30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2015年11月

ひとケアを中心とした学級経営~ウェル洋光台の記事を読んで~

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「ウェル洋光台」というシェアハウスがあって、インターネットで記事が読める。そこに、
「人間は本来、贈ることが大好き」という文があって、とても共感を覚えた。

オーナー代行の戸谷浩隆さんは、こう語る。

(なぜ現代社会では贈り合う社会が実現していないのかについて)
『人間って何だろう、ということを、知ろうとしないからだと思います。人は本来、争い合わず、縛り合わず、シンプルに愛しあっていたいだけだったんだと思うんです。人と共に暮らして、人を愛する、人本来のつながり方、そこが欠けてるんですよね。
学校で、社会を構成するためのいろんな概念や知恵を詰め込まれる。その知恵を、そのまま暮らしに持ち込んでやろうとしてるんじゃないかな。みんなで決めたことをみんなで守りましょうとか。でも、それは人本来の姿ではないんです。人の数だけ 個性があるから、暮らしはもっと自由でいいはず。』
---新間の感想---
↑ここでは、学校が名指しで批判されている。
学校での智恵が、本来の人間向きになっていない、ということだろうか。
学校は、いったいなにを目指しているのだろう。
そこを根源的に問われている。


(人間の本来の姿について)
『人類は7〜8万年もの間、狩猟採取で生きていたわけです。彼らはお金ってものがないから貯めることをしない。ちょっと仕事をして、あとは寝たり、歌ったり。贈り合うことが大好きで、争いを好まず、心から安心して暮らしていた。そうした贈り合うこと、安心して暮らすことが人間の本来の姿だと』
---新間の感想---
↑安心して暮らすことが本来の姿、とあ る。これはそのまま、目指す理想の学級の姿に完全に合致する。
現代教育の最大の問題とされる、いじめの問題、差別感情、学級崩壊、親子間や家庭の問題に至るまで、すべてこの「安心して暮らせるかどうか」という観点が見失われているのが原因だ。

さて、こんなシェアハウスがあるならば、それこそ『道徳』の授業に役立つと思われる。戸谷さんの記事の中に、掃除に関する場面があって、そこには「なぜかきれいになってる」というような箇所がある。ここはまさに、道徳の授業として扱い、子どもたちに討論させるべきではないだろうか。
『例えば掃除をするという行為を贈りたい人が贈ればいい 。ルールや役割はないんです。でも、きれいになっている。』
---新間の感想---
↑これは学級と同じだ。学校には掃除の時間があるが、掃除の時間以外にも、子どもたちが自発的に「教室をきれいに」するために動くことがある。別にとりたてて頼まれたわけでもなく、指導されたからというのでもなく、落ちていたものを拾う、だれのか確認して渡してあげる、ずれていたファイル立てを手をのばして少し動かして整頓する、授業の開始時間に自分の机の向きを黒板に向けて直すなど、子どもたちは自発的に整えようとする。
校内をすみずみまできれいにするタイミングを設けるために、学校全体でのそうじ時間を確保している、ということはあるけれど、現実には子どもたちが自発的に行っている ことで美しさが保たれている。

さて、今おそろしいことを考えてみた。
このウェル洋光台と、真逆のことをやっていると、人間らしさをどんどんと失って、ギスギスとした、『ぜったいに安心して住めない』社会ができあがるのではないだろうか。
たとえば、学校も、そうなっていくのでは。。。

真逆の実験をやってみると、分かるかも・・・。

掃除はだれもやりたくない、という前提で、掃除の時間枠に強圧的に行わせること。ルールを決めて人を役割に当てはめること。行動しない場合は罰を与えること。

○給食は各自が個人的に食べること。みんなで分け合って食べる雰囲気をなくし、配膳当番も「人間は本来やりたくない」という前提で進め ること。協力し合って配膳を全員で配り合う、ということを禁じ、自分の分を確保することだけを考えさせること。配膳当番は、成績の悪い者に罰として強制的に行わせること。

○授業は絶対権力者の教師に気に入られることを子どもたちの精神活動の主として進めること。権力におもねることを刷り込み、「先生に気に入られると得をする」ことを前提にして生きるようにさせること。

当番活動をフォローし合うことを禁じ、もし仮に体調その他、自己都合で代わったもらったりした場合はペナルティとして「仕事」をさせること。

○学校生活にポイント制を導入し、ポイントをとったもののみに、特典が与えられる仕組みをつくること。ポイントの多寡が、人間生活の行動に影響するよ うに「飼い慣らす」こと。ポイントの取得が大きな目的になるように動機づけること。


この繰り返しで、どんな子ども集団ができあがるか。
実際に実験などするのは人権的に問題があるからできないけれど、想像しただけで恐ろしい・・・。
というわけで、「ウェル洋光台」のシンプルな事実にならって、上記とは真逆の、人本来のつながり方をする、ひとのケア、ひと同士のケアにこそ力点を置く、このことで学級経営をしていくとどうなるか。
引き続き、検証していきたい。

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いわゆる、勝ち負け感 について

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負けることに我慢ならない時がある。

子どもの頃、姉とおやつの取り合いで、じゃんけんに負けると、本当に頭がおかしくなるくらいに口惜(くや)しくなった。

たとえば、「かっぱえびせん」。
ひと袋を半分に分ける。
慎重に、均等に分けたあと、さらにじゃんけんをして決めた。
ほんの数グラムの違いだったろうが、敵の方が多いと見積もると、悔しくてくやしくて、自分のじゃんけんの弱さを嘆いたものだ。


負けた、となると、どうしてああも、悔しくなるのだろうか。
あの、全否定された感覚。
人生そのものから、拒否されたような感覚。

あたかも、
「お前には、勝たせないよ~だ」と、
全能の神から、いじわるされた気分。

そして、絶望と、虚無感・・・。




なぜ、負けると、人間はこうも虚しさに包まれて、不足感に苛まされるのだろう?


相手が、勝った勝った、と喜ぶ姿を見るとなおさら、だ。
向うが得意げな顔になって、「してやったり」とほくそ笑む顔をみると、どうしてこうも胸がかきむしらられるほどに、せつなくて、くるしくて、さみしくなるのだろう?

こういうこと、なぜ?と考える人は、少ないかもネ。
しかし、人間である以上、なぜ?と考えていくのが、通常の神経だと思う。
だって、自分の中身が不思議な状態のまま、それをほっておくのって、勇気が要るでしょう。
自分の心のあり様をちっとも考えないまま、何年もほうっておく?


なんで、負けるとくやしいのか。


これ、子どもたちと考えたいねえ。




写真は、オリンピックのメダル(半分ずつ)。

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腰痛教師の正しい学校生活とは?

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腰痛を持っている教師は、かなり多いだろうと思われる。
教員の更衣室に行くと、いつもごみ箱の中に「湿布」が捨ててあります。
ジャージから着替えてるときに、たぶんペリペリと剥がしているんでしょう。

T先生は以前から腰痛持ちだし、
F先生は五十肩が良くならないと嘆いていたし、
まだ20代のはずのA先生も、先日校庭の重い朝礼台を運んでてグキッとやったらしく、整形に通っている。

つまり、腰痛その他、あちこちを痛めている先生は数多い、ということ。


そこで、わたしは悩める教員のための記事を提案したい。
以下の特集である。

・年末から卒業式までの繁忙期、この腰痛対策で乗り切る!
 教師にもできる腰痛対策、マッケンジー法で明日からあなたもチョークが持てる
・子どもにばれない、腰痛コルセットの選び方。
 ジャージの腰回りに要注意。不自然な凹凸をなくすための裏ワザ特集。
・子どもがとびかかってきた!あなたに必要な<とっさの動きTOP5>
 子どもから、ひらりと身をかわすための柔軟体操。
・腰痛教師にやさしい教室備品配置。
 「かがまないですべての教具をゲットする」
・腰痛先生のための赤鉛筆指導。
 「こうすれば直立したまま◎つけができる!」
・机間巡視のとちゅうに子どもの消しゴムが落ちた!
 ・・・ひろうか、ひろうまいか・・・。
 腰痛教師の場面別特集『正しい教室での姿勢保持』
・腰痛教師が集まるお店。名古屋地下街「鳥兆」は、大将囲んでの腰痛談義で盛り上がる!


教師+腰痛。

だれか、月刊腰痛マガジン、知りません?

月刊腰痛




世界の紛争地域調べ学習で困惑

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教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)の全部を改正する。
 我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
 ここに、我々は、日本国憲法 の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

私はこの基本法を毎朝必ず3べん復唱してから出勤しているのだが、どうもこの、世界の平和に貢献する、というところが、まだ分からない。

あと、難しいのは、個人の尊厳を重んじ、というところ。
個人とはなにか、尊厳とは何か。
それを重んじるとは、いったいどんな心的態度のことをさすのだろう。

さらに!
一番むずかしいのは、なんといっても、
新しい文化の創造、という箇所であり、これまでの文化を、決定的に明確に超えるものを新たに生み出せ、というのだから、本当に今の授業や学校での文化創造がいかにまだまだ未成熟のものであるか、痛切に反省せざるを得ない。

今までと同じことをやっても、まったく「新しい文化の創造」にはまったく及ばない。
これを思うと、このすばらしい教育基本法が私たちに要求することの高さに驚愕するし、その理想の高さに思わず背中を凛と伸ばして、あまったれた自分を叱り続ける以外にない。

これまでの既成概念のままで良いはずがない!
甘ったれるな!!!


と叱られている気分だ。
叱らないでもいいですか、といいながら、自分は叱られているのだ。
この、人類の、「理想の高さ」から、気高い理想から、わたしは日々、叱られ続けている・・・。



さて、「世界の国しらべ」という学習をしているのですが、サッカーが好きでフランスを調べている子が、学校のすばらしいパソコン室で、調べれば調べるほど、テロのニュースばかり出てくるので困惑しています。

「先生、フランス調べてたら、テロのことしか出てこないけど、それ発表していいの?」

来週あたり、調べたことをお互いに発表しあう、という予告をしていますので、心配になった子がわたしに言いに来ました。

まさかこんなことになるとは思ってもいませんから、今回の学習では、フランスだけは調べるのをよしましょう、ということができない。
あと、社会の教科書に、日本と関連の深い国々を調べましょう、という単元があり、そこでは日本と縁が深いということで、サウジアラビアという国が掲載されていて、ぜひ調べるように、という流れになっている。
まあ、毎日、両国の間でお互いに巨大タンカーが行ったり来たりしているのだから、この国の選択は妥当なのでしょう。経済的にもがっちり結びついている国なのだから。


ところがサウジを調べている子も、

「先生、シリア内線(?)ってなに?」
「え、いきなり。なんで?」
「だって、サウジアラビアのこと調べてたら、イエメンの内戦がどうとか、シリアの内戦がどうとか・・・」

もう、目が点です。

要するに、なんでこんなに紛争ばかりしてんのか、ということが、子どもたちの調べ学習になっちまうのです。

教科書会社は、こうなるのを分かってサウジを選んでるのか??
「世界の国しらべ」の学習は、やりにくくてしょうがない。


教育基本法の理想の高さからすると、このような『世界の国の調べ学習』はどのように進めていくのが正しいのだろうか。
シリアがどうとか、テロがどう、ISISが、アメリカが、ミサイルの値段が、など、そんな古臭い旧態依然とした活動を学習するのではないことは明白だから・・・。


うーむ。
これから先の時代、先生たちを悩ませる問題は、たぶんこれだろう。

「世界の紛争と日本の関わりをどう学習させるか」


写真は、EU本部。
EU本部

人生の方から、やってくる。

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子どもも、大人も、いっしょ。
人生は、等しく、同じようにある。
同じスピードで、同じように、時はきざまれていく。

子どもが花を愛し、歩いているネコに興味を持つ。
大人も同じ。

てんとう虫がいたら、
「あ、テントウムシ!」と言うし、
うまい常夜鍋をおなか一杯食べたら、

「うまかった~」

というのも、いっしょ。
大人も子どもも、同じ『生』を生きている。


では、ちがう点はないのか。

ちがう点も、もちろんある。
経験値だ。
大人と子どもは、経験値が違う。

大人は子どもよりも、ずっと先を進んでいる、という感じがありますね。

ところが、
教師を続けていると、大人の経験など、まるでたいしたことがない、と感じるようになる。
子どもも大人も、まるで同じだ、という思いの方が、ますます、一方的に強まっていく。




子どもは、人生というのは、向うからやってくるものだ、と思っているのではないか?

まるでゲームのように。

ほら、あるでしょう。
ゲームセンターなんかで、道路が向うからつぎつぎと風景を変えながらやってくるサーキットゲームが。

運転席に乗り込むんだけど、その運転席が前に動くわけではない。
ゲームセンターの隅の壁際に、いつまでも停まっているわけ。
前に進んでいると思うのは、乗り込んだ人だけ。

マシンの横から客観的にその姿を見ている人からすると、

「あ、あの椅子に腰掛けた人、いそがしくハンドルを動かしているな」と見えるゲームね。

あー。

そうそう。そのゲームですよ。
思い出しました?

カーレース
 (↑ これはちょっと古いかな)

こんな感じかもしれない。
子どもの感じ方って。

子どもからすると、自分が進んでいるんじゃなくて、人生が向うからやってくる。


ところが、大人はちがう。
自分が切り開いて、進んできた、と思っている。
自分が選択して、道を選んで、さらにはからまった茨(いばら)や蔦(つた)の葉をよけながら、大きな石を避けながら、小川を飛び越えながら、自分こそが進んできた、という感覚がある。

だから、これからもずっと、前に進まなきゃいけない、と感じている。
次も、乗り越えていかなきゃ、よけていかなきゃ、と思っている。


そして、子どもに言う。

「人生と言うのは、イバラの道だ。四方八方に気を配って、怠りのないよう、勇気を出して進んでいくんだぞ」

 ↑ こう思っているから、それこそ大人ってのは、毎日大変な思いをして生きているわけ。



また、世の中の一方では、進むべき道が分からない、と悩んでいる人もいる。
自分には、やるべきことがわからない、いい道がない、どの道を進めばいいのか分からない、という。
そして、

「自分は停まっちゃった」

と思って、嘆いたり、みんなと比べて引け目を感じたり、する。



安心してください。

子どもは世界が違います。
人生の方が、向うからこちらに向かって、どんどんとやってくる。
進もうとしなくても、道に合わせてハンドルを動かしていけばいい。
ずーっと右に向かってハンドルを切ってみたり、ずーっと左に向かってハンドルを切ってみたり。
ただ、それだけ。


えーッ??
だったら、だったら、人生の意味は?
生きていくために必要な、生きる理由とは?




↑ ほらほら。
大人は、そこに「意味」や「理由」を探そうとするけど・・・。



1年生に、
「なんで生きてるの?」
と聞いてみると、かなりの確率で、哲学的な回答をするよ。
彼らには、理由が要らないのでしょうナ・・・。



姉妹学級で仲良くしている1年生の回答を、参考までに。

「なんで生きてるの?」

「えー・・・」
「生まれてきたからー」
「たのしいからー」

「なにがたのしいの」
「えー・・・」
「ぜんぶー」

大人のように、

なにか経験すると楽しい、

というのではないよ。
経験する前から、楽しい。

なにが楽しい、ということもなく、なにもないのに、最初から楽しい。
それが人間の世界。

人は何かをするために生まれてきたのではない。

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充実感や達成感を得るために生まれてきたのでもない。

そもそも、何か事がらを進めたり、達成したものを得るために生まれてきたのではない。

では、なんのため?


人生は、
何かをしてはいけない、というのではない。
しかし、何かをするため、ではない。

では、なんのため?




なんのため?と、問いたくなるのは、なぜか。


われわれ大人は、
社会からの「要求」には必死で応えようとする。
人生からの「問いかけ」には耳を貸さない。
だから、常に、
強い緊張感と切迫感、焦りを感じながら、生きている。



「要求」には関心が無く、
「問いかけ」には真摯に向き合う、というのが、子ども。
だから、真剣に遊んでいる。


毎日すれ違う一年生が、いかにも幸福そうに雲を見上げながら歩いていくのを見てると、

教師も時折、こうやって人生を考えるようになる。
自分は、たった一度の「人生」から、なにを問いかけられているのだろうか。


ひとの人生は、社会よりも価値が高い。
それぞれの人生の価値が高まると、結果として、社会全体の価値が高まる。

人生の価値は、「なにをしたか」ではない。
「なにをして過ごしたか」でもない。
「どこで過ごしたか」でもなく、
「だれと過ごしたか」でもない。
そこには、なにもない。



@黄色い花に霜

坂本龍馬の授業がいよいよ!

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少し出遅れた感のある、わがクラスの社会科授業。

今頃、どの学校も、6年生は明治維新を終えているだろう。

うちは、修学旅行を間に挟んで公民分野の勉強をしていたため、ちょいと遅れてます。

で、『坂本龍馬』。

きました。ついに・・・。



司馬遼太郎の世界観をたっぷり味わってきた今の50代、40代の教師は、もう「竜馬がいく」が血肉に沁みこんでいるので、「竜馬」というだけで、なんだか血が騒ぐ。

NHKの大河ドラマで福山雅治が演じていたね。
やっぱり龍馬はすごい、というなんとも消しようのない刷り込みが、脳髄の奥まで浸透している。それが、昭和に青春を送った我々の世代の特徴です。

で、ついに明日、坂本龍馬の授業です!
(↑ 何度も言うな)

縄文時代の名もなき人々の授業も興奮するものがあるけど、坂本龍馬はまた別の意味で興奮する。

司馬遼太郎!
明治維新!
男の血が騒ぐ!
政治権力を握る奴らの強権的横暴さを駆逐していく、という構図がなんともゾクゾクする。
これはご婦人方には分からないでしょうなあ。



さて、どんな授業になるだろうか。



以下、引用。

「長州が勝っちょりますな。」
「いや、長州が勝っちょるのじゃない。町人と百姓が侍に勝っちょるんじゃ。」


そのことに竜馬は身ぶるいするほどの感動をおぼえた。
たったいま、竜馬の眼前で、平民が、ながいあいだ支配階級であった武士を追い散らしているのである。
革命はきっと成る。
という意味の感動と自信が、竜馬の胸をひたしはじめた。

「万民一階級」
というのが、竜馬の革命理念であった。

「アメリカでは大統領が世襲ではない。」ということがかつての竜馬を仰天させ、

「その大統領が下女の暮らしを心配し、下女の暮らしを楽にさせぬ大統領は次の選挙で落とされる。」

という海外のはなしが、竜馬の心に徳川幕府顛覆の火を点ぜしめた。



坂本龍馬

「体と健康を守る」は賛同を得やすい件

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「体と健康を守るため」

という大義名分は、おそらく普遍(ふへん)でしょう。

どんな意識で生きている人でも、王様であっても、我々のような下々の庶民でも、みんな同じだろう。
大会社の経営者であっても、上場間際の起業家であっても、みんな同じ。
田舎の爺様でも、都会のハイティーンでも、みんな同じ。

おそらく、地域や年齢、身分家柄、その他、どんな分類に属する人もほぼ総括できるのが、

「体と健康を守るため」

という大義ではないだろうか、と思う。



すると、おそらく、これが突破口になりやすいかもね。
人類の、いわゆる「分け隔て」をなくす。



昨日、息子に

「10時には寝ようぜ」

という話をした。

その時、「体と健康を守る」という話を中心にした。

すると息子も案外と、「それは大事だ」 となるのである。




携帯スマホで、深夜遅くまで、友達とやりとりをして、朝起きれない。

こういう相談があって、高学年の先生たちで

「ルールは家で決めてもらわないと」
「いや、学校がそこは主導していく形が」
「10時以後はスマホ禁止、という最低規準を決めて・・・」


うんぬんと相談していますが、おそらく
◎本校のスマホルール
夜10時以後は、スマホは使用禁止とする

こういうのを定めただけでは、あまり効果は無いだろうという気がする。
ところが、

なぜ、10時という線を、大人は定めようと思うのか
 ↓
成長期の子どもの、身体と健康を守るため


このあたりを、子どもたちといっしょに考えてからだと、案外子どもたちは、それを守るのではないか。




放射能の問題も、

「体と健康を守るため」

という話し合いができれば、まったく問題なく、すぐにさまざまな知恵が出て、社会全体の対応になると思うけど、そうならないのは、おそらく

「放射能は健康を害しない」

という、真逆の言説があるからでしょう。
それは、同じ土俵にのってしまえば、どうしたって、

「健康を守る」方が、側が、勝つからでありましょうな。

49 - コピー

保護者の、「学校に対する思い」をきく

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「お母さんがしっかりしないから、お子さんが学校でこうなるんですよ」

というの、たまに聞きますね。

これを、『母親責任説』と言います。

『母親責任説』は、現代ではすでに解消され、歴史の足音と共に人類はここから卒業しつつあります。

この『母親責任説』を語る方に、わたしはゆっくりとこう説明する。

「そういう母親を育てた人がいるんで、元凶がいるんだとしたら、その母親を育てた周囲の人でしょうね。ま、結局は、この社会全体が悪いんでしょうな」

するとさっきまで、いきり立って母親のせいだと豪語していた方は、即座に黙ってしまいます。


さて、お母さん自身も、振り返れば学校と言う空間で、長期にわたって教育を受けてきたわけです。もし、その国家的教育が成功しているとするなら、現状の

「お母さんがしっかりしないから・・・」というのは成り立たなかったはずです。

いわば、世間的にいう「しっかりしたお母さん」という姿に、どの人も成長しているはずなので・・・。



さて、お母さんのせいにはできません。

お母さんの話を、親身になって聞いてあげて、丸抱えで否定せずに受けている、という人がいるだろうか。

学校にそういう人がいない限り、学校とお母さんの距離は縮まらないし、解決はないでしょうね。

で、お母さんも、学校のせいにしない。
お互いに、責任の追及をしないのです。(←こういうことできる人は貴重)

たがいに、どこに責任があるのか、と考えていく道をたどらない解決の仕方。


それを進めているのであれば、

「お母さんがしっかりしないから、お子さんが学校でこうなるんですよ」

という前近代的なセリフが、いかにおかしなものか、みんな分かると思う。



保護者も子ども同様、さまざまな背景を持っている。
保護者が子ども時代にどのような学校生活を送ってきたか。
それが、子どもと先生との関係に実に深くかかわっている。

教師の多くは、おそらく学校自体にプラスの思いや体験を持っているのだと思う。
だから、学校という職場を選んだのだろうし、そこでの仕事に従事しているのだろう。
ところが、保護者は必ずしも、そうではない。

マイナスの体験の持ち主も、いるのだろう。それが当然だ。

「いじめにあった」「不登校体験をした」「先生からの差別があった」

小学校の頃の、お母さん自身の思い出を聞けば、そうしたことだって、あるのだろうと思う。



そうした場合、教師と保護者との関係は、おそらく、地下100mくらいからのスタートになる。

そのままズブズブと沈んでいくのか、どうか。
なにかきっかけがあり、相互の理解が深まり、互いの意見のよさも聞き合うことができると、ようやく0m地点に浮上してくるのだろう。

地上に教師とお母さんが浮上してきたとき。
このとき、おそらく、子どもの「いわゆる問題行動」も、相当に変質し、解消できているでしょう。



教師は、子どもを通して、お母さん自身に関わっていく。

お母さんに、連絡帳を通して、話しかけていくときがある。
お母さんの子どもへの「関わりのよさ」を、互いに喜び合おうとして、働きかけていく。そして、お母さん自身に、少しでもプラスの学校体験をしてもらおう、という思いで接するのである。

お母さんが、学校のプラス体験を獲得しなおすこと。
そこを、考えると・・・

「お母さんがしっかりしないから、お子さんが学校でこうなるんですよ!」

このセリフが、いかに的外れなアプローチなのか、いかに論点がずれているのか、傷口に沁みるように理解できるはず。


32

ゴマンといる「先生」のことなど

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今日はたまたま岡崎駅まで出て、(めったにいかない)あちこち用事を済ませて回った。

駅前を歩いていると、「先生!」という大きな声がする。

わたしは、どうしたと思いますか。

こういうとき、わたしは呼吸を整えてから、ゆっくりとそっちを見るのですよ。
なぜなら、わたしの顔を覚えている人が、市内には幾人もいて、中にはこちらが完全に失念してしまっている方もいるから、呼吸でも整えてからでないと顔を見る勇気が出ないのです。

わたしはびくっとしてから、諦念に心を染め、えいや!と声の方を見た。

すると


なーんだ。

おれじゃあ、なかった。


視線の先には、年配の女性に向かって、興奮気味に話しかける若者の姿が。
おそらく、女性は学校の先生だろう。
若者がしきりと、「先生!本当なんですよ、それで・・・」と話しかけている。

わたしは肩をすくめて去ろうとしたら、なんだか最後に

「お教室の方でも・・・ちがう場所でも先生のお話を・・・」

みたいなことが聞こえてくる。
どうやら、この年配の女性は、カルチャーセンターのようなところの先生らしい。華道か、茶道か、なんだろうか。ピアノの先生、ということもあり得る。


「先生」と呼ばれるような大人は、担任の教師以外にも複数いるのだ。
塾の先生、ピアノの先生、バレエの先生、水泳の先生、サッカーのコーチ・・・。

子どもにとっても、一人ひとりの「先生」との関わりは、どうしても「薄味」になってこざるを得ない。
どこもかしこも先生だらけの現代社会では、それも当然のことなのだろう。


「先生」と呼ばれているからといって、なにかそのままで敬愛されたり、感謝されたりするわけではもちろんないよね。

子どもの心に、元気や意欲を与える、というのが、本当の先生に求められることだ。

子どもが元気になる、意欲が増す。
その素になる要素は何だろうか。

わたしはそれが、「安心」だと思う。

認められている、という安心。

言い換えると、

「先生は、わたしのことで、困ったりしない」

ということ。

自分のことで顔をしかめたり、考え込んだり、悩んだり、つらくなったり、心配したり、余計なエネルギーを消費したりしないで、わたしのことをひそかに気にかけながらも、安心してくれている先生。

先生が、わたしのことでは、いつも安心してくれている。
それが、子どもに元気をくれる先生の、心のありよう。


心配する人でなく。
安心する人。

自分を安心してくれている人の存在が、大きいのではないか。

仲直り




担任どうしの仲が良いとなぜ子どもは素直になるのか

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すでに言い古されているが、なかなかその真髄が見えてこない感のある現象。

1組の先生と2組の先生と3組の先生。
この3人の人間関係が、そのまま実は、子どもたちの心の成長に結びついていることが、なんだか分かるようでわからない。

「そうなんだよねー」
「大きいよね」
「つながってるよね」


という人は多い。

でも、なぜなのか、なぜそうなるのか、と言おうとする人は少ないように思う。
それも、自分の言葉で、となると、滅多にいない。


ただ、仲が良い、というだけでも、その中味もいろいろある。
単にお互いに強く遠慮しあっているだけとか、表面上でうまくいっているように見えるだけの場合もあるから難しい。

その3人の担任どうしが、本当の意味で信頼しあっていると、子どもたちはぐんと成長する。
イベントで成長するのは、おそらく担任が信頼しあっている場合だけ、といえるかもしれない。
先生どうしがお互いを悪く思い合うような場合、子どもたちは何も成長しない。

『信頼』、という言葉のイメージや意味も、人によってかなり違うから、これもまた難しい。

ただ単に、信頼しています、という場合、本当に信頼していることはごく少ないように思われる。
一万年たっても信頼がぜったいに崩れない、という場合と、明日にでも揺るぎそうな「信頼」とでは、その中身や質が違うから。

こういうと、多くの人は

「一万年も、そんなの無理」

という。


だから、今の世の中は「不信感」が蔓延している。
「安心」という言葉の本当の意味は、あまり機能していないのが、現代社会。
ここ2000年くらいの間、「安心」という言葉は(本当には)機能していない。幻(まぼろし)の単語。

では、なぜ、一万年の信頼、ができないのか。


ああ、そうかも。
たぶん、人間ってこういうもの、という前提から違うんだろう。

隣の先生のそばをすする音が気に食わない。
 ↑
これを「反省」してるから、ダメなのだろう。

今の道徳教育は、他を悪く思う気持ちを「反省」させるのがよい、としていることが、根幹からの間違いかもしれんね。よくある、問題の前提からの間違い、というやつ。「反省すれば良くなる」というのが、根拠のない思い込みだとしたら・・・。

(これが、なぜ現在の道徳教育でいじめが無くならないか、ということへの私なりの考察です。)

5

マイケルくんのハロウィン

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思い出すのは、教員になりたての頃のこと。

うちのクラスには、外国籍のマイケルくんがいた。

お母さん(イギリス人)が声をかけたらしい、ちょうど同じマンションにクラスの子が何人かいたから、いっしょにハロウィンをすることになる。

お母さんが心配したのは、ハロウィン自体がまだそれほど普及?してなかったこと。
子どもだけで夜、歩いているのがまずいだろう、ということになり、3家族ほど、お父さんたちも協力した。

結局、父親たちも仮装(といっても妙な帽子をかぶる程度)、子どもたちもなんとなく仮装した風になり、マンションのあちこちをまわって菓子をせしめ、ずいぶんと楽しかったようだ。

マイケルくんが日記にその様子を書いていたので、わたしは興味を持ち、ずいぶんとそのことで彼と会話した。

彼は、今回の企画は大成功だったといい、パパもカエル男になって、自分も「撃たれた一つ目の男」になれたし、皆も菓子がもらえて、とても良かった、と胸をなでおろしていた。

彼の「撃たれた一つ目の男」というのは、そういうような帽子を彼は持っていたので、叔父さんか誰かのお土産でもらったものを、いつか使える日がくると信じて待っていた宝物だった由。

マイケルくんにとっては、そのグロテスクな帽子が本国にしかないとても貴重なものであったらしく、自分のルーツを語る上で重要なアイテムでもあり、友達が家に遊びに来ると必ずその帽子をかぶって披露したそうである。

マイケルくんはとても冷静に日本のハロウィンを分析していて、

「日本のハロウィンは可愛い」

と言っていた。

わたしはこれが気に入って、休み時間になると、しばらくこの話題で彼と盛り上がっていた。
マイケルくんは成長が早いのか、まわりの日本人の子と比べると背が頭一つ分高く、体格もずいぶんしっかりしていた。その彼がいうには、本国の蝙蝠(コウモリ)は、もっと怖いそうで、蜘蛛(くも)もまた、魑魅魍魎といった風でとても不気味なデザインであるそうだ。ところが日本のハロウィンは完全に和風であり、コウモリも蜘蛛もかわいい目がついて、まるでお子ちゃまレベルであるらしい。

わたしはたまたま持っていた水木しげるのお化け図鑑を見せて、日本のお化けはこのような風だ、ということを説明した。
マイケルくんは長く日本で育った子なので、当然のように「ゲゲゲの鬼太郎」も知っており、

「ああ、水木しげるか」

と大人のようなニヒルな笑いを浮かべながら鬼太郎の本を手に取ると、

「こんなのはない」

ちょっと困惑したような瞳で、わたしに指して示したのが、「ぬりかべ」でありました。

彼のお気に入りのキャラは、ミイラ男だ。

ミイラ男は歴史的に見ても定番で、お化けで打線を組ませるとしたら3番打者くらいの実力があるが、ぬりかべや一反木綿のようなものは、どうみても7番以後がいいところ、本国のチームであればベンチ入りさえもむずかしい、というような話をした。

「だいたい、イッタンモメンは布に目があるところからして、え、それだけ、という感じ。ミイラ男はそれがぐるぐる巻きついていて、男はミイラだし、何千年も前に置き去りにされ、地下に埋められた怨念がある。ただの布じゃあ・・・」


彼は片頬を少し緩ませて鼻で笑い、イッタンモメンを指すと、

「これじゃあ、ちっともこわくない」



わたしはそもそも、日本のお化けは別に怖くないのだ、という話をした。

牡丹灯籠も四谷怪談も番町皿屋敷も、みんな故(ゆえ)あっての「やむにやまれぬ怨みごと」である。

同情を誘い、そりゃ、登場するときの音楽や、恨めしい、というセリフは怖いし鬼気迫るものがあるけれど、故のあることであれば、話を聞いた人もみんな、お菊に同情してきたのが日本の怪談なのである。

また、魑魅魍魎には地獄の思想が背後にあって、そこに閻魔大王という完全にできあがったキャラクターがいるので、ミイラ男もドラキュラもゾンビも宇宙人も、日本に来たらかすんでしまうのは無理のないことなのだ。

閻魔様の話をすると、通学路に閻魔堂があるからマイケルくんはそれをしっていて、

「閻魔はぜんぜん怖くない」

と言った。

たしかに、学区の途中にある、その閻魔堂には木彫りの閻魔様が安置されていて、その顔はいくらかいかめしいものの、実はそれほど怖くなく、どこか、そのへんにいるおじさん風に見える。

「たしかに。あれは怖くないな。本当は怖いはずだけどね」

わたしは苦し紛れに閻魔の擁護をしなければならなかった。


マイケルくんは、

「結局、日本のキャラはどれも怖くない」

と、半分馬鹿にしたように言い、わたしは苦し紛れに

「日本人は鬼太郎のお父さんが好きなんだ。あのくらいがちょうどいい」

といって、マイケルくんとその後も水木しげるの本をいくつかいっしょに読んだ。




マイケルくんはその後、工業高校に進んだ。

きっと、日本のハロウィンを馬鹿にしつつも、今頃高校の文化祭で、本国流の素敵なハロウィンをみんなに披露しているだろう。撃たれた一つ目の帽子かなにかをかぶって―――。

ミイラ男?

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