30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2011年10月

北杜夫さん ご冥福をお祈りいたします


ついに、会えなかった。
生前のお姿を、どこかで(トークショーやなにかで)みることができるのではないか、と淡い期待を抱いていた。

この目で、会うこと。
畏れ多い気持ちもあった。


しかし、今となっては、もっともっと貪欲になって、間近で見てみたかった。その声を聞いてみたかった。


マンボウもので大笑いし、
青春記であこがれ、
木精や幽霊で、物悲しさと同期する生命の光を感じ・・・

「輝ける碧(あお)き空の下で」では、人生の価値というものがいったい何ではかられるのか、なんだかとてつもない、「途方に暮れた感じ」を味わった。

わたしがすぐに就職できなかったのは、もしかしたらこの作品を読んだことも、影響しているのかも・・・。

人間の暮らす、生きる、事実が、幾層にも塗りこめられて、果てしのない・・・

いったい、オレは、どうやって生きていくのか・・・

生きる道筋が、まったくもって霧の中、世界がぐるぐる混沌と見えている20歳の私には、刺激のつよい、でも、読まずにはいられなかった、読んでよかった、と心底思える作品であった。

それがまた、くだらない(本当は最高に楽しい)マンボウものを書く作家の作品だから、これがまた、深い、と感じるのです。

北杜夫さん、わたしの人生に深い、深い、影響を与えた方でした。

NHKのニュース9で、キャスターの大越健介(おおこしけんすけ)さんが、しみじみと、「わたしも何冊も読みふけった」と体験を語っていたので、思わずテレビに向かって、

「おお!あなたも!!」

とうわずった声で言ってしまいました。
みんな、悲しんでいます。
でも、悲しみながらも、北さんを知ることのできた幸福を、心のどこかで感じ取っています。

窓の外、思わず、天の星を見てしまいます。


これからどこかで蝶が飛んでいるのを見たら、しばらくの間は、北さんを思い出すことになりそうです。
世田谷文学館で、北さんの個展があったとき、(もう10年ばかり前)熱烈なファンレターを置いてきたが、読んでいただけたのだろうか・・・。

ご冥福をお祈りいたします。




国語物語教材 さし絵に吹き出しで・・・


国語の物語教材。

おそらく、さし絵がついている。

挿絵をコピー拡大し、黒板に貼りつける。
(電子黒板やスマートボードがあれば、画面で見せる)

この挿絵に、ふきだしをつけて、ふさわしい言葉(せりふ)を言わせる。

これは、とても取り組みしやすい。
なにか、言いたくなるような挿絵が多いからだ。
絵をかく人も、なにかを語っているような絵を描く。
子どもも、感情移入しやすい。

ただ、そのままにしておかない。

かならず、どうしてそういうセリフが出てきたのか、決め手となる文章、叙述をさがし、そこから導いていく。

となりの先生のやり方。
参考にしている。


1)もぞう紙を用意。
2)上下にわける線を引いておく。
3)上段に、叙述。
4)下段に、そこから見えてくる、登場人物の気持ち。
5)上段の叙述と、下段の叙述を、やじるしでむすぶ。

子どもたちに、ノートに書かせ、その後に発表させていた。

主だった意見をまとめて、教師はもぞう紙に記入し、クラスの総意として、授業の成果として、記録しておく。(教室の横の壁に貼りつける)

主人公の気持ちの変化が明確になったところが、クライマックス。

いちばんのもりあがり、決め手となる部分を、みんなで発見した。

その後、音読。

クライマックスが見えてからの音読は、ちがってくる。

単元の最初の授業で音読した時と、7時間の授業が終わった後、つまりクライマックスをみんなで読み解いた後の音読が、劇的に変化している。

それを、みんなで楽しんでいた。




明治図書のEduブログサービス終了で感謝のきもち


長らく、記事を書いてきた明治図書のEduブログが、10月末でサービス提供終了することになりました。


本当に長い間、このブログに育ててきてもらいましたので、
最後に感謝の気持ちを書いています。
(今年の10月末でもって読めなくなります)



いやあ、ふりかえってみると、624も、記事を書いたんだなあ。
毎日深夜になると、翌日のために頭の中身を整理しようと思って書いてきたのが、こんなにたまったのだなあ、と不思議な気持ちになりました。

(全部、こちらのハテナさんのブログへデータ引越ししましたので、過去の投稿記事はこちらで読むことができます。)




発達障害の子に「音楽会の大音量」は酷だろうか


こたえは、YES。

と思う。

だが、実際には、音楽会に自閉傾向のある児童も参加する。

なぜか。

担任が、参加させる努力をするからだ。

その、「参加のさせ方」に、2通りある。

一つ目は、
きわめて受容的にはげましながら、それでいて、学校のスケジュール、という線があること、勝手に行動をきめてはいけない時間がある、ということを少しずつインプットしていく場合。

二つ目は、
「○○くん!今、この部屋にいないと、××しますよ!」
と脅しをかける場合。


この、二つ目の対応をしている先生を見ていると、おそらく、その先生の頭の中には、

「音楽会に参加させることがわたしの仕事であり、役目である」

という強い信念と使命感があるのだろうと推測する。

それは立派なことだ。
熱心な先生は、そうであることが多い。
こういうことを強く思っている先生でないと、たよりない、と思われてしまう。

もうひとつ、その先生の頭の中にあることがある、と思う。

「この子を参加させなければ、担任としての技量を疑われてしまうのではないか」

と思っている。
だから、脅しをかけてまでも、大きな音のきらいな彼を音楽室に拘束しようとする。

拘束?
そんなの当たり前のことでしょう。
音楽会に出るようにさせるのが、教師の一番の仕事でしょう。

そう思う人も多い。
でも、発達障害を抱えた彼には、もしかしたら、通常の人の何倍も苦痛が与えられているかもしれない。
それこそ、音楽室にいることが、体罰に匹敵するほどの苦痛を与えているかもしれない、と思うと・・・。


ある先生に、うっかりと、

「○○くんは、もう音楽会に出ないで、その日は教室で静かに別のことをしていたらどうでしょう」

と言ってしまった。


どうなったと思いますか。
そのベテランの先生に、叱られました。
とんでもない、と。
大きな音量が苦手なことくらい、知っている、と。
でも、彼がだんだんと慣れてくれなければ困るから、やっている。
このままでは、音楽会を体験しないまま中学生にもなってしまう。
それでは彼の人生にとって、あまりにもかわいそうではないか。
それに、彼には、はっきりと、強くやるべきことを指示していくことで、行動規定を示し、やることを強くイメージさせることが必要なのだ。やることをイメージさせられたら、彼だって、参加できるのだ。

ということでした。

そうか、なるほどなあ、という思いとともに・・・

彼が、自分で、

「ぼくはこのくらいの音量では、苦痛になるので、かんべんしてください」

ということが言えるのが一番いいなあ、と思いました。
でも、それをうまく説明できないから・・・・

「音量苦痛モノサシ」を活用して、

「先生、今、レベル2です。あと10分はがまんできますが、その後はレベル3になりそうです。とても疲れてしまいそうです。またレベル3になったらお知らせしますね」

な~んて、言えるように、用意してあげたらいいのかな、なんて一人で考えていました。


しかし、そのネーミングでまた叱られそうですが。
「音量、苦痛? モノサシ?」
なんですか、その苦痛ってのは!
ぼくは大きな音がきらいだ、というのを、より強く本人が認識してしまうじゃないですか!


その苦痛、というのが、こちらには分からない、というのが一つのポイント。
この子は、大きな音が苦手なんじゃないか、と思っているが、勝手に教師の方が思っているだけ。
(でも、大きな音がすると、耳を押さえているから、苦手なんじゃないかと思うのです)




セシウムの飛散状況


セシウムの飛散状況がコンピュータシュミレーションされています。

★ 3月の広域SPEEDIデータ

⇒ http://nsed.jaea.go.jp/fukushima/data/20110906.pdf


これをみると、わが愛知県、アブナイ!!!!
ギリギリ!!


なんと、3月のあの日、セシウムがたくさん降っておったのですなあ・・・。
(今頃でなく、もっと早く報道してくださいよ!)


そういえば、夏休みに、市の教育委員会が、校庭の土を線量計で測定して帰ったが、あの後に報告がない・・・。
いったい、わが勤務校の校庭の被曝(ひばく)線量は、何ミリシーベルト?




「子どもを喜ばしたい」が薄くなってきました


子どもを喜ばせたい、ということを、たくさん考えているんですね、と言われた。

近所のお母さんたちから。
私が教師である、ということを知っていて、ふとした立ち話で話すことがある。

イベントのイモ掘りに来ていたママさんたち。
妻と息子が、ともだちといっしょに芋を掘るんだ、と言っていた。
息子の友達もやってきている。
その、ママさん。

わたしが妻に命じられるまま、鍬でもって言われた場所を掘り起こしているときに、なんとはなしに会話がはじまった。

学校の様子を話してこられたので、自分の思うことを言い、最近うちのクラスで太鼓を練習している、と話すと、上記のように言われた。

「子どもをよろこばせることを、たくさんご存知なんですね」

ところが、これに違和感があった。
なぜか、と考えてみている。


私の中に、「子どもをよろこばせたい」というのは、本当はとても薄いのではないか、と思えてならない。
いや、そんなことはない。教師になった以上、または教師としてやっている以上、子どもの笑顔を励みに勤めているはずだ、と言われた。

いや、子どもの笑顔は素敵だと思うが、「よろこばせたい」という気持ちはかなり、薄い。もしくは、ゼロに近い。

よろこぶ顔が見たい、というのではないと思う。

だって、要求していることは、けっこう苦しいですよ。
かけ算だって、なかなか覚えられない子がいる。
毎日、唱えなさい、とか、覚えてきなさい、とか、平気で言う。
「これ、宿題です。明日まで必ずです」なんて、いつも言っている。
出さないと、給食のお代わりができません、なんてひどいことも平気で言える。

教師は、きらわれて当然だと思います。
いやな勉強をさせているし、圧力、威圧、している部分もある(ないことを祈るが)と思う。

よろこばそうとして、やっていない。
よろこぶかどうか、関心がない。
やる気でやるかどうか、子どもをあてにしていない。

子どもは、やらなくて当然、と思っている。
子どもがよろこばなくて当然。
ぶつぶつ言って当然。
いやだ!とさけんで、当然です。

・・・と思っている。

なんでだろう。
おそらく、最初の年、2年目くらいまでは、

「よろこばしたい」

というのに、素直に、「そうです」と言っていた気もする。

でも、6年すぎて7年目。
「よろこばそう」というのは、無いナァ・・・。




逆だ。
サカサマだ。

教師が、どれだけ、喜べるかな、うれしい、と言えるか、というところ。子どものやさしさに触れて、感動できるか、に関心が向かう。

「先生が、今、どれだけうれしいか、わかりますか?○○くんが、こんなことをしていました。そして、こう言ったのです・・。○○くんは、△△さんが、朝からこう言っていたのを知っていて、わざわざしてくれたのですね。・・・」




ケンカの階段のぼる・・・


朝、ひさしぶりにケンカがありました。
なかなかケンカのないクラスだったので、いいチャンスです。

さて、たわいのない低学年のケンカです。
でも、きっちりとさばいておかないと、指導の骨格ができません。
骨格がないと、似たようなことが次々と発生しやすい。
不安定になっていきます。

子どもの頭の中で、

「こういう場合は、どう考えるか。どうふるまうべきか」

をインプットするチャンスなのです。
そして、うまく行動していけたときに(つまり友達と話しあったり仲良くできる)、思い切りその行為をほめられます。

次、ほめなければなりません。
そのための布石を打ちます。
うまく指導ができないと、ほめることもできません。

「あ、○○先生は、こういうときに、ほめてくれるんだ」

とインプットするチャンスなのです。



さて、ケンカはたわいのない軽口(悪口)からはじまります。
悪口になるかならないか。
本人は、悪口、とは思っていません。
言われた方も、軽く流せる範疇のことだったように思います。

でも、言われた子が、カチンときて、その子の帽子をとりました。

帽子をとられた子が、カチンときて、相手の連絡帳をとりました。

連絡帳をとられたので、とりかえそうとして、追いかけました。

逃げました。

その時に、あわてて、ころびました。
ころんだ拍子に、手から連絡帳が落ちました。

それを、「おれの連絡帳を投げた!」と感じて、激怒します。
連絡帳をとられたのに激怒して、相手の連絡帳をとります。

双方が泣きました。


さて、これを、けんかの階段、と言います。(といって、朝指導した)

最初の階段をのぼってしまったら、そこで深呼吸して話し合う。
でなければ、どんどん階段をのぼってしまう。

けんかの階段をどんどんのぼっていったら、たいへんなことになる。
かしこい子は、こんな階段をのぼらない。
階段をのぼる前に、せいいっぱい話し合う。
自分の気持ちを伝える。
どうしたらいいか、双方がよくなるように、あきらめないで話し合う。
解決できなければ、先生にも相談していく。

今日の子たちは、かしこい子たちだったので、比較的短時間に、納得していました。

それをクラス中の話題にして、クラス全体で話し合い、クラス全員で、

「けんかの階段をのぼらないクラス」

をめざすことにした。

学級全体のテーマにしていくことで、がんばれる子が増える。




映画「小三冶」を見る


休みの日なので、なんだか頭の中がいつもとちがう。

急に、過去のことをふと思い出したりする。

なつかしくなって、これまでずっと棚の中にねむりつづけていた、秘蔵のDVD、「映画<小三冶>」を見た。

なんだか、胸に迫るものがあって、何度も繰り返し見た。

お客のために、ついがんばってしまう。

師匠は、そんなことを言っていた。

目の前に、客がいる。
プレイヤーとして、最高のモノを見せたい、と思う。

わかります。その気持ち・・・。




師匠と同じにしては気が咎めますが、教師も似たことを思います。
この授業を、最高のモノにしたい、と思ってやっています。



小三冶さんの、まくら。
まくらの最初は、独特の間からはじまる。
また、ぽつっ、ポツッ、と、身近な話を繰り出してくる。

こんなあたりは、授業の導入ととてもよく似ていると思う。

入船亭扇橋さんが、小三冶さんに噺のアドバイスをするシーンも印象に残った。

「鰍沢」がやりたい、という小三冶さんに、

「あれは、トントントン(扉をたたく音)、はーい、というだろ。あの「はーい」が低いんだよね。<はーい!>なぁーんて、高い声じゃぜんぜんだめだ。(少し下目線で、低く)「はーい」・・・こうでなけりゃ。あそこが肝だ」

と、すぐさま噺の一番大事な聞かせどころを教えていた。
あれは、頭の中に、そういったものがなければ、言えない。
鰍沢をとことんやりぬいた扇橋さんならではの、アドバイスだった。




自分で勝手に決めてしまう子 その2


前号での記事に、反応してくださる職場の方がいたので、つづきを。

大事なことは大人が決める。

これが、インプットされていない発達障害の子について。

(というか、クラスのさまざまな子。やんちゃくんもふくめて)

たとえば、教卓の上のものは、先生のもの。
これを勝手にさわるのは、いけないこと。
これは、4月の段階で伝えておいてある。
このくらいは当然すぎるほどで、ほぼ全国の小学生のほとんどの先生が、4月にはこれを言っていると推測する。

さて、私も例にもれず、これを伝えている。

ところが、運動会の終わる魔の10月ごろから、だんだんと、この禁をやぶる子が出てくる。

これが、チャンスである。
どんな授業が予定されていたって、その事象が起きたとたんに、バシッとやっておくことがある。

これは、年間を通じて仕掛けていることだから、1年間のどこで起きるかわからない。もしかしたら、5月かもしれないし、2月かもしれない。どこでも、網をはっておいて、子どもがいったん、そう行動したら、とたんに教師は弾かれたように、こう行動する。


1)ひとのものは勝手に使わない

これをインプットする。
泥棒と同じだ、ということ。

その代わり、○○を借りたいです、○○を見せてほしいです、○○を貸してください、というような、モデルとなる言い方を学習させる。

2)許可を得てはじめてもらえる

「借ります」と言ったのだから、とばかりに返事を聞かずに取ろうとしたら、子どもの手を止めて、もどさせる。

「これは、返事を聞いてからだよ。今日は、いきなりだったから、先生は貸したくなくなりました。先生の都合や先生の気持ちを聞かない人には貸せません。明日、やりなおしするのはかまいません」

これは、明日でなくてもいい。給食の後の休み時間になったら、もう一回やりなおしです、でもいい。

そして、ここが大切。
明日、もう一度、思い出したように子どもがくる。
そして、

「先生、貸してください」

今度は、お返事を聞く、という顔をしている。
そして、当然、いいことをしたから、先生の言うことを守ったから、貸してもらえる、とうずうずしている。

そこで、つきはなすのだ。(いじわるだな)

「先生が気に入っているものだから、(もしくは)先生が大事にしているので、他の人にはさわってほしくありません。使わせてあげるかどうか、見せてあげるかどうか、それはあなたが決めるのではなく、先生のモノなんだから、先生が決めます。だから、今日はあげられません」

子どもは、必ず、先生を非難します。

「えーーーーー!!!ひきょう!!!昨日、貸してくれるって言ったじゃん!!」

そんなことは言っていないのに、その子の頭の中では、「貸してくれると言った」というふうに、変化してしまっている。

ここで、売られたケンカを買いません。
すましています。この状況を楽しみます。

こっちは、いろいろしゃべりません。
一点張り。

「あなたが決めるのではなく、先生のものだから、先生が決めます。許可が要るんですよ。(笑顔)どうしようかな♪」

子どもがくいさがり、「ひきょう!ひきょう!先生、うそついた!」
とさわいでも、涼しい顔をしています。

「許可しようかな(笑顔)、どっしよっかな♪」

これがチャンス。許可、という言葉をインプットする。
許可、という言葉が、その子の脳裏にしみわたるまで、くりかえします。

黒板に許可、という字を書いて、

「許可するかしないか・・・、ああ、それが問題だ!」

と芝居じみたセリフをいって、悩ましげに窓の外を眺め、

「ひきょう!ひきょう!」

というコールに、まともに取り合いません。

そのうちに、授業がはじまったら、引き下がります。
(もしここでも引き下がらないようであったら、クラス中を巻き込む手もありますが、そこまでいったことはこれまでありません)


もっとまともな対応の方法もあるのでしょうね・・・
書いていて、こんな対応しかとれない自分のレベルの低さを思いますが、ともあれ、どうしたらこうやって、勝手に決定してもよいと勘違いしている子を、指導すればいいのでしょう・・・。




自分で何でも決めたがる子


委員会の担当のこと。
ふだんは低学年担任である。それが、毎週金曜日の1時間だけ、5,6年生を指導する。
委員会の時間になると、私の教室に、委員会の5,6年生が30人ほど、わんさかやってくる。

私は現在、図工主任。なぜか「新聞委員会」の顧問だ。

その委員会に、昨年教えた6年生がまじっていて、いろいろと話しかけてくる。多くは女子だ。

さて、いろいろと話しかけてくる女子の中に、「自分で何でも決めたがる子」がいる。
彼女は、ひとつひとつ、わたしの指示に文句をつける。

「そんなのおそいじゃん」
「めんどくさい、やめようよ」
「意味ない」

というような、とても否定的なニュアンスのことが多い。
まあ、教室には本当によくいる、よくある、高学年女子の典型的な子です。


ところが。この子が特殊なんです。
浮いているのです。
群れていない。・・・おかしいでしょう。女子で、群れていないなんて。

この子が浮いているのは、他にあまりなびく女子がいないからで、こういう子なら大抵は、グループを組み、その中の実力者にのしあがっているケースが多いと思う。
しかし、彼女の場合は、ずっと一匹オオカミを貫いている。

したがって、

「わけわからんし」
「意味わからん!」
「いちいち言わんといて」

などという言葉を吐いても、それを受けて、いっしょになって響いてくれる友達がいない。

そのため、結局、ぶつくさ文句を言いながらも、委員会の中でもけっこう動いてくれている。活動するし、5年生の面倒もよくみる(とにかく動かない5年生に注意してくれる)ので、なんだかとても不思議な子に見える。

(あれ。今、自分でやりたくねえとか言ってたよな。でも、5年生の前ではがんばってるよー。なんでだ???)

と思ってしまう。



○自分の掃除の場所を、勝手に変えてしまう。だれにも言わずに。(注意すると、うらめしそうに見る)
○給食当番をすっぽかす。(注意すると、うらめしそうに見る)
○保健室に勝手に入ってしまう。(養護教諭の留守で、入らないようにと扉に掲示があるのに関わらず)
○保健室に勝手に入って、授業時間になってももどらない。
○教室で、算数の時間なのに、勝手に漢字の練習帳に漢字を書き始める。(いやあ、おどろきました・・・まったくの指示無視です・・・)


これらを注意すると、うらめしそうな目つきで、わたしをにらみます。

下校時間になって帰宅を促した時、なかなか教室から出て行かないので注意すると、

「わたしのことなんてきらいなんだから、ほっとけば」

という。
これにも驚きましたな。

つまり、自分が勝手なことをしている、or 社会性を無視して集団生活とは相いれないことをしている、とは思ってないのと、それを私が注意するのは、私が彼女を嫌っているから、と誤解しているのだ。

いやあ、背筋に氷柱が立ったような、ちょっと緊張が走りました。



(この子、自分が勝手だ、ということ、自覚してない、というか、わかってないのかも・・・!)


そういえば、彼女は背が一番低く、背の順で並ぶと一番前になります。他の子をしきりたがるので、一番前なのを理由に、みんなに

「早く並んで!!」

とかなり強い口調で言うのが常でした。
さて、その彼女は、私が先に歩く場面があったとすると、私の歩行のスピードについてきたでしょうか。

ついてきません。
一年間に、そういうことは何度もあったはずなのに、いっしょに歩いた記憶がない。つまり、彼女は、自分のペースで、歩いた、のです。
私がいつもいつも、ちょっと歩いては止まって後ろをふりかえり、声をかけたり、する必要が常にありました。

男子の先頭の子は、私の歩くスピードに、ついてきていましたね。だからいつも、

「女子、いそげよ~」

と男子に言われていましたっけ。
(前を歩くことの方が少なく、私はほとんど、全員の後ろから歩くことが多いのですが、それでも年に何度かそういうことがあるたびに、思ったので強烈な印象として残っている)

彼女は、私のスピードに合わせる、ということができないのです。
私がスッスッと速く歩けたとしても、私に合わせよう、という気持ちはないから、いつも遅れるのです。それに、遅れてしまった、どうしよう、という考えすらない。

こんなふうに、学校での自分の行動について、決定権は自分が持っている、と思っています。


発達障害が疑われる子。
LDとラインはギリギリ、です。
いわゆる境界の子。

いや、しかし・・・。
自分の意見を決めるのは、この子の成長のあかしでもある。
だから、この子の、「決定権は私にある」という意識そのものがおかしいわけではない。

しかし、ここは学校だ。集団の場だ。
決定権が常に、いつもいつも、すべてあなたにあるわけじゃない。
先生が決める、ということだって、非常に多くある。
学校では、子どもたちのために大人が決めることが、存外たくさんある。
先生たちは、そのために、いろいろなことを決めている。
子どもが決めることになっていない、ということもたくさんある。

たとえば、先生がいつ何を言うか、指示を出すか。
これは、先生が決めます。

(なんだか当たり前すぎて、おかしな話になっていますが、これは、授業中、

「先生、今しゃべらんどいて」

という発言をする場合があるからでして・・・)


こういうことを、手間がかかるかもしれないが、細かく、細かく、一つひとつ、教えていくしかないのでは・・・。

決め台詞は、「あなたが勝手には決められないよ。先生がそれを決めるお仕事です。自分で勝手に決めたければ早く教員免許をとってね。(笑顔)」




「かかし」の遊びがビジョントレーニングになる?!


昔から、「かかし」とよばれる遊びがあったことをご存じだろうか。

いわゆる、ケンケン、パー、の遊びである。
土の地面に、棒きれかなにかで線を書く。
石を一つひろえば、もう遊びをはじめることができる。

利点はたくさんある。
せまい場所でもあそべる。
一人でもあそべる。
大勢でもあそべる。
チームに分かれて遊ぶこともできるし、個人多数の入り乱れた闘いも可能。
ルールを自在に変えることもできる。
道具の選び方が、勝率に関わるので、こだわる勝ち方ができる。
身体が小さくても、背が低くても、逆に高くても、大柄でも、なんでも勝てる。
いちばんの利点は、時間がかかる、ということだろう。
逆に言えば、ひまがつぶせる。

この「かかし」が、ビジョントレーニングになる、と聞いた。
お話してくださったのは、情緒障害学級の担任をされている先生。

「石を投げるでしょう。それを、眼で追わなければいけない。それがいいトレーニングになる。自分の投げた石もそうだけど、友達の投げた石も、どこに落ちたのか、正確に落ちたのか、ずっと目で追っている。これはいいトレーニング」

だそうだ。
また、

「片足でバランスをとる場面が多いでしょう。また、片足のまま、止まったり、けんけんしたり、急に両足にしたり、いろいろな身体の使い方をする。これが苦手な子が多いからね。見ているだけで、その子の特長がわかる。」

なるほど。
それで、本校の情緒障害学級の教室には、教室の後ろに、かかしが描いてあるのか。
教室の後ろの方に、ビニールテープで表示してある。床の上だ。
みると、「かかし」。

子どもが、牛乳のキャップを、かかしの升目に投げ入れている。
すごいねえ。
昔の子どもたちは、「かかし」でビジョントレーニングしていたってわけか。


自分の身体の認識力を高めるのに、かかしの遊びの中で、自分の石を片足でバランスをとりながら拾う場面なんて、とてもいい。
また、視線を運ぶトレーニングも、かかしはすごい。だって、線をふまないように、という単純な制約が、視線を強力に鍛えることになるんだもの。

まさに、「空間世界の中で知的に効率よく立ちまわれるようになる」のが、「かかし」遊びだ。
これは大発見だと思うのだが、どうであろうか。

おそらく、このことに関して、研究論文もほとんどないだろうが、これからどなたか、書くに違いない。研究者の方が、「かかし」と発達障害に関する論文、を書くことがあるのではないかと思う。

「発達障害」「昔遊び(かかしを中心にして)」「ビジョントレーニング」の3題噺を、論文で書いてほしいものだ。

そのうちに、このことの効果がクチコミで広まって、保育園や1年生、2年生の低学年は、「生活科」の中で、「かかし」を学んで覚えるようになるのではないだろうか。




NHKで『ブッダ 真理のことば』 (100分 de 名著)に疑問


NHKで『ブッダ 真理のことば』 (100分 de 名著)を放映していたのを見た。

二―チェの回に感心したのは、ニーチェがルサンチマンを最初に説いていたことだ。
「ねたみ」は誰しも思い当たることである。さらに「なぜ腹が立つのか、なぜうらむのか、なぜねたむのか」と調べていきやすい。自分で自分を見やすいポイントになると思うから、なるほど、と思った。わたしもそこから考え始めたから。
なるほど、やはりニーチェもここからか、と思った。

それで今日、ブッダの回をみたら、ブッダもやはり「うらみ」を最初にキーワードに出していたので、感動し、

「なるほど!ブッダもかあ~」

となんだか面白くなって見ていた。


ところが、花園大学の中村教授が言うには、

「ブッダいわく、人間はすべて煩悩があって生きている。そこから強い意志をもち、自分はひとをうらまずに生きよう、と固く決意することこそが大事」

というようなことらしい。

ニーチェと同じじゃん。
まさか、ブッダもか。
うそ!
と思った。

中村教授も、煩悩を否定しておられるように見えた。
(中村先生、ちがったらすみません)
ニーチェも、煩悩(らくだ?)から強い意志をもって獅子になれ、というような感じだから、煩悩否定派だろう。
ブッダまで、煩悩否定?・・・まさかネェ・・・。

中村先生にお尋ねしたいのは、ブッダは煩悩を否定はしていないでしょう、ということ。
煩悩の正体を見ると、愛の塊、愛の発露であり、それに気付くだけでいいのでしょう。そのとたん、強い意志など不要となり、うらみもなく、生きていけるようになる。

ブッダはそんなニュアンスだと思うのですが、いかがでしょうか。

強い意志でもって・・・なんて、馬力の要るような話を、本当にブッダがしたのかなあ。
していないでしょう。いかがでしょうか。

あるいは、世の人には通じにくいから、やはり世の中の大多数の人が納得しそうな話の運び方が必要だろうと考え、親切心でもって、

「強い意志で煩悩から離れ、うらみを捨てて生きていくしかないのです」

と説いたのでしょう。
でないと、周囲の人間には何も通じない、と半分あきらめての行為ではないでしょうか。

その後も番組と中村先生の解説を見ていたが、やはりこの、<改革!>というか、<心の革命!>というか、<強い気持ち!>というような雰囲気の世界が延々と続いていたので・・・

わたしはまったくちがうと思う。
まったく解脱への努力なんて、不要だと考える。
解脱!とか、強い意志!というから、余計に分からなくなり、真理が遠くなっているのではないでしょうか。

(こういうことを書くと、「努力」している方からおしかりを受ける。なんで努力がいけないのだ!と。いえ、ちがいます。努力する、という尊い行為を非難しているのではないのです。煩悩を捨てる、ということがちがう、と思っているのです。また、その際に、強い意志が要る、と言うからそれはちがうと。・・・うまく書けないから、また叱られそうだ・・・)




運動会の前の語り


前記事において、運動会の前にインプットしておく語りがある、とした。
その語りについて、職場の同僚から尋ねられたので、書いておきます。


いよいよ、運動会がはじまります。
多くの人が来られます。
小学校全体の、大きなお祭りです。
みんなの成長した姿を、地域の方、ご家族の方、いろいろな方が見に来られる。

そのときに、一番大事なことがある。
それは、かけっこで一番になるだとか、綱引きで勝つとか、そういうことではない。
それは、大事な順番でいったら、3番目か4番目のことだ。

もっと大事なことがある。
ひとつめ。

負けたり、失敗したりしたときに、○○くんのせいだ!とか、○○さんがこうしたから負けたんだ!とか、こういうことを言う人がいる。

先生が、こういう言葉を聞いたときに、どんな気持ちになるか、分かりますか。

こういうことを言うチームは、ぜったいに強くならない。
負けるチームが、こういうことばっかり、言う。
なかの悪くなる、気分のがっかりするような、心が暗くなるようなことを言う人がいると、チームぜんぶが、きっとそうなる。そのチームのまわりの空気が、必ず、そうなっていく。くらーく、なっていく。
そうなると、チームの一人ひとり、本当の元気、本当の力がでてくるようになると思いますか。
ぜったいに出ない。だから負ける。とうぜんです。わかりきっている。これまでもずっと、そんなチームをよく見てきました。

○○くんがこうしたから、負けた!
遅くなったのは、○○くんのせいだ!

ぜったいに、負けます。
運動会、ちっとも楽しくない。
くらーくなる。
残念な気持ちだけがのこる。
言う人も、言われた人も、みんな暗くなる。
チームの全員が、楽しくない顔になる。
その顔のままで、運動会が終わる。
家に帰る時も、くらーい。
家に帰ってからも、くらーい。
家に帰って、おうちの人と運動会の話をするときも、くらーい。

へんなことを言う人が一人でもいれば、それを言う人も、聞いている人も、みんなこうなる。ざんねんな運動会になってしまいます。
一番くらくなる人はだれか、分かる?

(言った人)

そう。言った人が、一番大きなボリュームで聞くんだ。そうだよね。自分の言った、いやーな、暗ーい言葉は、自分の耳が一番よく聞こえる。自分の口から出てきた声が、一番近い、自分の耳に入る。(ここは身ぶり手ぶりで、耳や口を指で指しながら)・・・だから、言った人が一番、くらーい気持ちになる。


だから、○○くんのせいだ!とか、言わないのが本当です。

つぎ。

逆に、勝ったとき。

勝ったときに、「やったー」くらいならいい。
それだけでなく、「やーい、勝ったぞー。お前たちは弱いなあ。オレは一番だったぞー」
とか、勝負した相手に向かって、そういうよけいなことを言う人がいる。

自慢、という言葉を知っている?

(知ってる)

自慢をするのです。相手が闘ってくれて、それで勝ち負けを決めることができた。相手がいっしょに戦ってくれて、勝負をしてくれた。そのことを、ぜんぜん、わかっていません。その相手に向かって、勝手な、余計なことを言う。こういうのを、お子ちゃま、というのです。保育園にもどってほしいです。保育園でも、自慢なんてへんだ、とわかっている子がいっぱいいるよ。保育園でもそんな人来たら迷惑だと言われるかもしれんけど。

よろこぶのはいいです。
でも、それは、いい勝負ができた、自分たちの力がたくさん出せた、ということを喜ぶのです。それは、相手もいい力を出していたから、こっちも力を出せたのです。まだよちよち歩きの赤ん坊とすもうをとって勝って、うれしいですか?
勝つのが当たり前。そんなのじゃない。相手も同じ年代で、同じくらいの力で、それで戦って、いい勝負ができたことをよろこぶんです。
戦ってくれた、その相手を、「やーい弱い弱い」って。
そんなの、この小学校の運動会ではやらないでください。どうしてもやりたければ、どこかほかでやってください。そういう言葉を聞きたい人が集まったところを探して、そこで言ってください。この学校の運動会で、そういうことを言う人は、迷惑です。

だから、勝って喜んでもいいけど、よく力を出してくれて、いい競技ができた、今回はこっちが勝ったけど、次はどうなるかわからない。またいい勝負ができるように、またお互いにがんばろう、というのが本当です。そういう態度でいてください。そういう、堂々としたふるまいをするのが、勝った方の役割なんです。


大事なことを言いました。
このことをまもって、運動会を本当にいいものにしてください。自分の心が、「やってよかったなあ。思い切りやって、力を出して、気持ちいいなあ」そう思えるように、自分でしていくのです。

大丈夫。みんななら、できます。
ここまで練習してきたことを思い出せば、だいじょうぶ。
終わった後、みんなが笑顔で、「やった!」って顔になっているのが今からとても楽しみです。



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運動会の前に意識すること


いよいよ、運動会です。


学級担任として、意識していること。

1)運動会がはじまる前、クラスでどうしても話しておくことがある

運動会の前だからこそ、注入できるフレーズがある。
このせっかくのチャンスを逃すまじ。

2)運動会の前後の、国語や算数の進度に気をつける。

国語や算数がおざなりになっていないか。
進度がぎりぎりになってしまっていないか。
やるべきことを進めておかないと、<2学期の行事の嵐>の前に、難破してしまう。

3)運動会のあとの、<宴のあと>症候群に気をつける。

運動会の後、なんだか気が抜けたようになってしまう子たちがいる。気をつけておく。具体的には、運動会の後、子どもたちが夢中になれることを用意しておいて、間髪をいれずに実施し、ほめまくる!!(運動会で叱られ続けているので、その分の借金を取り戻す!)

4)個別の活躍ぶりを記録しておき、2学期途中の保護者懇談で言えるように。

運動会の最中、係の仕事で担任にも余裕はないけれども、ふとしたときに子どもの様子をしっかり見ておき、記憶および記録しておく。保護者にエピソードを語るのには、とっておきの話題になる。

5)教室を整然と。

教室がすごしやすければ、荒れない。
ちょっとでも掃除に協力的な子を、丹念にほめる。
「教室がきれいに片付いていると、気持ちいいね or 道具がさっとわかるね or 練習の時間に間に合うね or 勉強がやりやすいね」

6)ほめる。

1学期から大事にしてきた、<なかまとのつながり>を大事にする行為を念入りにほめる、丹念にほめる、じっくりほめる。




ADHDの子に、絵本の読み聞かせ ペンちゃんギンちゃん


ご存知、現在の絵本売り上げの上位を突っ走る、超有名絵本作家の「宮西達也」先生の本。

<ペンちゃんギンちゃんおおきいのをつりたいね>

これがおもしろくて・・・


ただの読み聞かせではもったいない、という思いから、これをスキャンで読み取り、パワーポイントで見せられるようにしました。

(資料がほしい方は、メールをください)


さて、つくったからには、さっそくやってみたい・・・
連休の貴重な時間を費やして、つくったんだもの・・・


わくわくしながら学校へ行き、最初の時間に公開!

絵本を見ます。
あとでどんなお話だったか、聞きます。
ぜんぶ答えられたら、お話がしっかりと聞ける人です。
かしこい人は、ひとのお話をしっかり聞けるのです。
かってに、関係のないお話をしてもいい、と自分でかってに決めている人は、まちがっています。ここは教室ですから、みんなのお勉強のじゃまになるようなことをする人は、いられません。ほかのお部屋で、別のお勉強をしてもらいます。

(こういうような説明は、通常のクラスでは不要ですが、このときはたまたま、3年生のあるクラスもいっしょに私が面倒をみることになってしまったので、クギをさしておいた。3年生の有名なやんちゃくんとADHD傾向のある子も、少し、これで自己規制できるかもしれない)

勝手なおしゃべりをしてもいい、と自分で決めてしまっている人はいますか。手をあげてください。(やんちゃくんとADHDの子をやさしく見る。不安そうにしているが、手を挙げない。よかった・・・)
学校のルール、教室のルールで、みんなでなかよく勉強できる人だけで、やります。できる人、手をあげて。

全員のようですね。
では、たのしく、はじめましょう。


ここからは、きれいな画像をみながら、話をすすめていく。
リズムの良い文なので、子どもたちも非常にやりやすそう。
たのしい時間になった。


最初の、ペンちゃんがつった魚の絵、おなかのでかい絵を、わざと図形で隠しておいた。

「なに いってるのさ、ギンちゃん。あの サカナは、・・・」

ここで、3秒ほど、間をとる。
落語家の柳家小三冶の間が参考になる。

「おなかがおおきかったんだよ!」

と声をわずかに張りながら、話し手の目も見開いて、おおげさに語る。
同時に、シェイプの図形を外し、でかいコミカルな魚の絵を見せる。

大ウケ!!


笑いがしずまらないうちに、

「そのときです。こんどはギンちゃんのつりざおがピクピク・・・」

口を開いて笑ったままの顔で、子どもたちが一気に集中してくる。
目は、画面にくぎづけ。

「あっ!タコだ!」

「タコタコ!!」
子どもたちも、反応する。

これが、タコやイカやうなぎで、<変化のあるくりかえし>として登場。黄金のルールですなあ。これを発見された先生を尊敬いたします。

最後の方、けんか別れしそうになる、ペンちゃんとギンちゃんの部分は、すこし、ためをつくりながら、ゆっくりめに読む。少し、淡々と読む。
子どもたちが、なにか考えそうになっている。
(ああ、こんなこと、ありそうだなあ。よくあるなあ。)という顔をしている。

この絵本のいちばんのセリフ、肝の部分は、みなさんはどこだとお考えになるだろうか。
観点や、重点の置き方によって、教師の読むポイントが異なってくるだろうが、わたしなら、ここをいちばんのキーだと思って読む。

「うん。」

最後のくじらのページの、ギンちゃんのセリフ。この、「うん」。
これが、もっとも重要なセリフである。

次点が、
「そ、そうだね。」

ペンちゃんのセリフである。

このお互いの同意が、いちばんのポイントだと考える。


そして、

「うん、とか、そうだね、と言ってもらえると、うれしいよね。それか、そうかもしれないね、でもいいね。」

「ちがうよ!!と最初からいうんじゃなくて、そうかもしれないね、と言ってもらえたら、けんかにはならなかったかもね」

なーんて・・・

なにかのときに、この場面をひっぱりだして、道徳でも使えそうだ。


さて、ADHDの子と超やんちゃの子。3年生の2人は、たしかにくじらのシーンで他の子は立たないのに勝手に立ちあがって、大騒ぎをしていたが、わたしがそれを完全に無視し、他の子を相手にクイズをすばやく出しながら、いい姿勢の人に当てます、と言った瞬間に座っていたので、・・・ほっとしました。




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