30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2015年06月

大人全員が加害者と言われたら

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『偉大なるギャツビー(The Great Gatsby)』:(Francis Scott Key Fitzgerald)の一節。

ぼくがまだ年若く、いまよりもっと傷つきやすい心を持っていたころに、父が言ってくれたことがある。

ぼくはその言葉をいまでも心の中でくり返すことがある。

「ひとを批判したいような気持ちになった時にはだな。世の中のひとがみんなおまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思い出してみることだ」 


これ、今の時代、みんな被害者面をしたがるけれども、ところがどっこい、実は全員加害者なのだ、という逆転の見方で自分たちの姿を鏡に映して見直してみるべきだということのようで・・・。




うっそー、ぼくが、加害者?
そんな、アホな。
いや、僕は被害者ですよ!
悪いのは、アイツですよ!?


全員、こう言う。
そこを、いや、加害者と。


目が点!

「俺は、被害者ですよ!?」



これは、みんな、納得しないよね。
だけど、
A国もB国も、為政者も国民も、全員に「わたしが被害者。向こうが悪い」という意識がある限り、戦争はなくならない。


ともかくも、子どもからしたら、今の時代に生きる大人全員が加害者に見えるだろうよ。

「勤勉な馬鹿ほど、始末に困るものは無い」

だって。

昔のひとは、うまいこというよなぁ。

P6201210

人間は戦争をする運命の動物か、それとも知恵があるのか

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なにか特別なことをしていかないと、平和な世の中にならない?

・・・嘘だよ。

逆だよな。

人は、余計なことをしなければ、平和だと思う。

友達と仲良く遊びたい、と思わない子がいないのが、その証拠だ。





黙っていたって、みんなで遊んで、仲良く過ごしたいんだもの。

笑って楽しく過ごすのがイヤだ!・・・って、遊びを拒否する小学生にお目にかかったことがない。

虐待で親を恨み世を恨み、相当な思い込みで生きている子だって、拳でつっかかってくるような子だって、心の底で、寂しさをきちんと感じている。裏返して、安心したい、という気持ちで生きているものね。



自衛隊が、初めて、人に向かって実弾を発射する日。
相手の死傷を願って。



このような「事件」が起きると、歴史が動くわけで・・・。

弾を撃つ、ということについて、その銃弾のとんだ先に、人がいる、ということについて、道徳の教科書で最初に扱うようになるのかもね。このままいくと。

「低能で役立たずのコンコンチキで、私利私欲の業突く張り、悪魔の形相で自分の利益ばかり考えている悪いやつ、迷惑をかけて人を傷つけて構わず涼しい顔をしている、怠け者で礼儀知らずのならず者は、殺してよい

ということを、教えるの?

・・・それが平気、という人になってもらわないと、戦場の下僕となって動く人がいないわけだから。

でもきっと、そんな子、ひとりもいない。

「相手をたたく子は、自分を守ろうとして必死な子」
こんな話、小学生でも分かるもの。
なにかの傷や痛み、辛さを抱えた子が、淋しさをこらえきれずに人を傷つけているんだ、ということ。
小学生でも、薄々分かってることなんで・・・。
自分勝手でならず者の悪魔のような奴が一番、淋しくて困っているんだ、ということ。

そして、ならず者なんて、本当はいないってこと。

こういう話ばかり、学級でしているんだもの。

自分から人殺しに行きたい子なんて、いないに決まってるよね。



人が、
なぜ、領土にこだわるのか。
なぜ、相手に求めるのか。
なぜ、正義と理屈を使って、相手を責めるのか。
なぜ、自分が被害を受けるだろう、ということばかり言いたがるのか。
なぜ、自由、自由、と叫ぶのか。




いったい、どういう不安が、こうした強迫的な行動の動機になっているのか。

そこから、話を始めないと、各国では皆兵が当たり前だからそうしよう、なーんていう単純な思考と論議にまきこまれていく。

カラスアゲハの背中の光沢2

自衛隊が最初の弾を撃つまでのこと

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なんだか世の中がキナ臭い。

自衛隊が実際の戦場で最初の弾を撃つときのことを、これほどまでに現実的に、これから確実に起こり得ることとして、自分が考えるようになるとは思わなかった。

そして、実際に目の前の子どもたちが、いつか徴兵される、ということまで。

政治家が「つぎは徴兵」なんて言う日がくるとは、信じられない、と思って生きてきたが。

現実に、どうやらそういう話を、政治の世界でしているみたい。

教育は政治と無関係で過ごせるのかと思ってきたが、どうやらそうはいかない。
どうも、この子たちのことらしい。
戦場に行くとか、徴兵とかって・・・。

小学校では、人殺しを育ててるわけじゃない、とみんな確信してる。

・・・

授業で、いつか、徴兵を扱うようになるのかな。

自衛隊がいつか、実際の戦場で、最初の弾を撃つだろう。

今は、それまでの間の(束の間の)、休息。

スーパーで、今みたいに呑気にお惣菜を選べるのも、今だけかもね。

いったん、最初の弾を撃ってしまったら・・・。


同じような気分ではぜったいにお惣菜を選べない。

だって、この国が、人を殺そうとしたことを、公に認めるのだから。

そして、国民はこの国の主権者なんだから。わたしにも責任の一端があるってことだ。



これが大事。

今からやるべきこと。

これをやらないから、なんだか自分の力の無さに憤慨したり、政府のやっていることに腹を立てたりする。

 ↓ ↓ ↓ このことにまい進すること。

人と人が、憎み合わない、怒りを解く(超えた)お互いの間柄になるようにする。そういう間柄になりあえる土地や学校、経済をつくる。


自分から、こう動いている人は、腹が立たない。

傍観しているか、何をすべきか分からないから、みんな、憤慨したり諦念に襲われたりするのだと、なんだか夜空を見上げつつカエルの声を聴きつつ思う、週末の夜。



ノアザミとキアゲハ3blog

大好きで大嫌いなお母さんのこと

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〇〇してくれない。
お母さんが。
ぼくに。


これは、腹が立つ。
だって、やってくれないんだもの。
こっちはこんなに願っているのに。

お母さん、こっちを振り向いてくれない。
関心を向けてくれない。
見てくれない。
やってくれない。


くれない。


どうして、やってくれないの?


こっちがこんなに叫んでいるのに、さびしくなっているのに。
どうして!




ちっくしょう。





このままでは、ぼくは、ズタズタのボロボロ、グズグズになってしまっていくのが分かる。

それを阻止するために。

自分を守るために。

どうしようか、考える。





添っていきたい、くっついていたい。
お母さんのイウコト、なんでも聞いていたい。

こっちが勝手に、一方的に、お母さんの関心を必要としている。


お母さんの声がいい。
お母さんの顔がいい。
お母さんに抱っこしてもらいたい。




しかし、しょせん、お母さんは、ぼくじゃあない。

相手を変えることは、所詮、できないこと。

相手は、相手の意志で動いている。

当たり前のこと。

なにかを願うのは自由だが、強制させることはできない。相手の心に鎖はかけられない。



お母さんが好きだ。

だから、

そのお母さん、今のお母さん、目の前のお母さんを。
丸ごと、受け止めたい。そんなお母さんに、沿っていきたい。

でも、心がそれを拒否する。拒否したくなる。相手を否定したくなる。

すると、お母さんを拒否する、と決めた途端に、暗闇のような、真っ黒な悲しみと寂しさが突き抜けるようにこみ上げて来て・・・

別のエネルギー、怒りとなる。

お母さんが悪いんだ、となる。




なぜ、そうなるか。

そもそも、添うことができなかったから。自分が。相手に。大好きなお母さんに。

お母さんが好きだ。
だけど・・・、受け入れられないんだ。
ぼくを大事にしてくれないお母さんのことを・・・。


いやだ、と思った瞬間、
気にいらない、と思った瞬間、
黒い霧のようなものが、ぶわっと、
ぼくの心におおいかぶさる。
そして、僕のこころからは、大好きなお母さんの顔が見えなくなる。

あとは、冷たい金属のような、まっ黒なさみしさで、いっぱいになる。

その淋しさに耐えきれないぼくは、すべて悪いのは、お母さんだ、と叫びたくなる。



僕は、期待する。

甘美でとろけるような何かを。



その一方で、身を固くして恐怖に備える。

そう、ならないことの失望に・・・。

だから、相手に、矢印を向ける。

相手を責める。




すぐに、

たしかな、しっぺ返しがくる。

真理の世界から、しっぺ返しがくる。

真っ黒な悲しみと寂しさが、自分を支配し始める。

だけど、そうせずにはいられない。
お母さんを拒否したくてたまらない。
ぼくは、許せないんだ。お母さんのこと。




どうして、やってくれないのか。

ぼくは、うんと、ほめてほしい。
すごいねって、言ってほしい。
拍手してほしい。
大事な子だよ、って、言ってほしい。


ところが、それをしてくれない。
やってくれない、相手が悪い。お母さんが悪い。


ぼくは、安心できない。
やってくれない、から。



心の底では、そんなお母さんを大好きでいたいはずなのに、心のどこかがそれを拒否する。
いっしょにいたくない、という矛盾した気持ちが出て来て、混乱する。
その混乱が受け止められなくて、大好きでいられなくなってしまった哀しみが抑え切れずに、爆発する。
「僕の本心と、今の気持ちの、この矛盾はどうしたことか!」

この矛盾、この混乱は、おかしいぞ!というサインだ。
自然界からの、緊急警報、サイレンだ。
「おい、おい! 本心と違うじゃないか!いったい、どうしたんだ!」
そういって、サイレンが鳴り響く。


そりゃそうだよね。
心の一番底、本心っていうのは、本当の、ゴマカシのない気持ちのことだもの。


この、怒りの感情って、ほんとにすぐに湧いてくる。
あっという間、というよりも、相手に矢印を向けたその瞬間に、ほぼ機械的なくらい正確に、自分自身に跳ね返ってくる。
つまり、これは、容赦なしに、ということ。
ぼくのやってることは、まちがっている!っていうこと。

もともと、自然は一つだから・・・、なのかもしれないな。
相手と自分も・・・。
人間の本性は、人どうしの心の分裂を望まないのかも。




ぼくは迷う。


人が人とともにいたい、人を好きでいたいと願うのは、なぜなのか。

そうしないと、厳しい世の中を生きぬいていけないから、なのか?

自分の外面と内面、自分の身を守るために、そうするの?


なぜ、ぼくはお母さんが好きなんかな。

ぼくを嫌うお母さんであっても、本当は好きなんだ。

だから、ぼくを嫌いでも、いいんだ。

許してあげたいんだ。

本当の本当の、本当の本心ではね。

だけどそれができないから、苦しんでるってこと。
怒っているのは、そういった姿なんだってこと。

ぼくは、怒りながら、泣いているんだった。

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なぜ、あなたは廊下を走らないのか

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廊下を走ると、あぶない。
廊下を走らないようにしよう。
でも、やっぱり、たくさん走る人がいるな~。

 ↓ ↓ ↓

よし、こうなったら。
罰則をつくろう!

走った子を、恐怖で怯えさせよう。

 ↓ ↓ ↓

で、罰を与える規則をつくり、縛り上げる・・・(実際には人の心まで縛るのは無理だけど)


しばらくして・・・

お、走らない子がいるな!
きっとあの子は、ぼくたちが
「罰則をつくったから、走らないのだろう!!」

・・・だって。

このことの、どこにどんなおかしさ、奇妙さが隠れているか。


ひとは、なぜ、結びつけるのだろう。

「この子は、罰則があるから、走らないのだ」、と思ってしまうのは、なぜなんだろう。

こんなふうに思いやすいのは、人の癖なんだろう、と思う。
思考の癖、いわゆる、思考(バカ)の壁だ。



交差点の事故を防ごうと、ある学者が、赤信号から青信号に切り替わる時間を変更した。ためしに、A路線側の赤時間を10秒増やす実験をしたところ、事故が減った、という結果が出た。

これは、「A路線側の赤時間を増やすと、事故が減ったのだ」というふうに、報告された。そこで専門機関がさらに検討を重ね、A路線側の赤の時間が10秒増やされた。

ところが、まだ事故が多発するようになってしまった。

今度はためしに、A路線側でなく、横断するB路線側の赤時間を10秒増やしてみたところ、なんと奇妙なことに、事故が減った、という結果が報告された。そこで専門機関がさらに検討を重ね、B路線側の赤時間が10秒増やされた。

ところが、まだ事故が多発するようになってしまった。

今度は試しに、元のA路線側の青の時間を10秒増やしてみたところ、なんと・・・・


と、まあ、こんなような、奇妙な思考のこと。



しかし実は、学校で子どもたちと話していると、こういう思考って、とても多い。

たとえば・・・

このボタンを押したら、出てくるんだよね!

 ↑ ↑ ↑ こんなような、話ね。




左手でじゃんけんすると、パーで勝つ確率が高くなるよ。

こういうと、あっと言う間に信用されてしまう。

ほんまかよ。



運動会で、赤組になった子たちに向かって、

「先生が赤組になって、負けたことないよ」

というだけで、妙に盛り上がる。(ウォーッ!じゃ、ぜったい今年も勝つじゃん!)

まじかよ。


ま、職員室の先生たちも、たいして変わらん。

「今度の遠足、雨降るよ。だってわたし、雨女だもん」  だって。

ほんまかよ・・・。

ガクアジサイ

お金を入れたから

「自動販売機にお金を入れてボタンを押すと、商品が出てくるのは、お金を入れてボタンを押したからですか?」

これは難しい。



こういう発問、高学年なら、一度はやってみたい。

交通安全教室のあとに、やってみるのがよい。

一時停止だけが、安全確保の方法じゃない、ということを確認するのに、よい。



さて、

「自動販売機にお金を入れてボタンを押すと、商品が出てくるのは、お金を入れてボタンを押したからですか?」

「そうだ」

という子が半分。

用心して、手をあげない子が三分の一くらい、いる。

「ボタンを押したから、というわけじゃない」

という子が、5人くらい。

この、5人の子たちに向けて、訊く。どうして?

「だって、壊れてるかもしれないし、中にジュースが入ってなくって、お金を入れてボタンを押しても、何も出てこないときがあるかも、だから」


なるほど。

『お金を正しく入れたら、商品が出てくる』  と、みんな思っているけど、ちがう、ということね。



じゃあ、商品がちゃんと出てきたと。そうした場合・・・それは、ボタンを押したからなの?

「はあ、なんだ、出てきたのね。じゃあ、・・・出てきたのは、お金を入れて、ボタンを押したからかなあ」

ほとんどの子が、そう言い始める。



ところが。

いや、ちがうんだ、という子が、まだ数人、いる。




クラスの話し合いは、この、疑り深いというのか、なにか粘着質というのか、妙なカンを働かせる数人がいるから、面白い。


わたしが注目しているKさんは、用心深いというのか、わたしの話に慣れてきたというのか・・・、なかなか一筋縄ではいかない女子で、つねに何か考えてる子。

この子は、恥ずかしがりや、というわけではないのですが、なかなか最後まで自分の意見を切り出さないところがある。

そこで、ほぼ、このKさんのために、クラス全体の相談タイムをとった。

「では、相談タイムです。誰でもいいから、2分間話してもいいです。席を立ってもいいですよ」

Kさんは、大急ぎで何人かの仲の良い女子と話し合いに行き、ちょこちょこと井戸端会議をして、また大急ぎで席に着いている。


案の定、その後すぐにKさんが挙手して、

「押したからだ、というだけじゃないと思います」

論理的な女の子が、こう言うことを言い始めると、男子が急にノッテきますな。


お金を入れてボタンを押すと、ジュースが出てくるかもしれないが、

もしかしたら、出てこないかもしれない。

また、ジュースが出てきたのは、お金を入れてボタンを押したから、とは限らない。




時計が3時をさしているなら、3時かもしれないが、

もしかしたら、2時かもしれない。

また、3時に、時計が3時をさしているとは、限らない。




火事のときは、非常ベルが鳴るかもしれないが、

もしかしたら、鳴らないかもしれない。

また、非常ベルが鳴ったからといって、火事とは限らない。




罰則をつくれば、廊下を走らなくなるかもしれないが、

もしかしたら、走るかもしれない。

また、廊下を走らないのは、罰則があるためだとは限らない。




こういうの考えるの、面白いねえ。

廊下を走らない、という子たちに向かって、

「なぜ、あなたは廊下を走らないのか。」


不思議と、これを話し合ったあと、クラスの、廊下を走る子は激減します。

これはホント、不思議なこと。

なぜなんだろう、未だに、理由がよく分かりません。



okazaemon

左右をしっかりと確認すれば、安全でしょうか?

.
交通安全教室です。
全校で、お巡りさんのお話を聞きました。
交通安全協会の方、地域の見守り隊の方たちとあいさつをして・・・。
交通事故防止のビデオも見ました。


さて、教室にもどって、6年生に聞いてみた。

「左右をしっかりと確認すれば、安全でしょうか?」

わたしのクラスはすでにかなり用心深くなっていて、わたしの問いかけに、即答しない。

「安全だと思う人?」

手を挙げたのは数人。

学級委員長のMくんが、うふふ、とおもしろがって

「右も左も、ちゃんと確認して、車も通ってないんだから、安全です!」

果たして、先生は何を言うかなと。



用心深い子が、

「斜め後ろから、自転車がくるかもしれないよ」

「え、そんな想定、あり?」

「想定外だよ!想定外!」


そんなやりとりもあって・・・



おもしろいから、「想定外」について、いろいろと話し合うことにする。

「今日、目がパッチリと覚めたのは、昨日の夜、早く寝たからですか?」


わたしがNHKのアナウンサーのような声で、上の文を、さも論理的な説明文、というように口にすると、

ううむ、と腕組みをして、先生は今度は何を言うのだ・・・?と、用心している。

しばらくして、挙手するAくん。

「はい、安達くん」

「えっと、今日ぱっちりと目が覚めたのは、朝、顔を洗ったからです」

なるほど。

はい。続けて、後ろの席の、髪の長い、岩崎宏美のようなスタイルのUさん。

「はい、今日は楽しみなことがあって、朝からわくわくしてるからです。」

もはや、クイズ。

ハクション大魔王のドビンちゃんに似てるYちゃんが、

「飼ってる猫が、おなかの上にのってきたからです」

「想定外、想定外!」


ワハハ。


前の晩に早く寝ると、次の日
お目目が、ぱっちり 覚めるかもしれませんが、

お目目が、ぱっちり 覚めたのは、
早く寝たからとは、限らない。

また、

前の番に早く寝たからと言って、次の日
お目目が、ぱっちり覚めるとは限らない。



交差点で一時停止したからといって、その子が安全を確認しているかどうかは、分からない。

「一時停止しなさい」

ではなく、

「安全を確認するって、どんなことだろう。どうすれば確認できる?」

と考えていく。

安全を確認するということには、それこそ、たーくさんの要素が含まれている。

教師は、分かりやすく、限定的に教えるから、

「一時停止しなさい」

という言い方になる。

これが、教える、の限界。
一方、考えさせる、の方には、限界が無い。

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名前を自分でつけられる!!

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クラスの子が、虫をつかまえて持ってくる。

「せんせい、これ、なに?」

わたしに聞けば、教えてもらえると思っているらしい。

それで、わたしはいつも、

「なんじゃろね」

と返している。


つねに、間違いなく、

「なんじゃろね?」


としか、返答しない教師。


そうであると分かっているのに、かならず毎回、

「先生、これなあに?」

と聞きにくる子どもたち。


なにか、コントのようなやりとりですが、お互いにとても真剣です。


今日も、なにかプラスチックケースに入れて休み時間に捕まえたらしく、

息をはあはあ、とはずませながら、

「せんせい、黒い。黒い。なにこれ?」

わたしはいつもどおり、

「なんじゃろか?」

とつぶやいて、まじまじとその子の顔を見つめる。




彼女は、なにかなあ、という顔をして、虫を指でつついている。

クラスの何人かが、いっしょに覗き込んで、同じように、

「先生、何ムシ?」

わたしは首をひねりながら、

「ええっと、・・・マックロ・テンテン・ハナモゴリがいいな!!いや・・・それとも、ハナムグリダマシっていう方がいいかな!」

とか適当なことを言う。

それが嘘だと分かるらしく、

子どもたちは無反応で、あるいは、

「今の嘘だよネ・・・」

そのまま虫をのぞいている。



わたしはほとんど、虫の名前を言わない。教えない。

うちのクラスの場合は、

「あの例のハチ」

とか、

「緑っぽいイモムシ」

とか、

「ハムシの、茶色の方」

とか、そんな感じで、適当に仲間うちで了解しあっているようです。



朝、教室で、

Sくん 「あのイモムシ、動かなくなった」

Yちゃん 「え、うそ。ほんとだ」

という具合。



ひどい場合は、

「ねえ、あの気持ち悪い方のカメムシさあ・・・」

だとかよんでいて、それで話が通じている。

2匹いるうちの、緑色をしたカメムシじゃない方、それはジンガサハナカメムシなのであるが、模様が奇抜なので、そう呼ばれている。



わたしは、適当に、スケルトングリーン、だとか、エメラルド虫だとか、勝手に呼ぶ。
ただのルリハムシにそういう、たいそう大仰な名前をつける。

子どもたちにも、

「いいか、好きな風に呼んでいいんだぞ。名前をつける、ということを、人間は自由にやってもよいのだ。昔の人だって、良く分からんものには、勝手に名前を付けてたんだからな。」

と、けしかけています。

ネーミングする自由というのを、現代人はもっと味わったらどうか、と。

考えてみると、ぼくら、物事や事象についての命名は、一部のマスコミや知識人、体制側の役人だけがすることだと、思い過ぎていないかしら・・・。


実は同様のことを、フランスなど欧米各国の美術館では進めており、その館の実施する教育プログラムでは、モネやゴッホはもちろん、名だたる芸術家の名作を子どもたちに見せますが、その際、けっして、

「えっと、これの題名はこれこれです」

という説明をしないのだそうだ。
そういう、教育的な取り組みをしているのだそうだ。




なぜそんなことをしてるかって?

つまり、モネやゴッホ、モディリアーニの気持ちになってごらん、ということなんでしょうか、ねえ。

それとも、その子がその絵画の、どこにもっとも関心を持ち、印象をもって味わったのか、ということを、名画にタイトルをつけさせる過程を通じて、発表させようという計画で、そのように仕向けているのか・・・。


ともあれ、図鑑を辞書代わりに見させて、

「はい、正解は、ジンガサハナカメムシです。覚えなさいね」

というアプローチは、どうやら21世紀型の教育ではないようです。知らんけど。


追記:教室に図鑑は常備。それがコツといえばコツですかね。

rurihamushi

昆虫占い ~アゲハ道は南南西をさす~

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アゲハは何に導かれて、ひらひらと行くのだろうか。

自然界の細かな情報をたよりに、小さな生き物は動いていく。

かすかな香り、小さな音、微細な動きによって。

アゲハは、『揚羽(あげは)』。
人の心の高揚、浮き沈みに通じる。




アゲハ観察によって、ひとは、自然界・宇宙の動きを知るのです。




本日のアゲハ観察によって導かれる世界とは・・・


(有馬式早朝半時微細計測法による)

AM6:30 アゲハの高度が高く、木陰から太陽光に照らされた大地への憧れが見受けられる。

AM7:00 アゲハ高度徐々に下がり、人家の軒下などから時折地面近くまで降下。
       大地の意志と浮揚する大気との相位置から自己が引っ張られ葛藤を生じやすいですが、冷静な意思が支配していくとの予兆です。

AM8:00 アゲハが高木の葉の間で羽を休める行動から、内面の充実、知的能力、判断力、表現力が高まることが予想されます。また、社会や他人と積極的に接触したいという欲望が高まるでしょう。アゲハの早朝の行動との相関関係を読み取ると、このアゲハの位置が指し示す未来は、 この欲望を抑制することなく、今あなたを取り巻く人的環境の中から冷静に事実を知ることに傾注することで、有益な情報が得られ、自分のレベルを一段と高めることができるとの暗示です。

まとめますと、本日からの6月第二週は、多くの人にとって意外性に富んだ時期となります。急激な変化、突発的な出来事、革新的な計画に出くわすことが多いでしょう。 あなた自身も変化や革新を求める時期ですので、全ての意外な結果を、客観的に判断し、速やかに対処すること、現実と幻想の区別を明確にし、人を容易に信用しないことにより、成功へと導かれます。 この時期は、科学技術センスを持った方との関係があなたの生活に影響を及ぼす可能性があります。

AM9:00 アゲハが南南西へ飛び立つ。

       夕方からの天候不順を暗示しています。





以上、昆虫占いでした。(昆虫占いの詳細についてはメールでご相談ください)

アゲハの展翅

嫉妬はよくない?

.
嫉妬、というものについて、とことん突き詰めて考えてみよう、ということ。

考えるといっても、1週間や2週間かけて、という程度ではない、数年かけても、とことん追求してみる、という覚悟。

どこかの他人の嫉妬ではなく、自分自身の。

まぎれもなく、自分の心のうちの出来事を。




嫉妬はよくないものだ、という子、多い。

反省口調が手馴れれてしまっている、どちらかというと「いい子」たちに多い。

道徳でも、最初から反省口調。

そこから残念なことに、深まりがない、というか、進まない。

こう言えばOKだよね、先生、これでいいんでしょ、

先生、反省してほしいんでしょ?


という雰囲気がする。




嫉妬がよくない、というところから脱するの、大変なことだ。

嫉妬をそのまま、しっかりと見つめる、というふうにまで、なかなか、ならない。

心の動き、微妙な理屈、屁理屈、自分を納得させようとする言葉の数々・・・。

それらを捨てて、なぜか、なぜ嫉妬するのか、なぜこれだけの心の動揺が、自分を襲ってくるのか、なぜか、と追究していこうとする、ということ。


嫉妬が、プラスだ、マイナスだ、とか、・・・そんな程度でどうこう言っているところから、脱することができると、ようやく知的に考え始めた、頭が動き始めた、という感じがする。

本当のところ、実際のところ、自分の心を追究しはじめる、というわくわくした思い、楽しみ、知的探究心、好奇心によって・・・。

なぜ、嫉妬する?

自分は、なぜ、嫉妬しているの?

嫉妬の内訳、中身、実態、実質、本質、原理、中で動いているもの、中身に働きかけるもの、とは。



でも、ほとんどの頭の固い高学年となると、
はい!先生!!

嫉妬は良くないです!!

と言って、それで思考停止。




それじゃ、なにも明らかにならない。

で、どうするか。

ヤマナラシの木

子どもの機嫌が悪いときにどうしますか?

.
機嫌がよい、とか、機嫌がわるい、とか。

このことが、人類の、最大級の問題だろうと思う。

人類がすべて、機嫌がよくなれば、どうなるんだろう、とよく想像する。

幼い子どもは、機嫌がよいことが多い。
少なくともふつうで、悪くはない。

朝起きて、そのままで、ふつう、ノーマル、平常です。
これが本来の人間。


ところが、子どもも、成長するにつれて、機嫌がよく変わるようになる。
「機嫌」が、人間関係を操作できる、ということを学習するのでしょう。

だから、ふてくされてみたり、逆ギレしてみたり、可能な限り、周囲の人間の気持ちを操作できないかと試してみる子も出てくる。

そういう子に、

「きみの機嫌については、とくになにも、考慮しないよ」

というメッセージをおくると、あれ?という顔をして、釈然としない風。

教師は、機嫌が悪くなる子の、機嫌をとったりなんか、しないし・・・。

自分の機嫌を良く見せたり、悪く見せたりすることで、友達に

「何かを感じ取ったり、思わせたりしたい」

という行動については、極力、そのことの意味は無いのだ、ということを知らせるようにしている。

その代り、きちんと言葉で伝える方が、弊害が少なくて済むよ、って。





でも、考えてみると、

大人が、「機嫌」というものを、重大視しているんだよね。

大人が、「他の人の機嫌」というものを、とくに大きく、取り上げる傾向が強い。

というのは、この社会が、「他の人の機嫌・顔色」を過剰に強く感じ取って、反応しようとする社会だからか・・・。




「機嫌」について話していると、こういうことを言う人もいる。

「いやいや、人生というのは、あがったり、さがったり、ジェットコースターのように気分がころころかわる、機嫌がよくなったり悪くなったりすることこそが、人生の妙味なのじゃない?」


・・・とか・・・。

あなたは、どう思いますか?



機嫌が悪くなる、ということが起因となっての「人生の損」というのは、これはもう、はかりしれないと思う。

たった一人きりじゃない、人類全体が、「機嫌の悪さ」を迂回するために、相当なエネルギーを消費する。

他の人の顔色をうかがうとか、幅る人、声のデカイ人、威勢の良い人、押しの強い人、声高の人、主張する人、たちの顔色をうかがうことが、世の中、いかに多いことか。

押しの強い人に、気を遣う人間関係がふつうなのだ、となっている。

幼い子どもたちのように、基本的に、機嫌は悪くないし、良くもない、ということの、大いなる意味や意義を、考えたくもなるよね。


ともあれ、教室では、機嫌の悪い子に、

「どうしたの?」

と訊くけど、それでなにか特別なことが起こるわけではない。

クラスの子も、なんとなく、しずかに見ているだけ。



ひとの機嫌の良さ悪さに、いちいち反応しない、という態度が、お互いの中身をいろんなふうに、変化させると思う。

これ、いろんなことがつまらない、と思う人には、通じない話。

オオルリシジミ3
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