30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2016年08月

【6年社会】江戸の街道と物流を学ぶ

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観光ガイド雑誌「るるぶ」の表紙風にしてみました。

6年生の歴史で、江戸時代の庶民の暮らしを学習する予定です。

将軍様の呑むお茶の葉は、将軍様と同じようにお駕籠(かご)で通りましたので、庶民は面倒だから戸をぴしゃんと(とっぴんしゃん)閉めて、じっと息をひそめて通り過ぎるのを待ったようです。

子どもたちは面白そうなので、行列を見に行きたいのですが、親は気が気でない。
子どもが、お侍に向かって柿を投げつけたり、話しかけたり・・・何かをしでかして、機嫌の悪い家来たちに言いがかりをつけられるのは厭なので、おっとさんが呼んでも、おっかさんが呼んでも、家の中から出てくるんじゃないよ、と言い含めていたそうです。

行列がとおりすぎてしまうと(ぬけたら)、やれやれ、どっこいしょ。(どんどこしょ)
子どもたちは、親の言うことをきいて、静かに家の中で隠れている。

そうすると、家の中のここかしこで、ねずみの走る音や鳴き声が聞こえてくる。

しーんとした家の中、土間、塀の陰。

だれかが慌てて隠れたところにお茶碗が落ちて欠ける音までが、聞こえてくるのです。



これを資料にして、江戸の街道を通る、さまざまな人の流れや関所のこと、物流などを学習する予定です。

茶壺道中


(上は、茶壺道中の写真。将軍のために、ここまでするなんて、すごいですよね)

ずいずい ずっころばし
ごまみそ ずい
ちゃつぼに おわれて
トッピンシャン
ぬけたら ドンドコショ
たわらの ねずみが
米くって チュー
チュー チュー チュー
おとさんが 呼んでも
おかさんが 呼んでも
いきっこなしよ
井戸のまわりで お茶碗欠いたの だあれ

【道徳】このうらみ、はらさでおくべきか!

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先日の記事、「銀メダルで、ごめんなさい」のつづき。

「お前はやるべきことをしていない」と言って、人を責めるとき。
自分の心の奥の「恨みや嫉妬心」をなんとかしようとして、人を責める、ということがあります。
根深いものに耐えきれなくなって、それが「人を責める」という形となって、表面にあらわれてくる。

恨みというと、わたしらの世代がすぐに思い浮かべる漫画がある。
藤子不二雄さんの、『魔太郎がくる!!』だ。

「このうらみ!はらさでおくべきか!」

主人公が真っ黒な顔になって、ぎりぎりと歯をくいしばりながら言うシーンが有名です。

またろう2


そこで、恨みを晴らす、ということについて調べていくと、よく分からなくなってくるのね・・・。
つまり、恨みを晴らすとひとくちに言うが、その「晴らした」瞬間というのは、なにをもって晴らしたことになるのか?

対象とする相手が、泣いて謝った時?


でも、
「いまさら謝られても仕方ないのよ」
ということだって、ある。

あのとき、大切にしてほしかったもの。
それを、奪われてしまった、という思い。
あのとき奪われたものは、返ってこない、という思い。

返ってきやしませんよ、そら・・・。

つまり、個々の相手とは無関係に、こちら側の認識だけで、ずっと続いていく。
それが、『恨み』の本質。

実際には、なにをもって晴らしたことになるのか、あいまいなもの。
だから、恨みが連鎖するのだろう。
「恨み」というものは、本来、消えるものではないということかな。
時間が経っても、場合によってはより強くなるときがある。
怨みを晴らそうとして行動すると、「恨みを晴らさなければ、取り返さなければ」という思いが、より強くなる場合がある。あるいは、「晴らさずにいられない」という、強迫的な気分が、より強まっていく。


こう考えていくと、
やはり、最初が肝心なんだね。

人生の初期段階において、すでに、劣等感やら孤独感があるのではないか。満足できない何か、が。
人生のスタートに近い時点から、その気分が抜けきらないまま大人になって、学校に入学したり、就職したり、仕事をしたり、結婚をしたりする。そして、その一つ一つの選択において、隠された動機、つまり「恨みを晴らす」が作用している、ということがある。

「わたしをだいじにしてくれなかった」という思い。
「なんとかして取り返したい」と心の底で・・・。

その、代償としての〇〇を求める。

代償をもとめる、というの。
ありそうですね。
本人は気づかない。しかし、心の奥底に隠された、怨みを晴らなさければ、という動機によるもの。
自分ではそうは思っていないけども、実際には、という・・・。

代償はホンモノではなく、代償に過ぎないから、いつまでたっても満たされない。
だって、それは代償だから、ですよ。
ホンモノじゃないんだから・・・。
かくして、いつまでも満たされない人生ができあがる。

やはり、こういうこと、小学校のうちから、きちんと学ぶのがいいのでは。

自分という人間の理解が、道徳教育の根幹でしょう。

銀メダル選手が「ごめんなさい!」

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銀メダルをとった吉田選手が、「ごめんなさい」と謝った。
なぜ謝るかというと、周囲から責められることを想定したから、でありましょう・・・。

この「ごめんなさい」に、違和感を覚えた人がたくさんいたようだ。

「謝らなくてもいいのに」
「だれも責めないよ!」
「銀メダルの吉田選手をなじるのは、不機嫌な酔っぱらいのおやじだけだよ」

とか・・・。

日本経済新聞スポーツ面  2016/8/19 13:34
「絶対女王、まさかの涙 レスリング吉田「ごめんなさい」

「金メダルを取らなくてはいけないところだったのに……。ごめんなさい」。試合後のインタビュー。顔をくしゃくしゃにして、何度も何度も謝った。

 「女王」にふさわしい勝ちっぷりで順調に決勝まで勝ち上がったが、頂点をかけた一戦では24歳の米国選手にジリジリと点差を広げられた。1―4とリードを許して残り25秒。逆転を狙った渾身(こんしん)のタックルが相手の右足を捉えたものの、ポイントは取れなかった。

 「お父さんに怒られる」。試合直後、母の幸代さん(61)と兄の栄利さんが待つスタンドへ駆け寄り、そう話したという吉田選手。幸代さんは「大丈夫、大丈夫」とねぎらい、涙の止まらない娘を抱きしめた。


吉田選手の本当の内面は、だれにも分からない。
世間に対しての言葉か、お父さんに向けての言葉なのか。
また、ごめんなさい、の言葉の意味も、みんなが思っているものと違うかもしれない。
金メダルをとる、と思っている自分に対しての言葉だったかもしれないし。


みんなが反応したのは、どの部分だったのだろう。
「金メダルをとらなきゃいけない」 のところ?
それとも、「ごめんなさい」 のところ?
あるいは、「お父さんに怒られる」 のところ?

わたしは、こう考える。
つまり、テレビを見ていた人は、吉田選手の内面に触れたのだ。
オリンピック史上でも本当の例のないほどの勝者の、いわば内面が、ひゅっと見えてしまった。

「あ、今まで見ていたのは、外側だったんだ」

ということに、みんなが気づいた。
「ごめんなさい」という言葉と号泣する姿で、視聴者がピンときたのだ。

「いつも金メダルをとる、すごくレスリングの強い人」としか見ていなかった自分が、はじめて、吉田選手の心の内面に触れた気がしたから、これほど揺さぶられるのだ。そして、反応したくなる。

「いいんだよ!ぜんぜん、謝る必要ないよ!銀メダルだって立派だよ!よくがんばった!」
というふうに。



われわれは、吉田選手の内面、オリンピックに挑戦してきた動機がなんであったのか、急に心配になった。

オリンピックに挑戦するほどのすごい人が、実は内面で抱えていた世界は、いったいどういうものだったのか。どんな心の状態で、オリンピックに挑戦していたのか。
その『内面』が、急に見えてきてしまって、心配になった。

怒られる、という不安。
誰かに責められるかもしれない、という不安。
もし、不安にかられて、という動機で頑張っていたのだとしたら・・・(吉田選手は、そうではないと信じるけど)もし仮に、そういう人がいたとしたら、それは・・・せつないよネ。


元陸上選手の為末さんが、こう書いている。
「結果は運だが、挑戦は意思だ。挑戦をするという意思を持って厳しいトレーニングをし、その場に立った。結果の前にそのことをまず尊敬し、そこから姿勢を学ぼうとする社会であってほしいと私は思う。」

結果の前のものを、尊敬する。
結果の前のもの、とはいったい、何か。

吉田選手の言葉、「お父さんに怒られる」をきくと、吉田選手だけでなく、なにか日本人全体を追い込んでいる風潮があるのかもしれないな、と思う。日本に住むわれわれは、スポーツの、何に対して価値をおこうとする社会にしていくのか。

日本人の、「がんばる」、という美しい姿がある。
そして、その人の中身、どんな動機かに、もっともっと世間が注目するようになったら・・・。
怒られないように頑張る」とか、「雪辱を晴らすために頑張る」という以外の、本当の動機があるのであって・・・。

ひとの行動の『動機』が変われば、社会の雰囲気も、変わっていく。

ひとの行動の前にあるもの、結果の前のもの、形に現れる以前の物。

それを、『ビフォーシェイピング』と言う。
ここに注目する社会をつくるために・・・。

とんぼの道

戦争の映画を深夜に見るのはやめた方がいい

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8月15日。
終戦記念日。
日本で暮らしていると、夏は戦争のことを考えることになる。

水木しげるの漫画で、いわゆる戦争を描いた作品群がある。
若い上官が「突撃!」と言いながら大勢の兵隊と共に死んでいくレイテ島の作品を見ると、こんな現実があったらすぐに卒倒して、戦う前に俺は死んでしまうな、と思う。
大体、銃を持たされたら、それだけですぐに卒倒してしまうだろう。

昨夜、なぜだか寝付けず、深夜になって、録画してあった、「日本で一番長い日」を見てしまった。
これは、昭和天皇や閣僚たちが降伏を決定した8月14日の正午からの宮城事件を描いた作品だ。
正確にはその後、国民に対してラジオの玉音放送を通じ、ポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いている。

ここに、陸軍少佐の畑中健二、という人物が出てくる。
最後、ピストル自殺をしてしまう。

観終わったあと、畑中健二の不幸は何だったのだろうか、とあれこれと考えた。
あれこれを考えながら、つい書棚の「野火(大岡 昇平)」を見たり、水木しげるの「総員玉砕せよ!」とか「劇画ヒットラー」とかを手に取ったりした。

時計を見ると、もうすでに午前3時。見終わった興奮からか、まったく眠れない。

そして、この畑中さんの不幸とは、人を動かそうとしたことだろう、と考えた。
将校、という立場になり、人を動かそうとしてしまった。
人に指図したり、その場を仕切ったり、自分を通そうとしてしまった。
究極には、森 赳さんを殺してしまう。

なぜ、畑中さんは、人を動かそうとしたのだろうか。
それはたぶん、「将校」という気分がそうさせたのではないだろうか。
将校である自分が、人を動かすことができる、という幻想。

大岡昇平の「野火」には、結核にかかった田村一等兵が出てくる。
食料もほとんどなく、もうろうとしたままレイテ島をさまよう田村。
田村も戦争で苦しんだ一人だが、田村は権力によって人から指図された側であった。

指図したり、指図されたり。
命令したり、命令をされたり。
その場を仕切ったり、仕切られたり。
それが、『戦争』をめぐる、人間の行動のパターンである。


しかし、このパターンに当てはまらない人もいる。
水木しげるは、上等兵から、
「お前はいちばん言うことをきかんやつだ」
と言われていたらしいが、水木本人はちっともそう思っておらず、
ただ目に映るものが面白かったり、毎日の日々の暮らしに興味がありすぎたりして、上からの命令がよく把握できなかったのだろう、と自分で書いている。

人から指図される、という気分がないから、もちろん人に対して自分から指図する、という風にも思わないのだろう。
水木しげるとよく似た経験の持ち主に、フランスの作家、アルフォンス・アレー(Alphonse Allais)がいる。
アレーもまた、指図されることがなかった。
上官が号令を出しても、きょとんとした顔で上官を穴のあくほど見つめるだけで、どうしても軍靴をそろえるタイミングがずれる。ほとほと上官もあきらめて、アレーが軍靴をはかずに整列しても許したほか、最後には何をしていても、自由にさせたらしい。

水木しげるも、南方に着いたらさっそく絵を描いたそうだ。
上官から
「島に上陸してすぐに絵を描き始めたやつなど、見たことがない」
と言われたが、それが遠回しにヤメロと言われたとはまったく思わず、
「そうでありますか」
と言い、そのまま描きつづけたので、上官はもうあきらめた、という話もある。

わたしは「日本でいちばん長い日」の畑中少佐と、「野火」の田村一等兵を比較するつもりだった。
戦争遂行の作戦を練る側の畑中少佐と、その作戦を受けて、一兵隊として行動する田村。
しかし、実は、それらは同じ部類であった。

『戦争』を客観的にみられるのは、水木やアレの気分からだろうと思う。
水木やアレを、真に理解する文化が、本当の意味で「戦争の本質を把握する」ということになると思う。
いや、戦争の、ではなく、人間の、かも。

人は、人に命令をすることで生きるものなのか。
人は、人から命令を受けることで生きるものか。
というよりも、そもそも、人に対して命令なんてできるのか、命令を受けるなんてこと、できるのか。

1年生のTくんを思い出す。
「先生のイウコトを聞きましょう」
なんてこと、Tくんにはなにもなかった。

大声をからしてTくんに、
「席に着きなさい!」
と怒鳴っても、〇〇しないと、〇〇するよ!と脅しても、まるで効果なし。

ほら。
人に命令するなんてこと、あるいは命令されるなんてこと、本来はできないのですよネ。
あるドグマで人を支配しようと、人権無視の暴力に訴えるような脅迫的な教育を施すからこそ、その結果として、「命令をきくのが良い」と思う人が育つわけで。

シン・ゴジラも、水木しげるのような人が描写されてほしかった。
畑中タイプと田村タイプばかりで、それ以外の人が出てこない。
人間ってもっとやわらかいものだと思うネ。
もし本当にゴジラが来たとしたら、官僚の対処、民間人の右往左往、というだけでない人間のあり様が出てくるでしょうね。たとえば、ゴジラを祀る人とか、出てきそうだ。
大和民族は、ヤマタノオロチさえ祀っているからネ。
そういう描写があれば、リアリティがさらにぐっと増したでしょうナ。


しげる




台風が過ぎて学校に行きたくなる

お盆が過ぎ、夏休みも中盤を過ぎた。
わが愛知県は、おかげさまで、今月の末まで休みがつづく。

しかし、知り合いから聞くところによると、長野県などは、もう間も無く2学期が始まるらしい。ホントウに、同じ教員として、お疲れ様と言って差し上げたい。



私は、早く2学期が始まらないかとうずうずしている。
あの空間が、私の居場所だ、と思う。



学級とは、大した空間だ。
それは、コミュ二ティであり、子どもたちが共に暮らしている場。
朝、さほど来たいと思っても思わなくても、算数が好きでも好きでなくても、ともかくみんな、やってくる。
みんなが、共に生きる場所だ。歌を歌い、共に休み、本を読み合い、仲間と共に食事をし合う。
このことが、子どもたちにとって、いかに大きいことか。

べつに、何をするというのでもない。
やることがどうというのでなく、ただ、こういった空間に身をおけることが、心の安定と成長に、大きく関与してると思う。

役に立つか立たないか、なんていう、まるで一方的で身勝手であやふやな価値観が、ここでは自然に消滅していく。

掃除も給食当番も、お互いがみんなでやり合う。

授業でも会議でも、どんな意見も尊重され、みんなが聞き耳を立て、聞こうとしてくれる。

誰かが牛乳をこぼしても、誰も責めないし、迷惑にも思わない。
明日は自分がこぼすかもしれないから、共に手伝う。

クラスのサッカーボールは、一つをみんなで大切に使う。
誰かが混ぜてといえば、断る理由もないから、一緒にあそぶ。

決定的なのは、みんながタメ口(ぐち)で話せること。つまり、偉い人や正しい人がいないこと。クラスメートは、みんな、序列がない。大人の世界とは違う。(人と人が、友と友が、わざわざよそよそしくなるなんて、本当にアホらしいこと)

ここは、子どもが、開放された空間。
お互いが威張ったり、命令したりすることがない。相手によって態度を変えなくとも良い空間。

大人である私は、随分と、この、子どもたちの空間に癒されている。



これは、言い過ぎかもしれないが、大人たちの目指す【本当の】世界が、ここにある、と思う時がある。

早く2学期が始まって欲しい、と思うのも、お分かりになりますでしょう?



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むぎ茶が何とも言えず美味い件

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「酒、強くなりたいな」

学生の時はたらふく飲んでいたし、平気だったのに。
たぶん、なにも感じずに、ともかく勢いで飲んでいたのでしょう。
その後、十年ほど、まったく飲まないでいました。

今も、たまの付き合いくらいで、ほとんど呑みません。
でも。
スーパーに買い物に行き、ビールがずらーりと並んでいるのを見ると、つい手を伸ばしたくなります。
一瞬考えて、やっぱり買わないのですが。
身体はそんなに欲してないな、という感じかな。

ところが。

ノンアルコール、というのを、ある時きっかけがあって飲んでみたら、これはなんだかいける。
つまり、炭酸飲料だと割り切って飲んでいると、なかなかうまい。

で、この1年間。
実にドイツやオーストラリア、米国、韓国、日本など世界各国の10銘柄以上を購入、吟味し、かなりのエネルギーを費やして飲み比べてきた結果・・・

昨年の夏以来でありましょうか。
このたびようやく、ある一つの解にたどり着くことができました。
熟考の末、私にとっての『BEST・ビア』が分かりましたので発表します。

それが、コレ。

ビール


メーカーは、日本ビール、という会社。
聞いたことないが・・・。

これを売っているのは、近所の生協しかない。
おそらく生協オンリーなのだろう。

味は、まあまあのビール味で、材料的にはモルトとhopなので、ビールと同じだ。
他のごちゃごちゃしたものが入っていない。
ただし、アルコール分が無いので、リッチな感じはしない。

嫁様は、ひと口のんで、

「まっず」

と言い、二度と飲まないと誓っていました。
「こんな水っぽいだけの、酸っぱく苦いもの、ちっとも美味くない」

これも私には好都合で、家の中で私しか飲まないでいられるのは最高の気分である。

嫁様は、麦茶が一番だ、と言い張る。

一理ある。この人は冷静ですな。麦茶は美味いから。

夏の間、わたしはこのノンアルコールビールばかり飲んでいたのですが、最終的にはまた飲まなくなった。

なぜかというと、味に飽きてしまったからです。

つまり、酒というものは、嗜好品として飲んでいる場合には、あれこれと銘柄を変えなくてはいけない、ということです。

わたしの祖父はそうではなく、嗜好品だとか言ってる段階ではなく、まさに命の水、というような勢いで飲んでいました。

え、こういうような、自分の使命感をもって飲んでいる場合には、銘柄は固定してしかるべきでしょうな。おれはこの酒と共に生きる!と断言しているのですから。
実際に祖父は、頑として「鬼殺し」という恐ろしい酒ばかり呑んでました。またその酒を呑むときの、表情がすごい。最初は微笑みから入り、徐々に顔が赤らんでくると、目が据わってきて、表情がなくなり、目を閉じて静かーーーに飲み続けるのです。

まー、怖かったでかんわ。(名古屋弁)
「鬼殺し」を飲む祖父のイメージは、とても凄いものがありました。


わたしは、飽きっぽいのかな。
わたしは、ふと気分を変えて呑むから、いつまでたっても、コレ!というのに出会うことができないでいるのかもしれない。

子どもは、答えを『答え』にしない件

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子どもは、答えを『答え』にしない。
答えを、一応のものとして聞き置いて、先に進もうとすることが、できる。
いったん、「うん、わかった」を横における。
「もう、わかった」を、眠らせて置ける。

次から次へと、調べていこうとする。
それが、子どもの良さ。

大人は、あまりにも簡単に「わかった」を言いたくなる。
夏休みくらい、間近にいる子を見て、学ばないとね。

大人がいちばん
「わかった」
とか
「気づいた」
と言いたくなるのが、人間の心理面。

自分の心なんだから、わかってる、と思いたがる。
ところが、ちっとも分かっていない。
じっくりと考えたことなんて、ない。

浅い、浅い、浅いところで、「わかった」と言いたくなる。
これは、不安のうらがえし。
自分の心の動きや状態、分からないはずがない、と思っているのだ。
分からないという自分に、不安を覚える。
だから、
もう分かった、〇〇だからだろう、ほらね、これでいいだろう、とすぐに、言いたくなる。

好きとか嫌いについては、とくにそう。

どうして、キライ、と判断し、その瞬間に嫌悪感を感じるのだろう。
どうして、心が締め付けられるような感じを受けるのだろう。
その存在を認めず、あるいは消滅を願い、相手が変わることをひたすら願い、相手が変わらないことを呪い、自分の不運を嘆いた瞬間、なぜ、その強い絶望と、あてどなく呻きつづける自分の姿を悲しく思うのだろうか。

これが、なぜなのか。

「そんなん、当たり前やろ!!」

というところでSTOPするのが、関の山。
大人には、無理な人が多い。

子どもは、答えを答えとしてみない。
わかった、としない良さを持っている。
その証拠に、

「嫌いだ、と思ったら、どんな気持ちになる?」
「いや~な感じになる」
「じゃあなんで・・・、嫌いだな、と思ったら、いや~な気持ちになるのだろう?」


という質問にも、ちゃーんと、考えようとするもの。

大人は、

「そんなバカにしたような質問、するな!!」

って、怒りだす人多いと思う。

自分の中に、なにかを嫌悪する感情が湧く。
それは、いったい、どういうことなのだろうか。
どうして、そのような自分の状態であるのだろうか。
なぜ、相手の変わることを願った瞬間に、自分の心の中が真っ黒になるのだろうか。
このことは、いったい世界全体とどのような関係があるのか。
このことのカラクリは、普遍的なものなのか、永遠のものなのか。世界中の誰しもが、そうであるのだろうか。


こんなこと、大人はほとんど、無理でしょう。考えるの。
耐えられない。
大人は、善悪で裁かれ続けている(あるいは自分で裁く)から、もちこたえられないのだろうと思うネ。
すぐに、自分が攻められているような気がしてしまうのでしょう。
「あなたはダメな人間」と、判断された気分に陥ってしまうからかな。
なんでなのかね。嫌い、という自分を考えてるだけなのに。

子どもはそれが無いか薄いからか、と思う。
なんで自分は、そういう心の動きをしているんだろう、と純に考えることができる。
責められているとか、そういう余計な感覚は無しで、ね。

大人の宿題こたえを2

宮沢賢治の「やまなし」とクラムボン

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小さな生き物を知るのは、
はるかかなたの宇宙を思うのと、似ている。

人間の手が触れていない“いのち”に畏敬の念をもつのは
だれしもそうだと思う。

宮沢賢治は、ひとの手がふれない、小さな、把握できないような命を
掌編「やまなし」で、クラムボンと表現したのではないか。

yamanasi


『クラムボンはわらつたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
『クラムボンは跳てわらつたよ。』
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』

これはクラムボンに関するダイレクトな描写だ。
宮沢賢治は、
水の中で一生をすごす蟹の子どもらに、このセリフを言わせている。
ここだけを抜書きしてみると、いかにも小さな生き物が
わらったり、跳ねたり、している姿が想像される。

では、クラムボンとはいったい何なのか。
重大なヒントが、最後に出てくる。

クラムボンは、最後に殺されます。
直前までわらったり跳ねたりして、
いかにも楽しそうだったクラムボンが殺されてしまいます。

食べられた、とか
無くなった、とか
消えた、というのではなしに。
『殺された』。
こう表現したところが、さすがに宮沢賢治。

となると、おそらく、クラムボンとは、
水中のプランクトンだとかそんなものではなく、
ある種、しっかりと自分の意思でもって、
「生きよう」
と行動する生き物をさすのではないか。

だとすると、これは、もうハッキリしてきましたね。
プランクトンとか、微生物なんかより、もっと大きなものです。

かぷかぷ

という音がミソでしょう。
みなさん、2枚の貝を合わせたところを想像してください。
その貝を、まるでシンバルのように合わせて音をさせてください。

ほら。
カプカプ、と音がするでしょう?


というわけで、クラムボンとは、「貝」のことだと分かります。





という話を、種々たくさんある説のうちの一つとして昨年まで紹介していたが、
今はそう思わない。

カニの子どもだって、貝のことは、きちんと

「貝がね、わらっていたよ」

と言うでしょうから。

水の中に生きている蟹の子が、貝を知らぬわけがない。
父親だって、「あれは貝だよ」と教えるでしょうし。
現に、父親は、「カワセミ」について、きちんと固有名詞を教えていますから。
貝をわざわざ、クラムボンなんて、空想じみた名称で呼ぶわけがない。

なので、貝だ、という説は破綻します。
同様に、父親からきちんと教えてもらえる可能性があるものとして
※アメンボ・ゲンゴロウ説
※光の輪説
※あわ説
なども同時に消去します。
この父親、なかなか賢いですよ。
きちんと、分かってる。
カワセミが魚を狙うこと、やまなしが熟して酒になることなど、およそ自分たちの生活環境の周りで起こり得ることを、きちんと正確に把握している。
この父親から、

「あれは貝だよ」
だとか
「あれは光が差してきているんだ」
とか
「あれはお前たちも出してるだろ、泡だよ」
とか、
教わらないはずがない。


クラムボンとは、得体のしれない生き物。
まだ、正体が一部、わからないもの。
あるいは、蟹の父親にさえも、その正式な名称が分からないもの。
(もしくは、宮沢賢治にさえも・・・)


しかし、クラムボンは生きて笑ったりはねたりするし、
生きてこの世を謳歌しよう、という意志を感じさせる。
で、最終的には殺されたりする。



これはネ。

おそらく、人間がまだ知らない生物のことをさしているんだナ。
だから宮沢賢治も、「クラムボン」なんていう、未知の名称で呼ぶしかなかったのだ。

たぶん、わたしの思うに、
ちっちゃな小人かなんかのことじゃないのかね。

クラムボン=小人(こびと)説です。
アイヌは、「コロポックル」とも言いますね。

音韻も、似てます。
クラムボン→ KU・RA・MU・BON
コロポックル→KO・RO・PO・KU・RU

こじつけかなあ。

でも、宮沢賢治はアイヌのことも研究していたようだから(確信)。
どうでしょうか。

大人の宿題クラムボン4

大人の宿題、やってます。

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たまたま地元のスーパーに出かけたところ、ふだんならあまり見かけないはずの、クラスの子がいて、話しかけてきた。

「あ、先生!」

元気そうな顔で何より。
日焼けもしている。

「プール、ぜんぶ行ったー」


気さくなお母さんで、あれこれと話をしたあと、子どもが宿題のことで相談してきた。
「ぜんぜんかけないんですけど」
「教室で、いっしょに練習したでしょ!!」

読書感想文のこと。
本は読んで、最初の印象も書き始めたらしいけど、その後が続かない。

「自分のことと、主人公のことと、あんまりつながりがないから、比較してもかけない」

という。

スーパーの入り口付近で、あれこれと指導できることでもないから、

「がんばれ!!」

としか言えず、そのままにして別れてしまった。



さて、子どもは宿題をがんばっているが、大人も宿題がある。
この時期はとくに、ふだん考えないようなことを考える。

明日の授業のことばかり考えている一年を過ごしているので、
たまには世間のこと、世界のこと、人間のことを考える。
そこまで思いを致さないと、徐々に自分が痩せていく気がする。
なにか、これまでの枠組みを離れて、すこしだけでも突き抜けたような思考をしたい。
重力に負けて、仕方がないよ、世の中こうだから。子どももこうだから、親もこうだから、と諦めたような教員人生は、悲しいですからねえ。


夕方、近所の山の頂上まで、ドライブをした。
田舎だから、こういうことができる。
あまり人気のないような地元の道路を走っていると、気分も変わる。
もうすぐ流星群も見られるらしいけど、ここは、星も数多く見える。

天の川も、見られるんだけど、ふだんはそれほど気にもしていないからネ。
家の近くを離れて、ほんの少しドライブすれば、こんなによい条件で星も見られる。

星はいい。
ふだんの地上のことから、アタマが離れられる。
何億年、ということとか、物質の構成要素、とか、
とんでもない世界、桁のちがう世界のことを、
ふと
思うことができる。

大人は、ときおり、こういうことをしなければならない。
目の前のことばかりでは、アタマに壁ができてしまう。
つきぬけていきたい。
思考の壁を、つきぬけていきたい。


こころにも、ほんの少し、隙間をつくって、
いい風を入れてみたい。

なにも思わず、ふっと力をゆるめて、

人間ってなんだ


と、考えてみたい。



それが、一番のぜいたくかもしれないなあ、と思う。


大人の宿題きれいだなあ2


悩み相談の本質とは何か

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新聞などに、よくある「悩み相談」。

悩みには、2種類しかない。
どこぞの立派なお坊さんの言葉だそうですが、

1)人間関係の悩み
2)それ以外

この2種類しかないそうです。


さて、毎日新聞の朝刊に、
人間関係の悩み についての投書が、掲載されていたらしいです。
結婚に反対する親からの投書なんだとか。

奥様はどうやら、お嫁さんになる女性が気に入らなかったようで・・・。


そうだん


奥様の相談。

「相手の服装や第一印象が悪く、将来子どもに宿題を教えられるかも疑問です。どうしても彼女との結婚は許せません。」

これに対して、回答する側は、

「なにが問題なのか、分かりません」

と答えている。


あることについて 「気に入らねえ」というタイプと、まるっきり問題と認めることさえしないタイプ。
この差は、すごい。
グランドキャニオンの谷より深い。ぜったいに埋められそうもない。

もし可能なら、奥様はこう話したいはず。

「だって、見た目だけでも、すごくチャラチャラしているし!ハイヒールもこんな高いし、口紅の色も見たことが無いくらい赤くって・・・。言葉遣いだっておそまつで、髪の毛も今日のために慌てて染めたような風だし・・・」

回答者 「えー、正直に申し上げて、それの何が問題なのか、わたしにはわかりません。」

奥様 「おつむの程度も知れてるでしょう。ろくに勉強もしてこなかったような様子でしたよ! 将来子どもに宿題を教えられるはずがありません!」

回答者 「ははあ。しかし、それも、とくに何が問題なのか、わたしにはわかりません。」

奥様 「挨拶だって言葉が足りないし、口元に品がない。とにかく一般常識がないんでしょう。だらしがないにもほどがあります」

回答者 「なるほど。しかしそれも、何が問題なのか、わたしにはわかりません。」

奥様 「とにかく、あたしゃ、気に喰わないんです!あのふざけたような女に!」

回答者 「結局、何が問題なのか、わたしにはわかりません。」

奥様 「あんな女に、息子をとられると思うと・・・死んでも死にきれないッ!ぐやじぃ~ッ!!!

回答者 「あなたが嫉妬していることは分かりました。•••で、あとはとくに•••ホントウに、何が問題なのか、わたしにはちっともわかりません。」

回答者は、奥様の悩みに関与することができないのです。
むろん、これは世界中のだれにも関与できない。
不可能なのですね、他人には。
なぜなら、それは奥様固有の問題だからであって、奥様の心の問題であるからです。
奥様が自分のなかで持て余している、心の内面のこと。
オモシロクナイ!キニイラナイ !
嫉妬心、優越・劣等感、そうしたもの。
こころの中の、寂しさ。
「あんたのことが気に入らない!」と叫びたくなる気持ち。


しかし、今日のこの回答、これは、回答者が悪いでしょう。
ちっとも洒落た回答になっていないではないですか。
質問する奥様の気分がスカッとするような回答、してあげてないもの。
以下、奥様の気分を損ねない回答例。


「ずばり、あなたの言う通りです。その女はアホですね。賢い息子さんがそんな女を選んだこと自体が悪夢ですが、一時的な気の迷いなのか、もしくは魔がさしたのでしょう。めげずに、こちらは作戦をたてて、とことん嫌がらせをしてやりましょう。おそらくそのことで、親子が断絶し、夏休みになっても顔さえ見せず、孫を抱かせてももらえないかもしれませんが、そんなのは些末な問題です。そんな女の産んだ子どもですから、抱かなくてもOK。こちらからお断りですよね。むしろ、お年玉やお盆玉を出さなくてもよく、全然、平気だよ~、くらいの涼しい気持ちでいてください。」


奥様は、困っていらっしゃるのです。
回答者の役目としては、奥様のさみしさに、とことん共感してあげなくては。



【結論】
「自転車のチェーンが外れてしまいました。どうすればよいでしょうか」
「無理せず、専門店に相談しましょう」
というような、物をどうするこうするとか、事柄(コトガラ)の相談と回答なら、新聞に載せるべき。

しかし、そもそも解決不可能というか、他人の関与することが本質的に不可能であるはずの心の内面、寂しさなど、「人間関係の悩み相談」について、最初から回答しようとするべきではないと思います。


しかし、人間関係のことや内面のことに、真正面から回答を出せる、と思い込んでいる人が多い。

他人の回答が無用である自分の内面のことを、『アンネセサリーインサイド』と言います。

アンネセサリ―なインサイドは、そっとしておくこと。



そうだん2
そうだん3

扇風機を強制的に涼しく

.
うちにはクーラーがなく、扇風機しかない。

朝晩がわりと冷えるから、それでOKなのである。

しかし、日中の昼間。
夏休みの猛暑の中では、これはキツイ。



うだるような陽炎がたちのぼる部屋の中で、アタマに思い浮かぶのは、灼熱の砂漠、シルクロードの幻想だ。
まるで、マルコポーロ。らくだの背中の中に、冷たい水がちゃっぽんちゃっぽんと、しまわれているのを想像して、思考が停止したままだ。

気が付いたら、さっきから、
「水、水」
しか、言ってない。


そうやってよく見てみると、この3時間ほど、家族のだれも口を聞いていない。
全員、ただひたすらに、水道の水をゆーっくり口に水を運び、目をぎょろぎょろさせながら水を飲んでいる。



これをみて、はじめて、

イカン

と思い始めた。

死ぬかもしれない。




それで、わが家の唯一の冷房機器である、扇風機を加工することにした。

生暖かい風、つまり温風を吹きだす、でかいドライヤーのような効果しかない扇風機。

これを、変える。

生まれ変わらせる。



熱風ではなく、涼しい風を、送りだせる扇風機へと、進化させる。

なんという尊い決意であろうか。



思い浮かぶのは、牛舎だ。

夏、ひたいに汗をうかべつつ、牛舎の床管理をしていたが、数か所のミスト扇風機によって、かなり冷えた空気が届く場所があった。そこだけは、まるで砂漠の中のオアシス。つめたい空気が顔に当たって、とても心地が良かった。

水分の気化能力は、かなりのもの。効果は、ある。

そこで、扇風機の前に、氷をしばりつけ、そこから冷たい空気がこないかどうか、と。
実験をしてみた。


氷をしこたまビニール袋にいれ、扇風機の前に箱に入れて置いた。

「うーん」

微妙だし、第一、箱が邪魔くさい。

そこで、もう、こんなふうにつるしました。

氷はすぐに溶けちゃうので、これ。強力タイプの保冷剤。

せんぷうき2



部屋の温度は、35℃。

扇風機1



ようし!!!

風が前にこないことを除けば、心なしか、わりと涼しい感覚がある!

強風にすると音が響くが、なんとなしにさっきより、風が冷たくなってくれた気がする!!





夏を乗り切りましょう!
皆の衆!! がんばりましょうぞ!!!

【学校改革】キーワードは、「飼い馴らし」

.
○掃除はだれもやりたくない、という前提で、掃除の時間枠に強圧的に行わせること。ルールを決めて人を役割に当てはめること。行動しない場合は罰を与えること。

○給食は各自が個人的に食べること。みんなで分け合って食べる雰囲気をなくし、配膳当番も「人間は本来やりたくない」という前提で進め ること。協力し合って配膳を全員で配り合う、ということを禁じ、自分の分を確保することだけを考えさせること。配膳当番は、成績の悪い者に罰として強制的に行わせること。

○授業は絶対権力者の教師に気に入られることを子どもたちの精神活動の主となるように進めること。権力におもねることを刷り込み、「先生に気に入られると得をする」ことを前提にして生きるようにさせること。

○当番活動をフォローし合うことを禁じ、もし仮に体調その他、自己都合で代わったもらったりした場合はペナルティとして「仕事」をさせること。

○学校生活にポイント制を導入し、ポイントをとったもののみに、特典が与えられる仕組みをつくること。ポイントの多寡が、人間生活の行動に影響するよ うに「飼い慣らす」こと。ポイントの取得が大きな目的になるように動機づけること。


こんな改革、ありえないとみんな思ってるけど、実態はどうかなあ。

ここは、前提から問い直すべきでしょうナ。

つまり、子どもを、現在の日本社会向けシステムに合致させるための「圧迫」「矯正」
その意味から問わないとね。

人のための社会づくりか、
社会のための人づくりか。


そこから、ね。

DSCF0036

トランプ大統領

.
夏休み。
世の中のことを勉強するチャンス。

米国は大統領選に向けて、ヒートアップしている様子だ。
2016年11月8日に予定されている、第45代アメリカ合衆国大統領は、
ここまでの情勢をみると、

「トランプ大統領」

のようである。

共和党の大統領候補として、ドナルド・トランプ、テッド・クルーズ、ジョン・ケーシックによる三つ巴の争いを、勢いのあるトランプ氏が制した。
そして、トランプ氏の勢いが強く、おそらくこのまま、大統領になるのではないかと思われる。
なにせ、トランプ氏の勢いがすごすぎて、あのブッシュ氏が出馬を取りやめたほどである。

政治家としてのキャリアは兄ジョージに遅れをとっているが、政治手腕は兄よりも優れていると評価されており、「ブッシュ家の最高傑作」と言われたジェブ・ブッシュ氏さえ、トランプに負けたのである。

2016年2月の段階では、トランプ氏の支持率は40%、クルーズ上院議員は17%だった。つぎにルビオ上院議員(11%)、元神経外科医のベン・カーソン氏(10%)、ジェブ・ブッシュ元フロリダ州知事(8%)と続く。
なんと、トランプは、共和党の中でも、ダントツの人気で、候補者になったのである。

わたしのみるところ、今の世の中に飽きている人が多い。
そういう方は、ちょっとこれまでの路線ではない、個性の強い人に投票する傾向にある。
また、今の世の中に疲れすぎている人は、そもそも投票しない。
だから、おそらく、トランプ氏が大統領になるであろう。
クリントン氏を選ぶには、今の米国民は、ちょっと「飽きて、疲れすぎている」ようだから。

選挙について。
本当は、家の中にいながら、投票できるのが一番よい。
そうすれば、全員投票できる。
そして、社会的な弱者の声が、政治に反映される。

今は、そうではない。
本当に声をあげるべき人は、疲れ果てて、家に閉じこもっている。
政治に興味をもち、投票しなければ、と考えて、投票場所に足を運ぶエネルギーさえ、ないのだ。
だからいつまでたっても、真に社会的弱者のための政治は、行われない。

確実に投票が行われる、ということに、最大の工夫がなされるべきである。


さて、トランプ大統領は、なぜ大統領候補に選ばれたのか。
そのことを調べているのだが、なんだかとても、その「背景」が巨大すぎて、全貌が把握できない。

アメリカ人もみんな、不安でいっぱい、のようだ。
日本人も不安。
中国人も不安。
世界中が、不安の固まりである。

傷を負った犬は、咆えまくる以外にどう行動するだろうか。
「咆えまくる以外の選択肢」。
心ある人々はそれを、早急に見つけ出そうとしているのだが・・・。

しかし、トランプ大統領は、世界に向けて咆えることを公言してしまった。
どうなるのだろうか。

6年生くらいになると、「トランプ大統領が・・・」と、話をしてくる子がいるだろう。

秋、巷の話題は、トランプ一色になる。
わたしはどんなふうにそれを聞いているだろうか。
教室で、子どもたちは、それをどんなふうに、話題にするだろうか。

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