30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2015年10月

「やられたら、やり返せ」と教える件

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「やられたら、やり返せ」と教えるかどうか。

おうちの人が、子どもにそう教えている場合、なかなか激しいバトルが繰り広げられます。

こぶしでパンチ。

両者が傷ついて終わりますが、かなしいですネ。

教師や大人はこういうとき、大体、

「どっちが先に手を出したの!?」

と聞くけど、これは意味ない。

なぜなら、手を出す前に、すでに気持ちの上でのバトルがある場合がある。
なんとなく、ウマが合わない感じを持っていて、「好きじゃない」感をもってる場合。
あとはきっかけがあれば・・・という状態で何日か過ごしているから、
「にらんだ」とか「じゃました」とかで、バトルが起きる。
苦労して苦労して、担任が詳細を聞き取って調査しても、どちらが悪いとはなかなか決められないから、始末が悪い。


こぶしで解決。

↑ あまり賢い方法ではない。
でも、仕方ない、と考える人もいる。

「抵抗しないと、いいようにやられるから」

というのがその理由で、仕方ないし、やりたかないけど、抵抗しておいた方がいい、という。

「暴力はいけないし、負の連鎖を生むから、別の方法でやり返すのがいい」

という人もいる。



どっちにしても、「やられた、やってやる、やり返してパワーを見せつける」。
そういう発想と方法に頼っている。
それしか知らないし、そもそも本当の意味で解決した経験がないからだ。



過去、「やられたらやり返せ」ということを教えています、という親御さんに何人も会った。
保護者懇談で、堂々と意見を言って下さる方もいる。
しかし、私はそこに、「辛さ」を感じ取って、何とも言えない気持ちになる。
その方を、そういう状況に追い込んだありとあらゆる「迂闊さ」に対して。

あるとき、おうちの方が、
「わたしもいじめられたときがあって、なんとか見返してやろうと思って頑張れた」
ということを言うときがあった。

だから、いじめは〇〇だ、いじめられた経験は〇〇だ、という論議に私は興味が無い。
また、抵抗するのが正義だ、良いのだ、という論議にも、興味が無い。

そうではなくて、

いじめ、という言葉以前のことに、興味がわく。
抵抗、という言葉以前のことに、興味がわく。

「やられたら」という言葉以前のことに、興味がわく。
「やられた」という前提と、その意味が生じる前のことに興味がわく。


ところが、簡単に腹が立って、自分の気分を害し、「あいつに気分を害された」というセリフが当然になっている今の世の中の風潮の中では、なかなか考えの焦点が絞れない。

そこをえぐりなおすような、哲学が要るんだろうと思う。
自分と相手、という閉じた関係の「問題解決」ではなくってね。
知恵をつかう、哲学が。


自分と相手。
どこがちがうのか。
なにが同じなのか。


【教室の哲学を実践するために大切な5項目】
①なぐりかかった子に、自分について語らせるのに最適な場としての教室という空間。
②それも、クラスメート全員が、同時に自分自身について考えているという思考の流れがあること。
③あるいは、自分について考えることが、楽しい、という暗黙の了解
④自分を成長させるのは、自分だという前提
⑤クラス全員が考えていくことで、自分もクラスも良くなる、という実感


やはり、ここで大事になってくるのは、哲学ですぜ。

聖徳太子

「よいことだから」では動かない子を

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そもそも、人間と言うのは、どの程度、やる気に満ち溢れた存在なのだろうか。

子どもを見ていると、どんどん遊ぶ。
なんでも試して、振ってみたり、歩いてみたり、のぞいてみたり、たたいてみたり、噛んでみたり、いろいろする。

特に、幼児期の子どもはそうで、夢中になっている姿は本来の好奇心に満ち溢れたものだろう、という気がする。

ところが人間、そのまま成長していくことは、むずかしい。
なぜなら、小学校に入ると、

「この間、楽しくなかったから、もうやらない」

とか、

「あいつとはやりたくない」

とか、

いろいろと、思うこと、が出てくるからである。

さらに言うと、義務感、というものが邪魔をする。
こうしなけばいけない、という「きまり」や「さだめ」というものが頭の中にいっぱい増えてくるから、そうしたもので動く。
「こうした方がよい」という道徳感も多いよね。

するとどうなるか?
ある、重要な変化が生じるのだ。

つまり、

「つまらないなあ」


と、思うものなのである。

やらされてやるのは、なぜか、つまらない、と思うものなのだ。

ちょっと待てよ、なにか、おかしいぞ、と、神経の深いところで、何かが教えてくれているのかもしれない。
幼児期に体験してきた、あの、純粋な、いつまでやっていても飽きなかった、ごく集中していた、いわば「ゾーン」に入ったような、素の気持ち、素の楽しさはすっかり姿をひそめてしまい、

なんだか、けだるいような、はやくやめたいような、妙な気持ちになるのである。

だれかにほめてもらったり、評価してもらったりすると、また猶更である。
ほめてもらえる、と分かると頑張るが、それがないと、

「なんだか、つまらない」

のである。

そして、ざんねんなことにほとんどの場合、大人はある種の教育、つまり
「つまらない」とか「めんどう」と思うことを否定される教育を受けてきました。

だから、こじれていくと思うネ。

学校に蔓延する、

「よいこと、必要なことだからやる」

というの、これを吹っ切ることができたら、かなり雰囲気が変わるだろうなあ。
子どもも大人も、やることも、めざすことも、何に価値をおくかも、変わっていくだろう。

「やるのがよい」⇒だからやる
 ↑ この方程式で動かない、というの。

想像しにくいから誰も想像しないけど、想像してみる力のある人が一人でも二人でも、まずは想像していくことだろうか。

目的は子ども6

このままではまずい、について

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「このままではまずいと思うので、頑張りたい」

日記には、その子の思っていることの一部が見え隠れする。

単純に、がんばって〇〇できるようになりたい、ではないのです。

このままではまずいと思うので

が気になる。



今の社会は、『がんばって克服するのが大事、と思うことになっている文化』、なのでしょう。
だから、この文化で育つ子どもも、自然にそういう思考になる。

「できないと苦労する、苦労するからいけない
 〇〇してはいけない、〇〇しなければいけない
 今のままでいけない」


結局、今のままではいけないから、努力して克服する、と強く思うことが、
生きるモチベーション、ということになっている。
これは、教師など大人の側の常識。
みんな、克服、というモチベーションの持ち方以外に、意欲のわいた経験がない、ということかもしれない。教師にとっても、「人生は克服するのが大事」となってるのだから、子どももそうなる。

ただし、
問題が山積み⇒克服⇒達成感を感じる⇒問題を探す⇒(以下ループ)
これが人生ってことでOKなのか?


↑ これで死ぬ寸前に人生を振り返ったら、

「ああ、問題に対処してばかりだったなあ」

で終わりそうだ・・・。


克服するための音楽会、克服するための運動会、克服するための算数、克服するための読書、
克服する修学旅行、克服する跳び箱、克服する人間関係 ・・・


なぜ克服すべき、と思うのだろうか。
なぜ、この見方になっていくのだろうか。
そうとしか、見えてこないのは、なにかがおかしい?
スポーツだって、本来、克服するためのもの、ではないはずだが・・・。


そんなこといったって、いまだに人類は戦争をやっているじゃないか。
克服すべきことは、山のようにあるはずだ!だから『克服』!!

↑ 
人生の動機が「問題の克服」、となってる。「克服」しなきゃならん、というメンタルだから、克服できない、というパラドックス。

克服、という言葉を人類が使わないようになる世界を想像できれば(イマジン)、
問題は、そもそもまったく違うものになっていると思う。


目的は子ども5

町の幸福論―コミュニティデザインを考える 山崎亮

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国語の教科書に、「町の幸福論」という題材がある。
(6年生 東京書籍 平成27年度発行)

教科書に「幸福」なんていう言葉が、堂々と掲載されていることに、少し驚く。
今どき「幸福」などという言葉を、大人が使うだろうか?

身近な人に聞いてみると、

「宗教クサイ」

という反応が返ってきた。
もしかすると、この「幸福」という単語自体に、多くの大人は純粋でないものを嗅ぎとるのかもしれない。

しかし、これが大人でなく、未来を生きる子どもたちに聞いてみると、ごく普通に受け取る。
それはそうで、「幸福」という言葉に勝手にさまざまなイメージを塗りつけたり、ペイントしたり、飾り付けようとするのは大人だけで、子どもはそもそも、そんなふうには受け取らない。

大人は、すっかり疲れてしまっていて、あるいはこれまでの自分の人生で何度もこの言葉に裏切られたか、もしくは、この言葉の幻想的な雰囲気やお花畑的なものに、打ちのめされてきているのでしょう。
だから、この言葉がキライになっている大人が多いのだと思う。

傷ついた大人は、現実論を言いたがり、理想に燃える若者や子どもたちに「甘い」と言いたくなる。
これは古来から続く、人類の癖のようなもの。エジプトで見つかったパピルスにさえ、「今の若者はなっとらん」ということが書かれていたのは有名な話で、「現実は甘くない、人間社会は夢や理想では生きられんよ」と諭すのは老人の役目と決まっている。


さて、この本の著者は、すこぶる前向きである。

なぜなら、著者のよって立つ思想の根拠が、足元の事実だからである。
人間が、地域やコミュニティで、日常的にふだんから馴染んでいる行いのほとんどが、明るく前向きであるからだろう。そうした人々のふだんの、ごく普通の立居振舞や思想から、聞こえてくるのは前向きな歌であり、素のままの、嘘やいつわりのない気持ちであるからだろう。

愛する子どもを見ていると、この世の中がうまくいかないはずがない、という確信のようなものがある、と言う。
母親が強いのは、生きている子どもを愛していることに、天地神明にかけ、嘘がないからであろう。
宇宙は美しく、自然界は慈愛に満ちていて、人も本来、やさしさで生きる動物なのだろうと思う。

小学校6年生に、このような思考をことさらに促さなくても、彼らは本来のセンスで知っているようだ。

教科書にもどろう。
ここで著者のいうデザインとは、「社会の問題を解決するために振りかざす美的な力」のこと。
日本が抱えているコミュニティや人間の課題は、今後、世界中で顕著になる課題である。その課題をひとつひとつ、順に解決できるのであれば、これは世界に先んじたことになる。そこで培われたノウハウは、まさに10年後、20年後に世界中から求められるようになる。

こうした著者の説明文について、子どもはいかにもシンプルに反応する。
当然のように、理解する。
人と人とが支え合っているという事実については、素直に、「そうだね」と思うのだろう。
子どもが、今の世の中のおかしさや矛盾、人間の抱える無知や誤解について感じ取ることもある。先日の記事にあるように、つい先ごろの参議院での強行採決についても、おかしい、と憤るより、
「なにか、間違ってんだな」(頭の使い方が)
というような理解をしているように思う。
たとえ今の時代は愚かな部分があったとしても、自分たちは賢くやるぞ、という意識があるのだろうか。

著者が期待する、新しい発見や新しい考えというのは、地域の人々の「話し合いのまな板」から生まれてくる。
新説は、いつの時代も思いもかけない方法で表れる。
それらを否定していては、人類の進歩はなかったはず。
子どもは常に、
「新発見」や、「新説」に興味を示す。
自分たちの生きる時代に、それらが直結していくことを、身をもって感じ取っているからだろう。

授業のことについて言えば、今回の単元では、本単元を貫く言語活動として、「書く活動」を取り入れる。著者の意見やアイデアに響いた自分なりに選んだ言葉、内容と、自分自身が「町」について願っていること、そして自分にできることはなにか、という問い。
自分の意見文を書く前に、クラスで討論をしてもいいな、と考えている。
クラスの仲間の意見で参考になるもの、友達と似ているもの、似ていないもの、整理していくのが面白い。
また、反対意見というのではなしに、著者のいうように仲間の意見に「のっかっていく」姿勢、否定なしで聴く態度、これを実現していく学習にしたい。

そのためには、著者の言う、「話し合いのマナー、話し合いに必要な態度」であるところの、

否定はない。

Yes, and ・・・

とつなげていく文化。


↑ が、必要になってくるのだろう。

討論(?)ではなく、加論、とでもいうのか、この単元、これからの展開が楽しみだ。

目的は子ども4

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