30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2016年10月

NHKスペシャル マネー・ワールド 資本主義の未来(3)巨大格差 その果てに

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【番組の説明】近代資本主義250年の歴史の中で、現在は格差が最も広がっていると言われる。巨大格差の先には、何が待っているのか。元米国労働長官のロバート・ライシュ氏や、“世界一貧しい大統領”と呼ばれたホセ・ムヒカ氏ら知の巨人たちに話を聞く。

また、自らへの増税を求める米国の富裕層グループの活動や、経営者の報酬を10分の1に削って従業員の最低賃金を7万ドルに揃えた企業の社会実験などを通じて、格差是正の可能性を探る。

学校では、『総合的な学習の時間には、何を教えるのか』ということがよく話題になる。

文科省も、現場が混乱していくのを避けるためだろう、学習の対象を次のように定めている。
学習対象とは,児童が探究的にかかわりを深めるひと・もの・ことを示したものであり,例えば以下のようなものなどである。

[横断的・総合的な課題]
・地域に暮らす外国人とその人たちが大切にしている文化や価値観
・情報化の進展とそれに伴う日常生活や消費行動の変化
・身近な自然環境とそこに起きている環境問題
・自分たちの消費生活と資源やエネルギーの問題
・身の回りの高齢者とその暮らしを支援する仕組みや人々
・毎日の健康な生活とストレスのある社会
・食をめぐる問題と地域の農業や生産者
・科学技術の進歩と自分たちの暮らしの変化など

[児童の興味・関心に基づく課題]
・将来への展望とのかかわりで訪ねてみたい人や機関
・ものづくりの面白さや工夫と生活の発展
・生命現象の神秘,不思議,すばらしさなど

[地域や学校の特色に応じた課題]
・町づくりや地域活性化のために取り組んでいる人々や組織
・地域の伝統や文化とその継承に力を注ぐ人々
・商店街の再生に向けて努力する人々と地域社会
・防災のための安全な町づくりとその取組など

以上が、文科省が提案している、学習の内容、対象となるものである。
現場としては、上記を参考にどのように学習を進めていくか、子どもたちの実態と興味、地域性などに照らしながら、もっともよい学習対象を真摯に選んでいくことになる。

ここに、
〇自分たちの消費生活と資源やエネルギーの問題
〇情報化の進展とそれに伴う日常生活や消費行動の変化
〇商店街の再生に向けて努力する人々と地域社会
なんていう項目がある。
文科省が例示するほどだから、これは全国民の課題である。
全国の市町村で、家庭で、話題になっていることだし、子どもたちの両親も、親戚、家族、友人、周囲の人々の多くが直面している課題なのだ。

つまり、子どもたちは自分たちの関心を大事にしながら、上記のような「経済活動」に関する地域の課題というものをも小学生なりに受け止め、咀嚼し、何らかの解決を考えていく、ということを期待されているのだろう。
これは、とても大事な活動だろうと思う。生活に、暮らしに、直結するのがもっとも効果的な学習であるのだから。

そこで、『NHKスペシャル マネー・ワールド 資本主義の未来(3)巨大格差 その果てに』という、NHKの番組をみんなで視聴する計画を立てた。

そもそも、資本主義とはなにか。
社会主義とは何か。
子どもたちには、なじみのない言葉もある。
しかし、「お金」は身近なものだし、ふだんからお金を使っての購買経験はみんなある。
ショッピングセンターやコンビニ、地域の商店などが流通のために果たす役割や、経営者の努力など、小学校3、4年生で勉強してきた。
だから、世の中にはとんでもないお金持ちがいるのだ、という感覚もあるし、番組の中に出てきた、

「薬か食べ物か、買うものを選ばないといけない」

という消費行動のせつなさにも、思いを致すことができるだろう。


番組を見ていると、次の疑問が湧いてくる。
〇なぜ、自分の給料を減らそうという経営者が現れたのか
〇なぜ、オランダの取り組みのように、『共有型経済』とよばれる仕組みがはじまったのか
〇「だれでも病気にかかる、ほっておかれて自力で生きられる赤ん坊はいない」→それで、どうするか
『共有型経済』については、番組中でアムステルダムの例が紹介されていた。
無料で日用品を貸し出すシステムだったり、料理をおすそ分けするシステムだったりと無料でいろいろと共有して、生活していくというもの。ほんのさわりだけの紹介だったので、よく実態が分からなかったが、資本主義とはいえない経済のかたち、ということで、印象に深く残った。

また、資本主義そのものについて、2人の人が警鐘を鳴らしていた。
ロバート・ライシュ
振り子が振れすぎた
格差はプラスの側面を超えて危険な状態に突入

ホセ・ムヒカ元大統領 ウルグアイ
現在の社会や経済のシステムに不安を抱くあまり、安易なポピュリズムに依存する
国粋主義になってしまう
さらに井出教授が
資本主義の経済格差にとどまらず、社会に分断線が生まれている
例)所得階層 正規/非正規 男性/女性
という話をしており、資本主義は富の格差を拡げていることで、人の心理を不安にさせ、人々の社会活動全般にも影響を与えている、とのこと。
井出教授が語るには、人々が将来に不安を抱きすぎるようになると、富はますます偏っていき、相手を非難し(ヘイト・スピーチ)、無理に奪おうとする動きにもつながるし、無力感と停滞感、諦めにとらわれ、世界を健全によくしていこうという人間全体の社会づくりの力は衰えるだろう、とのこと。


こういうこと、子どもたちは、いったいどう考えるのだろうか。

これ、今、生きている大人の人で解決できる人って、いるのかな? ・・・と思います。

おそらく、今の世界にはいないのではないか。



ことを見通す力を持つのは、おそらく小学校の教室で、未来を語っているまさに12歳の子どもたちなのではないか。

なにか、わくわく、するね。

NHK

人間の良さ、をどう表現するか

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世の中一般に、『黒い黒熊』、などという言い方は、あまりしない。
黒いのが当たり前だから、あえてそんな修飾語を使わないのである。
もし、白い黒熊がいるのだとしたら、あえて黒い黒熊、というときがあるかもしれないが。

(・・・と、ここまで書いて、あっ、白い黒熊って、パンダのことだ!・・・と気づいた)

さて、

同様に、「のろいカメ」とは、だれも呼ばない。
亀はのろい、というのが人間の共通理解であり、前提だから。
もしも、けっこうなスピードでガンガンと走るような亀がいたら、人間はおどろいて、

「これは、速いカメだ」

と、修飾語でおぎなって呼ぶほかなくなるけれど。



同じように、わざわざ「狡い政治家」、「明るい卓球青年」とは、言うことはない。


「政治家」というと、今はなんだかとても、〇〇〇なイメージになってしまっているから、ごくごくふつうの、しっかりした政治家に出会うと驚いて、

「なんとも誠実な政治家がいたものだ」

という少々の感動を覚えながら、

「彼は誠実な政治家だ」

と、言葉を足して、言うほかなくなる。
だから、その言い方は、社会の中で許容されるのである。
(逆に言えば、ずるい政治家、という言葉は、当り前でくどいからか、なかなか使われない)



さらに、卓球青年は昔とちがって、今はとても明るいのがふつうになってきている。
オリンピックの影響が大きいかもしれない。

わたしが、タモリの真似をして

「卓球は暗い」

というようなイメージでかまえていると、現代の子どもたちはまったくそんなことを思っていないことに気付き、元卓球部で自虐的なわたしは、少々恥じることになる。

したがって、いまどきは、
「卓球青年」は明るいのが当然なのだから、
あえて、『明るい』卓球青年、とは言わないのが当然なのである。


さて、話がもどってきた。


黒い黒熊
のろいカメ
狡い政治家
明るい卓球青年


もし、あえて、わざわざ、このように言うことがあれば、
それは、その人間の無意識の価値観を照らし出しているのである。

言葉になにか、自分が無意識にくっつけている『修飾語』をよく見てみてると、
自分が、なにを前提にしているのか
が、みえてくる。


わたしは先日、子どもに対して、

いい子

と言ってしまった。

子どもは、いい、に決まっているのだから、わざわざ 『いい』 なんて、言わなくてもいい。

そのことは分かっているのだけど、他に、言い方が見つからない、というところに、現代教育の悲しみ、親子関係のゆがみ、苦しみ、おかしさ、未熟さ、ということが詰まっているように思う。

逆に言えば、

いい子

というのを、もっと別の言葉で、べつのニュアンスで、べつのやり方で、べつの雰囲気で、べつのアプローチで、べつのメンタルで、

言うことができれば、それはもう、本当に人間の認知の、社会全体の、大革命につながると思う。

ぱんだ

男風呂はなぜ静かなのか

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男風呂というのは、なぜこうも、静かなんだろうか。
若者も老人も、みんな自然と口を閉じて、静かに過ごしている。

わたしはあごまで湯につかりながら、洗い場に並んだ背中をぐるり、見渡してみた。

日帰り温泉の洗い場の、腰掛にすわった背中はどれも、生きて動いている。
どの身体も、筋肉がもりあがり、背中をこすったり、頭をぬらして洗ったりしている。

老人たちは、すべてに無駄がない。
所作ふるまいのすべてが、一直線のゆるぎないもの。

シャワーに手が伸び、顔にお湯を当てる。
ひげそりに手が伸び、しゃぼんを顔につける。
ひげをあたるスピードも角度も、決まりきったその道筋、終点までの力の入れ具合。
すべて、この人はずっとこれで、やってきたのだ。

ひげが済めば、流れるような所作で、頭を洗う。
数回濡らして、泡をつけ、指の腹で勢いよく、頭皮をこする。
ほとんど無くなりかけた頭髪の、微細な力のコントロールもまた、無意識に調整されたものであろう。
見ていると、身体から流れ落ちた泡が、隣へ流れていかないように、

サッ

とシャワーを一瞬だけ矢のように動かした。
シャワーから零点何コンマの短い間に湯が流れ、自分の出した泡をきちんと自らのエリアの排水口へと流していく。決して、泡を他へ向かわせない。

わたしはこの男の人から、なんとなく目が離せなくなっている。
手際のよい一連の動作に何とも言えないリズムがあり、見ていて心地よい。

寸分の狂いもなく、時間の無駄もなく。
最低限のスペースで、己の要求するすべての所作を、終えることができる。
さすがは、人生の先輩。
見事としかいいようがない。



すべては、無言のまま貫かれる。

日本人にとって、『湯浴み』とは、いったい何なのだろうか。



見ていると、先輩はもう一度、見せ場をつくった。
最後に、勢いよく、「パシャッ」と音を立てたのだ。
これは、「終わったよ」という合図であり、告知であり、自分自身が汚していた場所の、「清め」の「水流し」である。

そして・・・極めつけは・・・


カコーーンーー・・・


(桶をひっくり返して置く音)


ほうら・・・、エコーを響かせて、聞こえてくるでしょう?



ここまでくると、芸術だという気がする。
これが、日本中の銭湯で、老人たちが行っている、『銭湯の作法』なのだ。


無駄を省き、誤りを減らす、正確で効率的な動作の仕方。
それが、「作法」と呼ばれるものの本質であろう。

合理的で、リズミカル。
失敗を回避できる余裕をも内包し、なによりも精神を圧しない。
ストレスからもっとも遠い道、脳内の余白を保つ知恵・・・。

そう、まさにこれが、人間の知恵なのだ。

心地よい、マンネリズムに揺れながら、人間の内面を癒す所作こそが『作法』とよばれるもの。
人間と物との関係が、これほどまでに調和することがあろうとは。


今や、湯船につかった先輩紳士は、あまりにもぴったりする風景の中で、じっとまぶたを閉じている。
紳士の禿げあがった頭部の向こうに、白いもやのかかった雪山の頭頂がちらりと、姿をのぞかせていた。

絵になる男はいつでもどこでも、絵になるものである。
あるいは、絵の中に入り込める人であるのだろう。


「かっこええわあー・・・」

1111

「ほめ薬」の切れたときの、反動が怖い件

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「ほめ殺し」という話題。

学校という場所では、どの6年生も、「すごい6年生」と言われるようにと、仕向けられていく。

そりゃ、たしかに、6年生の中には、すごい人もいるだろう。

走るのだって早かろうし、マラソンだって早かろう。
下級生から見たら、すごいことをどんどんしていくように見えるのが、6年生である。

しかし、事実実態は、「6年生の中にはすごい人がいる」 ということにすぎぬ。

それが、いつの間にか、「こんなすごい人がいる6年生はすごい」と変わっていく場合がある。

ここ、論理がすこし破綻しているのですが、お気づきでしょうか?

傍から見ている人は、ああ、6年生の中にもいろいろあらあな、と至極当然の事実が見えるのですが。





しかし、「すごい」と言われると、言われた当の6年生が誤解するからねえ・・・。

自分はとくにどうということもない普通の少年であるわけなのに、「すごい」と思われることに、なんだか気分が高揚していくのだ。

「おれら、すごいんだって、ネ・・・うふふ」

そして、いつの間にやら、

<6年生としての誇りを胸に>

とか、

<最上級生としての使命>

なんてものによって、ある方向・行動へと、動員されていくことになる。

電通マンの社訓だとか、社風だとか、そんなことにも通じるかな・・・。




いったい、『誇り』、というものは何なのだろうか。

少なくとも、自分の心の内部から自然と生まれてきているもののことだろう。

他や周囲が、

「誇りを持ちなさい!」

と命令するものではない。

また、命令されたからといって、指示されたからといって、誇りを持てるようになるとは限らない。

内面、人間の心の内面の世界のことである。

それを、〇〇のように思いなさい、というのでつじつまを合わせてみたところで・・・多くは嘘といつわりに満ちたものにしかならない。

内面に自発的に生まれてくるものと、他から要請されて、持った気分になっただけのものとは、まるで正体が異なる。



6年生にも、のんびり屋もいれば、頑張り屋もいるし、頑張り屋さんの中にも、ちょっと休憩したい子もいるだろう。図工の好きな子もいれば、水泳だけしか興味がない子もいるし、勤勉なときもあれば、休みたいときもあろう。

それを、たとえば、ですが、

「6年生は、自覚と信念を基に、誇りと使命感をもって、がんばっている」

と言ってしまうのは、そりゃあ、嘘でしょう。全員じゃないんですから。

6年生は〇〇だ、という文は、意見と感想にすぎません。
それを、さも事実であるかのように言ってしまうのは・・・反則ですわナ~。



「掃除をこんなに真剣にやる人がいる6年生はすごい

↑ これにも論理的な破たんがあるのですが、スーッと言われると、なんだか通ってしまう。

そりゃあ、なかには真剣にがんばる6年生もいるだろよ、というだけの話が肥大化する。


考えてみれば、学校の清掃を業者に頼んでいる公立小学校なんていうのは、実際にはほとんど無いわけで、広い校内がきれいに保たれているのは、ほとんど子どもががんばって掃除をしているからです。
そう考えると、昔から学校が埃だらけのひどい状態になっていないのは、「ほとんどの子がきちんと清掃ができる小学生」だからだ、ということになる。

だとすると、6年生は清掃を頑張っています、とわざわざ自らを縛るようなセリフを聞く必要もないのに、6年生の清掃する姿はすごい、と言われると嬉しくなってしまって、『そんなふうに思われているんなら、がんばらなくっちゃ』というふうに、がんばっているというのは、いったい何だろうか。

また、教員がそれをいいことにして、

「6年生はすごい!ぞうきんをかたくしぼって、時間まできっちりと拭ききろうとしていく!まさに全校のお手本です!」

などと言い、その言葉に陶酔したようになって6年生がさーっと動いていく。

これ、心からの行動では、まったく無いわけね。
価値があるかないか、と言われたら、無い。
なぜかというと、これは、麻薬のようなもの。
「ほめ薬」の切れたとき、反動が怖い。

・・・じゃあ、なんのために褒めるのかって・・・、ね。



すごい、というのは、いったい何だろうか。

すごい、という日本語の、

圧倒的な「意味のない感じ」
・・・って・・・。

eto_saru_happy

虫とネコばかり追いかけている子

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Rさんはネコを飼っています。

日記は、ネコのことだらけ。

赤ちゃん猫をもらってから、ずっと毎日ネコを追いかけている様子です。

夏休みも、自由研究を提出。
模造紙3枚びっしりとネコの体重やらなにやら、データをとりまくっておりました。

「ネコと会話ができるかも」

と豪語する彼女には、かのどりとる先生もびっくり、でありましょう。

まあ、どりとる先生はネコ以外にもあひるのダブダブとか、犬でも豚でもしゃべりますが・・・。(オウムのポリネシア、イヌのジップ、サルのチーチー、フクロウのトートー)


その子が、昆虫クラブに入りました。

高学年の女子では、唯一のメンバーです。

やんちゃな4年生の男子が、キャッキャととんぼをつかまえる横をすりぬけて、一人で葉っぱの裏などをたしかめて歩いております。

渋いんです。虫探しの方法が。



「他に、女の子がいないけど、いいの?」

と聞いたことがあります。

展翅板を掃除し、標本にするためにとんぼをピンで留めているときも、興味があるのか、脇で見ている子です。

「まあ、ふつう、女子は気持ち悪いと思っているからネ」

とその子は言い、

「わたしはぜんぶ楽しいから」

と、サラリ、と言います。どうです、この感性。面白いでしょう。



他の女子にべつに嫌われているわけでもなく、ある意味一目おかれていて、

「Rちゃん、すごい」

と思われています。

クラスメートに、

「あの蝶、殺したの?」

と標本箱を指さして言われたとき、わたしは一瞬、ドキリとしましたが、彼女は

「ま、標本にした、ということ」

涼しげに、語っておりました。




昆虫クラブが一番、たくさんの虫を採集できるのは、春先であります。

4月、5月、ゆらゆらとんでいるモンシロチョウを、多くの子が捕まえました。
それをすべて展翅し、標本箱にして展示してみると、これが驚くほどの人気。
昼休みなど、職員室の前の廊下は鈴なりの人だかりであります。


めずらしいのでしょうナ。

虫が。

めったに、じっくりと見たことが無いから。

ふだん、そのへんを飛んでいる姿は見てますが、99%の子が、じっくりとは見てません。

だから、標本箱の中にずらりと並べてあるのを見ると、羽の色や模様が少しずつ違っているのが、不思議な様子。じっと見ています。


下級生が「すげえ」といいながら標本箱にたかっているのを見て、その子は

「ふーん、ふだん何も興味なさそうなのに、標本となると見てみたくなるのか」

と、人の行動分析をして、階段のところでつぶやいておりました。




一般に、虫が好きだ、ということや、ネコのことばかり夢中になっている子をみると、心配になる向きもありますが。


でも、このように虫の標本を置くだけで、子どもたちというのは、虫の話をはじめるものです。

すると、そこで虫博士が脚光をあびはじめます。

そうなのです。

虫博士は、虫のことを話せるのです。

博士を取り囲むようにして、子どもたちは集まってきます。
そして、自分の知らないことを知っている彼や彼女から、知りたいことを学ぼうとします。ハカセたちも、あれこれと話をします。本来、虫のことで話すのは、大好きなんですからナ。

03school



ネコ博士は、猫のことで、おしゃべり達人になればよいのです。

「博士」は、「閉じこもり系のオタク」とはちがいます。

自分の趣味が受け入れられなくても平気であり、

さらに、

自分の趣味を受け入れない人を馬鹿にしないのが、博士です。

また、自分の分かることを知りたいという友達には、あるいは役に立つならば、話をしてみよう、と自分を開放しています。

趣味の世界に没頭している子がいたら、

「それがいずれ、世の中のだれかの役に立つようになるとイイネ」

と勇気づけていくことかと思います。

「ほらほら、だあれも見向きもしないような趣味の世界にばかり閉じこもっていないで!!」

と叱ったり、心配したりする大人もいるようです。

しかし、子どもが閉じこもっている、という観方でみること自体を、だれもが一度、振り返ってみることだと思いますネ。

「お前は閉じこもっているのだ!」

と烙印を押すってことを、ね。

暦算(こよみざん)でみんな驚く件

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暦算(こよみざん)。

たとえば、こんな問題である。
2013年の1月28日は月曜日でした。同じ年の8月28日は何曜日ですか。


こういうの、計算もめんどうだし、なんだかよく分かりませんでしたネ。


中学入試をひかえた6年生になると、こういう問題を解いていくことになる。
そこで、みんなでカレンダーを眺めながら、どんどん気が付いたことを発表する。

すると・・・



4月と7月をくらべてみましょう。なにか、気づきましたか?
9月と12月をくらべてみてください。なにか、気づきましたか?
ヒント:曜日


へへへ、気が付きましたか・・・。
4,7と9,12は曜日が同じだってこと。




パート2。
4月4日と6月6日と8月8日と10月10日と12月12日。
なにか、気づきましたか?
ヒント:曜日



ホホホ。
4月以後の偶数月の、ゾロ目の日付の曜日って、まったくいっしょ。




こういうの、みんなで見つけないと、面白くないよネ~。


カレンダー

待たせる、ということ

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学校というのは、並ぶことが多い場所だ。
それも、自分以外のひとを待つことが、けっこう多い。

たとえば、音楽室へ行く。移動する。
授業時間に、学校内をしずかに移動しなければならないときがある。
クラス全員が並んで、学習中の他の教室のじゃまにならないように、静かに歩く。
この場合、クラス全員がならんでいく。

校庭や体育館で校長先生の話をきいたり、地震の防災訓練だったり。
人数の多い学校では、自分だけが歩いていくのではなく、クラスの仲間と共に移動することがとても多い。

するとネ。

だいたい、自分が先にスッと並んでて、他の子を自然に待つタイプの子がいるわけ。
もう荷物も手に持っていて、順番のところにきちんと並んでいて、待っている。

しかし逆もいる。
しゃべったり、荷物を探したりして、なんだかんだとみんなを待たせるのである。

で、みんなが並んで待っているところにスッと行って、

「お待たせ」



「ありがとう」

もなく、ふつうにそのまま並んで歩き始める。



もう学校では日に何度も繰り返される日常の行為だから、みんななんとも感じなくなっている。



しかし、あるとき、これを話題にすることがある。

待たせるとか、待つとかって、どんな感じ?

とやるのである。




すると、待つ方は、

「早くして」

と思いながら待っている、だとか、いろいろと意見が出る。

ところが、

「早くしなきゃと思いながら、待たせている」

という感想は、出ない。

なぜかというと、多くの場合、「待たせている」自覚がないからだ。



そこで、待たせているな、と思ったときをしばらくの間、観察していくようにする。
これは、自分で自分を観察するように、する。
すると、

「今日、音楽の時間の前に、みんなをちょっと待たせたな、と思いました」

という感想を、ようやく出せるようになってくる。



この感想が出るまでに、何日か、何回か、かかる。
これが面白い。
なんで、こっちは時間がかかるんだろうか?



次に、待たせている、という自覚が生じてきたあとに、今度は次のことを聞く。

「なんで待ってくれて当然のように、これまで思っていたのだろうか」


これは反応がある。

「べつに当然だとは思ってなかったけど・・・」

と出るのである。


しかし、待たせているのが慣れっこになっていたし、とくに何も思わなかったのだ。これまでは・・・。


みんな、待たせた、という自覚は、ほとんどない。
不思議なことであるが。
そのかわり、「人を待ったことがある」という自覚は、強烈に持っている。



つまり。

ひとは、なにかの事象を体験すると、「〇〇だなあ」という感想を持つ。
けれども、
他の人がそうなるように、自分が仕向けた、自分がそうさせた、というふうには、なかなか思わないのである。

だから、多くの場合、人間は自らがこうむった被害を訴えることは得意である一方、自分が加担した(他をそうさせた)事象については否定するのである。

で、道徳の授業なんですが・・・



自分が他の人を待たせてたなあ、他の人に、待ってもらってたんだなあ、ということがスッと受け取れるようになると、それだけで、クラスが明るくなります。

で、その人の行動が変わる。


これをネ。

「待っている人の身にもなってごらんなさい!」

とお説教、やるとネ。


なんだか知らんが、

チッ

と思うものなんす。


待っている人の身になって考える前に、自分が待たせてたなあ、と思えないと、ぜんぶダメなのです。

順番としては、そうなのです。

最初に、

「待っている人の身のつらさ」

を訴えても、それは、逆に、待たせた方をなぜか責めてるような雰囲気になっちまう。

それで、人は素直になることができなくなるんですナ。




 この話、エッセンスが詰まっていますよネ。

 「人を待たせてはいけない」という道徳的なお題目を押し付けるのでもなく、
 「お前は人を待たせているぞ、気が付けよ」でもない。

 ただ、自分を待っていてくれた人がいること。
     逆に、自分が待っていたときのこと。
     待たせてしまったときのこと。

これらを、純粋にふりかえるだけ。


これだけで、クラスに笑顔が増えますが、これが道徳の授業かどうかと言われると、よく分からないです。

P9120090

「いじめ防止対策推進法」の件

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いじめをなくすために、何が大事か。

一番は、「ひと」に最大の価値をおいた学級をつくること。

実は、それ以外にはなにも無い。

要するに、心から「仲良い」お互いであれば、「いじめ」は解消する。



しかし、文科省は緊急対応を呼びかけている。

「いじめ防止対策推進法」がそれだ。

ここの総則(第四条)に、「児童等は、いじめを行ってはならない」と文言が盛り込まれた。

また、第二十五条には、
第二十五条 校長及び教員は、当該学校に在籍する児童等がいじめを行っている場合であって教育上必要があると認めるときは、学校教育法第十一条の規定に基づき、適切に、当該児童等に対して懲戒を加えるものとする。
とされた。

禁止すれば、いじめはなくなる。
取り締まれば、いじめはなくなる。
懲戒を加えれば、いじめはなくなる。



・・・ということになっている、というのが現状だ。




ところが、現場の感覚はすこしちがう。

仲良くなれば、
自分について考えられる子に育てば、
相手について考えられる子に育てば、
お互いの人間の関係をきちんと考える機会が与えられれば、
いじめはなくなる、という感覚だ。


取り締まっても、いじめはなくならない。
懲戒を加えても、いじめはなくならない。

かならず、ぶりかえす。


学校が、大人が、最低限、身につけなければいけない教養は、
「人間について知る、自分について、知る」 という姿と行動だ。
大人がそういう毎日を生きていることが、子どもに影響を与えていくのは当然。
そうでなければ、いじめはなくならない。



取り締まることこそだ大切な仕事だ、という気分でいっぱいになった大人の中では、
友達を取り締まる目線で生きる子が育つ。

友達を取り締まる目線のことを、『コントロールルック』という。


「おまえ、ボールペン持ってきていいのかよ!」
「おまえ、ノートにこんなことしていいのかよ!」
「おまえ、こんな点数でいいのかよ!」


けっこう、成績の良い子がいじめる側になることって、あるんだよね。
むしろ、そういうケースが増えている感じがする。

大人の姿を真似た、ミニ大人のような子どもが、増えていく。
友達を取り締まる目線をもつ子が、「いじめ」の誘惑に勝てるだろうか。
相手を責めることの誘惑に、勝てない子もいそうだ、と思う。
相手を責めた瞬間に、思考停止するからね。
(自分について考えようとする視点を無くしてしまう)


友達を取り締まる目線をもった子が、いちばん寂しい。
いちばん、必死になって、自分を護ろうとしている。
自分には決して焦点をあてないで、守ろうとする。
心を開くのも、時間がかかる。
最終的には、クラスの全員で、彼の成長を見守っていくしかない。


こういった子どもの心の動きには、焦点が当たりにくい。
いじめ対策基本法の、最初のところに、こういう子どもの心について、書いていかないのは、「甘い」。

(基本理念)
第三条 いじめの防止等のための対策は、いじめが全ての児童等に関係する問題であることに鑑み、児童等が安心して学習その他の活動に取り組むことができるよう、学校の内外を問わずいじめが行われなくなるようにすることを旨として行われなければならない。


法律の主旨にもとづけば、いじめが行われなくなるように・・・、という部分が、中心になっていくはず。
だとすれば、
自分とはなにか、劣等感はどうか、どんな動機で生きようとしているか、嫉妬はどうか、責める自分かどうかなど・・・、ここに焦点をあてていくこと。
そこを授業化する道徳を、まずもってわれわれ教師は考えて実行していくしかない。

教師がすすめていく急所を外さないこと。
対策、対応、という言葉で追われているのでは、まるでダメだ。

いじめは、後手後手にまわるのでは、ダメだ。
命に関わることだ。

責める、ということ。
責めることを当然とする自分の常識。
責めることを「したくなる」自分の心や気持ち。
ここに焦点を当てると、「いじめの問題」は、氷が溶けるように、解消していく。

だれかを責めたくなる気持ちを、『ブレイミング・アディション(非難嗜癖)』という。
『コントロールルック』による、『ブレイミングアディション』に気付くことのできる授業が、道徳の授業の肝要だ。

氷

【6年生・後半の「歴史授業」 発問一覧】

【6年生・後半の「歴史授業」 発問一覧】

前回(前半の発問一覧)につづく

29) 江戸時代が長く続いた理由ベスト3を発表しよう

30) 【近松門左衛門】 戦争がなくなり平和になると人間は堕落するだろうか

31) 【歌川広重】 なぜ広重の浮世絵は世界に広まったか

32) 【伊能忠敬】 忠孝はなぜ「ただ働き」で測量を始めようとしたのか

33) 【本居宣長】 日本らしさとは何か

34) 【杉田玄白】①前野良沢はなぜ教科書に載らないのか
           ②身分制度はどのようにしてなくなっていったのだろう

35) 【文化人のまとめ】5人の文化人たちが江戸時代に活躍した理由は何だろうか。

36) 【大塩平八郎】 「テロ」の首謀者なのに民衆から守られたのはなぜか。
 
37) ペリーが悪魔のような顔つきで描かれたのはなぜだろうか

つづく
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ゴッホが浮世絵を学んで性格が変わった件

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社会の授業で、浮世絵師の「歌川広重」について学んだ。

広重の浮世絵は、オランダなどから世界に伝わり、ゴッホが模写をしたことでも知られる。

さて、そのゴッホさん、昔はすごく暗い絵を描いていた。

じゃがいもを食べる人々

とか、

一足の古い靴

・・・なんてのは、ゴッホの初期の絵として有名なものです。


ところが、ゴッホさんに大きな転機が訪れます。
それが、浮世絵との出会い、です。
ゴッホさん、浮世絵を知り、ウキウキとなって模写をつづけていくうち、有名な

ひまわり
これ。
ひまわりとか、

アルルの寝室

・・・と、こんなのを描くようになっていった。


浮世絵を学んでからの表現がかなりちがってきているのですが、子どもがこれらを比較して、

「色が明るくなった」
「パッと見て、あざやかな感じに変わった」


と言っていました。

ある子はじっと見ていて、

「あ、影がなくなってる!」

と見つけていました。

すごいよね。
あれこれと、いろんな感想が出てくる。

「すごいね。ゴッホ。性格が変わっちゃったよ」


浮世絵が世界に広げた衝撃がすごいものだった、ということを学んでいくうちに、
「ひろしげって、すげえ」
という感じになっていきましたね。


あと、ついでに、ドビュッシーの交響詩『海』は、北斎の富嶽三十六景をみて生まれた曲だ、ということを紹介すると、_SX355_

「先生、鎖国してたのになんでみんな、日本のことを知っているの?」
と。

これを待ってました。

こういう疑問が出てくると、歴史はおもしろくなってきます。

広重、宣長、忠敬、玄白が区別できない件

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6年生で歴史を学んでいます。
初期の頃にはやる気のあった女の子も、2学期には疲れがみえてくる。

そもそも歴史の苦手な女子からすると、織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も、なんとなく似たような、ようわからんおっさんでしかない。
「みんな、似たようなおっさんなのに、もうこれ以上増やさないでほしいよね」
「うん、そうそう。歴史の勉強なんて、似たようなおっさんだらけだもん」


これを男子がきくと、これはもう卒倒するほど驚くらしく、

「えええっ!!信長も秀吉も、まったくちがうじゃん!なんで女子はそれが分かんないの!」

ということになる。
顔つきも性格もやることも立場も、すべてちがう3人。
それを、どのように覚えたら、「似てるなどと言えるのか?」と、男子グループの何人かが怒りを通り越して憤っている。

「だ、第一、家紋もちがうんだよ!?五三桐(ごさんのきり)を許されたのは信長だけだったし(震え声)!!」


ほらほら、それが通じないんだよ、女子には・・・。

女子は関心がないんです。
武将がどこでどんなふうな合戦をしたとか。
どのような部下をもち、どのような作戦で勝ったか、なーんて、まったく興味を持たぬ。
男子のように、読書の時間ともなると戦国武将のデータブックをなめるように読み、微細な知識の断片を自慢しあう、という悪趣味な行為にはまったく理解を示さないのだ。


その女子が、ついに完全に白旗をあげたのが、
江戸中期の、文化人、5人の区別です。
〇近松門左衛門
〇歌川広重
〇本居宣長
〇伊能忠敬
〇杉田玄白
この5人の写真と名前、それから活動(やったこと、業績)を結びつける。
「そんなの、無理!!!」

女子が泣きそうになっておりましたところ、男子が帰りの会に、クイズを出すようになりました。
コピーした写真を画用紙に貼り付けたのを黒板に貼り、

「はい。このつるっぱげのおやじは誰ですか」
「(全員で)杉田玄白!」
私「・・・も、問題文の、やりなおしッ!」

問題の出し方を変える必要はあるが、やっている行為は認めてあげよう、ということで、現在これが続いております。
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表現される中身と、表現されて目に見えるもの

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国語で宮沢賢治の「やまなし」を教えたことがある。

都合、2年間教えた。
1年目と2年目で、あれこれと指導法を変え、試してみた。

1年目は、「やまなし」の文章を何度も読み込んだ。
音読をしまくった。
そして、表現の一字一句、微細な部分までを検討し、「深読み」させた。

2年目は、本文に入る前に宮沢賢治の人物伝をさまざま読んだ。
音読はあまりせず、さらっと「やまなし」を読んだ。

どちらも、4,5時間の授業の後に、賢治の他の作品を読ませて、自分なりの解説文を書かせた。


さて、予想してみてください。
1年目と2年目、どちらが良く解説文を書いていたと思いますか?



同じ地域の、連続した2年間です。
子どもはほとんど同じような雰囲気で、どちらも落ち着いて過ごす子たちでした。
地域性やその他の学習習得事項がほぼ似通っているため、比較がしやすかったと思われます。


これ、2年目の方が、「やまなし」をぐんぐん深く読んで、討論が盛り上がったのです。
なぜだろう?

1年目は、「書いた人」よりも「作品」に焦点があたっていた。
2年目は、「作品」よりも「書いた人」に焦点があたっていた。

1年目は、微細なところに迷い込み過ぎた、という感じがあります。
ところが2年目は、純粋に
「賢治はなにを伝えたかったのだろうか」
ということが、子どもたちの関心の『芯』になっていた気がする。

作品は、作者が表そうとしたもの。作品を通して、作者が思いをぶつけたもの。
そう考えると、「作品」を理解する、というのか、「作者」を理解する、というのか、そこらへんのちょっとした違いがあったのかもしれない。

学習の入り口にあたるところで、「作品」か「作者」か、隣り合った扉の、どちらを開いたか。
子どもたちには、その差があったのではないか?

「作者」という入り口から、学習をはじめた子は、他の作品にも、「賢治の意識の片りん」を見ようとしていた。



これを経験してから、子どもたちが学習する学習内容には、2通りあると思うようになった。

1 あらわれたもの→どう表現されているか
2 こめられた思い→なにを伝えようとしたか

そして、成績が良いのは、2に重点をおいて学習をした方だ。
これが、なぞだ。
わたしは、これまで、1をとことん吟味することが、学習の能率があがり、核心に迫ることだと思っていたから。



で、同じようなことを、国語の他の教材についても、感じたことを思い出した。

3年生で、説明文「自然のかくし絵」、という単元を学ぶ。
自然のかくし絵、というのは、昆虫の擬態の話であります。

しゃくとり虫は、木の枝に止まってじっとしていると、まるでそこに本物の枝があるように見える。これは、鳥に食べられないように役立っている擬態だ。
また、緑色のかまきりは、草や葉の中にまぎれてじっとしていると、どこにいるのか分からなくなる。これは、えものをとるために役立っている擬態だ。
3年生はこの説明文を通して、文章の構成には、「はじめ」―「なか」―「おわり」という3つの『まとまり』があることを学ぶ。

この説明文を授業するとき、わたしは思った。
「ようし、この単元は、クラス全員、テストの点数を100点にしてやろう」

そこで、文章の構成のしかたについて、「はじめ」―「なか」―「おわり」という3つの段階がある、ということを一生懸命に教えました。いくとおりかの説明文を示し、ほうら、どれも3つに分かれているでしょう、と教えた。3つに分ける訓練もした。文章を一文ごとにバラバラにして、構成に注意しながら再構成する訓練もした。

徹底的にやって、平均点を出すと、82,3点くらいだったと思う。

わたしは、愕然としたのです。
なぜかというと、この単元を、わたしは教師になりたての2年目に授業で教えているからです。
そのとき、単元の平均点は90点を超えていた。
今回は、それ以上いくだろう、と思っていたのにダメだったから。


わたしは2年目の新米教員のとき、ずいぶんいい加減な授業をしたので、自分でも覚えていたのです。
「はじめ」―「なか」―「おわり」という3つの段階があることについては、さらっとしか教えなかった。
そのかわり、わたしは自分が面白かったので、昆虫の擬態の写真ばかりを、子どもたちに見せ、いっしょになって喜んでいたのです。
「すごいねえ、こん虫ってかくれんぼの名人だ!」
といって、すごいすごい、と授業時間を消費してしまい、あわててテストをしたのです。
そして、みんなよくできて、90点以上だったのは、「ああ、テストが簡単なせいだ」と思ったのです。

ツマキシャチホコ


そのことを覚えていて、多少教員としての授業の自覚がでてきた6年目のときは、心を入れ替えて教えたのです。授業書を読み、解説を学んで、単元のねらいに沿って、目当てをもち、きちんと文章構成について、教えるべきことを教えたのです。

それでも、2年目のぐたぐたの授業に負けた。


1 あらわれたもの→どう表現されているか
2 こめられた思い→なにを伝えようとしたか

という例でいえば、2年目の新米教師のとき、わたしは

「擬態」とはなにか、虫はなぜ擬態をし、擬態をすることでどのように生き延びようとしているのか、ということを、擬態の写真をたっくさーん見ることで、子どもと話し合い、学んでいたのだ。

6年目の時は、1の国語・文章技法ばかり学習させていたのだネ。
それで、肝心の「擬態」とはなにか、ということがおろそかになっていた。
子どもたちに、「文章構成ってこんなものだ」という、間違った悪自信をつけさせていた。内容理解よりも文章テクニックだけを教えてしまったのだ。



表現される中身と、表現されて目に見えるもの。
どちらに重点をおいているか。

これが、国語の授業についても、大きな変化をもたらすのだ、ということ。


おもしろいねえ・・・。

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