腰痛が快方に向かったのは、まったくの簡単な運動による。
つまり、うつぶせになり、深く息を吐き、全身(おもに腰部分)を、しずむように地面につける。
この簡単なコトを、毎晩くりかえし、地道に続けていたら、まあ1週間でかなり楽になり、
「あれ?自分って、腰痛だったの?」
と思うくらいになった。
あまりにもあっけなさすぎるのが、マッケンジー法の、アピール力の弱いところなのだろう、と分析している。
さかのぼること、2週間ほど前のこと。
ひさしぶりにぎっくり腰に近いような具合にまでひどくなり、立って歩くのがつらいほどになった。
土曜日だというのに、陸上競技場の背もたれのない観客スタンドで、子どもたちのリレーを注視し応援していたせいだ。
不自然な姿勢で、長時間、疲れているのにも関わらず、座り続けていたのだから、この結果だ。
「あててて・・・」
妻が、
「だから言ったでしょ」
とでもいいたげな表情で、
「まったく。休みの日だっていうのに、学校の用事で出かけちゃうんだから。それで腰痛になったって、介護してあげないよ」
まったく冷たい妻の仕打ちだ。
最初、妻は、土曜日に学校の用事があることをまったく信じなかった。
「そんなことあるわけないでしょう。学校の教師が」
たしかに、以前くらしていた、組合の強かった県の学校では、休日出勤はなかった。
しかし、引っ越したら、事情がちがった。
休日でも、馬車馬のごとく、みんな働くのが当然なのである。
中学校ではない。小学校で、そうなのだ。
昨年末の学級の荒れ対応、また職員室の「お局」対応、友人の悩み相談などでめまぐるしく忙しかった年度末を終え、すぐに自分の用事では長距離の引越し、新居の準備、新学期、すべてのことを終えて、やっと6月。
その6月も終えて、いよいよ7月だ、というこの時期に、久しぶりに腰痛が悪化した。
「あー、疲れが出ちゃったかなあ」
と言ってくださったのは、事務の先生だ。
「先生は春からずっと忙しかったでしょう。ちょっと休みなさい、というサインよね」
その一言が、本当にうれしかった。
ただ、現実問題、学級をほっておいて休めるわけでもなく、緊急に一日休ませてもらったが、その後はふつうに出勤するしかない。
整形外科で手術を勧められても、そんなことは無視し、教室へ出向いて授業をしなければならない。
椎間板ヘルニアでも、学校を休むわけにはいかない。
それが、大人の抱える現実なのだ。
さて、ヘルニアの私が最後にすがったものは、マッケンジー法でありました。
職場の方に心配されて進められた整骨院、びわ灸という治療もやりました。
びわ灸はたしかに気持ち良く、身体が芯から温まった感じがしたし、その後はかなり気分良く、身体も軽くなったのに・・・
でも、そんなことよりもなによりも、痛みがまったくなくなって、痛みからの解放をもたらしてくれたのは、マッケンジー法でありました。
たまたま本屋で、「腰痛のベストアンサー」という新しい新刊を見た。
マッケンジー法が載っているかとみたが、載っていない。
書いているのは、大学病院の先生ばかりだ。
なぜ、大学ではマッケンジー法が認識されないのだろう????
わたし、これで、なおっちゃったのに。ナゼ???
まだ、知られていないのだろうか?
(すいぶん前のTARZANで特集されていたのに)
ちなみに職員室で腰痛の話をすると、みんな身を乗り出して話に参加してくれます。
教員というのは、腰痛とかなり縁のある職場なのでしょう。
そこで教員である諸先輩方にマッケンジー法を聞いてみたが、だれも知らなかった。
まだまだ、マイナーな治療法なのらしい。(これは、2010年7月時点での記事です)
2010年07月
「落語家はなぜ噺を忘れないのか」(角川SSコミュニケーションズ)。
柳家 花緑(やなぎや かろく)さんの著書である。
ずいぶん前から本屋で見て、気になっていたが、ついにこの土曜に購入。
一番気になったのは、噺をどう覚えるか、というくだり。
もちろん、全部、すべて、ノートに筆記する、ということであった。
ただ、テープに録音し、それを聞くのではない。
聞くだけでは勉強にならない。
すべて、ノートに、一字一句、書きこむのだそうである。
となると、授業の修業にもそれを生かすことができそうだ。
名人と呼ばれる方の授業を聞き、それを一字一句、ノートに起こすのだ。
ただ、教育界にはなぜか、落語家のように、定番の名人とよばれる人がいない。
自称名人は多い。
なぜか。関東の落語家のように、「前座、二つ目、真打」という位がないからか。
真打で、テレビに出る暇がないくらい忙しく、全国各地から呼ばれて、ホール巡りをする落語家は、まあ人気や実力ともに、名人級なのだろう。
あるいは、寄席や国立演芸場や浅草演芸ホールなどでトリをとる方も、名人なのだろう。
そういった方の、これぞ、という噺を、ノートにとって覚える。
それも、自分の目の前で、自分に稽古をつけてくださる、その噺を覚える。
だから、それを何度も何度もノートにうつしたのを口でくって練習し、血肉にすることが可能なのだ。
同じように、教師修行ができたらなんと幸せなことか。
息子を連れて、近所の自然公園に出かけた。
目的は、くわがた採集。
近所の保育園仲間からの伝聞情報によると、その自然公園でかなり大きなクワガタが発見されているらしい。
周囲は森。立地条件は最高だ。
朝、霧が晴れたようになり、シトシトと降っていた雨もやんだ。
息子が長靴をはくのを見届け、愛車で公園を目指した。
公園まで、自動車で10分。
田舎に住んで、こんないいことがあったなー。
渓谷から流れてくる川の下流にあたる場所。
舗装された道が細くなり、やがて砂利道になった。
広葉樹が両側に茂る道を、マイカーで駆け抜けていく。
緑は、淡く、やさしく、語りかけてくる。
朝のやわらかい陽ざしが、ハンドルをにぎる腕に、木の枝や葉の影とともに、映りだされている。
やがて、公園に到着。
にわかに、視界が開けた。
案外と広い駐車場に入ると、・・・よし、だれもいないゾ!
ところが、子どもと車から降りて、身支度を整えていると、砂利道を走ってくるような音が。
見ると、今来た道を、猛烈な勢いで走ってきた少年がいる。
そして、こちらを見ると、
「どうかしましたかー?」
と明るく声をかけてきた。
小学、4年か5年か。
おはよう、のあいさつよりも先に、どうしましたか、と疑問形でこちらの様子を心配してくれるとは。
つまり、その子にとっては、この公園はわが庭とでもいうべき土地であり、私たちはひょっと現れた旅人か客人なのだろう。そんなニュアンスだった。
「えーっと、・・・(すぐにこたえられない)クワガタとりにきたんよ」
「あー!!そうですか!!じゃ、やなぎの木にいますー」
その少年は、高らかに叫びながら、自身も柳の木へいちもくさん。
そして、すぐに柳の木を長靴の底で蹴って、大きく揺らし始めた。
ボト。
落ちてくるものがある。
目をうたがった。
それが、大物の、ノコギリクワガタだったからだ。
こんなのが、おるんけ!!!
私も息子も、息をのんで、動くことができない。
彼の庭だ、ここは!!!
その子はあっという間にすべての柳の木をゆらすと、10匹のくわがたをすべて自前の箱に入れて、たちまち、走り去ってしまった。
なんということだろう。
我々も、虫取り網をもち、かごを用意し、やる気満々で立っていたのに。
なすすべもなく。
ちょっとくらい、こっちの空気を察知してもいいのに!!!
しかし、帰りに別の木をゆらして、ノコギリ一匹をゲットすることができました。
彼には感謝していますが、彼の行動を見ると、クラスのあの子を思い起こしてなりません。