30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2015年09月

叱れば叱るほど、叱る必要が増えるという逆説

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人という存在は、なぜそうなのか。

人は、なぜ、強圧的になって苦しむのか。
人はなぜ、奴隷になりあうのか。
人はなぜ、威圧し、威圧されることを嫌うのか。

本能なのか?
それとも学習したもの?

いや、大人は、自発的に服従することがある。
精神構造が複雑化して、自らを幻想的な何かに隷従させていこうとすることがある。

子どもはちがう。
シンプルな生き方の中に、誇りを失わない。


教育が逆説的になる10の現象

○威圧すればするほど、子どもは威圧に慣れてきてしまうので、先生が威圧を繰り返す必要が出てくる。(威圧するということを聞く。しかし威圧すると、言うことを聞かなくなる)

○おだてればおだてるほど、子どもはその手にはのるか、と思うようになるので、さらに巧妙におだてなければならない。(おだてると、言うことを聞く。しかしおだてると、言うことを聞かなくなる)

○操作すればするほど、心が硬くなるので、操作しづらくなる。
(操作すると言うことを聞く。しかし、操作すると、言うことを聞かなくなる)

○非難すればするほど、開き直るので、なびかなくなる。

○体罰すればするほど、体罰がなければ動けない子が育つ。

○立腹すればするほど、「立腹姿」を滑稽だと感じさせるようになる。

○命令すればするほど、子どもから、「もう十分に言うことをきいてあげたから、はい、あなたからの注文はこれで終わりね」と言われてしまう、いわゆる「大人からの命令の有効期限」が迫ってくる。

○大人が子どもに対して遠慮することで、子どもがのびのびと育つかと思いきや、こちらの願いが届きにくくなって、逆に子どもが安心できなくなり、のびのびした積極さがなくなる。

○刷り込めば、プログラミングした通りに考えて動いてくれるかと思いきや、思考が硬くなり、前のタグの修正を受け付けないし、消去できずに古いプログラムが残ることが多く、意図したプログラム通りに動かなくなる。

10○叱れば叱るほど、叱る必要が増える。

こうしたことを、心理学者の方は研究されているのだと思います。
(もしこれをお読みになっている心理学者の方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示ください)

人間関係が逆説的になっていくことを、専門用語ではなんというのか、言葉がありましたら、ぜひ教えてください。

目的は子ども3

子どものための〇〇会

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秋の音楽会も、つまるところは、子どものためでありましょう。

音楽会の成功、ということを考えるのは当然です。

ただし、その成功とはどんな中身をさすのだろう。

そもそも、音楽会を成功させるために、地域から子どもが集められているわけではない。

ここでいう成功とは、「子どものため」になった、という点において、成功した、ということになる。

では、「子どものため」とは、何をさしているのだろうか。

子どもの幸福のため?

いずれにしても、音楽会は、そのための、ある一つの「きっかけ」にすぎません。



ま、運動会も同じです。
「運動会のために」子どもがいるわけではない。
「子どものための」運動会です。

しかし、運動会が近づいてくると、緊張しておなかをこわす子もいたり、
校庭に、子どもをののしる怒声罵声が響いたりします。
大義名分として、「運動会を成功させなければならん」というのが持ち出されます。

結局、運動会のための子ども、というふうに、いつの間にか、なりやすいのです。



このように、人類がなんだかよく分かっていないのが、手段より目的にあたる方なのでしょう。

「子どもの幸福ってなんだ?」

というの、よく分かっていません。

大体、大人の幸福ってものさえ、よく分からないのです。

そのへんの大人は、分かったふりをしているだけです。

与党も野党も、幸福のために、議場で紙を奪い合って採決しようとしています。
お互いに、自分こそが「目的を正しく知っている」と思い込んでいるのでしょう。
しかしその実、手段に溺れているだけなのです。



それでも、救いはあります。
どの親も、子どもはかわいい。
つまり、子どもの幸福、というのは、だれに聞いても、だいたい、いい線をいっているような気がします。(見当がつかない、という人はいない、という意味で)
そこが、唯一の救いです。

子どもの幸福とは?
と、いつまでもどこまでも、
「わかった」とか言わずに、考え続けていく大人であることが、
子どもに接する大人の最低条件だと思っています。

目的は子ども1

自分の身体は、巷の情報より実感で。

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久しぶりに両親と話したら、以前やっていた〇〇健康法とか、やめてしまった、と言っている。
長続きしなかった。
以前、実家の玄関に、商品のダンボールが積んであった。
今では、きれいに無くなってるらしい。

ちなみに、自分も無精もので面倒くさがりなので、なにも長続きしない。
とくに近頃は、情報を入れること自体が面倒なのか、
テレビを見ても5秒と持たずに消してしまう。

「え?見るんじゃないの?」

嫁様がきょとんとしている。

スイッチ入れて、すぐに消すだけなので、

「じゃ、なんでいちいちスイッチ入れるの?どうせ見ないのに」

いや、これはなんだろうか。
なんとなく、台風が来てるとか、なにか火山が爆発したとか、天変地異があるかどうかだけをチェックしているだけだナ。
テレビをつけた瞬間、アナウンサーが

「爆発してます!」

とか

「すぐに避難してくだされ!」

としゃべっていなけりゃ、それでいいので、すぐにスイッチOFF、ということです。


こんなふうで、生活自体が省エネ傾向にあり、〇〇健康法もどんどんと断捨離されていく。
情報の断捨離!

これをすると、自分の内部に目が向くようになります。
内部の方が、確実に面白いからネ。実にオモチロイ。


そんなわたくしが、数少ない健康知識の中から、これは自分の身体に合っている、と見極めたものがいくつかあり、それは他の人にはおそらく当てはまらないようだけれども、自分には確実に効果があるので紹介します。

以下。

おすすめできない健康法

1) にんにくを食う。

これは、血流が良くなる。
30代に入ってシステムエンジニアになり、徹夜が続いた激務の中、偶然発見した健康法。
朝、起きた時のスタートダッシュがすばらしくなる。ただし難アリ。

2) 梅しょう番茶をのむ。

梅肉+しょうが+番茶。
この組み合わせでホットな茶を飲んでいると、効果がある。
大学生の頃、賃貸の部屋をシェアしていた友人に勧められて飲み始めました。
そいつ(現在は神主)が言うには、
「おれには合わんが、お前には合うかもわからんから」と妙な勧め方をしてましたナ。

3) 風呂に入って寝る。

これは20代の頃、500キロの巨牛と毎日格闘していた時に偶然発見した健康法で、風呂の湯につかりながら、うとうとして、寝る、というもの。
1時間ほど熟睡したときがあり、そのときに得た爽快感はすばらしく、決して周囲におすすめはできないものの、自分では様々な工夫をして、今でも時折これを実践しています。

4) 息を止める。

おしりをきゅっとしめてから、息を吐ききり、息を止めます。
自分ばかりが酸素を吸っていては申し訳ないので、時折、息を止めなきゃいけない。(冗談)
他の人には無い効果が私にはあり、考え事を進めていくときや、なにかを覚えたい時に効果ある。これは、水泳部に入っていた高校時代、潜水すると信じられないほど気分が良くなることから偶然、発見したもの。ただし、苦しいので、非・おすすめだ。

5) 嘘くさい太極拳をする。

決しておすすめできない。怪しい動きで、表面上、あたかも狂人のように見えるから。一見すると、もう極端な話、怖いと思うほどらしい(嫁様談)。しかし、絶大な効果があるので、やめるわけにいかない。

6) 天井を見て寝そべり、足の裏をできるだけ高く天に向かって差し上げる。

腰を手で支え、ほとんど肩と後頭部のみを地面に接地させるようにして、脚を空中高く持ち上げる。息を吐きながらやるのが効果的だが、おすすめはしない。

7) 山の頂上の一点を見つめる。耐えきれなくなるまでやる。

これも、ある種の効果がある。おすすめ不可。

8) 歯をかちかちさせる。骨どうしの、ハッキリとしたいい音がする。

30回。運転中にやる。効果抜群。舌をかみそうになるので、おすすめしない。

9) あー、いー、うー、えー、おー、とゆっくりはっきり言う。

顔の表情を変化させ、思い切り表情筋を伸ばしながら、言う。
効果あり。現象としては馬鹿な顔に見えるので、おすすめできません。

10) 勝手な歌を歌う。

誰の作曲でもなく、誰の作詞でもない歌を、でまかせに歌う。
絶大な効果あり。これもアホくさいのでお勧めできない。

え?いったい、なんの効果があるんだって?

ウワハハハハ。

そりゃ、きみ。
やってみたものしか、分からん、てなものですヨ。


4

【運動会】巨大組体操が無くならない理由とは

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運動会で、高学年の組体操がなくならないのは、なぜなのか。

怪我をした学校から、やめていっている。
一旦やめてからの復活は、よほどのことがない限り、しない。
このことを考えると、確実に日本の国から、「組体操」は減っているはずだ、と思う。

ところが、実際には組体操をする学校がまだ多い。

考えてみればすごく不思議な話で、先生たちは高学年になると異口同音に、
組体操したくないわよねえ・・・
と話をするのですぜ。
理由は決まっていて、子どもたちに怪我をさせるわけにいかないからです。


でも、やめられない。
なぜ?

理由はさまざま考えられる。


保護者がやりたがってる?
・・・いや、そうでもないです。

先生たちが、
「保護者の希望で・・・」
とかなんとか、言うことはありますが、それは体裁でして・・・。
本音は
「先生たちがそう言わざるを得ないほどに、精神的に追い込まれている」
から、です。

わたしが考える理由は、以下。
やめたら責められる、と思っているから。

先生たちは、他から責められるのが嫌で、やめない、というわけ。

つまり、そんな幻想を抱いてしまってる先生たちのせいですナ。


なんで責められると思うのか。

それは、実は、
先生たちは、「責められる」ことについて、とても弱いから

なのであります!(言っちゃった!)

とくに、保護者から責められると、とても弱い。
いたたまれなくなって、授業や生活指導にすら、影響が出てくる。
親に責められると、同僚にも同じ点を指摘されて責められる。
さらに校長や教頭などの管理職からも、
「保護者に責められていましたよね」
と、同じことで何度も何度も繰り返し、責められているように感じる(勝手に)。
先生のモチベーションは一気に低下してしまい、責任回避のためにますます、

前年度

を真似るようになります。
そうすれば責められない、と考えるからです。

「だって、昨年も同じようにやっていて、とくに問題もなかったようですし。」

そういえば、とりあえず、責任回避はできる。

責められまい、という意識。

これがまず、第一にあるんじゃないか、と思う。


ほかにも、PTAの都合だとか中学校の先生の意見がどうとか、学校の文化的な背景を指摘する声もあるようですが、冗談いっちゃいけない。原因は、ただひとつ。この、

「自分の担当する年度にもしやめたとしたら、自分が責められる」

という恐怖です。

まあ、とことん責められると、人間は鬱になるそうなので、鬱になるのを防ぐため、と考えてもいいでしょう。




では、なぜ、保護者から責められると思うのでしょうか。

わたしは実際に組体操やめた学校に勤務したこともあるのですが、保護者から復活してほしいと要望が出ている期間は約3年ほどでした。
たった3年間ほどで、かなりPTAの方たちの意識も変わっていきました。
その3年間、頭を下げておれば保護者もだんだんと別の人に代わっていくので、それほど担任がつるし上げを食うこともないのですが、それでもやはり、少しでも責められたくない、というのが先生たちの本音なのではないかと思います。

こうしてみると、保護者のせい、というわけではないのです。
保護者は責めてないんですから。

組体操が美しいとか、文化的な意味をもつとか、子どもの精神を鍛えるとか、クラスの団結を生むとか、それらはあくまでも理由の一部としてはあるでしょうけど、最大の理由は、この

先生たちの『責められ回避』

という、本能に近いものではないでしょうか。



つまり、先生たちにとって、運動会は、子どものためのものではなく、「見せるもの」つまりショーのようなものなのでしょう。
そして、本当はどうか知りませんが、親も保護者も地域の方も、みんな、

運動会はショーのようなもの。

と思う意識が強いのではないでしょうか。
運動会のトラック競技を前に、ずらりと居並ぶ保護者のビデオカメラとiphoneの列を見れば、これはショーなんだな、と誰しも納得できると思います。

ショーだとすれば、なにもかも、すっきり理解できます。

巨大組体操が無くならない理由は、
それがショーだから、です。
先生たちは少なくとも、見に来られたお客様を満足させなければなりません。
先生たちは、大きなプレッシャーと共に、そう思い込んでいます。

ショーである以上、運動会の演技種目は、お客様のご要望にかなうものかどうか、という点がもっとも重要なのです。

だから、だから、無くなりません。
そう簡単に、無くなりません。

たかれるフラッシュの光!
そして大勢のご父母のみなさんの、あのiPhoneの列!
手に手に、カメラ、スマホ、ビデオ!!

評価はお客様の手に委ねられている、と分かっているのに、人気種目をやめようとする先生は少数派でしょうネ。


それにしても、なんで、人は、

「責められるのがいや」

なんでしょうかネ・・・。




追記:
すみません。これを読んで、
「なんで先生たちは、保護者から責められることに、そんなに弱いんだ!」と
先生たちを責めないでくださいネ。
先生たち、さらに強く、

もう金輪際、絶対に、絶対に、責められまい!!

と、心底、頑張ってしまいますから・・・。


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秋の空を見て思うことは一人ひとり違う

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おなじ空を見ても、一人ひとり、思うことが違う。

「やっぱり、秋だねえ。さびしそうな気配になってきた」

さびしそうに感じている人は、なぜそう感じるのか。

「いやあ、きれいで気持ちのいい天気だねえ。山日和だよ」

山の大好きな人だ。

みんな、自分の心のフィルターで、空を見ている。



苦虫を噛み潰している顔をしたダンナさんをみて、

「あれ、いつもと表情ちがうな」

と思うだけの奥さんがいる。

しかし、別の人は、夫の表情を見て愕然として、

「怒ってるんだわ。きっと私の何かの態度が気に入らなかったに違いない」

と自分の至らなさを反省しはじめ、行動に出る。

機嫌をとろうとしたり、自分もちょっとむっとしてみたり、
あるいは
謝ってみたり、気を使ってみたり・・・。

なぜそのように受け取るのだろう。

ダンナさんは、さっきから、歯が痛くてたまらないだけなのだが。





事実を見ないで、「意見」してばかり。

「あなた、さっきの話のことで、わたしを責めているんでしょう」

それは、ただあなたの意見に過ぎない。
事実は、歯痛。

みんな、事実を見ようとしない。

意見だけを取り入れようとして、意見だけをもとに考えて、意見を言うことで生きていくのが本当だと勘違いしている。

しかしその意見は、ことごとく、自分のフィルターで、出来ているのだ。

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公式を覚えないで100点をとる法

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6年生の算数。
難しいところ、つまづきやすいところ。
速さ=道のり÷時間
道のり=速さ×時間
時間=道のり÷速さ

これを覚えるというのに、抵抗ある方、多いでしょう。

丸暗記することの多い小・中の算数(数学)で、これはまさに丸暗記型で解けるから、いいっちゃあいいんですが、それだとなんだか算数をしているようでない。
どうにかして、解法としてスマートに、論理的に、数学的な枠組みとしてとらえられるようにしたい。
欲を言えば、この解法を他でも応用できるように・・・。


そこで、図を使って計算する。


最初に、正方形をかいて、左下に 1 とかく。
左下のこの「1」は、一(いち)単位量あたり、という意味。

速さ1


つぎに、時速というのは、1時間にどれだけの距離走るか、なのでこれが基準だから、
たとえば時速40Kmの自動車だとしたら

速さ2


と書く。

この自動車が5時間走ったとする。
さきほど、単位量あたりの基準にした「1時間」の横・右側に、5時間 という時間を書く。
こうなる。

速さ3


ではいよいよ、正方形の中身にうつる。この正方形の面積が、実際の距離(道のり)にあたる。

正方形の縦辺が時速で、40Km。
正方形の横辺が時間で、5時間。
式) 40×5 = 200
こたえは面積(道のり)で、200Km。

速さ4


この図を書けるようにしておくと、公式を覚えなくてもいい。


1)
たとえば、時速が分からないとき。

時速の数字を隠す。

速さが分からない場合


すると、面積(道のり)と横辺(時間)が見える。
それぞれ、面積(道のり)が200で、横辺(時間)が5なので、縦辺は、

式)200÷5=40
こたえは時速で 40Km。


2)
つぎに、時間が分からないとき。

時間の数字を隠す。

時間が分からない場合


すると、面積(道のり)と縦辺(速さ)が見える。
それぞれ、面積(道のり)が200で、縦辺(速さ)が40なので、横辺は、

式)200÷40=5
こたえは時間で 5時間。


うちのクラス、これを教えて100点続出。

ひとめでみて、パッと見て、すぐ分かりやすい。
これが人間に、とても優しい。
これはもう、真理といっていいんじゃないか。

人間の生きるリズムを忘れている政治

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地球がボーッと回る。
雲が、スーッと流れる。
で、地面から音がする。

ドッドッド。
稲の刈り取り。
コンバインの音かな。

地面に寝そべってみる。
ため息が、自然と出てくる。
あくびも出てくる。

そばにあった石を、意味もなく、ふといじっている。
いきなり、人間がいじるので、オケラが急いで石の陰にかくれる。
驚かしてごめん。

たぶん、人間の生きるリズムって、こんなの。
人間であることを忘れているのが、現代人。

大人はほとんど、「人間忘れ」。
だから、生きるのに必死で、疲れている。


・・・

修学旅行で子どもを国会議事堂に連れていくけど、なんだか、ネェ。
クラス会議よりもひどい国会に、なにを学べと?
教科書には、人々の暮らしをより良くするための話し合いにより、様々な仕組みを取り決め、進めていくのが「政治」だと書いてある。
強行採決で議事決定を読み上げる議長に、そうはさせまいと議事進行の紙を掴みにとびかかろうとする議員。この醜態、小学校でどうやって説明するのだ。
議長が紙をとられまいとして、くるりと後ろを向いてフェイントでかわし、引き続き読み上げているシーンをみて、

「終わってるな」

と思う小学校の教師、多いと思う。


「先生、なんで国会では、話し合いの最中に喧嘩モードなんですか?」
「相手が喧嘩モードなんで、仕方なく応じなければならんよ」(←与野党双方がお互いに同じことを言い合う構図)

喧嘩モードのインフレ。
これ、心理学でなんていうんだっけ。
相手が攻めてくるから、こっちから攻めざるを得ない、という考え。なんか専門用語があったな。
忘れたけど。


人間が政治をしているはずなのに、いちばん人間を忘れちゃいけない現場で、
人間でないものが蔓延ろうとしている。

「人の話を聞く」

ゆーーーーーーーーーたりとした気持ちで、政治はするものだ。
少なくとも、これからの小学生には、こう教えたい。
「あれが話し合いの見本だよ」

↓ ツノを出して、はにかむ幼虫。
キアゲハの幼虫つのあり

6年社会科 島原の乱を教える

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歴史を教える際に、2つの視点があることに気付いた。

1つは、民衆視点。
もう1つは、為政者視点。

たとえば、天草 四郎(あまくさ しろう)の一揆。いわゆる、島原の乱だ。
これを、民衆視点で語るのか、それとも為政者視点で語るのか。それによって、授業の雰囲気や、子どもたちが立つ位置が、がらりと変わる。
このことに気付いて、恐ろしくなった。


キリスト教を信じることを許されなかった民衆の視点から語れば、「為政者の非人間ぶり、人権無視のやり方」のひどいことが分かる。

禁教することで統率しようとした為政者視点から語れば、民衆がいかに「言うことを聞かない存在なのか」と映る。


考えた末、授業の半分くらいを、民衆視点から、

〇民衆はなぜ、島原で神に祈り続けたのか、を考える時間にし、

のこりの半分くらいを、為政者視点で、

〇幕府はなぜ、禁教することにしたかったのか、を考える時間とする。

というふうにした。


ここまでくると、なんとなく、当時の人々に近づいてきた感が出てくる。

だんだんとリアルな思考も、子どもたちに出てきた。

時代の閉塞感のようなものが、人々を信仰に向かわせた、というようなことを子どもなりに表現する子までいて、厳しい年貢や圧政に苦しむ民衆の様子がじりじりと見えてくる。
一方で、植民地化の流れにのる世界情勢や、キリスト教によって日本の土地がローマカトリック教会へ寄付されていく事件、はたまた偽の宣教師に騙された日本人が奴隷船で拉致される事件にも触れると、いったいこの世はどうなってるんだ、という感じ。
一気に、教室の空気が悪くなってきて・・・。



ここまできて、いちばん肝心なことを考えることにした。

押しつけや身分、上下差別による圧政、圧迫、脅迫のない平等な社会にするには?
これが最高に面白い。

大人が、「不可能だ」としていることを、子どもは、「いや、いけるんじゃない?」と言う。

それだけでも、子どもの方が頭が柔らかいし、進んでることの証明になるわね。

大人はもうそのセンスにおいて完敗しちゃってるから、諦めて子どもから教えてもらうしかない。

不可能とされていることを、可能と言わずして、人間社会が植民地主義を脱却する道はないわけで。



日本が江戸初期において西洋諸国による植民地化を免れていたように、
沖縄の小学校に米軍戦闘機が墜落するような事態を避けるべきだし、
「軍事力や経済力」、と言った言葉以外(=ではなく)で、社会の「平和、発展、豊かさ」を語る時代がくるのだから。


それは、今の小学生がやる仕事、やれる仕事。

で・・・それを見越して・・・、今の教師がやる仕事がありそうな気がするわな~。

黒菱の頂上
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