この「自立」という言葉も、たいへんに解釈のむずかしい言葉です。
多くの人が、多くの意味でもって、複雑に使っています。
だから、おそらく言葉の定義が、さまざまに異なっている状態。
自立とは何を意味するのか、これだけで何日も話し合いができるくらい。
さて、
まさか、
「自立しなさいっ!!」
なんて、こんな言い方をする人はいないでしょうけど・・・。
怒鳴って威圧したら、自立するのか。
いかがでしょう。
しないですよ・・・ね・・・。
言われた子どもはオドオドしてしまう。
自立よりも先に、だれかに甘えたくなってしまう。
逆効果です。
なによりも、威圧されて自立を強制されても、人に安心感を持てないから、人とうまく協力していくことができず(人がこわくて)、自立よりもどちらかというと・・・、残念ながら、作戦失敗、です。期待したようにはなりません。
ともかく、人と協力できる、人が好きな子になればよいのです。
そのためには、周囲の人が、その子に対してあたたかく接していることが一番。
包み込むようなあたたかさが基盤にあることが大事かと。
人が好きになれば、人のために動き、人とつながって協力することを自然に覚え、人にものを頼まれることを意気に感じるし、同時に自分が人に依存することもできてそれに対して感謝できる子になる。
人が好きになればいい。
これが子育てのゴールなんだと思うのだけど、・・・
・・・学校では違うよーな感じ。。。。がして苦しくなる。
学校では、
「教育のゴールは、当人の自立である」
というふうになっている。
そしてそれを知って、教員はもっぱら次のように努力する。
・叱責する。
・追い立ててやらせる。
できないと、
「あなたはできるんだからやんなさいよね。ずっとそれしてなさい」
と、わざと放置したり、友達の見せしめにしたり、さらには
「あんたがその気にならんなら、先生、もう知らないよ!」
と縁を切って見せたり、
「やらないと、休み時間ないよ!」
と脅したり、いろいろ涙ながらの努力を続けるわけですね。
世間一般には、これを
愛のむち
と呼んでいるようです。
「愛の鞭も、ときには必要なのよね!!」
「そうそう!」
なぜ、愛のむちが必要だ、というふうに世間で考えられているかというと、
「目に見える事柄」や「できること」がよい、というふうに極端に思われているためか、もしくは
「できましたで~!!」という成果を急いで収穫したいので、焦って追い立てるからでしょうか。。。
一番理由くさいのは、
学校には時間がない
ことだと思います。
子どもの 心境調整およびぐだぐだ に、つきあっているひまがないと。
しかし、焦って追い立てた結果、えられた果実は、一見、うまそうにみえているのに、内情はちっとも甘味がなく、皮以外は腐っていて、すぐにしぼんでしまうし、肝心なことに、これから広がるための種がない。だから、次、その次、と意欲が増すどころか減退し、「あのときできたこと≒自立」に見えたのはほんの一瞬だけで、人嫌いになって引きこもってしまう。
えられた果実に、達成感、という蜜や、
成就感、感謝、努力の尊さ、やってよかった、という安ど感などの栄養や水分が
ぎっちり詰まっているのか・・・、いや、焦って追い立てても、そういうものがないのです。
「追い立ててやらせたり恫喝したりする」の必要はない。
当人に、認めてくれたり応援したり心配したりしてくれている人たちの存在が感じ取れるようであればよい。
その結果、
「人がすきになる」
子に育つのがいい。
さて、では、どうしたら
「周囲の人からの声や応援」
が聞こえたり、感じ取れたりする受信器を、
子どもたちの中に、育てることができるのでしょう。
これが難題で、今年の春からずっと考え続けている。
2012年11月
子どもは、生まれてからの経験値が大人と比べて少ないため、やれることが少なく、失敗も多いです。
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大きな行事がつづき、それがひと段落しました。
勤務校は数年前から5月に運動会をやっています。
秋には、学芸会と社会科見学がありました。
社会科見学で学んだことをみんなで新聞にまとめ、それがとてもよくできたので、みんなで一時間、学級の時間に遊ぼう、ということにしました。
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宮台 真司「学級崩壊をめぐって」という文章がある。
ここに、
成熟社会では、「みんな仲良し」的な教育は、逆説的なことに、人を平気で差別し、危害を加える人間たちを量産します。
という文がある。
これはするどい、と思わず、うなってしまいました。
そうなのです。
こわいことに、
「仲良くしなさい(あるいは、するべきだ!)」
と主張する態度は、なんと逆説であることに、仲良くならない子どもたちを生み出してしまうのです!!
おそろしい・・・。
つまり、強圧的に、○○せよ!! と言われると、人間は、
ケッ!
と思ってしまうらしい、のです。
宮台先生は、そのことを、「犯罪性」とまで言います。
なんと刺激的な言葉を使って、人の心を揺さぶるのでしょうか。(そういう、<人心の揺さぶり>技術やスキルに長けていなければ、今の時代、社会学者として活躍することができなかったのかもしれないな、とふと思いました)
ともあれ、このことは、もしかすると今の学校について、一番、根本的な課題を突いているのではないか、と思う。
廊下を走るな!
と言われると、ケッ、と思う子どもたちの話を、以前書きました。
同様に、宮台先生のスタンスを借りれば、
姿勢が悪い!
姿勢をただせ!
気をつけ!
と言われると、ケッと思う子も、どうやらいそうです。
宮台先生は、そのことを、
「学校の準備体操では、整列!気を付け!前へ倣え!休め!とやります。これは準備体操にとって何の必要もありません。では何のため? 号令一下規律正しく集合的に行動する習慣を覚えるため。むろん軍事教練からの借り物です。今では周知のように体育実技の九割以上が軍事教練ルーツです。戦時下でもないのに、いったいなぜなのでしょう?」
とまで、言っています!!
ワオ!刺激的な文!!
つまり、気をつけ!、と大声と笛をピッ!!と鳴らしたりしながらやる先生が、同じニュアンスでもって、「仲良くしなさい!!」と言いながら、ピッ!と笛を咥えて鳴らしたりするのであれば、そんなことには、子どもたちはまったく関心を示さなくなる、ということです。
※上記、宮台真司先生、もし違っていたら、ご指摘ください。
そこで考えるのは、やはり、今の学校に必要なのは、「教育」の前に、「福祉」だということ。
「福祉」は、笛をピッと鳴らしたり、しないでしょうからね。
それに、「福祉」は、「仲良くしなさい!」とは言わないでしょうし。
「福祉」は、「仲良し」を強制しません。
ただ、目の前のその人の、必要性や要望を感じ取る、ということをまじめにやるだけです。
介護の世界にも通じますね。
お互いの都合を、しっかりと伝えあう、あるいは感じあう、という世界です。
まず先に、それがある。
次の、「相手がそれを把握したり了解したりしてくれるかどうか」は、別のステップです。
中には、まったく話が通じないように見える人もいるでしょうし。
さらに、「福祉」だと、そうした“親身に見えない態度”を責める気配はない。
木曜日、ケアハウスに床屋が来ないからといって、責めたりなじったりすることにエネルギーを費やすスタイルは、どうも「福祉」の世界にはなじまないのです。不思議ですが。
それが、「教育」の世界だと、木曜日に床屋が来ないのは道義的に許せないことになりやすい。
別の例では、カラオケの装置を老人ホームに用意したら、
「はい、Aさんから順番に一人一回ずつ、きちんと歌ってください」
とはならないのが「福祉」であり、順番に歌っていかないとまずい空気が流れるのが、「教育」だと考えることができそうです。
「なんでみんなといっしょになって歌おうとしないのだ!!みんな<なかよし>でやろうと学級目標で決めただろうっ!!」
という具合に、どうやら<なかよし>をしないと、叱られる空気がある。
<なかよし>をしないと、叱られる、というところがミソ。
「教育」の世界の<なかよし>は、しないと叱られる。
「教育」の世界の<なかよし>は、達成目標になりやすい。
「福祉」の世界の<なかよし>は、してもしなくてもよい。
<なかよし>することが目的や目標ではないからだ。
「教育」の世界の<なかよし>は、子どもがやらねばならん目標。
「福祉」の世界の<なかよし>は、ケアされる立場の利用者の目標には、けっしてならない。
そこがちがいますねえ。
やはり、学校は、「福祉」でやる、という具合に、変わりませんか。
また、言っちゃった。
このところ、爆弾発言ばかりでるのう・・・。
これも、庭にながめる柿の木が、あまりにも風流で、遠目に見える山の肌が、いっせいに色づき感傷を深くするからだろうか・・・。
愛知県の、ひなびた田舎町に暮らしながら、あれこれ、思うことも多い。
気分を変えたくて、師勝(現・北名古屋市)に住む親戚の叔父を訪ねた。
叔父は、長く教育畑を歩いてこられた人。
現場をよく知る方でもあります。
今でも、まあまあ、元気で畑仕事などしている。
公民館で少し働いていたこともあったけど、今ではそれも、ごくたまーに付き合い程度だ、ということであった。
教育、というもののゴールがことさらに見えにくくなっている今、学校ではいったい何を思いながら子どもの顔を見ていればいいのだろうか、ということ・・・。
「けっきょくな、教員はなにか教えたつもりになってるかわからんけど、どうだろな。」
いやあ、最初からそんな達観されたようなことを言われても・・・
こっちは、授業の指導案の、一字一句に頭を悩ましているレベルなのだし・・・
なにか書きものでもしていたようでありましたが、それを中断したのか、机の上には万年筆がありました。
車で運転してきたので、ワインはお断りをして、チーズだけいただきます。
チーズと麦茶、という妙な取り合わせでも、けっこういける。
「ともかく、気力?・・・それをつけてやるのが一番じゃないか」
わたしが、気力が大事だと思う、というと、すぐにそう答えてくれた。
これはリップサービスっぽい。
いや、何十年も子どもを見てきた人なんだから、もう少し、なにか言ってほしかった。
すくなくとも、今の教育のどこがどんなふうなんだか、俯瞰した情報がほしい。
頭の中身を整理したいのだ、といってみた。
叔父さんの立場で、今ふりかえって見えてくるものがありはしないか。
「そうねえ・・・。子どもは、前向きに、いろんなことをやってみよう、・・・というのでいいんじゃないの」
こちらの期待する答えを言ってくれようとしているのか、言葉を選んで、シンプルに伝えようとしてくれる。
「いや、その、やってみよう、という気力すらない場合は?」
「そこまで疲弊してるか?!・・・それはどうかなあ。そういう子には、元気をつけてやらんとね。安心させんと。だいじょうぶ、やってみよう、と自分で自分のことを思えるようにしてやらんと」
「それには?」
「教室で、自分の抱えているしんどいところをさらけ出すのは、実はとてもむずかしいことだね。それがやれるんだったら、かなり学級としては完成しているだろ。しんどさを受け止めてもらえる、という安心感がないとやれんから。そういう雰囲気の中で、しんどさを出せる、というのがまず一番なんじゃないの」
しんどさ、か~。
「どうなの。そのあたりは・・・」
うーん、どうだろう。
出してくれている、という気もするが、まだ出し切れていない子もいるだろうし、抱えているままに、自分でなんとか処理しようと思っている子もいるだろうか・・・。
「ともかく、小学校も中学校も同じで、子どもはほとんど、しんどい面をもっていると思うよ。自分のことを本当に理解してもらっている、という感じの子は、ざんねんだけど少ないからねえ。まずは、どの子も、本当に安心して学校に来れているのか、という点は、非常に大きな点だと思うけどねえ」
そんな心の状態に気を配れているかというと、なかなかそうでもない。
学校が、そこまでいちいち、配慮していくのがふつうなのだろうか。
当然だ、と言われればそういう気もするし、なにか、学校ができる範囲以上のことを言われている気もする・・・
「まあ、実際には授業も行事も、すべてやることは多いし、現場の先生はたいへんだと思うよ。よくやっているよなあ」
そんなふうになぐさめてもらいに来たわけでもないんだけど・・・でも、そうやって言ってもらうと、なんだか、しん、としてしまう。
「子どもが追い詰められていることを前提に考えるのであれば、今学校に必要なのは、教育というんじゃなく、先に福祉がくると思うよねえ。まあ、大きく考えれば、教育の中に福祉的な要素も当然のようにあるんだろうけどねえ」
うーん。
ここが一番心にのこったところです。
つまり、学校には、福祉が要るのです。
そうかあ、福祉かあ・・・
そう言われてみると、子育ては福祉の領域に近い気がする。
教育、というよりも・・・。
自分の子がまだ小さいから、こんな気分になるのだろうか・・・。
しかし、ちょっと気になることもある。
福祉というと、世間的には、どうもあまりにも多様に使われ過ぎたきらいのある言葉だ。
福祉、という言葉を、いろんな立場の人が、自分寄りに、強引に使い過ぎている。
だから、ある立場の人はすごく神聖なものとするし、別の立場からすると、厄介なもの、という人だっている。
わたしの意見とはいっさい無関係に、多くの人が、自分の立場で都合よく、「福祉」という言葉を使うことができる。
だから、こんなふうな使われ方もしてしまう。
↓
■北欧のある国々が、福祉国家を標榜しているが、自殺率が高すぎて、問題がある。
福祉の仕事をしている知人に言わせると、本当の福祉国家、というのは未だ人類はつくったことがないのだそうで。
北欧も福祉が充実している、というのは制度的にはそう見えるけれど、実は心が満たされる人間関係にはなっていないから、そりゃ自殺もあろうな、ということでありました。
ここまでのことをふまえて、まとめると、
北欧諸国が制度として取り組んでいる「福祉」、ということとはちがう「福祉」の意味でもって、
今の学校やクラスや子どもに必要なのは、本来の意味の「福祉」であり、
いわゆる「教育」は、その「福祉」が子どもをつつみこんでいるのを前提にして成り立つ
・・・ということ。
おじさん、なるほどねえ。
昔から論客っぽかったけど、今でもなかなか語りますねえ。
おじさんはその後、やたらとくだけた話をしたがっていたけども、私はむしろ自分でこうまとめたことに、ちょっといったん一息ついた気分になり、その気分をこわさないうちに、姉から預かった届けモノだけとどけて、早々にさようならをしたのでありました。
まさか、教育より先に、福祉が、くるとは・・・。
今の子どもたちは、いったん未来に目を向けると、いきなり心拍数があがるのです。続きを読む
おそろしいタイトルである。
ここに書いた社会感覚というのは、
○世の中には勝ち組、負け組がある。
続きを読む
この土日は、モリコロパークへでかけて、見事な紅葉を楽しんでまいりました。
愛知県人として、こういうすてきな公園がいたるところにあるのは、本当にありがたい。
11日はイベントがたくさんあるとのことで人が混みそうでしたので、10日の土曜日に行きました。それでも人がたくさん。でもまあ、広いし、気にはなりません。
いつものように、広場でゆっくりとしてすごしました。
愛知県にはすてきな公園がたくさんありますが、古参の「東山動物園」も、本当にすばらしい。何十年も、市民の憩いの場所でありつづけているどころか、グレードアップしている気もする。いつもいつもきれいに整備されているし、飽きないで行けるのがいい。何よりも、小学校、中学校、高校時代の思い出(甘酸っぱいのも含めて)が、その場所場所に隠れていて、そこを何気に通ることだけで、記憶がよみがえり、心を刺激する。人生の、しあわせの道を歩いているように思う。
それはそうと、モリコロパークはいいところなのですが、そこでねそべって、キラキラと笑いながらボールを追いかけている子どもたちを見ながら、思ったこと。
少し前になるのですが、尊敬するYさんのブログに、石牟礼道子の「民話としての学問」についてふれていた文章があって、興味深く読んだ。
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「いばらや、とげで、服は破き、手足はひっかき傷だらけになって、子どもが帰ってくる。収穫物のモチの木の皮だの、ニッケイの根だのでポケットがふくらんでいる。ニッケイというのはシナモンの原木をいう。かじれば独特の香りと甘みがする。鼻の頭がツバキの蜜だらけなのは、メジロかごをどこかに隠しているにちがいない。」
(↑これは、学校をさぼって山へ遊びに行ってばかりの子どもたちの描写である。)
そこから石牟礼は、60過ぎたその当時のワンパクが集まって同窓会のようににぎやかに歓談する会話を書いている。
「(たまには学校へ)顔出しておかんば、先生の顔つぶすちおもうて、たまにはゆきよったぞな、学校にも」
「そうじゃ、よか先生じゃった。たまに顔出せば、ほう、よう来たねえち、喜びよらした」
「昔の学校はよかったねえ。それで先生が、山学校はよっぽどよかばいねえ、こんだの日曜に先生も連れていってくれんかいち」
「うん、それでみんなで案内して、ツバキの花もって、メジロの呼び方はこう、トリモチの作り方はこう、ウサギ道はこげんしとるち言えば、ほう、ちゅうて、おまえとこうやって、山学校しとるほうがおもしろかねえち」
(↑ここまでは、同窓会に集って当時を懐かしみながら語る人たちの描写)
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これによると、学校へこないでも、子どもたちは、よっぽど「生きる力」を養っていたではないか。
学校って、何なん?
と、思わずにはいられない。
何を思って、何をねがって、教員は、教室へ行けばいいのか。
子どもたちの、どんな姿をねがっているの?
最近、このことの、世間的な共通理解は、ないのだ、
と思いはじめた。
昔は、やれ、教育基本法だとか、やれ学習指導要領だとか、に答えがあるのだと考えていたが、心の底では、そんなところには解はなかろう、とすでに感じとっていた。
たまの土日にモリコロパークのような場所にくると、ふと、そんな根源的な問いを考えてしまう。
空は澄み渡って、秋の晴れた日ほど、ものを思うにふさわしい。
しんと静まり返った夜の静寂もいいけど、冬の、凛としたきびしい寒さを感じながらの思索もいいけど、暗くなりがちだからなあ。
こんな、ぴーんと澄んだ、きれいな秋空に、子どもの歓声を聞きながら、ものを思うのが、いいなあ。
今日の夕方、テレビで偶然に見たニュース。
中国人の公的な場での喧嘩やマナーの悪さがニュース映像に映っていました。
(そもそもこういったニュースを選んで放送しようとする放送局側の意図にも興味がありますが)
映像には、次の2点がうつりました。
1)電車内で一人(男性?)がもう一人(女性?)にのしかかるようにしているところ。まわりの客はその座席から離れていて、カメラ撮影している人はおそらくスマートフォンか何かでこの動画を撮影したのだと思いますが、それを撮影している状況。
2)電車のホームで女性どうしが大声をあげて喧嘩をしている。そこに駅員か公安か、制服を着た人が止めに入っているシーン。
そして、その映像の解説で、
「中国では1970年代に一人っ子政策をはじめたのですが、その政策によって生まれた世代が大人になって、マナーが悪くなってきている。いわゆる、甘やかされて育った世代なので、公衆道徳にうとく、自分勝手に育ってきてしまっている」
というナレーションが入りました。
ところが、このニュースにはつっこみどころが満載で、そのあと、小一時間頭の中をこのニュースがぐるぐるまわっておりました。(←ひまだね自分も・・・)
こういうニュースを意図して夕方に放映するのはどこの局だ、という議論はさておき、いちばん気になったのは、
甘やかされて育って、自制がきかない人間がそだった。
というフレーズです。
つまり、甘やかされた、ということは、大事にされなかった、ということですね。
大人の手抜きで、どうやら自尊心を大切にされてこなかったから、本当に自分や周囲の人を大切にする、ということを学べず、自分の心や気持ちにも余裕がなく、自制、自省ができない子になった、というのであればわかるのですが。
そして、そういう状況はどこでもどんな状況でも何人兄弟においてもうまれるため、一人っ子政策とはなんら関係ないことも、考えたらすぐに分かりそうなものなのに。
日本人の一人っ子も、そうだ、というのでしょうか。
(そこらへんは、テレビ局もなにもコメントありませんでしたね)
一人っ子はすべて甘やかされて、つまりほったらかされて、無関心で育てられた、というのでしょうか。
そこらへんのロジックが、まったくつじつまのあわないままに、さらりと、いかにも筋が通っています、というように放送されていることの、なんだかおかしさ。
さらにいえば、これに追加して、極端に針がふれる考えがありまして、
「だから、子どもには強圧的に、厳しくあたり、いろいろ注意・指摘・叱声しながら、多くを制限しながら育てるのがいいのだ」
というふうに、短絡的に考える人がいることです。
逆でしょう。
意思を大切に扱われてこなかったから、「大切に扱われてこなかったから」、自暴自棄感がでてきているのであり、自他を含めたパブリックな観点が育たなかったのです。
叱責され、叱声されてばかりで、あるいは指示命令ばかりで意思を尊重されなかったから・・・、ということなので・・・。
甘やかされる、ということと、大切にされる、ということと、区別して考えるべきなのに、それを混線・混同している。
これで1年と7カ月、叱らない先生をやっているわけですが・・・
しかし、叱らない先生ほどしんどいことはないのに、
「叱らない先生」は楽ばかりしている、という誤解があるようで・・・。
そして、そのことは、実はたいへんに、名誉なことであります。
なぜなら、たしかに楽だからで、一面的にみるとしんどいけれども、心の底は実はとても心境的にも安定しているし、たのしく、天地に恥じない、という気分がたくさんする。そういった点ではとても楽であります。
ただしかし、だいぶ以前に、
「こらあ!!!」
と大声を出したこともある経験から、ときおり、ああ、ここで大声を出して恫喝できたら、子どもたち、びびっちゃうだろうなあ、そして、すがるような目つきでこちらを見て、けなげにも言うことを聞くふりを、ちゃんとしてくれるのだろうなあ、という誘惑にかられることもあります。
大声出したら表面的にはピシッとするので、管理職受け、という点では楽だろうなあ、と思うわけですが。
しかし、そこをぐっとこらえて(というよりも、怒る気になれない・・・というより、怒って得られるものが無い・・・というか、怒る理由がないため)まったく別の声掛けをしていきます。
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