30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2012年09月

少人数加配の先生が来てくださった効果を数値で示せと校長会で・・・


校長先生が悩んでいました。
いつもわりと晴れ晴れしている顔なので、ちょっと困りました。
職員室の気分もなんとなく、曇ってきます。

勇気を出して、教頭先生がおたずねしてみると、なんと

「加配の先生が来てくださるのでわれわれはずいぶん助かっているが、その加配教員の効果を数値で示せ、と校長会で指示がありまして」

とのこと。
校長先生が悩んでいる原因が分かりました。
つまり、学校に、先生を増やしているので、その増やした分の給料が税金負担である、ということが問題視されているのです。
その税金が適正に使われたものなのか、調査する必要がある、ということでしょう。
だれが言い出したのか知りませんが、ずいぶんなめたことを、と思います。

「加配の先生が来てくれて、教室から飛び出す1年生が、廊下でつかまえられるようになってずいぶんと助かっている・・・てなことを書いておけばいいのでは」

と職員室のどなたか、わりと年配の先生がおっしゃったのですが、どうやらそんな程度ではダメなようです。

「いやあ、数値で出せ、ということなのですよ。鉄棒の逆上がりが、クラス全員できるようになったとか・・・ね」

校長先生はそういうと、ため息をついてひじを机の上に衝かれました。

「数値でって、言われても、ねぇ・・・」



どなたか、また別の先生が、

「教室から飛び出す1年生を、週に何べんつかまえたか、数値で出せばいいのでは」

ということを言いました。
わたしも、それはいい、と思って校長の顔をみたのですが、校長はだまって首をふって、また深いため息をつかれました。
どうやら、そんなのはダメなようです。


保健室の先生が、

「1年生を廊下でつかまえた場合は、多くの場合、怪我をしないで教室に帰れるので、そのことを数値化したらどうでしょう。中庭の池と水路に1年生が飛び出して、この間のように石でつまづいて怪我をすることが何度もあったでしょう。加配の先生が、そこまでいくうちにつかまえてくれるようになったので、怪我も減ったと思うのですが」

というと、職員室全体に、それはいい!という空気がひろがって、安堵したようになりました。

ところが、ふと気付くと、校長はますます深く肘をついて、両頬を手でつつみこむようにして、苦しい顔を変えていません。

「どうですか。養護の先生の案では」

「だめですね」

校長は、全然ダメだ、というような調子で首を振っていました。


「ともかく、算数が全員、95点以上になったとか、漢字テストが95点平均でいけるようになったとか、逆上がりが全員できるとか、水泳で全員平泳ぎで25m泳げるとか、そういったことがほしいんだ」



それを聞くと、職員室が全体、シーン。


ずっと下を向いて、運動会で保育園児が使う風車をパチン、パチン、とホッチキスで止めていた年配の1年生の先生が、ふと顔をあげて、

「じゃ、前回やったテスト、もう一度やりましょうか。加配の先生のおかげで、もうみんな、やり方を覚えましたから、同じのをもう一回やったら、みんなほぼ100点とれますよ」

それを聞くと、再度、職員室がパァァッーーーと明るくなりました。

校長先生も、なんとか顔をあげて、笑顔を見せてくださいました。




少人数のことでいえば、教室に38人。
これ、もうどう考えても今の子どもたちの実情には合っていません。

今や、けんかを自分の力で収束できなくなった子どもたちが、ほぼ99%です。

こういう時代に、38人が一同に教室に詰め込まれた状態で、授業がまともに進むわけがありません。
行事がすべて消滅して、生徒指導の時間を毎日1時間とれるのなら別ですが、現実にはそうはなりません。
ほぼどのクラス、どの教室でも、人間関係の処理に忙殺されて、(忙殺されていないようであれば、学級崩壊していて、先生がすでにあきらめきっているクラスかも?)38人をまともに学習に向かわせるのはかなり難しいです。

これを、「やれる」なーんて、中途半端に申し上げてしまうから、ややこしくなっています。
「あきらめてください。38人なんて、無理!!!!」
って、えらい校長会のトップか、文科省のトップが、ちゃんと世の中に対して、言ってくれていないから、中途半端にまだ、期待されてしまっています。

文科省長官の、

「えー、あきらめてください」

が、なぜ言えないのか。
いじめがあり、自殺があり、不登校があり、どう見てもまともではない学校ばかりです。
もう、メンツとかにこだわるの、やめましょうよ・・・。
そんなの、最初からムリですよと断ればいいものを、なんとなく引き受けてしまうのがいけない・・・。


少人数加配を増やせない理由を、校長が教育委員会や市の議会などにねじこんで、

「加配しないこと分の税金を有効に子育て支援に使っているという効果を数値で示せ」

と要求するのが本当です。

世の中、逆ですよ、逆。




お誕生会にさそうメンバー選びをどうするか 教師に相談


「どうでもいい」


とさけびたくなることってありますが、これなんかはその典型的な例です。
こんなの、教師に聞くかよ、と。

「べつにだれでもいいと思うよ。誘いたい人誘う、というので」

と返事をすると、

「それが分からないから、聞いているんじゃん」

と言う。
ほっとくと、そのうちに、
「先生がきちんと娘の話を聞いてくださっているのか・・・」
という保護者から連絡帳が届いたりして、本当にどぎまぎします。

いやあ、お誕生会にだれをさそうか。
おそらく、小学生だと、友達に線を引くのが、能力的に無理なのかもしれませんね。
かといって、「クラス全員が友達だから」と35人誘うのも、キャパシティが無理。

「せんせい、どうする?」

と聞いてくるから、

(そんなの、こっちが決めることじゃないぞ!)

と心の中で思いながら、じっと眼をつぶり、実はまったく関係のない、明日の授業のことを考えています。


あとで聞いてみると、驚愕することに、それにどうやら親が関わっているらしい。
どうも母親が娘に、
「線引きがむずかしいから、この際、先生に相談してみなさい」
と提案したそうです。

アホかッ!

その場面で親が言うべきセリフは、

「ともかくあなたの誕生日会なんだから、あなたが5人、決めてしまいなさい。」

であるべきか、もしくは

「悩んでるなら、やめたら?」

か、

「お部屋をひとつ開放するから、35人でも何人でも、都合のつく人全員、かまわないからどんどん来て!って、学校に張り紙をだしたら?」

であるべきでしょう。

どうやら、親としての心配は、クラスの人間関係がこわれないように、という配慮なのですよね。今の時期に、うちの娘が関わっている友達関係が、いちばんうまくいくベストメンバーを、提案できるのは担任の先生だ。そこで先生にうかがって、いちばんよい5人を推薦してもらおう。そうすれば、まさかとんでもない不良は来ないだろうし、落ち着いた子ばかりが集うに違いない。

まあ、頭の良いお母様だな、とある意味、尊敬もします。

しかし、お友達を限定する、という、もっとも重要な局面において、親は出過ぎるべきでないし、いわゆる「管理下」におくべきでもない。だれでもいいから、あなたがいい、と思う子を呼んでくればいい、とすべきだろうと思う。

「だれと仲良くなればいいのか」

は、子どもが自分で決める仕事。親が決めるのでない。
どんな子でも、いっしょに遊んでかまわない。
親は口出ししない。
しかし、それで躓いたときは、親がしっかりとフォローする。

おそらくここが一番のポイントで、何かあったとき、うまくフォローする自信が日本中の親から失われているために、子ども自身も

「だれとつきあえば失敗しないか」
と不安になってしまっているのではないでしょうか。



(と、ここまで書いてきて、これ、子どもだけの問題じゃないな、大人も人間関係の修復が苦手になってきているよな、と・・・)




高学年の「親友」ほどおそろしいものは・・・


A子に「親友」と呼ばれ始めた時点で、なにかがくるいはじめた。
A子はボス。
クラスの女子の中で、もっとも人の心を「突く」のがうまい。

「親友」という甘い言葉を使いながら、その実は、クラスの女子を自分のお気に入りと、そうでない者とにふるい分けていく。

ずるがしこいのは、それをさらにランク付けにして、5段階ほどの表にする。
それを示して、クラスの女子を競争させるのだ。

「あんたは大親友。B子はただの親友。C子は仲良しの友達。Dはふつうのともだち。Eはともだち未満」

などという。
たわいもないこと、のように見えるが、ランク付けされた当人たちはもう生きるか死ぬか、というくらいに顔が青ざめている。

A子がクラスの女子を支配して、相手の弱みを突く。
A子は、「支配する味」を覚えた。
他の女子は、A子の言動に逆らうような意見をいうわけにはいかない。
あまりにも、グループがセクト化し、セクトの外に出ることの恐怖感が強すぎるのだ。

こんな人間関係は、実は空疎で、すぐに瓦解する。
それは、この子たちが中学校に入れば、とたんに雲散霧消する。

「中学入ってから、一回も話していない」
なんていう。

去年まで、あれほどくっついて、行動していたくせに。

「どうして」

と問うと、

「今までの、本気じゃなかったから」

と、見事なほどあっさり、と言う。



いちばん悲惨なのは、A子であります。
せっかくつくった、パワーバランスの中で、ようやっと自分自身を癒していたのに、それがすべて消えてしまうのです。

A子がいちばん、苦しんでいる。
そういう、いびつな人間関係で、つかの間の「癒し」を餌にして生きてきた。それが、果たせなくなる。
いびつな人間関係を作らざるを得ない、そうせざるを得ない、窮屈な、みじめな洞窟暮らしを続けてきたのだ。

A子をここまで追い詰めたのは、誰だ。

A子がもっともほしいのは、「親友」だ。
「親友」のラベルを友達につけようとしたA子が、実はもっとも「親友」から見放されている。


「親友」という言葉を使えば使うほど、「親友」がいなくなる。
「ともだち」という言葉を使えば使うほど、「ともだち」がいなくなる。
「ほしい、ほしい」と言えば言うほど、得られない。
なんと、皮肉なことよ。




結局は「ともだち」との人間関係で苦しんでいる


クラスの子どもたちを見ていると、つまるところ、学校にくるのは「人間関係」を学ぶためなのだ、と思うようになった。

授業も大事。それはそう。
国語も算数も、理科も社会も、総合的な学習の時間も、すべて大事なことには変わりない。

でも、いちばん子どもたちの心の中に、切実であり、学びたがっていて、どうするのがいいのか、悶々としながら居るのは、「人間関係」。

大人もそうだけど、子どもたちも同じ。
この人間関係、というものをどうにかスッキリしたい、とねがって、毎日生きている。
このことが落ち着くだけで、頭の中で整理できるだけで、もう学校生活が根底からくつがえって、一気に明るく変貌する、というくらいに、大きなこと。

しかし、保護者の意識はそうではない。
1番が勉強で、人間関係はその次、と思っている。
この順序意識の差が、けっこうクセモノですよ。

保護者の意識は、1位と2位の差はそれほどない、と思っている。
「勉強も友達も、どちらも大切です」
という方が多いから分かる。

しかし、子どもの意識の差は、これとは異なる。
つまり、第一位の「人間関係」というのが、これはどうにもゆるがない一位であり、他のことをすべてつきはなして、圧倒的に一位なのであります。
国語や算数や理科や社会、図工などというのは、ずいぶんな差をつけたうえでの、第2位なのであります。



ここで笑ってしまうのが、文科省ですが、「今の子はコミュニケーション能力がないので、思いを伝えあうコミュニケーション強化のための授業をしましょう」とキャンペーンをしています。国語の教科書も見事にそれと呼応して、やれ自分の好きなモノをお互いに発表しあいましょうだとか、遠足の思い出をみんなで共有しましょう、だとか。
こんな授業、いくらやっても・・・と思います。

それより肝心なのは、人間関係の中での微妙なコミュニケーションの力なのです。
けんかをうまくおさめるの、先生にすべておまかせ、というよりも、自分たちでなんとなしにおさめていくだけの力が、本当はあるはず、と思うのです。
国語の教科書で強化するプレゼンテーションの力なんかとは、まったく別の力がつかないといけない。

けんかをした、すべてノーサイド、あとくされのないようにおさめていく。
それをどうするか、低学年は先生がみせます。見本を。
悪かったところはお互いにある。お互いにやりすぎたのだ。それを素直に認めあって、周囲のみんなにもわかってもらって、さらにはお互いに人間だもの、弱い所やプライドもある、それをお互いに大事にせんと・・・という余韻を味わいながら、おさめてしまう。

そのうちに、少々の喧嘩くらいなら、遊んでいるうちに解消するものだ、と分かってくるし、お互いさまだな、ということも実感できてくる。
高学年ともなれば、上手に言い合って、上手に収束させます。
ひっこみがつかないときには、いいタイミングで女子のかしこいのが出てきて、
「もうやめなよ、○○くんだってこう言ったんだからね」
なーんて、はきはきと言ってくれる。それでまるくおさまる。それを実は、クラスの全員が(当人ばかりでなく)願っていて、おさまっていく。

・・・というのが、私の子ども時代の経験です。

しかし、今の子は、すべて先生の「シキリ」を必要とする。
そうでないと、つきとばしたり、つばをかけたり、ものをかくしたり、ということがずーーーーーーっと続いてしまう。

「ひっこむ」

というのが、できないのです。お互いに。


本当は、こういうこと、学校の授業時間をつかって、みんなで学んでいくくらいでちょうどいい、と思うのですが、それは許されていません。




赤と白の応援団長 タイプがぜんぜん違う!


赤の応援団長は、いかにも先生の言うことを聞きそうな優等生タイプ。
白の応援団長は、なんでこの子が選出されたのか、と6年の担任の先生の考えを疑うような、非優等生タイプ。

と、ここまではまだ勝負は五分五分だが、やはり惜しいことに、優等生タイプがどうにも「鼻もちならない」タイプで、残念だ。
なんであんなに、自分を正しく、と頑張るのだろう。

対する白の応援団長。いわゆる、なんだか人気とノリだけでここまで来てしまった、という子。
ぜんぜんしっかりしたようにも見えない。なんだか見えないところではだいぶ手を抜きそうだし、練習もぐだぐだしているようにも見える。
ところが、こっちがなんとも楽しい雰囲気なのだ。いざ、やろう、となると、まとまってしまう。

これがせつないところですねえ。
教師とすると、白を叱りとばし、「赤の真剣さを見習え!」と説きたい場面ですが、白のくったくのない笑顔と目力(おもしろいことやってやろか)の魅力も、なんだか捨てがたいのを感じ取るわけです。
一応、お約束で、

「こらぁー、白はまだ声が出とらんわー」

と叱りますが、白はそれを聞くやいなや、はい、こっちもやってまーす、というノリでもって、「フレー~~!!」なんて奇声をあげてゲラゲラやっている。

「先生が見ている前で声がでていなかったら、やりなおしだぞ~」

といって、担当の先生もなんだかニヤニヤしながら校舎の方から、昼休み、練習中の中庭まで降りていこうとすると、あわてて6年生が4年生あたりに何かをしゃべっていて、あっという間に態勢をつくっている。

赤の応援は楽しくなく、白の応援は見ていて楽しい。
赤には眉間にしわがより、白のは口元にしわがよる。
赤の応援団長は、決められたことをきっちりしゃべる。5時間目にはゆうゆう間に合う。
白の応援団長は、下級生としゃべってばかり。それで5時間目に遅れそうになる。

今後、大きくなって成人し、たよりにされるのは、赤でしょう。
真面目で、誠実で、善悪をわきまえて、礼儀正しくて、明るくて、爽やかで、活発で、約束はキチンと守って、人からたよりにされるのは、やはりまじめな赤タイプでしょう。

ところが、知らず知らずのうちに人を傷つけるのは、赤タイプでしょうね。
ふとした拍子に人を救うのは、白タイプだという気がします。

どちらの子を育てようと思いますか。

教師としては、赤を思い切り誉めます。でも、努力やまじめな姿勢を誉めるのを最低限に抑えて、「けっこう、意外に、きみって面白いねえ」ということを誉める。「へえ、意外な面がたくさんあるんだねえ」という言葉を伝えます。(そうはまったく思えなくても、そういうところを無理やり見つけて伝えるのです。)将来、壁にぶつかった時に有効となるような言葉をかけておきます。

そして、白に対してはどのように接するのか。
白タイプに対しては、ほめることをあまりしません。
ただひたすら、感謝します。
「きみがいてくれて、おかげで学校がこんなに明るい」と・・・。




運動会なんかよりも、もっと大事な・・・


運動会にかけるエネルギーが、学校を大きく包み込んで、良くも悪くも、学校を巨大な競技場にしたてあげていく。
それは本当におもしろいことでもあり、子どもが変化するタイミングにもなり、すべての児童のよき思い出にもなり得るし、一片の浄化装置にもなっている。

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運動会で怒鳴らぬための唯一の方法は


運動会シーズンです。
私が以前いた、○○県の学校は5月に運動会がありました。
さわやかな風の吹く中での運動会も、なかなかよかったです。
新学期早々だし、急には準備ができない、という中での運動会。親も教師も、そもそも要求度が低い。それがよい作用となって・・・。でも本校は9月。

本校は、9月開催です。
この時期は、とても暑い。
熱中症との闘い、であります。

しかしまあ、一方では、それなりにクラスができあがってきていて、子どもたちの人間関係にも安定感がある。それを生かしながらの運動会というのも、なかなかすばらしい。

ただ、怒鳴り声をだして、子どもに「発破」をかける、という気にはなれんのですよ。

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