30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2016年02月

先生の言う通りは、つまんないな、と感じる心

.
学習発表会で、教師が一番たのしいのは、

「え、この子たち、こんなこと考えたのか!」

ということ。

高学年になるほど、自分の意見のオリジナリティーを出そうとします。
そこが、面白い。

「先生、ここまで考えたんだから、ぜひやらせて!」

これこそが、いちばんの醍醐味でしょう。
そういう企画がでてくると、教師は腹をかかえて笑うことができます。


先日の学習発表会で、あれこれと準備を進めているときに、
数人がアドバイスをもらいにきたので、わたしも思いついたことや気を付けたらよいことを話していました。
ふむふむ、と聞いていて、その都度、

「あ、それいいな」
「なるほど」


などと言い合って、アイデアが決まりかけたのですが、その中のひとりが、

「うーん、でも、先生の言う通りだけだとつまんないな。もうちょっと考えよう」

と言って、結局また仲間であれこれ相談を続けていました。



この、

「もうちょっと考えよう」

というのは、何だろうか、と思います。

この意欲は、何だろうか。

別に、変えなくても構わないわけです。
面倒くさいのであれば、そのまま、スッとシナリオ通りに進めてしまえばよいわけです。

ところが、

「うーん、もうちょっと、変えてみたいな」

と、出てくる。

大人なら、もう面倒くさいし、考えてまた失敗するのも厭だし、練習する時間ももったいないから、そのままやってしまって、終わらせよう、という考えになるかもしれません。

なんでしょう。本当に。

「うーん、もうちょっと」って、何だろうか?






結局、最初の案と、それほど変わらないことをして、本番前にずいぶん無駄になった寸劇練習もあったのですが、子どもたちはサラリ、としたもの。
時間を損した、とは言いません。
労力をかけた分を損した、とも思っていないようです。

子どもたちが、価値を置いていることって、何だろうか、といつも思いますネ・・・。



そして、もう一つ。

惜しいな、と思うこと。

この本番前のあれこれを、保護者の方たちがみんな知らないでいる、ということです。

これが、いかにも惜しいと思えてなりません。

一番面白いのは、本番前の、あれこれ、なんじゃないか。

本番の発表は、最後のおまけみたいなもの。
子どもたちも、すでに十分やりきっているので、本番はさっぱりしていますヨ。



保護者の方にお願いしたいのは、ぜひ、本番前になにがあったのか、を聞いてみてください、ということ。
いろんな経緯や人間模様、数々の、意見のぶつかり合いがあった。
それが、分かると思います。

ただ、ざんねんなのは、子どもたちからすると、すでにそんな過去の話は、うんこと同じですっきり忘れて流しています。
だから、後になって、そこらへんをあらためて親に聞かれても、

「なんでそんなこと聞くんだろう?」

と感じてしまう、ということです。


今朝の連絡帳に、

「学習発表会の準備のことをあれこれと私が聞くのですが、いろいろー、楽しかったー、としか教えてくれません」

と、お母さんがちょっと面白く、書いてくれていました。

まあ、そんなものですかネ~

P1172021

6年生の担任だから、思うこと【歴史を学んで】

.
6年生を担任するのは、もう二度とないかもしれないと思うと、
書き留めておきたくなる。今日のは、そんな話。


今年6年生を担任したことは、自分にとって、とても大きなことだった。

何よりも、政治が激変中。

そこで、子どもたちと、社会とは何か、政治とは何か、と考え合うのはとても大きな体験だった。

ある子ども(わたしのクラスではない)が、将来の夢を問われて

「総理大臣になりたい」

と書いたそうだ。

その理由が、

「今の総理大臣がダメな人だから、自分がなって日本をもっと良い国にする」

だったそうだ。



これは、現役教師として、とてもよく分かる。
わたしが子どもの頃とはまったくちがうと思う。
感じ方も、知識を欲する意欲も、桁違いに変化している。
今の子どもたちは、なにかを感じている。
政治、というものに。
この国の未来と不安、ということに。


社会科の追究テーマは、
◎縄文時代と弥生時代のどちらが幸福か
で始まった。

いきなり4月の段階で、子どもたちは巨大な疑問にぶち当たる。
つまり、子どもなりの

「幸福」というものの観方

を問われたのである。

・自分はいったい、なにを幸福とするのか
・いったい、なにが幸福といえるものなのか


これは大論争になった。

教科書的には、弥生時代に他との競争、他を敵とみなす、ということが始まっている。
実際に、埋葬された人骨の頭部に貫通跡があることから、戦で命を落とすということがあったようだ。

縄文時代のさし絵には、堀もなければ武装もなく、人骨に貫通跡もみられない。
これはいったい何だろうか?というわけだ。

子どもたちは、おそらく弥生時代の方が豊かだろう、という予想を持った。
しかし最新の調査では、縄文時代の地層から多様な種、殻、食糧の痕跡が見つかっていて、貝塚の発掘調査からも豊穣な食生活の跡がみてとれる。
弥生時代は豊かだろうが、幸福だったか、と問われると、ほぼ全員が「ちがうと思う」と。




秋になると、フランスでテロが起き、ISISが話題となってきた。
空爆の映像がテレビで流れ、誤爆で命を落とす子どもの写真が新聞に掲載されるようになる。
この時の話題は、
◎戦争ってどういうもの?
である。

国語の教科書では、ちょうど「ヒロシマ」についての論説文(意見文)を学んでいるとき。
子どもたちの意識は、だれもが自然と「戦争」に向いている頃だ。

このときのクラスの話題は、

「戦争とは、人を殺すこと」

であった。

殺されるのと、殺すのと、どちらを避けたいか。

究極の問いだと思う。
しかし、これが子どもたちの考察文から浮かび上がってくる。
ちょうど歴史学習で幕末、明治維新とつづき、列強が植民地を支配するころを学習中。
日清・日露戦争で、死者が十万人、と習っている。

与謝野晶子の有名な、「君、死にたまふことなかれ」で、2つの意見が出た。
この「君」、というのは彼女の弟のことだ、という説と、
相手の国の、見知らぬ「息子」のことも含めて詠んでいる、という説の2つだ。
もしかすると、この歌はいくつもの意味を多層に詠んでいるのかもしれない。
弟に、「死ぬなよ」と言いつつも、彼の国の見知らぬ弟にも、「死ぬな」と言うのであるから。

「弟よ、お前も死ぬな、そして殺すな(彼の国の見知らぬ弟も死ぬな)」

答えは分からないが、『人を殺す、ということ』がクローズアップされてきた問いであった。

国語の教科書では、ヒロシマが語られ、どちらかというと、殺される話が多い。
被ばくはもちろん、炎にまかれて焼け死んだ話、黒い雨に打たれて死んだ話。

しかし、社会科では、両面が出てくる。
実は人間にとって、一番残酷な仕打ちは、「殺される」もそうだが、「殺す」でもあるのではないか、というのが、子どもたちの解である。

人を殺さなければならないという立場は、究極の責苦であろう、というわけだ。



こんなことまで、学習するべきではない、という意見もあるだろうと思う。

しかし、通常の学習をしていたら、当然、行きついてしまうのである。

「人を殺す、ということは、どういうことか」

という問いは、小学校6年生にふさわしいかどうか、私には判断できない。

教科書を順番に読むだけの授業であれば、この問いに向き合わなくても済むかもしれない。

でも、アクティブラーニングで意見を言い合っていたら、どうしようもなく、浮かび上がってくる。

子どもたちは、

「なんで人間は、こんなに10年おきに戦争するんだろう?」

と、しぜーん(自然)と、思うものなのである。

ごく、ふつーの感覚で、そう思う、らしい、のである。

毎日、いじめはいけない、と教えながら、「大人は人を殺しているけどね」というのが、どうにも違和感を持つ、というのが、子どもなのであろう。この違和感は、仕方のないことでしょう?


映像の世紀1

アメリカ人って・・・【小6社会】

.
6年生は3学期の最後に、

「世界と日本とのつながり」

を学ぶ。

社会の教科書には、主に次の国との関係、関わりが書いてある。

〇アメリカ合州国
〇中華人民共和国
〇サウジアラビア
〇大韓民国


今日は、アメリカと中華人民共和国を学習した。

いつものように、

「アメリカという国を調べます。すでに知っているよ、ということがあったら発表してください」

と始めたところ、出るわ出るわ。



・マクドナルドは米国の企業だ、
・いろんな人種がいる、
・オバマが大統領だ、
・NASAはアメリカだ、
・ハリウッドはアメリカだ、
・ディズニーはアメリカだ、
・ジョン先生はアメリカ人だ、
・野球はアメリカ生まれのスポーツだ、
・イチローはアメリカに居る

など。


ところが、気になるのは、子どもたちの言葉の中に、

「アメリカ人って・・・」

という言葉が出てきたこと。

怖い、と。

なぜか。

「銃を持ってるイメージがある」

と。

たしかに、アメリカ人は、映画でだいたい、銃を撃ってる。



しかし、アメリカ人をひとくくりにする言い方が、ひっかかった。



なるほど、映画に出てくる(どんな映画か知らんけど)俳優が、銃を撃つシーンはたくさんあるかもしれないけど、アメリカ在住の人がみんな、毎日、好き勝手に銃を撃っているわけではない。

「毎晩、マクドナルド」

それも偏見である。

どこで聞いたの?

youtube で、毎晩マクドナルドを食べている、という人を見たことがある、って。



事実は、一人ひとりがまったくちがう、ということ。
銃を持っている人がアメリカ人だった、ということはあるかもしれないけど、アメリカ人だから銃を持っている、ということではないよネ?

アメリカに行くと、田んぼでお米を作っている人もいるんだよ?

と教えると、

エーッ!?
ウッソー!


だって。


人はなぜ、個別のものを、「全体一律」と、とらえるのだろうか?


子どもはみんな〇〇だ、
日本人はみんな〇〇だ、
うちの学校はみんな〇〇だ、
うちの学校の保護者はみんな〇〇だ、
うちの学校の先生たちはみんな〇〇だ、
みんな同じでつまんない・・・

事実を、これほどまで、雑にとらえる癖があるのは、なんでか?
人間の、習性なのだろうか?



なぜ、雑にとらえてしまう?
これ、調べていくと、いろいろと突破できそうな気がするネ。

megane

みんな同じのわけが、ない。

.
もし、こんな感じ方を持っているとしたら、という話。

日本の子どもたちについて。
「みんな、同じような顔をして、同じような服を着て、同じような考え方で、同じような態度でいる」
と、思っている人がいたとしたら。

どうしてそのように自分は思っているのだろう、と振り返ってみよう。

そこに、なにか、子どもに対する、『不満』が隠れているかもしれない、と。

「相手に不満があるから、相手を誤解する」ということが、ある。



なぜ、あなたには、

「日本人って、みんな同じに見える」


のか。

「子どもって、みんな同じに見える」

のか。

もしかすると、そこに、不満が隠されているかもしれない。
事実は、みんな同じ、ではない。
よね。

なのに、あなたにとって、同じに見えるんだとしたら・・・。



小学校の教師を続けてくる中で、最近思うのは、子どもは一人ひとり、まったく違う、ということ。
さらに、それをお互いが自然に認め合っている、ということ。

いっしょに給食を食べ、登校し、授業で考え合い、笑い合い、楽しんでいる。
それを何年も続けていると、まったく違う自分たちなのに、『共感できる』ということを知る。

同じ釜の飯を食う、という言葉がある。

生活を同じくし、顔を毎日あわせていると、
「自分の考えや意見を、わかってもらえた」
という快感や、友だちのことも大事にしたい、と心から願う自分の気持ちに気付く。
人とのつながり、よかった、ありがたい、という気持ちに気付くようになる。

この味わいがある人は、もはや、相手がどんな意見であろうと、関係なくなるよね。
どんな意見であろうと、一番底で共感できるんだから。
意見の内容が同じとか、ちがうとか、問題にならなくなっちゃう。
(意見は意見として、内容そのものを問題にして話し合えば済むことだし)

それを、ことさらに、問題にしたくなるのは、そこに自身の不満があるから。

「みんな同じだ。つまんない」

って言いたくなる・・・。


裏を返せば、

「自分がこれだけユニークでオンリーワンであるのを、まだ認めてもらってない!」

ということ。

つまんねえぜ!みんな同じ面しやがって!!
(おれは違う!で、まだ認めてもらってない!)




そりゃあ、不満なんだよ。
日本の社会に不満なんだよネ。
というか、だれかに不満が残っているんだよナ。
それを、かっこよく、「日本の社会は・・・」って言ってるのさ。


どんな不満かって?

そりゃあ・・・

幼き頃の、自分自身のことでしょう。




自分にとって大きな存在の人から、

自分を認めてほしかった、という願い・・・。

どうでしょうか。

11

子どもは、同じ、ではない。

.
実際のところ、親は、自分が子どものことを、把握している、と思っているかもネ。

また、そう思っているくらいでないと、親として恥ずかしい、失格だ、というふうに思っている人もいます。

しかし、実際は毎日子どもはちがってきていて、細胞も毎日変わるし、情報量も考え方も影響を受ける人まで毎日少しずつ変わっています。

まして、親の頭の中の子ども像は、実際の子どもとは異なるもので、実際は、何一つ知らないでいる、という前提でスタートした方が、まだマシなのかもしれません。




子どもが変わって帰ってきたら、困る。
学校に行くのはいいが、行って、変わって帰ってきてもらったら、親としては困る。

そう思うか、どうか。


あるいは、
子どもが同じでは困る。
学校に行っても行っても、ぜんぜん変わらないのは、親として困る。

そう思うか、どうか。



さて、自分は、どっちだろう。

同じと思っているのか、違うと思っているのか、どうだろうか。


子どもは、学校で、
どんどん、どんどん、
どんどん、どんどんと、
変わっている。




足跡4

愛知県の教員としての私

.
私が、愛知県の小学校教員となって嬉しいのは、

愛知県にはなかなか、美味いものが多いことだ。



私が子どもの頃、出し抜けに

「天むす」

というものが商品化された。

おむすびの中に、海老の天ぷらが入っていた。

おもしろいもので、瞬く間に市民権を得た。

その会社は初めはこじんまりとした商店だったが、売れに売れて今では有名な会社になった。





名古屋には美味いものがない、というのが、私の幼い頃の世の風潮であった。

タモリがバカにして、昼の番組で、これでもかとこき下ろしていた。

歩行者用の信号機からは、童謡が流れてくるし、語尾にはミャア、ミャアとつくし。

名古屋はアホっぽい。

それが、東京を中心とするマスコミのつくった、『電通的世論』であった。




そういった世論とは隔絶したところで、味噌カツを食い、寿がきやのラーメンを食い、味噌煮込みうどんを食べ、きしめんをすすって、心の中で

「あまり電通とかには受けてないけど、オレ的には、これでいいが」


と思って生きてきた。

おそらく、この尾張・三河の食文化は、他には理解されないままだろう、と思い定めて生きてきた。




ところが、つい最近、関東の友人と、五平餅と胡桃味噌、の話をしていて、

なんと、

今、名古屋は美味い

ということになってる、という話を聞いたのであります。



ビックリ!



尾張・三河の食文化が、じわじわ、来てるのか!?





電通も、心を改めたと見える。

そのうち、スタバはつぶれるよ。

コメダに代わる。

東京でも、「モーニング、まだ間に合うかな?」と会話するようになるぞ。



果ては、モーニングに天むすがついて、赤だしまで出るようになる。

コーヒー飲みにきたのに、赤だし飲んでるよ、と、

レジでお金を払いながら、自分に突っ込みを入れるようになる。




でも、そんな自分が好きなんだ。

私は、ナナちゃん人形で待ち合わせをすることに抵抗のない、生粋の愛知県人なのです。

しゃちほこ

「・・・ということに、なってます」と教える公民

6年生。

歴史の授業が終わり、いよいよ公民分野。

最初に、憲法とか内閣、三権分立など、この国の政治の仕組みを習う。



今年は、語尾に注意して、教えている。

なぜか。


岩城法務大臣が国会質疑で立ち往生、というニュース記事を読んだ。

大臣の立往生。それは、国会の質疑の際だ。
TPPのISD条項で「日本政府が訴えられた場合、仲裁審判と最高裁判所の判決とどちらが優位なのか」と聞かれて答えられなかった、とのこと。



つまり、これからは、

憲法が最高法規です。

憲法が最高法規、ということになってます。

と、教えるべきだろう。


国の大臣が明言できないのだ。
一介の教員なら尚、無理である。


これからは、

〇国民主権、ということになってます。

〇三権分立、ということになってます。

〇最高裁の判断が最終、ということになってます。

と、教えることになる。


先生が、嘘を教えてはいけない、ということに、なっている、のだから。
足跡3

授業はなるたけ進まない方が良い

.
というパラドックスが、ある。

つまり、授業がするする進んでしまうのは、大人⇒子ども という一方通行の講義になってしまっている場合があるからだ。

肝心なのは、子どもたちの思考。

考える、ということ。

思考を、うながす。


さまざまなことをつきあわせて、調べながら、確かめながら、考えていく、という熟考の体験こそが、今、PISAをはじめとした国際的な学力体系の中で、必要とされているのだ。

このことに今さら異を唱える時代遅れの教育者は、いないと思われる。
A、だからBだ。という、丸暗記型の定量学力は、すでに21世紀の今日、重要視されていないのだ。
だれだって調べたらわかることを、わざわざ暗記することに力を注ぐのではない。
今必要なのは、迂闊さのない思考力、柔軟な訂正能力、そして公正な判断力、である。

つまり、自ら問いを見つけ、課題の解決に取り組む積極的な姿勢を育もう、というのが、今の文科省のねがう教育なのです。

さまざまなデータがないのか、そのデータは間違っていないのか、データの矛盾はないか、データがそうだからといって、一つの結論が出せるのか。とりあえず考えられるアプローチはなにか、別角度からのさらに効果的なアプローチはないのか、など、柔軟に思考できる人間の育成が、文科省の期待する人間像、というわけ。

すると、文科省的には、

「授業を進めたい」

のだけれど、

「するするとスムーズに進むのはよくない」

ということになる。

あっちへぶつかり、こっちへぶつかり、クラス中の全員が、ああでもない、こうでもない、とあれこれと考えていき、今のところ、こうかな、と考えていく体験こそが大事なのだから、

「スムーズさよりも、あっちこっちのぶつかり具合こそが大事」

ということになろう。

つまり、

個々の授業は渋滞して遅々として進まない方が良い

だけど、思考力が鍛えられるゆえ、子どもたちが

次から次へとあらゆる課題に意欲的になる結果、

全体には、がんがんと進んでいけるのが良い


のであります。



ただ一点。

この教育は、親との折り合いをどこかでつけなくてはいけない、という宿命を背負う。

親は、

なんでもかんでも、スルスルと、そうめんを流し込むように覚えてほしい

と思っている場合があるからね。

ま、「スピード感があり」「威勢が良く」「見かけがスマート」というのは、なんとなしに、怪しいかもしれない、ということですヨ・・・。

氷

「子どもは他人と同じだと喜ぶ」という件

.
これだけ「個性尊重」が叫ばれているのにも関わらず、である。

子どもと暮らしていると、彼らがいかに、

「他と同じであることを尊ぶか」、誰しも驚くであろう。


そろそろ席替え、というコールがあがってきたので、じゃ、席替えしましょう、と。

みんなでくじをひいて、新しい席になった。

ご近所さんと、しばし懇談タイム。

あれこれ、と適当におしゃべりをしている。




一番前の席の、RさんとOさんが、大ッきな声で、

「えー!!おんなじだーーー!!」


急いでふたりをみると、厭そうな顔をしているかと思ったら、驚くなかれ、なんと

とっても嬉しそう

なのだ。




みなさん、このことを、どう思いますか?




これは、意外なことだ、と多くの人は思うのではないだろうか。


少なくとも、だ。
大人は、他の人と同じ服を着ていると、

「あ、かぶった(やばい)」

という反応をし、同じ職場で同じような服を着てくることはもう、滅多にない。
双方がそれを避ける。

大人の世界では、「他と違う」ことに、ステータスがある、と断じてよかろう。



ところが、子どもはちがう。

「え?Rも、『おそまつさん』みてるの?うっぁー、わたしもだよ~」

といって、嬉しそうにする、のである。



なんという、『没個性』であろうか。



さらに、お互いの兄と姉が、同じ中学の同じ学年で、同じような部活に属していることを知り、それすらも、喜んでいる。

「うっわー、男子バレーの2年なんだ。うちのお姉ちゃんは、女子バレーの2年だよ」



それで、なぜ、喜んでいるのだろうか。




わたしは、分からなくなってきた。

どうして、子どもは、お互いにちがうものを見つけようとしないで、同じ共通項を探そうとするのだろうか。
おまけに、共通項を見つけた途端、顔の表情が一瞬、うれしそうになり、晴れやかな声で、

「うっわー、いっしょ、いっしょ~」

と喜ぶのは、どうしてなのだろうか。



で、このことをぼんやり、と考えていて、休み時間に教卓の周りに集まってきた子に、

「友達と同じことと、ちがうことと、どっちを見つけるのが楽しい?」

と聞いてみると、驚くべし、「個性尊重」を叫ぶ現代の文科省の役人、それから歴々の教育界に居並ぶ教育者、世の中のありとあらゆる指導者、おまけに教育委員会の人たちも全員が泣きそうな答えが返ってきた。

「え、同じことを見つけるのが楽しい」


だって。

なんで?


と、わたしゃ、全世界の親、そしてPTA、教育者を代表して質問してみました。

すると、

「だって、ちがうことばっかりなんだから、たまに同じことをみつけるのが楽しいじゃん」

だって。





私の頭は混乱し、そこでやっと、わたしの、

「個性」の認識が、少しずれていた

ということを知りました。

つまり、子どもというのは最初から一人ひとりちがい、存在が個性差そのものなので、たまに人と同じ共通項を見つける方が、むしろたいへんだ、ということです。

最初から十分すぎるほど個性的なので、これ以上、

「個性、個性、個性の尊重!」

と叫ばずとも、もう、大丈夫よ、ということらしい。





「同じ」とは、何だろうか。

昨日の自分は、今日の自分では、ない。

考えてみれば、同じ人間はいない。

互いに似せよう、似せようとして最大に努力したとしても、どうしても同じになれない、相容れないものを「個性」と言うのだろう。

授業をしていると、それがよく分かる。

いろんな意見が出る。

それぞれ、少しずつ、違いがある。



子どもたちは、違いがある、ところからスタートしているから、共通項を探すのだ。

意見を出し合っているうちに、なるほど、と思う部分があるから、お互いに共感しあうことができる。

だから、

「ああ、わかる、わかる」

と言ってもらえると、最高に嬉しいのだろう。

友の憂いを共に憂い、友の悲しみを共に悲しむ。

これがなけりゃ、人間、やってらんないよ。




そして、本当に、まったく、ぜんっぜん、理解ができない意見については、おそらく、「ふうん」で終わり。

可も不可もない。なにも生まれないけど、仕方がない。

しょせん、ちがう人間だもの。

「ふうん」で、いいよネ。


雪の影

なぜ太平洋戦争をしたのか

.
①なぜ太平洋戦争をしたのか 
②資源が無い日本はどうすべきだったか

そもそも、この問題について、「資源」とは何か、というのが先に話題になった。

資源=石油、石炭、鉄鉱石、天然ガスなど


で、その石油だの石炭だのが、入手できない。
国際連盟を脱退したから、制裁を受けて、他の国が売ってくれない。


では、当時の日本人はどう知恵を巡らせていたのか・・・。

ひとつの答え⇒ 木炭で、バスを走らせていた。


これが、衝撃だったようです。
実際に、木炭で走るバスを写真で見せたら、「うわー、本当なんだーっ」だって。
資源の無い日本が木炭でバスを走らせていた、というのがオドロキだったようだ。
木炭で走るなら、今でも走らせればいいじゃん。
そうそう、石油を買わなくても済むよネ。

いや、それはそうだけど・・・木炭バスは、すぐに停止したり、エンジンが安定しなかったり、馬力もなかったみたいだよ。

ふーん。



以下、子どもたちの回答。
①なぜ太平洋戦争をしたのか
①日清戦争、日露戦争で勝ち続けたので気持ちが良くなってしまい、自分たちがもし負けたらどうなるかということを考えようとしなかったから。

①負けたらどうなるかを考えると、みんなが戦争に協力しなくなってしまう。そうすると国の資源が無くなって困ると思った人たちが、他の人に戦争のマイナス面を考えさせないで、戦争を進めていった。

②資源が無い日本はどうすべきだったか

②資源がある国からもらったり買ったりすればいい。物と物で交換してもいいし、日本で作っているもので、相手が欲しいものをあげて、日本に資源を下さい、と言えばよかった。

②国の予算の多くを軍事費についやすくらいなら、そのお金でよいものをつくって、欲しいという外国に売り、それで資源を買えばよかった。

②日本は他の国と協力しないで国際連盟を脱退して、資源を売ってもらえなくなった。そのため他の地域の資源を奪おうとしたけど、人を殺すくらいなら、コツコツ資源の代わりになるものを見つけるとか発明するとか努力したらよかった。


子どもたちの反応はいろいろあって面白いが、時間があったら

「なぜ、勝ち続けると気持ちが良くなって、負けることを考えなくなるのか」


というテーマを、追究したい、と思った。

3学期、忙しいさなかで次の単元へ進まなければならないので、もうこれ以上、時間がかけられない。
結局、子どもたちに投げかけただけで、次へ進んでしまった。

しかし、投げかけた言葉をちゃんと拾っている子どもも、クラスの中には少ないけど居るもので、

「勝たないと幸せにならないと思っていたから」

と、次の日の日記に書いてきたのは、面白かった。


言葉をひっくり返してみると、「勝ったから幸福になれる」と思いこんでいた、ということになるからネ。(本当はそうとは限らないのにネ)

雪の細道

「やらない勇気」が語られない件

.
イランの国家転覆がアメリカの策略だったことがNHKスペシャルで堂々と放映されていた。(※NHKスペシャル 新・映像の世紀「第4集 世界は秘密と嘘(うそ)に覆われた」)

わたしは、NHKの番組を社会の授業で、かなり扱っている。
どんな番組で、どんな放映がされていて、どんな情報が流されたか。
そして、そのことと、今学習していることを関連付けて、意見を言いなさい、と。

(ただし、子どもたちのテレビ離れは、かつてないほどだ。我々が8時だヨ!全員集合、を見ていた時代とは、子どもたちのテレビに対する意識まったく異なっている。テレビは、時間が余った場合の、残った方の選択肢、になっている。)

太平洋戦争が、なぜ行われたのか。
勝てる想定が、最後まで喧伝されていて、負けるリスクはなぜ、語られないままだったのか。
なぜ、「景気のいい話」を耳障り良く感じるのか。
逆に、「威勢の良くない話」はなぜ、意気地なしの、弱弱しい意見のように聞こえてくるのか。

戦争を、「やらない勇気」については、語られることがなかったのだろうか。

こういう話を子どもたちと追究していると、
人を操作する
ということについて、子どもたちなりに、考えていくようになる。

長崎がローマ領になったとき、キリシタン大名に銃を少しづつたくさん与えて、一度に返済を迫った宣教師のやり口に子どもたちは驚いていたが、そこらへんから、

「人や政治を操作する」

ということについて、なんとなく子どもたちが敏感になってきたように思う。

また、イギリスをはじめとした列強が清をアヘン漬けにして亡国化したことや、アメリカ大陸の先住民に対する侵略、不平等条約なども、人や国家を操作しようとする力が働いた結果。

こういうことが教科書に載っているので、子どもたちがいちいち、ひっかかっている。
あまりにも、自分たちの置かれている今の状況とちがうので、にわかには信じがたい、という感じか。
イギリスでは18、19世紀、貧乏人の子どもは炭鉱の中でほぼ奴隷のような扱いを受けて働かされていた、ということも、ほとんどの児童が、それを「信じがたい事実」として受け取っていたように思う。先生、本当?と訊き返した子がいたからネ。

今回の、

「イランの国家転覆がアメリカの策略だった」

ということも、人を操作する、ということにつながる事例だから、もしこれを見た子がいたら、おそらく何かを考えるだろう。

番組では、スターリンやFBIがスパイ合戦を繰り広げ、赤狩りでハリウッドの俳優たちが軒並み魔女裁判にあったこと、KGBによる粛清で強制労働が行われたことなど、人を恐怖で支配しようとしたことがこれでもかと強調されていた。

また、イランの政権打倒が米国のスパイ活動によってあっけなく成功し、親米のパーレビ国王が政権をにぎったこと、米国の石油企業が利権にありついたこと、しかしその後、主権を無くしたことに気付いたイラン人による革命(イラン革命)で一気に情勢が変わったことなどが紹介されていた。

人から操作される、
人を操作する。


どちらも、考えていくテーマ。



広島の原爆や終戦、沖縄が占領されたことなど、このところずっと、歴史学習は重いテーマが続いていた。

単元の最後の方で、子どもが

「殺された話ばかりだけど、殺した話もあると思う」

と感想に書いていたけど、するどいな、と思った。

教科書には、殺された話が多いけど、戦争でもなんでも、物事には二面性あるから、殺した方の話もあるだろう、というのである。




子どもは、真剣に生きようと思っているものである。
一生を大事にしよう、という思いは、大人以上のものがあると思う。
だから、
〇人を操作したり
〇人から操作されたり
ということにも、敏感なのだろうと思う。



こういう子どもの姿をみたときは、正直、

この子たちはすごい

と思う。

教員の仕事の、一番いいところは、子どものすごさを、目の当たりにできることだネ。

足跡5


(※NHKスペシャル 新・映像の世紀「第4集 世界は秘密と嘘(うそ)に覆われた」)
2016年1月24日(日)午後9時00分~午後9時49分
2016年1月27日(水)午前2時20分~午前3時10分
2016年2月5日(金)午前1時30分~午前2時20分

いちばん面白かった授業 その4(おわり)

.
よく、クラス全員、だれとでも話をして良いですよ、ということをする。

すると、みんな、お互いにあれこれと相談しあうことになる。

たとえば、まず仲の良い子に自分の考えを言いに行き、一応念のために男子にも女子にも話を聞いて、最後に隣の子と情報交換をして・・・



こういうことをするのは、クラス全体に大きな疑問が出てきたときで、考えやアイデアの多様性が予測される時。

いろんな意見が出て、考察していく場合に、もっとも効果的だと感じている。

今回も、MくんとSさんが相次いで出てきた後、子どもたちどうし、誰でも話し合っていいことにした。

P1172019


さて・・・つづき。
続きを読む

いちばん面白かった授業 その3

いよいよ卒業間近。
クラスの雰囲気は、さらにしっとり。
一日一日を、惜しみながら送っている感じ。

昨日、一人の子が、咳をしていて、途中で早めに帰宅することになった。
熱はないものの、しんどいし、おなかも痛い、というので。
保健室の先生から、
「ベッドで休ませています。これから帰宅させますね」
と連絡が入る。

すると、別の子が準備してくれた。
昼休み、遊びに行く約束をしていた子が、それをわざわざキャンセルしてまで。
自分が保健室へ、ランドセルなどの荷物を届けに行く、と。
友達がすぐに下校できるように。
別のもう一人が、明日の時間割の連絡など、メモ書きしたものを用意してくれている。
保健室で休んでいる子は、すぐに友達が動いてくれて、ホッとしているだろう。


 ↑ こんなことくらい、6年生ともなれば当たり前だという人もいる。

だけど、やっぱり、友達を慮る気持ちが、なんとも言えず、味わい深い。
お互いの間柄を、もう一度、確認しあっているような気がして、なんだか子どもたちがみんな、頼もしく見えてくる。


愛知県にも雪が降った日


さて、前回からのつづき。続きを読む

いちばん面白かった授業 その2

.
事実をみていくって、すごいむずかしい。

と、子どもの感想。

その後、面白かったのは、それを聞いた別の子が、

「いや、むずかしくないよ。そっちのほうが簡単なんだよ」

と言ったこと。

さらに楽しいのは、その返答をきいた本人が、思い直して、

「ああ、そう、そう。結局は簡単なんだけど、最初、すげえ難しかった」

ちょっと、わくわくする場面だった。





さて、今年度も、あとわずか。

一昨年の1年生の担任も楽しかったが、6年生は6年生になりに、楽しかったなー。

これで小生、1年から6年までどの学年も担任したことになります。
どの学年が一番好き?と聞かれたことがあるけど、ぜんぶ、いいネ。
どの学年も、その時代、その成長のタイミングで、元気いっぱいの姿がみられる。
どれがいい、とかは無いな~。

つるのある植物


事実とは?
これ、オモロイよね。
続きを読む
記事検索
メッセージ

名前
本文
月別アーカイブ
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 累計:

プロフィール

あらまそうかい

RSS
  • ライブドアブログ