30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2014年05月

カード事件~仲直りのステップを解説~

けんか。
Aくん、Bくんを蹴る。

蹴った方のAくんが泣き顔になり、

「だってBくんが、しつこく言ってくるんだ」


・・・とのこと。

今度は、おしりを蹴られた方のBくんが、ふてくされた顔で説明します。

「だって、Aくんが、おれのカード、返してくれないんだ!」

Bくんは、自分のおしりを痛そうにさすりながら、言っています。

あれあれ、穏やかじゃないですなあ。


こんなとき、怒らなきゃ!と思う先生は、たいへんです。

おそらく、頭から湯気を出すか、声をふりしぼって、なにか叱るんでしょう。

わたしはまったく、怒ったり叱ったり、しません。
その必要性を感じない。




Bくんが、自作のバケモンカードをAくんに渡したところ、Aくんが返さないそうです。

BくんはAくんに、何度も

「返して、返して、おれのバケモンカード、返して」

と言っているのに、Aくんは、なにかと理由を言って、返さないそうです。

バケモンカードは、ポケモンカードに似せて、自分が創作したオリジナルのモンスターを書いた、ユニークな自作カードであります。
なかには傑作や力作があり、男子の中ではとても意味のあるカードで、プレミアの価値もある。
なんてったって、世界にただ一つのモンスターであり、カードなんですからね。
自分が鉛筆で、熱意と念を込めて、仕上げてきた、宝物のカードなんですもん。


そのカードを、返さないんだって!


さっそく、楽しくクラス会議です。

これも、わざと、わたしは知らんふりで、

「おー、なんだか穏やかじゃないな~」

と言うばかりですが、そんな呑気な先生を見て、クラスの子どもたちのほうから、

「先生!クラス会議しよう!」

と提案してきます。(いつもそうだけど)



わたしはわざと

「え、なんで」

と、とぼけていますと、

「クラスの幸福のためにも!」


と、ニヤニヤしながら、女子も男子も、クラス会議を心待ちにしている模様。

まあ、クラス会議をやれば、解決することも分かっているし、楽しくなるし、幸せになることが、実感されているのでしょう。



「うーん、算数もあるし・・・」

「もう先生!学級目標が揺らぐ瞬間でしょうッ!!なにをおいても、やりましょうッ!!」




結局、わたしは、最初に方向づけだけしておくと、あとは勝手に子どもたちが話し合い、30分後には見事に当人同士が抱き合っております。そして、目をキラキラさせながら、

「先生、仲直りしたっ!!」



わたしゃ、本当に、人間ってすげえなあ、と思うのだ。



まだ子どもたちの中には、

「○○くんが悪いので、謝ればいいと思う」

というようなことを言い出す子がいるので、そうならないように、極力、方向をきちんと、直してあげます。

まあ、そういった雰囲気の、「エセ解決」を、これまでの小学校生活、ずっとやってきたのだから、仕方ない。

わたしは、そういう意見にはちっとも関心を示さないから、なんだか子どもたちも、最初は違和感があったみたい。

「あれ、なんで、先生、なにも言わないんだろ?(いいこと、言ったはずなのになー)」





わたしが取り上げて反応するのは、

「本当は○○したいと思ってた」
「本当は○○しようと思って」


ということだけです。

おお、○○くんは、そう言いたい気持ちだったのか~!
なるほど、○○くんは、そうしたい、と思ってたのね~。


あとは、セリフの言い換えを手伝う。

「Aくんが、ちょっと待って、ばかり言って、ちっとも持ってこないんだ」

と子どもが言ったら、

「ああそう。Bくんは、早く持ってきてほしかったのね」

と、言い換えてあげます。

「そう。でも持ってきてくれないから、すごいいやになる」

「なるほど、心配とか、不安な気持ちになると。だからどうしてほしかったの?」

「いつ持ってくる、とか、日にちとか曜日とか、予定を言ってほしかった」

「そうか、不安になるから、いつ持ってくるかの目安を言ってほしかったと」

こういう具合に、子どもの台詞を繰り返しながら、願いを簡潔にまとめ、Aくんへの願いを言えるように、仕向けていきます。

最後に、

「なるほど~、Bくんからしたら、Aくんに早く持ってきてほしかったんだね。それが、ちょっと待って、といわれてばかりだから、心配になってきたんだね。じゃ、『ねえAくん、おれ、早く返してほしいとばかり思ってるんだよね。だから、そうやってちょっと待って、って言われると、本当に返してくれるんかな、と不安になるんだよね。だから、いつ頃になりそうだから、それまで待っててね、とか、はっきりいつまで、という期限を言ってほしいんだけど』って、いうことだよね」

「そう」

「じゃ、それ、言ってみることできる?」

「うん。Aくん、おれ、いつ返してもらえるか心配だから・・・(後略)」






こんなことをしているうちに、

バケモンカードを、自宅にあるラミネートの機械で立派にラミネートして、Bくんを喜ばせてやりたかった、というAくんの本音が見えてくる。

ところがAくんは、いつも家に帰るとラミネートのことを忘れてしまい、どうしても持ってこられない。
自分でも、早くせねば、と思うが、家に帰るとやっぱり忘れてしまう。
学校でBくんの顔を見るたびに、「しまった!」と、自分を責めつつも、なぜか、うまくいかない。

なんとかBくんに

「ほら、ラミネートしてあげたぜ」
「わお!Aくん、ありがとう~!やった~!」


という具合に、喜んでもらいたい、という気持ちと、自分の忘れっぽさとふがいなさの間の、まるで板挟みのような感覚に苦しんでいたのでしょう。


そんなことが明らかになってきて、

「今日は、忘れないように、手首のところにマジックで書いて、ぜったいに忘れないように、今朝はラミネートの機械を兄ちゃんに頼んで、机の上に用意してもらってきた。だから、今日はぜったいにやれると思う。だけど、Bくんはすごく責めてきたから、ないしょでラミネートしてあげたかったけど、できなくて、いやだった」

そういうAくんが、大粒の涙をこぼしはじめますと、

クラスの雰囲気は・・・・

女子も男子も・・・







それでも、いまだに
「そういうAくんの気持ちを分かってあげないBくんが、本当は悪い」
と言い出す子もいるのですが、それは軽くスルーし、

「自分の気持ちが、通じないので、苦しかったんだ」
「はっきり言いたかったけど、ないしょで驚かせたくて、うまくいかなかったんだね」
「自分の言いたいことを、うまく伝えられずにいて、誰かに相談する勇気も足りなかった」


というような、クラスの他の仲間の意見を聞きつつ、

当人どうしに、

「で、今、どうしていきたいの」


と聞いてくれる賢い女子がいて、本当に助かります。




で、結局、

「先生!!!もう、ぼくら、仲直りしたから!!」

と、給食のあと、勇んで校庭に飛び出していくお二人さん。


仲直り

「でも先生、それじゃ、だれも変わらないと思う」

.
.
「誰も悪くない」という話をしたら、

「でも先生、それじゃ、だれも変わらないと思う」


という子がいました。

どうも、○○くんは悪い、って、先生にハッキリ、言ってほしかったみたい。



べつに変わらなきゃいけないわけでもない。

しいて言えば、困っている子が、困らなくなればいいのです。

「先生、あの子が○○してくるので困ります!」

と訴えてくる子が、

困らなくなればいいのです。


そのことと、○○くんが悪い、ということとは、ほとんど結びつかないのですが、

たいていの場合、訴えてくる子の頭の中には、

○○くんが悪いやつなので⇒ ぼくが困る


という式が成り立っている。


しかし、あることを進めていくと、これが解消していく。

これは、誰が悪いか、ということに焦点を当てない方法でありまして、

ぼくが困る⇒困らなくなる方法をGETする


ということを進めていくのです。

すると、○○くんが悪い、とは言わなくなります。



困らなくなった後で、

「ねえ、○○くんが悪いって、さっき言ってたけど、まだ悪いのかなあ」

と言うと、

「うーん。べつに悪いということもない・・・」



というふうに、言うことが変わってきます。

そうです。自分がコマらないので、相手も<悪者>じゃないんだそうで・・・。


悪者になったりならなかったり、という人物評価は、かなりの程度、不安定、あるいは、的外れ、ということのようで・・・。




人は、悪い、と批判されたから、態度を改めるのだ。


という公式が、かなり濃厚に、

子どもたちの頭脳に、INPUT されている、ということみたい・・・。



ちなみに、くつのかかとを踏んでいる子に、

「いざというとき、思い切り走って逃げられないからやめようね」

と言ったら、直していました。

「きみは悪い」

という評価は、ほとんど、無関係のようです。

でもなぜか、くつのかかとをふんづけているやつは悪い!、ということを、言いたがる人もいます。



給食のおかずのじゃんけんで、後出しをする子。
「勝った!」と早口で言い、すかさず肉をGETしようとする子に、

「お前は悪いやつだ!」


と言おうがどうしようが、そのことはあまり解決とは無関係です。

「今、後出しだったから、もう一度フェアな勝負をして決めたい」

と伝えたら、

「わかった」

だって。

それで済みました。

「お前は卑怯な、悪いやつだ!」

もし、こんなだったら、どうなってたでしょう?

「なに?おれは悪くない!」

「いや、悪い!」

「悪くない!」

って、ずっーと、昼休みまでやってたかもね。べつにそれでもいいけど。



それにしても、なんでしょう?

「悪いやつ!」って言いたくなるのって、なんだろうなあ???と思います。

人間は、反省なんてさせ・ら・れ・ない動物だってこと、心の底では、子どもたちも分かっている。

この業界で仕事をある程度やっているけど、転職した時から今までずっと、


お前が悪いから反省しろ、と言われて、反省した子どもなんて、一人も見たことない。

(  爆弾発言か?)


変わらないと思う、と言う子

「ひとのせいにする その2」~体育の授業編~

.
体育の授業。
バスケットボールのゲームをした。

男子はとくに得意な子がいたので、戦力に偏りができた。

「○○くんがいるから、むこうが勝つに決まってんじゃん!」



ふてくされて、思い切りやらなかった子がいたようだ。

案の定、終わってからの表情を見ると、満足した顔・・・ではない様子。
女子は満足して

「あー、たのしかった!」

という子が何人もいた。

男子との差が目立った。

そこで、さっそく、体育の授業のあと、次の時間はこのことを話しあおうと決めた。


「幸せですか?」

と聞くと、

あ、先生、またその話か・・・という顔をする。
しかし、待ってました、という雰囲気も感じる。
やはり、スッキリしない気分を、取り上げてほしいのだと思う。

「・・・幸せじゃない~」


なんでかな。

「どうせ負ける、とか、今の反則、とか、いろいろ文句みたいなのを言う子がいたから」

そうか。あまり楽しくなかったの。

「チームが偏りすぎたよ。赤は、Fくんもいたし、Iくんもいた」

「ぜったい負ける、とか言って、真剣にやらない人がいた」



それでも一生懸命、やっていた人もいたんだよね。

「そうだけど・・・」







一人ひとり、自分が願っていたことを、考えさせる。

人を責めたり、諦めたり、真剣にやらなかったりすること。



よい子は、すぐに「反省しました」なんて言うけど・・・。



こんなことを投げかける。

「まあ、反省する、というので終わるんなじゃくて・・・、先生、不思議に思うんだよね、なんで、簡単に、幸福じゃなくなるんだろうねえ。みんな、幸福になろうと思ってるのにねえ」

感度のいい子は、すぐに思いつくから、

「先生、人のせいにするからだよ」

とか、分かった風に言う。

そこで、

「人のせいにしたら幸福になるわけないってことくらい、この間から、分かってるんでしょ?」

と聞くと、

「そう。」

というから、

「なんで幸福になりたいのに、幸福にならないんだろうねえ」







「先生、やっぱ、困ると、人のせいにするからだよ」

わたしはもう、なんだか悩める哲人のようになって、力の無い声をふりしぼる。

「うーん。・・・それじゃ、幸福にならないんでしょう?」


なんだか私のことが気の毒になってきたような雰囲気で、子どもたちは私に教えようとする。

「だから、先生、幸福にならないのは分かってるんだけど、(声を強めて)分かってるんだけど・・・、人のせいにしちゃうんだよ」

わたしはそれを言う、ふだんはとても快活な女子に向かって、感心したように、

「ほえええ。すげえこと考えるな・・・」

内心、たのしくて仕方がない。


すると、子どもたち、哲学しているような表情で、やりとりが勝手に始まる。

「だから、本当はみんな、べつに幸福なろうなんて、思ってないんだよ」

隣にいた男の子が反応して、

「いや、おれ、思ってるよ」

「でも、人のせいにするじゃん」

「する時もあるけど、しない時もある」

同じ班のうしろの子が、口をはさむ。

「やる気のあるときは、幸福なろうって思うけど、やる気のないときが多いんじゃない」

「そうだぁ。おれ、べつにやる気ないかも」




そこらへんから、もう、みんな好き好きにしゃべり始めているから、ほっておく。

チャイムが鳴って、終了。

幸福とはいずこに

ありのままで / アナと雪の女王

子どもたちの間で、(というか世間的にも)、ディズニーの映画が流行っているらしい。


女子の一部は、朝からそろって、

ありのままのー ♪ じぶんに なるのー♪ 

歌っている。



社会科で、「情報リテラシー」という授業をやるので、その導入を考えている。

ありのまま、というフレーズが流行するのは、社会全体に、
「わたしは実は、抑圧されているのだ」、という意識が強くなってきているからで、その裏返しだろう。

さてそれでは、抑圧されてきている自分が、どうやって「ありのまま」を取り戻すのか、というのがこれからの課題になる。

ところがどっこい、なかなかありのままの自分、というものが、見つからない。
誰かに情報操作された「自分」の頭脳。
その内部にあるものからしか、「自分の願望」を見つけることができないのだから。
さて、操作された情報の海から、どうやって脱却するのだか・・・、本当にわけが分からなくなっているのが多くの人の実情だろう。

情報のほとんどが、ある種のイメージで印象操作されている。
昨今のマスメディア、ほとんどがそうだ。

作成された情報で詰め詰めにされてしまっている脳みそしかないのだ。
どうやって、そこから「ありのまま」の自分を見つけることができるだろうか。
なにしろ、人々の欲求や、願望すら(!)、操作され、方向づけられてきている。その代表的なものが、進学であり、進路であり、就職先であり、こうした進路は、ほとんど、マスコミによってもたらされる外部からの情報によってイメージがつくられ、人々の羨望はそこに向けられていく。自分の進路を、自分の内部情報によって決めようとする人は現在、非常に限られているのではないだろうか。



・・・とまあ、キャリア教育とからめて、こういう授業の導入を考えているが、情報リテラシーという面ではたしかに、今の子どもたちは大したもので、たとえばAKBが、巧妙に計算のされつくしたイメージ戦略で、市場をいかに開拓してきたか、という話が、かんたんに通じてしまう。

我々の頃は、キャンディーズもピンクレディーも、純粋に歌を歌ってくれているお姉さん、というイメージしかなく、そのバックで電通が札束を数えていた、ということは、もっと大きくなってから知ったものだが、今の子たちは、AKBの裏で、大勢の大人が戦略的に札束を数えている、ということくらい、とうに承知なんであります。見上げたもんだ!(それでもAKBは人気があるのだから、それでいいんです)

それでもって・・・(つづく)続きを読む

「困る」に、とことん付き合うパターンもある。

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「困る」に、とことん付き合うパターンもある。

ことが緊急性を帯びていない場合で、子どもの様子をみて、いける場合は、
のんびり付き合う、ということも多い。
解決しなければならないとか、手を打たないといけない、という風でもない場合のことです。


席替えで文句を言う子がいる。

「先生、この席じゃ、いや」



彼は、困っている。

「困っているの?」

「うん」



その席では、勉強する気になれない、という。

「なんで困っているの?」

「○○くんの近くじゃないと、やる気にならない」


「あらま」




「とりあえず、どうしたいのかって、ある?」

「○○くんの近くになりたい」

「なれない今の状況で、取り急ぎ、どうしたいって、ある?」

「ない」

「じゃ、しょうがないか」

「え~」

「どうしたいの」

「え~」

「ま、何か考え付くといいけどねえ」

「考え付かないよ。席を変えたいよ」

「席変えたいんだねえ」

「そう」

「なんで席を変えたいんだろうねえ」

「何度も言ってるじゃん!」

「なんで?」

「○○くんの近くがいいんだよ!」

「なんで、○○くんの近くじゃないと、ダメなの?」

「いいから、いいの。なりたいの」

「なんで、今の席じゃだめ?」

「○○くんと、友達だから。仲良しだから」

「○○くんじゃない子だけど、仲良しになれば」

「ならないと思う」

「へえ。ならないの」

「だから席替えしたい」

「なんで、今の席じゃ、いやなのかねえ」

「いやだから、いやなの」

「じゃ、好きになれば?」

「なれない」

「なれないか」

「なれないし、いやだし、席替えしたい」

「あらま」




ほとんどの子に、こういうことがある。

この子は、たまたま、席替えで、表面に噴出しただけ。

みんな、いろいろ、あるよね。




結局、席替えはしないまま、彼は今の席に座り続けています。

で、

毎朝、

心のコップが、満たされているかどうか、私に朝の会で、チェックされている。

「なん点?」

「えー、1点」




1点が続いていたけど、先週の水曜日は、朝の体育館で遊んだのが面白かったので、3点だった。

「おお、今の席でも、3点には上がるのか」

「いや、教室に戻ってきて、この席に座ったら、すぐ1点に減った」

「おお~、惜しい。減っちまったかあ」





隣に座っている子と、話が合わないらしい。

おとなしい女の子だしね。

こっちは、なんでもしゃべるような、やんちゃな男の子だもん。

「先生、俺の話、聞いてもらえないもん」

「いいよ。聞いてもらえなくても、話をしなくったって、それでも平気になれるといいが」

「楽しくないじゃん」

「楽しくなくても、平気」

「平気じゃないよ」





まあ、ぶつくさ言いながら、もう3週間目に突入です。


教師が勝手に、

「何とかしなければならん」、とか、「解決まで持っていかないと」、とか、
黙らせようとか、終わりにしよう、とか、
あまりごちゃごちゃと焦って考えないのが大事、というパターンも多い。


この場合は、

子どもの要求は、

「(先生に)付き合ってほしい」


だから、

「(君の気分に)付き合ってあげる」


だけね。


分かりやすいね。




で、そのうち、なにか、彼とお隣の女の子との間に進展があったら、

にこっ

って、こっちも嬉しそうにしてやろう、と計画中。

「ひとのせいにする」を話し合う

.
クラスに、3人、牛乳当番がいる。
当番は、給食室へ、牛乳瓶を返しに行く。
33人学級だから、3人で分担して、一人がちょうど、11本ずつだ。

ところが、返しに行くとき、10本きりしかないのに、出発しようとする子がいる。
1本は、他のメンバーに任せてしまうのだ。

こうなると、牛乳を返しに行く本数に、差が出てくる。

1人は、10本。
もう1人は、11本。
そして残った一人が、12本。

もちろん、11本が正規の数だ。


まあ、1本くらいなら、

「あれ。12本あるぞ!」

と言いながらも、持っていく子が多い。


ところがこの日、他の2人よりも先に、8本でもっていこうとした子がいた。

つまり、

1人め ⇒ 8本
2人め ⇒ 11本
3人め ⇒ 14本


こうなった。

そして、3人目の子が、

「多すぎだろ!これは!!」

と怒り出した。



結局、途中で8本の子が訂正し、全員11本となったのだが・・・

こんな程度のことが、頻発するのが、小学生なわけです。



おそらく、こういうことを、ああだこうだ、という風に、話し合うことができる、というのが、小学校の一番、おもしろいところです。人間のあり様をさまざまに検討できるという点で、こういう時代は、貴重なのでありましょう。

人生の中で、小学校は、ある意味で一番、「人間の生き方」を考えられる時期なんじゃないでしょうか。

大人は、すでにあまりにも巨大な問題を相手にしなければならず、

「人間の生き方? ・・・それどころじゃねえだろ!」

という状態なので。

緊急かつ喫緊の問題に、全力で対処しなければならない。
根本から考えることはほとんど不可能。
法律や政治の問題など、複雑極まりない事象を、どれだけ複雑に考えられるか、という競争です。
勝つか負けるか、とりあえず、目の前の土俵で、寄り切るか、切られるか、という感じですものね。


というわけで、小学校だけかも・・・。
こうして、人間の行動、ふるまい、考え、心情、ありとあらゆる人間の問題を、根本から考えることのできる環境は・・・。


さて、牛乳瓶の数を誤魔化そうとした事象で、わがクラスは・・・



1)クラス会議を開く。
  ↓
2)なにがあったのか、わかりやすくリプレイする。
  ↓
3)その時の、それぞれの関係者の本音を出し合う。
  ↓
4)なにがしたかったのか、どうしたかったのか、願望を出し合う。
  ↓
5)どうしたらよかったのか、他の方法は考えられなかったかを振り返る



とまあ、こんな黄金ルールで進んでいきます。

このとき、5)の、最後のところが、一番、盛り上がる。


今回は、平和のうちに幕を閉じた。
つまり、誤解だったのだ。
まだ牛乳を飲み干していない子が教室にいたから、8本で持っていっても良い(つまり給食の終わっていない子は自分で給食室に返しに行くルールだから)、と早合点したせいだ、ということが分かり、意地悪で8本しかもっていかなかった、ということではなかったので、みんな和やかになった。


さて、話し合いのうちにいろいろと、各自が思いを抱いていることまで、分かってくる。

「おれ、別に誰かが頼んでくれるんだったら、少しくらい余分に、持ってもいいよ」


と、優しい男子が言う。
また、

「Mちゃんが体育館で場所取りしてくれてるから、Mちゃんが当番の時は、、みんなで持っていってもいい」

などと、いろいろな意見が出てくるのが、面白い。


こういうことは、話し合いをしない限り、浮かび上がってこない。
だから、話し合いの最後に、

「話し合って、よかったよねえ」

というと、みんな、

「うんうん」

という。




さらに、続きがある。

「このまま、最後の当番の子が腹を立てながら、牛乳瓶を持って行ってたら、どうなっただろうね」

と、話を進展させると、

「○○くんのせいにしたままだったかも」

と、当事者の子が言う。


「ひとのせいにしているときって、大体、しっかりと話をしてないことが多いかもね」

「話し合ったから、○○くんの考えてたことがわかったけど、話さなかったから分からんかった」




今後も、何かあれば話し合っていこう、というと、
ほぼ全員が同意した。


この後は、おきまりの、ハレハレマーク。
ほとんど毎日、このマークを指さしている。

私はクラス中を見回して、

「今日は、なんだか、こーんな感じだったね」


といって、解説をする。

先に、怒りマークを指さして、

「ひとのせいにしているとき。」

で、一呼吸おき、次に、ハレハレマークを指さして、

「よく話し合ったとき。」

「どう?」

「うん」






クラス会議のあと、男子と女子の会話が聞こえてきた。

「うちのクラス、話し合ってばかりだね」

「いいじゃん。算数やるより、こっちのほうが」




なーんじゃ、そりゃ。

はれはれ

【学級目標】「幸福な学級・・・」って、言い過ぎ?

それで幸福になるかなあ?

ということを、よく考える。

考えるだけじゃなくて、子どもとよく話す。

一部の子は、先生はいつもなんだか、そんな話をするなあ、と思っているようだ。

「出た。先生の話。」

と、一部の男子は、半分呆れたような、半分からかうような、コメントを言うことがある。


幸福、という言葉を使うことで、一気に進む感じがある。

実は、この「幸福」という言葉、しばらく使わなかった。
なんだか宗教っぽいような気もしたし、実際、なんのことを指すのか、判然としない言葉だと思っていたから。
子どもたちはすぐに、
「授業をやらないで、今からお菓子を食べてサッカーをすること!」
なんて言い出しかねないし・・・。

そんなことを恐れていて、
「幸福」という言葉は使わないような時期が長かった。



学級担任をしていてやりやすくなったのは、この「幸福」という単語を、平気で子どもたちと共に、使いだしてからだ。

とくに、4月、5月の、スタートの時期に、はっきりと、この言葉を使う。

すると、やはり子どもは素直なので、何人かが、

「幸福」

という言葉を、ふだん、学級で、使うようになるんですわ。

もちろん、使うように仕向けていきますが。

一日の振り返りノートに、

「今日一日を振り返って、友達にしてもらったことを書きなさい」

というと、どんどんと、

「幸福」

という言葉が、書かれるようになっていきます。

時期は、女子が早い。

女子の何人かが、「幸福」という言葉を使いだすので、それを紹介していくうちに、男子も使い始めます。

学級目標は、職員室で説明しなくてはいけないので、表だって、「幸福」と言う言葉を使いませんが、ほとんど、裏の学級目標は、



「幸福」

を見つけていく。




という感じになっています。

ま、やはりというかなんというか、ここに至って、こーんな学級経営になっちまいましたがな。

「どうしたい?」 ~2通りのパターン~

.
「どうしたいの?」

「べつにどうもしたくない・・・」



こういうやりとりが、あるのです。

子どもが何か言いたそうなとき、どうしたいのかを聞くと、

ちょっと目線を伏せがちにしながら、

「べつに、どうもしたくない・・・」

という具合に、どうも歯切れが悪い。

新しいクラスになって、それがどうも気になっていた。



一方で、どうしたいの?と聞くと、

待ってました!とばかりに、

○○したいです!!

と言う子もいる。


うちのクラスのKくんがそうで、なにやら私とつきあうコツを得てきたみたい。

「先生、誕生日会、したいです!!」

と、自信満々に、にこにこして言う。

わたしが、思わずつられてニコニコしながら、

「わはは・・・。いやいや、今はそんな暇、ありません」

と言うと、あちゃー、という顔をしている。
みんな、それを聞いて、ワハハ、と笑っている。


Kくんは、どうやら前の年からこういう役回りだったようだ。
学級でのポジションというのが、子どもにはあるのだが、Kくんはクラスの行事を、いろいろと先生に提案してくることが多い。
こういうことには慣れているのか、しょっちゅう私に何かを話しかけてくる。そして、クラスの友達は、わたしとKくんとの会話を楽しんでいるのだ。


Kくんのような、

「○○したいです!」

と声高らかに言うタイプの子もいれば、
まったく逆の子もいる。

少し引っ込み思案のようで、
まさか先生に対して、

「○○したい」

なーんていうことを、言えるわけがない、と思っているようだ。


「○○したい」

というのは、かなりハードルの高いセリフなのかも。
そんなことを言ったら、拒否されるか、怒られるとでもいうように感じているのだろうか。


そんなことを漠然と考えていたら、掃除の時間に、他学年の先生が子どもを叱っている場面に遭遇しました。






「あなたはこれをどうしたいの!!!」


台詞は似ているが、完全に子どもを責めている口調です。

どうやら、その子は、下足箱の近くにあった緑色の玄関マットのようなものを、掃除しようと思ったようだ。
そして、近くに水道場を見つけて、玄関マットをその上に広げ、
持っていた箒(ほうき)の柄(え)で、ほこりをはたこうと、パン、パンッ、叩き始めた。

そうしたら、どうやらその玄関マットは古かったか薄かったかしたらしく、激しくたたいた拍子に、マットの縁(ふち)が折れ曲がり、ついには切れちゃったのだ。

私はその近くで、自分のクラスの子どもと一緒にゴミを集めていたから、他学年の先生が叱っている、そのやりとりの一部始終が聞こえてきてしまった。


そのときに、

「あなたはどうしたいの!」

が聞こえてきたから、


「お?」


と思いました。


しかし、子どもは叱られているからか、何も言わず、間髪を入れず先生が、

「こんなことをしたら、マットが痛むに決まっているでしょ!!」

と、叫んでいました。



「どうしたいの?」

の返答を、聞かないみたい。




聞くつもりがないのに、「どうしたいの?」って聞かれるんだから、こりゃあ、子どもは、救われない気持ちになりますよ・・・




どうしたいの?

と聞かれたときに、おそらく、

「正解」

を言わないと許されないような、雰囲気があったんでしょう。



先生 「あなたはこれを、どうしたいの!」

子ども「きれいにしたい」

先生 「きれいにしたいって言いながら、箒なんかで引っ叩いたら、破れるに決まってるじゃないの!!」





こんなやりとりが、すっと浮かびます。

子どもの返答を、即座に拒否するつもり。

これじゃあ、「○○したい」なーんて、うかつに言えません。

子どもの苦労はこんなところにあるのでしょう。

「どうしたい」って聞くから、正直に言ったら、



速攻で否定



・・・。

大人に付き合うのも、タイヘンなのだ。












誕生日会をしたいです

「絵」を描こうとすると描けないの。

.
図工の時間、桜の絵を描きました。

ちょっとしたコンテかパスで、小作品を、と考えた。

描き始めたんだけど・・・


しばらくして、あまり進んでいない子がいたので、なんとなく近くで

「どう」

と言ってみると、

冒頭の言葉を言ったわけ。

「わたし、絵を描こうとすると、描けないの」



わたし、それはそうだ、そうだよね、と思った。

で、そのあと、頭の中が真っ白。

そのことに、とてもとても、同意している自分なわけ。

そうだよ、描こうとすると、描けないんだよ。

ところが、一方では、
わたしは教師として、授業を進める者として、

「はい、絵を描きましょう」

というニュアンスで、これまで授業を進めてきている。

どうするか?

その子は、

「描こうとすると、描けない」

と言ってるが・・・。





これ、実は、自分も小さい時、そうだったの。
というか、今でもそうかも。

描こうとすると、描けないんだよね。

だって、描こうとしても、桜が自分の中に、無いんだもの。

桜が自分の中に無けりゃ、描けないよ。





その子は、しばらくして解決法を自ら編み出しまして、

「先生、絵本に出てくるようなので、いい?」


もちろん、イイです。



いくら校庭の桜を見ていたって、なんだか、描けないのよね。
で、しかたなく、教室にもどってきたら、やっぱり、描けないのよね。


自分の中にあるのは、校庭の桜じゃなくて、絵本に出てきた桜だったのだ。

その桜こそ、今の自分の中に、あるのでした。



で、その子は結局、1枚目は途中でなんだか止めにして、2枚目の紙をもらって、校庭に出た。
そして、しばらくがんばって、校庭で桜を見てました。

わたしは、まあ、この時間に彼女が描けなくてもいいか、と思う。
しかし、

「描けなくてもかまわないよ」

ということを、わざわざ言いには、行かない。

そのくらいの距離は、いつも、子どもとの間に、とっているのです。



桜を見ていた彼女は、時間になると、教室にもどってきました。

紙には、でかい幹の、外側のラインだけ、描かれていました。


いいでしょう。こういうの。



桜の外側ライン


「幹だね。ここまでは描けたの?」

とわたし。

「幹は見えたの」

クレパスをしまいながら、彼女が答えます。


ちょっと哲学っぽいやりとりだな、と私は頭のどこかで思っている。

で、これで終わりでなく、彼女は衝撃的なことを続けました。


「ねえ先生、幹はもういいよね」

「?どういうこと?」

「もう幹は、描かなくてもいいよね」


わたしは、意味が分かりません。
なぜなら、幹にしたって、一部が描いてあるだけなんです。
外側のゴツゴツしたラインが、描かれているだけ。
あとの、木の幹の全体というのは、白いんですから。

なんと返しますか?





わたしはこういうときの常として、断定口調では返答しません。

「Nさんは、どうしたいの?」

聞きます。


すると、長いストレートの髪の毛の先を、ちょっとくるくると指で巻いてみながら、

「わたしはもう描かなくていいと思うんだけど。次は、枝とか花を描くから」

「なるほど。白いところがあるけど、もう完成と」

「ううん。完成じゃないけど、もう、幹は見たから」




つまり、見る、という行為を、幹に関してはすでにした、と。
今日の図工の時間にたくさん見た。
それで、おなかがいっぱいである、という感じらしい。

もう、おなかがいっぱいになるくらい、幹を見たので、もう幹は分かった。
だから、もう描く必要が無い、と。

さらに言えば、絵を描く、という行為や行動は、見ることの代用であり、ものがよく見えたんだから、もういいんだ、とでもいうような・・・。


おなかをいっぱいにしたNさんは、結局、同じ週のうちに、3時間くらいかけて、しっかりとした桜を完成させています。

おなかがいっぱいになれば、手が動き出す、ということなんでしょう。




子育てに肝要なのは「待つこと」である、と言われますが、

子どもの中に、いっぱいになっていくもの、FULLになっていくものを、見ていくことかと思います。

枯渇しているのに、ムチで叩かれて、何かを目に見えるように形にしろ、と言われても、できないってこと。

しかしまあ、大人は子どもの「表面・見えているもの」ばかり見ているのだ。

この子の心の中に、今、なにがFULLになっていこうとしているのか、という見方は、していないことが多い。



だから、絵を描いていないと、

「早く描かないと、時間ないです!」(゚Д゚)ノ


なんてね。

きっと、教師は、子どもが学校の予定通りに描かないことが、気に食わないんだろう。

絵が描けないの

「叱らない教育」で3年過ぎた結果www

「叱らない」が、ふつうのことになって、気が付いたら3年過ぎております。

一部、「叱れない先生は無能」という論調がありますが、

「叱ることで進展しているだろう」、という気になっていることが、気のせいだ、ということの確信も、同時に確固たるものに。(叱ることでなにか進むの?)

「叱れない先生」を非難する人たちは、おそらく、教育にもっとも悩みを抱えている人なんだろう。

目の前の子どもと、どうしても気持ちが通じていかないもどかしさ、それを、「叱る」ことで紛らわせている。
「叱ることが当然のこと」という思いをぐらつかせたくない。
そのために、「叱れない先生」という言い方で、「叱ることを当然としないあり方」を非難する。
裏返して、自分の気持ちをフォローしているのだと思います。

やってみれば、「叱らない」はあまりにも簡単。
このことがなぜもっと普通のことにならないのか、ということが不思議にさえ思えてきます。

聞くところによると、諸外国では、他人の目の前で子どもを叱責するということが、ほとんどないんだって。
(よく知りませんが)

しかしまあ、たとえどこの国の人であっても、子どものすることに かちん ときたり、強く圧迫して、言うことを聞かせたい、というように思うこともあるんだろうと思います。

だからといって、「叱る」とか、「怒鳴り声」とか、「叱責」とか、「問責」とか、「脅迫する」とか、そういうことは、不要です。有害です。やればやるほど、心の距離は、離れていくよね。

いくら離れても、またお互いが努力をして、赦しあって歩み寄るのが家族なので、時間が経ってみると心配は要らないのかもわかりませんが、まあそれでも、不要なものを

あえてやる必要は、ないよね・・・


今の教育行政を見ていると、あまりにもおかしなことが多いし、問題が山積みなので、それら一つ一つを撃破していきたくなる気持ちもわかりますが、いくら


○教育委員の任命方法を変えても
○教育基本法を変えても
○学習指導要領を変えても
○職員の管理の在り方を変えても


そんなものをいくら変えても、そーんなものは、ほんの末梢的な部分にすぎません。


子どもの幸福に直結しているのは、

目前の、大人のふるまい

です。




教室でなら、教師の一挙手一投足に、ほとんどすべてがかかっていると思う。

で、すべてをなし崩しにしてしまうのが、

教師の 「怒りの感情」 だと思うのです。




○怒れば怒るほど、子どもは本音を隠し、大人を遠ざける。
○大人は疑いを覚え、隠れたものを見つけるのに必死になり、管理義務を勝手に背負う。


これが、お互いの「信頼関係の構築」につながるか。


「怒りの感情によってコントロールされなかった子どもの幸福」

というところに、焦点を当てていきたい。

「怒りの感情」とは無縁、という環境で育った子どもが、どれだけ屈折しないで済んだか、というところ。
「怒りや脅迫」で、もし仮に育ったものがあるとしたら、その「育ったもの」とは何か。(←育つって言えるかどうか)
「怒り」で操作されなかった子は、いったいどんなことに価値を置くようになるのか(方向性、可能性)。

それ以外を考えたりやったりするの、もう時間がかかりすぎるから、やめたい。


『コミュ障』(コミュニケーション障害)なんて言われて、
人間関係に悩む子が多い。
これをどう考える?





先日、発達障害の講座に出たけど、そこへ参加していた先生たち、


○困った子がいて、わたしが悩んでいるから、解決したい
○それで、どうやってその子をコントロールするか


ということにしか、関心が無い感じ。

子どもをコントロールする、ということを、脳髄にまで浸透させている。

そういう発想で、終始している。先生たちは、いつから、
どこで、どうして、そんなふうな思い方を覚えたのか?





「大人が困ることなんて、一つもない」
という私の発言は、ほとんど掻き消されるように、会議場の天井へ向けて、雲散霧消していきました。

たった一人、現場の講師の方が、

「そうです。大人が困る以上に、その子が困っているのです」

ということを言ったが、

じゃ、大人も困っているちゅうことじゃん。

教育現場に、大人が困る、ということは、ありえないです。
少なくとも、子ども自身のことで。



子どもとは

ズッコケ三人組が行く!昆虫クラブの真価とは

昆虫クラブのことを、記事にした。

価値を云々したがらない、ちょい控えめなクラブ活動を、モットーとするクラブだ。

いったい何が、そのクラブの真価なのか、なんだかわかったような分からないような感じがずっとしていたが、おそらくその真価は、現場の雰囲気なのだろう、と思う。

鍛えて力をつけさせます!!

という、スポーツど根性丸出しの体育会系とはまるで異なる世界観であり、だからこそ世間からは

理解不能

という烙印を押されがちな昆虫クラブだが、そこに通ってくる小学生や中学生、そして高校生の表情を見ると、いかにも幸福である。

楽しそうか・・・というと、ちょっと違う。
楽しそう、というのと、幸福である、というのは、どうやらほんの少し、乖離しているものであるようだ。

とびきり弾けて明るい笑い声が、始終響いている雰囲気は、ここには無い。
地味に、歩いているだけ、とも思える光景だから、おそらく、このクラブの本当の価値には、気づかない人々が多いのだろう。

結局、このクラブに来たからとて、なにかが得意になるわけでもなく、得られるものは無い。

(このように言いきってはいけないが、つまるところ、ピアノのおけいこや公文式、はたまたダンス教室、野球、サッカーをはじめとするスポーツクラブとは、まるで目指している方向が違うので、これまでの常識観でいくと、どうもあまり、得られるものは無い、と言いたくなるのだ)

見た目は、なんとなく、地味に歩いているだけ、というだけのこと。

初めてこの会に参加した子は、きっと、驚くにちがいない。

「いったい、なにが楽しいの。ちっとも楽しくない。ただ歩いているだけ。虫だっていやしない。こんなところ、もう二度とくるもんか」


ところが、である。


終わってみると、なぜだか、このクラブが懐かしいような、愛しいような、妙な親近感が胸をゆさぶるのである。
訛りの懐かしい、あの<ふるさと>のような<印象と感覚>が、その夜、わたくしが寝床に横たわるまで、続くのである。

おそらく、そこに、ズッコケ三人組の影が見えるからにちがいない。



私が参加したとき、目の前に、少しボーッとした表情の、中学生男子が3名、立っていた。

この子たちは、小学生時代からずっとこの会に参加していて、欠かさず、というわけにはいかないが、可能な限り参加して、縁を切らさないのである。

一人は、目玉がくりっとして、いかにも頭の回転がよさそうな、善良そうな少年である。身長は低いがスポーツ万能、但し勉強はからっきし苦手。物事をよく考える前に行動する直情径行タイプで行動力に溢れる・・・というタイプ。

二人目は、眼鏡をかけていて、ヤセ型。読書好きで研究熱心、理科の実験を趣味とし、明晰な頭脳の持ち主で機械にも強いが、小心者であがり性な部分があり、学校のテスト等、ここ一番で実力が発揮できておらず、故に学校の成績は今一つ・・・というタイプ。

三人目は、大柄でゆっくりと歩くが、昆虫を見つけた時にはふだんとは及びもつかないかなりのスピードでたもを振り回す。陽気な性格で、鼻歌を歌いながら道端のたんぽぽにも目をやる余裕も見せる。かと思えば、目の前のことに夢中になるので、首から下げた水筒を落っことしても気に留めない。・・・というタイプ。

(いずれも偏見にみちた私の勝手な推測である)


さて、この3人が、なんともいい味を出すのである。

わたしの息子が、新しいタモをうまく折りたためずに苦労していると、

「あ、それはですね」

ハカセが丁寧に指導してくれると思えば、

活力溢れるハチベエは大人のいかないような土手の上の方にも駆け上っていき、

「みなさん!!スジグロがいました!!」

と大声で報告し、大人を興奮させて喜んでいる。

また、モーちゃんは、水が飲みたくなると急に

「みず、みず、みず、・・・」

とうわごとのように繰り返したかと思うと、水筒をラッパ飲みする豪快な面を披露したほか、目の前を飛翔していたクジャクチョウを見るや否や、水筒を放り出して100mほども真剣になって追いかけていき、60代の熟女をして、

「ああいうガッツが、現代っ子のお手本よねえ。ビデオに撮って見せてあげたいわ」

と言わしめ、熟年層の喝さいを浴びていた。


この3人は、いわゆるスポーツ系の部活には所属せず、中学校では、「まあそれなり」に過ごしているようであるが、この昆虫クラブには毎週のように参加し、幸福を満喫しているのである。

さすがに昔から通じ合った仲間のようで、お互いに目の端に、仲間を意識して留め置いている様子。だから、モーちゃんが100mも突っ走っていても、そのあとを、やはりなんとなしに、ハチベエやハカセが追いかけているし、ハカセがうちの子にタモの扱いを伝授してくれているときには、やはりなんとなしに、ハチベエやモーちゃんが、その様子を斜め後ろから見ていて、ハカセの先生ぶりを愉快がっているのです。

このときは、物静かな感じのおしとやかそうな、高校生の女の子も一人きりで参加していた。高校生はその子だけで、彼女はこれらズッコケ三人組とも同じにならず、かといって大人どもとも同じにならず、一人きり、微妙な速度で歩いていたが、だからといって、孤立しているのではなく、説明のあるときには一緒になって話を聞き、ズッコケが蝶をつかまえたときには、一緒に写真を撮影したりして、やはりそれなりに、楽しんで参加している様子であった。

また、大人は、小学生から高校生まで、年齢の離れたこうした子ども集団を、統率するようでもなく、無視するようでもなく、目の端に留め置く感じで、そーっと包み込むような雰囲気をもって引率していた。
このような雰囲気が、おそらく、この会の、真骨頂なのだろう。


○やることがはっきりしている
○許容されている範囲もはっきりしている
○目的地もはっきりしている
○ノルマがない
○責められない
○個人の成果というよりも、集団の成果として、喜びと共に分かち合われるものがある


ADHDの子も、自閉症スペクトラムの子も、傷ついた子も、場面緘黙の子も、

世界中の子ども、万人、例外のない人間すべてが、

どんな人でも、どんな子でも、「これなら参加できる」、そういう、すそ野のやわらかさ。


つまりは、貴重な空間が、ここにはある、ということです。


↓ 下は、ハチベエのつかまえた、白いカエル。
ハチベエのつかまえた白いカエル

【朗報!】教員資格認定試験今年も開催!平成26年度!!

☆平成26年度教員資格認定試験
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/nintei/1347206.htm

朗報!

今年は一般教養試験がないため、もしかすると高卒だけでは受験できないのではないか、という憶測を掲載していましたが、そうではなかったようです!!

つまり、これまでと同じく、高卒の方でも受験可能です。
ただ単に、一般教養試験が無くなった、というだけの模様。

となると・・・




これまで以上に、これは大チャンス!!!!

ビッグウェーブ
が来てます!!!!

みなさん、安心して、受験してください!!!




(引用開始)


受験資格は、次のいずれかに該当する者です。

ア 大学(短期大学を含む。)に2年以上在学し,かつ,62単位以上を修得した者及び高等専門学校を
卒業した者並びにこれらの者と同等の資格を有すると認められる者
イ 高等学校を卒業した者その他大学(短期大学及び文部科学大臣の指定する教員養成機関を含む。)に
入学する資格を有する者で,平成26年4月1日における年齢が満20歳以上のもの

(注)(a) ア,イのいずれに該当するのかが不明で,受験資格の有無を確認したい場合は,出身校の名
称,卒業・修了の年月日,当該学校の設置者などを詳細に記し,切手を貼り,宛先等を明記し
た返信用封筒を同封の上,受験を希望する試験実施大学の担当部署宛てに照会してください。
(b) 専修学校,各種学校,学校教育法以外の法律に特別の規定があるもの(保育大学校などの各
種大学校など)は上記アには該当しません。また,いわゆる「専門学校」は専修学校にあたる
ものであり,高等専門学校ではありません。
(c) 文部科学大臣の指定する教員養成機関(以下,指定機関)に入学する資格を有する者とは,
指定機関の学科等に入学する資格を有する者のみ該当します。(「4 試験科目等の一部免除」
の対象者についても同様です。)なお指定機関の学科等の一覧は文部科学省ホームページ
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoin/daigaku/1308277.htm)をご覧ください。


Ⅳ 認定試験の実施方法

試験実施大学
宮城教育大学 東京学芸大学 横浜国立大学 静岡大学 岡山大学 熊本大学
宮城教育大学は第1次試験のみの実施です。宮城教育大学で受験する場合,第2次試験以降
は横浜国立大学での受験となります。また,出願書類は横浜国立大学へ提出してください。


(1) 第1次試験
ア 期日 平成26年9月6日(土)及び9月7日(日)の2日間

イ 場所 試験実施大学
(宮城教育大学,東京学芸大学,横浜国立大学,静岡大学,岡山大学,熊本大学)

ウ 試験の内容及び方法
教職に関する科目(Ⅰ)⇒教育原理,教育心理学,特別活動,生徒指導等教職に関する専門的事項(択一式とする。)
教職に関する科目(Ⅱ)⇒小学校の各教科の指導法及びこれに付随する基礎的な教科内容
ただし,受験にあたっては,音楽,図画工作及び体育の各教科のうち2教科以上を含む6教科を9教科の中からあらかじめ選択すること。(択一式とする。)
※ 平成26年度より,一般教養科目の試験は実施しません。

エ 第1次試験の合否結果通知
第1次試験の受験者には,試験実施大学から9月29日以降に本人宛てに合否を通知します。

(2) 第2次試験
第2次試験は,第1次試験に合格した者に限り受験することができます。
ア期日平成26年10月18日(土)及び10月19日(日)の2日間
イ場所試験実施大学の定める場所

(後半略 引用ここまで)

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