熱を感じる。白いマスクをつけた係員がもくもくと、荷車の先から、うでや足の先をつかんで、引きずりおろす。そして、そのままの勢いで、火の中に放り込んだ。死体ははげしく炎をあげて、燃え尽きる。
(中略)

焼き場に、10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせていて、ぼろを着ていた。足は、はだしだった。少年の背中に、2歳にもならないような幼い子がくくりつけられていた。その子は眠っているようだった。体にも、まったく傷がなく、やけどのあとらしいものも、みえなかった。

少年は焼き場のふちに進み、そこで直立不動になった。
わきあがる熱風を感じていたのだろうが、動じず、そのまま動かず立っているままであった。
係員がようやく、その幼子を背中からおろし、足元の燃えさかる火の上に、のせた。

炎が勢いをまし、おさな子の体を燃やし始めた。立ち尽くす少年は、そのままの姿勢で立ち続け、その顔は炎によって赤く染まった。気落ちしたように少年の肩がまるくなり、背が低くなったようだった。しかしまた、すぐに背筋をのばして、まっすぐになった。わたしはずっと、この少年から目をそらすことができなくなっていた。

少年は、まっすぐを見続けた。足元の弟に、目をやることなく。ただひたすらに、まっすぐ前を。
軍人にも、これほどの姿勢を要求することはできまい。

わたしはカメラのファインダー越しに、涙ももう枯れ果てた、深い悲しみに打ちひしがれた顔を見守っていた。わたしは思わず、彼の肩を抱いてやりたくなった。しかし、声をかけることができず、そのままもう一度だけ、シャッターを切った。

すると少年は急に向きをかえ、回れ右をすると、背筋をぴんとはり、まっすぐ前をみて歩み去った。あくまでも、まっすぐ。一度もふりかえることなく。

〇この子はこのあと、どこへ行くだろうか。
〇大人になって、何をしているだろう。

最後に、感想を書かせた。

コミュニケーションの力を育む授業~普通名詞でなんという~

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コミュニケーションの力とは、いったい何か。
何をさして、コミュニケーション、と言っているのか。

ひと言でいうと、「ひとを尊重する」ということ。
それが、できるかどうか、だと思う。

「尊重」という言葉。
この言葉は子どもたちに、響く。

「尊重するって、むずかしい言葉だけど、みんなはどんな感じで思ってる?」

大事にする、大切にする、ぜったいに邪魔をしない、きいてあげること・・・
子どもたちは自由にいろいろと、そこからイメージをひろげる。


「当たり前のこと。ふつうのこと」

こんな意見まで、出てくる。

なるほど。

ひととして、ひとを尊重するのは、当たり前か。
そうだよね、自分を大事にするっていうことも、含まれるもの・・・。

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話すこと、聴くこと、伝えること、書くこと、読むこと。
コミュニケーションというと、このような具体的な力もあるだろう。
しかし、もっとも根幹にあるのは、この、

「相手を尊重する感じ、自分を尊重する感じ」

なんだと思う。

しかし、このことを示す『言い方』が、ない。
「共感」もいいけど、それより以前のもの。「共感」よりも、前にくるもの。
「信頼」もいいけど、それより絶対的に無条件で無くならず、たしかにあるもの。
「自尊」もいいけど、それよりももっと普遍的で他者を含む、あまねく広がりを感じさせるもの。
「愛」という言葉は、もう手垢でマックロ。残念だけど、使えない言葉になっちゃったし・・・。

日本語で、いい言葉が見つからない。
おそらく、一般名称がないのだろう。今ある普通名詞のなかに、いちばんしっくりくる言葉が、見つからない。


これは、日本人にとってとても不幸なことで、言葉が人間の基本的な思考の枠を決めていくのだから、当然、普通名詞があるべきだろう、と思う。

いったい、どういえばよいのだろうか。
「相手を尊重する感じ、自分を尊重する感じ」

これが自分の気持ちの中に、そしてコミュニティの中に、充満してくることの幸せを知ったら、人間誰しも、楽しくて仕方がないことだろうと思う。

言葉を、みつけたい。
すでにあるのであれば、知りたい、と切に思う。

(あるいは、つくる、べきなのだろうか?)

「事実」と「感想」を分ける授業~ イースター島にはなぜ森林がないのか~

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〇事実と意見(感想)を分ける
という「めあて」がある。
これが、面白い。子どもたちも、目がキラキラしてきて、ずいぶんと盛り上がる。

うちの学校は、国語の教科書は、東京書籍を使っているが、そこに
イースター島にはなぜ森林がないのか
という、説明文の単元がある。
「事実と意見を区別しながら文章を読み,それに対する自分の考えをもつ」

というのが、ここでの大きな目標となる。

イースター島には、かつて豊かな森林があった。
考古学の研究により、世界最大のヤシの木をはじめとして、かつては全島が熱帯雨林の大森林だったことが判明している。
しかし、いつの頃からか、その森林がすっかり消えてしまう。
今は、草しか生えていない。その間、わずか数百年。
いったい、何が起きたのだろうか。

子どもたちは、興味津々で読み進んでいく。

モアイ


筆者は、島の歴史をたどっていくことで、その原因をさぐろうとする。

序論で、概要としてのイースター島の紹介がある。
ついで本論で、森林がなくなった原因が書かれる。
そして結論で、筆者が主張すること、このイースター島の歴史から、われわれ人間が学ぶべきこととはいったい何なのか、ということが書かれている。

序論と本論では、いわゆる「事実やデータ」が多く述べられている。
現在、イースター島という島を、人間がこう見ているのだ、ということがくわしく書かれている。
そして、本論では、それらの事実から、筆者がこう思う、こう考える、という主張、意見、感想が述べられていく。

ここまでは、子どもたちもわりとハッキリと、

「ああ、事実だー」
「ここは、感想だー」

という具合に、さっぱりと分けることができていた。

ところが、難しいところがあった。
結論部である。
森林がなくなったあとのイースター島の様子について、書かれているところ。
そこに、事実と筆者の意見が、織り交ざるようにして書かれた文がある。
一見、事実っぽく書かれているかのようで、文の最後には筆者の意見が書かれているところ。ここが難しい。

「えー、事実かなあ?」
「これって意見? わからない・・・」


あれこれと言い合っているうちに、クラス一の秀才君がこう発言した。

「文の最後をみればいいんじゃない?」

つまり、
「~である。」「~だ。」

と書いてあれば、事実っぽい。

そして、
「~だろうか。」

となっていたら、どうも意見っぽい。



なるほど、なるほど・・・。

この判定法だと、かなりいい線までいける気がする。


また、猫の好きな Uさんが言うには、

「事実は確かめられるけど、意見は確かめられるとはかぎらない。」

だそうだ。

これも、なるほど!と、クラス一同が納得できる話であった。




このあと、時間がぎりぎりになったので、後半につづく、ということにして、

「いま、教室に居て、みんながわかる事実って何だろう?」

というと、勝手にノートに書いていたが、男子が書いたのには

「先生は男だ、というのは、事実」

というのがあり、それは確かめようと思えば確かめられるので、事実であろう、ということになった。

しかし、ストーブについている温度計表示が「16」を示しているので、

「今の温度は16度、というのは事実」

という、ある一人の女子が書いたのについては、

「温度って、確かめられるの?」

という疑問が出て、

「本気になって、正式なやり方で確かめようとすれば確かめられるけど、今、現にこの教室の中が16度かどうかって、それはちょっと分からないから、事実だとは言えない」

という子が出て、そこが面白い。

【孫子の兵法】高学年の先生は楽しい授業をジャンジャンとやるべき

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戦争の天才、孫子は、こう言ったらしい。
「戦争の原則としては、味方が十倍であれば敵軍を包囲し、五倍であれば敵軍を攻撃し、倍であれば敵軍を分裂させ、等しければ戦い、少なければ退却し、力が及ばなければ隠れる。」
これは非常に面白い。
人間関係も同じようなことが言えると思う。

孫子

市内の各小学校から集まって、市民ホールで合唱コンクールをやったことがある。

お互いに合唱を聞き合うのだから、さぞかしみんなマナーを守るかと思うだろうが、そうではない。
ある学校のある生徒は、まったく合唱を聞く気などなく、おしゃべりをしながら時々雄叫びのような声をあげたり、自分だけ拍手を延々と続けたりし、その学校の先生からたびたび注意を受けているようだったが、まったく態度を改めるそぶりがない。こんなところになんで俺は居なくてはならないのだ、という感じの不満をありありと顔にだし、他校のステージ発表の最中も、何かの拍子にゲラゲラ笑ってばかりいた。

見ると、担任かと思われる先生が何度も注意に立っているようであったが、子どもの方はもうほとんど聞く気が無い。

つまり、その子にとっては担任など、どうでもよい。

「この人の言うことは、聞かない」

と決めてしまっているのである。

居直り、とでもいうのであろうか。

居直ってしまった子を、どうにかできる大人は、おそらくいないと思う。

もはや、その子と関係を結べている大人が、周囲には一人もいないのであろう。


これは、とても難しい生徒指導である。

こういう子は、最初から、追いつめてはいけないのである。




孫子でいえば、最初、味方が十倍であるときに、相手を攻撃してはいけないのである。

包囲するだけで、十分。

戦うことが目的、ではないのだ。

「孫子曰わく、
 凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るはこれに次ぐ」
 とある。

これは、およそ軍事力を用いる原則としては、敵国を保全したまま勝つのが最上の策で、敵国を撃破して勝つのは次善の策である、という意味だ。

つまり、わかりやすくいえば、戦いに勝つというのは、相手をやっつけるのではない、ということ。

相手が自分の話を聞き入れるようにさえすればよいのであって、手段を目的と取り違えるからか、頭の先から攻撃しなければならない、と思い込んでいる。それは間違っているのである。

教師は、どんな子どもに対しても、決して居直られないよう、追いつめないようにしなければ。

どんな子も、落ち着いて話を聞いてほしくなるタイミングがあるのだから。

冷静に、自分のことを考えたくなるときがある。

そうした時間をつくれるように、タイミングをつくれるように、環境をつくれるように、話のきっかけをつくれるように、徐々に周囲から、相手に迫っていくのである。(表現が変かな?)




3、4年生の時は、とても静かでおとなしかった学年が、5,6年生になって爆発した、ということがある。

それは、3,4年生のときに厳しかった先生たちが、ガチガチに締め上げていたのを、5,6年生の先生たちがそのまま引き受けたからであります。

人間、厳しくされてキュッとなって、言いたいことも言わずに黙っていたら、いつかそれを出したくなるもの。

2年間も言いたいことが言えなかったら、賢い高学年になれば理屈もたつようになるし、チャンスがあればどこかから出てきますよ、それはネ・・・。

3,4年生の時に静かにしていたのは、決して納得していたわけではなく、抑圧されていただけ。

「自分を取り戻そう」とすれば、正直に自分の心の声を出していきたくなるもの。

5,6年生の先生ともなれば、そのくらいのことを予期しておくのが当然で、楽しいことをジャンジャンとやるのがよい。

3,4年生の授業がまるでお通夜のように暗く寂しいものであったのなら、授業のイメージをガツン、と変えてしまう。

そのくらいやらないと、リハビリできないし、リハビリができないと、結局なにかたまった鬱憤のような物、トラウマのようなものから逃げるだけで、残りの小学校生活が過ぎてしまいます。

本来の楽しさを味わうには、リハビリが要るのだとしたら、どんどんと人間らしい息をさせて、楽しい授業をたーーくさん、味わって、楽しいクラスの行事をたーーくさんやって、人間関係をつくって、

心から安心できる人間関係を、大人も子どもも、教師も児童も、みんなが確認しあうことから。

人間どうしが、心から「安心できる」っていうことが、何をするにしても、何をおいても、最初に来る。
いちばんの大元だ。

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「耳なし芳一」を知らぬ子どもたち

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「竹取物語」の概要は、ほとんどの子が知っている。
しかし、よくは知らないようだ。
おそらく、絵本などで簡略化されたお話として、ほんの少し、見聞きして知っている程度なのであろう。

いちばん単純なお話としては、

「かぐや姫が竹から生まれ、大きくなったが、そのうちに泣き出して月に帰るといい、おじいさんがひきとめたけど月に帰って行っちゃった」

という程度しか知らない子もいる。
帝も男たちも、なにも出てこない。
これで「かぐや姫」と言っていいのか、と思うほどだ。


それよりは、もう少しくわしく知っているよ、という子でも、

「なんかお殿様と結婚しようとしたけど、月に帰らなきゃだから帰っちゃって、お殿様と爺様婆様、みんなで泣いた」

という程度。

結婚の申し込みが殺到したが、かぐや姫がありもせぬ無理難題をふっかけて、男どもをけむに巻いた、などということはほとんどの子が知らない。
まして、かぐや姫が最後に帝に「不老不死の薬」を渡したことなどは、知らない。

帝は不老不死の薬を手に入れて、神の世界に住む者としてこの世に君臨したかというとそうではなく、かぐや姫のいない世界に生きる意味なし、と不老不死の薬を日本で一番高いとされた活火山の噴火口に投げ入れてしまった、という話は、みんな

「へーーー」

という顔で聞いている。

そこから話が広がって、子どもたちに平家物語や奥の細道などの話をしてみたが、ある程度のことは知っている子ですら、『東海道中膝栗毛』(なんと一応国語の教科書に載っている!)の弥次さん喜多さんとなるとまったくチンプンカンプンだし、第一、全員知っているかと思われた、落語の「寿限無」すら知らない子までいた。

平家の話となると、外してはならないのが、平家の落ち武者の悲哀、残されたものたちの怨念と、心底からの、嘆きの物語であろう。

先日、『平家物語』について話題になった折に、
「もっとも有名なのは、『耳なし芳一』であろうな」
と、わたしはその話をした。

うちのクラスで、耳なし芳一を知っている子は、一人しかいなかった。

なぜだろうか。
自分が小学生の頃は、日本の一番有名な怪談の一つとして、何度も何度も聞いたり読んでもらったりしたような気がするのだが・・・。

おそらく、わたしが思うに。


主人公、芳一の、耳がひきちぎられることの残虐さ。
そして、その引きちぎられるときに、声を出してはならぬ、との約束があったがゆえ、
芳一が苦悶の表情をうかべながら、必死に呻き声を押し殺していた、という、なんともいえない凄惨な場面が、平成の子たちには、キツすぎるからではあるまいか。
雨の中を唯ひとり安徳天皇の慰霊碑の前に座り、琵琶の音を響かせ、壇ノ浦の合戦のくだりを大声で詠唱する芳一・・・。

背後やその周囲と墓石の上のいたる所に、死人(しびと)の炎が蝋燭の火のように燃えている。かつてこれほど多くの鬼火の群れが、生者を前に現れたことは無かっただろう・・・。

芳一が鉄の指で掴まれたと感じた刹那、耳は引き千切られた。猛烈な痛み!しかし、叫び声は上がらなかった。重々しい足音は縁側を歩いて遠ざかり──庭に下りると──そのまま道の方角へ出て行き──止んだ。頭の両側から、どろどろと生暖かいものがしたたるのを感じた・・・。

この話の物凄さに比べたら、魔女もゾンビもバンパイアも、みんな赤子同然で、ちんまりとかすんじまうくらいだから、ねぇ・・・。ハロウィンなんて、お化けもワンパターンだし・・・かわいいもんだよナ。

耳なし芳一

先生、椅子の高さが・・・

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1年生や2年生、低学年を担当したことの多い先生は、さすがだな、と思うことが多い。

だいたい、言葉数が少ないし、話すことに要領を得ないことが多いから、先生があれこれと気を回して、子どもの状態をキャッチしようとする。すなわち、アンテナがむちゃくちゃ高い。

すると、

「先生、おなかいたい」

というたった8文字に、おそらく文章化すると8000字くらいの内容が詰まっていることを見抜くわけ。

さすがだな、と思う。


先日、私のクラス、

「先生、椅子の高さを変えてほしい」

と言ってきた子がいた。

で、椅子の高さを変えてあげました。

すると、

「おお、よくなった~」

といって喜んでる。

これ、高さを変えるの、わざわざ子どもの見ている前で、やってあげる。

工具をもち、眼鏡レンチをまわして、ボルトとナットを外して、このくらいの高さかなあ~、とか言いながら、子どもとしゃべりながら、あれこれと時間をかけて、やってあげる。

これ、子どもが見ていない時にサッとやってしまっては、ダメですよ。
かならず、その当人が見ている前、で当人と気軽におしゃべりしながらでないと。

先生と、なにか話したくて、そう言ってきていることが多いから。
そうやってあれこれやっているときに、

「どうよ、〇〇くん、先週サッカーの大会があったんだって?」

なーんて、話をする。それをしながら、レンチをまわしたり、椅子をひっくり返したり、いろいろとやるわけ。
そうすると、いっしょに膝ついて、ナットをくるくる指の先でさわりながら、

「それがさー、キャプテンに選ばれちゃってさー」

なんて、報告してくれるんす。

「でも、キャプテンだと〇〇やらなきゃいけなくてさー・・・」

なーんて。

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こういうこと、低学年の担任をやることで、感性が磨かれてくると思う。
サインなんだ、ということ。子どもは、常に、なにかしらサインを出すものです。

で、なにかが、不安だ、ということが多い。

あるいは、プレッシャーを感じている。

または、なにか、他の人から「言われた」か。




そういう場合、だれがなにを言ってきたか、プレッシャーをかけたのはだれか、そこまで聞く。

すると、実はいちばん不安に苛まされているのは、大体はその当人ではなくて、

「他人に対して細かな文句を云ってくる友だち」

の方である場合が多い。

細かな文句を他人に言う子ほど、なにかしらの不安にかられていたり、びくびくしていたりする。

これを、不安による他人への文句、つまり攻撃的な心配、『Offensive worry』(オフェンシブ・ウォーリー)という。

その友達を見つけ出して、様子を見、

「大丈夫」
「安心してね」

とメッセージをおくるまでが、学校教師の一つの仕事です。

「こうやると、うまくいくかもよ」と言ってほしい

.
学校でアンケートを取ります。

だいたい、日本中どこでもとるんじゃないかな。

文科省からも言われているし、アンケートをとるしか、実質的に職員が参考になるものがない。
子どもたちの声を可視化するツールとして、アンケートが使われる。

そこで、最近よく見る項目が、

〇どんな学習スタイルが好きですか

というやつ。

アクティブラーニング、対話型学習などと言われ、先生方の授業スタイルの改革が叫ばれているからだ。

最近は、

〇先生に教えてもらう

よりも

〇友達どうしで学び合う

ことが重視されはじめている。

だから、アンケートをとるわけ。

〇先生に教えてもらう
〇友達と教え合う

どこの学校も、このふたつ、どちらがいいと思うか、子どもたちに聞いてみていると思う。

すると、これ、両方に丸をつける子が圧倒的に多い。

そりゃそうだ。

どっちか選べ、なんてアホか、と思うんだよね。
自分に得になることだったら、どっちでもやりたいし、やってほしい、と思うのが普通だもの。


そこに、自由記述があって、わたしが今回印象に残ったのは、

「先生に教えてほしいです。いつも、こうやるとうまくいくかもよ、と教えてほしいです」

という回答。

4年生の女の子だったかな。




見た時に、これはほとんどの子が、思っていることなんじゃないか、と思った。

微妙な言葉のニュアンスが、分かるよね。

うまくいく、ということが知りたい。
わたしは、うまくやりたい。
成功させたい。

そこで、やり方を教えてほしい。
でも、こうだこうやるのだ、とは教えずに、こうやると、うまくいくかもよ、と教えてほしいのだ。

いいねえ。子どもの文章センス。

800__souji

「もっと協力しなさい!!」は、あぶない

.
担任が子どもたちに、

「もっと協力しなさい!」

というときは、ほとんど、うまくいっていないとき。

そんなときは、やることや内容、目標なんかを見直した方がいいように思われる。


子どもは不思議なもので、心の中では協力してる、と思っていることが多い。

なにかあれば動こう、声がかかれば動こう、と考えている子は本当に多い。

クラスメートからの要請があれば、まあやろうか、動こうか、頼まれたらやろう、となる子ばかりだと思う。

ところが、目標が高すぎたり、内容が不透明だったり、やることがはっきりしていないとき、あるいは、そもそもやろうとする気がまったく起こらないような場合は、全体の動きがにぶくなる。大人も同じだよね。
担任が掛け声をかけてなんとかできるレベルを、とうに超えている。


そのとき、

「もっと協力しなさい!!」

と、指示が出るのかもネ。

でも、その

「協力しなさい」

という指示で、なんとかなるなら、もうそもそも問題が生じていないわけで。



それから、「協力しなさい」と言うと、今度は子どもたちは、

「いっしょにやる」ことを、目標にしてしまいます。

一緒にやること自体が目的になり、なんだかちぐはぐな感じになりがち。

つまり、「あの人、いっしょにやろうとしていない!してくれない!」と、相手を責め始める。

これは、なんだか変でしょう?



たぶん、教師は

「協力しなさい」

と子どもに言う場合は、用心した方がいい。

「これ、そもそも無理があるんじゃ?」

と思った方が良いのかも、ネ。


(写真は、セントレア中部国際空港にて撮影)P1150026



ごめんなさい、といいなさい

.
「謝る」の価値は、21世紀になって格段に跳ね上がったと思う。

20世紀の終わりごろ、大企業の不正が話題になったことがあった。

雪印の不正、
銀行の不正、
なんやかんやと。

そこで、大企業の偉い人たちが軒並み頭をさげて

「まことに申し訳ありませんでした」

と言い、そこに雨のようにカメラのフラッシュ音がかぶさる映像が、これでもか、とお茶の間に流れた。

おそらく、そのときから、


「ごめんなさい」


を言うことに、日本人は価値を置き始めたのではないかと思う。


学校でも、指導の終わりは「ごめんなさい」である。

「反省させないと、本人のためにならない」

というわけで、相互にごめんなさい、を言わせる。

親に報告する時も、

「〇〇くんも△くんに対して謝罪しまして、ごめんなさい、と言いましたので・・・」

と、報告する。

母親も、その報告を受けて、納得し、

「〇〇くんも謝ったんだって」

と今度は父親に報告する。

父親も、その報告を受けて、

「そうか、〇〇くんも謝ったんだな。じゃ、仕方ない」

というふうに考える。



ところが、これは心の中の作業とは、まああまり関係があるのかないのか、どちらかというと無関係でありましょう。

指導というのは、叱ったり謝らせたりすることよりも、子どもたちが次にどこへ向かっていくのかを手助けすること。

そのためには、なにが大事なのか、を考えさせたり、ときには考えていくための方策をきちんと教えることかと思う。

やっぱり、「考える」ということに、重きを置くことかな。

しかし、そこに重きを置く大人も少ないわけで、大人自体が

「考える」

を日常でさぼっているようでありますから、まあ子どもに

「考える」

をさせようってことなど、もとより考えていないのかも。

「頭を下げて謝る大人の映像」に価値がおかれる?、のですから、何を考えたか、どう考えたかなんて、なにも価値はないのでしょう。

「何が大事か」、これを考えることは難しい、ということに、なっているように思う。

なかには、「謝ることが大事」とし、そこからは思考停止デス、という教師も。

自戒しつつ、ネ。


考える
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