30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2014年03月

Sくん!幸せになりなよ!

愛知県岡崎市の教員となり、1年生担任として、この1年間を無事に終えることができます。
岡崎市の保護者のみなさんにも、本当に感謝の念でいっぱいです。
この1年、本当に、ありがとうございました。

ところで、自分としても、ことしは、初めてのことが多かった。
得た感触を忘れないために記しておくと、

1年生は、まだまだ間に合う!

という感じがすることかな。

たとえば、鉛筆の持ち方を直そうとしたら、直せます。

ほら、「間に合う」感が、あるでしょう。

6歳だもの。
まだまだ、だいじょうぶ、という感覚を得られたことが、貴重でありました。


1年生の良いところは、

一番は、思い切り泣くことができる、ということでしょう。

1年生の教室で、思い切り泣いていても、ほかの子たちが、あまり変な目つきで、みません。
これが、高学年だったら、ちょっと感じがちがうと思うけど。
1年生なら、まだ仲間うちで、

泣いててもOK!

というのが、あるね。


ま、あるある。
泣きたい時もあるよね。


という、「いいよ」感が、教室中にもあることかな。


だから、いじけて拗ねて、

やだーーーーーーっ!


と泣いていても、大丈夫、というのが、イイ。


「○○くん、泣いているけど、いいよね。ま、わたしにだって、そんなふうなときが、あるもんね」

という雰囲気が、なんともほっこりしていて、イイ。


これ、泣いてはいかん、という空気があると、話がちがってくる。



わたしはまったく泣くことを奨励していたから、

「ああ~、いいね」

と心の中でずっと思っていました。


「ちゃんと言えるようになったら、どうしたいのか言ってね。みんなで聞くからね」

と言って、授業を進めておりました。

わたしが困っていないのを見て、教室の子どもたち、みんな安心しておりましたね。

「あ、先生、ちっとも困ってないみたいだ」

ってね。




さて、この1年間の振り返り、その2。

子どもの発したセリフで面白かったのは、このブログでも過去にいろいろと取り上げてきたから、全部は書かないが、これまで書いていないやつの中から一番いいのを紹介しますと、

一番面白かったのは、


「○○くん!幸せになりなよ!」


というの。

これが第一位かな。




ある女の子。
Rちゃん、という子ですが、自分がいやなことされた被害者であるにも関わらず、話の流れで、加害者側のSくんが泣き出してしまったのを見て、今度はSくんのフォローに回ったのでした。

Sくんに向かって、

「そんなふうに、みんながいやなことをしていたら、いっしょに勉強ができなくなるよ。遊ぶ時にも、友達がいなくなるよ」

というふうに、クラスの仲間の、ちょいと大人びたKちゃんが、たしなめるのを聞いて、

Sくんが拗ねて、

「いやだ~、いやだ~、おれはいい~、ぜったいに○○しない~、みんなと勉強もしない~、いっしょに遊ばない~」

といって、泣き続けているときに発したものです。

まるでお母さんのように、ふんぜんと意を決して立ち上がった女の子。Rちゃん。

「もう!」

と大人のように咆えたかと思うと、

「ダメ!」

と、一喝。

その後、間髪を入れず、

「そんなんじゃ、幸せにならない!Sくん、幸せになりなよ!」

と。



これ、わたしも思わず、絶句してしまいましたね。

周囲の子どもたちは普通に、聞き入れていた気がします。


ワタシ、

Rちゃん、すごいこと言うなあって。

6歳って、すごいなあ、と思いました。



この1年間は特別だったかもしれません。
今後は、あまり1年生の先生をすることは少ないと思います。
まだ若手?という教育現場の雇用人員構成の特殊性から、今後はおそらく、高学年が中心となるでしょう。


振り返ると、いろんなことを、子どもたちから学びました。

貴重な1年間。
今日くらいは、振り返ってもいいでしょう。

さ、明日からは、次年度の準備だナ・・・。

何が本質?

.

ほんっとに、久しぶりに、日本経済新聞を読んだ。
泊まったホテルに置いてあったから。

すると、双日研究所(←?うろ覚えですみません)というシンクタンクの人と、NPO世界環境経済研究所(←?ウロ覚えですみません)とかいうシンクタンクの人が、石油の購入費用と原発のことで話し合っていた。

そこで、目にとまったのは、

「今求められているのは、火力にたよりすぎない、トータルバランスを含めた日本全体の発電コストをきっちり考える、本質的な議論ですね。」


ってな感じのことを片方の人が言い、

「原子力発電の再稼働を視野に入れる。まさに、そうした本質論こそが、求められていますね。」

ってな感じに、もう片っぽの人も応じた、という、意見広告でした。

放射能汚染対策と核ゴミのコストも、発電コストに含めた方がいいんじゃない?というのはさておき、

おもしれえーなー、と、思いました。

こういうところに、本質、という言葉を、使うんだ~・・・てネ。

発電コストが、本質的、なんだ。
この人にとっては。



つまり。

原発推進の人にとっては、

火力発電のための原油購入のコストについて議論する行為が本質的、と考える。

原発をやめたい人々にとっては、

人体への悪い影響と、食品や大気汚染の度合い、人間心理への負担や医療コスト、「失われた故郷」のもつ意味や生きがいについて、さらには生物全般の健康正常な暮らしについて議論する行為を本質的、と考える。

立場によって、本質的、という言葉のもつ意味は、まったくもって変化する。

しかし、人間は、本質的、を好む。

より、自分の意見を、先鋭化させたいからだ。

いろんなことを、突き詰めて考えたい、という人、多い、と思う。

ところが、自分の立場で、本質的、を語っているうちは、実は、本質的な議論にはならない。

何故なら、自分の意見の方向を、ボルトとナットで固く締めつけて、絶対に逸脱しないようにしてから、語り始めるからだ。

つまり、本質的な議論というものは、万人が好むものだが、実は絶対になし得ないもの。

もし、実現するとしたら、ものすごいこと。
たぶん、世界中見回してみても・・・

そのくらい、人間は、話し合うことが、できない。
自分の中の「本質的」を、ともかくスピーチすることはできるが、相手の中の「本質的」に、心から寄り添うことは、できない。


人間どうしが、人間のことを脇へ置いといて、人間を忘れた話をしてるの。


それで、・・・「本質的」って、言えるの?

言い過ぎじゃねーかなー・・・



テレビでよく、討論番組をする。
実はみんな気づいているけど、ほとんど話し合いには、なっていない。
みんな、相手の話を、聞いてない。
自分が喋るタイミングを伺うので、精一杯だから。

これみてると、小学校の教育というのは、ことごとく、失敗してきたんだナ、と暗澹たる気持ちになる。

国会議員が、話を聞けないんだもの。

この国会議員が、小学校にきたら、一番叱られちゃうね。
「話を聞きなさい!」ってね。
私は叱らんけど。




一年生の方が、まだまともに、話し合ってるよ。

国会議員は全員、教室を見に来てほしい。
6歳の子たちが、いかに相手の話を聞いているかが、分かるよ。

だって、この話し合いのあと、みんなでドッジボールするんだもん。


好きな友達の話は、聞く!


・・・ってものだからね。


本質的な議論って

ほめる目的は

「子どもは、ほめられたいはず」と、思っている先生が多いのではないか。

これ、かなり、世の常識になっていると思う。

教育学のえらい先生の書いた本を何冊か、読んだ。
いろいろと述べてあって、最後の方に、結論中の結論のようにして、書いてあるのが、

「つまるところは、子どもの尊厳を価値づける、認める、ということであろう。周囲社会、とりわけ親や教師によって認められてこそ、子どもは自分自身の肯定感を強くもてるようになるのである。古くから言われるとおり、子どもは”褒めて育てよ”ということに尽きるであろう」



まあ、こう話をされて、異論を唱える人はまあめったにいない、というくらい、世の中に常識として流布されている。


ところが、ここまでずっと、私なりに「考える教師」をやってきて、かなり濃厚な程度に、こう思うようになった。




ほめるは、あぶない!




まあ、ほめる、という言葉ほど、誤解されている言葉もないように、思う。

ほめることはいいことだという思い込みは、かなりひどい。

それで、ほめてほめてほめあげた挙句、子どもが自信をなくし、肯定感の足元をおぼつかなくさせている、ということに、気づかない先生も多いのではないか。


あぶない褒め方は、
子どもを見ていないで、ほめる、
のである。

子どもの実態や心中にあるものとはまったく異質なものを、ほめている。


たちの悪いことに、子どもは、自分をほめてくれている親を、正面から批判しにくい。

「ちがうよ。自分はそうではないよ」

と、訂正しにくい。

だって、表面的には、ほめてくれているからね。


だけど、心中は、もはや寂しくて、冷え込んでいる。

「ほめてもらっているようだが、なんだか嬉しくないな」

と、異質なものに、自ら気づくような子だったら、まだカムバックできる。

だけど、それにも気づかないようだと、真綿で首を絞められるように、静かに、音を立てずに、自分が自分でなくなるように仕向けられていることを知らないまま、親の意向にコントロールされていく。

このことに、実は本心では気づいているから怯えているし、心の奥ではそれを拒否したい気持ちがあるから、子どもの心は混とんとしていく。

自由で、のびのびしている先生だったら、子どもをそんなふうに操作したいと思わない
だから、子どもも助かる。



子どもを見ないでほめる、というの。

これ、やればやるほど、迷惑だよね。

でも、「いいことだから」と、やろうとする。

マジメで評価されている先生の中には、熱心に、子どもを褒める先生がいる。

でも、マジメで評価されている先生だから、子どもをそのまま受け入れている、とは言えないと思う。




子どもの顔、目、表情、そんなところに、ある程度、正直に表れてくる。

つめたく、冷めていて、不満そうで、疲れている目。

どうして、自分の話を、気持ちを、存在を、受けてくれなかったの、という目。



ほめて、ほめて、これでもか、というくらいにほめたんだから、いい子に育つはず。

⇒ そうとはいえない。





子どもをコントロールしようとして、自分の気に入ったように操作しようとして、ほめる。




ほめる目的は、なに?

↑ これを、つい、我々教師は、忘れちゃうのだろうね。


なんでほめるの

<鬱の人>がいちばん明るい

.
わたしは専門家ではない。
だから、<鬱>について、何も話せることなど無い。
それを前提に聞いてね。


今日、ふと、

<鬱の人>がいちばん明るい

というメッセージが聞こえた。



まあ、こんなふうに書くと変ですが、
頭の中に、急に、ある考えが、ふとよぎることって、あるでしょう。
それが、あたかも前後の脈絡なしに、だしぬけに、<よぎる>ために、個人的な印象としては、


どっかから、メッセージが聞こえてきた!


というように、感じることもある、という程度のこと。
わたし、よく、そういう目に遭う。


ところで、

<鬱の人>がいちばん明るい!

というメッセージが聞こえたところで、
頭の半分は、別人のように、こう反応していた。


「なんじゃ、それ」



これも、よく、ある。


自分でも不思議。
だって、メッセージは自分の頭の中から湧いてきた考えなのだ。
ということは、最低、自分ではその理由やバックボーンが分かっている、はず。

「それはこうこう、こういうわけで、こういう考えの先に出てきたので・・・」

というように、まことしやかに、自分にだけでも説明ができるはず、と思う。

ところが、自分の中に、突如として、電光のごとく閃くメッセージなのであるから、自分でも、それが急(きゅう)すぎて、わけがわからないときがある。

「え?え、それ、なに?どういうこと?」

というように、自分で、自分の頭の中の<ピラメキーノ>をつかまえて、反芻しながら、じっくり味わってみないことには、よく分からない。



今回も、そういう羽目になった。

<鬱の人>がいちばん明るい


メッセージ・・・が聞こえてきたものの、意味が、さっぱり分からない。

どういうことだろ?・・・と自問する。



まあ、理由やワケがあるわけがなく、なんの説明も見つからないまま、これは終わる。

つまり、それは、確証のあること、ではないのであります。
「予感」にすぎず、
「そう思いたい」ということであって、
なにか、そんな気がしてならない、というだけのこと。


同じように、わたくしには、「こんな気がしてならない」というのが、たくさんある。
告白すると、



○仕事はできないほうがいい
○努力はしないほうがいい
○できるだけ無能なほうがいい
○まちがった方がいい
○できるだけ、達成せず、成果がでず、わくわくしないほうがいい
○しゃべらないのがいい
○みんなでなにかをやらないほうがいい
○反応しないのがいい
○夢は、ないのがいい
○感動しないのが、いちばんいい


これ、いつの間にか、自分のなかに届いた、メッセージなんだよね。



なんだろ、これ。




でもこれ・・・、すべて、今の価値観と、正反対だよ。

これだけみると、なにもしないのが、イイってことになるし・・・。

だから、もう、話し相手をさがすのがタイヘン。




で、こんな先生が、学級経営をしていると、

あら不思議、


「このクラスで、ずっといたい」

というクラスが、出来上がるってわけ。




もうすぐ、お別れの季節で、なにかのたびに、

「あーあ、また来年もARAMA先生がいいなあ~」

とか、

「2年生もぜったいARAMA先生だよねえ」


とか、

「お母さんが、校長先生にお願いするって言ってた」


とか、

そういう子が、周りに集まってくる。



これ、ぜったい、わたしが、<なにもしてないから>だよ!、と思う。


なんにもしないけど、ヘーキ!!


わっかるっかな~・・・

鬱が明るい

神様と話したこと

.
うちの近所に、小さな神社の森木立が見えるので、わたしはよく散歩がてら、幼い息子と歩くのです。

だんだんと春めいてきたので、ぶらぶらと、進んでいきますと、道すがら、水路のキラキラした水面の様子や、木の葉がそよ風になびく音に、心もぽかぽかしてきたと思って下さい。

するとですね、道端になんとなしに(?)祀ってあった、大黒様の祠が、わたしに向かって

にこにこ

と、遠くからわらいかけてくるのでした。


まあ、そんな陽気ですし、そんな気分があたりにも充満しているので、これは、わたしの心境が投影した結果の作用なのですが、その大黒さんが、のんきな雰囲気で、

「やあ!いらっしゃい」


・・・的なオーラを出しながら、私たち親子に、語りかけるかのよう・・・。




そこで、なにげに私も、心のうちで、話しかけてみます。

「や、どうも」


いわゆる<神様>については私としては割り切っているつもりなので、大黒様だからどう、という何も、わたしには無いため、その程度の挨拶しか出てこないのですが、まあ、近所のおじさんに挨拶する具合。


すると、大黒さんが、

さらにとびきりにこにこしながら、

「お、なんでも頼んでってよ」

というわけね。

(あくまでも、私の中の妄想だ、ということは、頭の半分で理解しながら。・・・ただ、そんなふうな、白昼夢のようなことが、リアルな実感を半ばともないながら、起きていることが、妙でもあり、また新鮮な状況でしたね)

わたしは、こんなこと(つまり、大黒に話しかけられること)は、めったにあることでもないから、ちょっと驚きながら、

「は、はあ。でも、」

と思った。

「頼んで」

という言葉に、ちょっと躊躇したわけ。
それが、大黒様から出てきたことに、かなりの驚きもあったので。


・・・

つまり、

神仏に祈る、ということは、人間にはあると思うけど、

○宝くじに当たりますように
○合格しますように
○お金がどっさり恵まれますように



というような、<ご利益祈願>は、神さまたちの立場からすると、あまりにも人間にとって、虫がよすぎるんじゃないの、とふだん思っていたもので・・・。



それが、大黒様から、むしろサービスのような感じで、

「頼んでってよ!なんでもどうぞ~!」

というふうだったから、そのあまりのノリの軽さに、驚いて立ちすくんだ、という状態。


すると、さすが大黒さま。
わたしの躊躇をすぐに悟ったのか、

「いいんょ、いいんだよぅ。叶っても、叶わなくても、それでどうこう、というのじゃないから、ね・・・。」

わたしが目を点にして、曖昧に微笑しながら頷くと、

「そう、俺だってさ、あーあ、そうなったらいいなあ、って、心で思うだけだもん。聞くだけ、聞くだけよ。そんで、それがそうなるかどうかって、それはもう、べつに、俺がやるわけじゃないしな」

と、非常に馴れ馴れしい口調で、わたしに言った。

「ま、なんだろ。ただひたすら、この世の幸せを願うっちゅうかさ」

そう言って、大黒様、にやり、と笑う。




私は、何かしら、この大黒さまに親近感をおぼえた。

「はあ」

辺りの木立ちに、鳥のさえずりが聞こえ、わずかな芽のほころびが風にゆられて、少しばかり目立って見える。

「春ですものね・・・。いよいよ、野菜も稲も、育ち始めます」

わたしは、きらきらした木立ちを半ば見上げながら、言った。


大黒さまは、陽光に顔を向け、ちょっと空を嗅いだようにすると、ホッとした表情で、

「すごいよね。みんな幸福になるように、なるように、と。そういうことで、進んでいるからね」

満悦しきって、金の小鎚でちょっと、地面をついた。


わたしは大黒さまの創った、トントン、という穏やかな地の響きを聞きながら、少しばかり、地面の下の生き物たちをイメージしつつ、

「見えないところで、みんな、生きようとしてますね」

というと、

「ほぅよ、ほぅよ、みんな、しあわせになるだぃねぇ」

大黒さまの顔は、いつの間にか、地元の農協のお爺ちゃんみたいになって、日焼けしてつやつやした感じになってる。



わたしはもう何も言わず、地面に落ちてた枝をひろって遊んでた息子の手をひいて、そこを離れた。

辻までくると、わたしは振り返って、会釈くらいしようと思ったが、もう、大黒様はきっちりと前を向いて、まじめな石の顔をして、座っているだけ。


大黒様

「わかりやすさ」の価値と「わかりにくさ」の価値

発達凸凹のお子さんにとって、「わかりやすい」ことは、とても大事。

分かりやすいから、理解できる。把握できる。安心につながる。

分かりにくいことは、その逆で、理解できないし、不安になる。

だから、教師や親はできる限り、あいまいな言い方を避けるし、

妙なたとえ話は避けるし、

慣用句や、気の利いた比喩なども、すべて、避けたい、と意識する。

たとえば、そうじの時間にバケツが重たいので、思わず、

「手を貸して!」

というと、

「???」

です。

手なんて、貸せるか!と思うわけね。

「バケツをもって」

と言えばよかった。


テレビのバラエティ番組のノリで、

「あほやな~」

というと、

「あほじゃない!」

とマジで返されます。


窓を指さして、

「ここ掃除してね」

というと、

その下の床をぞうきんで拭いている。

本当は窓拭きしてほしかったので、

「窓を拭いてほしかったんだけど」

というと、Tくん、

「ここ掃除してって、言ったじゃない」



ところで、わたしが昼休み、みんなのんびりくつろいでいる教室にいて、みんな外へ遊びに出ていったので、思わず気分よく、

阿久 悠作詞の 『津軽海峡冬景色』を、なんとなしに口ずさんでいると、

Tくんがそれを聞きつけて、からんできた。

「青森駅は雪の中って、えっ!駅が雪の中にあるのぉ!そんなわけないじゃんねー」

という。


また、

「風の音が 胸をゆする 泣けとばかりに ああ ああ~♪」

のサビの部分では、私がマイク(に見立てたプロッキーのペン)を握って熱唱しはじめたのを見て面白がっていたのに、急に、

「音がゆするって、音が、音に腕とかあんのー」

と言っていました。


このことから、私は、

「わかりやすさ」は、決定的に重要だ、という認識に至る。



おそらく、だんだんと、世の中は、わかりやすくなっていくね。

その一方で、阿久 悠さんのような、

『ことば』



『詩』

にこだわる、いわゆる作家、詩人とよばれる人たちの表現も、徐々に変化していくのではないか、と思う。

少なくとも、発達凸凹のある人たちにとって、分かりやすいように、少し配慮しよう、という動きが加速していくのではあるまいか。


落語は、最初からユニバーサルデザイン、です。

落語は、「わかりにくさ」の価値を大事にして、イマジネーションを広げる芸だ。
こういうものは、これからはすごく価値が出てくる。
噺を聞いていても、相当、イマジネーションしないと、場の雰囲気や情景、空気、人間の顔から着物からあたりの様子まで、すべて見えてこないんだから。

これはもう、

わかりにくさを前提にして、イマジネーションを強要する芸

になってくる、と思う。
(少なくとも、発達凸凹のある人たちにとっては)

ただし、そのイマジネーションの量や質は、問われないのだから、かえって万人向けなのだ。

(どんなふうに想像したって、いいんだからね。話の筋さえ把握できれば、だれも困らない。混乱しない)


ところが、ふと気が付くと、日本には、

「わかりやすさ」と「わかりにくさ」を両立させている人がいた。

絵本の世界では巨人と呼ばれる、長新太さん、その人、であります。

発達凸凹のTくんも、長新太さんの絵本は大好きです。

わかりにくいんですがね。だって、ありえない世界を描いてますから・・・。

でも、そのわかりにくさを、わかりやすく、絵にしてくれている。

だから、いいんです。


結局、わからないのもOK!という世界なんでしょうね。落語や、長新太さんは。

これがいちばん、やさしい、というか、真の

「ユニバーサル」

という気がする。


分かることを、強要しない文化。


これを普遍化しないでどうする。

言葉で説明すれば、分かるはず、という前提の文化は、もう卒業しなけりゃならない。

地元愛知は「住めば都」!!

愛知県の教師で、良かった!!!

愛知は、いいところ!!

地元愛知は「住めば都」!!



さて、生粋の愛知県人である私、(このブログの著者である ARAMA)は、岡崎大好きっ子として育ちまして、今もなお、岡崎が大好きであります。

なぜなら、岡崎城には家康がいるからで、ここの家康さんはちょっとイイ。

梅はもう、見頃が過ぎたころ、かと。

(今日、岡崎城公園まで、たまたま所用で行ってみましたが、まだ花はついていました~)



次は、桜です。

桜の頃ともなれば、もう、人がたくさんくるし、本当に、イイ感じ。

長い冬を無事に越した喜びと、新しい季節の「ありがたい感じ」が、公園中にあふれております。


岡崎には、オカザえもん、というキャラがおります。
このオカザえもん、のストラップが、またこれ、イイ!
ぜひ、わたくしの地元、岡崎に来られたら、ぜひ!

「損をしているような気分になる」(6歳)

「なにか分からないけれど、いつも、損をしているような気分になる」。

まあ、これがたった6歳、1年生の口から飛び出してくるとは思わなかった。

事の起こりは、「ずる事件」。


「○○ちゃん、ずるい!」

ほら、よく居るでしょう。
なにかあるたびに、自分は被害者になっていて、他の子の行動を、とがめようとする子。
1年生の教室には、この、

「あっ!ずるい!」

という言葉が、ある程度、日常的に、現役で未だ、生きていまして・・・。

大人はあんまり、大声で、他の人にむかって、

「あーっ!ずるい!!」

なーんて言わないから、それを聞くと、ちょっとドキッとしますね。

(言わないだけでシッカリ思っているだけかもしれないが)



まあ、そんな子はたくさんいました。

私は、「ずるい!」というのが面白いなあ、と思って。
たびたび、そのことを取り上げて、クラスで話し合ってきたわけ。

すると、それほど、いなくなってきたんです。そう言う子が。
まあ、ふつう、そういう言い方は減ってくるもんですよ。
クラスの仲が良くなってくれば。

しかしまた、ついこの間、そんな発言があったので、


「ずるいってなんだ?」


という話を、またクラスで話し合った。


こういう話し合いができるのが、1年生のいいところだね。
(高学年になると、勉強も行事も忙しすぎて、やれなくなってくる。)


今日は、折り紙で、ずるい、が出た。

Kちゃんが、休み時間、わたしから折り紙をもらって、なにか作ろうとしていた。

折り紙は、晴れの日は、使わない約束になっていた。
でも、今日は雨上がり。
地面がぬかるんでいて、グランドではとうてい遊べそうにない。
それで、休み時間、折り紙を許可した。

すると、わたしが折り紙を並べ始めたのを見て、すぐにKちゃんがやってきた。

「先生、もらっていい?」

と、数枚を選び出した。

中に、ど派手なピンク色が混じっており、それが好きなKちゃんは、うれしくって、るんるんという感じで、手にとって選び始めていたと思って下さい。

すると、トイレから戻ってきた、Rちゃんが、突如、大声を出す。

「あっ~!!Kちゃん、ずるい!!!!」



不安になって私の顔を見上げる、Kちゃん。

わたしは、「いいよ、それをとりなよ」  という感じで、Kちゃんに、

「Kちゃん、それがいいんだね~」

なーんて、言っているものだから、

Rちゃんが小走りに来まして、

「Kちゃん、ずるい!!」

と、ともかくRちゃんの行動を咎めて、やめさせようとする。

わたしは、おきまりの文句で、

「Rちゃんはどうしたいの?」


と聞きますと、

「私も欲しい!」

と言います。

「あ、欲しいんだね。じゃあ、ずるい!じゃなくて、私はこの色がほしい!っていうことだよね」

「(こくん、とうなずいて)Kちゃんだけ、ずるい」


あ、ちょっと声のトーンが落ちてきました。

つまり、自分の主張がどうやら聞き入れられそうだ、というので、周囲に自分の興奮状態を見せる必要もない、と判断したのでしょう。

「もう一回、いい? Kちゃんはずるいの?」

「うん。ずるい」

「Rちゃんは、どの色がほしいの?」

「わたしね、これとふつうのピンクと、水色」


このとき、Rちゃんは、すでに色を選び出していて、自分の欲しい色を指でさがし、見つけていました。

「あ、そうなのね。Rちゃんはそれがいいの。見つかってよかった。」

「先生、これもらっていい?」

「いいよ!・・・ねえ、もう一回聞くけど」



Rちゃんの興奮状態はもう完全に冷めていて、周囲で聞いていて驚いていたみんなも、

(あ、たいしたことないみたい)

となって、それぞれ自分のことを再びやり始めようとする雰囲気。


「Rちゃん、Kちゃんって、ずるいの?」

「え?」

「Kちゃんって、ずるい?」

「??うん。最初にとったから、ずるい

「最初にとったら、ずるいってこと?」

「うん。」

「じゃ、Rちゃんが最初にとったら、Rちゃんがずるいってこと?」

「??うーん。ずるくない」

「Rちゃんはずるくないの?」

「みんながいいよっていえば、ずるくない」

「みんなって、クラスのみんな?」

「うん」

「みんなに聞けないときもあるよね。トイレとか、そこにいないときとか・・・。そういうときはどうするの?それでも、クラス全員に聞く?」

「・・・??うーん」

「Rちゃんは、Kちゃんがずるいって思っているけど、なんでずるい、と思うの?」

「・・・??」



ここからは、休み時間のあとの、クラス会議。




冷静なUくんが、

「Rちゃんは、よく、ずるいって言うなあ」

という。

すると、クラスのほとんどの子が、

「うん。よく言う。」

と、同意します。

すると、渦中のRちゃん、

「だって、みんな、ずるいんだもん」

と、口をとがらせて、まことにスムーズに言います。

さも、当然、という感じで。

だって、仕方ないじゃん、みんながずるいんだから、という感じでしょうか。



すると、クラスの子たち、なんだか世界の違いを感じ始めて、ちょっと黙り気味になり・・・。

教室の中には、しばらく、しーずかな、加湿器のコポコポ、シュー・・・という音が響く。



しばらくして、

「・・・べつにみんな、ずるくないと思う。・・・ずるしようと思って、やってないし」

Uくんは、明るく冷静で、的確なことを言うので、一目置かれている人です。

Uくんが口火を切ったのをきっかけに、本日の折り紙事件で、Rちゃんにお咎めを受けたKちゃんも、

「そうだよ。わたし、べつにずるしようと思ってないよ。ふつうに、折り紙選んでただけだもん」


わたしがかき混ぜて、


「ずるってなんだ?」


というと、1年生の頭の中身は、おもしろいほどに混線してきて、

「急に、なにかを、やることなんじゃない?」

「急にって、どういうこと?」

「たとえば、急に横入りするのは、ずるい」

「ゆっくり、横入りするのは?」

「ゆっくりだったら、いい」


「いいの?」

「ゆっくりだったら、入ってくるのが分かるじゃん」

「??」

「うしろに並んで!って言えばいい」

「それで、後ろに並んでくれたら、ずるくないの?」

「うん。それならずるくない」

「じゃ、横入りがずるいんじゃなくて、ここ、いい?って聞かないのが、ずるいってこと?」

「そう。聞けばいい。」

「Kちゃんは、トイレに行ってるRちゃんに、折り紙もらっていいかどうか、聞きに行けば良かったのか?」

「・・・ちがう・・・とおもう・・・」


脳内(シナプス)が混線しています。


(・・・おもろい・・・。)

わたしは、心の底で、この訳の分からなさ、最高だなあ、と思って、腕組みをしております。



いろいろと混線したままで、結論は出なかったのですが、

事件のきっかけとなった、Rちゃんが、Kちゃんに「ずるい」と言った場面のことから、

「わたしって、よく、ずるいって言うんだよね」

と、Rちゃんが認めたところから、さらに、この話し合いのおもしろさにブーストがかかり、




「なんで、すぐに、ずるいって言いたくなるんだろう」




という話の展開から、冒頭の、


「なにか分からないけれど、損をしているような気分になるから」

という言葉が、出てきたのです。



日常生活に、なぜだか、損をしているような気のする1年生。


少なくとも、1年生に、

「損(そん)」

という言葉と、

「ずる」

という言葉を、教えた張本人がどこかにいるな・・・



ずるいぞ

やればやるほど謙虚になる学習態度とは?


○○ができるようになるとともに、「科学的思考」が身についているのかどうか。

○○がわかるようになるともに、「科学的思考」が身についているのかどうか。


そこらがどうしても気になっちまうんだよね・・・

「科学的思考」ってのは、ナニか?


1:なるべく事実に基づくこと

2:なるべく論理的であること



国語でも算数でも社会でも理科でも、

なんでもいいけど、学習する過程とともに、この科学的思考が育っているかってこと。



ところがどっこい、獲得したのは、知識だけってのが多い。

というか、うちの小学校の学校教育、ほぼ、それのみ!って感じ!



だから、夏休みの自由研究とか、しょぼいのが多いよね。


子どもたちの提出した自由研究見ると、

「・・・」


あんま、パッとせんな~、と思いつつも、心の底で、仕方ないよな、そういうこと教えてないもんな、と。

自責の念に駆られます。


いえいえ、中には、わくわくするようなものも、ありますよ。

それは、全体に、「謙虚」な雰囲気が漂ってます。

そういう、思わず引き込まれるようなやつは、たいてい、

「ちっともわからないので、調べてみました!」

といって始まる。

そして、調べてみても、

「それでも、わからないことばかり」

で、本人が困った風なことが書いてある。



訳のわからない、
なぞの大海に迷い出た、


という雰囲気から始まる自由研究がいちばん面白い。


さらに、

「やっているうちに、ちがう結果が出たので、不思議でした」

とか、

「方法をまちがえたかもしれません」

というのもある。

こういう、訳の分からんやつのほうが、面白い。




やればやるほど、謙虚になるのが科学的思考で、のびしろ、がある。

やればやるほど、傲慢になるのが非科学的思考で、頭打ち、になる。





ふつうは、


あれほど事実に基づいて、論理的であったはずだから、

「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」

なーんて、のんびりした空気で言われちゃ、かなわんのよね。


と、思う。


ところが、世間一般に、「科学的思考の持ち主」と思われている、宇宙科学のホーキング博士が、



「あれ?もしかしたら、ブラックホールって、これまで思ってたのと、ちがうかもしれん・・・」



と言い出して、みんなが思わず、のけぞった、という記事が、これ↓↓

ホーキングさんの発言

http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-2545552/Stephen-Hawking-admits-no-black-holes-GREY-holes.html
論文のタイトルは「Information Preservation and Weather Forecasting for Black Holes」

イイなあ、と思うのは、これ、誰もホーキングさんを、責めていないこと。

「博士!あんた、前は違うこと、言ってたじゃないですか!!ダメじゃないですか、あんたは、サイテー!!」

って、言わない、のでしょうなあ。
だから、博士も、堂々と、態度を改められる。


こうなったら、

あれ?ちゃうかもしれん!?

といった人を、責めてはいけない、という法律をつくってほしいと思うね。

そしたら、学校も変わる!子どもたちも、みんな、科学的思考態度が身につくはず!!

文科省が、先生や親に対して、こういう運動を始めるべきではないだろうか。


「訂正態度の非問責に関する法律」。


↑↑↑成立が急がれる!


ブラックホールくん



今のところ、↑↑↑ ・・・っていうことに、なっている、そうです。

見た目で判断してるので・・・目が白黒!!

日本の企業も、いろいろ難しいようで、伸び代が無いように見える。頭打ちなのか?

あの大企業SONYでさえ、リストラ5000人とか。。。

これからの時代を生き抜いていくのに必要なのは、恐らく、学力テストの成績ではないでしょうけど、しかし、それ以外のものが見えてこないから、みんな、とりあえず、ま、目前のテストを頑張ることにしてる、ようです。

私は、最も大事なのは、科学的思考、だと断言します。



○○ができるようになるとともに、「科学的思考」が身についているのかどうか。

○○がわかるようになるとともに、「科学的思考」が身についているのかどうか。


そこらへんが、結構、大事なんじゃないでしょうか!




ところで、科学的思考とは何か?


コミュニケーション上、必要となる、人を見る場合を考えてみよう。


例えば、Aちゃんが教室の掃除を丁寧にやっていたら、
Aちゃんは感心な子だ、と
大抵の大人は、思っちゃうよね。


たけど、それ、そうとは限らない。
人の内面、中身は、おいそれと、わからない。
素直なんじゃなくて、先生に、良く思ってもらいたい気持ちが、うんと強いのかもしれない。
劣等感が強くて、悪く思われたくない、という気持ちが、掃除に向かわせているのかもしれない。
ただ単に、友達とうまくいかないことの寂しさを紛らわそうと必死になってるだけ、かもしれない。


その正体は、むしろ素直とは程遠い感じだったりすること、結構、ある。

かんたんだよね、だますの。

ホ~ント、1,2,3、ころり、だもの。

大人を見た目でだますのなんて、かーんたん!!


大切なのは、Aちゃんを見る際に、科学的思考でみるように、すること。

こういったこと、学んだことなんてないから、どの先生も、かんがえたこと、ない。

だから、


「Aちゃんって、いい子だよね~」

って、職員室で誰かが言ったら、すぐ、無批判に、

「うんうん。」

って、思っちゃう。

だって、そうじ、しっかりやってるもの~!!

だって。


・・・これ、科学的だと言えるか。

言えないよねえ。


科学的思考って、一体、どこで身につけるのか・・・

学校の先生ですら、科学的思考、身についてない。





万引きして補導された子が、結構真面目なタイプだった、というので、目を白黒させてる。


いかに、子どもの内面が、見えてないか、ってことだよ。

万引きするマジメな子

「折り合いをつける」・・・←これができる子

友達のことについて、不平不満を口にしない。
それが、Tくん。

口にしないだけで、本心はどうかな、と一年間ずっと関心をもって見てきたが、わたしの目には、どうやら彼の心にあるものは、「受容」だけだ、というふうに思える。

そのTくんは、発達障害の傾向があり、ADHDの診断も出た。
(発達障害のことと、『不平不満が無い』ということが、どうリンクするのか、今の私には分からない。)

先日は、休み時間の過ごし方をどうするか、で相談していたら、見事に自分たちで「ちょうどよいおとしどころ」を探り当てて、みんなが満足するところで過ごそうとしていた。

「これは、大人が見習うべき態度ではあるまいか」


と、わたしはしばし、感心してうなってしまった。



Tくんは、まず、1時間目のトイレ休憩の5分休みに、Rくんに対して予約を入れます。

「Rくん、あとで2時間目休みにさ、本つくろ!」

彼は今、自作の絵本づくりに凝ってまして、一生懸命に作品を仕上げようとしている。

ところが、Rくんはそれを受けません。

「ううん。おれ、2時間目休みは、校庭で石さがすから」

と言って、断ります。

Tくんは何とかして、大好きなRくんの考えを変えるようにアクションを起こすのか?、と推測してみていたけれど、ちっともそんなことがなくて、Tくん、なんだか平気な感じ。

その後、今度は二番手のSくんのことを思い出した様子で、

後ろをふりかえって、

「Sくんは?2時間目休み、本つくる?俺と一緒にやる?」

と問いかけますと、Sくんはちょっと困ったように、

「え、オレ、Rくんといっしょに石探しに行く」

と断ったのでした。

Tくんは、さらに、

「あ、そう。じゃ、Yくーん!」

と、今度は三番手のYくんに目標を定めた。

「Yくーん、Yくん! 俺といっしょに本つくろ!」

すると、Yくんは読みかけの本から顔をあげて、

「・・・えー、図書室行くつもりだけど」

という。

今度こそ、残念がって、悔しがって、

「えーー!!!」

とか、大きな声を出すのかと思いきや、Tくんは、まったくそんな素振りを見せないのです。

Yくんの「図書室行くけど」を聞いて、Tくんは、静かに、

「ふーん。・・・おれ、今日は本つくるから」

と言って、そのまま自分の席に座ったのでした。






これ、なかなか!じゃないですか。

Tくんは、ちゃんと、自分がのぞむ休み時間の過ごし方を考えてるでしょう!?
一番希望の子から、順番に声をかけて・・・。
全員だめだったら、そうか、と納得(?)してるし。
自分だけでもやろう、というところで、ある意味では「アキラメ」ることもできるのです。


これ、子どもによっては、こうはならない。

「えー!!なんだよ~!」

と大声で悲観してみたり、

「昨日、いっしょにやるって言ったじゃんか!(怒)」

と卑怯にも以前の口約束を持ち出して、相手を脅しにかかる場合もありますね。

あるいは、

「ちぇ!!ぜんぜん、みんな俺といっしょにやってくれない!!」

と、これみよがしにつぶやして、同情を誘ったり、

「本当は本つくりたかったけど、俺も石探しに行くわ」

と、気持ち半分のところで、「見た目の折り合い」をつけたり、とするかもしれません。


ところが、彼の中身は、そういうのとは、異なっておりました。



結局、2時間目休みはどうしたかというと、

Tくんは、今までそれほど交流のなかった、インドア派の子たちとなんとなく一緒に本をつくって過ごしたのです。

すると面白いことに、、2時間目休みの、残り10分ほどのところで、RくんとSくんが、かなり早めに教室にもどってきまして、後半の10分はTくんといっしょになって、本のことで盛り上がっておりました。


ふたを開けてみたら


だれの意志も妨げられることがない。

<全員が納得して過ごす休み時間>になっておりました。



これ、やっぱ、Tくんだよね。


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