30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2013年08月

人間、「義務」から解放されたら、いったいどうなるんだろうか

「なにもしなくていい」

と言われたら、どうするだろうか。

万歳!と叫んで、遊びに行ってしまう?

子どもに向かってそんなことを言えば、たいへんだ。

朝も起きてこないし、勝手なことばかりして、勉強もせず、遊んでばかりで、人に迷惑をかけるようなまねをして反省せず、どうしようもない、ろくでなしのでくのぼうになってしまう。

・・・と、みんな考えているから、

「○○しないと、ひどい目に合わせるぞ!」

というのが、まあお決まりの、教育方法になっている。

これを、「脅迫教育」というけれど、みんな、脅迫している、ということに気付いていないので、あまりこの言葉が普及していない。

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ジョブスのような「優秀」な人間を育てるには

ジョブスのような、グーグルの創始者、ラリーペイジのような、創造性と集中力に満ち溢れた人間を育てるのには、どうするべきか。

おそらく、ジョブスのように、ユニークさを失わず、多くの人間が、「無理だろう」という壁をつきやぶるほどの、発想と思考力を獲得するのには、

「この仕事、やだな」

とか、

「やらねばならないのだ、ハァ」

だのという、妙な感覚は、必要ないと思う。

つまり、倦怠 とか、やらされ感、とか、義務感、というものが、その人の「極限までの集中力」を邪魔しないことが大きな要素になってくるのだろうと思われる。

結局のところ、義務感ややらされ感、というものが、邪魔なのだ。
義務意識で動くのではない。
もっと、ちがう「行き方」が大切だ。

それは何か。
もっぱら、純粋な、幼児の頃のような、原始的な人間の興味関心で動くことができれば、かなり、イイ!

・・・のではないか、と、思う。続きを読む

子どもは、子どものプロ

2学期が始まるというのに、まったく緊張感がない。

これは、とくに何も、構える必要が無いからで、子どもに会ってみると、スッとなじんで、夏休みのブランクなど、何もなかったかのよう。

学童保育の先生に、2学期もよろしくお願いします、というので、あいさつに行った。

すると、さっそくうちのクラスの子どもたちが居て、

「あ、先生だ、先生だ」

とみんなで出てきて、あれこれ話し出す。

こっちは、へえ、へえ、というだけ。

特に面白い話もしないし、話しかけもしないし、話題をふることもなく、何もしない。

ただ、

「あ、○○さんだ。おはよう~」

と言うだけで。


あとは、低い声で、

「ほほほ」

と、言う。

この、

「ほほほ」


というのが、一種の合言葉のようになっている。

何も話すことないんだけど、あなたの顔を見てます。という状態の時に、わたしの口から、勝手に出てくる言葉であって、子どもたちも、なんとなくそれを承知している。

ほかには、

「あじゃじゃ」


というのもある。

これも、とくに話すことないんだけど、顔を見てます、というときに、私の口から、勝手に出てくる。

すると、子どもはリラックスして、

「ねえ~・・・・・○△×◇・・・」

と、何か、話しかけてきたり、わたしの腕を触ってきたり、肩をもんできたり、する。



私は、評価が苦手だ。

学習の達成度についての評価は簡単だからやるけど、この子はこんな子じゃないか、というようなことは、一切、考えない。

その子の特徴や癖、人となり、その子の実態について、詮索するようなことは、あまり、しないし、できない。

その代り、いつも、

「この子、どんな子なんだろうなあ」


と思っている。

思っているだけで、深読みはしない。

深読みすると、人間はあさはかだから、すぐに、「分かった」という気になっちゃうから。

たかだか1年程度の付き合い、それも学校と言う装置の中での付き合いしかないのに、その子がどんな子かなんて、わかってたまるか。

だから、

「ほほほ」

程度の付き合いなのだ。

そして、勝手に彼らが話しかけてくるのを、ただ、聞いているのである。



子どもは、もうすでに、完成している。

子どもとして、プロフェッショナルの域に、達している。

そのプロに、いろいろと、「子どもとは何ぞや」を、教えてもらっている感じ。

わたしが、とくに、なにもすることは、無いんです。

うまく遊ぶ子は集中して勉強できる

うまく遊ぶ子は集中して勉強できる。

夏休みに、どんな遊び方をしてきたのか、聞くのが楽しみだ。

遊ぶ中身はどんなものでもいい。

楽しくて楽しくて、はちゃめちゃに遊んだだろうか。

ルールを変えて(壊して)、何度も変えて(壊して)、その場が楽しくなるように変えて(修正して)、さまざまな枠の中で、楽しくふるまったのだろうか。

くったくたになるまで、虫を捕まえたり、手のひらにのせてみたり、とばしてみたりしながら、遊んだだろうか。

走りつかれて、ぜいぜい言うまで、走っただろうか。



こうやって遊んだ子は、

「集中」

の楽しさ、面白さ、愉快、を知る。


心の底から、こみあげてくる、ドキドキ、ワクワク、を知る。



だから、集中して、勉強するようになる。

成績が上がる。


間違いない。

(集中して、「ゾーン」に入りこんだ経験のない子は、どうしても成績が突き抜けていかない。そのうちに、面倒くさくなって、やがて、どこかのタイミングで、勉強に負けちゃう

尾木ママの「万引きでも叱らない」に議論沸騰?

尾木ママ「万引きしても優しく声かけて」 「叱らない子育て論」がネットで論議に

尾木ママに意見する前に、この文章に違和感がある。

万引きしても

この、「しても」は、おそらく、記者や編集者の、勝手な作文なんだろう。

尾木ママの主張からは、ここに、「しても」は、出てこない。湧いてこない。

尾木ママなら、こう言うはず。

「万引きしている子だからこそ」



万引きする子は、見つかるまで、やる。
心の底で、「助けて、見つけて、どうにかしてくれ」と思っているから。

その心中に、どう寄り添うか、ということがテーマなのに、

「叱ればいい」

としか考えていない人が多いから、こんなコメントが出てくる。

「そこは叱るところだろ」


つまりは、叱れば伝わる、と思い込んでいる人が、ほとんど、ということなんだろう。
それを思うと、半分、絶望的な気持ちになる。

叱る、ということが、伝わる、ということと、同じではない。

このことだけでも、よくよく焦点を当てて、間違えないように、うかつにならないように、調べ、調べ、本当はどうか、と究明したい。

叱る、ということで、本当に伝わるのだろうか。

叱る、が目的になっていないか。

叱れば大丈夫、というのだったら、その大丈夫、はどこからくるのか、その自信はどこからくるのか、そういう人に尋ねてみたい。「叱れば、本当に、大丈夫なんですか。心が通じあうのですか。」

よくあるのは、

「よい、悪い、という区別が、分かるようになるから、叱るんだ」

という主張だ。

私に言わせれば、それは、叱る、ということとは、まったく別物だ。

それは、叱る、ではなく、教える、だ。

語調をきつくしたり、表情を厳しく変えたり、威圧的、圧迫的、圧力的になることと、教える、ということとは、まったく異なることだ。

どこかで、ごっちゃにし、同じたぐいだと考え、なんとなく同じような感じ、いっそのこと、同じだと考えてしまえ、という乱暴で、手を抜いた、非科学的な態度が潜んでいると思う。

今まで威圧が必要のなかった子に、どうして急に、必要になるのか。

生まれてから、もしどこかのタイミングで威圧が必要になる子がいたとしたら、それは環境のせいであり、その子自身が責めを負うべきではない。

威圧が必要、というのは、武力が必要、というのと、根が同じ。

胸ぐらをつかんで、言うことを聞かせるしかない、というのは、もう古い。200年くらい、古い。




尾木ママは、

叱れば万事、大丈夫。

とは考えない。



叱って叱って、叱って、叱って・・・・


と、徒労を繰り返すのはバカだ、と知っているから、賢くやろうとしているだけ。
賢く、というのも変か、ふつうに、まともに、接しようとしているだけ。



尾木ママも、講演会を何百回やったって、著作を何冊も出したって、

「それは叱るところだろ」

というレベルの人に向けて、何しても、徒労だと思う。


根は、ふかーい、ふかーい。

人と人とが、心を通じ合わせる、ということ、人と人とが、共に過ごす、ということ。

人と人との、お互いの関係を、虚心坦懐、なんのわだかまりもなく、そのまま感じ取ることができなくては。


おそらく、その訓練が、要るんだろう。

子どものやることに腹を立てているようなら、大人のやることにも腹を立てるんだろう。

腹を立てるのは、相手のせいで、正常なことなんだ、と思っているうちは、もうどうやっても、逆立ちしたって、

「そんなもの、叱ればいいじゃんか!」


のレベルでSTOPだろう。

尾木ママの言うことの、意味は、おそらく、一ミリも、理解することができないし、とうてい、その世界には近づけないまま、生きていくんだろう。

それでも、一方に、尾木ママの言説に、

「なにかあるんじゃないか」

と心惹かれる人たちがいて、そういう人たちが、何かしら考えを深めていくことに、希望を見出したい。

金山駅の「じぇじぇじぇ」

所用で名鉄金山駅を利用。
プロムナードを歩いていると、天井に下がっている

「じぇじぇじぇ」


に、びっくり・・・。

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夏休みのせいか、ラフ~な、気軽~な恰好で、「海外旅行中です!」、という感じの欧米人?がたくさんいて、バカンス気分をおすそ分けしていただけました。

それにしても、「じぇじぇじぇ」って、もうすっかり・・・なんですね。

私の教室では、

「じゃじゃじゃ」

の方が流行っています。

クラスの子で、おそらくお母様が東北出身の方なんでしょうね。



金山駅に隣接する、名古屋ボストン美術館。

これも、大好きな場所です。

今は、「アートに生きた女たち」展をしています。

時間の都合で見られませんでしたが、またそのうちに、行きたいですね。

美術好きは、おそらく目星をつけているのでしょうね。
夏休みは、貴重な機会です。
行きたかった、美術館に行くチャンス。
日本には、世界の名画が集まっているので、名画の密集・密度でいえば、日本が世界一でしょう。
つまり、世界中の名画を、効率よく見て回りたければ、日本に来るのが手っ取り早い。

海外では、

「世界の名画ツアー」

としての行き先が、日本になっていることもあるそうです。

そりゃそうですよね。名画が、うなるほど、所蔵されている国ですので。



フランス人よりも、イタリア人よりも、せっせ、せっせ、と、日本人は、収集するのです。

なんででしょうなあ。
日本人の、くせなのか???


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