30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2014年06月

「哲学教室」みたいな感じで・・・

.
哲学教室・・・らしきことをやってみた。


命題は、

「わたしはロボットではない





これは、自分が精巧なロボットではない、ということを、証明して見せろ、というものである。

結論を言うと、これは、証明はできない。

つまり、


「ない」


ことは、


「証明できない」



という定理に当てはまる。



やくざは、

「それはお前ではないってことを、証明して見せろよ」
「それは嘘ではないってことを、証明して見せろよ」


といって人を脅すのだ、と聞いたことがある。



実は、その証明は無理なのだ。


ある、ことは、証明できる。

しかし、

ない、ということは、証明ができない、のである。




子どもは、そんなことは簡単に、証明することができる、と思っている。
だから、

「ほら、こんなにスムーズに身体が動く」
「目をパチッとやるでしょう。ロボットはできないよ」
「ロボットだったら、おしっこしないよ。でもぼくはする」

などと、次々と、「自分が精巧なロボットではない」ことの証明を言い始める。


いや、でもねえ。
すごく人間っぽい、ロボットも、実はつくられているんだって。


こういうことを言うと、

「知ってる!アンドロイドでしょう!」


きた、きた。
しめ、しめ。

だんだん、と精巧なロボットは、人間そっくりなんだ、という認識が高まっていく。

わたしは詐欺師にでもなった気分がする。



いろいろと議論が進む中で、こういう意見が出てき始める。

「最終的には、家のお母さんに聞いてみれば分かるんじゃないの」
とか、
「いや、最後は、生まれた病院に聞いてみたら分かるんだよ」

などと、言う。

簡単に、
「生まれた時の写真があるから、ロボットじゃないよ」
といって、勝ち誇った表情になる。

ところが、

そうだね。写真があれば、間違いないよね。
といって、私の子ども時代の写真を見せ、

「これは、子ども型ロボットではありません」


と断言して見せる。



しばらくすると、やんちゃ坊主が狙い通りに、

「あ!!でも」


と言い出したらしめたもの。



「もしかしたら・・・それ、ひょっとして、ロボットなのかも」




わたしは、少し困ったように、

先生の子ども時代の写真。これがあるんだから、先生はロボットじゃないよね?

と言うものの、疑いを始めたやんちゃクンは、追及の手を緩めない。


「でも、その赤ちゃんの写真があったってダメだ。だって、そういうロボット、なのかもしれないじゃん!!」




このあたりから、だんだんと教室の空気は異様になってくる。


「もしかしたら、先生はロボットなのかも」


と、冗談のような、冗談でないような、なにか妙な声が出ると、気の弱い女の子は、ひえええと悲鳴をあげたりもする。


「でも、ごはんたべるじゃん!」

「ごはん食べれるロボットなのかもしれないじゃん!」



「あせをかくよ」

「あせをかけるロボットなのかもしれないじゃん!」



こうやって、一つ一つ、反論がつぶされていくと、なんだか、恐怖がしのびよってくるようで、教室は次第にぴんと張りつめたような空気が醸成されてくる。


もうなんだか、心臓がばくばくして、呼吸が荒くなってきちゃったような子がいたら、なんとなくそばへ寄って、



「実は・・・、先生・・・、ロボットなんです~・・・・」

と無表情でいうと、

「ギャーッ!」

ものすごい反応をする。




で、クラス全体が、学校全体が、先生全員が、お母さんもお父さんも、生きている人全員がロボットかもしれない、と恐怖がマックスになったところで、


「では、嘘無しで、正直に言ってね。ロボットじゃない人、手をあげて!」

というと、








全員が、ものすごく真剣に手をあげます。



よかったね、と言って、種明かしをします。




あのね、「ない」は、「証明ができない」んだよね。

証明したいときは、「ある」を言うことになっているからね。





これだけでも、なんだか、とても哲学的です。

子どもも、なんだかしばらくの間、哲学的になるみたい。

面白い問いを考えて、日記に書くこともあります。




「ぼくはどうして、日本に生まれることになったのか、考え始めると止まらなくなりました」
「お母さんとお父さんが日本にいたから、ということは分かるのですが、でもどうして、そのお母さんとお父さんとの間に生まれてきたのか?」
「どうして、その生まれてきた赤ちゃんが、ぼくだったのか?」


・・・・

まったく、なんの哲学的な問いに悩まない子もいますが。
そういう子でも、青年になる入口で、おそらく悩むでしょう。

「なんであの子のこと、好きになっちまったんだ?」

ってね。


まあ、人間、人生長いですから、

たまには、哲学的思考が必要になるときも、あります。


ぼくはロボットではない

授業科目に「哲学」を!

.
「哲学を教科に!」を合言葉に、全国の小学校教師らが、授業科目に「哲学」を加えることをめざして活動を続けている。
全国の小学校教師らがつくる<哲学教育と小学校教師の会>は26日、琵琶湖のほとりにあるカフェレストランにて全国集会を開き、「正しいことはだれが決めるのか」と題する講演やワークショップを行った。参加者は全国の小学校教師の外、PTA、小学生や大学生、地元の漁師も参加した。
活動の目玉となる「哲学マラソン」では、

「幸福は何処にあるか」

という命題を連続42.195時間かけて議論しあった。

「哲学マラソン」は毎年リタイアする者が続出するハードな会合として知られている。会場となったレストランの周りには通常の給水ポイントに加え、頭を抱えて七転八倒する参加者や、突然叫びだす衝動を抑えようと走り出す参加者の安全を確保するため、巨大なエバーマットに加え、「ぷちぷち」として知られる気泡緩衝材を張り巡らせた。

哲学マラソンに参加した最高年齢の女性(88)は、
「幸福の正体はつかめないままだが、とりあえず寝られる」
と、マラソンを完走した喜びを噛みしめていた。

また、哲学マラソンに裸足で参加し、議論の最中もずっと裸足で走り続けた東京都調布市の男性(44)は、
「幸福は裸足にある、というのが私の結論です」
と晴れやかに語った。

他にも様々な催しが行われたが、ひときわ会場で人気を博したのは、「自分の価値観を明確にする」スキルトレーニングの講座と、「思い込みを取り去る」ワークショップ。

「自分の価値観を明確にする」スキルトレーニングの会場では、

○難しいことは言うな
○人の話をさえぎるな
○人を全否定するな


とルールを定めたうえで、

「正しいことは誰が決めるのか」

という命題について、デカルトの「方法的懐疑」を駆使し、難解な意見を戦わせた。
司会者の
「発言は平易な言葉でわかりやすく、一人ずつ順番に!相手を否定しないで!!」
という呼びかけもむなしく、びわこアリーナのメインスタジアムに集まった3000人の参加者は、スタートのピストル合図と同時に一斉に発言を開始、論理的に単純ではなく、容易に理解しがたい意見が錯綜する中、喧々囂々とやりあった。
拡声マイクを持参したびわこ周辺に住む男性(40)が、
「まったく、人の話を聞かないやつばかりで、ここに集ったのは人間のくずばかりだ!」
と吐き捨てるように感想を述べたほか、
京都から参加した若い歌手(19)は、
「正しさに 包まれたなら〜 目に映る すべてのことは ♪ メッセージ」
と何度も繰り返し、トレーニングの成果を表明していた。

思い込みを取り去るワークショップでは、「要らない情報をそぎ落とす108の方法」の著書で知られる新間草海さん(小学校教師)が講師となり、会場となった納豆工房の座敷に老若男女250人が詰めかけ、車座の中心に据えた納豆の<粒>を題材に、「これは何なのか」をとことん疑うワークを実施。
どうみても納豆だ、という小学生に対し、精巧な作り物とも考えられると、<疑い>を取り除こうとしない大学生、それに加えて、これはビー玉だというアメリカ人、グリーン豆だというフランス人、「とにかく早く食わせろ」という小学生の祖父などがお互いの考えを譲らず、白熱した議論を展開した。

参加した小学生は、
「みんな言うことが違ったけど、ちっとも、むずかしくはなかった。教室でもこんな楽しい哲学ができたらいいな」
と感想を語るとともに、納豆をほおばる祖父に連れられ、日没の解散時まで家族で哲学を楽しんでいた。

全国集会は、明日29日、会場を北海道旭川動物園にうつして続行。参加者は、会場のオランウータンとともに「人間の本質とは何か」とテーマを絞り、哲学思考を深めていく予定。

哲学を教科に!






(この記事は、フィクションです)

「どうして?なんで?」 と聞かれたくない子

.
「○○したい」

という自分の願いや願望、要求を、そのまま素直に表現できるだけで、人生がずいぶん楽になると思う。

「そんなこと言ったって、実現しっこないから、言うだけムダ」

という考えもあるでしょうが、

その前の段階で、それを表現できない、あるいは表現してもしょうがない、というアキラメに似た感じを持ち、自分の気持ちの表出に対して、ふたをしてしまっているのは、なんともツライのではないかと思うのです。

言ってどうなるかはその次のことであって、

最初に、自分の、ありのままの要求を、まずは言える、出せる、というのは大事なことです。




まあ、大人になるにつれて、

「べつに言ってどうなるってわけじゃなし」

と、賢く考えるようになるのでしょうが、

それにしたって、○○したい、と、つぶやける、というのだけでも、ありがたい環境です。

そもそも、人間として生まれて、
周囲に自分の要求を受け入れてもらえる、聞き入れてもらえる、ことがあるだけで、人間と言うのは安心感に包まれて、幸福になっていくのですから、

ケチらずに、やってあげたらいいと思うのです。
とくに子どもには・・・。



ところが、ね・・・。




○○したい、というのを言わない子が多いのですよ。



なぜかというと、○○したい、といった瞬間に、

「どうして?」

って、理由を「請求」されるから。


「どうして?」

とこちらが、なにげなく聞いたところ、


「それ。理由を言わないといけないんでしょ。もういいよ」

と、疲れた表情を浮かべて、ふらーっと、自分の席に戻ろうとします。

つまり、理由をうまく言う、ということが、かなりストレス。

だいたいいつも、こういう場面で、上手く言えたためしがないそうです。

こちらはかるーく聞いているニュアンスだから、なんだかその意識のズレに、逆にびっくり。




「どうして?」

と聞くと、

反射的に、

「わかんない」

という子もいます。

つまり、この子は、

詮索されたくない症候群

なのでしょうね。


うまく理由を言えないのを、なんとなく、大人が、

○叱りつけてきたか
○拒否してきたか
○なじってきたか
○「理由も言えないの」と馬鹿にしたか
○「理由が言えないならダメ」とダメにしたか


・・・なんだろうと思います。

だから、うまく説明できないのを、あらかじめ防衛線を張って、反射的に

「わかんない」

というんだろう。

大人は本当に理由を聞きたがるから、面倒くさいよね・・・。



ところが、現実は、「わかんない」、では、済ませられなくなってくる。

友達どうしで話し合う時も、理由が言えないと、多くの友達の賛同を得られないことだってある。

学級会でも、理由が無い意見は、みんなぴんとこないしね。

理由がない、ということで、軽んじられる、無視される、ということになりかねない。

現代文明に暮らす中で、理由を言える、ということは、とても大事だ。








理由を言うのって難しい。



これは、

詰問調でなく、安心してゆったり話せる雰囲気のもとに


「○○○だから、○○したいってことかな」


と、理由を言える練習をしてあげるのがいい。

最初のうちは、理由らしきことが言えたら、それを認めてあげたい。

「なるほどね!それでいいよ」
「そういってもらえたら、うんとわけがわかって、応援したくなるよ」
「そういってくれるから、きちんと、そうしてあげたくなるよ」


理由を言える子になると、かなり、周囲の皆んなが、納得してくれるようになる。


さらには、理由が言えるようになると、よく考えて、行動するようになるよね。

衝動的な、感覚的な、反動的な、やむにやまれぬ動きが減って、

自分の願っていることは何か、と、焦点をしぼって、行動するようになる。



こういうこと、落ち着きのある行動を増やすためにも、


詰問ではなく、

温かい空気の中で、



「どうして、それがしたいのかな?もうちょっと教えてね」
「○○だからかな、それとも、△△だからかな?その両方?」

と、うながしてあげるのがいい。



(ところが、多くの場合、大人が詰問調になるのは何故なんだろうか。
 さらには、理由が言えないことを責める風潮があるのは何故なんだろう。)





ほんとうは、理由が言える、ということが重要なんじゃなくて、
自分にとって、どの理由が一番重要か、ということを子ども自身で考えられることの方が大事なんだろう。
言うのが大事なんじゃなくて、本人が考えられるようにするのが大事。
それを、言わせよう、言うのが大事、とサカサマにするから、違和感が出る。
「言わせよう」とするから、「言えなくなる」。
こんなことばっかり。




↓ でかい

はにわ

バスに手を振りたくなる衝動

地元の愛知県岡崎市。

まあまあ市街地もあれば、まあまあ田舎道もあります。

これは私の住む、山の近くの田舎道のこと。

昔住んでいた、とある県の名前がついた、

○○観光バス

というのが、道の向こうからやってきたわけ。


で、私は運転中だったのですが、こちらの車線から、ずっとその観光バスが見えてて、

ボディの

○○(←県の名前)

という字が、目に入ってきた。





わたし、思わず、運転手さんに、手を振りたくなりました。


で、その直後、びっくり。


なんで、今、自分から、手を振りたくなったんだ?



まったく見ず知らずの人のはずなのにね。






ただ、ちょっと、急に懐かしくなっただけで、ね。

そんな、微細な、ちっぽけな気分だけのせいで、

自分が自分の手のひらを、思わず、

ひらひらっと

させたくなっちゃうなんて、さ。





いやあ、自分で自分の行動に、びっくり!!






あと、道端から見える、畑でなんか作業しているおばちゃん。

その、見ず知らずのおばちゃんに、

なんだか、話しかけたくなっちゃうの。




これも、自分で、びっくり。


話しかけないよ。
急には、話しかけないよ。
現実的には、ね。


でも、なんだか、思わず、声が出かかる。

なんだろね、こういった、気分ってのは。


だけど・・・と、私は考える。

車を運転しながら、自分で考える。



いったい、なんていって、話しかけようと思ったんだろ?
このオレは・・・?


おばちゃんの姿を見て、なんだか急に、のどの奥から、ほとばしりそうになった、その言葉って、なんだろ?




「お天気、いいですね」


じゃあ、ない。

そんな、世間的な言葉ではない。

ご挨拶、というようなのとは、ちがう。

「こんにちは!」

だったろうか?

ちがうねえ。



「ああ、お元気そうで、いいですねえ!お身体、はつらつとされていますね!!野菜収穫が楽しみですねえ!」

無理やり、言葉にすると、こんな感じだけど、まだこんなもの、でもないなあ。


それで、分からなくなって、そのときのおばちゃんを見た瞬間の、
その劇的な感情の湧いてきた、『ザ・瞬間』、という部分の感情を、
自分の中で再度、スクリーニングして、見直してみたらネ。

そしたら、こんな言葉が出てきたのだ。




「あ"-------、おばちゃーーーーーん」




自分でびっくり、とはこのこと。
私はおばちゃんコンプレックスなのか?

でも、それは激しく否定したい。
なぜなら、その運転の最中、10分後に今度は、トラクター乗ってるおじちゃんにも、同じように、



「あ"-------、おじちゃーーーーーーん!!」



という、わけのわからない、情愛というかなんだかが、わたしの喉の奥を、突きあげるようなことがあったので。


おそらく私には、

おじちゃんコンプレックス、というのも、あるのだろうね。




あと、弟コンプレックス。

これは、年下の男性をみると、なんだか無性に、かわいいと思うの。



そして、わたしは、女好きです。(一応誤解の無いように念を押しておきますが)









あと、納豆好き、ネ。

納豆菌とうまく付き合う

自分のことが、好きになりたいときは

.
子どもの、あまりにも無垢な、あまりにも無欲な、友達への愛情を垣間見た時。


自分の友達だから、ということでそうしたわけでもないような気がする。

もう、ふだんの付き合いがどうのこうの、ということさえも超えている。

ふと、隣人の様子を見て、思わず・・・ということ。

だから、「友情」というより、「愛情」という言葉の方が、雰囲気としてぴったり合う。


ともかく、みんな、その子のことが、好きなんだろう、と思う。

彼は、なんの特技もない、なんのとりえもない、ヒーローでもなければ、芸人でもない。

特別なものはなにひとつない、ただの、クラスメートにすぎない。

だが、みんな、その子のことが、好きなのだ。

理由は・・・おそらく、なにもないだろう、と思う。


だって、ほんとうに、ほんとうに、何もとりえのない子なんだ。

唯一の取り柄らしきもの。

その子は、他の子のやることに、あまり文句を言わない。

ま、ちょっと、お人よしの、ボーットしている子、です。



目立たぬ、ひたすらまじめな、ある程度おっちょこちょいな、かなり雑な字を書く、

その男の子のことを、

みんな、なんとも・・・

見ているだけで、すてきな気分になるようで・・・・


この間だって、理科で使う植木鉢を運んでいたら、土をいっぱい教室の中にこぼしちまった。

でも、瞬く間に、3,4人の子が寄ってきて、手に塵取りやほうきなんぞもって、きれいにしてしまう。

だれも、こぼした彼を、責めないの。



で、その子、ありがとうも、なにもないの。


ちょっと、小声で言ってたのかもしれないけど。・・・その程度。



要するに、あまり、器用でもない。

算数だってよく、かけ算の九九から間違えているくらいだもの。

でも、小学校の教室では、大の成功者です。

これだけ好かれていたら、成功者でしょう。
なにやっても、困らない人生を、送っておられます。今のところ。

つまり、苦労知らずね。これを幸福な人生と言わずして、何と言おうか。




こういうタイプの子がいたら、この子の周囲の子を、よく見てみよう。

とくに、この子のことを好きになる子にご注目。

おそらく、この子の魅力を、きちんと把握し、感じられる子って、

自分のことが好きな子なんだ、と思う。





で、ここから。



ふつう、自分のことを好きになろうと思うと、すぐには、どうしたらいいか、分からないよね。

自分のことを受け入れよう、と努力してみても、自分の気に入らない面を無理して好きにならなきゃいけないような気がして、なんだかうまくいかない。

そういう場合、こういう、いわゆる「なにもとりえのない人」を、好きになってみることが、起爆剤になり得る。




一番身近だけど一番わからないのが、自分。
自分を知ろうとしたら、きちんとしたシステムと協力者が要る。
これはなかなか、簡単にはできない。
手間と時間がかかりすぎる。


だから、方向を変えてみよう。

簡単で手軽なのは、ぼうっとしたクラスメートに目を向けること。
そして、その子を好きになるのがいい。

だって、目の前で、生きてて動いているんだから!

友達に興味を持って、関心を向けて。

よく見てみることだって、やれる。

一緒に何かをやろうとすることだって、できる。




自分の人間関係、友達関係の間柄、謙虚に、心の内を、しらべてみようとすること。

解決することがたくさんある。









ありを描いてごらんなさい ↓

ありって、こんなだっけ?

奇異だとみる〜人はなぜ苦しいのか〜


「あの人、変だよね」

言い慣れてるし、
聞き慣れてる。

こういうこと、よく、言っちゃう。



好意的ではない言い方で、相手に向かい、

「あなたは変だ」

と言う目的は、何だろう。

相手に、その行動を止めて欲しい、ということなのかなあ?

もしそうだとすると、やめさせたくなるのは、なぜなのか。
冷静に分析してみたくなる。


相手の行動に不協和音を感じずには居られない自分の心の状態。




目の前の人の行動を見て、
自分の心が、ざわめいてくるのは、なぜか。
落ち着いて、心の内を、分析すると・・・?


やめさせたい、というほどまで、
強く強く、口を出すのは、なぜか。(時には、手まで!)


「私の心が、どうにもざわめいて仕方がないから、頼むから止めてくれ」


と頼んでいるのなら、まだ、話しがストレートで、分かりやすい。

そうではなく、

「お前は、変だ」

というのね。ややこしいよね。


自分が困っている。

自分の困り感を、解消したい。

それで、いい考えを、思いつく。

つまり、相手に、行動を、変えてもらうのだ!


そのわりには・・・、


どうも、謙虚でない。

なんだか高慢な態度で、

ありがとうも何も言わず、相手に向かって、

態度を変えろ

と、脅す。

でないと、お前の存在を否定するぞ、そしてみんなに言いふらすぞ!

「あいつ、変だ!アタマ、おかしいんじゃね?」


⬆︎ほら、脅迫してるよね。


たぶん、素直に、謙虚にお願いしたり、話したりする余裕すら失ってしまって、
精神的に、

追い詰められている

からだと思う。

自分が、追い詰められていることを、知らない。

だから、苦しい。
謙虚になれない。
優しく、普通に、振る舞えない。
それどころか、人を、脅すようになる。

まあ、脅してる自覚もないし。
謙虚でない、という自覚もない。
自分の心の状態が、苦しい、ということすら、否定したい気持ちになってるのかもね。(⬅︎だから苦しい)



虫を鑑賞してる方は、楽しい。
裸足でランニングする側は、快適。
イモムシを眺める側は、心が躍(おど)っている。



そうではなくて、

「あいつ、変だ」 と、言う側は、

苦しさをかみしめている。

相手と溶け合えないから、苦しい。
なにかが腑に落ちないから、苦しい。

奇異な目で見る、ということ その2

.
昆虫合宿、というものがある。

昆虫クラブ世話人のSさんに、それはいったい何ですか?と聞くと、

「えっと、・・・・蛾を肴(さかな)に酒を飲むのです」

遠慮がちに教えてくれた。

「え?ガって、あの蛾ですよね」

わたしは、一瞬、ドキッとする。

「・・・蛾が、肴(つまみ)になるんですか?」

「あ、え、えっと・・・。あ、食べるんじゃないですよ。見るだけです」




びっくりした。

べつに、「昆虫食」をするのではないらしい。

ただ、やはり、

「蛾を見ながら、酒を酌み交わす」

というだけでも、ちょっと変人っぽい。



さて、Sさんには、悩みがある。

このところ、苦情が多くて、なかなかそういうことをさせてくれるキャンプ場が無いらしい。

かつて、とあるオートキャンプ場で「昆虫合宿」をした。

なるたけ遠慮をして、すみっこの方で、多くの人とは別の方向を向いてテントを設置していたのにも関わらず、通報されたそうだ。

「あやしい人物が、夜になって懐中電灯を照らし、うろつきまわっている」


たしかに、夜になって昆虫をさがしていたら、通報される。

キャンプ場だと、懐中電灯でそこらじゅうを照らすのは、はばかられる。

それで、何年か前から、いわゆるキャンプ場でなく、青少年の家のようなしっかりとした建物のある場所にした。

テントで寝る人はいないので、大丈夫。
みなさん宿舎の中でお休みされるから、こちらは気兼ねなく昆虫をさがせる、というわけだ。

ところが、また苦情が入った。

「あやしい人物が、気持ち悪い白い布をひらひらさせながら、人を脅かそうとしてうろつきまわっていた」


昆虫を集めるための白シーツ。
広げて枝にかけ、ライトで照らし、カブトムシやクワガタ、蛾やカナブンを集めていたのだ。

虫好きだったら、当然ピンとくる、いわゆる「ライトトラップ」である。

白いシーツをもって歩いているだけでも、十分に怪しく見えるのでしょうなあ。

そこに懐中電灯のライトの光を当てて、なにやら人影がゆらゆらと揺らめいているのを見たら、知らない人は恐怖を感じるんだろうね。



そこで、次の年は、本当に建物から離れた場所まで、苦労して移動することにした。
ライトをタオルで包み、わずかな光をたよりに苦労して苦労して、宿舎から離れ、ようやく明かりを灯して、ライトトラップを仕掛けたところ、わんさか虫が集まって、マニアたちは大喜び。
数秒ごとに新しい蛾を発見しては、

「おおっ!!今度はでっかいスズメ蛾が来た!」

とコーフンして大騒ぎをしていたところ・・・



またもや通報された。



「森の奥で、大勢でライトを照らし、怪しいお祭りのようなことをしている」



昆虫合宿のSさんが、現れた警察官に、

「我々は昆虫を見ていました」

と言ったところ、まったく信じてもらえなかったとのこと。



「昆虫の保護団体だ、ということや、昆虫学会のえらい人の名前を出して、連絡先も名刺もすべて出しても、信じてもらえず、おまわりさんにさんざん謝って、すぐに撤退しました」




「そのおまわりさん、ライトトラップのこと、知らなかったのでしょうかね」

「そうなんですよ。シーツに虫がついているのを見せて、これがトラップだって説明しているのに、なにもピンとこないんです、そのおまわりさん」


昆虫リテラシーの低さ。
警察官のレベルを物語る。


すべての警官に、

○少年時代、虫をとらえて遊んだ経験があるかどうか
○知っている昆虫の名前を10言えるかどうか


警官の採用試験に、取り入れてほしい。


Sさんは、

「奇異な目で見られるのは慣れてますけど、奇異でもゆるされる社会がいいですねえ。奇異だと、攻撃の対象になるんですから、日本という国は、虫屋にとってはツライ社会です」


奇異な目で見る、ということ。
奇異だ、と、とらえる。
最初から、奇異なもの、を、探してる。

安心したい、の、裏返しかな。

奇異なものを攻撃すると、なぜか、ちょっと、スッとするからね。

一種の清涼感というのか・・・。

似非の安心感?病的やね。

本当に安心できる心の状態とは、全く違う。

写真は、オニヤンマのやご。↓↓

おにやんまのやご

奇異な目で見る、ということの暴力性

.
ある人を、奇異な目でみる、ということ。

このことの異常さに、当の本人は、まったく気づかない。

自分自身が、「奇異だとみる視点」をもつことの、異常さに、気づけない。

それで、「あの人、変だよね」、と、言ってしまう。

「あの人、よくわからない」と、言ってしまう。

「なんなの、あの人」

だって。

自分の基準こそが、世界標準だと思っている。

わたしの思う「世界標準」が、真の「世界標準」だと思っている。

わたしは正義、と。



Fさんのブログに、四つん這いで走るランナーのことが紹介されていた。

四つん這い?

走る?

その時点で、目がテン。


Fさんのブログによると・・・

四足走行でギネス世界記録を持つ「いとうけんいち」さん(32)。
動物園で見たサルのマネをして、四つん這いで走る練習をしていた。

「日本だとみんな逃げていくところだが、米国人は『お前何やってるんだ』と聞いてくる。『サルのまねだ』というと大笑いして肩をたたいてくれた」。

この幼子のような純真な感動とそれへの受容環境が、後の彼の道を決定づけたようだ。


・・・と、書いていらっしゃる。



大笑いして、肩をたたいてくれた。



このことは、いとうさんにとっては、かけがえのない体験となる。



教室では、どうか。

「あなたはヘンです」


というメッセージを、子どもたちに、植え付けようとしていないか。

ヘンだからやめろ、
ヘンじゃないから良い、

ということで、子どもを操作しようとしていないかどうか。



わたしは最近、土日のたびに虫の写真をとって、月曜日に子どもに見せる。

とくに、イモムシ関係の写真になると、子どもたちはさまざまに反応する。

「ギャー」

「先生、見せないで!」

「気持ち悪い!」





わたしは満悦しきって、ある子をさがす。

気持ち悪い、というのでなく、目が輝いてみている子。

以前、校庭の中の木のうちで、枝と葉から、サロンパスのにおいがする木を教えてくれた、Fくんだ。

その子と視線を合わせて、


「どう?きれいでしょう」



すると、Fくん、なんと返答したらいいのか分からないから、戸惑っている。

そのやり取りを聞いたほかの女子は、

「えー!きれいだとか言ってる!先生、おかしい!」




わたしはますます満悦して、

「きれいだよね。ほら、このラインが。オレンジ色もいいし。きれい~」



すると、Fくんは、

「うん。オレンジがいい」


とか、言ってくれる。

わたしは、無言でそのまま握手する。

彼はとびきりの笑顔になる。

それを見て、女子はますます、おもしろがって悲鳴をあげる。

「きみは、イモムシの美しさがわかったんだね。教師冥利に尽きるよ」

わたしは窓の外に視線を一度とばしてから、もったいぶって彼を見つめ、芝居がかった声で、

「イモムシの美を理解した君も、本当に美しい心を持っている」

とつぶやくと、もう教室は悲鳴と怒声が入り混じって、大変になる。



ところがね。



おもしろいのは・・・・






あとで、休み時間になって、




イモムシの昆虫図鑑を、



だまーって、



見ている女子が、





ほんの数人ですが、





出てくるんですよ!!

(これが不思議だねえ。子どもって)


写真は、いとうけんいちさんの四つん這い走法。↓↓
いとうけんいち

「あのお兄ちゃん、ぜんぜん挨拶しないよ」 さてあなたは・・・?

1年生の担任だったわたしの耳に、こんな言葉が聞こえてきました。

「ねえねえ、先生。あのお兄ちゃんったらね、ぼくがあいさつをしているのに、ちっともあいさつしてくれないんだよ」

かわいい目玉をくりくりさせながら、背の小さなMくんは、高学年のお兄ちゃん達の姿を、チクリ、と言いつけます。

「そうなの。Mくんは、きちんとあいさつをかえしてほしかったのね」

わたしは朝一番の忙しいときですが、宿題のプリントをめくりながら、できるだけ反応してやります。

「そうそう。ぼくはちゃんと、大きな声でおはようございますを言ったのにね」

「そう。えらいねえ。Mくんは、おはようございます、を言えたんだねー」

「高学年の人のほうが、ぜんぜんあいさつをしないんだよ」

まだ、Mちゃんは、不満そうです。

さて、どう対応しますか?




これ、いろいろと考えがあるでしょう。

教師として、どんな対応をとるのか。

その先生の、考えの中心、「軸足」が見えてきます。



どこに、もっとも、考えの重点をおくのか。

指導の重点をおくポイントによって、さまざまな対応が生まれるでしょう。

そして、その指導によって、半年後、1年後の、教室の雰囲気まで、なんとなく想像がつくなあ。



さ、次のどれ?

1) ちょっと高学年のお兄ちゃんたちを呼んでくるから、ここで待っててね。

本当に高学年のお兄ちゃんが本当にあいさつをしないで通り過ぎたのかどうか、Mくんがいい加減なことを言っているのかどうか、きちんと真実を確かめる。

2) お兄ちゃんたちに、きちんと挨拶をしてもらおうね。

高学年のお兄ちゃんたちを呼んでて来て、Mくんの目の前で、「高学年はお手本になるんだから、きちんと挨拶をしなさい」と指導する。

3) いけないお兄ちゃん達だねえ。

あいさつもしない高学年なんかにならないように、Mくんは立派な高学年になれるよう頑張るんだよ、と諭す。



これ以外の対応もゴマンとあるでしょうが、いずれにしても、どんな「軸足」スタンスかによって、半年後、1年後、もっといえば、10年後、30年後までが見えてきそうです。

これだけでも、一晩、語り明かせそうですねえ~


(新間は4番の・・・・)
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怒るときの気分について

ある日、ひょっとしたときに、ふと気になった。

怒りの思いが出てくるとき、いやな気持ち(感情)になるな。

なんでだろう。

怒りの思いが出てくるとき、すてきな気分(感情)にはならない。

なんでだろう。



このことだけ、

このことだけを、気にして、しらべてみたい。

なんでだろう???

開店ダッシュ!

.
10時開店。

店の前はもう混雑しだしてる。

「へえ、けっこう、お客さんが並ぶんだな~・・・」


軽快な服装をして、買い物バッグを肩から下げたおばちゃんたち。

熟年層の元気な姿を見ながら、ボーッと感想をもつ。

いやいや、ボーッとなんて、しちゃいられない。

貴重な休日、買い物に許された時間はわずか、だ。
気を引き締めて、トイレットペーパーの絵柄をイメージトレーニングする。

「あれ買って、その後、これ買って・・・」

買い物リストの順をイメトレしながら、わたしは心拍数を高めていく。



夏服姿のおばちゃまたちと、同じテンションでドアが開くのを待ち、

さっそく!!

お目当てのトイレットペーパーに猛然と襲いかかる。

手前を歩いている、背の低いおばさんの頭ごしに、ひょいとつかむ。

そのまま野菜売り場の日曜朝市コーナーを素通りして、
調味料コーナーの特売サラダ油をめざす。

オッケー!

調味料コーナー、まだいける!それほど混雑してない!


特売なのに、まだ5,6人しかいない。
混雑度が高くないし、
おまけに、おばさんに比べてスピードに劣る、おじさん連中がいない。

今のうちだ!


陳列棚の間(あいだ)、カートをすごいスピードでころがしながら、
瞬時に混雑度を行う。

調味料、魚、パンのコーナーは今の時点でイエローだ。
4割引の冷凍食品、入り口近くのトイレットペーパー、
おまけに朝市の野菜コーナーはすでにレッドゾーンだろう。
 


あっ!



視界のすみに、インスタント珈琲のビンが目に入る。
値段の安い、黄色の値札だ!

広告商品の証拠である。

わたしは、とっさにカートを右折させた。

小さなタイヤがきしみ、ドリフト状態になる。

おおっ!
ゴールドブレンド!安い!

これは学校の職員室用で確保。

思わぬ掘り出し物に、頬がゆるむ。
ふたたびカートの速度を増しながら、一人でニタリとする。



野菜売り場はあと1時間はレッドゾーンだろう。
先に、余裕のあるコーナーの買い物を済ますのが、こんな日の、賢いふるまい方、というものだ。



ちなみに特売日は、

おじさんの動き方や歩き方

に注意すること。



おじさんはほとんどが
おばさんにリモートコントロールされているので、
動きがにぶく、スローモーだ。

その点、おばさんは自分が財布を握っているので、判断が速い。

おじさんは、いちいち、女房の顔を見ながら
その指図を受けて動くので、ウゴキが遅いのだ。



「あんた!それはお一人様1点だから、そこ動かんどいて!」

突如あがった、大声の指示!


見ると、目をしょぼしょぼさせたおじさんが、
大急ぎで叫ぶおくさんの言葉に、
あ、あ、とうろたえながら歩いている!


「危険だッ !」



カートを旋回----- !!
面舵いっぱいだ !

案の定、おじさんは
サラダ油の前で立ち往生。
道をふさいでしまったこのおじさんをにらみつけながら、
周囲のおばさんたち、わたしと同じようにカートを旋回させている。

おじさんは本当は善い人だが、みんなに避けられてしまう。


「よおし!!
あとはバナナだ!」



ズゴゴゴゴゴォォォォおおお!!

頭の中に、マンガのような効果音が響き渡る。



おばさんたちの喧噪が響く朝市コーナーに、呼吸を止めて、一気に突っ込め!

わたしは、腕をナナメ45度に保ったまま、カートを押して進む。

この体勢をとるために、わざわざジャージを穿いてきたんだ!


脳みそコンピューターが、100gでいくらか、という
計算を始める。

・・・○○グラムで○○円ということは・・・えっと○○÷△△で・・・だいたい・・・


安い!やはり広告商品だ!

あっちのスーパーより、こっちのが、安いっ! (数円だけど)


バナナを2房、放り込んで、


今度は少しでも空いているレジへ!



あのおばさんよりも早ぁく!!


すると、店員が2名協力して清算するレジを発見!これはチャンスかも!



「急旋回っ!!」
頭の中に、戦艦ヤマト古代進の声が響く。


案の定、隣のレジの、しゃれた紫色の服のおばさんよりも
1人分だけ、こっちが速く計算してもらえた!!


・・・やれやれ、買い物って、けっこう激務だね・・・。

(*´з`)

P1000214

写真は、返還前の10香港ドル。

「新間さん、叱っちゃダメなんですか?」

.
記事への反応がいろいろとあって、ひとつは、

「新間さん、子どもを叱っちゃだめなの?」

というもの。


わたしは、逆に、自分で

「叱らないでもいいですか?」

と、遠慮がちにつぶやいているイメージだったんだけど、

読まれている読者の中には、

「叱っちゃあ、いかんっつーことなのか?」

と、疑問符をもっておいでの方もいるようだ。


わたしは、叱るのはダメだから、叱らないようにしよう、というのは、たいへんに苦しいことだろう、と思う。

おそらく、そういうことでは、親も苦しい、子も苦しい、地獄だと思う。

けっして、そういう進み方はしないことだ。

地獄の苦しさを味わいながら、本当に、


身も心もすりへらし、

消耗してしまうのではないか、



と危惧する。

叱るのが良いとか、悪い、という価値判断を、けっしてしないことだ。

それは、思うだけでも、苦しい。

そんな苦しさを、味わうために、生まれてきたのではない。
子どもを育てることに、そんな苦しさがありえるはずがない。



それは、完全に、間違っている。

それは、完全に、狂っている。



正反対の進み方だろう、と思う。

まったく、「ありえない、あり方」だし、「進み方」であり、「行き方」なんだろう、と思います。




そうではなくて、

そもそも必要が無いので、気が付いたらもう何年も、

「叱る」

 なんて、縁のない言葉でござんしたなあ、ということだろう、と思う。





叱るのが良いとか、叱るのが良くないとか、そういうことでは、決してない。

叱らないのが良い、とか、叱らないのは良くない、とか、そういうことでも、ぜったいに、無い。


ただ、結果として、

子どものすること、なすこと、言うこと、やること、すべての行為行動、すべてが、まったく、わたしを困らせない。


ということだろう、と思う。


最近、わたしはほとんど、子どもを褒めないで2年ほど過ぎているが、子どもは、

「先生が褒めてくれる」

という。


わたしは、褒めていないのに、褒められた、と思うようだ。

これは考えてみれば不思議なことだが、おそらく、


「あなたのことで、決して困らない」


という世界が、


「褒めてくれた」


というニュアンスに、近い(あるいは近く感じられる)から・・・、なのではないか??

と推測している。


子どもが身近にいる方で、同じような意見の方がいたら、ぜひご自身の味わっておられる、その感触を、わたしの感触と比べてどうか(同じかどうか)、教えていただきたい。

おばけ

叱らないでもいい子どもってどんな子?

.
というご意見・ご質問を、メールでいただきました。(←本ブログ、私、新間宛のメールが出せます)


その方は、結婚式場で、隣のテーブルに座ったやんちゃ坊主くんに、ジュースをひっかけられたそうです。

それも、一張羅の、大事にしていた、着物に!!!

ところが、その親が謝るばかりで、当人の子どもはへらへらしていた、ということ。

で、それが許せない、と。


大声で叱りつけたかったが、結婚式場だったのでそれはやめた。

でも、親が大声で叱責するのが当然だろう、それをしない親は、クズだ、という主張です。

親が、大声で叱るかと思いきや、そうではなかった、ということのようです。

なんで最近の親は、ちゃんと子どもを叱らないのか、と、怒り心頭に発し・・・ていた折に、このブログを見つけた。



ところが、本ブログのタイトルは、なんとも挑発的なタイトルでありまして、

「叱らないでもいいですか」

なーんて書いてありますから、ムッとされたようで、

こんな自分のような目にあった者からすると、叱らないでもいい子どもなんて、いない!


・・・という結論でした。




わたしには、どちらが正しいかは判断ができません。

でも、おそらく、叱るのは、徒労です。




叱ることで、問題が複雑になり、絡み合い、理解不能になっていきます。

「お母さんが、何を言っているか、分からない」

という子、多いです。

大人がカッカしながら、なにかものすごい勢いで、口角泡を飛ばしながら言うこと。

意味が、さっぱり、分かりません。



分からないけど、勢いがすごいのと、圧迫感、脅迫されたような脅され感が強いので、ともかくも、訳の分からないまま、大声で、

「すみませんでした!!」

と言いながら、泣くのです。

あとで、なんで泣いたのか、と聞くと、

「あのね、泣かないと、許してもらえないの」




この状態の子どもを知らないから、

叱るのが当たり前

と、考えてしまうのでしょう。





叱る

が、

もしかすると、ちっとも意味のないことだったら・・・

あるいは、

「お母さんって、・・・ちっとも、わけがわかんない」

という、認識につながっているとしたら・・・



この方は、

子どもは、大人がどうして叱っているのか、その理由くらい、目の前で話を聞いているんだから、分かるでしょう!!

と思っているようです。



ところが、分かっていないのです。

子どもが、着物にジュースをかけた、というので、腹を立てて怒った、という話がありましたが、

○自分がジュースをこぼした、ということが分かっていない可能性
○着物にジュースがかかった、ということが分かっていない可能性
○着物にジュースがかかると迷惑だ、ということが分かっていない可能性
○着物は簡単にクリーニングできないものだ、ということが分かっていない可能性
○ジュースがかかるとしみになる、ということが分かっていない可能性
○着物は高価なものだ、ということがわかっていない可能性
○今後、その着物を着て出かけようとしていたイベントに、このままでは出席できなくなるということの意味が分かっていない可能性
○混乱を引き起こした、という意味を理解できていない可能性
○披露宴に出席中の現在、簡単に着替えができないという切羽詰まった状況にあることの意味を理解できていない可能性


・・・おそらく、こういったことの多くを、子どもは理解していないのです。


「そんな、ばかな!!」


でも、事実は、おそらく、そうです。


いくら、鬼のように叱りつけても、

教育効果がない、ということが、あるのです。




まあ、怒りたくなる気持ちとか、
着物が汚されて、悔しいとか、
子どもの表情が気にくわないとか、
謝って当然なのに、とか、
親のしつけがなってない、と言いたいとか、

ともかくも、泣きたい気持ちはわかります。

高い着物なんだし。



あー、もうっ!!!!

叫びたい!!!!



叫ぶのは自由ですが、そこに、おそらく教育的な意味合いは見いだせないでしょう。


ちくしょう!!

許さねえっ!!!



いくら怒鳴りつけても、脅迫しても、小突き回しても、

それでも、そのことについて、「大人の気持ちへの共感」は無理なんです。
子どもの身からは、できないこともあるのです。
意味が分からない、という世界が、あるのです。
知らないのです。
理解できていないのです。

・・・


「他人の着物にジュースこぼして、悪いと思わないわけがないでしょう!!」

お怒りの気持ちはわかりますが、

「悪い」

という意味ですら、すでに、当人(子ども)にとって、分かっていない可能性だってあります。

「悪い」の意味が、すでに、理解できない、という子も、いるのです。

「良い」とか「悪い」という価値理解は、教えて身につけさせるものですから。

どうやら、人間には、生まれつき、善悪の概念がある、というわけでもないようなので。




また、「迷惑」、という言葉の概念が、つかめない子どももいます。

「悪い」という言葉の意味が、どうもピントのずれた感覚でしか、理解できない、という子どももたくさん、います。




着物を汚されて、


コイツ、気に食わねえ!!
ヘラヘラしやがって!!!


となるのは、分かりますが、実は、

ショックを受けて、困りきっているのはあなたで、

子どもは困っていないのです。

どちらを救わなくてはならないかと言うと、

この場合は、子どもではなくて、困りきって混乱しているあなた、というわけです。




(あ~、ちょっと刺激が強すぎたかも。こんなふうに書いたら、ひく人、多いだろうなあ)












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