30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2014年07月

通知表はその子の何を切り取って評価しているか

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教員は、子どもを評価しないといけない。
評価と指導が一体なので、「指導」をするなら、「評価」もしないといけない。


さて、ある通知表に、

「林間学校キャンプ場で、毛布を角を合わせてきちんと畳む姿があり、何事も丁寧に進めようとする○○さんの心の成長を感じました。」

とあったそうだ。

総合所見と呼ばれる文章で、担任の先生がそれぞれ思うところを書くところね。

この所見を読んで、どう思われますか?

まあ、この先生、いい先生ですぜ。
文章読んでいても、なんとなくこの先生の人柄が出ている。やさしい感じもある。
ちゃんと肯定的に書いてくれているわけで、おそらく生活全般にわたり、この子に対する印象が、

「いろいろ細かいところまで丁寧にやってくれて、ありがたいな」

というものなんでしょう。この子に対してとても気持ちの良い、すがすがしさを感じているんだろうと思う。だから、まあ、この事例を一つだけ典型的な事例としてここに書いて、ですね、

この子は、いい子です!

という書き方をした(つもり)なのでしょう。




この担任の先生は、毛布の角を合わせてきちんと畳む姿から、心の成長を感じ取った。

ところがここに、もしかすると・・・

とても重大な思い違いが潜んでいる可能性がある!!


単純だけど、

心が成長した子は、毛布の角をきっちりと合わせて畳む(かもしれない)が、
毛布の角をきっちりと合わせて畳む子は、心が成長した子(とは限らない)

ということ。
つまり、内面は当の本人にしか分からないところがあるのに、さもそれを教師が

「言動を見て、分かりました!」

と言っているところに、思い違いがある。
内面を、言動で判断できる、ということが、思い違いというわけ。


同様に、

みんなのことを思って動こうとする子は、ほうきで隅まできちんと掃く(かもしれない)が、
ほうきで隅まできちんと掃くから、みんなのことを思って動いている(とは限らない)

さらに言えば、

心が健康な子は、毎朝元気に笑顔であいさつする(かもしれない)が、
毎朝元気に笑顔であいさつをすれば、心が健康だ(とは限らない)


逆に言うと、

心が荒れている子は、隣の子が牛乳こぼしても助けないかもしれないが、
隣の子のこぼした牛乳を拭かないから、心が荒れている、とは限らない。

心の栄養が不足している子は、校庭のマラソンをしないかもしれないが、
校庭のマラソンをしないから、心の栄養が不足しているとは限らない。








このことがハッキリするだけで、

通知表って、あんまり意味ない、ということが分かってきちゃう。




それから、子どもの一番大切な、内面、心の健康、満足、心の成長ってところが、

あんまり焦点当たってないような・・・



今の社会って、子どもの心の成長に、まともにスポットライト、当てようとしている?


あるいは、社会全体がそうでなくても、

少なくとも、自分の暮らしている子育てコミュニティでは、

子どものどこに、焦点を当てて、親同士で交流しているか?





こういうこと、こうした点についてだけでも、夏にバーベキューしながらでも、語り合える親同士のつながりが欲しい。

(いっしょにバーベキューやる人、募集します。あ、同釜の会もあるな)



清い水を守ろう!

どの傘を使ってもよい、となれば・・・(勝手に想像)

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全世界中の子どもたちは、傘を忘れても、世界中で、

「傘を借してください」


と言えば、世界中の傘を、無料で貸し出してもらえる。



・・・というのはどうだろうか。



子ども用の傘は、全世界、地球上にあるすべての駅のホームで、特別に貸し出しされる。

子どもは、傘の「うっかり忘れ」や「置き忘れ」に関して、一切責められない。


また、子どもは自発的に傘を修繕することができる。
修繕するための場所が用意され、直された傘は、子どもから大人にも貸し出しされることがある。

地球上の傘に関する全責任と発言権は、子どもにある。


たとえ大統領といえど、傘を使用するときには、


「全世界の子どもがあなたを雨から守ります」
「We all children in the world protects you from rain.」


と明記された傘を使用する。

そして年に一度、世界中の権力者が、子どもに向けて

「一年間、ぬれずに済みました。おかげで助かりました。ありがとうございます」

といわなければならないだろう。



雨のあと、ゾウムシの散歩。触覚がぬれた葉に映る。

虫の名前はすべて子ども会議で決める

中国鶏肉期限切れ・・・小学生が中国に思うこと

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5年生の社会科。

日本は、資源のない国だ。
もっぱら、加工貿易をしている。
石油や天然ガス、鉄鉱石を輸入し、代わりに電気機器や自動車を輸出する。


まあ、こういったことを、教科書で学習する。

ところで、教科書に載っている資料を見ていると、分かることがある。

日本が輸出する相手先は、中国がダントツ、トップであります。
さらに、さまざまなものを輸入する相手先もまた、中国がダントツ、トップであります。

輸入する相手としては、2位のアメリカ、3位のオーストラリアをぐんと引き離して、ダントツであります。
また、輸出も中国が一番のお客さんでありまして、2位のアメリカ、3位の大韓民国とはまったくレベルの違う量であります。


これらを資料から読み取って、感想を書くことになっている。

すると、子どもの中で、こんな感想を書く子がいる。

「中国と日本は仲が悪いのに、こんなに品物を輸入したり輸出したりしていて、本当に仲が悪いのか?」

それを聞いて、

「仲が悪いってどうして?関係が深すぎて、ご近所さんを通り越して、親戚みたいなもんなんだよ」

というと、子どもの中には、

「へえ~」

と目を丸くする子もいる。

なんでかねえ。
意外なんだって。
これまで、いったい何を学習してきたんだ。

最近、マスコミががんばって、消費期限切れの鶏肉うんぬん、というので
中国を叩いていますが・・・その影響かな?




さて。

もう何年も前。今の、鶏肉の消費期限切れ問題が取り沙汰されるより、うんと前、中国との間で、尖閣諸島の領土についてうんぬんしたことがテレビで話題になった年から、さらに勢いよく、この輸出輸入の量は増えていっている。

しかし、考えてみると、
本当に、仲が悪いのだったら、交流が減っていくだろう、輸入も輸出も、減っていくにちがいない。

でも、実際は減っていない。
ますます、増えている。

で、マスコミは、そんなこと、ちっとも報道しない。
消費期限切れがどうのこうの、と。
中国の印象をことさら悪くするニュースを、がんばって流しています。
民間レベルでは、つながりが濃くなっていっているのに、政治の方は遅れているってわけ。
日本と中国、市民同士のつながりの実態を認めたくないのだ。



「まあ、テレビや新聞では、仲が悪いようなことを言うのかもしれないけれど、実際にはお互いが必要で、お互いの間柄は、もう離れられないのではないのかねえ」

ということを私が言うと、

「でも、中国、いやだ~」

と言う子がいる。

こうした頭の先の理解というのは、何が原因なんだろう、と思うね。

なんでいやなの、と聞くと、案の定、

「なんとなく」

だって。

そういうのを、メディアにコントロールされた状態だって言うんだよ、と教えてあげたい。



ちなみに、その後、その子が履いている靴をしらべたら、ちゃんと、

「MADE IN CHINA」

と書いてありましたので、

おお、Sさんは中国に住んでいる、なんとかさんがつくってくれた靴を履いているんだね、というと、

「えー!やだーーーーー!」

と言っておりました。

私は面白くなって、

じゃ、着ている服とか体操服とか、筆箱とかタオルとかハンカチとか、みんな調べてみようよ、というと、

男子がおもしろがって教室中のあらゆるものを調べ始め、

子どもたちの予期に反して、

ほとんどのものが、

「中国製」

だということが分かり、みんな、目の前の中国製品の数にオドロキつつ、観念しておりました。




で、最後に、わたしがタネをばらして、


「でね、中国製って書いてあっても、日本人が工場をつくって、材料も日本から運んでつくった、という製品もあるんだよ」

というと、みんな訳が分からない、という表情。

「それからね、日本製って書いてあっても、材料は中国の物、製品が出来上がる前の途中のところまで、中国で作ってたっていう製品もあるんだよ」

「えー?なんでそんなことするの?」




そこから先は、調べておいで、ということに。

夏休みが、始まりますでねえ。




わたしは、最後に、

「日本は資源が少ない国だ、ということになっているけれど、本当にそうか。
日本にある、いちばんの資源とは何か?」


ということを、投げかけておきました。

一人が、海の水、と即答してましたが、無言で笑っておきました。





この国の資源とは

【泣く子も黙る!昆虫クラブ】甘ったれた子どもの精神を鍛えなおす!その3

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ひとりぼっちにでも、虫さがしはできる。

怪我をして、動けなくなった時。
あなたがもし、散歩くらいならできる、というんだったら、虫さがしはできる。

友達がみんな、「忙しい、忙しい」と言って、会えないときでも、
あなたは一人で、虫さがしができる。

予備知識がなくても、虫探しはできる。

時間がないときも、5分間だけ、虫探しはできる。

どこかに出かけなくても、家のすぐ前でも、虫さがしはできる。

お金がなくても、虫さがしはできる。

雨がふっても、雪が降っても、虫さがしはできる。

二人いても、虫さがしはできる。

それが、五人になっても、十人に増えても、仲間みんなで、虫探しはできる。



夜明け前、しずかな池の縁に腰を掛けて、

あなたは、

ひっそりと、恋人同士で、虫さがしができる。


早朝でも、真昼間でも、夕方でも、夜遅くでも、いつでも虫探しはできる。

補虫網があっても、なくても、どちらでも、虫探しはできる。

カメラも図鑑も無くてもいい。

虫の名前なんて、知らなくていい。

自分で勝手に名前をつけてもいい。





3歳でも、虫は探せる。

おばちゃんでも、虫探しができるし、

老人になっても、虫は見つかる。



世界中のどこにいても、

人はだれでも、

虫探しができる。



虫は、

ロシアの湖にもいるし、モンゴルの砂漠にもいるし、

ピラミッドの見えるカイロの露店にもいる。

もちろん、オーストラリアやドイツの森の中にも、ブラジルのオレンジ園にもいる。


パプアニューギニアの、村人の暮らす家にも、昆虫はいる。




虫探しが究極にユニバーサルな、万人に開かれた趣味行為であることは、前にも述べた。




虫の名前は、だれもが、自分で、好き勝手につけるのがいい。

うちの息子は、ビロウドツリアブに、「ピノコのアブ」という名前をつけている。

昨日も、昆虫合宿で、黒と白の縞模様でできた、シャクトリムシを、

「ゼブラ・エダシャク」

と呼んでいた。

なぜなら、背中の色が、黒と白の交互、縞々の、シマウマ模様だったから。



こんなふうに、虫を、心のままに追いかけている人たちがいて、

なんだか、心にあった重いものが、すっかりとれて、ストレスまでどこかに行っちまう。

心が、透きとおって、風が吹きぬけていく。

心がからっぽになるって、なんて身軽なんだろう。

肩の荷をおろせば、心は自然に還ろうとする。




昆虫合宿、おすすめ、です。



風がふくと・・・

【昆虫クラブ】合宿で根性を鍛え上げる!その2

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「これ、ふんちゅうなんで、触らない方がいいですよ」

ふんちゅう?

「糞を食べるやつです。要するに、ウンコにびっしり付くんです」


昆虫クラブに参加し、理科の世界に目を開かれた結果、そのまま中学・高校の生物科学クラブを経て、東京農大に進んでしまったAさんが、丁寧に教えてくれる。

Aさんは、大学の研究室から、たくさんのサンプルケース(透明なプラスチックの入れ物)を持参してきていて、特別な補虫網をつかい、やたらと獲物をとっていた。

その長い竿のような補虫網は、魚を釣り上げるための極太の釣竿でできている。
イルカでも釣り上げるんじゃないか、と思うほどの太い釣り竿を釣具店で購入し、それにアタッチメントを取り付けて、補虫網にしている。

うちの息子はその姿に完全にイカれてしまい、恥ずかしそうに

「ぼくにも持たせてください」


とお願いし、Aさんに持たせてもらっていたが、重すぎて、すぐに交代してもらっていた。

Aさんは、いわゆる糞虫や、オサムシのたぐいを集めて調べているらしく、その羽の色の個体変化を事細かに記録していた。




Aさんは、われわれ子どもたちの群団のすぐあとを追いながら、たまに子どもたちにも話しかけてくれいた。
こういう先輩がいることは、何より子どもたちのためになる。
Aさんがたまにつぶやく、ちょっとしたひと言が、なんというか、子どもたちの頭の上から、彼らの心の中に、沁みこんでいく感じがある。

「チョウのとまり方って、お上品でしょう。まっすぐに、姿勢よく、きれいに止まるからね。でもネ、蛾(が)は、ナナメだったり、サカサマだったり、身体が半分傾いていたり、羽もひろげてみたり閉じてみたり、いろいろするんだよね。」


こういうひと言のすぐあとに、やはり目の前を、ゴイシシジミという小さなチョウが、きれいにひらひらと舞い、うすむらさき色のアザミの花弁の上に、とてもスマートにとまるのを見ると、

「あ、ホントだ!きれいにとまってる!」


子どもたちも、妙に納得できるのであります。



子どもたちは、この大学生のお兄さんに向かって、いろいろと質問をした。

Aさんは飾らず、分からないことは、

「うん、知らないな。ごめんよ」

と言い、

「蝶の図鑑で調べような」

きちんと、どうやって、手を打つのかを示してくれていた。



一度、息子が、妙に黄色い、色折紙の切れ端のようなものを持ってきた。

「木にくっついていたけど、なんですか?」


そのとき、Aさんは、持参の特大補虫網をガサガサゆすっている最中だった。
それで、息子はAさんの代わりに、たまたま近くに居た、別の大人の人に質問した。

すると、そのおばちゃんは、

「うーん、なにかのサナギだよねえ。こんなにきれいな色してるんだから、生きてるよ、これ。チョウの図鑑に載っているかなあ」

隣でカメラを触りながら、同じくぶらぶら歩き進んでいた中学生が、それを聞きつけて、さっそく持参の蝶図鑑を見てくれる。

パラパラめくって見てくれたあと、

「うーん、繭の写真は少ないんですよねえ」

それで、なにか気が付いたらしく、

「もしかしたら、蛾の図鑑の方かもしれない」

と言い、別の中学生に声をかけてくれた。

声をかけられた方の中学生は、蛾も掲載されている、『蝶と蛾の図鑑』を持ってきていて、それで調べてくれた。

しかし、それでもよく分からない。

「やっぱり、イモムシ図鑑の方かも」

すると、いっしょに参加した小学校の子が、イモムシ図鑑を親のバッグから取り出し、親子でそろってみてくれた。

「イモムシ図鑑にも、繭が載っているからねえ」

しかし、なんだか、それでも、よく分からない。
繭は、掲載されているのと、いないのと、両方あった。


すると、最終的にやはり、Aさんが呼ばれてきた。

Aさんは、この黄色い、美しい繭を見ると、

「繭の図鑑がいいですね。調べるなら」

と、言った。

そして、カバンの中身をちらちら見て、

「繭のハンドブック、今日、持ってきてたかなあ・・・」



つまり、フィールドに出たら、

○蝶のハンドブック
○イモムシのハンドブック
○蛾のハンドブック
○繭のハンドブック


というふうに、どうやらたくさんのハンドブックがいるもののようであった。


結局、その折り紙の破片のような小さな黄色の繭が、いったい何の繭なのか、判明はしなかった。
しかし、わたしは、なんだかこの件だけで、この世界の奥深さが、よく分かったような気がした。

それにしても、分からない、という価値を、本当に大人から子ども、幅広い世代で、同時に味わうことになるなんて、まためったにない、得難い経験をした、と思う。

昆虫クラブのモットーは、

みんなで首をひねろうよ


なのであります。



ハンドブックで確かめながら・・・

【昆虫クラブ】合宿で心身を鍛える!(その1)

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ずっこけ3人組が活躍をする、ずっこけ昆虫クラブが、近くの山荘で合宿をいたしました。

お世話係りをしてくださるのは、市民の有志の方です。

子どもたちは、小学4年生から高校生まで。OBの大学生も来てました。


「歩きながら、理科の目、科学の目を育てよう!」

という趣旨ですね。


今の時代、自分の目で確かめたり、頭で考えたりする前に、
インスタントで送られてくるマスメディア情報だけで、

「わかった」


という気になってしまうことが多いので、そういう非科学的な、情報盲信体質とはオサラバしまして、子どものときから、科学的に、多角的に、発見的に、

「本当はどうか」

調べる体質(すぐには騙されないでいて、しばらくの間はいろいろ調べたり確かめたりしてみようという体質)を、子どもたちに育てたい、という趣旨であります。



(・・・一応、趣旨はそういうことになっているのですが、
まあ、裏の事情でいえば、単純に、みんな、それがオモチロイから、やっているのでありますが)



さて、保護者も含めて参加者全員が昆虫合宿のバスに乗りますと、市の職員の方がバスを運転しまして(一応、市の教育団体に登録されている)、一路、山荘へと向かいます。

すると、さっそく中学生と高校生が、後ろの座席の方で、なにやら楽しそうに始めました。

それは当然で、彼らは小学校の頃から、昆虫合宿に繰り返し参加しているセミプロたちです。
昆虫ファン、というだけで、もうすでに親友になってしまっている。
すでに、絶妙かつ、しっかりとした人間関係が、出来上がっております。

彼らがバスの中で最初に始めたのは、

「昆虫しりとり」

でした。

「科じゃなくて種で言えよ」(←この辺がすでにマニア)

「行くぞ。はい、天下のオオルリシジミからどうぞ!」

「ミ、ミヤマカラスアゲハ」

「ハね。ハグルマエダシャク」

「ク、ク、クジャクチョウ」

「なんだ、チョウが多いな」

「いっそのこと、チョウだけでいく?」

「無理やろ」

「つぎ、だれ?」

「あ、ごめん、水棲昆虫って、あり?」

「えーと、とりあえず、いけるところまでチョウかガで」

「よっしゃ」

「つぎ、Uくんの番だぞ」

「ウかー、なにがあるかな」

「う、う、う、ウー」

「ウマオイ」

「ウマオイってオイ!!できるだけチョウでいけよ」

「お、おれ、思いついちゃった~♪」

「う、う、う、ウー」

「ウンモンテントウは?」

「それ、テントウムシじゃんかよ。ねばれよ!できるだけチョウで!!」

「う、う、う、ウー・・・ないなあ」

「オレ、思いついたもーん♪」

「なに、教えて」

「ウラギンヒョウモン~♪」


「ンがついた!ハハハハ~(笑)」



こんな感じの、マニアックなしりとりで爆笑できる、昆虫クラブの少年たちとともに、バスは山道を行く。

長年、昆虫クラブで鍛え上げられた昆虫少年たちは、何をしていなくても、生きていく自信に満ち溢れている。

高校入学したての少年は、すでに子分ができた、とボヤいていた。

世話人のSさんが、ついこの間まで中学生だったFくんに、

「どう?高校入学して、忙しくなった?」だの、「友達できた?」だのと話しかけていると、

「友達作ろうと思ってないのに、ついてくるんですよ。何人か」

と言っていた。

すなわち、友達など作ろうとしていたわけでもないのに、彼の周りに、なんだか人が集まってくるのだそうだ。

休み時間になって、校庭や体育館の横の庭木や草原(くさはら)で、虫探しをしていると、


「みんな、行くところのない、ひまな連中ばかりなんですけどね。スポーツのできなさそうな、気の弱い連中が、ぼくんところに集まってきて、いろいろ聞いてくるんすよ」

「Fくんはどうしてんの」

「いや、別に質問くらいならいいか、と答えてるんだけど、イモムシとかみんな全然興味ないみたいだから、まったく知らないし。ぼくの行くところについてきちゃうから、なんだか変ですけどね。大勢引き連れて、歩き回ってるみたいになっちゃって」


・・・と、まあ、そういう人生を送っているFくん。
さっそく駐車場を降りると、蛇をさがし始めた。

「ヨーダがいないかな。ヨーダ、ヨーダ」

昆虫少年たちに、ヒマはないのだ。


地球に生きている限り、生き物はそこらにいる。
少し行くだけで、道端に目をやれば、何かしら、生き物が動いているものだ。

彼らは、なにか動くものや、ひっついているもの、飛んでいるもの、ぶら下がっているものを見つけて歩くだけで、十分にこの人生と、地球上に生を受けたことを喜べるのであろう。

ちなみに、ヨーダ、というのは、スターウォーズに出てくる、身長わずか66cmのジェダイ・マスターのことではない。幼蛇、つまりへびの赤ちゃんのことである。

一昨年、この駐車場で幼蛇を見つけ、それでほぼ半日遊べたことから、さっそくあの、オモチロイ幼蛇をみつけて遊ぼう、というわけであった。



昆虫少年たちは、宿舎に荷物を運び終わると、ものの3分ほどで、クスサンの幼虫を見つけ、初心者で緊張気味の、うちの息子に、くれました。

それも、優しいことに、

「大丈夫だよ。これは、毒はないよ」

と、きちんと教えてくれながら。

そして、自分で自分の腕に這わせながら、いかにも、

「イモムシとはこうやって遊ぶのだぜ」

と教えてくれるようにして、見せながら、渡してくれたのだ。
わたしはその行為に、感動をした。

これがその、クスサンの幼虫。

クスサンくれました。サンキュー!

松本大洋の「竹光侍」 ~アウトローの自由~

松本大洋の「竹光侍」

松本大洋について書くのは、ひさしぶりだ。



松本大洋は異端児を描く。

異端児は、世間の価値感とはまったくちがうものを、自身の中に持っている。
異端児は、世間への迎合を、諦めている。
そこには、ある種の悲しみと同時に明るさがある。
そして、世間を尊重しないのではなく、むしろ、尊重する。


松本大洋の描く『異端児』は、いわゆる「世間の奴ら」への関心の無さばかりでない、「世間並」になりきれなかった自分の、世の人へ対する屈折した卑屈な感情もあれば、「うわべで生きやがって」という蔑視、いろいろなものが一気にあふれでる感じで、まあ、もの凄い・・・と思う。


一方で、

異端児だからこそ、自由なのだ

という気ままなものも感じる。

世間に迎合しなくていい(必要が無い)という自由さ。

「竹光侍」は、最後までなかなか剣を抜かない。
だが、抜いたら、彼の刀はぺらっぺらの竹の刀だ。
敵は、剣をぬく直前の、死神のような目と、動物的な凄味、空気が凍りつくほどの殺気で、退散してしまう。
読者はその姿勢に圧倒されるとともに、自由さにあこがれて、喝さいを贈る。



世間を捨てる覚悟があるなら、「真剣を持てばイイのに」と読者は思うけど、それが彼の生き方なのだ。


「竹光」を持つことは、侍の矜持であると同時に、世間様へのいわゆる一つの処世、である。
世間様へ向けて、自分なりに態度を改めている、ということが、彼流の、

「世間」への顔向けの仕方

なのであり、完全なアウトローではない、ということなんだろう。

完全なアウトローでは、幸福にはなれない、ということを、知っているのだ。


彼の姿勢は、自分の自由さを失わないための、武装姿勢である。

その姿勢が、涼しいくらいに定まって動かず、一本筋が通っているから、

彼の心は、「自由」でいられるのだ。





小学校の教師は、この「自由」を、全員に保障することかと思う。



ある意味、クラスの全員が、異端児であるように。

異端児になれるように。



道徳教育の、根本は、


「道徳を超えられる道徳律を身につけられるように」


ということだと思う。



それと、すべての子どもが異端児になれるように、という教師の配慮は、同一のにおいがする。


異端児が許容されるクラス。

異端児であることを誇りに思う児童。

異端児だからと特別視のない雰囲気。

自分が異端児だからこそ、なのか?
「通常」や「ふつう」や「世間」を大事にしようとする、その思い。




「竹光侍」を読むと、文科省の配布する「道徳」本の中身が、ほとんど、ふっとんでしまう。

「道徳」なんて、人をしばろうとする勝手な言いぐさなんだし。

しかし、同時に、(これが逆説だけど)

「竹光侍」を読むと、「文科省道徳」を、悲しいけれど、大事に読もうか、という気になる。



今の時代、

人間が、素になれない、なりきれない。

しかし、心の底の、その奥底では、やはり、

素でありたいのだ・・・と、熱く、願っている人、ばかりだと思う。



異端児

・・・ちゅうことになっている(情報リテラシーの授業)

.
テレビ局は、「中立の立場」をとることに、なっている。

この、・・・ということになっている、というところが、情報リテラシーの肝心かなめの部分。

実は、・・・ということになっている、(けれども、そうなっていないこともある)、ということが、情報リテラシーの学習で、いちばん大事なのだ。


TBSというテレビ局が、「町の声」として、「いつもでる町の人」を使った。

映像を見ると、芸能人の事件の時になると、なんだか何回も出てくる女性の人がいて、その人が今回もインタビューに出ている。

そして、いわゆる適切な、・・・ということになっている、「町の声」を代弁していた。

これは、TBSの下請けのニュース制作会社が、表向きは、時間をかけて事実実態を報道する・・・ということにして、実際には、役者さんを雇ってセリフを言わせることにより、短時間で仕事を済ませていた、ということなのだが、それを、いかにも

「たった今、ふつうに街を行く人に、たまたまインタビューしたのです」

・・・ということにした、というあたりが、まあ、問題と言えば問題だ、ということで、問題視されている。




小学校でふつうに情報リテラシーの授業をするときは、最初に、

「WEBは、真実を語っている、ということになっている」

という命題を学習する。

それは同時に、

「・・・ということになっているが、その真偽のほどは定かではない」

ということである。

これを習うから、リテラシーの授業をやった後は、かなりの程度、人間不信、あるいは情報不信に陥る。

「先生、WEBってうそばっかりなの?」

というから、

「いや、本当、ということになっているだけで、本当かどうかは、だれにも分からないんだ。本当に本当かもしれないし、嘘かもしれないし、一部の人には本当かもしれないし、またちがう立場の人には嘘かもしれない」

と答えている。

すると、子どもたちは、とても不満そうである。

「なんで、本当のことを言わないの?」


なるほど、至極もっとも。

「いや、本当かもしれないしね。もっともっと調べてみないと分からない、ということもあるし。また、調べてみても分からないことがたくさんある。時間が経てば、本当になる場合もあれば、時間が経つと、うそになる場合もある。ほら、STAP細胞って、あったでしょう?」

ここまでいうと、子どもたちは



「・・・じゃ、もう、いいよ。なんか、情報リテラシーって、つまんないね」




と言う。


もう、情報にはつきあいきれない、ということらしい。


教育事業で有名な大手企業のベネッセが、顧客リストを漏らしてしまった、というので、お母さんが怒ってた、ということを、子どもが話していた。

「今朝、お母さんが超、怒ってたよ」



これも、インターネットの情報リテラシー授業でやったばかり。

悪意のあるWEBサイトで、住所や電話番号を入力したら、ダイレクトメールや電話がたくさんかかってきて、迷惑をこうむることがあります。


ということで、ほとんどの教育委員会が、こういう事例を、情報リテラシーの授業で推進している。

別に、ベネッセが悪意をもっているわけでもなく、正常な顧客からの要望に応えてサービスを行うために、住所や電話番号などの情報が必須であり、悪意で集めたわけでもないから、ベネッセにとってはとても不幸な出来事だったと思う。

しかし、タイミングが悪すぎた。

「先生、授業でやったとおりになったね」

ということで、先日、同様の授業を受けtた子どもたちにとってみたら、ベネッセは悪意のあるWEBサイトと同列で見なされてしまっていた。わたしは、火消しに躍起になった。

「あのぅ、・・・べつに、ベネッセは悪意で集めていたわけじゃないからね。念のため言っておくけど!」




こういうことが連続で(というかほぼ日常的に)起きていることにより、子どもたちは、「情報」への警戒心をかなり高めている。

ところが、こんなもの、警戒心をいくら高めたって無駄である。

だから、「情報」は警戒しなきゃね

という結論では、なんの意味もない。

小学校での情報リテラシー学習の結論は、「警戒しなきゃ」のレベルを超えて、

「すべての情報には、発信者の願望が隠されているので、必ずその発言の最後に、・・・ちゅうことになっておる、という一文を入れて聞くこと」

ということなんだろう、と思う。




テレビの街角インタヴューは、たまたま街を歩いている人に、質問してる・・・ちゅうことに、なっておる。
個人情報は漏らされない・・・ちゅうことになっておる。
NHKは中立・・・ちゅうことになっておる。
中国が尖閣諸島を狙っている・・・ちゅうことになっておる。
北朝鮮は核開発をしている・・・ちゅうことになっておる。



こうしてみると、

・・・ちゅうことには、一応、なっているんだけれどネ・・・

という感覚が、アタマの中を、勝手によぎるように、なりますわね。


つまり、ほとんど、世の中のことは、分からない、ということが事実ではないだろうか。


・・・で、問題なのは、人間はみんな、「分かりたい病」にかかっていて、「分からない」という状態が、とても苦手だ、ということ。

みんな、目前の世界のことで、いっばい、いっばいだから、早く立場をハッキリさせないと、現象面のことで右往左往してしまう感じがあって、耐えられないのだろう。


しかし。

これからの時代は、「分からない」ということが平気だ、と言う人間がもっとも強いのではないか
おそらく、この「分からないという感覚」をずっと長く保てる人が、もっとも客観的で、もっとも冷静で、もっとも多角的な視野を保てるだろうから。(情報無視とかじゃなくてね。無視もまた苦しいだろう)

情報弱者という言い方もあるが、情報収集量の多寡というより、すぐに全体像が分かった、あるいは自分には分かる能力がある、と思ってしまう思考癖のことだろうと思う。
情報リテラシー


※情報リテラシーの意味

「情報を活用する創造的能力」のことを指し、情報手段の特性の理解と目的に応じた適切な選択、情報の収集・判断・評価・発信の能力、情報および情報手段・情報技術の役割や、情報による影響に対する理解など、“情報の取り扱い”に関する広範囲な知識と能力のことをいう。」(By 情報マネジメント用語辞典)


戦争をしない子を育てるための「超」手抜き講座

.
今のご時世をどう思われますか?
こんな世間の風潮の中では、
「本来、当り前であること」
を確認するのが大事なのだと思います。


「あたりまえ」の世界を確認するだけですから、

・講師はいない。
・道具もほとんどなし。


ちょっと、いつもよりもDEEPに考えるための工夫があるだけ。
参加者どうしのちょっとした一言が、お互いの思考を深めていく。
単純すぎるほどの、手抜きな講座が、
これからの時代、大事になってくるのじゃないでしょうか。

講師もなく、中心になる人物もいない。
日常に根付き、生きる。
いつでもどこでも、やっただけ深まる。
そんな講座を、やってみたい。


「特別なスキルを身につけましょう」という呼びかけではありません。
「ごくふつうの人が、努力なしにやれる子育てが、最高最良であるべき」
という考えのもとに、ちょっと視点を整(ととの)えてみるだけです。

世界中のだれもが「やれる」ものであること。
そうでなければ、「戦争をしない子を育てる講座」は
全人類にとって、役に立つものに、ならない。

アメリカの人も中国の人もアフリカの人もインドの人も
どの国籍の人も「戦争をしない子育て」について考えられる
どの人にもやさしくて、誰にとってもかんたんな講座を発明し、
出来得るなら、世界中に輸出したいものです。

まじめで努力が出来る、という<一部の>人向けなのではなく、
日本の人向け、ということでもなく、
世界中が一人の例外もなく、誰もが参加できる講座にしたい。
だから、ふだん着のまま。
特別なものにはしないのです。


第一回を開催します。

場所:ぼうさんの宿
日時:調整中(夏休み)
時間:
【DEEP1】午後1時~午後3時 * どんな人間関係でありたいか
【DEEP2】午後3時~午後6時 * 上下感・優越劣等感など
【DEEP3】午後7時~午後9時 * 人間関係を豊かにする子
参加費:
DEEP講座1つにつき、500円

事務局:
小中学生より募集中!

内容:(仮)
どんな人間関係でありたいか
同格であるか、同格でないか
ないとしたら、なぜ同格でないのか
上下感、優越感・劣等感、競争意識、勝ち負け感。
上昇志向、支配欲、所有欲。
権利意識、義務感、責任感。
何を子どもたちの内面に育てていきたいか。
人間関係で躓く子、躓かない子。
日が暮れるまで、友達と遊べることのできた空間。
「明日もまた、遊ぼうね」のお互いになる意味。


お絵かきタイム

人生の左折(させつ)

.
「幸福」というのは、もしかすると、

あまり物事が進んだような状態ではない時にこそ、発見されるのではないか

という、かなりシンプルな仮説があります。



てきぱきと進む
順調に進む
計画通りに進む
きっちりしている
ルール通りに進む



ということは、あまり幸福とは縁がなく(ないとはいえないが)

むしろ、


めったに進まず
山あり谷あり
計画通りにいかず
雑然としていて
ルール無視が当たり前



という方が、幸福に縁が深いのではないかと。
(少なくとも、てきぱきと計画通りに進まないことが、即不幸と関係するかというと、あまり関係がないかもしれない)


これは、まったくサカサマで、常識とは逆です。
100人が100人とも、そうは思わないでしょう・・・。

「計画通りに進まないので、たいへんな迷惑をこうむっておる!」

という憤慨は、世の人の多くが、鼻息荒く主張することなので、上記のようなサカサマな仮説はとうてい支持されそうもないです。





しかし案外と、

なかなか、あまり物事がうまく進まないときこそ、かえってみえてくるものがあるもので・・・。



さて、わたしの嫁様は、運転免許を持っているが、運転はあまりうまくない。

たまーに、彼女が運転してくれて、わたしが助手席に乗ることがある。

職場の会合で、お酒を呑んだ日の帰り道、とかね。


嫁様が、

「仕方がないねえ」

と、駅まで迎えに来てくれる日がある。



わたしが、「すまん、すまん」と言いながら、助手席に乗り込むと、驚いて、目が点になる。


アクセルの踏み方が、

とてーも、ゆっくり

なのである。


信号で、右折する時など、はるか遠く、点のようにしか見えない対向車のために、律儀にも「待つ」のだ。
これには耐えがたい感情が湧く。

「なぜ、行かぬ?」
「だって、向うから、来てるし」「(←かぶさるように)来てない!!





一度は、目的地とは違う方向へと走り出すので、いぶかしげに

「え?あっちだよ」(指さす)

「こっちからしか、いけない~」

「???」



つまり、右折が怖いので、次の信号の角を曲がるのがイヤで、

本来なら、右折1回で済むところを、

左折を4回して、


目的地へ行こうとしたのである。

わたしは車内で腹をかかえて笑い転げたが、本人はすこぶるいいアイデアを思いついたことを褒めてほしかったようで、

「いい考えでしょう。これ思いついたときは、感動したよ」

と、明るい顔で、飄々としている。



とまあ、こんなことが繰り返されるので、私にも耐性がついてきた。
今さら何があっても、という心境。

この間は、隣の市の医者へ行くんだけど、と言って、3日ほど、道路の道順のことで悩んでいた。
隣のM市は、大きな道路もあるし、途中に橋もあるから、なかなか勇気が要るらしい。

わたしも、どんなルートがいちばん短いか、ということや、曲がる回数が少なくて済むか、などを調べ、アドバイスをしていた。

彼女は、毎晩のように、地図を見たり、目印を確認したりし、「いよいよ明後日(あさって)だ~」などと言って緊張していたようだった。

そして、前日になって、
嫁様は地図とにらめっこしながら、ようやっと、結論を出した。





「やっぱ、行かないことにした」




理由は、もちろん、

「行けそうもない」

から、であります。


地図を見せ、道しるべになるものを教え、目印をいくつか示し、ほとんどまっすぐ、という無難な道をいけばいい、というアドバイスをしたのにも関わらず、だ。


もちろん!
ええ、すぐに説得しましたとも!



彼女は、わたしの渾身の説明と、長時間にわたる、論語や菜根譚、人生論まで引用した説得によって、心を悔い改めてくれた。

「よし、そんなに言うなら、わたし、いっちょう、行ってみるわ!」




私はホッとした。



翌日、無事に

「今日、○○先生のところまで行けたよ!」

という、嬉しげなメールが届く。

私が帰宅したら、嫁様は、

「今日は、あんなに遠いところにまで行けたから、すごかったよ~」

と、自分で自分をさかんに褒めている。



「ちゃんと、右折できた?」

「ううん。右折は、左折で乗り切った。」

「(不安にかられて)・・・うそ。じゃ、時間どのくらいかかった?」

「えっと、やっぱ、初めてのところだったし、1時間くらいかかったかな」





通常の時間の倍かけて、隣の市まで行けた、ということを、これほど前向きに明るく語れるなんて、やはりすごいと思う。


「やっぱ、左折で乗り切ったのが、成功につながった」


「成功」なんて言葉がスッと出てくるくらいで、彼女のとった行動は、もはや、壮麗なほどに粉飾されている。
しかし、あまりにも当然のような口調なので、ここまで明るく、スッと

「成功につながった」

とか言われると、
そうかー、と、だんだん聞いている側も、
それが気持ちになじんでくるから恐ろしい。
思わず、樽酒で乾杯したいくらいな気持ちになる。


このくらい、自分のことを、プラスで言えるって、すごいよね。


人生は、「左折」で成功する。
(by 嫁様)


人生の左折

子どもたちが未来社会をデザインするワーク

.
えらい人、下々の者、という、「身分」を連想させる発想が、今の世の基準になっている。
明治維新の時代に、福沢諭吉さんが
「人の上に人をつくらず」
ということを言ったが、明治より約150年が経過するけれど、なかなか人は横列には並べず、つねに意識の底で、上下を意識する。


たとえば、買い物。

お店の人がかしこまって、

「ありがとうございます」

と言う。

客は、何も言わない。当然だ、と言うように、ふんぞりかえっている。




レジの人は、ていねいにもおへその前で両手を組んで、

「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

ほとんどの客は、無言。


もちろん、気持ちの上では、

「売ってくれてありがたい」

と思っている人は多いと思うけど、


でも、多くの場合、雰囲気からして、どうなんだろ?

お店の人だけが「ありがとう」を言う ← この感じが、ふつうになっていると思う。



これ、同格、と思ってないからじゃないの・・・?


「こちらの方こそ、売って下さって、本当に助かりました。ありがとうございました。」


わざわざ、こう言っている人、あまり見かけない。



そういや、むかし大阪で野菜を売ってた時は、ナニワのおばちゃんたちはみんな、お金を出しながら、

「おおきに」

って、お店の人よりも(つまり私よりも)先に、言ってたなあ・・・。

もちろん売り手として、私もすかさず、「ありがとうございました」って言うんだけど、いつもお客さんに先を越されていた。



大阪は商人の町だから、

「売ってくれた、買ってくれた、の双方が同格」

という、当たり前の文化が息づいているのかもしれないね。




こういう話をすると、

いえいえ、何をおっしゃる、新間さん。

「みんな、お互いに同格だって思ってますよ」という人も、多い。

「今の平和な世の中、みんな同格じゃないですか。自由じゃないですか」、と。

その気になれば働ける、起業も自由、職業選択も自由、自由主義経済なんだから、

今の社会は、経済も含めて、「人はみな同格」でしょう? と言う。





あやしいぞ、と思ってまうね。

同格、と言いながら、相手の言うことを聞かない。

同格、と言いながら、上下感むきだしで、命令する。つっぱねる。否定する。

そして、周囲からよく思われるために、非難されないようにと用心する。

「あの人に何を言われるか」とびくびくする。

ぜんぜん同格じゃないってネ・・・。



自分がお客にどう思われるか、上司にどう思われるか、自分の評価ばかり考えている時は、同格、という世界には住んでいないってことだよね。

それに、人の悪口言う人は、まったく「人はみな同格」なんて思ってないぜ・・・ってことだしさ。




つまり、今の世の中は、

本当に心の底から自由な人の発想でできた社会でもないし、

本当に他人の視線にびくびくしない人の発想でできた社会でもない。

つまり、「同格」からの発想で、出来てはいない、ということ。経済の仕組みも、社会のルールも。



今、ふと思いついたけど、

これ、小学校で、

「じゃ、同格からの発想で、世の中をデザインしてみよう」

と、ソーシャルデザインさせる授業をしたら、どうなるんかいな。


考えてみたら、次の時代は、次の時代を生きる人たちが自由にデザインしていいわけだから、

文科省は本当は、
「新しい世代のソーシャルデザインワーク」


という授業を各校で推進するべきだよね。

じゃないと、いつまでたっても、天は人の上に人をつくらず、ということにはならないンだから・・・。


天は人の

戦争しないための気長な計画

.
気長すぎるかもしれないが、子どもに力をつけることだろうと思う。

まずは、人とシッカリと関われるようになる力(ちから)。



そして、しくみづくりだ。

ほっといても、人と人との関わりが密になる、しくみ。

ほっといても、なにも指示や命令がなくとも、勝手に、

人間どうしが密な連携を保ち、

「助け合おうよ」

という言葉を待つでもなく、お互いにどんどんと助け合いが増加し、

自然と、努力もなく、かゆいところに手が届くしくみ。


人が育てば、力がつけば・・・

わたしは勝手にそういった世界が、構築されていくのではないかとも思う。

そのためにも、しっかりと、人を育てることだろうと思う。

一番イイのは、自動的に、何もしなくても、人が正常に育っていく仕組みがつくられることだ。

つまり、「努力なしで、放っておいても、すべての人間が、恐怖から免れて安心に包まれていく仕組み」(注※1)ね。


これが、まだ、無い。
発明されてない。



さて、どうするか。


子どもは、いちばん、戦争を嫌っている。

おそらく、本能と思う。



だから、子どもから、始めるべきだろう。

子どもに、しっかりと、人と、むすびつく力を、育てていくことだろうと思う。

方向さえ、間違わなければ、夢はかなうはず。


きちんと、人に対して、自分の希望を伝えることのできる力。

きちんと、自分の考え(借り物でなく)を、把握し、もつことのできる力。

ただし、自分の希望や願望、ねがいを、人に伝えるのには、相当な関門があり、並大抵のことではない。

ほとんどの子どもは、自分のねがいを、そのまま、伝えることができない。

厳しい言い方になるかもしれないけれど、もう、かなりの程度、ゆがんでいる。
直球勝負ができず、自分の願いを妙にねじってしまう。
変化球や、理屈付けや、説得しなけりゃという【力(りき)み】や、なんやかんやで、分かりにくい、むずかしい、こんがらがった気持ちの表現しかできない子どもばかりだ。

自分の中身に重点を置かないから、力がついてないのだろう。

そもそも、「○○したいと願望を言うのは悪い」、という文化で育ってしまい、すでに目が死んだようになったいる子さえいる状態で・・・。

そういう子は、常に相手の言うことに文句をつけたり、勝手に気分を害したりしている。

ちっとも、人と繋がれないでいる。


そこを、なんとか、

威圧や暴力、強制、脅迫、という文化でなく、

対等、同格、という文化で、




人と人とが、お互いに、どちらが優れているだとか、どちらが優秀とか、どちらが強い、ということでなしに、

人が尊重されているかどうかを最大のポイントにして、話し合う、伝え合うことができるかどうか。



惜しいことに現在は、同格という文化がほとんどなく、子どもが自分の意見を正直に言えないし、他の子の意見を、すぐに自分勝手な優劣でさばいて得意がるようになるし、人を馬鹿にすることで薄ら笑いを浮かべるようになってしまってる。


人の失敗をみて、歯をむき出して嗤(わら)うようになったら、末期症状だ。

実は、歯をむき出して相手を嗤う子ほど内面が傷ついていて、自分の正直な気持ちを言えない。弱っている。



この病的なモノの原因は一つ。


人と人とが、同格でないから。


これはかなり深刻なことだ。
親子の関係でも、そう。

決定権が親にあることは明白であっても、人として同格であることには間違いがない。
しかし、多くの人がそこを混線して整理できていないから、話し合うことすらできない。話し合いのスタートラインにすら、つくことができない。

親子間で気持ちも通じないし、心も通じていない。そして、親子であっても、実は心のうちでは、大丈夫だろうか、本当に自分の気持ちは通じ合っているのだろうかと、多くの人が不安を感じている。



同格であることが納得できれば、もうその時点で、通じ合っている。
逆もしかり。通じ合っていれば、「人はみな同格」が自明となる。
ところが、自分は他の人と「同格」だと、思っていないから、戦争が当たり前になる。




「同格」が真実だと見抜く子が増えれば(子どもにとっては簡単だと思うけど)、生涯にわたり、戦争や暴力や人間否定とは無縁で、人生を送ることになるだろうと思うね。


つまり、そういう、同格の文化を担う子どもが勝手に育っていく仕組みが、社会の中に構築されること。


人はどんな文明文化のもとでなら最も幸福になれるのか





※1についての注

(これ、努力なし、ということにしないといけない。なぜか。じゃあオレに能力があるからみんな黙ってついてこい、という為政者が現れちまうから)

算数の難題について

.
算数は、1学年につき、大体、全部で12くらいの単元がある。

1学期ごとに、3,4つくらいの単元をこなすのが普通です。

さて、7月1日、今日でまた、1つの単元が終わりましたので、わたしは単元のテストを実施しました。

テストを実施したあと、1日だけ、算数は、教科書をお休みします。

そして、うんとむずかしい、算数の難題を出すことにしています。

「先生ー、テスト終わったから、今日は難題でしょう?」

子どもたちにも伝えてあるので、そのつもりにしています。

わたしは、これはとうてい、解けそうもないだろう、というような文章題を出します。




ぜったい解けないよ、といってあきらめる子もたくさんいるので、
そういう子たちのためには、またちょっと毛色の違う、おもしろ問題を用意しておいて、

「この問題が難しすぎる子は、こっちのおもしろ問題をやってね」

ということにしておく。




ところで、難題なのですが、おどろくことは、その中学生が解くような方程式を、

なんとかして、解いてしまう子がいる、ということです。




クラスでも、1人か2人ですが。



あとの休み時間になって、


「先生、さっきのでけた!」


と持ってくる子もいます。





こういうとき、子どもはまったく、いつもの感じではなくなります。

なんともいえない、充実感を漂わせているし、こちらが素直に

「できたの??!」

と驚いていることに、自慢するでもなく、間違ったらどうしようと不安になるでもなく、

純粋に、「どうかな?あってた?」と、もってくる。



子どもの可能性というのは、すごいなあ、と感心する。

それと、学校というのは、ふだん、



「迷ったり困ったりすること」



を、極力排除している、のだな、と思います。



さらに、それはとてもいいことなんだろう、と思います。

大多数の子が、算数ができるようになり、わかるようになっていくのは、やはり教え方が長年の教育研究によってかなり工夫されている、ということなのだろうし、大多数の子が苦労せずとも、学校の短時間の学習だけで、できるようになっている、ということは、すごいことです。
また、算数に苦手意識を持つ子は、このことで、心の底から、助かっているのでしょう。



ただし、たまに、



歯ごたえのある課題




が出た方が、いいのかもしれません。

そういう課題でこそ、脳みそが快感を覚える、という子が、少数ながら、いるのですな。




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