30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2014年11月

Chinaの国のネズミーランド

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中華人民共和国に、もう5,6年くらい前になるか、
ある遊園地ができた。

なんだかネズミの着ぐるみとか、服を着た犬とかあひるの着ぐるみがうろうろしていて、なんだか見る人によっては、

「ディズニーランドのパクリじゃねえか」

と思えたらしい。

で、アメリカ当局やディズニー本社などが抗議した結果、このキャラクターやアトラクションは中国当局によって変更されることになった。

ここまでが、当時のニュースであった。



ところで、金のことを一切考えないとなれば、こういう遊園地が世界中にできる、ということは、ディズニーさんにとってはとても名誉であり、楽しみに思えることではないだろうか。

利権だとか版権だとか商標登録だとかグッズ販売などがすべてそこに入り込んでくるから、

「ちょっと、まった」

と言いたくなるのだけど、

もしも、純粋に、本当に、お金のことは一切、無関係、ということであれば、


「ああ、世界中のいたるところにミッキーが活躍してくれている。人々を楽しませてくれている。ありがたいことだなあ」


って思うんじゃないのかなあ。

ディズニーさんの本音は。


どうだろうね。

(こういうことを、道徳の時間に子どもたちといっしょに、考えるようにしないと)


「いじめ」の一つのパターン、

あいつ、おれのマネしやがって。

というのがある。

これを、いじめ初期微動パターンのうちの一つ、『マネされ訴訟』という。

『マネされ訴訟』を放置しておくと、いじめ、になる。

「ねえねえ、A子、P子ったら、わたしのマネばっかするんだよっ!」

「えーひどい。なにそれ」

「ほら、わたしと同じシャーペン。私が先に持ってたのにィ~」

「ほんとだ~。ぜったいそれ、マネされてるよッ!P子、ありえないよ、あいつ!」


こうやって、一日ずつ、少しずつ、P子を非難する仲間を増やしていく。
いじめは、まずは安易に同調する仲間づくりから始まるのが常の作戦である。
決して一人だけで、言いたいことを相手に伝えていく正攻法をすることはない。
それは、交渉、であり、話し合い、ということになるから、いじめにならないのだ。
いじめになるのは、安易に同調する取り巻きをたくさんつくる、という状況づくりがあるかどうか、だ。

で、どうしても、マネは許されるべきか許されないか、ということが、小学校の教室では大問題になっていくのであります。

でも、世の中、大人の世界は、マネは許されない、という世界だから、どうしても小学校の教室でも、「マネはいけない」ということになりがちである。(道徳的解釈と法解釈と人権的配慮などすべて混在するテーマを分けて考えることになる)

これが、いじめ発生の伏線、温床となるから、先生たちは神経をとがらせるわけだ。

大人の世界と子どもの世界、ここらが、狭間というか、くいちがう部分と言うか、相いれないところなんですよねえ・・・。

小学校教員は、毎日こういうことに接しているから、性格が屈折してくるのではないだろうか。
そうならないように、混線しないようにしないと・・・。(小学校の教室、学級は、大人の勝手に作り出した虚像の民主主義とはちがう運営でなければ子どもが納得しない、ということネ)


つまり、子どもは、大人社会は、ほぼ完ぺきに近いシステム、機構、になっている、と思い込んでいるが、

現状は、ナショナリズムや民主主義をはじめとして、すべての社会機構がまったく人間向きで完璧というわけではないからだ。

縄文時代13




責められない、ということ

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このブログは、新間が日々の雑感を書き連ねているのだが、以前はもっと、ずっと品がよかった。
ところが、なんだか最近は、言い方がストレートになってきて、かなり毒も混じりはじめている・・・。

(岡崎の教師をしながら、考えることはますます先が尖ってきてしまっているようだ。普通はもっと、歳を取れば、丸くなって行きそうなものだがな〜・・・)


さて。
責められない、ということが幼い頃から、しっかりと心の奥に根付いていたら、

かなり大胆な人に育つだろう、と思う。

そして、人が人を責める、ということのはかなさと、意味の無さと、薄っぺらさに気付くのも早いから、自分が人を責めることもしないだろう。

だけど、これはかなり、むずかしいことだ。

しっかりと、


「人に責められたら、恐怖を感じろ!」


と学習していくからね。
幼稚園、保育園、小学校・・・。

縄文時代11



責められたことがない、という子。

いちばん強いと思うね。

こういう子を特別に育てておいて、国連とかで国と国の話し合いに参加させると、面白いだろうと思うなあ。

だって、責められても、恐怖を感じないもの。

国際的な取引の場面でも、ばっちりだよ。
相手が誰だろうが、引かないし、言うことを最後まで言えると思うよ。

縄文時代12

素のままが否定されないということ

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子どもに向かって、

「中学校に行ったら苦労するから、今のうちに〇〇しておくように」

という言い方をする。

こういうことをきちんと教えてくれる先生は、いい先生だ。


縄文時代10



もっといい先生は、

「素のままのきみは、本当に いいね!」

ということを、きちんと、何度も繰り返し、教えてくれる先生だ。



中学校に行ったら苦労するぞ、という先生からは、

脅しと恐怖

をきちんと、学ぶことができる。


そして、

素のままのきみがすてき

という先生からは、

安心と前向きさ

を、きちんと学ぶことができる。




たぶん、今の世の中に、より向いていて、合致し、ウマが合うのは、前者の教えだろう。
今の厳しい世の中をきちんと世渡りしていくには、そういう教え方が必要だ。
きちんと、恐怖で動ける人になる。



しかし、今の世の中ではなく、次にくる時代に向いているのは、後者の教えだろう。
おそらく、乱世になれば、後者が強くなる。




あとは、親の賢明な判断にゆだねられる。
自分の子どもを、現代に合う子にするか、次代に合う子にするか。
賭け、ですな。


縄文時代を学ぶことに、教員がまず関心を持つべきだ!

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縄文時代には、稲作がすでに始まっていたことは、もう常識だ。
教科書にも、ぜひそうした記述をしっかりと載せてほしい。
そして、なぜそうした稲作が始まり、定住生活があり、いわばムラのようなものがあったのにも関わらず、何千年という長い間、権力闘争も起きず、組織的な巨大権力も生まれなかったのか、ということに焦点をあてて、学ぶべきではないかと思う。

縄文時代3


また、江戸時代はなぜ、大きな戦争もなく、あれほどまでに見事な町人文化を花咲かせることができたのか。
将軍という超巨大権力が、人々の上に君臨し、ぜいたくにふるまっていた、というイメージも、実はそうではなく、老中も将軍も、わりと質素に、控えめに暮らしていたし、切り捨て御免、という言葉もあるにはあったが、めったに武士が刀を町で抜くようなことはなく、人の命を軽んじていたということもないようだ。今のように警察権力が強大でなかった時代なのだし、不思議でならないことだ。

こうした、「時代というもの、人々の生きる気風というもの、社会の仕組みのこと」について、子どもたちは十分に学ぶべきだと思う。

そして、今のような、人が人を殺すこと、殺すために死んでいくことが美化されかねないような時代に、必要なのは、

どうして戦争や権力争いが起きたのか

という理由を学ぶ歴史学習ではなくって、

なぜこの時代には戦争や権力争いが起きなかったのか


という理由を学ぶ学習であるべきで、どうして縄文時代や江戸時代に焦点が当たらないのか、不思議でならない。世界に誇る歴史がここにあるのに、どうにももったいのないことだ。

縄文時代5

縄文時代が面白い!

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来年度から、また教科書が変わる。

とくに、社会科の教科書が変わるらしい。


そこで、教科書を作成されるえらい先生方に、お願いがあります!!


ぜひ、「縄文時代」を、BIGに取り扱ってほしいです!

なぜなら、縄文時代が、とても健康的に見えるから!!!
理由はわかりませんが!!
そんな予感がするんです!!


とくに、王朝や王権というものが生まれる以前の、
天皇制の「て」の字も発生していなかったような、
ただひたすら、狩猟と採取、および、ちょっとした陸田、水田で、稲作していた程度(と思われている)、あの時代、縄文時代について。


すでに、かなりの人数で日本列島に暮らし、ムラも発生していたような時代。
炊事のあとが見つかり、集団での暮らしも営まれていた時代。
どうやら、何世代かが協力し、何家族化が協力して生きていたようですし・・・。
遺跡後からは、大家族での「一家団欒」のあとが、多数見つかった、という日本歴史上の大発見もありました。

なかでも、

「1949年(昭和24年)に群馬県新田郡笠懸村(現・みどり市)(岩宿遺跡)の関東ローム層から打製石器を発見し、それまで否定されてきた日本の旧石器時代の存在を証明した。」

という、相沢忠洋さんなどは、写真付きで大々的に扱ってほしい。

縄文時代は人間時代



そもそも、人間が人間らしく生きるとはどういうことか。

今の社会常識をいったん棚上げしてみないと、分からない。
いくら本を読んでも、それはもう、今の社会常識からしか出発していないから、本当に考える、という世界へは、たどり着けない。
「人間」そのものの「らしさ」の発揮を最初から考えてみることが必要だ。
そういう思索、思考をすっとばして、ただ単に今の教育観からだけで、教育を語ろうとすることに、無理がある。
それでは、子どもの育ち、人間の大人になる、ということを本当に考える、とらえる、ということはできないと思う。

縄文の頃、すでに一家団欒があった。

聞かれても、答えないよッ

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子どもに聞かれることがある。

質問されて、答えるときもあれば、答えないこともある。

勉強のことは、答えるね。

でも、個人的なことは、答えない。



学級の子どもたちに、少しだけ、秘密をつくる。

ミステリアスな部分を、つくる。

ほんの、少しだけ。

だって、つまんないもん。



答えるかどうかは、コッチが決める。

答える方法も、コッチが決める。

答えるのが当然だって思ってる人、ざんねんでーしーた。


(子どもは、エーッ!!となる)



「先生って、何歳なのー?」

「なんでそんなこと知りたいの?どうしてもシリたけりゃ、あとで個人的にどーぞ」

こんな程度の切り返しなんて、かわいいモンよ。



それでもしつこく、あとで聞きにくる猛者もいる。

「先生、何歳か教えてください」

「なんでそんなこと、関心があるの?」

「知りたいから」

「んー・・・。答えるかどうか・・・、それって、答える人の自由だよねッ!」

「エーッ!!」

「エーッって、なあに?」

「じゃ、先生、先生が今度、おれを当てても、おれは答えないからなっ!!」

「ハハハー。学校は学習するところだから、子どもは答えるのです」

「エーッ」

「学校ってのは、そういう場所。よいか、当てられたら、答えるのだゾ!」

「エーッ!!」

「ハハハー、エーばっかりだねぇ」





このやりとり、場所が廊下だったので、別の先生が聞いて、笑ってました。



しかと。
シカと。

NHK「かぶん」ブログがおもしろい!

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NHKにはお世話になっている。
小学校とNHKは兄弟のようなものだ。NHKの教材のきめ細やかさ、配慮ある放送内容には定評がある。

今、5年生で電磁石の学習をしているが、大型の電磁石装置の映像はなかなか探しても見られるものではない。
ところが、きちんとNHKではその映像を用意してくれている。
おかげで、子どもたちは、目の前の小さな釘でつくった、自分の電磁石のパワーよりも、破格的にどでかいパワーを持つ、スクラップ工場の電磁石を見ることができる。NHKの視聴番組ならではだ。

最近、NHKの「かぶん」ブログ、というのを子どもたちといっしょに見ることが多い。
NHKにはいくつものセクションがあるのだが、かぶん、というのは、科学文化のことだ。
つい先日は、欧州探査機が史上初すい星着陸へ、という記事を子どもたちと共に見た。

「ESA=ヨーロッパ宇宙機関が2004年に打ち上げた無人のすい星探査機「ロゼッタ」は、宇宙空間を10年余りかけて64億キロ飛行し、ことし8月、目標としていた「チュリュモフ・ゲラシメンコすい星」と同じ軌道に乗ることに成功しました。
その後は直径およそ4キロのこのすい星に寄り添って飛行を続けていますが、12日、直接すい星の表面で詳しい探査を行うための小型探査機を放ちました。」


というような記事。

何よりも、太陽系の起源はどうなっているのだろう、水というのはなぜ存在しているのだろう、というようなこと。
こういった不思議について、「どうなってんのかいな」と真剣に、時間をかけて向き合えるのは、もしかしたら、子ども時代をおいてほかにない、かもしれない、と思う。

大人になって、こういったことを考えることができるのは、もしかしたらごくまれに、限られた人かもしれない。仕事に追われ、時間が無い、ハードに働いている今の大人の姿をみれば、のんびりと

「先生、なんで火星に水はないの?」

なんていう子どもの声をきくと、一瞬、わたしは涙ぐみたくなる。

「こういう疑問は、そのうちにひからびて、この子が大人になる頃にゃ、この子の脳内からも消え、どこかへなくなっちまうんではないか」

と不安にかられてしまう。



他にも、この「かぶん」ブログは面白い記事がたまにあり、以前、同じく5年生が社会科で農業を習っていたとき、

無形文化遺産:和食の登録決定…ユネスコ、独自の文化評価

国連教育科学文化機関(ユネスコ)は4日、日本政府が提案している「和食 日本人の伝統的な食文化」を無形文化遺産に登録した。アゼルバイジャンの首都バクーで2日から開催中の無形文化遺産保護条約政府間委員会で決定した。
日本の無形文化遺産は22件目。


という記事をみて、日本食、とくにお米を主食とする日本人の食生活や農業とのかかわりについて、学ぶことができた。他にも、日本のおコメの消費量が復活してきていることや、お米パンとか、コメの消費をUPさせる取り組みが増えてきている、というようなのとか・・・。


この「かぶん」ブログ、他はSTAP細胞のことやら原発のウランのことなどの記事が多いが、これらは非常にむずかしい問題をはらんでいるので、子どもたちが検索して記事を見ていても、私の方はまだなかなかうまく説明することができていない。子どもの中には、こういった、科学系のニュース記事に、食い入るように見入る子もいる。末が楽しみだネ!

エノコロと朝

ぼくの幸せを一番考えてくれているお母さん

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子育てというのは、根拠のない自信がある方が、うまくいく。

そう思う。

わたしは教師をしながら、
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お恥ずかしいことにいつの間にか、「根拠」がなくても自信たっぷりな感じで、話をすることができるようになっちゃった。

実は、教師になってしばらくは、何も自信がないから、本当に悩み、迷いながらやっていた。

廊下を歩くのさえ、どうやって歩けばいいのか、分からないくらい。

どきどきしてた。

だって、教師って、正しいことをいうもんだと思ってたもの。
そして、子どもたちは、教師を、「正しいことを言う人」だと、思っているような感じだったから・・・。
(本当はちゃんと、大人の事情も汲んでいる子がほとんど)


はぁ~~・・・。

思い返すと、新人の頃は辛かったですねえ~!

自信なんて、まるっきり無いんですから!


算数をやるのも、宿題でプリントを出すのも、最初は何をやるにも、自信がなかった。

ところが教室では、「こうしましょう」という指示を待つ、大勢の子どもたちがいる。

この子どもたちを前にして、何を言っていいやら、内心は不安でいっぱいでしたね。



途中で、はっきり分かったのは、

先生が自信なさそうに、不安げに、

「じゃあ、えっと・・・昼休みはドッチボールをやるかどうするか・・・どうしよう・・・」

というようにやっていると、子どもが不安になる、ということ。

逆に、堂々と、こうしよう!と明るく言い放つと、ほとんどの結果がうまくいく。

このことが分かった時、わたしゃ、天地がひっくり返ったくらいの衝撃でしたよ。




そう考えるとね。

自信たっぷりに、明るく言い放つことのできる親こそが、子どもののぞむ親なのかもしれませんネ。


いいでしょうか? つまり、「ころぶかもしれません」が、走るのです。

「よっしゃ!!鉄棒までみんなでダッシュ!!」

と明るく言い放つから、子どもたちもみんな、先生についてきたくなる。



子どもがなかなか寝ないというとき、ふとんを敷き、電気を暗くして、ぬいぐるみを置いて、ニコニコして、子どもを寝かせるのです。とびきりの自信たっぷりな様子で。子どもが、「本当に、ぼくはこれから、ここで寝るのがイイの?」とでもいいたげな不安げな顔をしていても、自信たっぷりに、笑顔で「そうよ!寝るのが最高の幸せ!」と言い切るような感じで振舞うのです。

それを、「じゃ、寝られないから、下へ降りて行って水でも飲もうか」とか、「じゃ、ちょっとお話しようか」とか、

・・・こんなふうに、態度がはっきりと決まらないと、

子どもは不幸です。



子どもは、


「お母さんでしょ!ぼくの幸せを、きちんと分かっているんでしょ!だったら、どうするのが僕の幸せなのか、きちんと教えてよ!」


と言いたくなるでしょうね。要するに、不安になるってことです。


自信たっぷりに、


「これが、今、いちばんいいのよ!」


と、笑顔で、チャーミングに、迷わせないで、一直線に、シンプルに、明確に、分かりやすく、

伝えてほしいのです。子どもはね。



走ろうってお母さんが言うから走ったら、転んだ。

それで、母親を責める子なんて、絶対に居ないと思うね。もともと、そういう、いつもきちんと示してくれて、安心させてくれるような関係性があれば、ね。


空にぼんやりとネ!

決定権について整理する~子どもと親と~

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テレビのチャンネルは、親が決めていますか?
少なくとも、子どもは提案する立場、決定するのは親です。
決定とは、最終的に決めていく、ということです。

ふだんは、子どもが、自分の見たい番組を好きに見ている。
それでいい。
ところが、親が一言、「終わり」と言えば、即座にテレビは終わりです。
あるいは、親が「今日はこれを見るよ」ともしも仮に、言った場合は、
子どもは素直にチャンネルを変えるのです。

○お母さんに向かい、「ぼくに謝って!」と謝らせる。
○「ぼくがえらぶ!」といつまでも主張し続ける。
○親の言うことを聞くから、その代わりこれやって!と親に向かって注文をする。


これは、決定権が親よりも自分の方にあると思い込んでいる子の姿です。
日々、「決定権は親にある」ということを、いろいろな場面で、子どもには教えていくべきだと思います。
決定権がお母さんにある、だからぼくは安心できる、と子どもが心底思えて、母にゆだねられるというのがいいですね。
そのためには、子どものうしろを歩くことです。子どもが先頭を行き、その後をついていく気持ちが要るのです。

「どういうこと?」
と思われましたか?

親が決定権を持ち、先頭を行く、のではなく、
親が決定権を持ち、うしろからついていく、のです。

ここが、講座で話していても、よく誤解されるというか、「よく意味が分からない」といわれる部分です。つまり、通常の考えでいけば、

「決定権を親が持つというんだから、陣頭指揮を執って、子どもの前を歩いていけ、ということなのでしょう?」

というわけです。

ところが、ちがうのです。決定権をもった親が先頭を歩いていると、子どもは育たないのです。



うしろからついていくためには、事前に十分に、準備が必要です。
子どもに何をすればよいか、どうすることが自分にとってよいのか、を考えさせ、親の意見を伝えておくのです。すわなち、それは、「教える」、ということです。

前回の記事では、スーパーの駐車場でのふるまいを例にあげました。車を停めたら、すぐにドアをあけて、飛び出していってはいけない、ドアをそっと開けて出たら、必ず親と一緒に歩く、ということを教えるのです。そして、それがやれたら、すかさず、それでいい、という確認を子どもに伝えます。分かってくる年齢になれば、いいよ、と一言短く言うか、ニコッ、で済みます。まだ幼少の子には、どうしてそれがお母さんにとって嬉しいのかを、事故の例などをあげながら、きちんと説明するのが良いでしょう。

たまの土日、家族で遊びに行こう、ということもありますね。親が行先もやることもすべて決めるのではなく、いくつかのアイデアを出しながら、子どもに決めさせるのがいいでしょう。土日の遊びのメニューを考えさせたり、次の日の夕飯のリクエストをさせたりしながら、可能であれば、子どもの意見を尊重して、できるだけかなえてやります。
いつ寝るか、何時に起きるか、いつ歯磨きするか、などの生活スケジュールのことやお金に関することなどは親が決めるでしょうが、テレビのチャンネルの選択、くつをそろえる位置、もののしまう場所など、親が最終決定するけれど、子どもが考えてよい範囲(選択可能範囲)があるのであれば、子どもの意見に添うのです。

選択させる、というのがおすすめです。A案とB案とC案を子どもに提示します。ふさわしくないけれど、子どもが言いそうなD案は親があらかじめ取り除いておくのです。AとBとCだったらお母さんはどれでもいいよ、というのです。そして、そのどの案も、子どもが選んだ案については、子どもが「選んでよかった」と思えるように親が全力でサポートします。結果、子どもが笑顔になったら、「いいアイデアを選べてよかったね!」と共感します。子どもは親の笑顔を望んでいます。だから親は「この範囲がよい」と前もって子どもに伝えるのです。

もちろん無理なことは無理で、親が最終決定をします。要するに、
「子どもが何を決めてよいか」ということの最終決定を、親がするのです。

物事の最終決定権が親になくて自分にあると思っている子は意外と多くいます。その誤解を解くために、時間をかけて、少しずつ教えていくことが大事です。

大人が話をしている途中で、口をはさむ子がいますが、それがチャンスです。「今は大人が話をしているから、黙って聞こうね」と言って黙らせます。子どもは怒りますがひるみません。そして、「注意されてあなたは悲しかったでしょう。お母さんも悲しかった」と伝えます。悲しみ、という感情を教えるのです。「怒り」ではなくて。

会話は一人ではできません。必ず相手がいます。そして、相手を尊重するものです。自分が仕切っていいものではないのです。会話は毎日のことなので、「会話に口を挟まないのは、相手を大事にすること」という意味は、子どもに浸透していきやすいです。相手の会話に口を挟まない子ほど、自分の意見を言う番になったときに、安心して思い切り自分の考えを言えるようになるものです。区別をつけられるようになったからですね。

(教育機関誌 連載コラムより)

花と水滴黄色

はんぶんおりたところ A・A・ミルン

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休み時間は、いちばん大事な時間。
その子の素顔が出てくる。

職員室へ行く道すがらに、校庭を眺めている先生や、子どもに話しかけている先生がいます。
ふと見ると、校庭へ出ていく若い男性の先生が。

「えー!ひろきくんが鬼って言ってたぞ!」

大声で子どもの名前を呼びながら、急いでくつを履いています。
その先生ご自身も、休み時間が楽しくてしょうがないのでしょう。ハハハ。

子どもだけでなく、先生の素顔だって、休み時間に見えてくる。


みんな、校庭や中庭、広場の方へ遊びに行くので、教室はがらーん。
なにげなく見ていたら、2階の教室の窓際の隅に、一人の子が立っていました。
窓のそばの、エレクトーンのふたを開けたまま、窓の外を見下ろしています。
弾こうともせず、鍵盤に指を置いたまま、下の校庭を眺めている。

何もすることがない、という感じ。
視線の先には、大勢の子たちが遊んでる。

わたしは遊ばないけど、見ていたい。
なにか、今日は、そんな気分なんでしょうな。


かいだんをはんぶんおりたところに
ぼくがいつもすわるだんが ある


こう書いたのは、『くまのプーさん』で知られるスコットランド人、A・A・ミルンです。
上の詩は、ミルンが息子のためにつくった『クリストファー・ロビンのうた』の中に入っています。
「子どもべや」から出たものの、まだ「どこ」へ行くとも決められない自分。
いさぎよく「まち」へと出ていくほどの自立力もなく、お母さんやお父さんもそれぞれ<なにか>をしていて、自分はいったいどうすれば、と宙ぶらりんのデリケートな気持ち。
そんな、かすかな、目の前の空気と同化してしまうほどの気持ち。
だから、「かいだんをはんぶんおりたところ」、なのでしょう。

かいだんのどのだんにも
このだんと そっくりなだんはない
ぼくはいちばん下のだんには すわらない
いちばん上のだんにも すわらない
だからこのだんが
ぼくのいつも やすむ だんクリストファー・ロビン
かいだんをはんぶんのぼったところに
二かいでもない 一かいでもないところがある
そんなところは子どもべやにもないし
まちのなかにもない
そこにいるといろんなかんがえが
ぼくのあたまをかけめぐる

『ここはぜったいに どこでも ない!
 ここはどこにもないところで ある!』

自分が本当に、心のやすらぎを覚える場所は、いったいどこだろう。
心底の、やすらぎを覚える場所は。


いろいろな、とりとめのない考えが、自由に頭の中をかけめぐるようになる場所は。



教室から見下ろした校庭には、谷川の水のように澄んだ、低学年の声が響いている。

弱者を見捨てる時代の民営化・・・という問題

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「よのなかよとうあんあうとやかやとうあんあうとよかなのよ」

※世の中、与党案アウトや!か、野党案アウトよ!か、なのよ。(回文)


こんなことを書きたくなるのも、今年の12月に解散とか言ってる政府のせいで。



今の社会状況のまま、解散!てなことになれば、

時間がないから、「やる」か、「やらない」か、と極端に考えるようになる。
○二択思考、AかBか、どちらか選べ、という話が増える。
○つまり、第三のアイデアを出すとか、「熟慮」「議論」「黙考」「話し合い」「深く考える」という意識が少なくなる。

○社会不安が増し、最後に頼るのは・・・と考える人が増え、ますます「お金」に執心するようになる。
○社会不安が増し、なんでも裁判ですぐに決着・結論をつける、という簡単安易な方法が強まる。

○弱者を救う余裕はなくなり、どんな立場の人もみんなが良くなるように、という正義はなくなる。
○具体的には、「弱者を救う時代の民営化」とはちがう、「弱者を見捨てる時代の民営化」が進む。


たった一つの対抗策は、

社会的共同体意識を失わないでいること。


たぶん、これから、

<本当の仲>になりあっていく、

〇〇に、振り回されてしまわない暮らしを実現していく、

そういう人間関係をつくっていくことでしか



一番、安心で、ゆるぎない



ところには、行かれないと思うね。





99%、ほとんどの人が弱者

古代文明への興味<統治者のいない社会>

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なにげなく、ボーッとしてテレビ見てたら、
NHKで、メキシコのピラミッドの特集をしていた。

南米メキシコのやつは、面白い。
なんだかちょっと、石の階段が目立つ感じ。
最近、メキシコ・ピラミッドの地下に、「冥界」を表す地下室がみつかり、話題をさらっているそうだ。
形も大きさも、北アフリカ、エジプトのものとはちがっているね。


ところで、なにに興味を惹かれたかと言うと、このピラミッドのできた経緯が面白い。

これまで、古代学者は、文明の起こりは、こうだった、と思っていた。

1) 人々が豊かな土地に定住。
2) 人数が増えて、権力者が登場。
3) 権力者がますます強大な力を持つようになり、その権威を示すために奴隷を働かせてピラミッドを制作。


↑ 大体、みんなこう思っていたでしょう?

ところが、メキシコのものを調べていくうちに、どうやらそうではなかったらしいことが分かってきた。

1) もともと人々には、自然現象(雨季乾季など)を知りたい欲求がある。
2) どこかの土地に、知恵ものがいて、そいつが
   「よし、雨季乾季の目印に、日の出の方角を示す高い建物つくろっと」
3) それが村で評判になる
4) その建物が、正確に雨季乾季の境を示すことから、一躍有名になる。
5) 遠い所からも、その情報を知りたくて、ひとが集まり、定住し始める。
6) 田舎だったのに、ひとが移住してきて、移住組が増え、にぎやかになる。
7) よし、この建物を、もっと豪華にしよう、作り直そう、という感じで、みんなで工事する。
8) ますます評判をよび、そこが都市になる。
9) 王はいたかどうか、定かでない。(明確な証拠がない)




面白いのは、このピラミッドの地下室にあった壁画。

そこに、どう考えても、調べても、「王様」がいない。

エジプトには王様の痕跡や、それを示す「神話」、絵まで残されている。

ところが、メキシコには、「権力者」の姿がない。

どうやら、日本の縄文時代と同じで、明確な「権力者」のいない時代が長く続いていたらしい。

(縄文時代は、今の文明よりももっと長かったので、人類の歴史からすると、「権力者」のいる時代、の方が、めずらしいんですがね。この縄文時代のことは6年生でしっかり習う。)



そんなバカな!!!
統治する立場の者が、いないなんて!!!




ところが、それをふと、自分の学級に当てはめると、

「なんだ、べつに統治する人がいなくても、担任の先生がいれば、権力者はいないでも、まわっていくな」


と思うわけだ。


担任の先生のやることは、どこの国のどの学級担任もそうだと思うけど、
横暴な生徒、いじめ、特権的な態度、偉そうな態度、人を見下す態度、責める態度、をいさめること
であり、
みんないっしょ。同格。ここにいるのは、みんな同じ5年生だよね。
ということを、いつもいつも、万人に示すことであります。

この担任の先生のことを<統治者>と仮に呼ぶんだとしたら、その意味での<統治者>は、存在し得たのかもなあ。そもそも、メキシコのピラミッド時代、社会は統治するもの、だったんだろうか。
今の世は、「人は権力のもと、統治したりされたりするもの」という考えでいるし、そう考えるのが当たり前、という具合になっているけど、もしかしたら、当時は、そうではない社会だったのかもしれない。

エジプトの場合は、どんな<統治>をしていたんだろう。
古代文明学も、どんどんと新しい発見が相次いでいて、どうやらこれまでのエジプト・ピラミッド奴隷制も覆りそうらしいし、王様、という言葉から我々が長く学習してきたイメージも、古いものだ。もしかしたら、実際の「王様」は、今の現代人が考える「王様」イメージとは、まったく違っていたのかもしれない。
われわれが学校などで今、学習してきた「王様」像というのは、強大な権力をほしいままにして、人々の上に君臨し、横暴な法律で人を縛るイメージだけど、それはまあ、どちらかというと、10世紀以後くらいからの、「中世・近代」の王政についての学習イメージが強いからなのかもしれないね。
しかたない、そうやって習って、くりかえし、何度も学習してきたんだもの・・・。


要するに、「権力」とか「統治」とか「社会は混濁するもので、秩序が大事」と考える文明は、わりと最近のもので、人類史全体からみると、わりとレアなタイプなのかもしれないね。

こういうこと、子どもたちといっしょに考えていきたい。

6年生で、「縄文時代」を学習するときが、チャンスかも。

そもそもの、「社会」の起こりについて、学習するって、わくわくする。
それも、これまでの常識的なものではなく、「〇〇ちゅうことになっている」という教科書的な学習ではなく、NHKで最近、明らかになってきたこと、という最新の知見をもとに、学習を進めていきたい。


(↓ これはピラミッドの頂上ではありません。日本の山です。)
誰もいない尾根の道

お母さんだって、傷つくときもあるんじゃない?

.
道徳の資料は、ある新聞からの切り抜き。

病気で入院、手術し、久しぶりに帰宅した母さん。
一か月間ずっと、お母さんの帰りを待ちわびていた小4の男児。
男の子は、少し経つと、お母さんのつくる料理が変わったことに気付く。
日によって、味噌汁の味が、濃くなったり、薄くなったりしている。
おかずの味付けも、変わっている。

このとき、あなたは・・・。

味噌汁をひとくち、口に入れた瞬間に思うこと。
そして、お母さんに何を言うか。

紙に書いてもらった。

A男「お母さん、少し、味噌汁、濃すぎない?」
B男「お母さん、どうして味が濃いの?」
C男「お母さん、これ、まずいよ」


発表させると、男の子がはりきって、上のような回答を発表してくれる。

C児が演技を加えて、お椀と箸を持ったようになり、落語家のように一口すすったあと、

「あ!これ、マズいよ!!」

と大声を出すと、クラス中がゲラゲラ笑った。

「そんなふうに言ったら、お母さん傷つくじゃん!」

たしなめるのは、もっぱら女子の発言に多い。

では、○○さんは、どう反応するの?と声をあげた女の子を指すと、

D女「お母さん、なんだか味がちがうよ?」
E女「お母さん、おいしいんだけど、前とは味が変わっているよね?」
F女「お母さん、大丈夫?前とは味が違うようだけど・・・」


いろいろ出てきた。

女の子たちの回答は、なんだかやわらかい。
そして、少し、配慮があるような感じ。

みんなの回答を見ながら、感想を出し合っていると、

A男くんの回答も、「少し」というあたりに、配慮があるので、いいと思う。
みんなの回答は、最後が疑問文でおわっていて、?マークがあるから、なんだか、お母さんに向けて、どうしたの?だいじょうぶ?というように、気遣う感じがあるから、いい。

というような声が出てくる。

そして、同時に、

「これ、まずいよ!」

と大声を出してゲラゲラ笑われた、C児の意見はどうなんだ、と。
そんなダイレクトに、率直に言うと、お母さんがかわいそうではないか、と。

C児がだんだんと、困った顔になる。

「いや、だいじょうぶだと思うんだけどなあ・・・」

C児は、ふだんから口が悪い。
言葉がキツい。
ここぞ、とばかりに、女子ばかりか、男子までが、

「そうだよ、まずい、なんて言っちゃったらダメだよ」

と、指摘する空気になった。

こういうこと、多い。
気に食わない反応をする人を見ると、叩きたくなる。


C児に、どうしてそれでも大丈夫だと思うの?と聞くと、


「いや、お母さんなんだから・・・」


とのこと。

つまり、お母さんになら、絶大の信頼関係があるんだから、ぼくはもう、何を言ったって、大丈夫だ、というのである。

「いや、だめでしょ!お母さんだって、傷つくときもあるんだから」

という意見と、

「C君が、C君のお母さんに言うんだから、それならいいかもしれない」


という意見と、両方出てきた。

そこで、

「C君、もしも、友達の家に遊びに行って、そこで例えばクッキーかなにか、焼いてもらったのを食べさせてもらったときに、まずい!と思って、すぐに、これマズイですね、と声に出して言うかい?」

と確認すると、

「そんなこと、ふつう、言わないっしょ!!」

とC君が慌てて否定したため、クラスの女の子たちも、幾分納得したような感じになった。


次に、お母さんの事情が分かる文を読む。

「実はね、手術をしてから味と匂いが全くないの。だから、料理の味付けがてきとうになっちゃって・・・」お母さんは深いため息をついた。そう言われてみると最近のお母さんはあまり食事をしなくなった。作るおかずも特別な味付けが必要ないものばかりだ。
しだいにお母さんの手作りの料理が姿を消していった。かわりに近くのスーパーのお惣菜が食卓に並ぶようになった。

そこで、あなたはお母さんに、どんなふうに声をかけますか。

またしばらく考えて、

A男「お母さん、味が少しくらい変わっても、ぼくはお母さんの作ってくれる料理がいいんだよ」
B男「お母さん、ぼくはお母さんの作ってれる料理なら何でも最高の味なんだよ」


なんとも、泣けるようなことを言う。

ところが、みんなが注目したC男は、こう言った。






C男「お母さん、もう一度、手術したら?」




またもや、女子からものすごいブーイング!


「なんてこというの!そんなことを言ったら、お母さん、傷つくでしょーがッ!!」

叩きたくなるんだねぇ。

C男は相変わらず、別に、思ったことを言っただけで、何が悪い、という感じ。


C男「オレのお母さんは、何言っても、大丈夫なんだって。だから、こんなこと、ぜったい他人には言わないよ。お母さんなんだから、言えるんだよ。友達とか、友達のお母さんとかにだったら、言うわけないよ、こんなセリフ。・・・そのくらいのこと、分かるから大丈夫だってっ!!」

女子からの疑いの視線、いぶかしむような様子に幾分動揺しながら、C男は自分の意見を貫こうとする。

新聞記事の切り抜きでは、作文の作者はどう書いていたかと言うと、

そんな状況を見てぼくは一つの提案を思いついた。ぼくは料理が出来ないけれどお母さんの味は覚えている。だから、料理はお母さんがして味付けはぼくがする。共同で料理を作ることを思いついた。
「ぼくが味付けをするから、一緒に料理を作ろうよ。」

家族が好きなぶりの照り焼きをつくる。
それは、味付けが難しいのでお母さんもつくる意欲を失っていた料理だった。
男の子の提案に最初は驚いていたが、お母さんは息子とふたりで家族のために、ぶりの照り焼きをつくる。
無事に、大成功。
「これだよ、この味なら、いけるよ!」
男の子の歓声に、お母さんはニッコリ。



まとめ。

子どもたちから、ぜひ友達や家族にかけたい言葉として、ふたつ出た。

1) (相手の様子がふだんとちがっていたときに)だいじょうぶ?
2) ぼくに何か、手伝えることがある?
 

まずは、何を言っても大丈夫、と思えるお互いの間柄(あいだがら)がいいね。一番、安心。落ち着く。

すべては、それからのこと。

ソーシャルスキル学習は、根本を見失うと、儀礼と方法とマニュアルの方向だけになる。

木もれ陽
堂々と、何も恥じず、何も恐れず、伸びたい方へ伸ばす。
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