30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2016年11月

困ることの病理

.
子どもをみるとき、子どもの機嫌をよく観察します。

毎日、なんとなく機嫌よく過ごし、まあ鼻唄をうたうレベルの子もいますし、なにか眉間にしわが寄って不機嫌な子もいます。

生きていくにはどちらが良いも悪いもなく、どっちでもいいのです。

しかし、不機嫌な子は、生き辛そうに見える。

不機嫌の中身は、

「おれは困っているのだ」

という叫びです。




朝、登校した直後に不機嫌なSくん。
雨で服がぬれ、靴下がぬれてしまって不機嫌な状態。

この子が、幸福になってほしい、と思って、そこから1年間がスタートする。

1年の間にやれることは、限りがある。

しかし、1年間にずっとその雨の朝のことが念頭にあって、その子に接する。

その子が機嫌のよい時も笑っているときも、この子の【その、雨の日の心の状態】が、いつも頭の片隅にある。


雨で、不機嫌になってしまう子の、困り感。
実は、雨だけではなく、友達だったり親だったり兄弟だったり学校の成績だったり、担任とのトラブルだったり、それらが積もり積もって、その日の【朝の雨での不機嫌】が表出されてきているわけ。
物語はおそらく、生まれた時から始まってる。

困って不機嫌になる子の、その「自分の思いを満たすことへの執着」を、どうにかしてやりたくなる。


そのSくんの隣で、

「せんせー、くつしたぬれちゃった~」

と明るい声で報告し、

「ここに干しといていーい?」

という子もいる。

自分自身でなにも困っていない子。
なぜか、事態が『困る』に至らない子。


この、困る子と困らない子の、境にあるものは、いったい何だろうか。

いつもいつも、「思い通りになるならないが無関係、の明るさ」が、気になる。

思い通りになってもならなくても、なにも困らず、平気な子。

自分の思い通りになることが重要で、そこに価値を置くがために暗くなる子。



道徳教育は、ここがいちばんのポイント、だと思う。

困ることの病理。

この解明かな。

困った

ぼくは約束なんてしたくない

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学校で生きていると、これはもう、毎日が修行であり、悟りの毎日。

今日はこんなことがありました。

廊下を歩いていると、

「いいか、約束だからな!」

という男の先生の声が聞こえました。

そして、その先生の向こう側には、男の子がいて、なにやらぶつぶつ文句を云っている様子。

まあ、なにかしでかしたのかもしれません。

男の先生は、

「約束だ!」

と何度か念を押すように、言ってます。


このシーンを見ても、なにやらむくむくと、「何かあるぞ」と思ってしまいます。



わたしは、ソフィーマルソーのような可憐な美女との間になら、なんでもいいからどしどしと約束をとりつけたいと思いますが、学校できく「約束」という言葉は、なんだか身構えてしまいますネ。

子どもを指導する場合の、シメの言葉、というのでしょうか。

飲み会の終わり、鍋の終わりに、

「よし、雑炊かうどんでシメましょう」

という感じで、いわゆる指導の最後に、「いいか、約束だぞ」と使う場合が多いような気がする。

だいたいは、教師側から一方的に取り付ける約束でありますから、叱られている方の男の子は、

「そんな・・・ぼくは約束なんてしたくないし、約束しようともしていないのにな・・・チェッ」

という顔をしております。

この約束、はたして、守られるんでしょうか?



たぶん、これ、意味ないよネ。

だって、片方は、そんな約束したくない、しようとも思わない、守ろうと思っていない、のですから。

守られるわけが、ない。



なので、次にコトが発覚すると、

「なんでまたやったんだ!!前回、約束したではないか!!約束を破りやがって!!」

というふうに、インフレが起こるのです。

わかります? 叱責のインフレ、約束のインフレ、です。

二回目のときは、目の前の事件について叱られるのに加え、約束を守らなかった、ということで二重に叱られるわけです。



悪循環。




これはネ、無理な押しつけだったかな、と、教師側が思っておかないとネ。

子どもの方に、なにかまだ、言いたいことがあるんだよな。

だから、「約束だぞ!!」の声が、強くなってるんだよ。言い聞かすように、大声で言っちゃうんだよナ。先生は、時間が無くて、焦っているんだよね。(ホントは時間はあるんだけども)

こんなときは、丁寧に教えた方がマシ。なにがダメなのか、って、ね。

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「自主的に動きなさい!」の意味

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学校現場では、子どもたちが自主的に活動することを何よりも願う。

「自主的に動けるように」

というのを、どの先生も考えているのだろうと思う。

この自主性、とはいったい何なのか。


わたしはいわゆる「積木崩し」の時代に子どもをやっていたので、いわゆるリーゼント頭やバイクに乗った不良が身近にいた。

朝、学校へ来ると、大量のチョークがばらまかれていたことがある。
靴をはきかえようと思っても、できない。
なぜなら、玄関はすでに、すべて水浸しにされていたからだ。
水に溶けたチョークで辺りは覆い尽くされ、昇降口はすべてドロドロの原色が渦巻くカオスであった。

またある日は、お昼の放送で、ヤクザの息子と噂されていたGくんが

「☆@ΘΓΠ◇◎!!」

とても聞くも憚られるようなことをマイクで放送し、血相を変えて担任が廊下をすっ飛んで行くのを見た。

不良くんたちはそれなりに自分自身で何かを考えているふう、であったが、それらは

「自主的な活動」

とは呼ばれない。

学校で先生たちに気に入られる「自主的な活動」とは、チョークで昇降口に芸術アートを描くことではないらしい。

つまり、学校でいう「自主性」とは、

「教師の望むことを察して、指示がとんでくるよりも先に動く」


という、つまりは行動のこと、なのでありましょう。


生徒がやりたくてもやりたくなくても、そんな生徒の気持ちや心情には、関係なし。

ともかく、やりたくなくても進んでやりなさい、ということであるから、まあ

「自主性」

とは言い過ぎで、この場合は

「自己規制」


と呼んだ方が、言葉の上では適正でしょう。


ところで、前述の不良たちのように、昇降口にアート作品を展示しているというのは、「学校生活かくあるべし」という、先生たちの意図する範疇を超えてしまう。

つまり、先生たちは、本心から、本当の意味で、「自主的に動け」とは言ってないのであります。


けれども、人生、という長いスパンと、その重要性を考えてみると、自分を何よりも大切に考え、行動していこうとする「自主性」は、決定的に大事なことです。

さらには、そのために必要な、「自分の頭で考える」のうちの、とくに「考える」という点が、もっとも重要であって不可欠な要素だと見えてきます。

子どもたちに必要なのは、その「深く、ふかーく、自分のことを考えてみる」という体験そのものです。


もし、「考えないよう」にするような教育プログラムが、まことしやかに学校現場に登場し、導入され、あたかももう決まりきったように押し付けられてしまったとしたら、それはたいへん残念な事態です。

「道徳」が教科となり、「英語」が教科となり、10年ほど前にはまだ健在であった「総合的な学習の時間」はほとんどブーム流行と同じように廃れてしまい、教科書は分厚くなり、教える分量は増加しっぱなしの今の流れが、なんだか心配です。大丈夫なんでしょうか。

記憶だけでない、「考える」が楽しい、という授業。

北欧のある国のように、全世界中でトップ(第一位)の学力がありながら、宿題もペーパーテストもない、というのと比べると、日本はまだまだ、「考える」楽しみを、本当には実現できていないのかな、と思います。

せめてその実現のため、地道に

考える授業

に取り組んでいきたいものです。

雪の細道

運が良すぎる件

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病気らしい病気をせず、元気に毎日働けてあることに感謝をしている日々である。

このように元気になれたのは、玄関に飾ってある蛙の置物のおかげである。

蛙の置物がテレビの前に置いてあるときは、なんだか調子が悪かった。

しかし、その蛙を偶然にも玄関に置いたところ、怪我も無く、病気もしない。

事故に遭うことも、蜂に刺されることもなく、元気に働けている。

おまけに先日、近くのショッピングセンターの前で配っていた福引抽選券をよく見てみたら、10等のティッシュボックスをもらえることが分かった。

こんな幸運も、すべてこれはカエルの置物のおかげである。

ところが、嫁様はそれを信じない。

「そんな蛙の置物が、あなたの健康をどうこうと左右できるわけがないでしょう」

と言って、なんと3分もわたしを馬鹿にしたように笑い続けたのである。

わたしは憤怒の鬼と化し、その蛙の置物を前に、復讐を誓った。

蛙の置物は、わかったのかわからないのか、私の懇願にもまったく反応をしないが、なんだか目がぴかーと光った気がする。

そして次の日、嫁の口の中に、口内炎ができた。

これはすべて蛙様の仕組んだものである。

その証拠に、わたしが蛙様を見上げて、

「嫁の口内炎をもたらしたのは、カエル様ですか?」

と尋ねると、

なんとなく、雰囲気的に、わたしの感覚が伝えるところによれば、

目がまたふたたび、ぴかーと光ったような気がしたのである。







わたしは毎朝、蛙様を見るたびに、

「オンマカマカカエルサマ、オンゲコゲコカエルサマ、今日もまた良いことが起こりますように~」

と祈るようになった。

蛙



ところが忙しくてついうっかりと、蛙様を意識するのを忘れる。

ついには完全に蛙の存在を忘れて3か月ほど過ぎた。

先日、ようやく蛙様に気がつき、よく見たらまったく生気が感じられず、ほこりで灰色になっている。

ここまでほっとくなよ!

しかしわたしはそのほこりだらけの蛙様をみて、直感したのである。

「おれが病気もせず、怪我もしないのは、この蛙のせいじゃあないな」

たぶん、今年まだ一度も風邪をひかないのは、きちんと手を洗ってよく食べて寝ているせいだろう。

それとも、もしかすると、蛙の置物ではなく、クジラのぬいぐるみのせいだろうか。

夏休みにクジラのぬいぐるみを買ったから。

きっと、鯨のぬいぐるみを、大切に扱っているせいにちがいない。

なんせ、まだ箱から出してもいないから、くじらのぬいぐるみはまったく汚れていない。

そのせいかもしれない。

箱から出して遊びまくって手あかでまみれていたら、きっと幸運は訪れなかっただろう。

わたしが健康な理由はどれか。

1)蛙の置物を玄関に置いたこと
2)手を洗い、良く食べて寝ていること
3)くじらのぬいぐるみを箱から出していないこと


どれだと思いますか?

もしかしたら、どれでもないかもしれない。

たぶん、どれでもないな・・・。ハハン。


蛙の置物

愛知県はいいところです

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わたしが通っている勤務校は、愛知県の小学校である。

愛知県では、机を動かすときに、机をつる、という。

これは、他県の方には分からない意味不明の表現だ。

「机を釣る?」

とか、

「机を吊る?」

とか、妙な顔をされて、攻撃される。


そんな日本語は、ない、と。



しかし、今日も教室では相変わらず、子どもたちが

「つくえつって!」

と言い、

「そのつくえつって!!〇〇くん、つくえつりの係でしょ!」

と、会話している。

なんなのだ。
『机つり』とは・・・?




あと、えんぴつを削って、先の芯をとがらせるときに、

「このえんぴつ、トキントキンだー」

という。

トッキントッキン、とも言われる。意味が強まった場合だ。

「すげえ、〇〇くんのえんぴつ、ぜんぶトッキントッキンだー」

というように使われる。

なんなのだろうか、トキントキンって。





あと、これはもうかなり有名だが、自転車のことを、ケッタマシン、という。

なんなのだ、ケッタマシン、とは。





これもあれも含めて、ともかく味噌カツの美味い名古屋は、いいところだ。

なにもかもが、ちょうど良いからだ。

地下鉄の駅の間の距離感も、錦通り、都通り、桜通りの間の距離感も、テレビ塔の高さも、なにもかもがちょうど良い。
努力しても、決して、1番になりきれないところが、良い。



きみも、トッキトキの鉛筆を持って、机をつって、ケッタマシンで風に吹かれれば、愛知県人になれる。

ああ、愛知県!!ビバ、愛知県!!

味噌カツ

ヒトラーは、いつか、くるのだろうか?

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トランプ大統領となり、世界的にナショナリズム礼賛の動きがありますね。
産経新聞は編集局長が
「トランプでいいじゃないか」
という見出しで文章を書いていました。
いいじゃないか!これからは日本もナショナリズムでいこうや、国民は開き直れ、というのです。

ところが実際の自民党政権はそうはならないと思います。
なぜなら、米国追従だから。
米国についていきます、という姿勢と、「戦前に回帰して、日本は日本の独自路線でやりますわ」という姿勢がねじれているからです。まるで、上半身は前に進もうとしながら足だけは後ろに行きたがる、という感じ。

だから、現政権が急激にヒトラーのような、
『日本国民万歳!他民族はあっち行け!』
・・・というような感じにはならないと思います。経済成長はグローバル重視で、と言い切っている安倍さんは、なおさらそうはならないでしょう。イライラはするでしょうが。

では、どこからヒトラーが現れるかと言うと、
やはり、本物のヒトラーのような、かつての雰囲気とたいへん似たような感じで、現れるのではないでしょうか。

つまり、アジテーションの天才として。
大衆の心の操作に長けた、人気者として。

ヒットラー


水木しげるがヒトラーに興味を持っていて、ヒトラー総統の本まで描いていました。
そこには、狂気に翻弄されるドイツ国民の心の変わる様子がこれでもか、とかかれていますが、やはりヒトラーはとても魅力的な人物として見えているのです。

ヒトラーは、いちばん最初はただのアウトサイダーです。
何も権威もありません。
聴衆から野菜を投げつけられるような始末です。
ところが、話す内容を聞いていると、だんだんと心を動かされる人が出てくる。

「今、ドイツ国民が苦しんでいるのは、
〇〇のせいだ!
〇〇さえやっつければ!」
と喚き続けるヒトラーに向かって、

「おまえ、なに言ってんだ。あほか」

という人もいるのですが、だんだんと

「あなたのいうことこそ、私の願っていることなのです!」

と陶酔する人が出てくる。

すると、ヒトラーは本当におだやかな笑顔を振り向けて、

「おお、あなたは賢い。わかっていただけましたか」

と、ハグしたり握手をしたりして、ハートをぐっとキャッチするわけ。


許せない
〇〇のせいだ
〇〇をやっつけさえすればよいのだ

(ひとのせいにしたい気持ちに、これで火がつきます。この時点ですでに思考停止に近い

やつらを野放しにするのは言論が自由だからだ
やつらを野放しにするのは集会が自由だからだ
やつらを野放しにするのは思想が自由だからだ

だから、「言論」と「集会」と「思想」から、自由をなくせ

「そういうことを書くべきではない」
「そういう集会を開くべきではない」
「そういうことを言いふらすべきではない」
「そういうことを言う奴は、非国民だ」


と、まあ、

こういうことを、お互いに日本人同士でみんながみんなを指さしあいながら、言い合うような社会情勢ができていくのかも。


今、トランプさんという、派手な公約を掲げる人物が米国の大統領になったからには、
現自民党政権は、いくつものジレンマや「ねじれ感」を抱えることになる。
ねじれたまま、身動きがとりづらくなる。

そうなると、

〇徴兵制
〇核武装
〇基本的人権の制限


を進めたい側の人たちが、どんどんと姿を現してくるのではないでしょうか。

それも、現体制からではなく、どこかの社会の片隅の方から、
笑顔で、かっこよく、ゆっくりと、登場して出てくる気がする。

決して焦らず、じっくりと、様子をみながら。
その顔に、笑顔を絶やさずに。
あくまでも、格好良く、スマートに・・・。


もうすぐ、歴史の授業で第一次、第二次大戦を扱います。

ヒットラーだけでも、話題豊富。
なんでドイツという大国で人気者になれたのか、説明しなきゃならない。
むずかしい。

でも、案外と日本と比較することで、子どもたちも考えていけるかも。
「ヘイト!」と叫ぶと、スッキリする、一時的な陶酔感の意味とか、ネ。

大坂城の内濠(うちぼり)は豊臣方が埋めた?

.
歴史はたやすく理解したつもりになってはいけないことを、この一年で学んできた。

歴史は、とても論理的に進むのだけれど、しかし、それを論理的にとらえることは、人間にはとても難しい。
だから、歴史は常に修正され続けている。
また、人物や業績に対する評価も、コロコロと変わるのである。
このことを、何度も私は、子どもたちに伝えてきた。

「いい?先生が子どもの頃と、みんなが習ってることは、ずいぶん違っているよ・・・」

犬公方と馬鹿にされた徳川綱吉は、その最たるもので、今では揺るぎない名君として紹介される。
また、大阪城を混乱させたとして厄介もの扱いされてきた淀君も、実は聡明な人物であったと言われ始めている。

なぜ、同一人物の評価がこれほどぶれるのかというと、人物の価値を判断するなんて高度なことには、当然、バイアスがかかるからだ。

大阪冬の陣の後、徳川方と和睦を結んだ際、もはや秀頼をはじめ、豊臣の首脳陣はすでに家康を認めて武装を解こうとしていた。家康は輸入した特大の大砲を撃っていたし・・・。

だから、外堀だけでなく、内側の堀も、豊臣方も一緒になって、というよりむしろ率先して内側からも埋めた。豊臣は、全国から集まる浪人たちを、もはや抱えていられなくなったのである。
これは、ついこの間の調査で分かったこと。

「ほら、内堀まで埋めたぞ」


つまり、どういうことか。

「これ以降、もはや大坂城は、戦をしないのだ。(徳川の世だ)」

豊臣は全国から集まった浪人たちを説得し、諦めさせようとしたのである。

ところが、この具体的なメッセージが、浪人たちに伝わらなかった。
逆に、真田丸強し、の噂も伴って、続々と大坂に浪人たちが集まってしまった。浪人たちは、「勝てる戦なら働こう」と思ったのです。禄をあてにした浪人たちが、「大坂に行けば、金になる」と判断した。そして、戦が終わったにも関わらず、「もう一戦、あるはず」として、豊臣軍に仕えようと集まってきてしまった。

これを、家康は「豊臣の裏切り」と受け取ったのである。

今度のNHK大河ドラマ、真田丸では、そのへんの史実がどう描かれるのか、見ものであります。

( ↑ これ、NHKの大河ドラマの時代考証をしている高校の先生に教えてもらいました)


ほら。

家康は深謀遠慮に長けた、狸親父であったというイメージをもつ人、この一件だけでも多いと思う。みなさん、「家康が悪知恵を働かせて、だまして内堀まで埋めてしまった」と習ったでしょ?

しかし、「歴史は一筋縄で理解してはいけない」のである。
分かったつもりになってはいけないし、分かった、とは言えないのであります。
論理的に理解できた、なんて、本当に、よく言えたものだ、ということ。

こーんなことが、次々に起こるのが、『人が人に対して行う評価』なのだ。

こういう話を、教室で繰り返すと、ことごとく、事件や事象、現象について、もはや簡単に「良い、悪い」なんてノートの意見を書かなくなります。


トランプ大統領が次期大統領になるらしい、というニュース。
「トランプ大統領」と見出しがついた朝刊を3紙、黒板に貼って子どもたちに感想を言わせた。

さすがです。
みんな、「良い」も「悪い」も、言いませんでした。
「アメリカが何の問題で悩んでいるか」に焦点が当たりました。

職を失う人が多いこと、移民の問題、国産の物が売れないこと、
富裕層と貧困層の格差の問題、都市部と地方の問題・・・

知っていることを出しあうだけでも、なんだかいろんなことが見えてきます。

これ、3学期の「国際社会」の授業につながっていくよね。

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もしも、幕府が鎖国をしなかったら・・・

.
日本人の海外への渡航が禁止されていた「鎖国」。
(海外で5年過ごした日本人の帰国も禁止された)

もしも、秀忠や家光が、「鎖国」をしていなかったら、どうなってただろうか・・・。

当時は、それがもっぱら、日本の行く道、であった。
「この道しかない(キリッ)」
と、鎖国への道を選んだのでありました。
一説には、列強からの植民地化を避けるねらいがあったと言われています。

ところが、あとから考えると、鎖国の影響により、産業革命時代のヨーロッパの具体的な技術革新や市民革命の息遣いなどが、結果として日本にはもたらされてきていないわけで・・・。
なんとも、勿体無い。
江戸と言う時代には、旧いしきたりが重んじられ、新しい産業や考え方への革新は、注意深く避けようとする人々の気持ちがあったようです。
蘭学などへの知識欲は旺盛であったにも関わらず、学者や一部の人には伝わっていたであろう産業革命や製鉄の新技術の知識なども、惜しいことに具体的に日本の産業現場へ伝わることはなかった。

鎖国前、東アジアに日本人町をつくり、交易をしていた日本人。
もしかしたらめぐりめぐって、イギリスの産業革命や市民革命を目の当たりにして、それを日本へもたらそうとする人間も出ていたかもしれない・・・。
と、ここまで情報提供しておくと、鎖国ってどうだったの、という問いかけは、子どもたちの興味をかなりそそる「問い」になってきます。

鎖国をしてよかった、という子は、鎖国でキリシタン大名の反乱やその背後に蠢めく外国の介入を避けられたし、大きく国が割れるような大戦争が起きなかったことや、平和な260年間に日本独自の衣食住のスタイル、そして文化が熟成したわけで、よかったはず、という意見。

鎖国しない方がよかった、という子は、日本人がイギリスで産業革命を学んで取り入れただろう、という意見。また、「禁教」は信じている人にとってかわいそうだし、自由にしてあげるべきだ、という意見や、もし西洋の国と同じような時期に蒸気船をつくることができたら不平等条約を結ばずに済んだかもしれない、という意見が見られた。


ちょっと意外だったのは、子どもたちの中に、

〇領土が広がるのはよいこと

という認識があること。

このような認識は、いったいどこで、いつから学んで身につけられたものだろうか。

また、

〇強い国になればいいことがある

という意識も垣間見える。

これまた、強いことは良いことだ、という認識があるからだろう。

(強いって、何?という根本的な問いもあるが)
いったいいつ、なぜ、こうした「強い=良いこと」という図式が、INPUTされたのだろう。

つまり、
強い国にならなければ、より強い国から攻められる。

そのことの恐怖をなくさなければならない。

この設定が、どうも子どもたちにも、強く印象付けられている、ということ。


おそらく、

戦う準備を今すぐ始めろ!
さもなければ、攻められるぞ!!


この声が、大きく大きく、今、世界中を覆っているのだろう。
いつの間にか、12歳の子どもですら、そう思い始めているのだから。
おそらく、日本だけでなく、どの国の子どもも、アメリカの子も中国の子も、みんな同じように思っているのだろう。
お互いに話し合うと、そのへんが面白いことになるでしょうな。
「お前の方が攻めてきそうだ。だから俺たちは軍備をする」
「いや、お前の方が攻めてくるだろう。だから俺たちが軍備をする」
「そういいながら、お前たちは攻めてくる気でいるんだろう」
「いや、お前こそ、そう言いながら、実は攻めてこようとしているんだろう」
「いや、お前の目が信用できない。ぜったいに攻めようとしている目だ」
「いや、俺たちは正常だが、お前たちは異常だ。だから攻めるだろう」
「いや、俺たちが正常で、お前たちが異常なのだ。だから攻めてこようとしているのはお前たちだ」

こういう建設的な話し合いこそ、しっかりと世界の首脳会談でやるべきだろうネ。


写真は、ポンペ先生。

ポンペ先生2

【6年歴史】明治以後の発問一覧

林大学頭 「幕府はペリーの言いなりだったのかどうか」

勝海舟  「なぜ幕府の役人が江戸城を明け渡したのか」

西郷隆盛 「なぜ1年半近くも旧幕府軍とたたかったのか」

大久保利通 「大久保は五箇条のご誓文から何をしようと考えたのか」
      「なぜ鉄道会社の社員は全員時計を持つように指示されたのか」
      「なぜ小学校では遅刻すると叱られるようになったのか」

学級討論 「文明開化~そもそも鎖国はしない方がよかったのかどうか」

調べ学習 「関税自主権はなぜ必要なのか」

板垣退助&大隈重信「一部の人が勝手に進める政治とはどんなものか」

伊藤博文 「大日本国憲法と今の憲法の違いは何か」

陸奥宗光&小村寿太郎 「小村が夜中に泣いたのはなぜか」

学級討論 「(フランス人が書いた魚釣りの漫画を示して)気づいたことを出し合おう」

歴史新聞づくり「日清戦争、日露戦争について講和条約を含めてまとめよう」

学級討論 「紡績業、鉄鋼業が盛んになったわけ」
       「第一次世界大戦が日本に与えた影響は」

田中正造と与謝野晶子 「無理を続ける日本が直面した課題とは何か」

日中戦争によって「ロシアから攻められまい」という安心感は得られただろうか

戦争終了直後に映された写真「直立する少年」から、太平洋戦争を想像する

全国への空爆とその最中にばらまかれたビラの中身をしらべよう

戦争にいざなおうとする広告とキャッチコピーをしらべよう

戦後の日本が背負った借金と昭和60年代まで続く借金返済地獄についてしらべよう

(つづく)

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【図工鑑賞】鳥獣戯画~『倒れた蛙』の謎~

.
図工の製作がひとまず終わり、秋のイベントも一息ついたので、まったりと図工の鑑賞。

図工の鑑賞授業は、何度やっても飽きないくらい好きで、子どもも

「またやろう!」

と必ず言ってくれる。

なぜなら、他の教科(とくに算数)とは違って、完全に

「言ったもの勝ち」

だからだろう。

好きなことを言えるし、そのことを認めるしかない、という構造。
不確定なものを、不確定な脳で、わいわいと言い合うだけ。
他と競争したり、張り合う必要はない。
自分の脳みそが、なんでこう働くのだろうか、と不思議になってくる。

ある種の、セラピーのようなもの、かもしれない。
(まあ、言う人に言わせれば、子どもの遊びはほとんどがセラピーらしいが)


鳥獣戯画、という有名な絵巻物。
これが、小学生にはずいぶん人気で、

「かっわいいいーーーー」

である。

これが平安時代のものだ、というと、しばらくみんな無言になる。
なんでこんなかわいいセンスが当時にあったのか、とみんな驚くが、実は日本人はこの感性を失わないまま、ずっと現代まで生き続けている、というのが実際なんだろう。

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鳥獣戯画のある個所に、『倒れた蛙』がいる。

クラスで鑑賞していくうち、このカエルに焦点が当たった。

「ぼくは、このカエルは猿に殺されたと思います」


という子がいる。

「ぼくも」
と賛成意見が多数。

みんな、この絵のつづき、右側にいる、逃げた猿に注目し、関連を考えたらしい。

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「わたしは、猿が持っていた、するどい茎の先で、ぶすっと蛙のお腹を突き刺して、殺したんだと思う。山から下りてきた猿が、強盗をはたらいたんだと思う」

クラスで一番おとなしい女の子がこういうことを言うので、がぜん盛り上がってくる。

殺し
強盗

こんな単語が、教室の中をやすやすと飛び交うため、ちょっと私は気が咎めるが、仕方がない。

ところが、これを「殺し」だとは思わない子もいる。

「えー、ぼくは殺したんじゃなくて、ただ転ばせたんだと思う。ふざけて足を引っかけたかなにかで・・・。その証拠に、倒れた蛙のまわりにいる狐とか、あんまり驚いてないし、むしろ笑ってるみたいだから」


ふむふむ。

たしかに、殺しだとすれば、もっと状況が殺伐とするか、非常事態だ、という緊迫した雰囲気が出るかも。
絵をみるかぎり、なんともほんわかとした平和な空気が流れている。
これは、『殺し』じゃ、ないかもな。

ここまでくると、そもそも鳥獣戯画の他の場面で、こうした殺伐とした事件を扱っているだろうか、と疑問が出てくるので、せっかくだから、と「甲の巻」をぜんぶ見た。
ところが、ここ以外は、ほとんど、のほほーん、とした空気である。

「殺人の意見を撤回します」

殺された、という刑事ドラマのような見立てをした女の子が、意見を取り消した。



そこで、新たな意見が。

「これ、酔っ払って倒れてるんじゃないの?」

なるほど。
そうかもな。

「だって、烏帽子をかぶったおじいさんの蛙とネコの左側で、蛙が里芋の葉をかぶって田楽踊りをしてる」

どれどれ、とみんなで確認。

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そうだ。
これ、マツリだ。
みんな、お祭りに来てるんだ。
この烏帽子のネコが、人目を忍んできている風なのも、おそらくふだんはこんな場所にはこない位の高い貴族が、お祭りだからと久しぶりに外に出てきたんだろう。

お祭りなら、酔っ払っているのも分かるなあ。


だけど、じゃあ、なんで猿が逃げてるの?



ここで、ふだん、冗談ばかり言っている男の子が、

「カエルが、ひっくりカエルで、サルは、去る、ということじゃないの?」

あ~


だじゃれかよっ!
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