30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2012年10月

くたびれた教育と行事


うんざりして疲れ切り、
パワーダウンしている大人が
子育てしているから、

「じっくり子育て」でなくなってきている。
「取り急ぎ子育て」になってきた。

問題回避型のDNAが勤勉に働いて、
精神が疲労している大人たちが、
子どもを見ないで、

形を見て、

とりいそぎ、形をつくってしまうことがある。
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【朗報!】平成25年度小学校教員資格認定試験実施の方向!


いやあ、よかったですねえ。
わたしがお世話になった、小学校教員資格認定試験が、平成25年度も実施される予定のようです。

ともかく、文科省の予算請求の項目に、しっかりと明記されています。
これをよろこばずして何を・・・やったー!

http://www.mext.go.jp/a_menu/yosan/h25/1325564.htm

http://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/__icsFiles/afieldfile/2012/09/07/1325569_4.pdf

上記をご覧あれ。


いやあ、やっぱりなんだかんだ言っても、文科省、「再チャレンジのできる社会」を実現しよう、という志のあるキャリアの方が、たくさんまだいらっしゃるようです。

これがなくなると、この小学校教員資格認定試験がなくなると、30代、40代の転職がかなわなくなる、という方が増えてしまいます。
家族をかかえ、定期収入をたとえ数ヶ月でも滞らせることさえ不可能、という方も多いのです。
そういう人が、教員を目指す。
それを可能にしてくれるのが、この小学校教員資格認定試験でした。
かわる手段がないのですから、「小学校教員資格認定試験」が、ただ一つの、唯一の道、であるのです。

これを中止したら、ほとんど、教員に転職しようとする30代、40代はいなくなります。
(よほど収入がなくても困らない人とか、限定された人以外は・・・)

だって、1カ月も、仕事休んで教育実習したり、介護実習したりできる人って、そうはいませんから・・・

家族抱えて、幼子抱えて、勇気を振り絞って仕事を辞めて、定職につかずにアルバイトでしのぐ、というストーリーを、自ら突き進もうとする人、そうはいないと思いますから・・・。

でも、この試験が、その不安を一気にふきとばしてくれるのです。
仕事を辞めずに、教員の免許がとれる。
妻と幼子のためにも、収入をとぎらしたり、仕事を辞めたりしないで、安心して免許がとれて、次のステップに踏み出して行ける。
最後のステップである目標の、各都道府県の教員採用試験に合格し、教員として就職する、その日まで、仕事を辞めずに済むのですから・・・。

大阪府みたいに、橋下 徹さんの影響で、ずいぶん教員になろうとする人が減ってしまったような都道府県では、新卒の学生だけの募集では、ゆくゆく苦しいことになるかと思うので、このような意義のある試験を、ぜひ辞めないで続けてほしいと思います。



なにはともあれ、よかった、よかった、よかった~!!!
パチパチパチ!!!




【衝撃!】日本全国の小学校で、うさぎを飼育するブームがはじまっています。


学習指導要領というものがあり、その内容にそって、学校は授業を行う。
このことは、教師の世界では当たり前のことであるが、知らない保護者も多い。

で、最近その指導要領が新しく改変されていて、低学年の「生活科」では、なんとうさぎの飼育が奨励されているのだ。

そのことを、秋の収穫祭でたまたま出会った友人に話をすると、

「うそ~」

と言う。

なぜそれが嘘呼ばわりされるのか、こっちがきょとんとしたが、

「うさぎなんて飼うの?ぜったいあり得ない」

と、あくまでもその真偽を疑われてしまった。

いや、たまたま担任の先生が変わり者で、うさぎがひどく好きだとか、なにかきっかけのようなものがあって、勢いでうさぎが手に入ったから、みんなで飼おうよ、というノリなんだったら、納得できるのだ、という。

「そうじゃなくて、文科省とかが、いっせいに、さあ、日本中の小学校でうさぎを飼育しなさい!なんて、いうわけがないでしょう。そんなことがあるのなら、もっとテレビやマスコミがそのことをニュースにするよ」

だって。
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○○しろよ。じゃないと、なぐるぞ。


「俺の言うことを聞け。さもなければ、これだぞ」
(と、なぐる真似をする)

こういうことは、したり言ったりしてはいけない。
それを分からせるために、教師は何をするか。

「ばかもん!!そんな脅すような真似をしてはいかん!!」

と怒鳴りつける。
これは最低の「叱り方」です。
なにも響かないまま、収穫ゼロで、恨みだけが残り、将来に禍根を残します。
大人にとっても、子どもにとっても、なにも得られない、という点で、あまり賢いやり方とは言えないでしょう。
発達障害のある子には、これは当然重大な影響が出ます。「わけのわからんことで叱られた。オレのことを憎んでいる」という妄想を抱かせてしまいます。2次障害につながっていくステップを踏んでしまうことになり、二重の意味で非常によろしくない。

子どもは、「たかがこんな程度のことで」と思っているに決まっています。
多くの子は、

「え?そんなばかな。なにがいけないんだ?みんなやってるだろ」

と思っています。
そこで、こう言いましょう。

今のは立派な犯罪です。
そういうことを言うと、脅迫罪という罪になります。
2年以下の懲役、または50万円以下の罰金です。

「きみたちはまだ小学生で、学級とか学校という、小さなコミュニティでもって、社会に出るための準備をしている段階だ。だから、2年も牢屋に入れられる、ということはない。しかし、大人になったら事情はちがう。立派な犯罪を犯したことになる。」

まずはこんな程度のジャブで、叱られていることを明確に伝えます。
イエローカードじゃなく、レッドカードだ、ということを分からせるため。

しかし、それを聞いても、きょとん、です。
先生、何を言いはじめたんだ?
わけわからんわ、という表情です。
いったい、このセリフのどこに、問題があるのか??
ふつうの会話じゃん、ということなのです。

「お前、あっちのチーム行けよ。じゃないと、これだぞ」(と、殴る真似をする)

こんなの、これまでも100回くらい言ってきたし、兄弟間では日常会話だし、うちのかあちゃんも言ってるし、本当に標準的で、日常にもっともよくあるタイプの、一番よく聞いている類の会話だ、という感覚でしょうか。

「宿題終わったんか?宿題やらんと、尻たたきやで」

と、母ちゃんが日常的に言いますので、それをちょっとぼくなりにアレンジしただけで・・・、ということらしい。



ところが、こういうセリフに、非常に苦痛を感じる子だって、クラスにはいるのです。
だから、クラスの中に線引きをしておかなければならない。人の生命や身体に危害を加えることを宣告したうえで、自分の要求を相手に呑ませようとする行為は、この学級ではゆるしません、ということを明確に、クラスのルールにしていかなければならない。


で、ルール化して、それがまずとりあえずのことであって、本格的に切り込んでいくのはそこから。

ルールをつくってみせても、「言うこと聞かんとなぐるぞ」と簡単に言ってしまっている子は、なにも変わっていません。
その子が変わっていくところをサポートするのが、教師(というか大人全般)であります。
だとするならば、

叱って終わり

というのが、まったく何もやらないよりもはるかにたちの悪い所作であることが明白です。
その後のサポートを何もしないのであれば、下手に叱らない方がマシ、と言いたい。
2次障害にするなよ、と。

ところが、保護者懇談会でも話していて、ああ、と思うのは、

そういうのは、大人が本気でビシッと叱ればいいんですよねえ、先生!大人の本気さと迫力で分からせないと!!


という人が多いことかなあ・・・。

<大人の迫力>かあ・・・。それもいいけど、それで何が解決するかと言うと、何も解決していないのです。
大人は言いたいことを言った分、前に進んでいるような気がするだけで・・・。
子どもの気持ちは、「なにか圧迫された」、というだけで・・・。
子どもはやはり立場が弱いですからね。

必要なのは、子どもが育つことなのですが、大人が叱る、ということ自体が目的化している。

そうではないだろう、と。

○自分の中の願いややってほしい、ということを伝えるのに、純粋にそのまま言葉に出して頼む、希望を言う、ということ自体がゆるされてこなかった、あるいは幾度も幾度も裏切られてきた、もしくは茶化されたり、本気に受け取ってもらえなかったり・・・という暗い過去。
○ただ甘える、ということができず、ともかく相手が自分の希望を受け入れてくれている、という<形や状態、結果>をのぞむ、性急さ、焦り、余裕のなさ。
○もしかなえられなかったら、いてもたってもいられず、我慢もできず、どうしていいか分からなくなる、という不安。

こういうことを考えると、

「○○しないと、なぐるぞ」

という子の、切なささびしさ悲しさ、涙が出ます。

で、こういうことをクラスで言うと、意外や意外、3年生でもそのことが分かるらしい。

「自分が困るのがいやだから、なんとかしたいとあせってる」
「そうそう。やってもらえないと、困るのが自分だから」

というようなことを、スッと解説したりする子が出る。
我慢が出来ない、ということ。
いてもたってもいられなくなる、ということ。
追い詰められている、ということ。
かなえられなければ、泣きそうになる、ということ。

「お前、あっちのチーム行けよ。じゃないと、これだぞ」って、Sくんが言ったんだよね。
そして、殴る真似?をしたってことだけど・・・。」

「あのね、最初Mくんに言って、いやだって断られたら、そしたらすっごい大声出して、叫び始めたんだよ」
「・・・」
「Hくんと同じチームがいいから、今度はわざとSくんに動けって命令した」
「・・・へえ」
「Hくんと同じじゃないとだめだから」
「むりやり、Sくんに変わらせようとした」
「・・・そうかあ」

「じゃ、もし、Sくんが嫌だっていったら、どうなるんだろう?」
「・・・」
「泣いちゃうんじゃない」とA子。
みんな、「・・・」。



「赤ちゃんみたい」

という子もいた。

クラスでの話し合いが、このレベルにまで達しているのにも関わらず、当人だけが、なんで自分のことをみんなが、

「赤ちゃんみたい」

なんて言っているのか、ちっとも分からず、きょとんとしている。
そして、なぜ自分がこんなに不安な気持ちにさせられているのか、分からず、おびえている。

「先生が心配しているのは、Sくん。一番すくってあげたいのは、なぐるぞ、といったSくんの方なんだよね。みんなにふつうに、ぼくこうしたいんだけど、どう?って、言えるようになってほしいんだけど」

とわたしが言うと、クラス全体に、

「そうだね」

という空気が流れる。

「なんでそうやってふつうに、みんなにお願いするってことができないのかなあ」
「お願いしてもそうならなかったら、我慢が出来ないから」
「そうか、ガマンができないのか・・・」



「・・・そうかあ・・・。ドッジボールが楽しめなくて、一番困っているのは、Sくんなのかもしれないね。」

最後、わたしが、ゆっくり、しっとりと語ると、教室が、シーンとする。

Sくんは、もうその頃には、突っ伏して泣いている。

「Sくん、だいじょぶかなあ。心配だね」
「これからがんばって、階段登って行ければいい」
S君のすぐ隣に座っていた、まあまあS君とは仲の良い友達の、Eくんが言った。

階段というのは、つねに私がさまざまな機会に、

「かいだんのぼって、成長していこう」

という意味で、階段の比喩をよく使うからだろう。

憐憫の情で包まれ、再度コミュニティにむかえられる、という形にもっていくのが、「やんちゃくん」にする一番いい対応だろうと、今のところは思っている。

「ぼくは成長したいと思っています。がんばって成長したい。だからまた、このクラスで、みんなといっしょにやらせてほしいです」

号泣しながら、5分くらいかけて、それだけを言う。
もう泣きながらだから、しゃくりあげて、過呼吸になりながら、それを言う。

わたしが怒鳴ったり、声を荒げる場面は、ただの一秒もない。
そもそも、その必要がないのだ。

「このクラスのみんなは、Sくんを本当にやさしく見てくれています。そのことが本当にうれしい。感謝しています。きっと、もうSくんは、ひとを脅すことはしないと思うよ。ありがとう」

そうして、何事もなかったかのように、算数が始まります。




デジタル教科書で授業してみたんだけど・・・


別に視力が悪い訳ではなく、けっこう見えているのに、乱視が極端にあって、お母様が本当に心配しておられる。眼のお医者様に通っているが、原因が分からない。専門の眼科に通って、果ては大学病院を回られて。
特別なメガネをつくってもらったり、視力のトレーニングをしたり。

心因的なものなのか?と悩んだお母様、結局信頼できるお医者様に

「あまり近くのモノをじろじろと見過ぎないで、眼をやわらかくつかって、遠くの方をぼやっと見るという生活をおくりましょう」

との提案に、そうした生活改善を決意されます。

さて、

「先生、机の上の教科書を見ないで勉強なんてできるものでしょうか」

とご相談されて、パッと思いついたのは、教室のテレビ。

「テレビに教科書が映ればいいでしょうか?」

言いながら考えていたのは、よくある実物投影機です。
その装置の真下に教科書を置いて、みせてあげればいいかな。
教師用の教科書を置いて、めくってあげればいい。

で、やってみました。

ところが、光の加減で、かなりページがみづらい。
教室の照明の問題か、と思って、放課後教室にのこってあれこれ、研究していました。

まあ、行けると。


ところが、1週間もすると、問題がわかってきた。
一日中、この実物投影機をだしっぱなしにしておくことが、かなりストレスになる。
机の上から落としそうで。
教室の前の方って、なんだかんだと子どもたちも出てくるスペースになっている。
なんだか、投影機が落とされそうで心配。

さらに、肝心の、その子が、ぜんぜんテレビ画面を見ない。
机の上に一応出している、自分の教科書を見てしまう。

「できるだけ、テレビ見ようね。お母さんが言っていたでしょう。」

とうながすも、本音を聞いたら、

「だって先生、テレビの教科書って斜めになっていてすごく見づらいもん」

ですって。


ナナメだと?
ちっとも斜めじゃないのに。

ところが、教科書の厚みで、わずかに教科書のページに傾斜ができる。
ページを綴じてある側と、ぺらぺらめくる側とで、差がある。
立体的に感じるそうであります。
わずかなものなのですが、肝心の当事者が、気になってしょうがないのであればねえ・・・。


それをお母さんにいうと、

「せっかく先生がしてくださっているのに。言い聞かせておきます」

と言ってくれましたが、それでもその子に我慢を強いているのであれば、教師としてはなにか、もっと頭をやわらかく使って、アイデアを出したい・・・。


そこで、算数は、デジタル教科書。

買ってもらいました。
啓林館の!!

ところが、ここでまた問題なのですよ。

デジタル教科書って、非常に操作がやりにくい!
なんだか、思うようにいかない!
なんでだろ!


いちばんの原因は、拡大したいときに、拡大できないこと
拡大できる部分はすでに教科書会社が指定していて、そこ以外は拡大できない。
もう、これだけですでに、気持ちが萎える。

たしかによくつくられているし、いいんだけど・・・。

おまけに、パソコンをつなぐのが面倒だ、ということも実感されてきた。

算数の前になると気合を入れてつなぐのだけど、これが1週間もやると、面倒に・・・。
面倒なんておもっちゃいけないのだけど(*_*)

ノートパソコンが起動するのに、えらい時間がかかるということも大きな要因。

小学校の教室で、1分って長いのです。
1分あれば、どんな事件だって起こせるくらいに長い。

起動するのに、1分以上かかる。
このノートパソコンが悪いのかなあ・・・。
(つづく)




放送大学で特別支援学校教諭の免許をとる


特別支援学校教諭の免許を取ろうと放送大学の科目履修生に申し込みました。
しばらくすると郵送でいろいろと必要な書類が送られてきたので、必要事項を記入して再度送付すると、今度は教科書と「通信指導問題」が送られてきました。

なんだか、なつかしいです。
その昔、通信制の大学に通いながら、学位を取得するために、勉強していたころを思い出しました。

特別支援学校教諭の免許をとるためには、都道府県によってちがうようですが、おおむね、

「特別支援教育基礎論」
「特別支援教育総論」
「知的障害教育総論」
「肢体不自由の教育」

以上の4科目でよいようです。

入学料が6000円
2単位が4科目ですから、11000円×4=44000円

合計で50000円
消費税をふくめると、5万2500円
となりました。(コンビニで支払いました)

本当はもっと格安でとれるのです。
夏休みに、市が行う研修を受けることで、もっと手軽に、もっと早く、もっと安価にとることができます。
ですから、同じ境遇の方が同じ目的で取得する方法としては、「放送大学での免許取得」は本当は、お勧めできません。

なぜわたしがこういう面倒な方法でとっているかというと、愛知県では夏休みに集中してこのための研修機会をつくってくれているのですが、その日程が、夏休みのど真ん中!なのです。
そして、その2日ないし3日(もしくは4日間)というのが、家族サービスを犠牲にして勉学にいそしむにはあまりにも貴重な日程!
子育て中の親には、無理な日程かと・・・

さらに、これも都道府県などにちがいがあるかと思いますが、こうした研修についての助成金がおりることが多々あります。共済会とか、いろいろな方面から・・・こちらも確認しておくとよろしいかと。
申し込みの時点から、申し込み用紙が異なる場合があります。


さて、忙しい忙しいと言いながら、息子の散歩にもつきあっていられないで、嫁様から愚痴をこぼされている私めが、本当に資格がとれるのでしょうか。

わたしがこれから半年間、レポートしますのでお楽しみに!




廊下は鈴鹿サーキット!


子どもは、根本が、「はしりたい」生き物のようです。
その子どもに向かって、

「はしっちゃだめ」

というのですから、学校の廊下というのは、根本的にかなり子どもの実感や気持ちとは、ズレている(ことを要求される)場所なわけです。

学校側の理屈は以下。

・怪我をしたらどうする
・もしぶつけどころ、打ちどころが悪かったら
・学校中がさわがしくなる(わさわさする)

まあ、こんな理由でしょう。

そこで、全国どこの小学校でも、一応廊下は
「走りません」
というルールで徹底しているわけです。


ところが、子どもは走る。
低学年に、ルールなんてちっとも浸透しません。
目の前に広がる、長い廊下。
いい感じの角度で曲がって、ゴールは下駄箱だ!
まるで鈴鹿サーキットにでもいるかのように、F1レーサーのように、自分の体を全速力で走らせる!
この快感にしびれてしまった子たちを、どうにかしないといけない、というふうに多くの先生たちは思うわけですが。

なかには、毎日毎日、根競べ、という先生も。

「ようするに、子どもと根くらべよ。続けること。教師が負けない。」

すがすがしく、まるで行者が苦行僧のようです。
毎日、滝に打たれています、という感じ。
一種、尊敬の念を持ちますね。
言い方も、落ち着いたもの。

「ここは、○○小学校の廊下でーす。歩きましょうー」

お告げのように、静かなる「天からの声」を降らせて歩きます。
これは、「お告げ型」スタイル、というような感じ。

怒りの声をぶつけて、頭にきた!という雰囲気をまきちらしている、いわゆる「激怒型」タイプの指導スタイルをとる先生もいます。

要するに、教師の方にも、いろいろなタイプがあるのです。
(というよりも、言い方を変化させて試している)

他にもいろいろな指導の種類があって、
「これぇ。ここをどこだと心得る?」の江戸風松の廊下問答タイプ
「これ、この廊下が・・・、あ・、目にィ、入らぬ・かぁー」の印籠型水戸光圀公タイプ
「走ると怪我するぞ~、いいか、頭を3針縫った、お友達の話をしてあげようか・・・。まず、血がだらーんと出てなあ・・・(ゾクゾク)」の、怪談風恐怖の血ドバータイプ、・・・

・・・ま、どうでもいいか。



いつものように目をきらきらさせて走っている1年生に、上記のように注意した後、ふと思いついたのは、法律化。つまり、法的な効力のある文書に、明記してしまったらいいのでは。

「学校の教職員は、児童が廊下を走って怪我をした場合の責任については一切これを免れる」

つまり、走って怪我をしたら、その場合の治療費等は該当児童の全額自己負担。
子ども同士がお互いに謝罪をする。
先生の責任はいっさい、無いものとする。


21世紀になって、もう12年過ぎました。
2000年で、ミレニアムだのなんだの、と騒いでいたり、ベルリンの壁が崩壊して浮かれていたときには、

「これから、世の中が一気に変わっていくかもしれない」

などと夢想したこともありました。
夢にすぎませんでした。
もう、12年も経ってしまった。

でも、あいかわらず、小学校では、廊下を走ってはいけない、という枠組みを守っています。
そして、もし怪我をしたりトラブルが起きたりしたら、担任の先生が責任をとることになっています。担任の先生は、つい走ってしまうような生徒のことを、

「きみみたいに、廊下をアホのように走ってる生徒がいるとオレが困る」

と思ってしまって、

「こら!走るんじゃない!!」

と、毎日のように叱っているわけで

このようにして、

叱るのが日課。
叱ることが仕事。
叱ることでお給料をもらっているのだ、と誤解する先生が増えて、楽しいと思うのはいったい誰なんだ、と不思議なのですが、これをだれも不思議と思わないところが世の不思議なのでしょう。

(ともあれ、校長先生が「こりゃあ!廊下を走るなぁッ!!!」と激怒タイプの指導スタイルをとる場合、教職員全体に、この激怒型スタイルがじゃっかん、増える気がします。これ、確かなデータのような気がするのですが。どこかに統計や資料がないでしょうか。)




「発達障害の子だけ」に対応しようと思ってもむずかしい


最近思うのは、学校の先生は、「発達障害の子だけ」に対応しようと
思っても、むずかしい、ということです。
クラス全体を、発達障害の子があたたかく迎え入れられるクラスに
しないと、結局どこかで糸がほつれていくのです。
「あれ?」と思う瞬間に、発達障害の子の、生きにくさがむき出しに
なってしまいます。

「すべてを、そうしないと」

と、今は思うようになりました。
勉強がむずかしくなってくる3年生後半、4年生あたりから、
授業中のイライラがつのってきますし、自暴自棄なふるまいや
授業をこわそう、とする意図のある行動も増えます。
そうなる前に、本当に、つつみこんであげないと、です。
このクラスなら、みんなといっしょに安心してやれる、と
自閉症児が心底思うような学級にしていかないと、
ボロボロとくずれていきます・・・。

そして、そうなるようにするのに、親の力が大きいと思います。
先生(自分)が努力するだけでは、限界あるな、とよく思います。
家でも、ぎゅーーーーーツと抱きしめてあげてほしいと。

まあ、それが一番、というか、根本と言うか、
でもそれができない、という親の事情、社会の事情、
いつもぐるぐるとこのあたりの思考をめぐらせて過ごしています。

大人が子どもをどうみるか。

これ、大人が自分自身をえぐっていかないと、なかなか見えないですよね。
子どもをみている、という視点が、そのまま、その人の眼力なのですから。

もう、平気で職員室で子どもの悪口をしゃべってしまう先生が気の毒で。
(わたしの眼力はこの程度、とあさはか加減をさらしているわけで)
子どもも気の毒だけど・・・。
悲劇です。
親も、ところかまわず子どもの悪口言ってしまう親もいて・・・。
悲劇ですよねえ・・・。

その悲劇にたいして、わたしはどうふるまったらよいのか。
なにも見えない、よくわからない。
自分の子どもに対する見方にも本当のところは自信がない。というか、
それを話合う機会がないし、話してみて、真正直に反応してくれる人もない。

職員室には、いないのです。
みんな立場があるし、評判を気にしますからね・・・。
お互いに心底まっさらになっての深い話はできないのです・・・。

教員と言うのは孤独だなあ、というのがわたしの今の心境です。


・・・というわけで、ご近所の方に、たまーに話しに行くのです。
たとえ2人でも3人でも、こういう話を

「ふんふん、へー、そうなの」

と聞いてくださる方がいると、

「おお」

と思いますね。
教員は、学校の人間関係だけ、で生きていると、苦しいときもあるかもしれないです。




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